壱
炭治郎の働きぶりは、店の中でもかなりの評判になっていた。元々彼が家事全般が得意だったのもあり、その容量の良さと人柄の良さが幸いしての事だった。
今日も彼は、大量の洗濯物を畳み、荷物を運び、掃除もてきぱきとこなす。
そんな中、どこからか透き通るような歌声が聴こえてきて、炭治郎は思わず足を止めた。否、足を止めたのは炭治郎だけではなかった。
その歌声に店の者の殆どが思わず足を止める程、汐の奏でる歌声は評判になっていた。
しかも、彼女は善逸程ではないが耳がよいため、二回ほど聞けば三味線ならほぼ完ぺきに弾くことができた。(ただ、琴はあまり得意ではなかったのか、指導が何度か入っていたが)
思わぬ二人の出現に、楼主と女将はほくほく顔になるのだった。
「ふう・・・。まさか遊女の稽古があんなにきついなんて。精神力がなかったら、間違いなく心が折れてるわね」
(だけどこんなところでくじけている場合じゃない。炭治郎だって仕事をこなしながら頑張っているんだもの。あいつの努力を無駄にしないためにも、何とか有力な情報を手に入れないと)
みっちりと稽古をこなし、休息時間をもらった間。汐はこっそりと店の中を回り情報を集めようとした。
先輩たちの噂話や、仲良くなった禿たちから何とか須磨の情報を聞き出そうと試みた。
「須磨花魁は、やっぱり足抜けしたのかな。もうずっと姿を見てないし」
「でも、あの人はとっても優しい人だったよ。足抜けなんてするかなぁ・・・」
だが、あまり込み入った情報は入ってこず、これ以上の情報を得るにはもっと上の人間。同じ花魁の話を聞くしか方法がないように思えた。
(かといって鯉夏花魁にはもう二人の禿がいる。花魁につくのは二人って決まっているから、あたしが禿になるのは不可能だし・・・)
そんなことを考えていると、忙しそうに走り回る一人の店の者が、汐を見るなり慌てた様子で走り寄ってきた。
「ああ、忙しい!そこのあんた!悪いんだけれど、これを鯉夏花魁の部屋まで届けてくれないかい?」
「え。あたしが?」
「あんた意外に誰がいるんだい!こっちは忙しいんだ。早くしておくれ!」
汐に強引に荷物を押し付けると、彼女はあわただしくその場を去り、汐は荷物を抱えたまま立ち尽くしていた。
(どれだけ人手不足なのよ、この店)
汐は呆れつつも、思わぬ形で舞い込んできた好機を逃がすまいとすぐさま鯉夏の部屋に足を進めた。
「失礼しまぁす」
汐が襖の向こうに声をかけると、少し間を開けて襖が開き中へと通された。
中には既に二人の禿がおり、既にある荷物の整理をしていた。
「これ、鯉夏花魁の部屋に届けてくれって言われたの。それで、鯉夏花魁は何処に・・・」
「私に何か御用?」
汐がそこまで言いかけた時、奥の襖がそっと開いて鯉夏がゆっくりと顔を出した。
あの時見た美貌が不意に目の前に現れて、汐は思わず面食らう。
「嗚呼、届けてくれたのね。ありがとう。あら、あなたは確か、入ったばかりの汐子ちゃんだったかしら」
「あ、はい。でも何で知って・・・」
「店中の噂になっていたもの。私も一度あなたに会ってみたいと思っていたのよ」
そう言ってほほ笑む鯉夏に、汐の頬に熱が籠った。だが、汐は彼女の眼に微かな悲しみが宿っているのを見て、少しだけ胸が痛んだ。
「私の顔に何かついてる?」
「あ、い、いえ。物騒な噂話が絶えないから、大丈夫かなって思って」
汐がしどろもどろにになりながら答えると、鯉夏は少しだけ視線を落としながらぽつりと漏らすように言った。
「そうね。最近怖いことが多いからみんな怖がっているの。いなくなってしまった人もいるのは本当だし、そういう人たちはちゃんと逃げきれていればいいんだけれどね。須磨ちゃんも・・・」
「やっぱり須磨花魁がいなくなったっていうのは本当、なんですね」
汐がそう言うと、鯉夏は「あなたも須磨ちゃんを捜しているの?」と疑惑の目を向けた。
「あなたもって・・・?」
「さっき炭ちゃんも須磨ちゃんのことを聞きに来たのよ。須磨ちゃんは炭ちゃんのお姉さんだったみたいで、足抜けなんてする人じゃないって。でもどうして?」
その話を聞いて、汐は炭治郎の仕事の速さに驚きつつも、さらに踏み込もうと拳を握りながら話し始めた。
「実はあたしの父親はとんでもない女好きであちこちに女作ってたらしくて、母親が死んだあとあたしは養子に出されたんです。その時もしかしたらあたしには母親違いの姉がいるかもしれないって教えられて。もしかしたら炭子も、あたしの妹かもしれないから、それで・・・」
我ながら苦しい嘘かもしれないと思っていたが、全部嘘ではなく時折真実も混ぜながら話した。すると鯉夏は同情を宿した眼で汐を見つめた。
「まあそうだったの。大変だったわね」
鯉夏はそう言って汐の頭を優しくなでた。その手の温かさと優しさに、汐の胸が締め付けられるように苦しくなった。
「須磨ちゃんはとても素直な子だから、足抜けなんてする子じゃないはずなの。でも、日記が見つかって足抜けするって書いてあったらしくてね。今でも信じられない気持ちでいっぱいなのよ」
(なるほど。足抜けしたって思わせれば、突然いなくなってもいろいろとごまかせる。日記なんてよく調べない限りいくらだって捏造できる。しかも今は人手不足で他人なんて構ってられない状況。腹が立つくらい、鬼側にとって絶好の状況だわ・・・)
汐はぎりりと奥歯をかみしめ、拳を握った。脳裏に平静を装っているが不甲斐なさと苛立ちの眼をした宇髄の姿が蘇る。
そんな表情の汐を見て、鯉夏は優しい声色でつづけた。
「『ここは女にとっては辛くて苦しい場所だけれど、生きていれば明日は必ず来る。明けない夜なんてない。前が見えなくて怖いかもしれないけれど、足を止めてはいけない。最後の最後まで顔を上げて胸を張る』」
「え?」
「ずっとずっと昔、ここに来ていたお客様が、みんなに言っていた言葉らしいの。派手な出で立ちで仲間の人から怒られたりもしていたらしいけれど、とても優しくて誇り高い人だったらしいわ。たくさんの人がここから出られる手助けをしてくれた素晴らしい人だって。その人は海旦那って呼ばれていて、今でも伝説になっているそうよ」
その話を聞いた瞬間、汐の唇が小刻みに震え、その目からは涙がぽろりと零れ落ちた。それを見た鯉夏は慌てて布を取り出し、汐の涙をふいた。
「どうしたの汐子ちゃん。大丈夫?」
「大丈夫。ごめ、ごめんなさい。何だかその人、あたしを育ててくれた人にちょっとだけ似てて・・・。その人もあたしに何があっても絶対にあきらめるなって言ってくれたんです」
汐は涙を乱暴にぬぐうと、凛とした顔で鯉夏を見つめた。
「あたし諦めない。本当に須磨花魁があたしの姉ちゃんか、必ず確かめる。ついでに炭子も。だから鯉夏花魁も諦めないでね」
汐のその言葉に鯉夏は微かに目を見開いたが、優しい顔つきで頷いた。
「じゃああたし戻ります。稽古の続きをしなくちゃ」
「嗚呼ちょっと待って」
立ち去ろうとする汐の手に、鯉夏は小さな飴玉をこっそりと握らせた。
「これは話をしてくれたお礼。みんながいないときにこっそり食べるのよ」
「あ、ありがとう」
「それと、また会いに来てくれる?何故だかわからないけれど、あなたと話しているととても不思議な感じがするの。なんというか、あなたの話をもっともっと聞きたいと思ってしまうから」
駄目かしら?と小首をかしげる鯉夏に、汐はぶんぶんと首を横に振った。
「あたしでよければいつでも」
そう言って汐は飛び切りの笑顔を鯉夏に向け、鯉夏もまたつられるように笑顔になるのだった。
鯉夏の部屋を出て、汐は稽古の為に廊下を足早に駆けて行った。
(足抜け、偽造された日記。須磨さんはほぼ間違いなく鬼の手に落ちたと考えていいわね。鬼に感づかれたのか、それとも獲物として狙われたかは定かじゃないけれど、どっちにしてもここに鬼の手が伸びてることは間違いない)
だけど、と汐は考えを巡らせながら生まれた疑問を考え始めた。
(鬼は昼間は活動できないから、日の光が当たらないどこかに潜伏している。現に鬼の気配は本当に微かだけれどするし、鬼がいるのは間違いない。だけど、どうやって出入りしているのかがわからない。もしも外で動きがあれば、派手男から何らかの合図があるはず。だけどそれがないってことは・・・店の中に鬼がいる可能性が――)
汐は考えながら足を進めていたが、ある角を曲がった瞬間。
「!?」
身体に張り付くような奇妙な気配を感じ、汐は思わず振り返った。しかしそこには誰も折らず、廊下だけが伸びている。
(何?今の変な感じ。鬼の気配に近かったけれど、一瞬でわからなかった。伊之助だったらもっと敏感に探知できるだろうし、炭治郎や善逸も匂いや音で察知できるでしょうね)
汐は皆のような索敵能力がないことに歯がゆさを感じたが、すぐさま頸を振ってその想いを払う。
(そんなことを言っている場合じゃないわね。あたしにはできることをしないと。あたしがへまをしたら、店の連中だけじゃなく炭治郎達も危なくなる。正直なところ状況は最悪だけど、信じなきゃ。必ず助けるわ、須磨さん・・・!だかああんたも、諦めるんじゃないわよ)
汐は両手で頬を打ち鳴らし、気合を入れると稽古場へ足早に向かった。この後、女将にどやされることになるとは知らずに――
店に潜入したはじめての夜。汐は他の遊女の手伝いをしながら、鬼の気配を捜した。
夜は鬼が動く時間。もしも何かあれば即座に対応できるよう、神経を研ぎ澄ませて。
しかしその日は特に何も起こらず、めかしつけた汐の美貌に惹かれた客がまとわりつき、それを汐が秘密裏に処理したのは誰にも知られなかった。
(ふぅ、今日はいろいろと怒りすぎて疲れたわ・・・)
雑魚寝部屋へ戻った汐は、皆がそれぞれ寝息を立てている中一人考えていた。
(昼間鯉夏さんが言っていた海旦那って、たぶんおやっさんの事よね。伝説になる程なんて、どれだけ通ってたのよ、あの爺)
けれど玄海が来たことで借金が減り、町を出やすくなった者達がいることは紛れもないことで、当時の彼女たちにとっては地獄から救ってくれる仏のような存在だったのだろう。
そして彼の言葉は今も尚、ここに残り遊女たちに希望を与えている。
(明けない夜はない、か。おやっさんらしいというかそうじゃないというか。でも確かに、どんな夜でも必ず朝は来る。だからあたしも、ここにいる連中も、明日を迎えさせるためには須磨さんたちを見つけて鬼を何とかしないと・・・)
汐は首を動かし、どこかで眠っているであろう炭治郎を想いながら目を閉じた。
(炭治郎、あたし頑張るから。あんたもシャキッとしなさいよ。それと、少しでも鼻の下伸ばしたら・・・蹴りつぶす・・・からね・・・・)
そんな物騒なことを考えつつ、汐の意識は闇の中に沈んでいくのだった。
しかし、この時二人は知らなかった。
伊之助が未遂とはいえ鬼と遭遇し、善逸の身に危険が迫っていることに――
汐はどちらに値すると思いますか?
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漆黒の意思
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黄金の精神