「――――わたしガ、このうでをなクしてから10ねんくらイがタつ」
特に感慨もなく、アストレアの口から語られた真実。
それを聞いたとき、少しの間をおいて私の心に飛来したのは驚きと困惑、そして納得だった。
「……そう、なんだ。今はもう痛くないの?」
落ち着いて、取り乱すことなく感情を悟られないように問いかける。
「ああ、だいじょうぶダ」
少女はそう言って、ひょいと義手を持ち上げた。
先程まで臓腑と血に濡れていた隠し刀は、僅かにその痕を残すのみで鈍い鉛色の色彩を取り戻している。強い耐久性を持っているようで、なかなかの業物なのだろう。
「まあさっきのあれですごく手に馴染んでるのはいやでも分かったよ。でも今まで大変だったんじゃない?」
「もうなれタし、こうなっテからのほうガながイ」
「そうなんだ。ってことはここに住む前からそうだったの?」
「あア」
会話が何気なく交わされる。アストレアは大分コミュニケーション能力を取り戻し始めたようだ。
簡単な言葉の言い回しもしっかりと理解していることから、ここに来る以前はそれなりの教育を受けていたのであろう。
ただ、そのことについては今は触れないことにした。
決して軽い雰囲気では話せない事柄であろうことは察せられたからだ。それを今の少女の口から説明するのは辛いはずだった。
そのことよりも、これらの応答で私は勘違いをしていたことを悟った。
先日聞いた物語の語り部、ヨシの話と照らし合わせれば、この少女が腕を失くすのは10年よりももっともっと前なのだ。
あの物語が多少の脚色を交えていたとしても、当時猛威をふるっていたのであろう海竜と、モガの森で目撃された片腕の女の子が話の起点になっていることは変わらない。
しかし、目の前の少女が嘘を言っているようには見えないし、事情を知らないはずの私相手にそんなことをする必要もないだろう。
すなわち、アストレアは物語で出てくる少女とは別人物。
どちらも少女でかつ片腕がないという偶然とは言い難い相似点を持ってはいるが、それだけは確定している。
そして何があろうと、少女の後ろに鎮座する遺骸は昔のこの森の王のものだ。
割と最近まで生きていたのであろうことは驚きだが、それはここに私が来る前のことだから当時のことはよく分からない。
「そっか。うんうん、やっぱりね」
「……?」
一人で勝手に頷いている私にアストレアが訝しげな目線を送っている。
確かに今の私は大分不気味に映るであろうことは自分でも分かった。
ただ、少し前までの自分なら混乱していただろうが、今は現実がいやにしっくりと収まってくる。そしてそれが何故なのかはなんとなく分かっていた。
「あっと、ごめんね。少し気になったことがあって」
そう言って謝りながら先を促す。
アストレアは気にしてもしょうがないと思ったのか、小さくため息をついて膝ほどの大きさの石に腰かけた。私もそれに倣って適当な大きさの石に座る。
「わたしガここでしななかったノは、とうさんノおかげダ」
再び語りだした少女の表情からは、どこか懐かしむような雰囲気が見て取れた。
「ここ二まよいこんだとキ、とうさんハまだいきていタ。わたしハいきることガいやだったかラ、たべられてもいいトおもってわざとここ二きた」
「……この森までは海から?」
私の問いに、少女はこくりと頷く。肯定だ。
「でも、とうさんハとくべつダった。おなカがすいているの二、わたしをたべなかっタ。ほかノいきものはワたしをたべるだけなノに、とうさんハちがっタ。
ソレよりも、いきたくナかったわたしガしぬのヲ、ゆるしテくれなかった。
わたしヲおいかけてクるいきものハ、ここにはやってこなかっタ。わたしだケ、はいるノをゆるしてもらエた。
たべものヲくれた。のめルみずガあるとこまであんないしテくれた。いっしょにねむってクれた……」
一昔前の大事な思い出を一つひとつ思い出しているのだろう。アストレアは目を閉じてゆっくりと言葉を紡ぐ。
ここまでの長文を話すことは久しぶりなのだろう。言い終えた後に小さく嘆息が混じった。
しかし、ふと目を開けて私の方を見たとき、少女は憮然とした表情になった。
「これハすごいコト。わかル?」
まるで悪戯をした子を諭すような物言いで、彼女は私に問いかけてくる。
はたからみると子供が大人に向かって言っているように見えるが、実年齢は変わりない程度だからだろうか。妙に迫力がある。
しかし、今の私にとってみれば気に掛けることではなかった。
「大丈夫。ちゃんとわかってるよ。だって狩人だからね」
「……なんだかわかっていルのかわからなイかおしテいる……」
「そんなことないよ」
(実はそんなことあるんだけどね)
私は頭の中で呟いた。恐らく私が微笑むというか、若干嬉しそうにしていたからだろう。さっきから勝手に納得したり嬉しがったりと、おおよそ話を真面目に聞いているようには見えないと自分自身が思う。
まるで、
それをアストレアは私が分かっているのか釈然としないと言った。もしかしたら人の感情を読み取る才能は、私より彼女のほうに軍配が上がるかもしれない。
「きっと、その剣のもう片方はここでもらったものなんでしょう?」
そう尋ねると、少女は驚いて身を乗り出した。
「……どうしテわかった?」
「うーん。アストレアの話を聞いてたらなんとなく、かな。ほら、しっかりと話を聞いていたでしょ?」
少女は少し不満そうにしながらもこくこくと頷く。
ほとんど脈略もなく事実を言い当てられたことから、納得しざる得ないと判断したのだろう。
そしてまたひとつ。明らかになったこと。
おとぎ話に出てくる少女もまた、実在する人物だったということだ。
再び笑みが浮かんでしまいそうになるが、アストレアがいよいよ怒り出しそうなので頑張って堪える。
私は目線を遺骸の方へと向けて言った。
「そのお父さんっていうのが、あれなんだね」
「そう。いまモ、わたしをまもっテくれる」
アストレアは、微笑みを深めて答えた。
その様子はどこか誇らしげで、家族のことを褒められたときのそれに近いものを感じた。
「今も、っていうのは?」
「わたしガさみしくならないのハ、よる二あんしんしてねむれるノは、とうさんノおかげ」
「それに、あっちノほうから、どうぶつハはいってコない」
少女はそう言って、私がはじめに入ってきた方の洞窟を指差す。
「あー、確かに。私がここに来る時もなんとなく何かがありそうな感覚はあったなあ」
モンスターたちはそんな気配に敏感なのだろう。アストレアの後ろに鎮座する遺骸の放つプレッシャーのようなものについては、もう何度も味わっているし、今も変わらない。
先程のルドロスたちは高い興奮状態にあったからあの場所でも気付かなかったのだろうが、この場に入るまでは果たしてできるだろうか。
陸上に住むモンスターなど、本能的にここを避けていくはずだ。場所を隠ぺいするよりも、ある意味余程安全な寝床だと言えよう。
(これはもう、敵わないな……)
私は内心で驚嘆、そして畏怖を覚えていた。
すなわち、死して尚、かの竜は少女を守り続けていたのだ。この森での己の立場を使って、ここをある種の禁忌とした。
全ては、アストレアが安心して暮らせるように。
頭蓋骨から尻尾の先まで欠けることなく残った骨から、決して朽ちないという気迫が伝わってくるようだった。
(しかも――)「――アストレアはさ、そのお父さん声がまだ聞こえるんだよね」
「……ソナタにはきこえなイ?」
私の問いかけに対して、アストレアは不思議そうな顔をして首をかしげる。
「うん、だめみたいだ」
そんな少女に私は苦笑いを返す。
さっき彼女と遺骸の間で会話のようなものが成り立っていたのには戸惑ったが、今となってはあまり違和感を感じない。
(幽霊とかいうよりも、魂、みたいななにかかな)
アストレアが過去の竜の姿を重ねているのかもしれないが、それにしてはさっきの会話があまりにも自然すぎる。
一昔前の私なら魂の概念など頭ごなしに否定していただろう。そんなはっきりとしないものがこの世界にあるはずがない、と。
しかしこのおとぎ話をめぐる一連の出来事を通して、私の考えは変わっていた。
再び遺骸の方へと意識を向ける。
これまで感じ取ってきた威圧感のなかに、今は必死に少女を守ろうとする優しさが感じ取れる気がする。
それらの源泉たる「心」は果たして遺骸に宿っているのだろうか。それを知りうる術を私は持っていない。
彼と話せるらしいアストレアが、少しだけ羨ましかった。
「なら、ふれテみるトいい」
その一声が、私の思案顔を少女の元へと立ち返らせた。
「え、いいの?」
「まえはソナタのことをしらナかったから。いまハ、はなしをしたラいいとおもウ」
そういうと少女は立ち上がって、私の手を取って遺骸の元へと引っ張っていった。その足取に乱れはなく、調子を取り戻しているのが分かる。
「わ、ちょっと待ってっ」
その回復力に感嘆しながらも、私は引っ張られるがままに後を追った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「――こコ、てをおいてみテ」
竜の鼻の先へと私を連れてきたアストレアは、見本を見せるかのように、とん、と頭蓋骨に手を置いた。
「…………」
私は少し躊躇いを覚えて少女の方を見る。
アストレアは私の方をじっと見つめていたらしく、しばらく互いの目線が交わった。
(その瞳は、反則……)
暗緑色の、少女の気持ちを忠実に投影する瞳には、きっと大丈夫だという信頼の光があった。それだけしかなかった。
しかし、おかげで決心はついた。
たとえ何も感じられなくても、何かを掴みとれる気がした。
装着していたグローブを外し、遺骸へと手を伸ばす。
そして、アストレアの左手の隣に、私の右手が直に触れた。
(――――――――)
それは骨特有のざらりとした手触りで、しかし脆さを感じさせない不思議な感触だった。
風化した骨に見られる真っ白な部分は見られず、中身がしっかりと籠っているかのような重みのある白色をしている。
なるほど、確かに崩れ落ちないのも頷けるだろう。
普通は軽いはずの骨から、重厚な重みすら感じ取れる。
実質的な質量が、あの壮大な気迫と自然との違和感のなさに一役買っていたのは確かなようだ。
――しかし、それだけだった。
そこにあるはずの、アストレアが感じ取っているのであろう「なにか」は分からない。
その中にあるのであろう気迫の原点は、触れただけでは見透かせないのか。
そんなことを考えていると、急にその気配に対する畏怖が私の心を焦らしていく。
威圧感に押され、無意識に手を放そうとした。
そのとき。
「めをとじテ、おちついて。つたわらなイはずがない。ソナタはそんなによわくなイ。わたしトここをまもったソナタなら、とうさんもぜったい二はなしてくれル」
隣の銀髪の少女の声が、私の手をその場に留めた。
幾多のルドロスたちからここを救ってくれたのだから、きっと竜は応えてくれる。気持ちが届かないはずがない。
ソナタはそんなに弱くない。その一言が、手放そうとする私を赦さない。
そんなアストレアも、きっと人一倍強い芯の持ち主だ。
「――うん。分かった」
小さく深呼吸をして、乱れた呼吸を整える。
そして少女に言われたとおりに、目を閉じて意識を集中しようとして、
(いや、逆か)
ふと、思いついた。
(自分の心を曝け出さないといけないんだ)
自分が感じ取ろうと、掴み取ろうとするあまり、主体的な守りにはいっていたとするならば。
あえて自分の心を晒し、相手が押し入る余地を創り出してしまえばいい。
先程とは逆に、意識を委ねるようにして遺骸の発する気配に歩み寄った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
掌から伝わるのは、相変わらずの堅牢な骨の感覚。
そして全身に伝わるのは、圧倒的でかつ優しい、竜の王の気迫。
(……私は知りたい)
自分をここまで駆り立てた理由は知っている。何を夢見ていたのかは、アイシャが教えてくれた。
私は確かめたい。それがどんな形であろうと。いっそのこと我儘に。
あの限られた時の中で、薄れゆく意識の中で、必死に形にしようとした何かを。
おとぎ話の竜はここで何と出会って、何を想い、何かを見出したのか。
アストレアが迫りくるルドロスたちから一歩も引かずに、自分を顧みることもせず守り抜いた入り江に。彼がその体を失くしてからも護り通そうとしているこの場所に。
私がアストレアと出会い、傷つき、共に戦ったこの地に。
おとぎ話で竜が気まぐれに助けた少女が育んだ、形のない「なにか」を。
人と竜のこころの狭間には、何が――――
「――――――――ぁ」
次回よりクライマックス
一話とは限りません
更新が停滞気味ですごめんなさい……