叱られ義勇
かつて、鬼が居た。
人を殺し、食らう鬼が居た。
彼らは多くの時を人を食らう事で生き永らえ……長きにわたり人を苦しめた。
そしてその鬼の中でも一際人に仇なす鬼が居た。
鬼舞辻無惨。
何百年と生きながらえ、人を食らい、また人を鬼に変えていった……正真正銘の鬼。
鬼舞辻無惨は思考をするよりも早く人を殺し、食らった。
彼のせいで多くの人が殺され……また鬼へと変貌させられた。
しかしその鬼は討伐された。鬼を討ったのは一人の侍だった。
その侍は……黒死牟と呼ばれる鬼舞辻無惨の一番の腹心により、この国一番の侍として育てられた。
鬼舞辻無惨に最も近しい配下である黒死牟が何故、自身の君主に弓を引くような真似をしたのか。
そして、如何にしてその侍は鬼舞辻無惨を討ち果たしたのか。
──それがこれより語られる……侍の物語である。
◇
「それでェ? てめェのカス以下の要望はそれだけか?」
「無論。俺が最後に柱として望むものは……上弦の壱、黒死牟の名誉回復。それ唯一つのみ」
「──だからそれがクソだッて言ッてんだよォ! 分からねェ奴だなァ!」
「……」
半年に一回行われる柱合会議という物が有る。
鬼殺隊の中核をなす九名の幹部たち。その者たちの名を……『柱』という。
他の鬼殺隊員は恐ろしい速度で鬼に殺されていったが彼らは違う。文字通り、鬼殺隊を支えていた柱であった者たちである。
その彼らが一堂に会し、情報を共有しつつ今後の鬼殺隊についてを話し合う会議。それが柱合会議である。
しかし今回は緊急に行われる柱合会議であった。
──そう緊急事態である。
鬼殺隊とは読んで字のごとく、鬼を殺す者たちの事。そんな彼らが殺すべき相手である鬼が……絶滅したのだ。
鬼殺隊はその存在意義を失ったのである。
鬼の消滅に立ち会ったのは、水柱・冨岡義勇。
鬼舞辻無惨の最後を見届けた男だ。
彼は即座に鬼殺隊を運営する産屋敷耀哉の元まで走り、それらの情報を伝え……鬼の全滅を報告した。
故にこその緊急柱合会議。
それは、鬼殺隊解体による今後の立ち回りを決める物であった。
その、会議にて。
「てめェ……お館様が態々俺らの願いを可能な限り叶えてくれるってのによォ……何故! その願いが! 鬼の! それもよりにもよって上弦の壱の名誉回復なんだァ!? 俺らを馬鹿にするのもいい加減にしやがれェッ!!」
風柱を務めていた不死川実弥の怒号が鳴り響いていた。
いや、それだけではない。
「冨岡……貴様……自分の言っている事の意味を理解しているのか? だとすればあまりにも哀れだ……鬼が滅された事で頭が変になったのか? ああ……哀れだ。早く腹を切って自害した方がいい……お前は鬼に囚われている……」
じゃりじゃりと数珠をこするように合掌している大男。
岩柱を務めていた悲鳴嶼行冥という男である。
彼は本気で憐れんでいた。
水柱、冨岡義勇の事を。
「俺は鬼に囚われていない」
「信用しない信用しない。そもそもお前は大嫌いだった。何時も黙ってばかりの癖に人を食った様な事は言う。そして今度は人食い鬼を擁護する。理解できない気味が悪い気色が悪い早く世のため人のため腹を切った方がいい」
冨岡義勇は抗議するかのように声を上げるが、それに被せるようにめったくそに非難された。
冨岡を非難した男は蛇柱を務めていた伊黒小芭内。
蛇柱の名に恥じぬネチネチとした言い回しが目立つ男である。
「あの、冨岡くん? 流石に言葉が足りないと思うんだけど……」
「姉さん……これは言葉が足りないとかそういう段階の話ではないのでは?」
「う、うーん……そうなのかなぁ……」
ちょっと傷ついたように顔を下に向けている冨岡に向かって声を掛けたのは、花柱を務めていた胡蝶カナエ。
そしてその姉に言葉を投げかけたのは胡蝶カナエの妹であり、蟲柱を務めていた胡蝶しのぶである。
冨岡はその両名の方を向くと、口を開く。
「言葉は足りている。これこそ俺の願いの全てだ」
「……」
「……」
助け舟を出しても凄い勢いで拒否される。
何故そこだけはそんなに頑ななの……? と思ったのは胡蝶カナエであった。
「冨岡! 流石にもうちょっと説明をしてくれ! 俺は君を嫌いたくない!」
「……」
「というか、さっきから地味に話がぐるぐると回ってるぞアホ。お前が鬼に囚われていないこと、その願いに至った理由。一から十とまではいかないがせめて一から五くらいまでは地味だろうと説明しろや」
「……」
あまりにあんまりな冨岡の姿を憐れんでか、炎柱を務めていた煉獄杏寿郎と、音柱を務めていた宇随天元もまた助け船を出した。
流石の冨岡も思う所が有ったのか、数瞬考えた後に口を開く。
「俺は今まで……鬼を滅してきた。それが鬼に囚われていない事の証明だ」
「……」
「……」
「……?」
話はこれで終わりだな、という顔で煉獄と宇随の両名に目を向けた冨岡であったが、どうも二人の反応が芳しくない。
そこで冨岡は、自分の説明が足りていないことに気付いた。
「そして俺は……約束したのだ。あの侍に。それが先の願いに至った理由だ」
「……」
「……」
今度こそ話は終わりだな。そんな風にちょっぴり得意げな顔をしている冨岡義勇を見て、皆黙ってしまった。
何故なら、彼の説明は何一つ説明できていないどころか、勘違いを助長させただけだったのだから。
鬼殺隊の情報網は非常に優れている。一度情報を送れば凄まじい速度で共有される。
上弦という鬼の最上位に位置する鬼たちの情報も……ほとんど存在していなかったが、実はある鬼だけは明確な目撃情報があった。
およそ八年ほど前に、上弦の鬼に刀を奪われた隠が居た。
隊員の刀を奪ったのは上弦の壱、黒死牟。
まさに今、冨岡が名誉回復したいと言っている鬼である。
……そして上弦の壱と会敵して生還できた隊員の情報によると……なんでも、黒死牟という鬼は一昔前の侍のような姿をしているとか。
「……」
「……」
一から五どころではなく、三と八だけを説明しているかのような話の飛びよう。そして致命的な言葉選び。
悲しい事に……柱たちへ冨岡はもう一人の侍の事を報告していなかった。
何故そのような事になっているのか。
鬼殺隊の優れた情報伝達能力よりも早く緊急柱合会議が開かれた、冨岡が柱の皆ならお館様経由で当然知ってるだろうと勝手に思い込んでいた、等々理由は少なからずあるが……それらの組み合わせは最悪であったし、冨岡の説明も不足していた。
鬼殺隊の柱の皆さんは、完全に沈黙してしまった。
「……姉さん。この人全然駄目だわ。言われてもちゃんと説明できない。というかこれで説明終わったんじゃないの?」
「ま、まぁまぁ……そんな事言わずに……」
完全に孤立した冨岡を擁護する声が聞こえてきたが、それも尻つぼみに消えていく。
──今まで、冨岡義勇という男は嫌われ者だった。
普段は不気味なほどに口を利かないというのに、ひとたび喋れば人の癪に障る様な事やズレた事を言いだす始末。
だから嫌われていた。しかし鬼殺隊解体を控えた今日、一人を除いてその評価は変わった。
ああ、この人は駄目なんだな、と。
しかしそんな冨岡を見ても何ら評価を変えなかった猛者もまた存在していた。
(よく分からないことを言う冨岡さん……素敵!)
彼女は恋柱を務めていた甘露寺蜜璃。素敵な殿方を見つけるために危険が多い鬼殺隊に入り、柱にまで上り詰めた強かすぎる女性である。
──彼らこそが鬼殺隊を支える……いや、支えていた柱たちだ。
◇
鬼が居なくなり鬼殺隊の存在理由が無くなった今、鬼殺隊を運営してきた産屋敷耀哉は、今まで命がけで戦ってくれた隊員たちに恩給を出すことにした。
そしてそれは当然、多くの鬼と戦った柱たちにも。
産屋敷耀哉は、柱たちに叶えられる範囲であればどんな願いでも叶えると言った。
その言葉が伝えられたのは、耀哉の妻であるあまねからであったが。
そう。現在の柱合会議に産屋敷耀哉は出席していない。
何故か。
それは彼の体調に大きな変化が現れたからである。
産屋敷。彼らはその昔、鬼舞辻無惨を一族から生み出した家である。
そして鬼舞辻無惨という鬼を輩出して以降、彼らの家から生まれる男児はみな、若くして死んでいった。
無論産屋敷家の人間は早死にの理由を探り、その理由が鬼舞辻無惨にある事を突き止めた。
以降、彼らは鬼舞辻無惨という一族の汚点を拭い去るべく、鬼殺隊の運営に奔走する事となった。
そして、鬼舞辻無惨の討伐はなされた。そして鬼舞辻無惨が討たれた直後より、現当主であった産屋敷耀哉の体は快調の兆しを見せ始めた。まさしく異常事態である。
だが産屋敷耀哉は冨岡義勇から無惨討伐は聞いている。
無惨討伐により彼の一族にかけられていた呪いが解かれたのだろう。
とは言っても実際にすぐに体が回復する訳でもない。今は医者にかかっていて安静にしている。
その間の代理として、産屋敷あまねは緊急柱合会議に出席していたのだが……。
「……」
産屋敷あまねは困惑していた。これは、口をはさんでいいものかと。
しかし彼女の言葉は産屋敷耀哉の言葉。如何に柱たちが耀哉の事を尊敬し、認めてくれているとしても……流石に鬼を全面的に擁護するような事は言えない。
いや、この場に居る誰もが鬼の擁護などしていないのだが……そうとしか取れない発言ばかり冨岡がするものだから、ここであまねが助け船を出すことも出来ない状況になってしまった。
何せ彼女の言葉はお館様の言葉。夫の格を落とすような真似は彼女に出来なかった。
「……皆さま。本日は少し……具合がよろしくないようですので、また三日後の解隊式の際に願いをお伺いしたします」
故に彼女に出来たのは、ヒートアップしてしまった会議を一旦終わりにする事だった。
しかしその効果は絶大で、彼女が言葉を発した瞬間柱に皆々が姿勢を正し、産屋敷あまねの方を向く。
「……ご迷惑をお掛けいたします」
そして、悲鳴嶼行冥が代表するように謝罪の言葉を述べて、この会議は終了となった。
あまねは、夫に緊急柱合会議の惨状をいち早く伝えるべく、この場を一目散に退室した。
◇
「あまね殿も退室されたので失礼する」
「おい待てェ失礼するんじゃねぇ。てめェみたいな危険思想を抱く奴を自由にさせるとでも思ったかァ?」
俺が退出しようとすると、それを塞ぐように不死川が立ちふさがってきた。
……なんだ?
「……」
「まただんまりかァ? 毎度毎度人をイラつかせるのが上手い奴だなァてめェはよぉ」
「それほどでもない」
「ああんッ!?」
心外な事を言われたので言い返してみると、不死川が思いのほか憤った様子で俺の襟元を掴みかかってきた。
「てめぇ……分かってやっているのかァそれはよぉぉ……!」
「無論。手を離せ不死川」
「……」
不死川が今にも怒鳴りそうな表情で口をパクパクとさせ始めた。
……何か、俺に言いたい事が有るのだろうか。
「何か言いたい事が有るのならはっきりと言え」
「それはこっちの台詞だ馬鹿垂れがァァァァ!!!」
不死川は襟元を掴んだまま、俺を一本背負いの様に放り投げた。
あまりにいきなりな暴力。
「……」
しかし皆、不死川の暴走に何も言わない。
なんで……?
俺への当たりが強い気がする。柱合会議が始まってからずっとこうだ。
……いや、不死川や伊黒あたりとはずっとこうだった。何時も俺への当たりがキツかった。
そんな事を考えつつ、地面に衝突する直前に完璧な形で受け身を取り、そのまま不死川から距離を取った。
「やめろ不死川! 隊員同士での争いはご法度だ!」
「だから! てめぇに言われたくねえっつーの!!!」
不死川は何を言っているんだ……? 俺は不死川と争った事は無い。
「俺とお前とでは戦闘にすらならない」
「は?」
また言い返して見ても、不死川の青筋が増えるだけ。
何故だ。
「冨岡……いい加減にしろ。我々だけで無くあまね殿にもご迷惑をお掛けするなど……」
「……」
俺と不死川が睨み合っていると、悲鳴嶼さんがじゃりじゃりと数珠を鳴らしながら詰問してくる。
それは俺にとっても申し訳が無いところでもあった。故に言葉に詰まる。
「……お前を拘束する」
「……?」
しかし、悲鳴嶼さんの言っていることはよくわからなかった。
拘束……? 俺を……? 口を開こうとした瞬間、腕を掴まれた。
「いい加減大人しくしろ冨岡」
伊黒だった。まさかまた俺に何か言いがかりをするつもりか?
そう思ったが違った。俺が逃げないようにするためか、俺の周りを柱の皆々が囲い始めたのだ。
「冨岡くん? その、少しだけ大人しくしててね?」
「姉さん。この人にそんな気遣い要らないと思うわ」
「ま、少しおとなしくしてんだな」
「うむ!」
「……」
皆、乗り気で俺を囲んだかと思うと、悲鳴嶼さんの鎖で俺の両手と両足を縛り付けた。
皆手際が良かった。
「……拍子抜けするほどおとなしくなったな……」
「ね、ねぇ皆? 流石に縛るのはやり過ぎじゃ……」
「胡蝶……お前は少々甘すぎる……如何なる理由が有ろうと上弦の鬼は人食い鬼……それを擁護するなど言語道断。そのような異常思想を持った実力者を野放しには出来ないだろう……」
「……」
上弦の鬼を擁護。確かにそう捉えられても仕方が無いが、しかしそれがこの国一番の侍の最後の願い。
何が何でも通さねばならない。
「ですが……もう少しだけ本人の話を聞いてあげませんか? 私、今まで冨岡くんが上弦の鬼をどうこうしている、という話を聞いたことが無いんです。それがいきなりこの状態ですから……」
「……ふむ」
悲鳴嶼さんが思案するようにじゃりじゃりと数珠を鳴らす。
「……もうそいつの話なんて聞かなくても良いだろうがよォ……こいつの処分は切腹で決まりだァ……」
「ああ決まりだすぐにやろう。鬼殺隊の最後の仕事が隊員の不始末の尻拭いというのは情けないが仕方ない」
「ちょ、ちょっと不死川くん!? 伊黒くんも!」
やけに切腹を迫って来る不死川と伊黒の両名から俺を庇う様に声を上げる胡蝶。
「何でそう結論を急いじゃうの!? 私悲しいわ!」
「ちッ……じゃあ胡蝶さんよォ……処分が決まるまでの間、コイツの身柄はしっかりとあんたン所で預かってくれんのかァ?」
「……ん?」
「そうだぞ胡蝶。文句が有るのならばせめて対案は出せ」
「……分かりました。彼は私の家で──」
「ちょっと待って! 姉さん!」
何か話が纏まりかけた所で、胡蝶妹の方が大声で抗議しだした。
胡蝶は随分と俺の事を気にかけてくれる良い奴だ。けれど妹の方はどうも俺の事が嫌いらしい。
「確認なんだけどね? 姉さんの家で預かるって事は……私の家にコレを入れるって事……?」
「コレだ何て言い方酷いわ! 冨岡くんって呼ばないと可哀想よ!」
それは暗に俺の事を受け入れるという返事でもあった。
それを理解したのか、胡蝶妹は絶望した表情で崩れ落ちた。
「……」
そこまで……嫌いなのか……。
俺の心が傷ついた所で、この騒動はお開きとなった。
◇
「……」
俺は今、月明かりが差し込む道場の真ん中に、鎖に繋がれた状態で放置されていた。
考え事をするのには丁度いい時間だった。だからこそ、思い返されるのは今日の柱合会議での事だ。
案の定、皆反対の意を示した。唯一優しく接してくれた胡蝶でさえ、説明をしてくれの一点張り。
「……」
もう駄目なのかもしれない。俺が出来る限りの説明は尽くしたつもりだ。だと言うのにこの体たらく。
不甲斐ない。
結局、あの侍との約束は守れそうにない。
「……」
俺にはこれ以上、彼らを説得できる気がしない。
鬼舞辻無惨を討伐してくれたあの侍に報いる事が出来ない申し訳なさ、そして何より自身の不甲斐なさに目頭が熱くなる。
「……」
やはり俺は……柱になるべき人間では無かった。
きっと錆兎なら……もっと上手く皆に説明出来ていた筈だ。
俺はあの時死ぬべきだった。
そう、鬼殺隊の隊士となる最終選別のあの時……。
自身の心に渦巻く感情のまま、俺は身体に巻き付いていた鎖を外す。
「……」
日輪刀は取り上げられてしまったので何か変わりを探さねばならない。
……しかし胡蝶の屋敷に来たのは初めてなので勝手が分からない。厠の場所すら教えてもらえなかった。
だが確か、世話をしてくれるという少女が居た筈。気配からして扉の外か。
「……少し良いか?」
「え?」
扉を開けると、すぐ横に髪を三つ編みにした少女が居た。
「台所に連れていって欲しいのだが……」
「え……あ! 良いですよ!」
少女は一瞬不思議そうな顔を浮かべていたが、すぐに気を取り直した。
「何か作るんですか? お腹が空いたんですか?」
「……違う。腹を空かせるのに必要なのだ」
「へぇー……?」
またもや不思議そうな顔を浮かべた少女であったが、結局そのまま台所まで俺を案内してくれた。
「包丁は有るか?」
「ありますよ!」
はいっ、とどこからか取り出した包丁を俺に見せてくる。
俺がそれを借りても良いか聞くと、彼女は快く頷いてくれた。
「……部屋に戻る」
「? 包丁は使わないんですか?」
「部屋で使う」
「……?」
彼女はまたしても不思議そうに首を傾げているが、特に説明は求められなかったので大丈夫と言う事だろう。
そうしている内に部屋に着いた。
「……少し良いか?」
「はい? 何でしょうか」
「少しの時間で良いから……部屋で一人にしてくれないか?」
「良いですけど……何でですか?」
「切腹する」
「へぇ……」
「……」
「……」
「この手紙は遺書だ。どうかお館様に渡してほしい」
「……」
「では」
柱の皆を説得できなかった時の……最悪の場合のために新たに書き直しておいた遺書。
それを惚けた顔をしている少女に渡すと、俺は道場へと入っていった。
「……」
以前不死川がお館様に暴言を吐いた際、何故か皆の遺書が似通っているとお館様は仰った。
きっと、今の俺の遺書も同じだ。
この国一番の侍……彼……いや彼女……の願いが叶う事。そして上弦の壱、黒死牟の名誉が回復される事。
そんな未来を願っている。鬼殺隊として、それが輝かしいものとは決して言えないが、それでも恩義ある彼たっての願いなのだ。
絶対に叶えなければならない。
「……」
まるで役に立たない俺が最後に出来る事。それはお館様への直訴だ。
一応、名目上の柱として、力及ばずであるが力の限り……結果が伴ったかはともかくとして……それなりに尽くしてきた俺の最後の願いだ。お館様だってきっと許してくれる。
俺は道場の中央に座り、腹の部分の服を開ける。
「……」
錆兎……姉さん……今そっちに……。
「……何やってるんですか? 冨岡さん」
「……」
「聞いてますか?」
俺はちらりと声の方向……胡蝶妹の方を見る。
何故……? まさか見届けに来てくれたのだろうか。介錯をしてくれようと言うのか……?
「……」
しかしいらぬ気遣いだ。
俺はそのまま、手に持つ包丁を腹へと突き立てようとした。
しかし。
「無視しないでくれます?」
何故か俺の手を胡蝶妹に掴まれてしまった。
何故……?
「……邪魔をするな……胡蝶妹」
「胡蝶妹……? もしかして今までそう呼んでたんですか? 気持ち悪い呼び方で呼ばないでくれます?」
ではどう呼べと言うのだろう。胡蝶妹は胡蝶の妹だろうに。
「……」
「……」
俺が手に力を入れようとすると、胡蝶……妹もまた力を入れて妨害してくる。昼間はあれだけ切腹に乗り気だったと言うのにどういう事だ……?
しかしどういった理由であれ、俺は切腹せねばならぬ理由が有る!
「離せ……! 俺は腹を切らなければならない……! 危ないから離れていろ……!」
「ぐっ……! こ、この人本気で……!? ぐくっ……ふんっ……ぐううっ……!!」
切腹したい俺。何故か阻止しようとする胡蝶の妹。
柱同士での訓練以外での戦いが、ここに始まろうとしていた。
渾身の力を籠めて胡蝶の妹を振り払う。
しかし胡蝶の妹は呼吸を使い、更に両腕を使って俺の切腹を止めにかかってきた。
膠着状態が続く事数分。
いつしか互いに本気になっていった。
「オオオオオオオオ!!!」
「ああああああああ!!!」
絶対に負けない。俺の腹を割るまでは!!
互いに唸り声を上げての攻防。
しかし徐々に……徐々にでは有るが俺の方が押してきている。
「くっ……! だ、誰かー! 人をっ、人を呼んで―!!」
「ヒュゥゥゥゥ……!」
「こ、呼吸まで……! だ、誰かー!! 姉さーん!!」
◇
「冨岡くん。これはどういう事なのかな?」
「……切腹しようとした。それだけだ」
「どう見てもそれだけには思えないんだけどなぁ……」
場所は道場。
その中央で冨岡は、鎖で完全に身動きが取れないよう巻きつけられ、その上吊るされていた。
「姉さん……この人……駄目だわ……」
「……うん。何だかよく分からないけど、頑張ったねしのぶ」
もう、本当に息も絶え絶えといった風にしているのは胡蝶しのぶ。そしてその横には得意げにポージングをしているムキムキとしたねずみが居た。
彼女は制したのだ。冨岡とのギリギリの勝負を。
勝因は御覧の通りムキムキねずみ。
彼らは宇随天元の使いであり"忍獣"。一応付けとくか、という理由で宇随から派遣されていたネズミたちである。
名前の通りムキムキなので、柱たちの戦いの中冨岡の横っ腹をくすぐる位は訳無いのである。
ムキムキねずみたちの妨害により一瞬気を抜いた冨岡は、その隙を突かれて包丁を取り上げられてしまう。すぐに包丁を取り戻そうとしたが、しのぶの全力の妨害、唐突に現れたムキムキねずみの面妖さに気を取られ、気付けば縛り上げられ吊るされていた。
「……それでね? 冨岡くん。何で切腹しようとしたのかな」
「それは……あの侍に報いるためだ。俺は彼の……彼女との約束を守れそうにないから」
どこか悲しい目をしてそう呟く冨岡であったが、胡蝶はその言葉に少し違和感を覚えた。
「……冨岡くんって、いつの間に上弦の壱と出会ったの?」
「上弦の壱? 何を言っている胡蝶」
「? でも、約束をしたんでしょう?」
「いや、上弦の壱とは特に何も無いが……」
「?」
「?」
両者互いに首を傾げる。
「あの……冨岡くんが約束をした侍って……」
「何を言っているんだ? 『この国一番の侍』だ。お館様から捜索の命が出ていたのだから、知らぬはずが無いだろう」
「……」
「……」
「……え?」
きょとんとした胡蝶の呟きが響く。
その瞬間、場を制したのは完璧なる静寂だった。
「……もしかして、知らなかったのか?」
「え……っと。その侍の事は知ってたけど……でも、冨岡くんが最後に会ったって……」
「そうだ。『この国一番の侍』。彼が鬼舞辻無惨を滅した」
「……それは……知らなかったかなぁ」
そう。胡蝶は今の今までそんな事知らなかった。どうやって鬼舞辻無惨が滅されたのかという重要な部分は、何故か冨岡が報告しなかったから。
そんなあやふやな情報でも柱の皆が信じたのは、お館様が冨岡の言葉を信じたから。
一応胡蝶自身は冨岡の言葉も信じてはいたが……まさかまだ語っていない事があったとは思いもしなかっただろう。
まさしく寝耳に水。裏切られた気分だっただろう。
「……」
故に。
胡蝶カナエの中で、冨岡の意味不明な発言全てが結びつき、現状の自殺未遂の理由に思い至ったころには。
「……胡蝶?」
「……姉さん?」
それはもう、キレていた。
◇
「冨岡くん。重ね重ね言うけど、私は──」
「聞いてますか? 私の話を。じゃあどうして私がこう思ったのか言ってみてください」
「全然違いますよ? 冨岡くん、それ本気で言ってるんですか?」
「何黙ってるんですか? もしかして黙ってたら話が終わるとか思ってませんか? 冨岡くんってそういう所あるけど、それって全然よく無いですよ」
説教に次ぐ説教。心にじんわりと響く言葉の数々は、ボディーブローのように冨岡を苦しめていった。
この瞬間冨岡は理解した。何時もは優しい人を怒らせると怖いという事を。
そして何より、キレた胡蝶は非常に怖いという事を。
説教は日の出を迎えるまで続き……その後、胡蝶が改めて柱の皆に事情を説明し、晴れて冨岡は自由の身となった。
そして。
「──水柱、冨岡義勇殿の願いは……上弦の壱、黒死牟の名誉回復、でよろしかったでしょうか」
「──はい」
「了承しました。今後、産屋敷家はその総力を挙げて、黒死牟の名誉回復に努めます」
「──ありがとうございます」
鬼殺隊が正式に解体される式の場において、朗々と声を上げるのは次期当主となるであろう産屋敷耀利哉。
ここに鬼舞辻無惨討伐の功労者、黒死牟の弟子の最期の願いは結ばれようとしていた。
「それにつきまして……一つ、冨岡殿にお願いが有ります」
しかし。
「……うん。これは僕の方から言おうかな。義勇、実は君に協力してほしいんだ」
現当主であり、今もまだ全身に痣が残るが今まで以上に元気そうな産屋敷耀哉が口を開いた。
「……協力、ですか」
「うん。君の願いを聞いてね。叶えるのには何が一番かと思った時……物語として残していくのが一番だと思ったんだ」
「……」
勿論、それ以外の方法が見つかればそれでもいいけれど。そう付け加えつつ、産屋敷は言葉を続ける。
「義勇。君にそれを一任したい。当然、私も全面的に支援するよ」
「……」
「これは、直にあの侍を見た事が有る君が適任だと思うんだ」
冨岡は一瞬、迷った。つい先日、自身の口下手が災いして自殺一歩手前まで行ったのだから。
そんな自分が物語など紡げるのだろうか。はっきり言って自信がなかった。
しかし、元より全てをお館様に任せるつもりは無かった。
何故なら彼の願いを聞いたのも、受けたのも自分なのだから。
「──御意」
そうして、彼は一も二もなく頷いた。