TS美少女「大好き♡ お前の赤ちゃん欲しい♡」   作:石ころ

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TS美少女「大好き♡ お前の赤ちゃん欲しい♡」

 

 ――中学時代からの親友である、明良(あきら)が学校を休みはじめて一週間が経っていた。

 

 スマホでメッセージのやり取りをしたところ、何やら体調に問題があったらしい。季節外れのインフルエンザだろうか、と最初は思った。だが彼に尋ねてみても、病状などをはっきりと言わないし、文面はほとんど曖昧なものばかりだった。

 

 まさか、仮病ということはないだろう。おちゃらけた一面もあるが、明良は根がまじめなヤツである。となると、人に言えないほど深刻な病や、あるいは怪我に見舞われてしまったのではないか――俺はそう心配した。

 

『今日、お前の家に行ってもいい? お見舞いにさ』

 

 だから休日である土曜の朝、俺はとうとう明良にそうメッセージを送った。一週間以上も病状不明のまま休みつづけているのは、さすがに不安があった。できれば顔をうかがっておきたいと、俺は思ったのだ。

 

 中学から高校までずっとつるんでいただけに、俺は何度も明良の家に行ったことがあった。遊ぶ時はいつも、彼の自室でゲームを一緒にやっていた。男のくせに、可愛らしいイルカのぬいぐるみを部屋に置いたりしているのが、よく印象に残っていた。

 

 メッセージを送った直後に既読マークがついたが、すぐに返事はなく――

 返信が来たのは、およそ一時間後だった。

 

『いいよ。来て』

 

 そんな簡潔な了承のすえに、俺は明良の家に赴くことになり――

 

 

 

「……どうしたもんかな」

 

 その住宅の前で、俺はどこか緊張を抱きながら呟いた。

 べつにこの家には何度もあがったことがあるし、彼の両親とも普通に顔を見合わせている。だが、今日にかぎってはインターホンを押すのに少しためらいがあった。明良の容体がじつはあまりよくないものだったとしたら――そう思うと、急に不安がこみ上げてくる。

 

 だが、いまさら引き返すわけにもいかなかった。自分から見舞いに行くと言った手前、有言実行しなければ失礼に当たるだろう。俺の道は一つしか残されていなかった。

 

「――よし」

 

 意を決して、インターホンを押す。ピンポン、と鳴ってから、反応が来るまでには少し時間があった。

 

『――はい』

 

 女性の声。明良の母親のものだった。

 

「あ……えっと、明良くんに見舞いに行くと約束した――」

『――陽介くんね。明良から聞いているわ。ちょっと待っていてね』

 

 話が早かった。彼の母親も、俺が来ることをわかっていたらしい。

 すぐに玄関を解錠する音がして、ドアが開かれた。四十代の女性は、俺の姿を見ると笑みを浮かべる。……少し、疲れているようにも見えた。

 

「こんにちは、突然すみません。……一週間も休んでいて、心配だったもので」

「いえいえ。お見舞いに来ていただけるなんて、ありがたいかぎりよ。……どうぞ、あがって」

「はい、失礼します」

 

 俺は軽く頭を下げながら、家の中にお邪魔する。廊下に出てすぐのところに階段があった。明良の部屋は二階だが――

 

「明良は自室にいるんだけど……ちょっと、待っていてくれるかしら」

 

 そう言いながら、明良の母は俺を居間に案内して、そのまま出ていった。階段を上る音が響く。俺はなんとなく居心地の悪さを感じつつ、ソファーにゆっくりと座った。

 

 友達が来たことを知らせるだけなら、そう時間もかからないだろう――

 と思っていたのだが、五分近く経過したところで俺は心配になってきた。二階での明良と母親の会話は、妙に長引いているようだ。俺が明良と顔を見合わせるのに、そんなにも話し合いが必要なのか? あるいは、それだけ明良が人と会うのをためらうような状況なのだろうか。

 

 いろいろと良くない想像が浮かぶなか、ようやく階段のほうから足音が聞こえてきた。が、居間に顔を出してきたのは母親の一人だけだった。

 

「あの明良くんは……」

「ここじゃなくて、二階で陽介くんと会いたいって言っているわ。自分の部屋のほうが安心するんでしょうね。……行ってあげてくれる?」

「あ……はい。わかりました」

「それと――何があっても、驚かないで信じてあげてね」

「…………? え、えぇ」

 

 信じる? ということは、にわかには受け入れがたい状態なのだろうか。それはいったい……。

 もはや明良が普通の病状などではないことは明らかだった。それを俺は、目の当たりにしなくてはならない。……緊張するなと言うほうが無理だった。

 

 心臓の鼓動が激しくなるのを自覚しながら、俺は居間を出て階段に足をかけた。上に行くにつれて、足取りは重くなってゆく。その先に――明良の部屋に、何が待っているのだろうか。俺の知っている彼と変わらない姿でいてほしかったが――その願いどおりにならないことも、薄々ながら予感していた。

 

「…………」 

 

 明良の部屋のドアは閉まっていた。いきなり入室するのは礼儀に反するだろう。俺はおそるおそる――控えめにノックをした。

 とんとん、と小さな音が響く。けれども向こうから反応はなかった。俺は困惑しつつ――もういちどノックを繰り返す。

 

「あー……俺だ。入ってもいいか、明良?」

 

 そう尋ねた瞬間、「いいよ」と声が返ってきた。低く押し殺したような返事――でありながら、地声の高さを隠しきれないような声色。女性が無理に低音を出しているかのようだった。

 

 …………。

 いや……声、違くない……?

 

 明らかに記憶のものと異なる人物の声に、俺は呆然としてしまった。中にいるのは本当にアイツか? いや、でも……ここは確かに明良の部屋だが……。

 

「――早く入れよ」

「え、あ、あぁっ」

 

 苛立ったような声に促されて、俺はおもわずドアを開けてしまった。

 

 ――見覚えのある部屋の様子。

 ベッドや勉強机、丸テーブルの位置。そして液晶ディスプレイやゲーム機、漫画が収納された棚。何よりも部屋の中央に転がっている、デカいイルカのぬいぐるみ。すべてに見覚えがあり、まさしく明良の部屋で間違いなかった。

 ――ただ、一つだけ。

 明らかに俺の知らない、その存在に。目をしばたかせてしまったのは、きっと仕方ないことなのだろう。

 

 ベッドの上。そこに一人の人物が、縮こまるように体育座りをしていた。

 そして、どこか恐れや不安を含んだ瞳で、戸口に立っている俺を見上げていた。

 

 ――知らない人物だった。

 

 黒く艶やかな髪に、サイズの合っていないシャツとズボンを着込んでいる。整った顔のパーツと綺麗な肌は、見惚れてしまうほど美麗だった。学校のクラスのどの女子と比べても、いちばん可愛いと断言できる美少女っぷりである。

 

 おそらく年頃の変わらないであろう、その少女は――俺を睨みつけるように「入ってドア閉めて」と呟いた。

 見知らぬ女の子と密室にいる形になることに抵抗があったが、彼女の目線に気圧(けお)されて従ってしまう。後ろ手で静かにドアを閉めると、俺はおずおずと口を開いた。

 

「あの……どなたですか?」

「――オレだよ」

「いや、わからないんだけど……」

 

 オレ、と言われても。眼前の少女には、まったく見覚えがなかった。

 ――いや。

 

 ふと俺は気づいてしまった。彼女の顔には面識がないが、その着ている服――シャツやズボンには、どこかで見た記憶があった。たぶん大きさ的に……明良の衣類だろう。

 明良が俺より少し下の身長――160センチ後半だったはずだが、目の前にいる女の子はずっと小柄で身長が低そうだった。座っているので正確にはわからないが、150センチもあるかどうか。服がブカブカなのも当然だった。

 

 ここが明良の部屋で、女の子は明良の服を着ている。ということは――

 

「えーっと……明良の親戚さん?」

 

 まず常識的に出てきたのが、それだった。彼に兄弟姉妹はいないので、いとこなどの親戚を想像するのは当たり前である。なんらかの理由で明良はいま席を外していて、代わりに親戚の女の子が部屋にいるのではないか――

 

 と、やや強引ながらも理由付けしてみたが。

 

「だから、違うって」

 

 あっさり否定されてしまった。

 

「オレが明良だよ」

「…………?」

「まあ……意味わかんないのも、わかるけどさ」

 

 戸惑った表情をする俺に対して、少女は陰鬱そうに顔を下向けた。憔悴しているような雰囲気に、俺はあわてて声をかける。

 

「あー、その……一から説明してもらえる?」

「……わかった。ちゃんと聞けよ」

 

 少女は体育座りをやめて、ベッドのふちに座りなおした。シャツのサイズが大きすぎるせいで、胸元の肌がかなり露出している。ちょっと直視しづらい姿だった。

 

「――先週の水曜の朝。起きたら、女になってたんだよ」

「……は?」

「だから男から女になっていたんだ。もちろん夢なんじゃないかと思ったけど……現実だった」

「…………」

「で、両親にも相談した。とりあえず学校は休むことにして、病院とかで調べてもらうことにしたんだけど」

「…………」

「DNA鑑定では、もちろんオレが実子だと証明されたよ。でも、とつぜん男から女になったなんて信じる医者はいなかった。ま……当たり前だけどさ」

「…………」

「でさぁ……見た目が違いすぎるせいで、さすがに学校はもう行けないんだよね。だから、ずっと休んでるってわけ」

 

 少女が語るのを聞きながら、俺は頭が痛くなるのを感じた。情報があまりに突飛すぎる。もしそれが、本当だとするならば――

 

「つまり……お前が、明良ってこと?」

「だから、さっきからそう言ってんじゃん」

 

 むっと不機嫌そうに目を細める――俺の親友を名乗る女の子。

 その口調や接し方は、たしかにいつも話していた明良のものと似ていた。家族と親戚ぐるみで俺を騙してからかっている……というのは、さすがに考えづらいことである。そうなると……本当に、彼女が明良だと言うのだろうか?

 

「確認の質問をしてもいいか?」

「……いいけど」

 

 俺は学校生活や、明良と遊んだ時を思い出しながら尋ねた。

 

「お前がいつも嫌いだっていってる教科は?」

「日本史。あの先生、本当に授業つまんないんだよ」

「校内の自販機でよく買ってる飲み物は?」

「紙パックのフルーツオレだろ?」

「じゃあ、たまに二人で行くラーメン屋で、お前がいつも頼むやつは」

「辛味噌ラーメン」

 

 全問、即答正解である。他人がこんな質問を事前に想定して、すべて覚えておくなど不可能に近い。つまり――目の前の彼女は、明良その人であると考えるしかなかった。

 

「……お前、魚だったのか?」

「はぁっ!? なんだよそれ!」

「いや、魚類は性転換するのもいるらしいし……」

「あー、テレビで見たことあるなぁ……」

 

 バカな会話をしているが、実際のところ生物学的な性転換では説明がつかない事象であることは明らかだった。一晩にして男から女になったという話など聞いたことがない。もはや魔法と表現するしかないレベルだった。

 目の前のファンタジー現象を認識してしまった俺は、軽いめまいとともに脱力してしまう。腰が抜けたように床に座り込んだ俺に対して、明良は申し訳なさそうな顔で話しかけてきた。

 

「……いきなり、こんなこと知らせちゃって……ごめん」

「い、いや……まあ、最初にメッセージ送ったの俺のほうだしな……」

 

 見舞いに行っていいかと尋ね、コンタクトを図ったのは俺である。謝られるようなことではなかった。

 それに明良もこんな超常現象に巻き込まれ、学校にも行けなくなってしまったことに、相当な心苦しさを抱いているのは確実だった。長い付き合いの友人として、こうして真実を目の当たりにして納得できたのは幸いだろう。俺が明良と会って話すことで、少しでも精神的に楽になってくれるのであれば本望だった。

 

「……体調とかは大丈夫なのか? その……体が完全に変化しているみたいだが……」

「あぁーそれは平気。最初は目線の高さに違和感があったけど……もう慣れたかな」

 

 いきなり身長が縮んだら、なかなか困惑しそうである。それに背丈だけでなく、ほかにも勝手が違うところもあるだろう。……トイレとか。

 

「……服もブカブカだな」

「うん……サイズがなぁ。とくに上の襟が大きすぎるし……」

 

 そう言いながら、明良は手前側の襟を引っ張った。首の下の肌が大きく露出する。胸こそ見えないが――その白い肌は、まごうことなく少女の柔肌だった。

 反射的に目をそらしながら、俺は頬を掻いて尋ねる。

 

「これから、予定はあったりするのか? なんか解決方法を探したり……」

「……原因がわからないから、治しようがないし。とりあえず、当分は家に引きこもるしかないかなぁ……」

 

 社会に理解が得られそうな症状ではないので、その選択は至極妥当だった。自分は性別が変わった人間です、などと公言しても、おそらく狂人扱いされるのがオチである。

 ただ、今まで普通に学校生活を送っていた高校生が、いきなり自宅に軟禁された状態になるのだ。心身にも負担があることは明白だった。同情心が湧き上がると同時に――俺は使命感のようなものも抱きつつあった。

 

「――とりあえず、さ。俺はべつに、お前がどう変わったって気にしないから。まあ……今までどおりに付き合ってくれよ」

「……学校は、もう行けないじゃん」

「家で遊んだりはできるだろ? 今日みたいな休日に、こうしてお邪魔したりさ」

「……いいよ。そんなに気遣わなくても」

 

 俺の言葉に対して、明良はどこか暗い面持ちで顔をそむけて、拗ねるような口調で答える。

 それが本心ではないことは、手に取るようにわかった。迷惑をかけたくない、巻き込みたくないという思いから、そう口にしているだけなのだろう。つねに人と一緒にいることを好むタイプだった明良が、急に孤独な引きこもり生活に耐えられるはずもなかった。

 

「――明良。お前、これから何か予定あったりする?」

「予定? ……とくに、ないけど」

「んじゃ、さ――」

 

 俺は立ち上がると、収納棚のほうに近づいた。最近は遊んでいなかったのか、据え置き型のゲーム機が綺麗にまとめられている。俺はそれを指差しながら、明良のほうに笑みを向けてみせた。

 

「夕方まで、一緒に遊ばないか?」

「…………」

 

 明良は困惑したような表情を浮かべていたが、ややあって「しょうがないなー」と呟き、ベッドから降りてくる。その声色は、どこか嬉しさがにじんでいるように感じられた。

 今までと変わらない接し方をすることは、おそらく明良にいちばん安堵をもたらすことなのだろう。

 たとえ姿が変わろうと、性別が変わろうと、そこにいるのは親友にほかならなかった。だからこそ俺は、明良と今までどおり関わろうと決めた。そこに同情心が混ざっていることは否めないが、それでも――

 明良とこれからも付き合っていきたいという気持ちは、まぎれもない真実だった。

 

「どのゲームにする?」

「んー、好きなの選んでいいよ。オレ、下から飲み物もってくる」

「おっけー」

 

 そんなやり取りは、以前とまったく変わらない感じだった。軽快な足取りで部屋を出ていく明良の後ろ姿に、どこか安心したような心地になりながら、俺はゲーム機を起動させる。二人ともわりとゲーマーなので、遊ぶソフトに困るようなこともなかった。

 

「……やっぱ、変わらないな」

 

 俺は独りで呟いた。

 外見こそ可愛い女の子になってしまった明良だが、さすがに中身が男なだけあって、会話をしていてもとくに異性らしさを意識することがなかった。変にぎくしゃくすることもなさそうだ。……ただ、まあ、服だけはもうちょっとサイズの合ったものを着てほしいけど。

 

 そんなことを思いながら。

 しばらくして、麦茶の入ったグラスを二つ持ってきた明良と、一緒にゲームをやりはじめて。

 ――気がついたら、俺たちは夢中になって遊んでいた。

 

 それは明良が女であることなど、関係のない時間だった。ただ親友同士が遊んでいるだけの、自然な過ごし方である。

 性別が変わるなどという事象に見舞われた明良も、この時ばかりは憂鬱から解放されたのだろうか。その顔に浮かんだ笑みは、明るくて楽しそうで嬉しそうだった。

 

 時間を忘れる――というのは、まさに言葉どおりで。

 ふと窓を見た時には、もう太陽がかなり傾いている頃合いだった。

 

「あ……悪い。そろそろ、帰らないと」

「……え?」

 

 そう切り出して初めて、明良は夕方であることに気づいたのだろうか。真顔で時計に目を向けると、すぐに落胆したような面持ちになる。その暗い表情は、どこか庇護欲を誘うような感じがして、俺は一瞬どきりとしてしまった。

 

「ま、まあ……また遊びにくるからさ」

「…………うん」

 

 見るからに寂しそうに頷く明良は、まるで捨てられた子犬を想起させた。さっきまでは気にならなかったのに、こうして沈痛そうな顔で見つめられると、少し妙な感情を抱いてしまう。いつも明るかった親友とは違って、今そこにいるのは、構ってやりたくなるような薄幸の美少女だった。

 

「あ――」

 

 俺はおもわず、その言葉を口にしてしまっていた。

 

「明日も、家に来ていいか? 日曜日で、学校も休みだしさ……」

 

 その提案をした直後、明良の表情には朗らかな色が戻りはじめる。いつもの親友の雰囲気だった。

 

「う、うん! ぜんぜん、問題ない! 明日も遊ぼうぜっ」

「じゃあ……あとで、お邪魔する時間とかのメッセージ送るから」

「わかった。待ってるっ」

 

 にこやかに笑う明良は、驚くほど嬉しそうだった。それだけ俺と遊ぶことが、精神的に重要なことなのだろうか。

 もしかしたら、思った以上に――

 明良との付き合いは、軽々しく考えられないのかもしれない。

 だが、今さら関係を断つこともできなかった。それは明良を崖から突き落とすようなことになるのだから。

 

 ――そうして、この日から。

 俺と“彼女”との、親友というには深すぎる関係が始まるのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ――最低でも週一回、場合によっては土日の両方とも。

 俺が明良の家を訪れることは、もはや習慣化してしまっていた。そして平日であっても、スマホでメッセージのやり取りは頻繁におこなっていた。ほとんど外出しない彼女は暇で仕方ないのか、俺との交流をやたらと求めている様子だった。

 

 正直に言ってしまえば、少し面倒だと感じる部分はあるものの。

 それでも明良が家族以外でまともに話せるのは、俺しかいないと理解していた。

 だからこそ、俺は彼女との関係を保ちつづけていたが――

 

 

 

「……わかんなーい」

 

 ――と、明良がテーブルに突っ伏しながらうめいた。

 

 土曜日の昼過ぎ。いつものように明良の家を訪れていた俺は、彼女の部屋で勉強会を開いていた。その名のとおり、高校の教科書を開いて勉強をする会である。

 学校に通うことを諦めた明良だが、しかし科目については学習を継続していた。このまま男に戻らなければ、いずれ退学の手続きをするつもりらしいが――勉強自体を続けることには意味があった。高卒認定試験に合格すれば、高校を中退していても大学に進めるからだ。

 

「なんでこの文章だと、willじゃなくてwouldになるの?」

「それ仮定法だから。未来の話だけど、実現しないとわかっているから過去形になるの」

「むぅー……」

 

 明良は睨みつけるように教科書の例文を見つめていたが、やがて逃げ出すようにテーブルから離れ、イルカのぬいぐるみを抱きしめた。

 

「そんなんじゃ、高認試験に受かっても大学に行けないぞ」

「……いいよ、べつに」

「よくない。一生、引きこもってるわけにはいかないだろ?」

「うぅ……」

 

 泣きそうになりながら、ぬいぐるみにしがみついている彼女は、まるで小さい子供のようだ。社会と断絶した生活を送っているせいで、やや精神的に退行している面も否めなかった。怒ったり叱ったりするのも酷なので、悩ましいところだ。

 

「陽介が養ってくれよー……。オレ、ヒモになりたい……」

「なーに言ってんだ。働け働け」

「やだよー働きたくないよー」

 

 いやよいやよと駄々をこねる明良。まあ冗談で言っているだけだろうから、あまり気にしていないが。

 

 男から女に変わった――からといって、べつに社会的生活が完全に送れなくなるわけでもなく。

 世の中には性転換手術や整形などで、見た目を大きく変えたりしながらも生活している人がいるように。ただ性別が変わったことなどは、じつのところそこまで大きな問題ではなかった。

 わざわざ戸籍上の性別まで参照する事柄なんて、ほとんど日常にはないからだ。しいて言えば、婚姻届のように戸籍法が関係する書類などで引っ掛かるくらいか。

 

 だが戸籍にしたって、実際には修正が利くものだった。性同一性障害者が手術をおこなってから性別を変える事例があるように、家庭裁判所に申し立てて許可を得られれば訂正可能なのだ。明良もこのまま男に戻らないようであれば、いつか性別を男から女に変えることも考えているらしい。

 

「――ほら、教えてやるから戻ってこい」

「…………」

 

 ぐずぐずしていた明良だが、ようやく少しはやる気が戻ったのだろうか。彼女はぬいぐるみを手放すと、俺のすぐ隣に座ってきた。そしてわずかに肩を寄せると、「教えて」とねだるような声を上げた。

 

 ――距離が近い。

 が、それはべつに男の時から変わらなかった。もともと明良は、肩や背を叩いたりするようなスキンシップも多く、かなり接近したコミュニケーションをするタイプなのだ。同性相手には体をよく触れてくる奴なんてのは、男も女も一定数いるものだが――

 

 今の明良が男ではなく、女の体を持っていることを考えると、その距離感は不用心すぎる嫌いがあった。

 その胸こそサイズ的には控えめではあるが、薄手のルームウェアばかり着ているせいで、膨らみはどうしても目に入ってしまう。そのうえ、インナーをつけていない――つまりノーブラなので、心理的にもまったく意識せずというのは難しかった。

 

「……お前さぁ」

「なに?」

「服、新しいの買わないの?」

 

 英語の教科書を広げて、明良がわからないところを教えながらも――ふと機会をうかがって、俺はそれを尋ねた。

 男だった時の衣服を着用しているせいで、相変わらず彼女はブカブカの格好だった。べつに下はいいのだが、問題は上である。

 以前にゲームをやっていた時、ふと横の明良に目を向けたら――前屈みになった彼女の胸元に、色づいた突起がかすかに見えてしまったことがあったのだ。幸いながら明良はゲームに熱中していて、その視線に気づかなかったので助かったが。動揺を表に出さなかった俺を褒めてやりたいくらいだった。

 

「……だって、めんどくさいじゃん。外に出るの」

「引きこもりすぎだろ。日光に当たらないと健康に悪いぞ」

「むぅー」

 

 明良はうなって受け流すが、外出をほとんどしていないのは実際に問題だった。太陽の光を浴びないのは、自律神経の不調をもたらす可能性がある。つまり今のような明良の生活は、心身の健康を損ないやすいのだ。

 

「じゃあ……一緒に買い物、付き合ってよ」

「はぁ? ……俺が付き添う意味、あるか? 誰か必要なら、親でもいいだろ」

「…………」

 

 至極真っ当な反論をすると、明良はむっとつまらなそうに顔をそむけた。ふてくされている子供そのものである。俺はため息をついてしまった。

 

 ――なぜ俺なのか。

 同年代の、同じ“男”としての意見が欲しいのだろうか。たしかに、女の体でも似合うような男っぽい服を探すなら、両親よりも俺の感性のほうが参考になるのかもしれない。

 俺が同伴するという条件付きながらも、めずらしく明良が外出してもいいと言っているのだ。今後の彼女のことを考えると、ここは付き合ってやったほうがいいのかもしれない。

 

「――いつがいい」

「え?」

「だから、買い物。いつにする?」

 

 俺はスマホのスケジュール表を開きながら、明良に尋ねた。一緒に行ってもいい、という意味だとようやく理解したのか、彼女の表情は明るく嬉しそうになる。……そんなに俺と外出したかったのだろうか。

 

「あ――明日、じゃ、だめ?」

「あしたぁ? ……いや空いてはいるけど」

「ほら……善は急げって言うし……」

「さっきまで、めんどくさいって言ってなかったか、お前……」

 

 そう指摘すると、明良は「う、うるさいなー」と俺の肩をバシっと叩いた。が、女の腕なのでまったく威力がない。ちょっと可愛げのある振る舞いだった。

 

 ――つまるところ、それだけ俺と一緒に出掛けたかったということだろうか。

 

 最近のメッセージの文面を思い返してみても、やたらと明良は俺と会いたがっているような感じがあった。この勉強会にしたってそうだ。本来は勉強嫌いの彼女が、わざわざ俺を誘って教科書を広げようなど、男の時には考えられないことだった。

 とにかく理由はなんでもいいから、俺と会って過ごしたい――そんな思惑がうかがえる。

 

 それは俺が、たった一人の友人になってしまったからだろうか。

 だが、それにしては――少し依存的すぎる気もする。

 性別が変わって生活が激変してしまった事例など特殊すぎるので、それも仕方のないことかもしれないが。

 それでも――

 

「家を出るの久しぶりだなーっ」

 

 うきうき気分で明日を楽しみにする明良の横顔を見ると、どうしても懸念してしまうのだ。

 このまま続けば、明良は俺のことを――

 

 

 

   ◇

 

 

 

『会いたい』

 

 そんな直球なメッセージを送り付けられたのは、夏休みに入ってからしばらくしてのことだった。

 

「…………」

 

 俺は自室のベッドの上で、顔をしかめながらその文字を眺めていた。学校は休みなものの、ここ一週間は塾の夏期講習に参加していたりしたため、明良とは遊んでいなかったのだ。こちらが忙しいのも説明していたはずなのだが――

 

『どうした?』

 

 とりあえずそう返すと、すぐに向こうもテキストを打ってきた。

 

『明日これる?』

『行けないこともないけど』

『じゃあ遊びにきて』

『午前は用事あるから、昼過ぎになるぞ』

『大丈夫。まってる』

 

 一瞬で話がまとまると、俺はスマホを枕元に放り投げて深々とため息をついた。拒否できない俺も、なかなかに小心者である。断ったらアイツがどういう表情をするのか、想像できてしまうのだ。

 最近では明良と一緒に外に出掛けたりすることも増えたが、どうも彼女は独りだとまったく外出しないらしい。それでは新しい社会交流が生まれるはずもなく、明良が関係を持っている人物はいまだに俺だけだった。ネットでSNSなどもやるつもりもないらしく、彼女は延々と俺との付き合いだけを求めている有り様だった。

 

 つまりそれは――重度の依存関係だった。

 人間の生活的にあまりよろしくないことだと俺は理解しているので、どうにか改善してやりたいと思っているのだが、うまい方法も思いつかず。ずるずると、明良と関わることがずっと続いていた。

 

「…………寝よ」

 

 考えるのが億劫になった俺は、そのまま思考放棄することにして。

 

 ――翌日。

 約束を違えるわけにもいかず、俺は午後には明良の家に赴いていた。

 メッセージで俺の到着時刻もだいたいわかっていたのだろうか。インターホンを鳴らすと、一瞬で向こうから明良の応答があり、玄関のドアが明けられた。

 

「ひ……久しぶりっ」

「久しぶりって、一週間だけだろ……」

「いいから、入ってっ」

 

 明良は嬉しさを隠そうともせず、ニコニコと笑顔を浮かべていた。髪は以前よりも伸びていて、艶やかな黒髪がよく映えている。身軽そうなシャツとジーンズは、俺と外に出た時に買った衣服だった。

 基本的に引きこもりなので、肌はますます色白になっていたが、それがまた美少女っぷりを際立たせていた。最近は振る舞いも少し変わったような気がして、本当に男だったのかと疑いたくなってしまうくらいだ。

 

「……家族は?」

「親戚の集まりにいってる。オレ、そういうの無理だから……」

 

 俺の質問に、明良は苦笑いしながら答えた。親戚にはまだ伝えていないらしく、こういう時は家に留守番しているらしい。会いたいと言ってきたのは、独りぼっちが寂しかったからだろうか。

 

「なに飲む?」

「なんでも」

「じゃ、ちょっと待っててね」

 

 居間のソファーに腰を下ろしながら、台所に行く明良の後ろ姿をぼんやりと眺める。今にもスキップしそうなくらいの機嫌の良さだった。そんなに俺が遊びに来たことが嬉しいのか。

 複雑な心境になりつつ、俺は明良が戻ってくるのを待つ。さんざんこの家を訪ねているので、居心地としては第二のわが家のような感じになっていた。ここまで親友宅に入り浸る高校生も、なかなかこの世にはいまい。

 

 しばらくして、二人分の麦茶を持ってきた明良は、同じようにソファーに座った。

 ――俺の真横に。

 ほかにも座るところがあるのに、いちばん近い場所に、それも密着しそうなくらい体を近づけて。

 

「…………」

 

 男の時から距離が近い部分はあったが、もはやその比ではない。人によってパーソナルスペースは異なると言うが、この密接はただの友達としてはありえなかった。言うなれば――恋人に対するような距離感である。

 

「さ、最近……忙しいの?」

 

 すぐ隣の明良は、どこかおずおずとした様子で尋ねてきた。疎遠になりはじめたカップルの会話みたいだ。……あまり冗談にならないな。

 俺は麦茶で喉を潤してから、予定を思い出しつつ答えた。

 

「塾の短期集中の講習が、来週日曜まであるから……まあ、それまでは」

「じゃ、じゃあ……そのあとは?」

「とくに……まだ予定はないけど」

 

 そこまで言ったところで、明良は顔色が朗らかになった。わかりやすい反応である。

 

「……お、お盆の期間はさ。オレの両親も、帰省しちゃうんだけどさ」

「あー……ってことは、一人で留守番?」

「うん……三日間だけ、だけど……」

 

 なるほど。そうなると――

 

「寂しいから……い、一緒にいたいな……」

 

 明良は恥ずかしそうに伝えながら、肩をわずかにこちらへと寄せてきた。どこか甘えるような、艶のあるしぐさである。いつもよりも、ずっと女っぽい言動だった。

 いや、まあ。寂しいから遊びに来てくれ、というのは理解できるのだが。

 ……言い方が、あまりにもアレではなかろうか。はた目から見たら、恋人同士の会話にしか思えないぞ。

 

 俺は頭を掻きながら、仕方ないといったふうに口を開いた。

 

「……遊ぶんじゃなくて、勉強ならいいぞ」

「え、えぇー! な、夏休みなのに……!」

「あのなぁ、俺は学校の宿題もあるんだぞ。お前みたいなニートと違って」

「に、ニートって言うなよ……!」

「じゃあ引きこもり」

「うぐぐ……」

 

 明良は怒ったようにぷいと顔をそむけたが、その肩は俺のほうに近づけたままである。よっぽど俺のそばがいいのだろうか。それは親しみの証なのか、それとも――

 

「で、でも……オレ、ちゃんと家事はやってるんだぞ」

「えっ、マジ?」

「マジだよ。家事手伝いってやつだよ。……料理とかも、お母さんから教えてもらってるし」

「へぇー! 意外だな……えらいじゃん」

 

 素直な褒め言葉は、明良にとっては格別に嬉しかったのだろう。彼女はえへへと笑うと、すぐに何か閃いたように手を叩いた。

 

「あ、あのさ……! よかったらお盆に来た時、料理を食べてかない? どうせオレ、自分で食事つくらないといけないしさ……」

「え……。あ、ああ……べつにいいけど……」

「な、何がいいかなっ? カレーとか、肉じゃかとか、ハンバーグとか、いろいろ作れるけどっ」

「ず……ずいぶん家庭的な……」

 

 かなりちゃんと料理ができるんだな、と驚くいっぽう、俺はまじめに明良のことを見なおしてしまった。てっきり怠惰に生活を送っているのかと思ったが、彼女なりにがんばっているところもあるらしい。

 俺は感心しつつも、笑って冗談を口にした。

 

「――そんだけ料理が得意なら、立派な主婦になれそうだな」

「うんっ」

「えっ?」

「えっ?」

 

 オレは男だ! ――などとツッコミが入るかと思いきや。ごく自然に肯定されてしまったので、俺は大いに困惑してしまった。

 明良のほうも、何かおかしいこと言ったかな、というような顔をしている。……俺の発言をよく考えないまま頷いたのだろうか? 今から遡って言及するのもアレなので、あえてスルーしたほうがいいかもしれない。

 

「ま、まあ、とにかく。手料理、楽しみにしているよ」

「おうっ! ちゃんと美味しく作るから、覚悟しとけよーっ」

 

 楽しそうに笑う明良は、いつも以上に明るい表情だった。最近はメッセージの文面が不穏で、気分が落ち込んでいるような様子だったが――俺と会うことで元気さを取り戻せたようだ。

 たまに精神が暗い状態に陥ることは誰にでもあることだし、まあそれほど気にすることでもないか――

 俺はそう思っていた。

 

 だが――

 事が深刻なのだと気づくのは、もう少し経ってからだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 

『会いたい』

 

 

 

『ちょっとでもいいから』

 

 

 

『だめ?』

 

 

 

 ――日に日に増してくる寂しがりメッセージに、俺は頭が痛くなってきそうだった。

 ほぼ毎日のように明良とはスマホでやり取りしているのだが、テキストの会話だけではまったく満足できないらしい。夏期講習が終わるまで昼間は無理だと伝えると、それなら夕方にちょっとだけでも、と言ってくるのだ。

 たしかに距離はそこまで離れていないので、行けないこともないが――

 だからといって、明良の要求にすべて答えていたらとんでもなく疲れることは明白だった。

 

『月曜から暇になるから、それまで待ってくれよ』

『外に出るの、付き合ってほしいんだけど、だめ?』

『ただの買い物なら、一人でも行けるだろ?』

 

 基本的に引きこもりな明良だが、べつに家の外に出るのが不可能というわけでもないはずだ。あれから服もいろいろ買って、違和感のない衣類が揃っているし、近所にはいちおう“親戚の子”として周知されているはずである。頻繁に玄関を出入りしていると、家族構成を知っている近隣住民からは不審に思われるかもしれないが、数日に一回くらいだったら姿を見られても怪しまれはしないだろう。

 だから本来は、俺が付き添う必要なんてないはずなのだが――

 

『コンビニでの支払いとか、よくわからないから教えてほしい』

『コンビニ? 公共料金でも支払うつもりなのか?』

『そうじゃなくて、ネット通販の支払い』

 

 その文面を見て、俺は眉をひそめてしまった。普通のスーパーなどでは扱ってないものを購入したいのだろうか。……ゲームソフトとかか?

 

『ウェブページに支払いの流れが書いてあるだろ』

『初めてやるから、わかんないの。お願い』

 

 俺はデカいため息をつくと、諦めて『じゃあ明日の塾の帰りに寄る』と返信した。というか、このやり取りを続けているほうが疲れると判断したのだ。一時間くらい付き合って、明良に満足してもらったほうが手っ取り早かった。

 

「……メンヘラの彼氏かよ、俺は」

 

 本人には言えないような愚痴を、おもわずこぼしてしまった。

 今さら否定する余地などなく、俺はもはやただの親友という枠を越えてしまっていた。精神的な依存とは恐ろしいものである。ここまで関係が深くなるとは、少し前まで考えもしなかった。

 だが、いきなり拒絶するというのも酷な話であることは事実だった。事情が事情なので、ここで見捨てたら明良がどれだけ傷つくかもわからない。結局のところ、俺には彼女とうまく付き合っていく道しか残されていなかった。

 

 ――せめて、同年代の新しい友達でもできてくれたら。

 遠い話になるが、高卒認定をもらって大学を受験して合格し、新しい学生生活というレールに乗りさえすれば。大学で交友関係も広がって、俺への依存度も下がるのではないか。……そう期待していた。

 

 そんなことを真剣に考えつつ――

 翌日。朝から午後まで続く夏期講習を終えて、午後五時過ぎとなった時刻。明良の家に訪れた俺は、今にも飛びついてきそうなほど喜ぶ彼女に出迎えられた。

 

「あっ、ありがとっ。来てくれて……」

「……お前、大丈夫か? 寂しいのはわかるけどさ」

「だ、だって……。オレ、家にずっと一人だしさ……」

 

 俺が心配を口にすると、彼女は顔をうつむかせながら言った。

 明良の両親は共働きで、夜にならないと帰ってこないことが多いらしい。つまり、平日の昼間はずっと孤独なようだ。同情もやむをえない環境なので、あまり責めることもできなかった。

 

「――で、コンビニ支払いだっけ。何を買ったんだ?」

「えっ、あっ……。ゲームとか、いろいろ……。ま、まとめて買えるから、便利でさ……」

「……親に頼めば、クレカで決済してもらえるんじゃないのか?」

「い、いや……ほら、親には知られたくないものとか……あるし」

 

 知られたくないもの?

 一瞬、きょとんとしてしまったが――なるほど。その手のやつだろうか。

 

「……エロ漫画か?」

「ち、違うって!? そういうのじゃ……」

「いや、まあ詳しくは聞かないさ。誰だって、こっそり買いたいものもあるだろうし」

 

 俺はごく普通な表情で、そう言いきった。親にはバレたくないモノやコトというのは、誰にでもあるものだろう。というか、俺だってそうだし。

 明良は少し頬を赤くしていたが、すぐに平静を取り戻したのだろうか。「ちょっと待ってて」と言うと、玄関から奥へと消えていき――すぐに戻ってきた。服装はすでに外出用のものに着替えていたので、財布やスマホを持ってくるだけだったのだろう。

 

 家に鍵をかけた明良は、俺と一緒に近くのコンビニを目指す。ふたり一緒に並んで歩く姿は、他人からはどう見られるのだろうか。兄妹、あるいは――カップルか。

 隣の明良は、相変わらずやたら近い距離を保っていた。たまに腕がぶつかり合うが、それも気にしていないようだ。というか、むしろ接触するように動いている気配さえ感じられた。

 

 …………。

 以前から思ってはいたのだが。

 こいつ、ひょっとして――

 

「あっ……これが、購入番号なんだけどさ」

 

 目的の店まで来たところで、明良はスマホを取り出して画面を見せた。コンビニの種類によって手順が変わってくるが、このフランチャイズだと……たしか、レジでコンビニ決済を伝えて、自分でパネルから番号を入力するやり方だったはずだ。

 俺はそれを彼女に教えて、一緒にレジに並んだ。長い間、家族と俺以外とはほとんど会話していない明良は、コンビニ店員との対応にやたらキョドっていたが、なんとか支払い番号を入力して会計を済ませられたようだ。

 

 ……引きこもり生活が続くと、対人能力が低下するんだな。

 と間近で見ていて実感しつつも、俺たちはコンビニをあとにした。ついでに買った、から揚げを手にして。

 爪楊枝でモグモグと食べ歩きながら、俺たちは帰路につく。

 

「なぁ陽介ー」

「なんだ?」

「から揚げ、好き?」

「…………? ああ、まあ好きだけど」

「じゃ、こんど作るねっ」

 

 はい? と呆気に取られてしまったが――つまり、家で揚げ物を作ってやるという意味だろうか。

 …………。

 

「お前、本当に主婦を目指してるのか?」

「な、なんだよー。料理ができて悪いのかー?」

「悪くないけどさ……」

「陽介が養ってくれるなら、専属の料理人になってやってもいいぜー?」

「やっぱ主婦じゃねーかそれ」

「えへへ……」

 

 冗談っぽい会話ではあるものの、照れ笑いを浮かべる明良の表情は、どこまで本気なのかわからない。

 俺はコンビニのから揚げを口にしつつも、ちょっとだけ思ってしまった。

 

 これより美味しい料理をいっぱい作ってくれるなら。

 まあ明良みたいなやつが主婦でも悪くないかな――と。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 世間が盆休みに突入し、テレビでは帰省ラッシュがどうたらと繰り返し報じる時分。

 うちは祖父母も地元でとくに帰郷する予定もないので、つまるところ暇を持て余しているというやつだった。

 そんなわけで――約束どおり、朝から明良の家に遊びにいくことになったのだが。

 

 玄関で俺を出迎えたのは――ブラウスとスカートを身につけ、黒髪をポニーテールにまとめた明良の姿だった。

 

「…………」

 

 一瞬、人違いかと思ってしまったのだが、目の前の人物はたしかに明良らしい。

 普段の装いとは違っていることを彼女も自覚しているのか、どこか恥ずかしそうに顔をそむけていた。

 

「た……たまには、こういうのも……いいかなって」

「…………」

「……に、似合ってない……かな?」

 

 似合う、似合わない以前に――そもそも、女性服を着ていることに驚きすぎて、思考が追いついていなかったのだ。

 下着に関しては、少し前からスポーツブラやショーツを付けているという話を聞いていたが、それ以外はずっと男が着るようなシャツとズボンを身につけていたので、てっきり絶対に“女装”などしないと思い込んでいたが。

 何か心境の変化でもあったのだろうか――

 

「ぁ……の……」

 

 無言でいる俺に対して、明良は弱々しくか細い声で、不安そうな表情を浮かべる。自分の姿を変に思われているのではないかと、心配そうな様子だった。

 訝しんではいるが――変かというと、そうでもなく。

 俺は素直に、思ったことを口にすることにした。

 

「似合っているぞ。……可愛いな、その格好」

「……ほ、ほんとっ?」

 

 俺の感想を聞いた途端に、嬉しそうな顔になる明良。女性的な見た目を褒められることが、そんなに喜ばしいのだろうか。

 過去を振り返ってみれば、明良が“男”であることにこだわった振る舞いは、どれだけ存在しただろうか。記憶をたどってみても、あまり思い当たらなかった。もちろん、社会生活における支障については嘆いていたものの――女になったこと自体は、そこまで嫌悪してはいなかったように感じる。

 

 そんな彼女の複雑な内心に、すぐに答えを出せるはずもなく。

 明良の家に上がった俺は、まずは居間で時間を過ごすことにした。

 

 荷物として持っていたバッグを開いて、中身を確認する。高校の教科書や課題のプリントを入れて持ってきたのだが、横から覗きこんできた明良はそれを見ると、うげっと嫌そうな声を上げた。

 

「本当に勉強するのかー……」

「当たり前だ。っていうか、お前ちゃんと自習しているのか?」

「し、してるから……いちおう……」

 

 怪しすぎる口調である。そんなんで、この先は大丈夫なのだろうか。

 

「まあ、わからないところがあったら教えるぞ」

「じゃあ……英語をお願いします、先生」

「ん、了解」

 

 そんなこんなで。

 お茶やお菓子を広げつつ、俺たちは居間のテーブルで勉強会を開くことになった。時刻はまだ午前九時なので、時間はたっぷりとある。塾の講習とは違い、のんびりとしたペースで、俺は彼女と一緒に勉強を進めていった。

 明良は相変わらず俺の隣席に座っていたが、普段とは違う女性服を着ているせいか、正直なところ意識してしまう部分もあった。そばにいるのは男の明良ではなく、女の明良なのだ――と。

 

 ときおり休憩を挟んだりもしつつ。

 三時間ほど経ったところで――明良は耐えかねたように、俺の膝の上に倒れ込んできた。

 

「うわっ、おいっ!? どうした」

「……疲れた」

 

 死にそうな顔で呟く明良は、そのまま動こうとしない。体重をかけられているせいで、ちょっと重かった。

 

「座って勉強してるだけなのに、なんで疲労困憊なんだよ……」

「だって……普段はこんなに勉強してないし……」

 

 こいつ、早々に自白しやがったな……。

 と内心でツッコミつつ、俺は時計に視線を向けた。そろそろ昼食の頃合いでもある。食事休みの時間にするのも妥当だった。

 

「……昼メシ、どうする?」

「あー、昨日の夜つくった親子煮とかなら残ってる。あとはスパゲッティとか、うどんとかの麺類なら、すぐ作れるけど」

「……お前、本当に主婦らしくなってきたな」

「だろだろー? オレが主婦になってやるから、代わりに陽介が養ってくれよー」

「どんだけ働きたくないんだよ……」

 

 俺は苦笑を浮かべたが、彼女の発言が本当にすべて冗談なのかどうか。もしここで、じゃあ俺と結婚するか、なんて言ったら――明良はどう答えるのだろうか。最近の振る舞いを見ていると、あまり予想がつかなかった。

 

「というか……重いんだけど」

「んー……」

「ほら、起きろ起きろ」

「はいはい……」

 

 明良は上体を起こし、ようやく俺の膝の上から離れた。その顔には、なんとなく名残惜しそうな色がある。もっと引っ付いていたい、というような感情さえうかがえた。

 

「――で、なに食べる?」

「……じゃ、スパゲッティで」

「たらことミートソース、どっちがいい?」

「ミートソース」

「おっけー」

 

 よっ、と明良はソファーから立ち上がると、キッチンのほうへと体を向けた。何か手伝うことがないかと尋ねてみたが、「休んでていいよ」と返されてしまう。まあ料理なんてしたことがない俺が近くにいても邪魔なので、申し訳なく思いつつも受け入れるしかなかった。

 キッチンのほうで調理作業の音がするのを耳にしつつ、俺は暇さに耐えかねてテレビのリモコンを手に取った。なかば第二の自宅と化しているので、いちいち家のモノを使ったりするのに許可をもらうこともない。俺はテレビをつけて、ニュース番組の淡々とした報道をなんとなしに眺めた。

 

 ――ソファーにリラックスして座り、ぼんやりとテレビを見ながら、明良が昼食を作ってくれるのを待つ。

 

 ふいに俺は、奇妙な感覚に襲われた。高校生の年頃の二人のやり取りにしては、あまりにも異端的な関係である。今の俺たちの様子は――まるで、本当に夫婦のようにも思えてしまう。

 ――そして恐ろしいことに。

 それが意外と悪くないように感じてしまう、自分がいた。

 

「…………」

 

 誰かと結婚して、日常をともにするということは――こんな感じなのだろうか。

 自分にはまだまだ無縁な、ずっと未来にある未知数なことだと思っていたが、案外そうではないのかもしれない。気を許した人間と一緒に暮らすことの魅力に、俺は少し惹かれてしまっていた。

 

 そんなことを考えたりしながら、しばらくして――

 明良の呼び声を耳にして、俺はダイニングのところに移動する。テーブルの上には、二人分のミートスパゲッティの皿が用意されていた。

 ……俺も簡単なものでもいいから、料理できるようになったほうがいいかな。

 そんなふうに内心で、ちょっと向上心のようなものを芽生えさせながら。俺と明良は向かい合って座って、昼食を取りはじめた。

 

 いろいろと雑談をしつつ、のんびりと食事を進める。

 その途中で、俺はふいに思い出したように疑問を口にした。

 

「……明良」

「んー?」

「お前さぁ……もし男に戻ったら、どうすんの?」

 

 カチャ、と明良の右手からフォークがこぼれ落ち、皿とぶつかって音が立った。テーブルの上に転がらなかったのは幸いだが――今の質問は、そんなに驚くような内容だったのだろうか。

 明良は目線を下に向けたまま、おそるおそるといったように言葉を返してきた。

 

「な……なんで、そんなこと聞くの……?」

「なんで、って……。いきなり女になったことを考えると、前触れもなく男に戻ったりすることもありえないか?」

 

 性別が変わるという超常現象が、ふたたび起こらないと言いきれるはずがない。数年後か、あるいは十数年後か、もしかしたら明良が男に戻ることがあるかもしれない。完全否定できる要素など、どこにもなかった。

 

 ――もしも、明良が男に戻りたいと思っているのなら。

 それほど難しい質問でもなかった。いま男に戻ったら、まだ復学が間に合うはずだ。“前と同じ生活に戻る”という、至極簡単な答えが存在していた。

 

 だが、今の明良の反応からすると。

 そんな考えは、まるで頭になかったような感じだった。

 女であることを、今の状態を。すっかり受け入れているかような。そんな様子だった。

 

「――陽介は」

 

 沈黙ののちに、ようやく彼女は口を開いた。

 

「オレに……男に……戻ってほしい、の?」

 

 尋ねる声色は、少し震えていた。それだけ明良にとって重大な問いなのだろうか。こっちまで緊張してしまう。

 俺はできるだけ平静な表情を取り繕って、ゆっくりと答えた。

 

「まあ……お前の体のことだから。お前が男に戻りたいと思っているんだったら、俺もそれが叶うことを願うよ」

「……それって、さ」

「うん……?」

「オレが女でなくなっても……べつに気にしない、ってこと?」

 

 どうも話がかみ合わない。

 俺としては、明良の望みどおりの結果になればいいと思っているのだが。

 男だとか、女だとか。そういうのに、あまり関係なく。

 

「あー……お前が、男でも女でも。べつに、どっちでもいいぞ」

「……ふーん…………」

 

 明良はつまらなそうに呟くと、無表情でフォークをふたたび手に取って、スパゲッティを口に運びはじめた。

 ……怒っているのだろうか。

 言葉足らずだったのかもしれない。明良がどちらの性別の生き方を進むことになろうと、俺はそれを支持しようと思っていた。たとえば、もし女のまま生きて、そして誰かを伴侶としたいのなら――それもいいだろう。

 その相手が、身近にいる存在だったとしても――

 

 まあ、悪くはないのではないか。

 今の俺は、そう思えるくらいには……明良のことが嫌いではなっかった。

 もちろん、寂しいだとか会いたいだとかメッセージが飛んでくるのは、ちょっとイラっとすることもあるけれど。

 実際に、こうして近くにいると――

 

 ……駄目だな。考えると、恥ずかしくなってくる。

 

「……皿洗い、俺がするよ」

「…………うん」

 

 頷く明良は、あまり元気がなさそうだった。そんなに先ほどの会話を気にしているのだろうか。なんとフォローすればいいのか、俺は言葉が思いつきそうになかった。

 

 ――乙女心とは、むずかしいものだ。

 そんなバカげたことを思いながら、俺は食器をキッチンに持っていって、流しで洗い物をする。皿洗いをしながらテーブルのほうを見遣ると、明良は暗い面持ちで下向いて座っていた。……何をすれば、機嫌を直してくれるのだろうか。

 

 これが恋人同士だったら、抱きしめるなりキスするなりと交流を図れるのだろうが。

 俺と明良は、少なくとも今は“親友同士”という関係だろう。あくまでも、その立場から行動を考えることしかできなかった。

 

 洗い物を終えて、タオルで手を拭く。ダイニングのテーブルでぽつりと座ったままの明良に対して、すたすたと近づいていった俺は――その椅子の後ろから、彼女の両肩に手を乗せた。

 いきなり体に触れたからだろうか。明良はびくりと肩を強張らせると、「な、なにっ?」と動揺したように声を漏らした。

 

「どうする?」

「え……?」

「午後、どうする? 勉強する気力はあるか?」

 

 そう問うと、彼女は「えー、勉強はしたくないなぁ……」と嫌そうに答えた。もとから勉強嫌いなタイプだったが、女になってからはその傾向が増しているな。そんなことを思いながら、俺は彼女の頭を後ろから一瞥する。

 

 綺麗で艶のある黒髪は、後頭部の上のほうでヘアゴムによってまとめられている。尾のように揺れるポニーテールは可愛らしかった。こういう髪型も、なんだか新鮮でいいなと感じる。

 襟首の白い肌と黒い髪の境目――うなじの部分は、女性らしい色っぽさもあった。胸は控えめな体つきの明良も、こうして女の子らしい服装をしていると、今はたしかに女性なのだと意識させられてしまう。

 

 誘われるかのように、彼女の頭へと顔を近づけながら――俺は優しい口調で、穏やかに尋ねた。

 

「じゃ……ゲームでもして遊ぶか?」

「ぁ……ぅ、うん……。最近、あんまり一緒に……ゲームしてなかったし、な……」

 

 明良は恥ずかしがるように顔をそらす。その動きに合わせてポニーテールが揺れ、顔を近づけていた俺の口元と接触した。

 唇に――彼女の黒髪が数本からむ。

 あわてて顔を離すと、その髪は唾液に濡れながらもとの場所へと戻っていった。

 

「あ」

「……ど……どうした、の?」

「い、いや……なんでもない」

 

 わずかに劣情を催したのを自覚してしまい、俺は自己嫌悪しながらごまかした。今までは明良が“男”だと考えていたが、こうしてスカートをはいて髪型を変えている姿を見ていると、どうしても同性と見なしきることはできなかった。

 まあ……さすがに、理性を失うということはないが。

 それでも、健全な男子高校生にとっては――ちょっと心臓に悪かった。こうして自分を慕ってくれる美少女が、すぐそばにいるということは。

 

「んじゃ……二階いくか」

「う、うん……。あ……先に行っててくれる? オレ、飲み物用意するから」

「わかった」

 

 明良の肩から手を離し、俺は先に二階へ行くことにした。

 両親のいない家で、男女がふたりっきりでベッドのある部屋に――などという、ありがちなシチュエーションが頭によぎったのは、明良の女性的な魅力を意識したからだろうか。もっとも俺は、彼女を押し倒したりするつもりもないので、“そういう展開”にはならないだろうが……。

 そんなことを、ちょっと考えたりしつつも。

 明良の部屋に着いた俺は、蒸し暑さを感じてエアコンをつけたり、液晶ディスプレイやゲーム機の電源をつけたりと準備をして、待っていたわけだが――

 

「……遅いな」

 

 飲み物を用意する、というだけのわりには、明良が来るのに時間がかかっていた。何かあったのだろうか。いちど一階に戻ろうかと考えていた時――階段の音が響いてきた。

 部屋のドアを開けておくと、ようやく明良が姿を現す。その手に持った丸いトレーには、オレンジ色の液体の入ったグラスが二つ乗せられていた。

 

「む、麦茶が切れちゃっていて……オレンジジュースしかなかったんだけど、大丈夫だった?」

「ああ……べつにいいけど。ありがとう」

 

 今は親がいなくて、家事をひとりでこなしていることを考えると、麦茶を作りわすれるのも仕方ないのだろう。飲み物にジュースが出されることは初めてだったが、とくに不満も不都合もなかった。

 

「何で遊ぶ?」

「な、なんでもいいよ……」

 

 どこかぎこちない様子で、明良はすぐにグラスの片方に口をつける。緊張しているのだろうか。少し怪訝な気持ちを抱きつつも、俺もオレンジジュースを飲んで喉を潤した。

 

 ……さて、ゲームソフトを何にするかだが。

 対戦ゲーム……は、やめておこう。俺よりも明良のほうがはるかに強いので、ボコボコにされれるだけだ。

 無難なのは協力プレイのあるやつだろうか――と、一つのパッケージを手に取る。

 

「これでいいか?」

「う、うん……」

 

 明良はわずかに目をそらしながら、小さく頷いて答えた。どうも態度が変な感じだが、もしかして……自室に二人っきりでいることを意識しているのか?

 これまで何度も、同じように遊んでいただろうに。――という思いもあるが、急に女子の服装をしはじめたことを考えると、彼女の心情の変化を軽視できなかった。

 

 ……あまり気まずい雰囲気になるのは、いやだな。

 そんなことを考えながらも、俺はゲームソフトを起動させる。コントローラーを持ちつつ、ちらりと明良のほうを見ると、彼女はまたジュースを口にしていた。すでに半分も飲んでしまっているが、そんなに喉が渇いているのだろうか。

 そんな疑問を抱きつつも、俺は彼女に尋ねる。

 

「――これ、前にやった時からストーリーモード進めた?」

「ううん、進めてないから大丈夫……」

「オーケー。じゃあ続きからやろうぜ」

 

 最後に触ったのが二週間くらい前だったが、ストーリーや操作は覚えているので、とくに問題もなく。俺たちはマルチプレイでゲームをしはじめた。

 

 ――のだが。

 およそ三十分くらい経ってからだろうか。なんとなく体調のおかしさに気づいたのは。

 

「……う、ん」

 

 あくびをしてから、うなるような声を漏らす。食後だから眠気に襲われたのだろうか。たしかに昨夜はベッドに入るのが遅かったが――それにしても、日中にここまで眠くなるのは初めてだった。

 それに、どうも肩の力が抜けるような感覚もある。ゲームのコントローラーを持つ手の力は、少し弱くなっていた。この状態でゲームを続けるのは――ちょっと厳しいかもしれない。

 

「あ……す、すまん」

 

 こらえかねて、俺はポーズボタンを押した。

 

「ちょっと……眠気が……」

「だ、大丈夫かっ?」

 

 明良は心配そうな顔で、俺の背中に手を回してきた。接近した彼女の体と触れ合う。腕に感じる柔らかさは――もしかして胸だろうか。どきりとしてしまったが、振り払うわけにもいかず、そのまま言葉を交わす。

 

「朦朧、ってほどじゃないけど……おかしいな」

「……ベッドで、休む?」

「い、いや……そこまでは……」

「無理、しないで……ほら」

 

 明良は俺の体を、ベッドの方向へと持っていこうとする。強く促されてしまっては、断るのも躊躇してしまった。実際に横になりたい気分だったので、この状態だと無理はしないほうがいいかもしれない。

 

「悪い……少しベッド借りるぞ」

「いいよ……気にしないで」

 

 ゆっくりと立ち上がった俺は、ベルトと靴下だけ外してから、ベッドのふちで控えめに横になった。が、すぐに明良が「枕もつかっていいよ」と声をかけてくる。人の寝具をそこまで利用するのも申し訳ない気がしたが――本当に寝てしまいそうな体調だったので、俺はその言葉に甘えて枕に頭を乗せ、仰向けになった。

 

 ベッドに体を預けると、全身の力が抜けるような心地がした。筋肉が緩んでいるような、そんな感覚だ。以前に、肩こり用の薬を飲んだ時と状態が似ていた。

 ……まさか?

 そう思いはしたものの、それ以上は考えるのが億劫になり。

 

 ――しばらくして、俺は意識は途切れるのだった。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ぼんやりとしながら、意識が浮上する。

 ――寝てしまっていたのだ。そう気づけたのは、自分が起きはじめている証拠だった。何かが体に触れるような感覚が、俺を徐々に覚醒させていく。

 

「あきら……?」

 

 寝ぼけた眼でも、視線の先に見えた黒髪の顔は彼女のものだとわかった。俺の腰あたりで膝立ちして、こちらを見下ろしている彼女は――

 

「は、ぁ!?」

 

 おもわず悲鳴のような声を上げてしまったのも、致し方ないことだろう。

 咄嗟に目をつむった俺は、もしかしたらまだ夢を見ているのではないか、と疑ってしまう。脳にわだかまる眠気と、高鳴った胸の鼓動が、俺のうちでせめぎ合っていた。

 体を起こす力は入らないが――それでも、口は開けるようだ。

 俺は喘ぐかのように、弱々しく言葉を紡ぎだした。

 

「な……なんで」

 

 裸なんだよ――そう言った直後、俺は自分に対する違和感にもようやく気づいた。

 下半身の感触。それが妙に直接的なのは、単純に俺がズボンをはいていないからだった。まさか寝ているうちに自分で脱いだなんてありえないから――彼女が脱がせたのだろう。

 幸いというべきか、上のシャツと下着のトランクスだけは残っているものの――

 今の状況からすると、いろいろと危機的なことには変わらなかった。

 

「陽介……」

「ど……どうしたんだよ、お前……」

「……好き」

「はっ――」

 

 状況と展開への理解が及ばなすぎて、俺は呆然とした声を漏らす。

 だが、さらに追い打ちをかけるかのように――胸元に重みがかかってきた。

 目を閉じていても、わかってしまった。明良が抱きつくかのように、しなだれかかってきたのだ。柔らかい肌、温かい体を感じ取ってしまう。

 シャツ越しの胸に、ふっくらと隆起したものが当たっていた。それが何か、考えるまでもないだろう。さほど大きいわけではないが――それでも女性らしさを思わせる、触れ心地のいい膨らみだった。

 

「すき、大好き」

「ちょ、ちょ、ちょっと――」

 

 俺は動転しまくりながらも、会話を成り立たせようと口を開いたが――すぐに閉ざされてしまった。

 ……湿っぽさのある、柔らかな肉に蓋をされて。

 そういう行為は初めてだったが、感覚だけですぐにわかった。明良は俺の唇に、自分のもの被せたのだ。それも軽く触れるような形ではなく――しっかりと、口元を押し付けて。

 

 ファーストキスだった。

 ……が、美しくて綺麗な内容とは言いがたかった。

 

 呆けていたせいで、口を半開きにしていたのがまずかったのかもしれない。歯の隙間の、奥へとつながる道。それを求めるかのように――彼女は舌の先を伸ばしてきた。

 いちど侵入を許してしまったら、もうあごを閉じることもできなかった。俺の舌と、明良のものが絡み合う。温かく湿った彼女の肉が、歯肉や舌下を舐めまわしてくる。まるで興奮した犬のようだった。

 

 ――あまりに突飛すぎて、逆に冷静になってきたのかもしれない。

 どことなく他人事のように、明良からの求愛を受けつつ。俺は眠気が少し取れた頭で、思考を巡らせていた。

 こちらが抵抗する様子を見せなかったからだろうか。しばらくすると、彼女はゆっくりと舌を引き戻して――その唇を離した。

 

 目を開ける。彼女の顔が近くにあった。その口元は唾液にまみれていて、したたった雫が俺の下唇を濡らす。熱っぽい瞳と、上気した頬は、官能的で蠱惑的な表情だった。

 それを直視することができず、少し目をそらしながら、俺は口を開いた。

 

「――薬」

「えっ?」

「変な薬、使ってないだろうな……?」

 

 真っ先に心配したのがそれだった。たぶん、飲み物に何か混ぜてあったのだろう。急に眠気が襲ってくるのは、あまりにも不自然だったから。

 

「し……市販の、睡眠薬だから、大丈夫」

 

 何が大丈夫なのだろうか。というか、睡眠薬なんて持っていたのかお前。

 ……と思ったが、そういえば。この前にネット通販で何か買っていたのを思い出す。今は生活用品から食料品、医薬品までなんでもネットで買える時代なので、おそらくそれで取り寄せたのだろう。

 処方薬ではないということは、薬自体はさほど悪影響もないはずだ。それがわかった点は、安心だった。

 ……問題は、なぜ俺が睡眠薬を盛られて逆レイプされかかっているのかという話だが。

 

「手段が強引すぎるぞ、お前……」

「だ、だって……」

 

 明良は目を潤わせながら、我慢しきれない子供のように言葉を漏らす。

 

「オレ、陽介のことが好きで……ずっと一緒にいたいから……」

 

 今までにない、直球な発言だった。前々から、恋愛感情的なものを俺に抱いているような気配もあったが――これほどとは思ってもいなかった。

 

「オレが女の子だってこと……お前に知ってもらいたくてさ……」

 

 身をもって、ということだろうか。いや、たしかに……こうまでされたら、彼女の女性としての在り方を意識せざるをえないが。

 

「……いつから、そんなに俺のこと好きだったんだよ」

 

 過去を思い返しながら、俺は落ち着いた声色で尋ねた。

 明良が頻繁に俺と会いたがるのは、単純に交流のある人間が家族以外は俺しかいないからだと思い込んでいたが。いつから、それが親友としてではなく、恋の相手となっていたのだろうか。気づいてやれなかったことに後悔のような感情もあり、俺はそれを聞かずにはいられなかった。

 

 明良は愛おしそうに俺の頬に手を当てると、愛をささやくかのように答えた。

 

 

 

 

 

「ぉ……男だった、時から」

 

 

 

 ……はい?

 

「え、なに、マジ?」

「男だった時から……オレ、お前のことが好きで……」

「う、うそぉ……」

「で、でも……女の子になったから……問題ないよね?」

 

 いやいやいや、それは予想外すぎて。

 だが、たしかに……そういえば、男だった時からボディタッチをよくしてくるやつだった。肩や腕を叩くように触れてきたり、やたら体を寄せてきたり。そういう性格なのかなと思っていたが――まさか、当時からその気があったのだとは。

 

「女だったら、さ……ほら……結婚、もできるし……」

「ちょ、ちょっと、考えが早すぎだろっ!?」

「だ、大丈夫……オレ、家事はぜんぶやるから……」

 

 くそっ、こいつ専業主婦が希望かよ。やっぱり働く気がねーな!?

 などと脳内でツッコミを入れつつも、俺は反応に困ってまじめな言葉が見つからなかった。

 

「そ、それに……オレ、女だからさ……」

「……おう」

「――赤ちゃんだって、産めるし……ね?」

 

 ――――。

 危うく、意識を失いかけるところだった。

 

 俺が、明良と……子供を……。

 だ、ダメだ。あまりにも急進的すぎて、思考が追いつかない。

 

「オレ、お前の赤ちゃん欲しいな……」

「落ち着け。気が早すぎる」

「さ、最低でも二人は子供が欲しいなー……なんて」

 

 家族計画はもうちょっと話し合って決めるべきではなかろうか。

 いや、まあ……たしかに最近の明良を見ていると、一途でいい奥さんになりそうな気もするが。

 それは、ともかくとして――

 

「明良」

「オレ、初めてだけど……安心して」

「おーい」

「気持ちよくさせてあげるから……」

「お、おう……」

 

 どこか恥ずかしそうに、不器用な笑みを浮かべた明良は――ゆっくりと、ふたたび俺に顔を近づけてきた。

 内心でため息をつきながら、俺は諦めたように目を閉じる。唇に触れた感触は、今度は上品で控えめなキスだった。柔らかくて、甘さのある、愛がこめられていた。そこに嫌悪感がないことで、俺はあらためて自覚させられた。

 

 ――明良と一緒に生きるのも、悪くはないかな。

 

 そして俺は、彼女を受け入れることにした。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ――ふと目を覚ました時、隣にあどけない顔があった。

 ソファーに座りながら、大きなイルカのぬいぐるみを抱いている男の子は、どこか不思議そうにこちらを見上げていた。

 

「パパー?」

「おー……ごめんごめん。寝ちゃってたか」

 

 相変わらず眠気が残っているのを感じつつ、俺は自分の子供に苦笑を向ける。日曜日の朝は、息子と一緒にアニメや特撮の番組を見るのが日課になっているのだが――昨日は休日出勤があったせいで、帰ってきたのが夜遅くだったのだ。完全に睡眠不足である。

 時計を見遣ると、一つ目のアニメ番組が終わった時刻だった。このあとは特撮番組が始まるので、まだ子供はテレビに夢中になっていてくれるだろう。

 

 ――寝なおすか。

 そう思った俺は、次の番組のオープニングが流れはじめたのを確認してから、ゆっくりと居間のソファーを離れる。幸いながら息子はテレビにくぎ付けで、俺のことを呼び止める様子もなかった。

 そして廊下を通って、寝室に入ろうとした時――

 

 洗濯かごを持った“彼女”と、ちょうど出くわす形となった。

 

「――また寝るの?」

「ああ……相手してあげてくれるか?」

 

 居間にいる息子のこと指したお願いだった。テレビ番組が終わったら、絶対に親に構ってもらおうとするだろう。俺が寝なおしている間は、彼女に息子の相手をしてもらうしかなかった。

 彼女は洗濯かごをいったん置くと、こちらに体を近づけてくる。何を求めているのか――察した俺は、いつもながら呆れたように笑った。

 

「おやすみのちゅー」

「はいはい」

 

 俺はその体を引き寄せて、そっと口づけを交わした。

 そこらの新婚カップルよりスキンシップが多いのは、いつまで経っても変わらなかった。ときおり、それが面倒くさく思うこともあるが。それでも、俺が彼女の求めに応じるのは日常だった。

 唇を離したあと、彼女はほほ笑みながら腹部に手を当てる。その膨らみは、新しい子供が成長している証だった。生まれてくるまで、あと四か月といったところか。

 

 ――最低でも二人は子供が欲しい。

 なんて言った、かつての明良の言葉はずいぶん早く実現するようだ。

 はたして最高だと何人になるのだろうか。ちょっと聞くのは恐ろしかったりした。

 

 ――なんだかんだで、あの日を境に俺たちの意識も変わり。

 とくに気まずい関係になるわけでもなく、むしろ普通に付き合うような形となり。

 そして長い年月を経て、今に至るわけだが。

 

 いったい何が、決め手だったのだろうか。俺が明良と、こうも素直に人生をともにしたいと思ったのは。

 それを考えてみると、答えはわりと簡単に出てくるのだが――あまり他人には公言できないことでもあった。

 

 まあ……なんだ。

 あれだ。さすがは、かつて男だっただけのことはある。

 こう……男を喜ばせるのが、とても上手だったのだ。うん。

 

「――昼まで寝てたら、起こしてくれる?」

「うん、わかったー」

 

 かつては親友だった、今の伴侶――明良はにこやかに頷くと、洗濯かごをふたたび手にした。結婚して数年が経っても、その姿からは女性的な魅力が満ちあふれている。

 

 ああ、俺は好きなんだな――明良のことが。

 何気ない日常の中で、最近はよくそう思うようになった。いつも自分を好いてくれる彼女と、一緒にいるのが心地いい。結婚できて本当によかった。

 

 もし彼女が男に戻っていたら、どうなっていただろうか。まあ、なんだかんだで……そこまで同性愛に忌避感はないので、受け入れていたのかもしれない。仮定の話だが。

 何はともあれ――明良が女性となってくれたことは、今となっては最大の幸運だった。

 べつに女体が好きとか、そういうわけではなく。

 ただ単純に――愛する人間が増えてくれることが、何よりも幸福でありがたかったのだ。

 

 明良の後ろ姿を見送りながら、俺は小さく呟いた。

 

 

 

「……最低でも、三人は欲しいかな」

 

 未来にはきっと――もっと幸せが待っているのだろう。

 明良とともに歩む人生には、そんな確信があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 どこが短編なのでしょうか。
 というツッコミしか思い浮かびませんが、お許しください。
 いろいろとめちゃくちゃな内容ではありますが、幸せな家庭を築くTS娘というのも良いものだと思います。

 ところで現代TS作品でよく「戸籍の問題が~」と言われることがありますが、実際はそんなに問題にならないと思います。
 戸籍の内容が間違っている、というのは現実でもたまにあることで、そのため戸籍の修正というのも手順を踏めばちゃんとできます。
 ちなみに住民票についても、最近では性別表記のない「住民票記載事項証明書」を発行できるようになっています。TS娘にとっては便利な社会になりましたね。

 という雑学は置いといて。
 ここまでご覧いただき、ありがとうございました。

 また別の作品を書いたときには、どうぞよろしくお願いします。


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