僕には
これは、雪が空けた2月上旬、いわゆるバレンタインが近づいていたある日の出来事。
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二月上旬。
世間は一年で最も甘く、そして浮足立ったイベントに向けて加速し始めていた。
都内の大型ショッピングモール。その一階にある特設催事場は、ピンクや赤の装飾で埋め尽くされ、甘ったるい香りと喧騒に包まれている。
バレンタインデー。
恋人たちにとっては愛を確かめ合う日であり、多くの女性にとっては意中の相手に想いを伝える決戦の日。あるいは、友人同士で交換し合う楽しいイベントの日。
煌びやかなポップには、『友チョコ』『義理チョコ』『自分へのご褒美』といった言葉が踊り、色とりどりのチョコレートが宝石のように陳列されている。
だが。
僕の隣を歩く小比類巻香蓮にとって、ここは平和な催事場ではなく、GGO風に言うのであればPKが盛んなフィールド、もしくは戦場の「最前線」でしかなかった。
「……不愉快。」
香蓮が、氷点下の声で呟いた。
その美貌は今日も完璧だ。冬物のロングコートに身を包み、183センチの長身が放つオーラは、すれ違う人々を思わず振り返らせるほど華やかだ。
しかし、その瞳にはハイライトがない。
彼女はショーケースに群がる女性客たちを、まるで汚物を見るような、あるいは排除すべき害虫を見るような冷徹な眼差しで見下ろしていた。
「……ありえない。何が『感謝』よ。何が『義理』よ。……不特定多数のメスが、公然と他人の所有物に接触して、貢ぎ物を送りつける……最悪のイベントだわ。」
彼女の憎悪は深い。
彼女にとって、バレンタインとは「自分以外の誰か」が、合法的に僕に対してアプローチをかけられる危険極まりない日、そのように一度熱弁されたことがあったっけ。
──香蓮、そんなに睨まないで。店員さんが怯えてるよ。
僕は彼女の腕を軽く引き、少しだけショーケースから距離を取った。
香蓮はハッとしたように表情を戻したが、すぐに僕の腕に自分の腕を絡ませ、逃がさないとばかりに密着してきた。
「……ごめんなさい、〇〇。でも、私……どうしても許せない。」
彼女は僕を見上げ(身長差的には彼女が見下ろす形になるが、上目遣いのような心理的アングルで)、真剣な声音で訴えかけてきた。
「〇〇、約束して。2月14日は、私の許可なくチョコレートを口にしないで。」
──え?
「たとえ義理チョコでも、大学の付き合いでも、道端で配っている試供品でもダメ。私以外の女が触れたものを、〇〇の体内に入れないで。……本当は男も嫌だけど。」
その瞳は、懇願ではなく命令の色を帯びていた。
僕の身体はまだ僕のものだが、彼女の中では、僕を構成する細胞一つ一つに至るまで、彼女の管理下にあるべきだという強烈な独占欲が見え隠れしている。
──分かったよ。香蓮が嫌がるなら、僕は誰からも受け取らないし、食べない。約束するよ。
僕が穏やかに答えると、香蓮はようやく安堵の息を吐き、少しだけ頬を緩めた。
「……なら良かった。約束だよ?」
彼女は満足げに微笑んだ。
だが、その瞳の奥にはまだ消えない不安の種火と、それを鎮火するための「ある計画」の光が宿っていたことを、この時の僕はまだ知らなかった。
その次の日の夕方。
僕は香蓮のマンションに招かれていた。
「当日のための予行演習」という名目で、彼女の手作りチョコの試食会が開かれることになったのだ。
結局あの場にいた女性陣にチョコレートを買わせないと言わんばかりに板チョコを爆買いしていたのだが……。
そうもしない内にキッチンから甘い香りが漂ってくる。
エプロン姿の香蓮が、銀色のトレイを恭しく捧げ持ち、リビングのテーブルへと運んできた。
「お待たせ、〇〇。……私の愛、受け取ってくれる?」
彼女がトレイの上の覆いを取る。
そこに並んでいたのは、僕が想像していたようなハート型のチョコや、可愛らしいトリュフではなかった。
──……これは。
僕は思わず目を丸くする。
黒いトレイの上に整然と並べられていたのは、鈍い光沢を放つ、50発の「弾丸」だった。
いや、正確には弾丸の形をしたチョコレートだ。
形状からして、彼女がGGOで愛用しているP90(ピーちゃん)のマガジンに装填される弾薬と、全く同じ形状、同じサイズだ。
──すごいな……。これ、どうやって作ったの?
「知り合いに頼んで型から作ってもらったんだ。3Dプリンタで出力して、シリコンで型取りして……。本物と同じサイズ、同じ装弾数よ」
香蓮は頬を染めながら、誇らしげに説明する。
手作りチョコのために、わざわざ金型を用意する執念。その情熱のベクトルが、いかにも彼女らしくて愛おしい。
「一発一発、私が込めた愛の重さ……感じてくれる?」
彼女は一粒(一発)をつまみ上げると、その先端を僕の唇に向けた。
それはお菓子というより、僕を撃ち抜くための凶器に見えた。
──ありがとう、いただくよ。……でも、バレンタインまではまだ日にちがあるのに、どうして今日なの?
僕が素朴な疑問を口にすると、香蓮の表情が曇った。
彼女は弾丸チョコをトレイに戻し、僕の隣に座ると、切実な眼差しで僕の手を握った。
「……だって、不安だから。」
──不安?
「〇〇は優しいから。……もし大学のサークルや、バイト先の付き合いで『どうしても』って渡されたら、断りきれないかもしれないでしょ?」
確かに、僕は香蓮以外のことに関して押しに弱い自覚がある。彼女はそれをよく理解している。
「だから、必要なの。……『
──ワクチン?
「そう。今から、私のチョコで〇〇の『味覚』と『胃袋』を埋め尽くしておくの。私の愛の味を、〇〇の脳髄に刻み込むの」
彼女の指先が、僕の唇をなぞる。
「そうすれば、他の女が渡してくる安いチョコなんて……泥の味にしか感じなくなる。私の味以外、身体が受け付けなくなる。」
なんという理屈だろうか。
彼女は僕の味覚を独占し、物理的に他者の介入を拒絶する身体に作り変えようとしているのだ。
「ふふっ口を開けて、〇〇。……あーん、なんて生温いことしないわよ」
香蓮は再びチョコを手に取ると、僕の唇に押し当てた。
距離が近い。吐息がかかるほどの至近距離。
彼女はチョコを僕の口に含ませると同時に、自分の指も深く差し込んできた。チョコの甘さと共に、彼女の指の感触が舌に伝わる。
「ん……。味わって。溶かして。私の
香蓮の瞳が潤み、妖しく光る。それは食事というより、一種の儀式の様だった。
僕という器を、彼女の色で内側から塗り潰すための、神聖で背徳的なマーキング。
口の中に広がる味は、濃厚だった。カカオの苦味よりも、砂糖とミルクの甘さが圧倒的に勝っている。市販のものより遥かに重厚で、喉に絡みつくような甘さ。
普通の人なら、一粒で胸焼けしてしまうかもしれない。
けれど、僕には分かっていた。この甘さの過剰さは、香蓮の愛の質量そのものなのだと。
僕は口の中の弾丸をゆっくりと溶かし、喉の奥へと流し込んだ。
胃の中に、熱い塊が落ちていく感覚。
──……うん、美味しいよ。
僕が微笑むと、香蓮は意外そうな顔をした。
「……平気なの? 結構、甘くしたつもりなんだけど……。」
──甘いね。すごく濃厚だ。でも、だからこそ香蓮にも味がする。
僕はトレイに手を伸ばし、自ら二発目の弾丸を口に運んだ。
彼女が懸念していた「重さ」ごと、僕は彼女を受け入れた。
──うん、やっぱり美味しい、それに、香蓮が心配してるような事はないよ。
「え……?」
香蓮が不安げに眉を寄せる。
僕は彼女のチョコがついた指先を、自分のハンカチで優しく拭いながら、サラリと言う。
──だって僕は最初から、香蓮のチョコ以外を受け取るつもりなんてないからね。約束したじゃないか。
「それは……そう、だけど……」
──それに、こんなに美味しいチョコの味を知っちゃったら……もう他のチョコなんて、味がしなくて食べられないよ。
香蓮の顔が一瞬で林檎のように赤くなり、次いで、とろけるような恍惚の表情へと変わっていった。
「……っ、〇〇……」
彼女は僕の肩に頭を預け、震える声で呟いた。
「……ずるい。そんなこと言われたら……私、もっと重くなっちゃう」
──大丈夫。全部受け止めるから。
僕が答えると、彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で僕を見つめた。
そこには、先ほどまでの不安の色はなく、代わりに新たな決意の光が宿っていた。
「……ふふ。じゃあ、決定。」
──何が?
「ワクチン、だよ。〇〇がそんなに気に入ってくれたなら……効果が切れないように、14日まで毎日投与しなきゃいけないね?」
彼女はトレイに残った48発の弾丸を見つめ、妖艶に微笑んだ。
「一日4回、食前食後に……ううん、四六時中。私の味で、〇〇をチョコレート漬けにしてあげる。」
どうやら僕は、彼女のやる気スイッチを完全に押してしまったらしい。
この大量の弾丸(チョコ)を、バレンタイン当日まで毎日、彼女の濃厚なスキンシップと共に投与される日々が確定した。
このままいくと糖尿病や胃袋の心配よりも、彼女の愛の重さに押し潰されないかの心配をした方がいいかもしれない。
けれど、目の前で嬉しそうに次のチョコを手に取る彼女を見ていると、それも悪くないと思えてしまう。
──お手柔らかに頼むよ、
僕が苦笑交じりに言うと、彼女は僕の口に甘い弾丸を押し込みながら、最高に幸せそうな笑顔で答えた。
「善処します♡」
外の寒風を他所に、僕たちのバレンタイン戦線は、甘く蕩けるような幸福な籠城戦へと突入していった。
ちょこちょこランキング載ってる……。
みんな香蓮ちゃん好きなんですねぇ!
また感想頂けると嬉しいです。