――ふつ、と。私の身体が私の意識を取り戻す。
さざ波の音が少しづつ耳に届き始め、僅かに香る潮の匂いがここが砂浜の上だということを思い出させた。
大きく深呼吸をひとつ。そしてゆっくりと瞼を開く。
その先に広がっていたのは不思議な闇色の空間ではなくて、しっかりとした質感のある色彩を持った光景だった。
目の前に伸ばした私の腕を、温かな夕方の陽光が染めていた。どうやら、あの出来事からあまり時間は経っていないようだ。
(――夢、だったのかな)
そんな想いが私の頭をよぎった。
きっとそれは願望のようなもので、でも手放すのには惜しいくらいだ。
だって、あれは本当に夢の中にいたかのように神秘的で、幻想的な……あまりにも切ない終わり方だったから。
しかし私のその想いが、所詮叶わない願い事でしかないことは私自身が一番分かっていることかもしれなかった。
とさ、と隣で何かが音を立てる。
目を向けてみれば、そこには白と蒼の服に身を包んだ少女が膝をついて項垂れていた。
「……っ……ぅ」
抑えた声が、それでもはっきりと私の耳にも届く。
そのしだれがかるように伸ばされた手と、その手に触れているモノが。
何よりも、乾いた砂浜にぽたぽたと落ちていく雫が。
(アストレア……)
彼女のどんな感情も、今の私には表現できない。彼女にかける言葉も見つからず、それに伴うどんな行為も今は空虚なものにしか思えなかった。
「……ぁっ……ぁぁ……!」
ただただ痛切に現実を表し、突きつけてくる彼女の静かな慟哭。
私はそれを、ただ黙って見守ることしかできなかった。
アストレアと同じように置かれた私の手の先からは、硬質でざらざらとした骨特有の感触が伝わってくる。しかし、それだけだ。
その頭蓋骨の主、海竜の遺骸から与えられる情報に、それ以上のものはない。今まで私が感じていた気迫のようなものは消え去って、なんだか抜け殻のような印象を与えさせた。
そして、私の頬にははっきりと伝った涙の感触が残っている。
これらの事から言えることが一つしかないことは、もう明らかなことだったのだ。
「――潔いのか、不器用だったのか……最後まで、よく分からなかったなあ……」
彼はもう、ここにはいない。その骸から流れ込む波動を感じることはもうできない。
その存在があるべきところに戻ったとするなら、それはやはり空の上にあるのだろうか。
ならきっと、ヒノという人もそこに。
そう思って上を向くと、岩陰から茜色にそまった空が覗いていた。夕焼けの空の中旅立ちなんて、なんとも雰囲気のある最後じゃないか。
文字通りの「お別れ」はとてもあっけないもので。
「さよなら……」
そう呟いた私の頬を、またひとつ涙が伝って落ちた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ソナタはとうサンがいっていた、ヒノというヒトをしっているノか?」
日が落ちて空に星が瞬き始めたころに、薄暗くなった入り江をさくさくとせわしなく動き回りながら、アストレアは私にそんな質問を投げかけてきた。
これからソナタにお世話になる、だから私も準備しないといけない。
そう言ったアストレアが、身の回りのものを整理してこれから持っていくものを決めているのだ。
私はその間に火薬草を摘んできて、入り江に備蓄されていた薪を使って火を起こそうとしていた。
「うん。会ったことはないけど、聞いたことならあるかもしれない」
「むかしノひとか。ソナタもひとからきいたノか?」
火薬草を何枚かにちぎって、いくつかの木炭と一緒に薪の囲いの中に放り込む。
そして適当な枝を炎剣の刃に当てて、ざあっと滑らせればその擦過部分が赤熱し、枝に火をつけた。
おお、と興味深そうに見守るアストレアを尻目に、私はその枝を焚き木に投げ入れる。すると瞬く間に火薬草が発火して高温を生み出し、中の木炭が熱せられて真っ赤になっていった。
「うん、そんな感じ。多分ヒノさんなんだろうな、とは思うけど」
「わたしよリもまえ二、とうさんトいっしょにここにすんでいタひとがいルというのをハジめてしった……」
「でも、アストレアが来る前にここに人がいたのはなんとなく気付いてたんじゃない?」
「……それは、たしか二」
そう答えたあと、ふむ、と考え込むような仕草を見せた彼女が、不意にその右手を持ち上げた。
「わたしノこのうでも、ここにあっタものだ」
鉛色の鈍い光沢を放つそれが、ただの義手などではなく隠し刃付きのモンスターとの戦闘にも耐えうる精巧な機工であることは、先程のロアルドロスとの戦いで存分に思い知らされた。
誰が作ったのかも分からないが、それがもとからそこにあったということは。
「確か、そのヒノさんも女の人でアストレアと同じで右腕がなかった、って聞くよ」
おとぎ話の設定に齟齬がないことが分かる。
ヒノと、アストレア。そして白海竜。おとぎ話に生じていた時系列の疑問は、この二人と一頭の関係が明らかになったことで収束するのだろう。
「ソナタ、けっこうくわしイ」
「村の子供たちの間ではちょっと有名な人だもんね。もしかしたらアストレア間違えられちゃうかもよ?」
「……それは、こまル……」
私の冗談にアストレアが深刻そうな顔をして考え込むので、私は慌ててそれを取り繕うことになった。
だけど、あながち冗談では済まないかもしれない。アストレアとおとぎ話に出てくる少女、二人の接点は思いがけなく多いのだ。
「ふふっ、そのときには一緒に嘘をつこうか!」
私の答えに少女はむう、と唸ってふてくされるようにまた荷造りに戻っていく。
たき火は既に周りの薪を巻き込んでぱちぱちと燃え上がり、薄暗い入り江をぼんやりと優しく照らしていた。
彼が此処から去り、私たちが戻ってきてしばらくのこと。
膝をつき、項垂れていたアストレアはおもむろに立ち上がって私に向かってこう言った。
「ソナタのすんでいルところにいく。とうさんノいっていたよう二、ここはあぶないカら」
そのときの彼女は、驚いたことに笑顔まで浮かべていた。
顔には涙の痕が残っていて、まだ目も赤いままだったが、それでも無理をしている様子のないすっきりとした微笑みだった。
どうして、と呟いた私に彼女ははっきりと告げた。
「いまもかなしイ。ふあんモある。とうさんガどうしてわたし二なにもいわなかったノかもわからナい。
でも、とうさんガいままでわたしのことをずっトおもっていてくれたコト。わすれなイためにわたしはいきないトいけない」
「――だかラ、わたしハとうさんのいたこのばしょかラ、ひとりだちスルんだ」
そう言った彼女の暗緑色の瞳の奥には、強い決意の光が揺れていた。
その眼光は、人並みを超えている。狩人である私ですら思わず竦んでしまいそうなほどの力をもった眼差しだった。
竜王のそれが他の生き物たちを震え上がらせ、立ち尽くさせる引力を持ったものだとするならば、彼女のそれは気持ちを乗せて、相手に訴えかける斥力を持ったものだ。
この眼光は、きっとここで養われたものなのだろう。いつの間にか、自身の纏う雰囲気さえ彼女は変えてみせていた。
こんなにも短い間に親との別れに向き合い、乗り越えたというのならそれは私には到底信じ難いことだ。
まさしく、森の王の子どもに相応しいと言ったところか。
「……うん、分かった。アストレアがそう言うなら、私はそれに付き合うよ」
それが彼の私に対するお願いであり、私の望みでもあるから。アストレアの申し出を断る理由など、私にはどこにも見つからなかった。
「よし、ソナタ。じゅんびできタ」
アストレアがそう言いながらうつらうつらしていた私のもとに駆け寄ってきたころには、もう夜も大分更けてきていた。
「ふあ……わかった。もう大丈夫?」
「あア」
私の確認に、少女は小さく頷き返す。しかし、その背にかけられているのであろう荷物の入った袋は、予想以上に小さいものだった。
「え、それだけでいいの? 別に私が持ってもいいのに……」
「けんトふくとひをツけるどうぐさエあればいきていけルし、ソナタのいえにそんなにどうぐハもっていけない」
立ち上がって炎剣を担いで固定しようとしていた私は、アストレアのその言葉に剣を取り落しかけた。
「どうしタ?」
「えっと、アストレアがあまりにもあっさりしてたから驚いて……私の家に来るのは決まってることなんだ」
「とうさんにソナタといっしょ二いきろっていわれてタから、おなじばしょにネるんだとおもっていたガ、ちがうのカ?」
不思議そうに小首を傾げるアストレアの顔には、悪びれというものがない。それが当たり前のものだと思っているようだ。
別に私もアストレアは自分の家に連れてくるつもりだったので、特に気にすることでもないが。
「もちろん、じゃま二ならないようにがんばルけど。……もしかしてソナタ、いえガないのカ?」
「いやいや。流石にちゃんとあるよ! その心配はしなくても大丈夫だから!」
そんな会話をしている間にサーブルスパイクと炎剣もしっかり固定され、私の出発準備も整った。
「なにか気になることはない?」
「――――、すこしまっテくレないか」
確認のために声をかけると、アストレアはふと何かを思い出したのか小走りで遺骸の方へと向かっていく。
なにか形見に持っていくのだろうかと思っていたら、ソナタも来て、と声をかけられた。
「どうしたの?」
私が追いついて尋ねると、ソナタは竜の首元に吊り下げられているペンダントのようなものを手に取った。
深く透き通る藍色をしたそれは、以前私が此処に訪れたときに手に取ったものだ。
「これモ、わたしガくるまえかラここにあったものダ」
「あ、そうなんだ。ということは、これもヒノさんが……」
私がそう呟くと、少女はこくりと頷いた。そしておもむろに手を伸ばし、そのペンダントを竜の首から外す。
「こレは、ソナタがもらっテ」
「え……、いいの? 君の父さんにとっても大事な物だと思うんだけど……」
「それなラもっとソナタがもつべきダ。とうさんノだいじにしていタものは、わたしとソナタにあげるっテとうさんガいってたかラ」
そう言って、アストレアはそのペンダントをひょい、と私の首にかけた。
小さいが中身のあるそれは、防具の胸部装甲に当たってこつんと音を立てる。かけてみればあまり気にならない重さで、紐もしっかりとしたつくりのようだ。
これも、ヒノという人物が身に着けていたのかもしれない。
「――うん、アストレアがそう言うならもらっていくよ。大切にする」
私のその答えに少女は満足そうな顔をして、再び竜の遺骸と向き合った。
「このからだにモ、おれいをいわないト」
そうして目を閉じて、そのざらりと表面を愛おしげに撫でる。
「……いままデ、とうさんをひキとめてくれテありがとウ。とうさんモ、ありがとうトいっていルと思う。
――おつかれさま」
「そうだね。私からも、お疲れさま。アストレアの父さんを守ってくれてありがとう」
少女と私の言葉に対して、彼のいなくなった骸は何も返すことはない。
しかし、それでもその形状を保ったまま十年以上もの時を過ごしてきたというのは、私も感嘆しか出てこなかった。
「――もうだいじょうぶダ。いこウ」
腰元に携えた剣をかちんと鳴らしながら、アストレアは言った。
「分かった。――よし、行こっか」
一拍置いて返事をした私は、入り江からの出口の方へ足を向ける。
少女はそんな私の横に並び立って、私と同じ歩調で歩き始めた。
「ソナタのすんでいルところに、ひとハなんにんいルんだ?」
「うーんと、二百人くらいかな?」
「……そんな二いるのカ……」
「あはは、大丈夫。村長も村のみんなも優しいから! ゆっくり慣れていけばいいよ」
「そう、ダな」
入り江から陸へ続く洞窟へ立ち入る直前に、アストレアはふと後ろを振り返った。
しかしその歩みを緩めることはなく、再び前を向いて歩を進める。
「まずハ、このはなしかタをなおさないトか」
「そうかな。私は結構違和感なく感じるようにはなったんだけど、――――」
松明の光が地面を照らす。目指す先には、ぼんやりながらも月明かりが差し込んでいた。
私と少女が振り返ることは、もうなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
人と竜が心通わせることなど、あるはずがない。
否、あってはならない。
昔の私が抱いていたこの想いは、私の願望を封じ込めたものだった。
どうせ夢物語でしかないと、そう深く胸に刻み込んでしまっていたから。
でもある竜と少女との出会いが、そんな私を変えてくれた。
まるで架空の話のような、でも本当にあった人と竜との絆の物語。
だから今の私は、心の中で胸を張ってこう言うのだ。
それは、その話はもしかしたら本当にあったことなのかもよ と。
こんばんは。作者のSenritsuです。
さて、これにて完結となります。長らくお待たせしました。
三万字で終わらすとか四月に終わらすとか言っていましたが、引っ張り続けて既に八月、文字数は十万字を超えてしまいました。見切り発車もいいとこです。
正直自分でもよく終らせられたなあとほっと一息ついているところですね。
そして、今になって書いた話を振り返ってみると、文体がやや崩れかかっていたりストーリーに支障が出ていたりと半年の月日を感じさせる変化が出てきていました。しばらくは、それの修正作業となりそうです。
でも言いたいことはちゃんと言えたかな。最後のシーンだけは明確だったのでそこを目指して行けたのがよかったのかもしれません。
あと一話だけ余談みたいな話がついてくると思うので、どうぞお楽しみに!←
……最後、自分でも続きそうな終わり方だなあと思っていたのですが、もし続きを読みたいという人がいましたら感想等でよろしくお願いします。
ネタはあるんですけどね。新しい二次とかオリジナルとかにも興味があるので……。
それでは、この作品をここまで読んでくださった全ての皆様に感謝を。
本当にありがとうございました。