『あるところに本須麗乃という本好きの女性がいました。
歴史、心理学、宗教、地理、民俗学、生物学、芸術、言語、物語……
彼女は人類の知識が詰め込まれたあらゆる本を愛しており、本に囲まれて生きることに幸せを感じておりました。
しかし皮肉にも彼女はその本に押しつぶされて死んでしまうのです。
死ぬ瞬間に彼女は思いました』
『──神様、どうか生まれ変わっても本がたくさん読めますように──』
*******
<マイン>
そんなことが前世にあり、わたしは虚弱な少女マインへと生まれ変わって5日目だった。
前世のことを考えるとため息ばっかりの日々だ。この世界(世界の情報すらよくわからないのだけれど。どこか別の国の別の時代なのか、ファンタジーな異世界なのか)での暮らしは、現代日本に比べれば酷くつらい。
ベッドは固くて薄汚れている。部屋の中でも砂埃が舞う。食事は美味しくなくて臭い。正直、まだこっちの家族に慣れないでいる。
そして何より、本が無い!
本が無いのがなによりつらいんだよ! わたしは牢獄の中で暮らそうとも、本があれば我慢ができると思う! 日本の刑務所でも本は読めるらしいのに! この世界には本が無い!
いや……下手したら文字も紙も無い可能性すらある……家のどこを探しても、それが書かれたものは無かったから。ううっ……絶望的だ……
わたしはこれまで、本がない世界というものは想像すらしてなかった。いや、そういう時代もあったのだという知識はあるけれど、自分がその環境に置かれるなんて……
あまりのショックに昨日は泣きじゃくり、家族に心配されまくった挙げ句に熱を出して倒れた。
でもまあ、泣きまくったおかげで多少の絶望感は晴れて、どうにか気持ちが落ち着いた感じではある。
「……熱は下がったわね」
この世界の母さんが、朝ごはんの洗い物を終えた冷たい手でわたしの額に触れてくる。気持ちいい。
心配を掛けて非常に申し訳なかった。わたしの意識が浮かぶ前、この体の『マイン』の記憶もしっかり残っているから間違いなく母さんなのだけれど、まだ少し余所余所しい気持ちがある。
「今日は市が立つから出かけるけれど、マインも一緒に来る?」
「行く!」
即答した。
正直なところ、体力には自信が無いのだけれど、街に出れば本ぐらい見つかるかもしれない!
冷静に考えてみれば、少なくともこの家の家族でもしっかりとした衣服を身に着けているし、父さんはサラリーマン的な仕事に行っている。文明レベルから考えても、文字が存在しないとは考えにくい。
羊皮紙でも巻物でもなんでもいいから、とにかく本が欲しい! 子供向けのアルファベット練習本とかそういうのでもいい! むしろ字を覚えるために欲しい!
これまでの『マイン』の記憶や、熱を出して倒れたときの母さんやトゥーリの対応からして、わたしは人一倍手間のかかる娘みたいだ。
そこで『本を買ってくれれば家で大人しく留守番もします』みたいな態度を示せば、一冊ぐらい買ってくれるのではないだろうか。
そうしよう! うふふ楽しみ。
姉のトゥーリは同じ年頃の友達と一緒に、薪拾いへと向かったようだ。これも立派な家のお手伝い。
トゥーリより少し年上になると、仕事の見習いを始めるという。
できればわたしは司書見習いか、本屋見習いがいいなあ。なので今回のお出かけで本屋を探して、店主さんと仲良くなって、見習いになろう!
司書は……惜しいけれど期待が薄い。現代日本でも司書の仕事は募集が少ないし、下手すれば司書の資格が必要だったりする。(実際は無くてもいいけど、わたしは大学で取得した)
そんな狭き門に、多分貧しい家庭の娘が入れるかは難しいと思うので。
なにはともあれお出かけだ。
わたしは初めてパジャマ以外の服を着せられた。トゥーリのお下がりでボロボロだけど、厚手の布地をした服を何枚も重ね着する。動きにくいモコモコになったわたしは母さんと手を繋いで、家の外へ出た。
寒っ!? 狭っ! 臭っ!
家の中だとあんまりわからなかったけれど、外は凄く寒い……
何重にも着込んだ服にも容赦なく寒気が吹き込んでくる。埃と悪臭(汚物なんかを窓の外に捨てるのを見たので多分そういうのの臭いだと思う)が顔に吹き付けて、マスクが欲しい。
そして階段が狭くて急だった。体が小さいわたしは一段ごとに努力が必要なぐらいで、よいしょ、よいしょと頑張って降りて、外に出る頃には息も絶え絶えだった。
この体……体力なさすぎる……
「ぜぇ……ぜぇ……母さん、ちょっと、休憩……」
「……母さんが背負ってあげるわ」
申し訳ないけれど、どうやら母さんも慣れているようだ。わたしの虚弱さに。
このままだと買い物に行けないと判断した母さんが、おんぶ紐を使ってわたしを背中に乗せた。
ようやくきょろきょろと見回す余裕ができて、自分の家が七階建てもある大きな集合住宅なことや、中世ヨーロッパ風の町並みに感動した。
「母さん、どのお店に行くの?」
「何言ってるの? 市場に行くのよ? お店にはほとんど用がないもの」
母さんの話によると、通りの一階に構えているお店は基本的にそこそこお金を持っている人が利用するもので、貧しい庶民は市場でほとんどの買い物を済ませるんだって。
それでも本屋らしいものが無いか、わたしはお店を見回す。本みたいな看板が出ていればわかるのだけれど……
道すがら、母さんに神殿や城壁のことを聞いて考えを巡らせる。
この街には(といっても城壁の向こうに)領主様も住んでいるらしい。つまり城下町。都会ということだ。それにしては人通りも少ないような気がするのだけれど……東京とか横浜を基準に考えちゃダメか。
街の規模が大きければ本屋も大きいとは思う。この街って大きいのか小さいのか、それもよくわからない……
しかし、しかし……
街を見回しても、文字らしい文字がまったく見当たらない!
ひょっとして識字率が低いから文字自体を殆ど使っていないんじゃ……
そうなれば本屋なんてのも存在しないことに……
血の気が引くような考えを巡らせていると、いつの間にか市場へとたどり着いた。
その市場では値段の書かれた板があり、この世界にも少なくとも数字は存在していることに興奮した! やった! 文字あるよきっと!
だけど買い物が進んで、肉を買うとなったときにわたしは具合が悪くなった……
ダメだ……そういうグロテスクな本は読んだことあるけど、目の前で豚さんが切り刻まれているところをみると、吐き気とめまいが襲ってきて……
「母さん、わたしここで待ってるから……」
そう言って、雑貨屋とお酒を売ってる屋台の近くで休むことにした。
この世界の雑貨屋ってどんな品物を扱ってるんだろう? お客さんもいないようなので、おじさんに聞いてみた。
「これは布を織る道具で、こっちは狩りの仕掛けだ」
「へえ……っ!? おじさん! これは何!?」
「ああ、本じゃよ」
やったー! 本だ! とうとう見つけた! たった一冊だけれど、あった!
この世界に本が無いんじゃないかと絶望していた最中に見つけた本だから、感動に打ち震えて豪奢な表紙をした分厚い本を見つめた。
かなり高価そうな本でどれだけおねだりしても買って貰えそうにないけれど。
「おじさん! 本を売ってるお店ってどこにあるか知ってる?」
「そんな店無いよ?」
「……え? 本があるのに本屋がないの?」
一気にテンションが下がったけれど、聞いてみるとどうやら本は高価すぎて基本的にお貴族様しか持っておらず、書き写す手間もあるので沢山は作れないのだそうだ。これもお貴族様が質屋に持ってきただけのものらしい。
ぐぬう。お貴族様め! なんでわたしはお貴族様に生まれなかったんだろう!
ああ、でも初めて邂逅して次にいつ出会えるかわからない本に触れないままだなんて悲しすぎる!
字は読めないだろうけどせめて、
「おじさん! どうかその本に触らせてください! 頬ずりしてクンカクンカしてインクの匂いを嗅がせてください!」
「……何を言ってるのか理解できんが……お嬢ちゃんに触らせるのは危険だな」
「そんな!?」
本に頬ずりしたいという欲求は人類共通のはず……!
おじさんは本を店の奥に仕舞おうと持って行ってしまった。あああああ……
しょぼくれて店の前に座り込んでいると、わたしの騒動(土下座までして頼んだ)様子を見ていたお客さんらしい人のクスクスとした笑い声が聞こえた。
惨めな気持ちでそちらに顔を向けると、声を掛けられる。
「貴方、本が読みたいの?」
「はい……」
質問に項垂れながら答える。果たしてわたしは、本を読むことができるのだろうか……
ふと顔をあげると、そのお客さんは長い金髪をした美しいお姉さんだった。わたしの母さんも美人だけど、この人は人間離れしたような美人さんだ。
着ている服もとても質の良さそうなもので、優雅に日傘も差しているのでひょっとしてお貴族様?と思うけど、この世界でお貴族様の姿なんて見たことないので判別がつかない。周りの人もこの女性を気にしてなさそうだから、珍しい格好ではないのかな?
彼女はどこか楽しげな声で言う。
「そうね……本屋ではないけれど、本を沢山置いてあるお店なら知っているわよ」
「え!? そんなお店があるんですか!?」
「古道具屋でね。誰も読まなくなった本を店主が個人的に集めているの。この先、ちょっと入り組んだところにあるんだけど……行ってみる? 近いからすぐに戻ってこられるわ」
「行きます!!」
一も二もなくわたしは立ち上がった。
体力が無いわたしだけれど、本が目の前にあると思えば底力が出てくる。ゆったりと優雅に歩き、路地裏へと進んでいく女性にわたしは必死についていった。
……人さらいとかそういうのじゃないよね? 勢いでついてきたけど。
もしそうだとしても、本が読めるか読めないかの瀬戸際だ。本が無いことには生きる意味が無いって、昨日は気持ちが死にかけたほどだった。危険はあるけど、本もあるかもしれない!
一応、道順を覚えておこう。近くって言ってたけど、遠そうだったら道だけ聞いて戻ろう。
本への情熱で足早についていくけど、次第に息が切れ始める。冷たい空気で肺が痛い。でも本の為だった。
暫く路地をぐねぐねと曲がって進むと、女性は立ち止まった。そして細い指を前方へ向ける。
「この先の通りにある店よ。変わった見た目だから、すぐにわかるわ」
「あの、お店の名前は?」
「『コウリンドウ』」
コウリンドウ……なんか本屋っぽい名前だ……期待できそう!
わたしは足早に進むと、左右に高い建物に囲まれて薄暗い路地からパッと視界が開けて、馬車が1台通れるぐらいの狭めな通りへと出た。
そしてすぐ眼の前には──
「あ……あああ……」
うめき声が口から漏れる。
お店。コウリンドウ。わたしの前に、大きな木の看板に『香霖堂』と漢字が書かれた、瓦葺一階建ての日本家屋が建っていた!
日本語!? 日本人が居るの!? 目が熱くなる。胸がドキドキして痛い。
よろめきながら入り口に近づいていく。ここに誰か、漢字を使える人がいて、本を持っている──
『本日休業』
「えっ……」
入り口のドアに掛けられたその札にわたしはショックでひゅっと全身の力が抜けるのを感じた。
ウソウソウソ、ここまで来て、開いてないって……
ぐっ……頭が痛い……胸が熱い……風邪がぶり返してきたみたいで……
戻らないと……でも、もう、歩けない……
*******
<森近霖之助>
またこの夢か、と僕は布団から目覚めて嘆息をした。
ここ半月ほど毎日見ている謎の現象だ。幻想郷の中心に位置する僕の店『香霖堂』だが、半月ほど前からこのよくわからない外の世界にも存在していることになっているようだ。
さっきまで僕は幻想郷でのいつもどおりの業務を終えて寝床についたところだった。半人半妖な僕は数日程度眠らなくてもどうということはないのだが、夜中に店を開けたままにするさしたる理由(気になる本を読むことなどだ)がなければ営業を終え、晩酌でもして眠りにつく。
だが暫く前から、眠りについたと思ったらすぐさま目覚めて、この別の世界にある香霖堂で起床したのだ。
最初にこうなったときには幻想郷を包む結界からはじき出されたのかと不安になったのだが、外の世界に出れたということで街を見て回った。しかしここは僕が行きたがっていた外の世界ではないようだ。外の世界でも幻想郷でもない、また別の世界ということだろう。
多少物珍しかったのだが、そこまで見て回るほどのものでもないことにがっかりした。コンピューターという名の式も、スマートフォンも使われていないようだ。
なぜここに行き着いたのか。境界を操る八雲紫の仕業か、はたまた夢の管理者であるという獏ドレミー・スイートの仕業か。その理由はわかっていない。
或いは日本各地にある、人が異なる常識を持つ世界に迷い込むという説話(そのうちの何割かは幻想郷に迷い込んだものだろう)のように僕もそうなったか。この場合、自宅まで一緒に迷い込む話は聞いたことがない。
しかもこの世界で夜になり、仕方なく眠りにつくと今度は幻想郷にある香霖堂で目覚めるのだ。混乱もしてしまう。
単なる夢かと思いきや、例えばこちらの異世界で帳簿に書き込むと幻想郷でもそれは残っている。間違いなく僕と香霖堂は異世界にて存在をしているようだ。
さすがに不気味になったので、うちの店を無料の茶屋かなにかと勘違いしている、巫女と魔女の二人組に相談したこともあった。
二人は嬉々としてツケを減らせだの、食料の備蓄が乏しいだの、隠している酒を出せだのと要求をして泊まり込んで様子を見てもらったのだが……
彼女らが言うには、僕の体はぐっすり眠ったまま朝まで起きなかったようだ。
だが僕の自意識はその夜も異世界へとやってきていた。店もそのままなのに、店の中にいたはずの二人を除いて。
となればこちらの世界の僕と香霖堂も実体として存在していて、一つの意識が両者の間を行ったり来たりしているのかもしれない。
胡蝶の夢を見て目覚めた者は、果たして自分は蝶なのか人なのかと考える。この場合は胡蝶と人間に次々と入れ替わっているようなものだろうか。
霊夢と魔理沙も意地になって、結界を張ってみたり、なら器物の妖怪はどうかとから傘お化けの少女を連れてきて泊めたり、半人が原因かと半人半霊の庭師を泊まらせたり、永遠亭の医者がカウンセリングを勧めたり。
まあいろいろとやってくれたのだが次第に飽きて『結界に異常とかが無いのなら大丈夫じゃない?』『土産でも買ってきてくれよな』とか雑に手放した。八雲紫かドレミーに会うことがあったら話を聞いてみると言っていたが。
幻想郷の異変解決専門家である彼女らが手の出しようがないのなら、僕が解決するのも難しい。
理解できないことは気にしないのが僕の方針だ。
幻想郷において、こと外の世界の商品を扱う古道具屋としては幻想郷一番を誇る僕の香霖堂だけれど、この異世界では客も中々来ない。
特に幻想郷とは通貨も異なるのでまずはそれの把握からだった。比較的在庫があってどこの世界でも売れそうな商品を、適当に交渉して売りつけることで現金を得る。
髪飾りあたりでいいだろう。流行り廃りがあるこういった商品は、大量に外の世界で作られては忘れられて幻想郷に流れ着く。特殊な加工を僕がしてなにか機能をつけたものもあるけれど、これならば売れても大した値段ではないだろうし痛くない。
幻想郷ではお洒落に気を使う少女が多いので売り物としていけるのではないかと沢山仕入れたのだが、どういうわけかさっぱり売れなかった。忘れられるには理由があるということか。うちの店に客が少ないので取り扱っているという情報が流れなかったわけではない。
少し前の話だが、この世界で最初の客が来るのには暫く時間が必要だった。
なにせ、外から見ればわかるのだがこの世界では香霖堂の外観は異様だ。概ね、ビルヂングという名だったか箱型の四角い石造りの建物ばかりの街で、この店だけは和風だ。(ちなみに、倉庫はこっちの世界に来ないようだ。母屋だけである)
何を売ってる店かわからない。ゴミ置き場だと思った──とは知り合いの客未満な連中の言葉だが、失敬な。(店の外に出している商品もこっちの世界には来ていない)
こういう場合で気になるのは土地の権利や商売の許可だが、いつの間にか机には『ギルドカード』という道具が入っていた。
僕の『道具の名前と用途が判る程度の能力』を使ってみると、このギルドカードという名前をした道具の用途は『商業ギルドでの身分保障及び預金の管理』とあった。どういうわけか、リンノスケという名で僕はこの街の商業ギルドに登録されているようだ。いつの間に? 不思議だ。
しかしながら宣伝をするにもこの世界の文字は書けないし、宣伝という行為にあまり積極的になれない。良いものを取り扱っている店というのは、喧伝せずとも自ずと客がつくものだ。
あのときは確かこういうやり取りをした──
*****
──カラン、カラン……
ドアに掛けたベルの音。
ようやく客がやってきた、小奇麗な洋装をした男は店の中を珍しそうにキョロキョロと見回す。
「ようこそ、香霖堂へ」
僕も本から顔を上げて、はじめての客にそう告げる。
「ここは何を売っている店なんだ?」
「古道具屋ですよ。ここに取り扱っていないものは、ないと自負しております」
とはいっても、道具の価値がわからない者にとっては玉石混交の石にしか見えないだろう。
だから気を使って店を多少模様替えし、髪飾りや簪などを客の目につくところに飾ってある。こちらの世界で模様替えした内容は、幻想郷でも反映されるので魔理沙から「どういう風の吹き回しだ?」と訝しがられたけれど。幻想郷の方では滅多に新規の客は来ないし、そこまで気を使うことはない。
だがここは少なくとも一般人が迷い込んだら危険な魔法の森近くにある店ではなく、街の中にある普通の店舗だ。知り合いもいないのだから、客に売り物を示さねばならない。
「髪飾りか……古道具といったな。どこから仕入れたものだ?」
「仕入先は秘密です。盗品ではないことは保証するけれど」
中には僕の仕入先に、髪飾りそのものではなく髪飾りのついた死体が流れ着くこともあり、それを供養代に貰うこともあるけれど。
しかし放置されて妖獣や妖怪の餌になるよりは死んだ当人も埋められて線香の一つでも上げられた方が心休まるだろう。中には放置された挙げ句に悪霊になった者もいるのだ。
「ふむ……」
男は物珍しげにレース編みの髪飾りを眺める。薄茶色の髪の毛をして赤褐色の目を鋭く光らせた男だ。目つきで、単なる物見遊山ではなく商売人だとわかる。
「幾らだ?」
「さて。ここは古道具屋ですので、適正な値段で買い取ってくれるお客ならば誰にでも売りますよ」
問い返す。商売人として勝負を仕掛けられたと思ったのか、眼光が肉食妖怪のようにギラギラと光った。
僕は単にこの世界でどれぐらいの価値があるかわからないので、相手に決めさせようと思っただけだが。しかしちょっと楽しくなってきた。これが魔理沙なら代金替わりにキノコでも差し出してくるところだが。
「……大銅貨一枚でどうだ」
「出口は振り向いて向こうですよ。どうもありがとう」
ふむ? 銅貨……銅銭か? しかし大と名がついた。そうなると中と小があるのだろうか。
どれぐらい価値があるかわからないが、どう見ても一筋縄ではいかない商売人らしい買い手が付けた値段だ。間違いなく、彼がその髪飾りを売るとしたらその値段以上に設定するだろう。別にそれは悪いことではないが。
男はむっと口を結んでから、やおら開いた。
「誰かの使い古しだろう」
「そう見えるかい?」
実のところ僕の店に並ぶ古道具というのは、誰かから引き取った品物ではなく拾ってきた物が大半である。拾ってきた道具は主に外の世界で忘れられたような商品であり、誰かが捨てたというわけではない。ほぼ新品の状態どころか、問屋に卸すような箱詰めになっている物まで見つかる。
客がジロジロとレースを造花と合わせた髪飾りを眺める。脂汚れも傷一つも無いはずだ。それにしても造花……つまり花もよく僕の仕入先に落ちている。造花や花が時折大量に見つかって、持って帰れないこともあるが恐らくこれは供養を忘れられた者に捧げられた花が幻想郷に流れてきているのではないだろうか。朽ちる花などは無縁塚に埋めた者全員の供養として置いていくが、問題は造花だった。これはいつまで経っても朽ちることはない。あんな妖気が満ちている場所でいつまでも器物が存在すれば百年経たずとも妖怪化してしまうだろう。そこで僕が考えたのが、髪飾りに組み合わせてみては?ということだった。造花のついた髪飾りは実は僕がアレンジしたものなのだ。というのも、妖怪化した器物こと付喪神は『九十九髪』とも言われている妖怪で、髪が生えているのだ。これらが百鬼夜行をしているのを仏教の四天王が鎮め、その髪の毛をすべて丸坊主にして出家させたという話も残っている。そこで妖怪化しそうな器物に髪を守るための飾り──護符の役目を与えた。九十九髪に髪を守らせるわけだ。
しかし実際に作ってみたところ霊夢や魔理沙は「ダサい」とか「帽子に合わない」とか言って不評だった。とある花の世話が好きな妖怪など、造花を見ただけで鼻で笑っていった。結局幾つかを、人形の飾りにするからと人形遣いが購入していったきりだ。
「──おい。わかった。では大銅貨二枚だ。これ以上は出せん」
「毎度」
考え込んでいる間に交渉は進んでいた。難しそうな顔をしながらヘアゴム一つおまけにして最初の倍の値段で買い取らせた。
まあ、相場が僕もわからないんだ。今回は勉強させて貰うとしよう。
大きめの銅貨二枚を渡され、客は商品を持って出ていった。
*****
──というような商売を最初に行い、得た通貨を持って少し街を探索したのだった。店には念のために魔法の鍵を掛けて。
まず適当に市場で沢山売っている果実を購入した。30リオンと言われ、大銅貨で出すと少し嫌な顔をされたが、じゃらじゃらと穴の空いた銅貨九枚と小さな銅貨七枚がお釣りで渡された。どうやら、中銅貨と小銅貨らしい。
店に戻って軽く計算してみると、僕が売った髪飾りは柿に似た果実66個分ということになる。人里だと大体柿3つぐらいの値段で屋台の蕎麦が食えるから、蕎麦に換算すると22杯分か。拾った髪飾りと安い造花の組み合わせにしては、結構な値段で売れた。
思わず帳簿に書き込む際にウキウキしてしまった。
翌日。というか幻想郷に戻ってきてのことだ。霊夢が勝手に帳簿を見つけて、
「蕎麦22杯分の商品が売れたなら、霖之助さん。お蕎麦食べに行きましょ」
「……目ざとい」
現地で手に入れた通貨をそのまま人里の通貨には変換できないのでそう記したのが運の尽き。
仕方なくその日は霊夢を連れて人里で蕎麦を食べた。一番安い店で。あの子は二杯も食べた。止めなかったらもっと食べたに違いない。
こうして片方の世界で眠るともう片方の世界で目覚める生活をしていては疲れるのではないかと思うが、不思議と肉体的にも精神的にも疲労感はそれほどではない。
ちなみに数日間眠らずに片方の世界で過ごして戻っても、もう片方の世界では一晩しか経過していなかった。
ますます不思議だ。いつになればこの状態が戻るのか。そして戻った際には、もはやいけなくなった片方の香霖堂はどうなるのか。不安もある。
夢の中の胡蝶は目覚めた瞬間に存在が消えてしまうのだろうか。
そんなある日の朝。
異世界で遅めに目を覚ました僕は何をするでもなく、本を読んで過ごしていた。まだ店も開けていない。異世界に来たからといって、商売のやり方を変えたり、なにか勤勉に出歩いて世界の謎を探したりする必要もないだろう。
そういうのは気が向いたときにやるだけだ。幸いなことに、僕は食べなくとも生きていけるので店を開けないことによる餓死は当分無い。
すると、
──カランカラン。
おや? 本日休業にしていたのにドアが開いた。
朝に札を出しに行って(この世界の人が読めるとは思わないけど)そのまま鍵を閉めるのを忘れたらしい。
本から顔を上げて対応しようとするが──
「うん?」
誰も入ってこない。頸を傾げると、床近くに小さな手が店の中に伸ばされて──地面に落ちた。
「……」
いつだったかに、開店前にやってきて店先で雪に埋もれた庭師の少女を思い出す。だがここは幻想郷ではないし、ドアを開けると同時に倒れるとは緊急事態かもしれない。
店先で死人が出るのはさすがに遠慮願いたい。僕は急いで立ち上がり、入り口へ向かう。
そこには紺色の髪をした、三才ぐらいの少女がドアに向かって前のめりに倒れていた。
「君、大丈夫かい?」
呼び起こそうとして背中に触れると、非常な熱を持っている。どう見ても病人だ。
慌てて店の外を見回すけれど、通行人は誰一人居ない。この子の親らしき人も。どうやら単独で歩いていて、急病で倒れたようだった。
「仕方ない」
僕はその子を抱き上げて店の中に入れ、今度こそ入り口に鍵を掛けて店の奥にある住居へと運んだ。確か、霊夢と魔理沙に使った風邪薬が残っていたはずだ。暫く休ませよう。