僕には
大学生活も後半に差し掛かり、周囲が慌ただしく動き始める季節。
今回は、僕の就職活動を巡って勃発した、香蓮との甘く重い攻防戦の出来事。
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四月。
新学期を迎え、大学のキャンパスは真新しいスーツに身を包んだ新入生たちの希望に満ちた空気と、少し草臥れたスーツを着込んだ就活生たちの焦燥感が入り混じる、独特の季節となっていた。
僕もご多分に漏れず、後者の集団の一人として、本格的な就職活動のスタートラインに立とうとしていた。
休日の午後。僕は香蓮のマンションのリビングで、新調したばかりのリクルートスーツに袖を通していた。
姿見の前で、濃紺のジャケットのシワを伸ばし、まだ慣れない手つきでネクタイを締める。
──うん、こんな感じかな。少しは様になってるかな?
僕が振り返って尋ねると、ソファで膝を抱えて座っていた香蓮は、ピクリとも動かずに僕をじっと見つめていた。
「……」
──香蓮? どうしたの、そんな怖い顔して。ネクタイの色、おかしいかな。
「……おかしくない。すごく似合ってる。肩幅も広いし、背も高いから、スーツがびしっと決まってて……すっごく、カッコいい」
香蓮の声は、褒めているはずなのにひどく低く、どこか恨めしげだった。
彼女の視線が、僕の足元から頭の先までを舐め回すように動く。
「カッコいいから、腹が立つの」
──え?
「そのスーツ姿の〇〇を、これから私以外の不特定多数の人間が……しかも、社会という野に放たれたメスたちが見るんでしょ? 想像しただけで、吐き気がする」
香蓮はソファから立ち上がると、ゆらりと僕に近づいてきた。
183センチの長身が、ヒールを履いていなくても僕の視界を大きく覆う。彼女は僕の胸ぐら──正確には、綺麗に締めたばかりのネクタイをきゅっと掴み、自分の方へと引き寄せた。
「ねぇ、〇〇。来週から何が始まるって言ってたっけ」
──ええと……合同企業説明会と、いくつかエントリーした企業でのグループディスカッション、かな。
「合同、説明会。グループ、ディスカッション」
香蓮は、その単語を一つ一つ、まるで汚物を吐き出すように口にした。
そして、スッと彼女の瞳から、完全にハイライトが消え失せた。
「……絶対ダメ。そんなの、あの合コンの時の再来じゃない。周りは就活のストレスで判断力が鈍ったメスばかり。しかも、〇〇みたいに優しくて、顔も良くて、気が利く男がスーツ姿で隣に座ってたら……絶対に狙われる。連絡先を聞かれる。面接の練習とか理由をつけてカフェに誘われる。そして最終的には、私から〇〇を奪おうとする!」
──いや、いくらなんでも飛躍しすぎだよ。みんな真面目に就職のために来てるんだから。
「〇〇は自分の魅力を分かってなさすぎ! いい? 会社の飲み会なんてハニートラップの温床だよ? 終電を逃したフリをして寄りかかってくる女とか、仕事の相談を口実にホテルに誘い込む女とか、世の中には〇〇を狙う害虫が腐るほどいるの!」
香蓮のヤンデレレーダーは、もはや幻覚を見ているレベルで警報を鳴らし続けていた。
ネクタイを握る彼女の手に力がこもり、僕の首が少しだけ締まる。苦しいわけではないが、彼女の切実な不安が物理的な重さとなって伝わってきた。
「だから、決めた」
香蓮は僕を見据え、真顔で、そしてどこまでも本気な声で、とんでもない提案を口にした。
「就活なんて、やめて?♡」
──え?
「就活なんてしなくていい。どうしても働きたいなら、お姉ちゃんのコネか、実家の繋がりで、周りがオジサンしかいない安全な部署の役職を用意してもらうから。……ううん、やっぱりそれもダメ。通勤電車で痴漢の冤罪に巻き込まれたり、通りすがりの女に一目惚れされたりするリスクがある」
彼女の思考は、さらに極端な方向へと突き進んでいく。
「働かなくていいよ♡〇〇」
香蓮の長い腕が、僕の首から背中へと回り、きつく抱きしめられた。
彼女の甘いシャンプーの香りが鼻腔を満たす。
「私が一生、〇〇を養うから。お父さんに頼めば生活費なんていくらでも出してくれるし、私も大学を出たら〇〇を養えるだけの仕事をする。だから……〇〇はずっと、この部屋にいて?」
彼女の震える唇が、僕の耳元に触れる。
「私だけの、専業主夫になって。外の危険な世界になんて出ないで、この安全な檻の中で、ずっと私に愛されて、私だけを待っていて……。そうすれば、誰にも〇〇を傷つけられないし、奪われない」
それは、愛という名の完全な「飼育宣言」だった。
普通の人間なら、恋人から発せられた狂気に怯えるか、冗談だと笑って流す場面だろう。
だが、僕は彼女がどれほど本気で、どれほど深い不安からこの言葉を紡ぎ出しているかを知っている。
彼女は、ただ純粋に僕を失うことが怖くて、自分の手の届かない世界(社会)へ僕が行ってしまうことに怯えているのだ。
僕は小さく息を吐き、僕の背中に回された香蓮の長い腕を、そっと解いた。
「……〇〇?」
拒絶されたと思ったのか、香蓮が傷ついたような、不安げな表情で僕を見つめる。
僕は彼女の両肩をまっすぐ掴み、逃げ場のない距離で彼女の瞳を見つめ返した。
──香蓮。君が僕をそこまで想ってくれていること、すごく嬉しいよ。
「そう?だったら……!」
──でも、ダメだ。その提案は受け入れられない。
僕がはっきりと告げると、香蓮の瞳に絶望の色が浮かびかけた。
僕はそれを遮るように、言葉を続ける。
──覚えてるかな。冬に北海道へ行った時、君のお父様に言った言葉。
「……お父さんに?」
──僕はあの時、お父様の目を見て『必ず香蓮を幸せにします』って誓ったんだ。
あの夜、お父様と酒を酌み交わしながら語り合った、僕たちの将来。
単なる学生の恋人同士の延長ではなく、一人の男として、愛する女性の人生を背負うという覚悟。
──もし僕が、君の不安から逃げるために就活を辞めて、君の庇護下に入って一生養われるだけのペットになったら……僕はもう、お父様に顔向けできない。何より、そんな情けない男、香蓮の隣に立つ資格がないよ。
「そんなことない! 私は〇〇が隣にいてくれれば、それだけで……!」
──僕が嫌なんだ。
僕は彼女の言葉を優しく、だが力強く遮った。
──GGOの世界では、君がいつも前線を走って、僕を守ってくれるよね。僕のピンチには必ず駆けつけて、敵を倒してくれる。……すごく頼もしくて、大好きな僕のヒーローだ。
僕がGGOでの日々を口にすると、香蓮は少しだけハッとしたように瞬きをした。
──でもね、現実(リアル)の世界では……僕が、君を守れるだけの力と責任を持ちたいんだ。
僕は彼女の頬に手を添え、親指でそっと撫でた。
──君がコンプレックスで傷ついた時、誰かに心無い言葉を投げかけられた時、君の前に立って、盾になって、君を守り抜けるだけの社会的な力と、経済力を持った男でありたい。
「〇〇……」
──誰かに依存して生きるんじゃなく、小比類巻香蓮という最高に素敵な女性にふさわしい男として、君の隣を堂々と歩きたいんだ。……だから、僕に就活をさせてほしい。君との未来を、僕の手でしっかり掴み取るために。
僕の言葉が、静かなリビングに響き渡った。
香蓮は、目を見開いたまま固まっていた。
先ほどまでのヤンデレモード特有の暗いオーラは跡形もなく消え去り、代わりに彼女の白い頬が、みるみるうちに沸騰するように真っ赤に染まっていくのが分かった。
「〜〜〜〜っ!」
彼女は両手で顔を覆い、その場にしゃがみこんでしまった。
──香蓮? 大丈夫?
僕が心配して覗き込むと、香蓮は顔を覆った指の隙間から、潤みきった瞳で僕を睨みつけてきた。
「……ずるい」
──え?
「ずるいずるいずるい! 〇〇のバカ! そんな顔で、そんな声で、あんなカッコいいこと言われたら……私が反対できるわけない……っ!」
香蓮は立ち上がると、今度は先ほどのような束縛の力ではなく、ただただ感情の許すままに僕の胸に飛び込んできた。
「うぅ……っ。〇〇が私のためにそこまで考えてくれてるなんて……嬉しくて、頭がおかしくなりそう……。もう、大好き……愛してる……」
彼女の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出し、僕の真新しいスーツの胸元を濡らしていく。
僕は彼女の背中を優しく撫でながら、心の中で安堵の息を吐いた。
──ありがとう、香蓮。信じてくれて。
「……でも!」
香蓮は涙を拭いながら、バッと顔を上げた。
その表情は、まだ赤いものの、どこか吹っ切れたような、それでいて新たな重さを帯びた『条件闘争』の顔だった。
「就活は認める! 〇〇が立派な社会人になるのも応援する! ……でも、私の不安が全部消えたわけじゃないからね! いくつか絶対に守ってもらう条件があります!」
──うん、なんでも言って。
香蓮は指を一本立て、ビシッと僕に突きつけた。
「一つ! 〇〇のスマホに、私のスマホと連動するGPSアプリを入れること! どこで面接してるか、寄り道してないか、24時間監視させてもらいます!」
──うん、分かった。入れていいよ。
「二つ! もしどうしても避けられない飲み会や懇親会がある時は、事前に参加者の男女比を報告すること! 女の割合が5割を超えていたら、私が乗り込んで〇〇を連れ帰ります!」
──努力するよ。なるべく行かないようにするし。
僕が苦笑しながら頷くと、香蓮は最後に、これまでで一番真剣な、そして熱を帯びた瞳で僕を見つめ、三本目の指を立てた。
「そして……三つ目。これが一番重要」
──うん。
「……無事に内定をもらって、就職先が決まったら」
香蓮は僕の首元に手を回し、背伸びをして唇を寄せてきた。
「すぐに、私と籍を入れること。……学生結婚でもなんでもいい。社会人になる前に、〇〇は『小比類巻香蓮の夫』なんだって、戸籍という絶対的な鎖で繋がせて」
それは、単なる束縛ではなく、究極のプロポーズの催促だった。
就活という戦いのゴールに、「香蓮との結婚」というこれ以上ないご褒美(あるいは逃れられない契約)が設定されたのだ。
僕は彼女の目を見つめ返し、迷うことなく頷いた。
──分かった。約束するよ。……一番に内定を取って、一番に君を迎えに行く。
「……っ、〇〇……!」
香蓮は歓喜の声を漏らし、僕の唇を深く、深く塞いだ。
就活のプレッシャーなど吹き飛ぶほどの、濃厚で甘い接吻。
互いの息が苦しくなるまで唇を貪り合い、ようやく離れた時、彼女の瞳はとろけるような幸福に満たされていた。
「……ふふ。それじゃあ、出撃の前の『虫除けのおまじない』をしなきゃね」
香蓮は妖艶に微笑むと、僕のシャツの襟元を少しだけ横に引っ張った。
そして、ネクタイを締めたままではギリギリ隠れる、首筋から鎖骨にかけてのラインに、顔を埋めた。
「ん……っ」
──っ、香蓮……?
ちゅ、という少し生々しい水音と、軽く肌を噛まれるような痛痒い感覚。
数秒後、彼女が顔を離すと、そこにはハッキリとした赤いキスマーク(マーキング)が刻み込まれていた。
「よし。これで、万が一〇〇の襟元を見たメスがいても、〇〇には絶対に手を出せないほどの『
彼女は自分の作品に満足そうに頷き、僕の乱れた襟元を綺麗に直してくれた。
「いってらっしゃい、〇〇。……私の、未来の旦那様♡」
そのとびきり甘くて、重たい笑顔に見送られ。
僕は首筋に残る熱い感触と、これからの未来への強烈な責任感を胸に抱きながら、就職活動という名の戦場へと足を踏み出すのだった。
彼女の重すぎる愛は、今の僕にとって、どんな防具よりも頼もしい最高の鎧なのだ。
時系列が一気に飛びましたが、大丈夫でしょうか?
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