これは、ある日のモガの森での一場面を綴った、ささやかな物語。
悠長の時を経て多様な変化を遂げてきた森が、その日のことを印象付けて表すとするならば。
――そう。それは寒冷期の真っ只中でも珍しい、霜が降りるほどの寒い日のことだった。
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「ふふっ……。白い息なんて見たの、初めてだ」
口に出した言葉も、吐き出す空気と共に靄となって空気に溶けだしていく。
それを手で掴もうとするかのように細い腕が伸びるが、そのときにはもう消え去ってしまっていた。
ふぅ、と付いたため息がまた空気を白く染めるが、彼女がそれに向けて再び手を伸ばすことはなかった。
名残惜しそうに下ろした手が触れるのは、柔らかい砂の地面。適度に均された砂の大地は、少女を優しく抱き留めてくれる。
森の奥深くにある静かな入り江に少女は横たわっていた。
白い簡素なワンピースを身に纏い、長く伸ばした銀色の髪をさらりと腰の方へと流している。
少女はふと自分の手が冷え切ってしまっていることに気付いた。
普段は過ごしやすい黄昏時の森の空気が、今日ばかりは冷たい刃となって彼女に牙をむく。
毎晩彼女が用意するはずのたき木さえ火を灯しておらず、顔を出し始めた月だけがぼんやりと彼女を映し出していた。
「不思議。なんでか、全然寒くないや……指はこんなに冷たいのに」
またぽつりと少女は呟く。その声はまるでうわごとのように弱々しくかすれていた。
言い切ったあと、少女は激しく咳き込む。少しだけ体が反って、胸が苦しげに上下する。
咳が落ち着いた後も、彼女の喉からはヒューヒューという音が漏れていた。
彼女は病魔に侵され衰弱していた。最早自分の身で立ち上がることさえ難しい。
手足の感覚は軽い痺れ程度にしか感じられず、今も身体の芯から響く疼痛に苛まれている。
絶え間ない苦痛に少女は苦しそうにしていた。しかし遠くから響く重厚な足音を耳にしたとき、その表情がふっと和らぐ。
「お父さん……」
そのとき、入り江の入り口から巨大な海竜が表れた。
光をよく弾く純白の身体。威風堂々としたその出で立ちはまさに王の風格を漂わせていた。
口に竹のようなものを咥えてきた彼は、その根元をばきっと折って少女のもとに器用に立てて置く。
「そんなに慌てなくても、いいのに」
おぼつかない手つきでそれを手に取った彼女は、口先にその端を傾けた。その中は空洞になっていて真水が入っている。
こくこくと美味しそうに水を飲んだ少女は、竜に向けてふっと微笑んだ。
「ありがとう。……大分話しやすくなったよ」
彼はそんな少女の姿をじっと見つめ続ける。いつもなら小さく唸って返事をするが、それもしない。
彼は無力感に襲われていた。
少女が病気の兆候を見せだしたのはひと月程前の事だ。普段なら彼女でも数日で治すそれが、今回はもうずっと彼女を苦しめ続けている。
まだ動けるうちに猫人に診てもらいに言ったりしたものの、いつもなら効くはずの薬が全く効かない。
竜である彼の目で見ても、彼女の容体が日に日に悪化しているのが分かった。
その間、彼は彼女の身の回りの世話と果物や水を持ってくることくらいしかできなかった。猫人もときどきやってきては看病を続けていたが状況が好転することはなかった。
そして数日前から、とうとう彼女は立ち上がることすらできなくなっていた。
「そんな顔しないで……。お父さんは、悪くない」
悲しそうに笑う今の彼女は、もう存在を示す気配が希薄だ。その命は吹けば散ってしまいそうなほどに儚い。
何よりも、彼女がそれを受け入れてしまっている。今まで病気に立ち向かっていた気概が感じられない。
彼はそれがたまらなく悲しかった。
「悪いのは僕だよ。……コホッ、皆の想いに……応えられない」
彼女の意志を止めることはできない。止める言葉を彼は持たない。彼女が何を言っているのかもぼんやりとしか分からない。
種族の違いというものはここに来てあまりにも大きな壁となって彼らの前に立ち塞がっていた。
悲しみを宿した彼の目を見て、少女がさらに言葉を紡ごうとしたそのときだった。
「だから――がはっ!? ごほっ! こほっ――」
再び激しい咳に見舞われる。それだけなら見守ることくらいしかできない。しかし彼は少女の口元を見て大きく目を見開いた。
咳に朱が混じったかと思えば、続いて大量の血を吐き出したのだ。口からどろりと赤い血が流れ出す。
彼は慌てて少女を鼻の先で転がしてうつぶせにし、地面へと血を吐き出させた。
少女はそれからしばらくの間血の混じった咳が止まらず、白い砂浜を自らの血で真っ赤に染めた。
彼女の身体の内に住まう生き物が彼女自身を食い荒らしている。彼には血を吐き続ける少女の姿がそう見えた。
だとするならこれはあまりにもむごい。彼と関係のない生き物がこうしていたとしても今の彼はそれを憐れんだことだろう。
少女に人というものを教えてもらった彼は、今の彼女の様子を見てそれでも生き続けろとは言えなかった。
むしろもう早く眠らせてやってくれと。彼自身でも知らない感情――何かに懸命に訴えかける気持ちに心が囚われていた。
やがて少女は状態を落ち着かせ、ぜいぜいと荒い息をつきながら彼にあおむけにしてくれるように頼んだ。
彼が少女がこれ以上血で汚れることのないように少女を移動させる。ただ、少女の顔は既に血に濡れていた。
最早半身を動かす体力すら使い果たしたらしい少女は、疲れと苦痛を滲ませながら彼に向けて微笑む。
「あはは……すっかり……血だらけだね」
その声はかすれきっており、聞き取ることはほとんどできない。しかし彼女はそのことに気付いていないようだった。
凄まじい苦痛がその身を襲っているだろうに、少女は健気に彼を安心させようとする。
彼はもう少女のそんな笑顔を見たくはなかった。その表情を隠すように顔についている血を舐めとっていく。
「ん……ありがとう。少し、休むね」
少女はそんな竜の気持ちをくみ取ったのか、ふっと息を吐いて目を閉じた。
彼は少女のさっきよりは落ち着いた様子を見て少しだけほっとし、彼女の吐く息の白さにやっと気付いた。
そういえば、今日はいつもより空気が冷たい。彼女は寒がるそぶりを見せてはいないが、この寒さは応えるのではないか。
なにかを温めるなど初めてのことだ。どうしたものかと逡巡した彼は、ふとある考えを思いついた。
彼はできるだけ静かに動いて、少女を中心にして丸まった。少女の周りを彼の身体がすっぽりと包み込む。
「ふふ……あったかい」
目を閉じながら、彼女は小さく呟く。そしてそのまま静かに寝息をたてはじめた。
ともすればそれは、そのまま呼吸が止まってしまうのではないかと思うほど小さく浅い息であったが、彼はもうそれでもいいと思っていた。
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少女の容体が急変したのは、その日の夜遅くの事だった。
激しい咳によって再び目を覚ましたあと、夕方のときよりもさらに多量の血を吐いた。
その後糸が切れたようにその場で意識を失い、それでもなお体を蝕む苦痛にうなされ続けた。
彼はただ、彼女の近くにいてやることしかできなかった。
再び少女が意識を取り戻したとき、その顔はやつれ、深い色合いをしていた瞳は白く濁り光を宿していなかった。
「あ、れ……? お父さん、どこ……?」
少女は竜の姿を探して目を彷徨わせ、うわごとのように呼びかける。その目の前にいた竜はもう彼女が視力さえ失ってしまっていることを悟った。
その顔をぺろ、と舐めて小さく唸ってみれば、彼女はやっと彼を認識したようだった。
「あ……よかっ、たあ……」
心からほっとしたような表情で彼女は呟く。そして、また悲しそうに笑った。
「だ、めだ。耳も、聞こえない……」
こんな状態でも彼女が意識を保っていて、壮絶なはずの苦しみに抗っているのが彼には信じられなかった。
血に染まった衣を身に纏い、口から血を流すやつれた少女の姿はとても痛々しい。
その笑顔を見ていると、彼は自分自身が締めつけられるような苦しさを覚えた。
「ね、え。……おとう、さん」
その声になっているかどうかすら定かでない彼女の呼びかけを、彼は聞き逃さなかった。
小さく吠えて応え返すも、少女はそれに気付かなかった。どうやら、聴覚まで奪われてしまったらしい。
彼はまた、その顔をぺろ、と舐めた。
「おね、がいが……あるんだ」
途切れ途切れの言葉を何とか咀嚼して、彼はその意味を理解する。彼女はなにかお願いがあるらしい。
ならばそれは絶対に聞き漏らしてはならない。もしかすると、彼女の言葉を聞けるのはこれが最後かもしれないから。
「ぼく、は……たぶん、しぬ……んだと、おもう」
力を振り絞って、必死に言葉を紡いでいるのが伝わってくる。
「だか、ら……その、まえに……これ、を」
そう言って、彼女は歯を食いしばった。硬直していた左手が徐々に持ち上がる。
その手はそのままゆっくりと少女の首元に伸びて、ある紐のようなものを指に引っかけた。
そして頭を僅かに持ち上げて、首に巻かれていたらしきそれを取ってその手を彼に向けた。
「これを……もらっ、て。ぼく、を……わすれて、ほしくない……から」
それは、深い藍色をした首飾りだった。
少女が海で拾ってきたものを、猫人に教えてもらいながら自分で削ったものだ。彼女はいつもそれを首に提げていた。
彼はそれをやんわりと咥えると、ぐい、と首を伸ばして壁の突起にその首飾りをかけた。月明かりがそれを照らし、きらりと光を反射させる。
そして彼は、その少女の小さな贈り物を絶対に守り抜くと誓った。
「うん。それで……いい」
彼が首飾りを咥えた瞬間に、脱力して荒い息をついていた少女は、ほっとした顔をして呟いた。
それが彼にとってどんなふうに受け取られたかは分からない。ただの枷にしかならないかもしれない。
それでも彼女はこの首飾りを受け取って欲しかった。彼女の行けない海の深い場所の色をしたそれは、少女がとても大事にしていたものだったから。
「これで……もう――――!?」
そのとき、また少女の内に潜む病が暴れ出す。
先程体を動かすという無理をしたせいだろうか。今度は咳や吐血などはなかった。
代わりに抑えることのできない引きつけが彼女の自由を奪う。彼は咄嗟に彼女の身体を頭で抑えた。
彼女の顔が、ひときわ苦しげに歪む。彼は、少女の頬を血ではない何かがつう、と伝っていくのを見た。
それは、涙だった。
かすれきった嗚咽がその喉から漏れる。
「うあ、ぁぁあ……! っ、ああぁぁぁ……!」
彼と出会って以降、決して泣くことのなかった少女が見せる涙。
それは、悲痛な慟哭だった。
「ごめん、なさい……! おとうさん、また……ひとりにっ……!」
少女のその叫びを理解しきることができないのが、これ以上ないほどに口惜しい。
その言葉の一つ一つが、少女の命を削って出てきているのだとしたら、それはあまりにも重たいのだ。
「もっと……もっと、いきたかった……! いっしょに、いたかった……」
痛みと悲しみとなにもかもがごちゃごちゃになって、少女はただただ涙を流し続ける。
「まだ、はなして、ない……ことも、ある……!」
自分の身体をやんわりと抑えている存在が、少女にとってどれだけ大きかったことか。
「もっと、ありが、とうって……いいた、かった……のに……」
その望みは、もう叶わないことなのに。
引きつけは長くは続かなかった。
しかし、その後も彼は彼女の身体に自分の頭を置いていた。目を閉じて、じっとしている。
落ち着きを取り戻し、静かに涙を流し続ける少女。
その左手は、彼の口元にそっと置かれていた。
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恥ずかしいこと、しちゃったなあ。
あのときもう絶対に泣かないって決めてたのにね。
でも、これで踏ん切りがついた。
お父さんは、この手の先にいる。
だったら、最後のわがままを言っても、聞いてくれるんじゃないかな。
「ね。……おとう、さん」
もうその言葉は、声になっているかすらも分からないけれど。
「これ、からも……ここを、まもっ、て?」
ここは、まだお父さんがいないといけない気がするんだ。
「ぼ、くと……おとう、さんの……おも、いで」
それが、なんなのかは結局分からなかったけど。
「まだ……おわ、らない……か、ら」
お父さんなら、きっと見つけられるはずだから。
あの子も助けてくれる。何も心配なんかいらないよ。
「……お、ねが……い」
この場所が他の生き物のものになるのがいやだっていうのは、嫉妬かな?
あ、最後にもう一つ。伝えとかないと。
「お……とう、さ……ん」
聞こえてるかな。聞こえてると、いいな。
「あえ……て、よ……かっ、た」
私は、お父さんに会うためにここに迷い込んだんだよ。
それ以外の自分なんて、想像もできない。
だから――
「――あり、が……とう。……ずっ、と……すき……で、した」
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空がだんだんと白みはじめ、高い場所にある雲が明るく浮かび上がる。
その日、モガの森では僅かに霜が降りた。薄い霧がただよっている。
入り江もその例に漏れず、冷たく静謐な空気に満ちている。
白い息を吐きながら、彼はただ、その場に佇んでいた。
その足元には、美しい銀髪の少女が眠っている。その顔は穏やかな微笑みを浮かべていた。
もう、目を覚ますことはない。
ぽた、ぱたた
そのとき、雫が地面に落ちる音が入り江に響いた。
それ以外の音の一切しない入り江の中で、それは止むことなく響き続ける。
音の主は、彼しかいなかった。
目から溢れる雫が、鱗を伝って地面へと落ちる。
彼はそれが何なのか全く分からなかった。
悲しいような、寂しいような。空っぽになったような感情を持て余していたら、急に溢れだしてきたのだ。
このときだけは、彼は森の王ではなく一匹の追悼者だった。
だが、こうしてばかりもいられないことは彼にも分かっていた。
縄張りの見張り、食料の確保、外敵排除などしなければならないことは山ほどあるのだ。
たとえ彼にとって大切なものがなくなってしまったとしても、それは変わらない。
彼は無理やりその涙を引っ込め、踵を返した。
そして横たわる少女だったものを口に咥え、壁にかけられた首飾りをちらりと見やった後、ゆっくりと入り江から立ち去っていく。
ただこのとき、確かに。
彼は自身の「心」を知った。
これにて、「こころの狭間」は本当の意味での完結を迎えました。
番外編の二話は、隠された重要人物、ヒノについて追いかけた話となりましたね。
ちょっと、いやかなり王道的な展開になってしまいましたが、如何だったでしょうか?
これが第一章となるかこのまま短編で終わるかは、僕でも分かりません。
でも書くことは止めないと思うので、またなにか活動をするとは思います。
それでは、ここまで読んでくださった全ての方々に心からの感謝を。
本当にありがとうございました!