ウタカタノ花   作:薬來ままど

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二十二章:変わり行くもの


時間は少しだけさかのぼり。

 

機能回復訓練を終えた善逸は、流れ出る汗を拭きながら廊下を歩いていた。

彼は、ここに運び込まれて次の日に目を覚ましたものの、両足が折れていたため治るまでにかなりの時間を要した。

やがてその足も治り、元通りに動かすための訓練を行っていた。

 

相も変わらず訓練は厳しかったが、この屋敷の女性たちが自分の為に(というには些か語弊があるが)訓練に付き合ってくれたため、それを糧にして彼は耐えていた。

 

だが、そんな善逸にも気になることはあった。それは、未だに目を覚まさない三人の仲間たちの事だった。

 

善逸はあの時唯一、鬼の猛毒を受けなかったこともあり一番に目を覚ました。しかし、他の三人はそうもいかず、特に伊之助は毒による呼吸の止血が遅れ、汐に至っては二回も心停止を起こしたということだった。

 

あの三人が死ぬわけがないと思いつつも、もしものことが起こったらどうしようという相反する感情が、善逸の胸を締め付けていた。

 

そんな時だった。

 

「「「えええええええーーーーーっ!!!???」」」」

 

何処からか耳をつんざくような叫び声が聞こえ、善逸は思わず耳を塞いだ。だが、それがアオイたちの声であると気づいた彼は、すぐさまその場所へと足を進めた。

 

「ど、どうしたの!?今のすごい声・・・」

 

善逸がドアを開けて中を覗くと、そこには目を覚ましている汐と、青ざめた顔のアオイたちが立っていた。

 

「汐ちゃん!よかった、気が付いたんだねぇ!!」

 

汐の姿を見た善逸は、嬉しさのあまり目頭が熱くなるが、ふと奇妙なことに気づいた。

 

アオイたちの"音"が、どうも喜んでいるそれではなく、目の前の汐も、いつもの"音"でなくなっていた。

 

「あれ?何、この音。それに君、汐ちゃん・・・だよね?」

 

善逸が震える声で尋ねると、汐は首をかしげながら善逸をまじまじと見て言った。

 

「どちら様でしょうか?」

 

その言葉を聞いて、善逸の思考は一瞬止まり、そして

 

「えええええええーーーーーっ!!!???」

 

アオイたちと同様に大声を上げるのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

「・・・では、次の質問です。今は何時代ですか?」

 

しのぶの問いかけに汐はすぐに「大正時代です」と答えた。

 

「はい、結構です。では次に、ここにある絵の中から生き物を選んでください」

 

しのぶに手渡された絵には、兎、筆、車、鳥、本、時計、犬、猫、傘が描いてあり、汐は迷いなく兎、鳥、犬、猫の絵を指さした。

 

「はい、わかりました。ありがとうございます」

 

しのぶはそう言って診療録に何かを書きこむと、心配そうな顔で並んでいる善逸達を見つめた。

 

「これで検査は終了です。その結果――」

 

しのぶが検査結果を告げようとしたその時だった。

 

「いやあああああ!!!」

 

耳をつんざくような声が聞こえ、善逸は思わず耳を塞いだ。そして間髪入れずに、扉を突き破る勢いで緑と桃色の塊が、転がるように入ってきた。

 

聞いたわよしのぶちゃん!!しおちゃんが記憶喪失だなんて、わ、私は信じないわっ!嘘よね、嘘だって言って!こんなの、こんなの、あァァんまりよォォーーッ!!」

 

甘露寺は部屋に入るなり、泣きじゃくりながら汐に縋りついた。突然の闖入者に、汐はどうしたらいいかわからず、困惑した表情で言った。

 

「あの、すみません。この破廉恥な格好の人を何とかしてくれませんか?」

 

そう言う汐に甘露寺は「しおちゃんだわ!この歯に物を着せない言い方はしおちゃんに間違いないわ!」と叫んだ。

 

「甘露寺さん。お気持ちは痛いほどわかりますが、ここは病室ですよ」

 

見かねたしのぶが冷静に諭すと、甘露寺は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を向けると、手渡された手ぬぐいで顔を拭いた。

 

「検査の結果、言葉の意味や物の使い方は覚えていますから、汐さんが失っているのは自分を含め、周りの情報の殆どの記憶の様です。つまり、彼女が鬼殺隊員として鬼を滅する仕事をしていた、ということも、今は覚えていないということになります。それが一時的なものなのか、そうでないのかは今はわかりかねますが――」

 

しのぶの話を、甘露寺鼻を啜りながら聞いていたが、次の彼女の言葉に衝撃を受けた。

 

「もしもこのまま汐さんの記憶が戻らなければ、彼女には鬼殺隊を辞めてもらうことになるでしょう」

 

しのぶの言葉に甘露寺は勿論、善逸達も目を見開いた。甘露寺は何かを言いかけたが、汐の顔を見てその口を閉ざした。

 

汐の悲しい過去の事は、大筋だが知っていた。今の汐はその過去を忘れている。もしもこのまま彼女が忌まわしい過去を忘れたまま、新しい人生を生きていくことも、決して悪いことではないのかもしれない。甘露寺はそう思った。

 

一方、それを聞いたカナヲは、驚いた表情で汐を見つめた。光の無い目でどこかを見つめる汐に、かつて自分に何度も挑んできた面影は微塵もなかった。

 

結局その後はまとまった話もできず、甘露寺は腑に落ちないまま任務へ向かった。そして汐は、アオイたちから自分がいる場所は蝶屋敷と言い、鬼殺隊最高位である柱の一人、蟲柱・胡蝶しのぶが構える屋敷であると教えられた。

 

鬼を退治する組織、鬼殺隊。柱、蝶屋敷。どれもが汐には覚えがなく、そして自分自身もここに属していたという話を聞いても、全く思い出すことはできなかった。

 

あまりに多くの情報を与えられると、脳の許容範囲を超えてしまい体調を崩してしまうので、その日はそれ以上の事はできなかった。

 

次の日。汐は運ばれてきた流動食を口にしながら、窓の外を見ていた。鳥はさえずり、温かな陽の光が汐の部屋を柔らかく照らす。

その美しい世界ですら、今の汐には覚えがなかった。

しかしそれでも、汐はアオイや、同期と言われたカナヲと少しずつ話をしながら、自分の置かれている状況を少し実把握していった。

 

この世には鬼という、人を喰う化け物が存在しており、自分は鬼殺隊という組織に属し、仲間と共に鬼を倒していた。そして大きな戦いで負傷し、この場所へ運び込まれて二か月近く意識が戻らなかったという。

 

(私が鬼を倒す力を持っていたなんて、とても信じられない)

 

それを聞いて、汐の身体は震えた。自分がそのような事を成し遂げていたことが、とても信じられなかった。

だが、周りの者たちの反応を見る限り、それは嘘ではないようだった。

 

(でももしそれが本当だとしたら、少なくとも私は誰かの役に立てていたってことなんだ。そうだったら、凄く嬉しいな)

 

自分が誰かの助けになることができた。そう思うだけで、汐の心は少しだけ軽くなるのだった。

 

一方。

 

その日の訓練を終えた善逸は、一人部屋に戻る廊下を歩いていた。善逸は、未だに汐が記憶を失っていることに納得ができず、心の中に靄のようなものを抱えていた。

 

(汐ちゃん、本当に俺たちのこと覚えていないんだ。せっかく意識が戻ったのに、こんなの酷すぎるよ)

 

変ってしまった汐の音を思い出しながら、善逸は悔しそうに表情をゆがめた。

 

ぶっきらぼうで、生意気で、乱暴者で。けれど、決して何者にも屈することなく、前を見て自分の足で立っている少女。

態度も口も悪いが、とても優しく、臆病者の自分を奮い立たせてくれた頼れる存在だった。

 

(炭治郎が目を覚ましたら、きっと悲しむだろうな。だって汐ちゃんは炭治郎の事が・・・)

 

二か月ほど前のあの時。汐が意識を失う寸前、善逸は彼女が発した言葉を聞いていた。

 

たった一言の言葉だったが、その言葉には炭治郎への想いが込められていた。

腹立たしいと思う気持ちすら起きない程の、真っ直ぐな想いだった。

 

(しのぶさんは無理に思い出させない方がいいっていうけれど、汐ちゃんにとって炭治郎への気持ちは原動力だ。このまま思い出せないなんて、あんまりだぞ)

 

善逸は一つ息をつくと、両手で自分の顔をニ三度叩き、意を決したように顔を上げた。

 

(よし!)

 

善逸は意を決したような表情で、自室へと戻っていくのだった。

 

 

*   *   *   *   *

 

 

それから、汐の身体は驚異的な回復力を見せ、目が覚めてから五日後には、ほぼ支えなしで歩けるようになった。

そんな汐に、時折見舞いに来ていた隠達は驚きを通り越して恐れすら抱いていた。

 

だが、体は回復しても汐の記憶は未だ戻らず、しのぶは苦悩の表情を浮かべながらため息をついた。

 

(汐さんには気の毒ですが、記憶が戻る兆候がない以上、そろそろ手続きを考えなくてはいけませんね)

 

勿論、これは最終手段としてできれば使いたくない手だった。しかし、今の汐はとても鬼殺隊員として戦える状態ではない。

今までもやむを得ず戦線を退いたものは、しのぶもいやというほど見てきた。元音柱、宇髄天元ですらそうだった。

 

(だけど、本当にこれは正しいことなの?少なくとも、私たちにとって汐さん、ワダツミの子の力は大きな戦力になる。それが失われるということは、鬼殺隊にとって大きな痛手。でも、それ以上に私は彼女には・・・)

 

しのぶはもやもやとする胸の中を抑えるかのように、ぎゅっと隊服を掴んだ。今までに感じたことのない感情に、戸惑いすら見せていた。

 

(姉さん。私、どうすればいいの?何が彼女にとって正しいことなの?)

 

そんなことを考えていたしのぶだったが、ふいに扉を叩く音がしてはっと顔を上げた。

 

「どちら様?」

 

しのぶがそう声を掛けると、扉の向こうから聞こえるくぐもった声に、彼女は目を見開くのだった。

 

その頃。訓練を午前中で終えた善逸が向かったのは、汐が今使っている病室だった。

 

善逸は一度深く深呼吸をすると、右手の甲で三度扉をたたいた。

 

「汐ちゃん、いる?俺だよ、我妻善逸。君とその、少し話がしたいんだ。いいかな?」

 

すると扉の向こうから、「どうぞ」という汐の声が聞こえた。善逸はそのまま、そっと扉を開けて中に入った。

 

汐はベッドに座ったまま本を読んでいた。それは、三人娘たちから借りた、海の生き物の図鑑だった。

汐が海で育ったことを聞いていた善逸は、それを見て大きく目を見開いた。

 

「汐ちゃん、もしかして何か思い出したの!?」

 

善逸がそう言うと、汐は首を横に振って少し寂しそうな声で答えた。

 

「いいえ。ただ、何故だかわかりませんが、海の生き物を見ているとなんだか落ち着くんです。全く知らないことばかりなんですけどね」

 

困ったように笑う彼女から聞こえてくる音に、善逸の胸は締め付けられた。不安と焦りに満ちた、聞くに堪えない音。

善逸はそんな汐の傍に座ると、真剣な表情で口を開いた。

 

「汐ちゃん。君の記憶が戻るかどうかはわからないけれど、見て欲しい場所があるんだ」

「見て欲しい場所?」

「うん。君の体調がよかったら、の話なんだけれど」

 

無理はしなくていい、と善逸は言ったが、彼の真剣な顔つきを見て、汐の心に少しだけ波が立った。

 

「いいえ、大丈夫です。連れて行ってください、我妻さん」

 

汐の言葉に善逸は頷くと、彼女の手を取って部屋を出た。

すると、汐の為に本を持ってきていたすみと、廊下でばったりとあった。

 

「あ、善逸さん。それに汐さんも。どこに行くのですか?」

「屋敷の裏山に行こうと思っているんだ。あ、勿論、無理はさせないよ。病み上がりの女の子に、山登りをさせるつもりはないんだ。ただ・・・」

 

口ごもる善逸を、汐は怪訝そうな表情で眺め、すみは何かを察したようにうなずいた。

 

「わかりました。しのぶ様やアオイさんには、私から伝えておきます。ですが、汐さんはまだ歩けるようになったばかりですから、くれぐれも無理はさせないでくださいね」

「勿論だよ、ありがとう。じゃあ、行こうか、汐ちゃん」

 

善逸の言葉に汐は頷くと、すみに頭を下げて善逸と共に歩きだした。そんな二人の背中を、すみは祈るような想いで見つめていた。

汐はどちらに値すると思いますか?

  • 漆黒の意思
  • 黄金の精神

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