からの呼吸。
先生にそう名付けられた呼吸法の技を、私は一通り作ってみた。
「うむむ……!」
しかし、これに出来栄えに納得がいかない。如何せん月の呼吸という技の完成形を見ている分、それに見劣りするように思えてしまう。
黒死牟先生にも相談してみたが、最初はそれで良いと、それだけ言われてまたどこかに消えてしまわれた。
一体、今の状況の何が良いのだろう。
黒死牟先生。私は貴方の呼吸の仕方から動きの癖、匂いに至るまですべて把握しておりますが、たまに先生の仰ることが分からなくなることがございます。
「……はぁー」
思い通りに事が運ばず、いじけるように寝っ転がる。
自然、視界には空が見えて来る。日食山は日中常に曇っているため、見えて来るのは曇天だ。
「……」
やっぱり、空は綺麗です。
この山の空みたいに、何時もいじけた様にしている時もあれど、そんな空模様もまた、趣深くて、綺麗だ。
「……」
手を伸ばす。視界の先、揺れ動く雲を掴むように、届かぬ空に手を伸ばす。
姉も、何かに手を伸ばしてたのかな。
唐突に思い浮かんだのは、唯一の肉親である、姉だった。
姉は何時も、空を見ていた。綺麗だ綺麗だと、どんな空模様の時も言っていた。
姉は多くを語る人では無かった。でも、姉は私に色んなものをくれた。
でも、姉が何かを与える事は有っても、欲しがることは無かった。
「……姉。姉は、何が欲しかったのかな」
ぺたんと手が落ちる。
そんなことを考えていると、うつらうつらと視界が揺れ動く。
ああ……これは、寝ちゃうやつだ。修行の最中に寝てしまうのは不味いと知りつつも、その心地よい感覚は私を眠りにいざなった。
◇
「……きな…い」
「うーん……」
「お…きなさ…」
「うむむ……」
「起きなさいっ!」
「はうあっ」
ぼごんというとんでもない音と共に衝撃が弟子の頭を襲った。
うう、と声を漏らしながら弟子は目を覚ました。
「もうっ! 日が昇っちゃってるじゃない! 起きるの遅すぎ!」
「……え」
弟子は、言葉を失った。
「なーに辛気臭い顔してんのよ! さっさと顔洗いなさい! アイツが起きるよりも前に仕事終わらせちゃうわよ!」
目の前に立っていたのは、弟子の、姉であった。
「……なに? 本当にどうしたの? ま、まさか風邪ひいてた!?」
「え、ち、ちが……」
「ご、ごめんなさいっ! 風邪ひいてたら辛いわよね、叩き起こしてごめんなさい。姉、多すぎる一生の不覚に又一つしくじりが記録されちゃったわっ」
「だ、大丈夫だって! 本当に……少し、変な夢を見てて……」
「もう! 風邪ひいて弱ってる奴に限ってそう言って来る! あんたは寝てなさい! こういう時にこそ姉に頼るものよ!」
「あ……」
姉は圧倒的な手際の良さでござの上に弟子を寝かせると、風のように去っていってしまった。
これは……。
弟子はどたばたと朝の準備を続ける姉をみて、思った。
もしかして……黒死牟先生に弟子入りしたのは、夢だったのかな。
そう思う弟子の考えも、仕方が無い事だった。
今弟子に起こっている事は、人生の殆どを過ごしてきた景色そのものだった。あちらでの事が夢で、こちらでの事が本当のように思えるほどに。
「姉……」
弟子はただ、姉が食事の準備を終えるのを待つのみだった。
◇
完全に日が昇ったころ。弟子と姉の育ての親である男が仕事に出かけてから暫くして、彼等の食事が始まる。
「くぅ~、我ながら最高に上手い味噌汁ね。あんたもそう思わない?」
「うん……でも、猪の方が美味しいよ」
「は?」
言うが早いか、姉は弟子に飛び掛かり、その口に味噌汁をぶち込んだ。
「あっつう!」
「猪ィ? 馬鹿馬鹿お馬鹿! 姉の味噌汁に勝るものなし!」
「あ、熱いよぉ!」
がやがやとしゃべくりながら、姉と弟子は食事を続けている。
これが彼らの朝の始まり。
そして、食事が終わると更なる仕事が始まる。
「見てこれ! 桶! ぶっ壊れたわ!」
「姉!? また!?」
「姉の力に桶の方が耐えられなかったのよ……ほら、私姉だから……」
「それ直すの誰だと思って!」
「あんたに決まってるじゃない。何でも出来る姉に唯一出来ないことは創り出す事よ……」
洗濯だ。
しかし洗濯物を洗う時、何故か姉は必ず桶を破壊する。そしてその桶を直すのは弟子のする事であった。
そして弟子が桶を直す間、姉は川に洗濯に行ってしまうため、結局直った桶が使われるのは明日以降となる。
そして明日もまた桶は破壊されるのだ。
だから、弟子にとって洗濯の時間とは、洗濯ではなくなぜか工作の時間になる。
お陰で、弟子は手先が器用になった。
そして、洗濯が終われば次は山へと向かう。
「よし! 生態系を崩す勢いで山菜を採るわよ!」
「そ、そんなにいるかな……」
「育ち盛りが二人も居るんだから必要! 成長には常に犠牲が伴うのよ!」
「そうなんだ……」
食卓に彩りを加えるための山菜採りだ。なにより食費は真っ先に削られるため、このような山菜採りは日課であった。
しばらく、山中を駆け巡り、山菜を採っていく。弟子はそれこそちょっとしか採らないが、姉は遠慮なく根こそぎ採っていく。親代わりの男が食べられない程に。
そして、男が食べられなかった残りは大抵弟子が処理する事となる。
何でいつもそんなに採るんだろう。弟子はいつも不思議に思っていた。
そして山菜採りが終われば、次はお昼ご飯だ。
「見なさいこのおにぎりの綺麗な三角形……これもう一種の芸術でしょ」
「でも姉……それ左右対称に見えないよ? 片手で握ったの? へったくそだなぁ……」
「それはあんたの目が腐ってるからだろうがぁぁぁぁ!」
「わああああっ!」
そのおにぎりはお世辞にも綺麗な形では無かった。弟子がそれを素直な気持ちで伝えると、姉はキレた。
そして弟子の口におにぎりを突っ込んだ。
「多少形がぁあああ! 歪んでてもぉおおお! 結局は味ぃいいい!」
むがっと突っ込まれたおにぎりを、弟子は取り敢えず食べてみた。
するとどうしたことか。何故かそのおにぎりは甘かった。
「あ、甘い! 姉! これ砂糖と塩間違ってる!」
「それでも! 愛が有るから!」
「あ、愛!?」
こうして昼ご飯が終わると、洗濯物を取り込むまでの暫くの間は休憩の時間となる。
このなにものにも縛られない時間。
姉と弟子はいつも空を見ていた。
「……綺麗ね……」
「……そう、だね」
姉は、何時かのように手を空に伸ばし、青い綺麗な空を見上げていた。
「……姉は、さ」
「ん?」
「何か、欲しい物とかって、ないの?」
弟子は思わず聞いてしまった。
弟子がいつも気になって……結局、言わずじまいで終わってしまった事。
そして、この問いで夢が覚めるだろう。
「……」
これは夢だ。
今までの事を振り返って、弟子はこの現象にそう結論付けた。
理由は様々だが……何より、確実に夢であると確信したものが有った。
姉から、育ての親の精液の匂いが全くしなかった。
姉に、痛々しい生傷が少しも見られなかった。
そして何より……姉の目は両方とも潰されていたはずだ。
「欲しい物……ね?」
姉は、その綺麗な目でこちらを見つめた。
これは夢。
だから、姉がこの問いに答える事は出来ない筈だ。きっと姉は答える事は出来ず、それで夢から覚められるだろう。
弟子はそう確信していた。
「私、もう欲しい物持ってるから、そう言うの良いの」
「え?」
だからこそ、弟子は姉が言葉をつづけた事には驚いた。
これは私の夢?
「私が欲しかったのは……あんたよ」
「……」
「あんたがこの世界に生まれて来てくれた。それだけでもう……私は良いの。満たされてるの」
違う。これは私の夢ではない。
弟子の目の前に立つ姉は、満天の青空のようにすがすがしい、綺麗な笑顔だった。
弟子はこういう風に笑う事が出来ない。きっと夢の中でも。妄想でも。
つまり、これは──。
「だからさ。あんた、もう少し自分の声に従って良いのよ」
「……姉?」
「正直、あんたの師匠のあのこくしぼーって奴! 沢山人を殺してる悪い奴よ! 鬼! 鬼畜! こくしぼー! まぁあんたを助けてくれてもいるけど! 恩人! 師匠! こくしぼー! 色々複雑な気分だわ!」
「え、ちょ……」
「だから!」
不意に、姉が抱き着く。
「自分の心の声の通りに生きて」
そう姉が呟いた所で、弟子の意識は現実へと浮上していった。
◇
「はっ!」
がばっと起きると、周囲は暗くなっており、空は満天の星空を覗かせていた。
「…起きたか…」
「こ、黒死牟先生!?」
そして、黒死牟先生もすぐそこに居た。
ま、不味い! 修行をさぼってしまった!
「も、もうしわけ──」
「…やはり、か…」
「え?」
「…お前には…休息を与えるべきと…考えていた…」
「あ、あの?」
「…明日まで…修行は…休止とする…存分に…休め…これもまた…鍛錬だ…」
黒死牟先生はそれだけ伝えると、すぐにどこかへ去っていった。
「……黒死牟先生、失望されたのかな」
流石に修行中に居眠りは不味い。流石に黒死牟先生も失望なされただろう。
「……よし!」
私は自身の頬をぱちんと叩く。
しかし! 落ち込んでいてもしょうがない! 明日! 全力で休み! また修行をすればいい!
「……姉! 私! 姉の言ってる事全然分かりません!」
でも、と言葉を続ける。
「生きてみます! 自分の声を聞いて! 生きてみます!」
綺麗なものが欲しい。
それは、今はもう、私の望み。
何物にも代えられない私の望み。
だから、それに従って生きる!
きっとどこかで聞いているであろう姉にも聞こえるよう、大きな声でそう叫んだ。