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歪んだ視界が段々と形を帯びてくると、そこには家の前に立つ家族と少女たちがいた。
雪はすっかり止み、温かな日の光が辺りを優しく照らしている。
『もう行かれるのですか?』
葵枝は禰豆子を抱きながら、名残惜しそうにそう言った。
足元で見上げる幼い炭治郎の顔は、今にも泣きそうだった。
『ああ。お前さん達には世話になったな』
そう言うのは少女の背後に立つ男だった。男の顔も少女の顔も、炭治郎には見えなかった。
『長居しちまっただけじゃなく、あの、"ヒノカミ神楽"だっけか?あんな見事なもんを拝ませてくれるたぁ、冥利に尽きるぜ』
『いえ、こちらこそあなた方には随分と助けられました。貴重なお話も聞かせていただきましたし、本当に有意義な時間でした』
炭十郎はそう言って深々と頭を下げた。
『おいおい、男がむやみやたらに頭なんざ下げるもんじゃねえよ。男が頭を下げんのは、女を泣かせたと・・・!』
男が最後まで言いおい割る前に、少女がその拳を鳩尾に叩きつけた。
呻く男をしり目に、少女は幼い炭治郎達の前に立つと、しっかりした声で言った。
『あなた方には感謝している。あなた方は私の知らないことを、沢山教えてくれた。そして私を、人として扱ってくれた』
少女はそう言って幼い炭治郎に近づくと、視線を合わせるように座った。
『炭治郎。君はこれから兄としていろいろと大変だろうが、君には君を愛してくれている家族がいる。だから、大丈夫』
少女はいったん言葉を切ると、意を決したように口を開いた。
『それから私も君の妹、禰豆子と同じように名をもらったんだ。あの男にしては、なかなか気の利いた贈り物だ』
少女の少し皮肉めいた声に、悶えていた男は背後から『なんだと!?』と叫んだ。
『名前?』
きょとんとする幼い炭治郎に、少女は歯切れのよい朗らかな声で言った。
―――私の名は、汐。
――大海原汐、だ。
その言葉を聞いた瞬間、炭治郎は目を見開いた。そして少女、汐の背中に向かって手を伸ばす。
「汐!!」
汐の名を呼んだその時、最後の花弁が消えかかっているのか視界が歪み始めた。
炭治郎は必死に叫びながら、手を伸ばし続けた。
「汐!!汐!!必ず、必ずまた会えるから!!」
身体が引っ張られる感覚に抗いながらも、炭治郎は叫んだ。
「だから、だから・・・!待っててくれ!!」
その言葉を最後に、炭治郎の意識は途絶えた。だが、視界が真っ暗になる寸前、炭治郎は確かに見た。
こちらを振り返った少女と目が合った。その目は、海の底のような深い青に染まっていた。
そしてその顔は、紛れもなく大海原汐そのものであった。
『どうした?』
何もない方向を見つめる汐に、男は怪訝な顔で問いかけた。
『・・・何でもない。それより、これ以上ここに長居をするわけにはいかない』
汐は立ち上がり、着物についた雪を払うと男を見据えていった。
『さっさと行くぞ、玄海』
名を呼ばれた玄海は、驚きつつも嬉しそうに笑った。汐はその笑顔の意味を理解できなかったが、吊られるように口元に笑みを浮かべた。
『じゃあ、俺達は行くぜ。達者でな、炭十郎。嫁さんとガキ共を大切にしろよ』
『はい、あなたもお元気で。玄海さん』
二人はそう言葉を交わし、にっこりと笑った。
* * * * *
「はっ!!」
意識を取り戻した炭治郎は、目を見開くと起き上がった。いつの間にか眠っていたようだった。
『思い出してくれたか?』
傍にいた番人が、炭治郎に優しく声を掛けた。
「あれは、間違いなく汐だった。雰囲気はいつもの汐じゃなかったけれど、汐だった・・・」
炭治郎は記憶をたどりながら、そう呟いた。
「でもおかしい。あの汐は俺よりも三歳か四歳くらい年上に見えた。俺と汐は一歳しか違わないはずだ。どういう事なんだ・・・?」
炭治郎は顎に手を当てながら考えるが、いくら考えても答えは出てこない。
そんな炭治郎を見かねてか、番人がそっと口を開いた。
『冷静に思い出してみるんだ。君はここに来る前に、汐からワダツミの子について詳しく聞いているはずだ』
番人の静かな声を聞き、炭治郎はいったん落ち着こうと深呼吸をした。
それから冷静に、汐の話を思い出してみた。
しばらく経った後、炭治郎は目を見開き口を開いた。
「まさか、まさかそんな・・・」
炭治郎は真っ青な顔で番人に向き合った。番人も、炭治郎の様子を見て察したようにうなずいた。
『どうやら気づいたようだな』
そういう番人の声は冷徹で、炭治郎の身体は震えた。
「か、還り、咲き」
『正解、だ』
震えた声で答えると、番人は布越しに口元を思い切り歪めながら言った。
『君の推察通り、大海原汐は一度致命傷を負い、ウタカタノ花の自己防御能力【還り咲き】を発現。汐の記憶と寿命、そして肉体の成長を対価に蘇生した。だから、君との肉体的年齢との差が失われた』
「そんな・・・!どうして汐がそんなことに・・・!?」
炭治郎が尋ねると、番人は首を横に振った。
『その時の記憶はすでに抹消されている。かつての汐の記憶と同様にな。それより話を戻そう』
悔しそうに顔を歪める炭治郎をよそに、番人は静かに語りだした。
『還り咲きを起こした汐は過去の記憶を失い、再び生命活動を開始した。その時に大海原玄海と今一度出会い、新たな力と人格を生み出した。それが君達がよく知る【大海原汐】というわけだ』
「じゃあ、俺が記憶の中で見たあれが、汐の本来の人格だっていうのか?」
炭治郎の言葉に、番人は静かにうなずいた。
『かつての汐は、どういうわけか花の影響が強く出ていた。その為感情が希薄で人としての心が形成されていなかった。通常は花の浸食がすすんでいくにつれ、人の心は失われていくのだが、汐は最初から特異だった』
番人は思い出すように首を傾けながら続けた、
『だが、玄海と出会い、君の家族に触れることで少しずつ、人としての心が作られていたのだろう。そのせいか、新たに生み出された人格は、あまりにも本能に忠実になってしまっているがな』
番人は小さく笑うが、その笑い声は虚しく響くだけだった。
『まあ、それだけではなく君ともう一度会いたいという無意識の願いも、今の人格を形成しているのだろう。汐にとって君はそれ程、心に刻まれている存在ということだ』
炭治郎は青い顔のまま、透き通る床を見つめた。薄赤色の小さな魚が、ゆっくりと足元を泳いでいく。
『君が気に病む必要はない。これは為すべくしてなったことだ。それに、君がそんな顔をしていては、汐は今度こそ壊れてしまうぞ』
「!!」
炭治郎は顔を上げて番人を見つめた。心なしか、少し体が震えているようだ。
『そのために私は切り離されてここに居るんだ。だから、頼む。汐を、彼女の心を支えてくれ・・・!』
番人の放ったその言葉は、今までとは異なる心の声。それを聞いた瞬間、炭治郎は全てを察した。
この場所の事も、番人の事も。
「勿論だ。でも、それだけじゃない。俺が守りたいのは、君もだ」
『わ、私も?』
炭治郎の思わぬ言葉に、番人は面食らったのか声を上ずらせた。
「君とは初めてあった気がしないと思っていたんだけれど、ようやくそれが分かった。君はずっと、汐の心の一部として汐が汐でいられるように守ってきたんだろう?本当の汐の人格を宿して」
『・・・・』
番人は言葉を失いながら、炭治郎に顔を向けた。
「君が汐から切り離されたなら、君だって汐の一部だ。だから汐を守るなら、君だって勿論守る。汐も、もう一人の汐である君も」
――だって全部そろって汐じゃないか。
炭治郎がそう言った瞬間、番人の布越しの顔に一筋の光が伝った。それに気づいたのか、炭治郎は慌てて近寄った。
「だ、大丈夫か?な、何か拭くものを・・・」
『ふふふ・・・』
番人は零れた涙を脱ぐながら、小さく笑った。嘲笑でも失笑でもない、嬉しさからの笑いだった。
『いや、君には本当に驚かされる。君という存在があったからこそ、大海原汐は人間として心を保ってきたのだろう。いや、君がいる限り、汐は人であり続けるだろう』
番人はそう言って、炭治郎に頭を下げた。
『感謝する、竈門炭治郎。君にまた会えて、本当に良かった』
「そんな、俺は・・・」
炭治郎が何かを言いかけた時、突然炭治郎の身体が白く発光し始めた。
『どうやら時間のようだ。本来なら君がここに現れること自体が特異だったからな。君は本当に、不可思議な存在だ』
番人は呟くように言うが、炭治郎には聞こえない。そのまま光は強くなり、やがて辺りを真っ白に染めた。
『だからこそ、私は信じている。君が、この悍ましい因縁を断ち切る、"心の鬼"を滅する刃になることを・・・』
番人はそう言って殺意の扉を見上げた。扉はただ静かに、番人を見下ろしているだけだ。
『もしその時が来たら、お前はどうする?正直私はもう、疲れ始めているんだよ・・・。だからもう・・・』
番人のかすれた声が、無意識領域に静かに響いた。
* * * * *
外から聞こえる鳥の声を聞いて、炭治郎はゆっくりと目を開けた。いつの間にか夜は明け、朝の光が窓辺から差し込んでいる。
(俺は、眠っていたのか・・・。じゃあ、あれは夢・・・か?)
段々と意識がはっきりしてきた炭治郎は、汐の事を思い出して慌てて体を起こした。
しかし汐は、炭治郎の目の前で静かな寝息を立てていた。
汐が傍にいる事に胸をなでおろしながら、炭治郎は先程の事を思い出していた。
(でも夢にしては凄く鮮明だった。もしもあれが本当なら、汐は・・・)
炭治郎は眠る汐を見て、悲しそうに目を細めた。
炭治郎が知らなかったところで、汐は死に至る程の傷を負い、花の力によって再び蘇った。
過去と寿命を犠牲にして。
(じゃあ汐は、あまり長く生きられないってことか・・・?)
還り咲きがどれほど寿命を減らすかは分からない。だが、それでも汐は命を削っても今を生きている。
鬼を殺し、花が生きるための世界にするため。
あまりにも理不尽で身勝手な理由だと炭治郎は思ったが、花がなければ自分は汐と出会うことはなかっただろう。
そして家族とは少し異なる思いを抱くことも、なかったかもしれない。
「汐・・・」
炭治郎は汐の名を呼び、もう一度手を握った。血の通った、温かいその手を。
「う・・・ん・・・」
すると、汐の瞼が微かに震え、口から小さな声が漏れた。
「っ!」
炭治郎は汐の手を放し、姿勢を正した。汐は身体をもぞもぞと動かしながら、ゆっくり目を開いた。
「あれ、あたし・・・」
汐がかすれた声でそう言うと、炭治郎は胸を抑えながら歯切れのいい声で言った。
「おはよう、汐」
その言葉に、汐はゆっくりと顔を向けようとして――
小さく悲鳴を上げて布団をかぶった。
「ええっ!?どうしたんだ汐!?」
汐の思わぬ反応に、炭治郎は慌てて立ち上がった。
「み、見ないで。今のあたしを見ないで・・・」
汐の声は震え、身体も震えているのが布団越しに伝わってきた。
炭治郎は座りなおし、汐に声を掛けようとしたときだった。
「あたし、あたし。あんたにまたみっともない姿を見せちゃった。あんたに悲しい思いをさせないって、泣いている顔をさせないって思ってたのに、またあんたを苦しめた」
「そんなこと・・・」
ない、と言いかけた炭治郎の言葉を、汐は遮った。
「でも、でもね。あたし、今までやってきたことを無駄になんてしたくない・・・」
汐は布団をかぶったまま、胸の内を吐き出すように言った。
「こんなへんてこな身体だけど、それでも、あたしは最後まで、大海原として最後の最後まで足掻いて、戦うから。必ず、皆を、あんたを守るから。だから、お願い。あたしと一緒に、いてくれる?」
汐の言葉に、炭治郎は言葉を失った。いつもの汐からすれば随分と小さな声だったが、決意が込められた迷いのない言葉だった。
こみ上がってくる熱いものをこらえながら、炭治郎は口を開いた。
「そんなの当り前だ!何があったって、俺は、俺達は汐の傍にいる!一人になんか、させない!!」
炭治郎の叫ぶような声は、汐の心に大きく響いた。揺らされた心は波紋のように広がり、やがて涙となりあふれ出す。
「ありがとう、ありがとう、炭治郎。あたし、あんたに出会えて、本当に良かった」
汐は涙ぐみながらも、炭治郎に感謝の気持ちを伝えた。だが、それでも布団からは出てこない。
「あの、汐。そろそろ顔を見せてくれないか?心配なんだ」
「それは駄目よ!」
汐は鋭く言って、ますます深く布団をかぶった。
「どうして?」
「だ、だって。あたし今酷い顔をしてるし、お、お風呂だって・・・」
汐は消え入りそうな声でそう言い、炭治郎は一瞬固まったが慌てて付け加えた。
「大丈夫だ!俺は汐からどんな匂いがしたって気にしな・・・ぶべっ!!」
だが、その言葉は汐の鉄拳により続けられることはなかった。
「馬鹿ぁ!!」
汐の悲鳴のような言葉を乗せて。
炭治郎は衝撃で椅子から転げ落ち、腰を強打した。殴られた頬からは、鈍い痛みが走る。
しかし炭治郎の心には、嬉しさがこみ上げてきた。
「な、なに笑ってんのよ?あんた、善逸のアホが移った?」
頬を抑えながらも嬉しそうにする炭治郎を、汐は怪訝な顔で見つめた。
「違う、違うんだ。汐が、いつもの汐が戻って来たんだって思ったら、嬉しくて・・・」
炭治郎はそう言って顔を上げた。そして汐の顔を見て、顔をほころばせた。
そこには、濁ったガラス玉のような目ではなく、どこまでも澄み切った海の底のような目があった。
今まで見たことのない程、美しかった。
「おかえり、汐」
そんな汐を見て、炭治郎の口からは自然と言葉が漏れた。汐は一瞬驚いた顔をしたものの、はにかみながら答えた。
「ただいま、炭治郎」
そしてそのまま、汐は炭治郎を見つめ、炭治郎もまた汐を見つめた。
目に入るのは、互いを映した透き通った瞳だけ。
それからそっと、ごく自然に顔を近づけた、その時だった。
「カァ!カァ!!」
外から鴉の鳴き声が聞こえ、二人は慌てて離れた。互いにそらした顔は、耳まで真っ赤になっていた。
「あ、そ、そうだ。俺、ご飯を作るよ。汐は昨日から何も食べてないだろう?」
「それはあんたも一緒でしょ?あたしも手伝うわ」
「いいよ。汐は休んでてくれ。俺が作るから。あとそれと、お風呂も沸かしておくよ」
炭治郎はそう言って足早に部屋を後にした。呆然としていた汐だが、ある事を思い出して顔を引き攣らせた。
「部屋、片付けないと・・・」
その後、炭治郎と一緒に部屋の掃除をすることになるのは言うまでもなかった。