公園のベンチに、野球帽を被った少年が下を向いて座っていた。

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公園にいた少年

 

 

 

 美咲は実家から通っていたが、会社まで遠かったので、都内にアパートを借りることにした。

 

 だが、それは建前で、親元から離れ、独り暮らしを謳歌したいというのが本音だった。

 

 部屋は三階建ての3階なので、エレベーターがないのは不便だが、家賃の安さを考えたら贅沢は言えない。

 

 その代わり、利点もあった。緑豊かな大きな公園が近くにある。散歩にはうってつけだ。

 

 

 休日は公園の散歩を楽しんだ。

 

 新緑の公園は、草木が青々と茂り、どこからともなく漂うクチナシの甘い香りが心地よかった。

 

 眉間に皺を寄せて苛立つ通勤ラッシュ時と違い、静閑な公園は、行き交う家族連れや犬を連れた老婆さえも温厚な人柄に感じられ、自ずと自然な笑顔になれた。

 

 森林浴を満喫して、リフレッシュした帰りだった。

 

 公園の出口にあるベンチに、紺色の野球帽を被った少年が下を向いたまま、動かないでジーっと座っていた。

 

 少し不気味だったので、急ぎ足で公園を出た。

 

 

 それから数日後。

 

 仕事帰り、駅前の商店街で食材を買い、アパートの前まで来た時だった。郵便受けがある一階の階段に、野球帽を被った少年が座っていた。視た途端、ハッとした。

 

 公園にいた少年だった。

 

 ……どうしてこんなとこにいるの?

 

 あの時と同じように、下を向いたまま、ジーっと座っていた。

 

 少年の横には人一人通れるスペースがあったので、知らんぷりして通り過ぎようとも思ったが、つい、――声をかけてしまった。

 

「……ね、どうしたの?」

 

 少年の顔を覗き込んだ。少年はゆっくりと顔を上げると、美咲を見た。入り口の照明に照らされたその目は、妙に大人びていて、一瞬ドキッとした。

 

「……カギをなくしちゃったんだ。母さん、仕事だから、帰るの遅いんだ」

 

 感情のない棒読みのようなしゃべり方だった。

 

「何時ごろ帰るの?」

 

「夜の仕事だから、朝」

 

「えっ!それまでここで待ってるの?」

 

「うん……」

 

 少年は無表情でうつむいた。

 

 声をかけた以上、放っておくわけにはいかなかった。

 

「……うちに来る?」

 

「えっ!いいの?」

 

 少年は瞬時に顔を上げると、嬉しそうな目を向けた。

 

 

 

 少年を部屋に入れると、テレビを点けてやった。

 

 夕食の支度をしながら、テレビを観ている少年の背中をチラッと見た。

 

 

 一緒に食事をしながら、どこに住んでるのか少年に尋ねると、このアパートの一階だと答えた。

 

 不動産屋の営業時間外なので、連絡は取れない。母親の勤め先の電話番号も知らないと言うので、仕方なく、泊めることにした。

 

 

 

 鍵をかけてシャワーを浴びている時だった。

 

 人の気配を感じ、シャワーカーテンから覗いた。だが、ドアは閉まっていた。

 

 

 

 浴室から出て居間に行くと、少年はテーブルに腕枕をしていた。

 

 布団を並べて敷くと、少年を寝かせた。

 

 

 

 ――どのくらい経っただろうか、押さえつけられている感じがして目を覚ますと、顔から首にかけて、びっしょりと汗をかいていた。

 

 手の甲で汗を拭いながら横を見ると、カーテンの隙間から漏れた明かりが、寝ている少年の背中にあった。

 

 ホッとすると、再び眠りに就いた。

 

 

 

 

 翌朝、目を覚ますと、少年の姿はなく、スニーカーもなかった。

 

 帰ったのを確認すると、ドアの鍵をかけた。

 

 汗をかいたのでシャワーを浴びようと、パジャマのボタンに手をやった。すると、パジャマのボタンが2~3個外れていて、ズボンが腰のあたりまで下りていた。

 

 ……こんなになるほど寝相は悪くない。よほど暑かったのだろうか。

 

 そんなことを考えながら、洗面所に行って鏡を視た途端、

 

「うわあー!……何これ」

 

 思わず声を上げた。

 

 目がくぼみ、老婆のように痩せこけていたのだ。

 

 ……どうして、こんなことに?何があったの?

 

 美咲は嘆きながら、肩を落とした。

 

 ……こんな顔では会社にも行けない。休もう。

 

 体も怠かったので、休むことにするとバスタブにお湯を溜めた。

 

 

 

 

「……イヤだ」

 

 裸になって、更に驚いた。体のあっちこっちに赤い痕がついていたのだ。

 

 それはまるで、キスマークのようだった。

 

 

 ……まさか、少年の仕業?そんなはずはない。だってまだ、小学生だもの。それに、もしそんなことがあったら気づくはずよ。だったら何?蕁麻疹(じんましん)?汗疹(あせも)?それとも湿疹?

 

 美咲は自問自答しながら、悶々とした。

 

 

 会社に休みの電話を入れると、外出する気にもなれず、部屋に閉じこもった。

 

 栞(しおり)を挟んだ文庫本を開いても活字を追えず、テレビを点けてみても内容が頭に入って来なかった。

 

 ……少年は小学5~6年だった。寝ている女にキスマークなんかつけるはずがない。やっぱり、何か湿疹の類いだろう。

 

 そんな、似たり寄ったりの答えばかりが、頭を行き来していた。

 

 母親に症状を伝えようとも思ったが、余計な心配をかけたら、実家に帰されそうで、結局、電話はしなかった。

 

 自力で、老婆のようなこけた顔とキスマークのような痕を治したくて、また風呂に入った。

 

 湯船の中で、何度も何度も揉んだり、擦ったりした。

 

 

 風呂から上がると、化粧水や乳液をたっぷりつけ、顔パックもした。

 

 

 

 気がつくと、夕方になっていた。

 

 冷蔵庫にある物で料理を作った。

 

 

 

 あまり食欲はなかったが、栄養を摂れば、やつれた顔も赤い痕も治ると暗示をかけて、無理矢理に口に入れた。

 

 そして、ぐっすり眠れば元に戻る、と自分に言い聞かせ、早めに就寝した。

 

 何度も目が覚めたが、顔を確認するのが怖くて、また目を閉じた。

 

 

 

 翌朝、目を覚ますと、恐る恐る鏡を視た。

 

「あ~……」

 

 美咲は思わず安堵の声を漏らした。元に戻っていたのだ。嬉しくて、何度も顔に触れた。そして、体についていた赤い痕もすっかり消えていた。

 

 ……悪い夢でも見ていたのだろう。

 

 そんな風に自分を納得させ、心機一転で食事の支度をした。

 

 

 それから数日後の休日。散歩に行こうとした時、少年が住んでいるという一階の部屋を確認してみようと思った。

 

 だが、一階の5室のどこにも表札はなく、人が住んでいる様子もなかった。

 

 郵便受けも確認したが、一階だけ一つとして表札がなかった、

 

 ……どういうこと?少年は確かに、このアパートの一階に住んでいると言った。

 

 美咲は釈然としなかった。

 

 ……なんか、奇妙だ。

 

 不可解な今回の出来事の真相を知りたかった美咲は、古くからこの辺に住んでいそうな人の家を探した。

 

 少し歩くと、古い家の庭の手入れをしている老婆の姿があった。

 

「……あのぅ、すいません」

 

「はい」

 

「今度、あのアパートに引っ越して来る予定なんですけど」

 

 そう言いながら、そこから見えるアパートを指差した。

 

「この辺の住み心地はどうかなと思って。住みやすいですか?」

 

「ええ。大通りから離れているので静かですよ。……でも」

 

 老婆が言葉を詰まらせた。

 

「えっ?」

 

「あのアパートの105号室はやめたほうがいい」

 

「……どうしてですか?」

 

「……心中があったのよ」

 

「エッ!」

 

「親子の無理心中が。……あれはもう10年ぐらい前になるかね。水商売をしていた母親が小学生の息子を殺して、自殺したのよ。動機は分からないんだけどね。明るい子で、いつも野球の帽子を被って公園に遊びに行ってた。……生きていたら立派な青年になっていたでしょうにね。哀れな話ですよ」

 

 ……つまり、あの少年は幽霊だったの?

 

 俄に身の毛が逆立つのを感じた。

 

 

 実家に戻ることにした美咲は、即刻荷造りを始めた。

 

 引っ越し当日、荷物を運び終えると、引越し業者のトラックの助手席に乗った。

 

 その光景を、木の陰から悲しい目で見ている野球帽を被った少年がいた。

 

 

 

 

 

 

 少年の口の周りには、ポツポツと髭が伸びていた。――



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