こころの狭間 少女と竜の物語   作:Senritsu

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第2話 妖精の足跡

 

 

 

「かみつかれる寸前に身を引いていたのか、彼の鋭い牙が捉えたのは動物の片方の腕だけでした。

 噴き出した鮮血が、もともと彼の血によって淡く染められた砂浜を真っ赤な朱色に染め上げました。

 

 どうせ逃げられないのだから一息に食われてしまえばよかったのに。彼はそんなことを思いながら食いちぎった腕を噛み砕きました。

 そして相手が最初から抵抗らしき動きをしていないことに気付いて、様子を確かめました。

 

 腕を肩近くから食われたその動物は、何かを諦めたかのような、笑っているような表情を浮かべていましたが、足をどうにかして立たせようとしているようでした。

 

 がたがた震えながらもどうにか立ち上がったその動物は、立て続けに彼の度肝を抜く行動に出ました。

  

 片方の腕でかみつかれた方の腕を押えながら、彼の方へと歩み寄ってきたのです。

 

 一歩足を踏み出すたびに耐えがたい痛みが走るのか、大きくふらつきます。

 それでも歯を食いしばりながら、しっかりとこちらに向けて歩を進めていました。

  

 彼はあまりの驚きでうなることも出来ずに動きを止めています。

 そんな彼の眼を、動物は血と涙でぐしゃぐしゃになった目でしっかりと見つめていました。

 

 いちど倒れこんでは懸命に立ち上がり、とても長い時間を掛けて彼の近くまで辿り着いたその動物は、半ば倒れこむようにして彼の頭にもたれかかりました。

 それによってやっと我に返った彼は恐れを感じて牙を剥きました。

  

 その牙に動物のもう片方の腕が回されます。

 恐怖におののく子どもをあやすように彼を抱きしめた動物--幼い人の雌は、無理矢理笑顔を作るかのように顔を歪ませました。

 そして一瞬だけ彼の眼を見たあと、目を閉じて、

 

 ――――彼の口元にある傷をぺろりと舐めました。

 

 ……それは今日の朝に少女が彼にしていたこととなにも変わらない行為でした。

 彼は今まで目の前の存在を殺そうとしていたことまで忘れて、感覚を集中させて朝の記憶を呼び覚ましていました。

 

 一人と一頭の不思議なふれあいはしばらく続きました。

 いつしか辺りは夕方になっているようでした。

 夕日が真っ赤に海を染め上げています。しかし森にはいつからか雨が降り始めていました。

 ざああ、と降り続ける雨は少女の顔を洗いました。夕日の光が雨に反射して散りばめられた宝石のような光となって彼らを覆いました。

 あの古の龍が帰ったのだろうか、もう二度と訪れてほしくないものだ。彼は落ち着きを取り戻し始めた頭で思います。

 

 少しずつ剥かれていた牙が収まり、息づかいも落ち着いてきているのを彼女は感じたようです。またもくすっという声を上げて……

 

 とさりと倒れました。

 

 頭にかかっていた重みが急に軽くなったことを感じた彼は、地面に倒れこんだ少女の様子を窺いました。

 その腕から流れ出る血を見て、彼は彼女が血を失いすぎていることを悟りました。

 少女は荒い息をしながら立ち上がろうとし、ふとこちらを見て泣き笑いのような顔を浮かべると、自然な動きでその身を彼にさらしました。

 まるで彼に食べられることを望んでいるかのような彼女の姿を、彼は感情を窺わせない瞳でじっと見つめました。

 

 彼は目の前の少女に母親の姿を重ねていました。

 母は、彼が幼いころから絶えることのなかった生傷や、体についた汚れを熱心に舐めてくれたものでした。

 そのときの安心感を忘れることはありません。一人立ちしたてのころは、母のいない寂しさで、今では考えられないくらいおどおどしながら過ごしていたのでした。

 

 今でも、たまに遠い記憶になったそれをぼんやりと思い出します。この地の王となり、守られることなどない彼にはこれからも味わうことのできない感覚になるはずでした。

 

 もう思い出すことなどないはずだった感情を再び呼び起こされた彼は、この不思議な少女を特別な存在として扱うことにしました。

 

 自らが生きゆく上で役に立つ行為をしてくれたのならば、今は殺しはしないでおこう、と。

 

 それはこの世界での「共生」とよばれる判断の仕方でした。

 あくまでも相手を餌として食べない程度の緩い認識でしたが、少女は殺されずにすんだのです。」

 

 ここで老婆は再び話を切った。焚き火の灰をかき出している。

 なんとなく、この物語の山場を越えたんだ、と思った。

 

 うたた寝することもせず真剣に話を聞いていた子どもたちは、総じてほっとした表情を浮かべている。ちらほらと「……よかったぁ」などという声も聞こえる。

 

 私は考えすぎなのか職業柄か、彼らのように手放しで喜ぶことはできない。

 今まで見聞きした人と竜の物語はどれもが恋に関係する物語だった。結末は幸福なまま終るか悲劇かのどちらかで、人間よりの視点で話が進む。

 

 その点今聞いている話は他とは違った印象を受ける。

 獣の視点で展開される語り口、先読むことのできない少女の言動など、経験したことのない要素が多いのだ。

 何より、モンスターの世界の現実を痛切に表している描写がある。言うまでもなく少女が腕を喰われる場面だ。モンスターにとって人間は所詮獲物でしかないことを思い知らされる。

 

 ……それにしては安易に殺さない辺り、非現実を組み込んでるよね。

 そう思って嘆息する。一応は読み聞かせようであるということか。

 しかし、ならば「共生」という言葉が気になる。簡単に心を開くはずもないが、やっぱり現実よりの物語だ。理想と現実、なかなか微妙な関係を綴っている。

 子どもたちに自然の脅威を教ようとしているのかと思えばそうではなく、だからといって架空の物語としてはいささか融通の効かない設定である。

 

 なんだかなあ、と思っていると……ふいに、ある仮説が頭に浮かんだ。

 

 それは深い思考の中で瞬く間に筋道立っていき、ひとつの答えに結び付く。

 ……すなわち、この物語の根幹に迫るものだ。

 寒いわけでもないのに、ざわりと鳥肌が立った。

 

 ――いや、まさかそんなはずはない。考えが飛躍しすぎている。

 

 頭ごなしに自分の考えを否定する。

 しかし、一度覚えた感覚は消えることはなかった。

 

 「いつまでたっても訪れない最後の瞬間に疑問を抱いた少女は、身をよじろうとしましたがなかなか体を捻ることができません。

 顔だけ動かすとすぐそこには少し前に自分の腕を食べた竜の顔がありました。そのまま少女を食べるわけでもなく、その舌で無い方の腕の先を押さえていました。

 そういえば、さっきまで言葉にできないほどの痛みが支配していたはずの腕の感覚が、今は麻痺してしまったかのようになくなっています。……出血も収まっているようです。

 

 まさかこれはさっきまで私がしていたことをし返してくれているのか。

 にわかには信じられない話でしたが、現に竜は少女が死なないようにしているとしか思えない行動をしています。

 

 目の前で起こっている奇跡に、自分はここで死ぬのだとばかり思っていた少女は嗚咽を漏らしました。……既に涙は枯れ果てて流れていませんでしたが。

 

 「ぁぁ、神様、有り難うございます」

 

 そう言った少女は、腕の痛みが収まって緊張が途切れてしまったのか、既に血を失いすぎてしまっていたのか、気を失ってしまいました。

その後しばらくの間も、竜は熱心に自らが少女に負わせた傷の止血に努めていました。

 雨は相変わらず降り続けています。夕日はしかっり沈み、月明かりが彼らを照らしていました。」

 

 老婆はかがり火の灰をかき出しながら話を続ける。

 火の勢いも、もう大分弱まってきた。

 

「朝になって彼女は目を覚ましました。

 入り江に差し込む朝日の光と所々溶けたような腕の傷が、昨夜の出来事が夢ではないことを雄弁に物語っています。

 

 体を起こすと途端に目眩がして、再び倒れこんでしまいそうになりました。昨日の怪我で、血が足りていないようです。頭がぼんやりしています。

 ふらふらしながらもどうにか意識を覚醒させると、何故か香ばしい匂いが漂ってきました。

 

 後ろを振り返ってみると、彼の竜が海で捕らえたと思われる草食竜に食らいついていました。

 

 少女は血飛沫が飛ぶ光景を想像して身構えましたが、不思議なことに彼の口は全く血に濡れることはありませんでした。

 よくよく観察してみると、竜は相手の肉を前もって焼き焦がしてから食べているようでした。先程の香ばしい香りはこれだったようです。

 

 しばし竜の食事風景を眺めて、さて自分も木の実と魚を採集しに行こうかとした少女でしたが、ふと視線を感じて振り返ると、竜と目が合いました。

 その金色の瞳は相変わらず無機質なものでしたが、少女はしっかりと目を合わせました。

 

 しばらくの間見つめあっていた一人と一頭でしたが、ほどなくして竜が視線をそらし、今まで自らが食べていた肉の一部を少女によこしました。

 

 その肉はご丁寧にしっかりと焼かれています。

 少女は少し躊躇しましたが、思い切ってそれを口にしました。ここで食べないで貧血で倒れるよりはましだと考えたのです。

 

 その肉はお世辞にも美味しいとは言えず、どきどきバチバチッと何かが弾けるような不可思議な音をたてていましたが、焼き目は肉の中まで通っていました。

 昨日から何も食べていなかった少女にとって、それは何よりも嬉しいごちそうへと昇華しました。

 竜の方もこの動物が貧弱で、生肉を食べないことまで知っていたので焼いた肉を渡したのです。それを抜きにしても生肉を焼いてから食べることを彼は好んでいました。

 

 少女が夢中になって肉を食べているのを、彼は感情の読めない瞳で見つめていました。しかしやがて興味を失ったかのようにそっぽを向くと、食べ終わった草食竜の骨を器用にくわえて海へ潜っていきました。

 

 戻ってきてみると、少女が枯れたはずの涙をぽろぽろと流しながら言い寄ってきてまた困惑するはめになったのですが……」

 

 「その日から、彼の竜と少女は同じ寝床で生活するようになりました。

 

 昼の間、竜は海や森に出て狩りを行い、少女は入り江から出て採集をしていました。

 彼女は彼が狩った獲物の皮と、彼から剥がれ落ちた鱗を繋いで作った服を常に身に纏っていました。

 剥がれてもなお衰えない覇気を持つその鱗は、彼女を立派に守ったのです。

 

 日が落ちると竜と少女は一緒に眠りました。

 

 時たま彼が傷だらけで帰ってきたときには、少女が夜通し傷の手当てに当たり、逆に少女が傷だらけになって戻ってくると、彼が少女が眠るまで起きて傍に寄り添いました。

 彼女は竜の側で寝ることで安全を手に入れ、竜は誰かと一緒に眠る暖かさを共有する。彼らの関係はそれ以上でも以下でもありませんでした。

 

 互いの生活、想いが相容れることなど無いことを分かっていて、それでも一緒にいようとするその姿は、はたからみるとすれ違っているようです。

  

 しかし、少女と竜の絆は強く、固く、夫婦のように思いやりに溢れていました。

 

 ……その後の彼らがどうなったのかは誰も知りません。

 しかし、この出来事のあとから、モガの森では白と蒼の外套に身を包んだ妖精が見られるようになったのでした」

 

「――これで、お話はおしまい。みんな、よく眠らずに聞いてくれたね。偉い子たちだ」

 

 そう言って老婆は締めくくった。誰かが「ほうっ」とため息をつき、途端に厳かな雰囲気が和んでいく。

 結局最後まで話を聞いていた子供たちは、少々眠そうにしながらも思い思いの感想などを話している。

 私もいろいろと思うことがあるが、もう夜も遅い。まずは子どもたちを家に帰らせないといけない。

 

 「みんなー、ヨシおばあちゃんのお話も終わったことだから家に戻らないとね。

 質問したいこともたくさんあると思うけどまた明日にしよう。もう遅いから家族の人が心配してるかもしれないよ」

 

 そう言って子供たちをそれぞれの家まで帰らせる。もう夜も遅く子供たちだけで帰らせるのは少し危ないので、私も付き添うことにした。

 質問攻めをしてくる子供たちに付き合いながら、家の近くまで案内していく。 

 家が遠い子たちを近くまで送り届けて戻ってきたとき、老婆――ヨシはかがり火の片付けをしていた。

 

「手伝うよ。残った炭はどうすれば良いの?」

 

「おぉ、ありがとなぁ。おいの家の近くに薪置き場があっから持ってくれるかい?」

 

「了解」

 

 そう言って、ヨシと二人で夜道を歩く。月が出ていないので辺りは暗いが、水平線まで散らばる星たちはなかなか幻想的だった。

 

「今日のお話はどうだったかい? 大人のアンタに楽しんでもらえてたら嬉しいんだけどねぇ」

 

「……正直ちょっと不思議な感じだよ。今まで経験したことのない作風っていうか……不意討ちを食らったみたい」

 

「彩鳥さんが初めて子守唄を歌ったときみたいな感じかね?」

 

「あー、似てるかも。あれは最初びっくりしたなあ……ってどうしてそのこと知っているの!?」

 

「アンタ自分で話してたじゃないかい。そんときのアンタは狐につままれたような顔してたからよく覚えてるよ」

 

「う、恥ずかしいなあ……忘れてよそんなこと」

 

 そんな他愛もない会話を続けながら歩き続けていると、ヨシの家が見えてきた。

 

「そういえば、ヨシおばあちゃんの語り口にも結構驚いたりしたよ。まさかあんなに口調が変わるとはねー」

 

「そうだねぇ。でもあのお話はちょっと難しくて固い感じで話した方が良いのさ。適当に誤魔化したら森の神様に失礼やけぇしな」

 

「ああ、やっぱり教訓っぽいのも混じってたか。ただのおとぎ話にしては重いもの持ってるなと思ったよ」

 

 そう私が言うと、ヨシは不思議そうにこちらを見て言った。

 

「何言ってんだい。あれはほっとんど本当のお話さ」

 

 

 




やっと主人公が出てきました。
お婆さんターンを長くしすぎた……

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