「キミは、誰ダ?」
入り江に響く、明確な敵意を持った人の声。
聞き取りにくいが、人間の言葉だということは分かる。
「トウさん二、何をシていタ?」
振り返ろうとしていた方から発されている、その声の主は――
革で作ったような履物を身に着けていた。
その脚は細く、たくましさを漂わせるが、どこか儚げだ。
膝から上は、白地に蒼の外套で隠されている。
左手には、金属質な光を放つ短剣。私の肩に刺さっているのと同じものか。
垣間見える地肌は、私とは逆に驚くほど白かった。
外套をつけていても分かる胸の膨らみは、目の前に立つ人が女性であることを、如実に物語っていた。
背の大きさは、私よりもひとまわり小さいくらいか。
そして、あるはずの右手は外套の中にあるのか、
霞んでいく視界のなかでも、彼女の容姿は、私の心に鮮烈な印象を刻み込んだ。
星明かりの照らす入り江という幻想的な空間で、私だけを見つめているであろう彼女が、隙なく佇んでいる。
その凛々しい姿を、私は決して忘れないと思う。
ひどく場違いな思想をしている自分に、焦りと同時におかしさを覚える。
今この瞬間、今までの経験でも最も危ない状況に立たされているというのに。
しかし、焦ったところでもう既に私は詰んでいるのだ。
ならば、もっと大切なものに残された時間を使うべきだ。
それがなにかも分かっていないけれど、何をしたいかは漠然と掴んでいた。
「ドコから来タ?」
女性がまた言葉を紡ぐ。
その質問の意味はしっかりと伝わるのだ。できることなら答えたい。
――モガの村、この森の隅にある集落から来たのだ、と。
しかし、眠り毒がそれを許さなかった。口にしようとした言葉が、声にならずに滑り落ちていく。
伝えたいことが、伝えられない。
それが、たまらなく悔しかった。
返事が出来なくても、目線だけでも合わせよう。そう思って顔を上げる。
その顔は、私よりも少し幼めな少女のものだった。
整った顔立ちと、肩に届くまで伸びた髪。その色は明るい白銀色をしている。
いつもは二重瞼なのであろうその目は、今はやや細められていた。
その瞳の色は、深い暗緑色。しかし、よく見るとその瞳には、困惑を湛えていた。
いったい何がおかしいのだろう。
私は、彼女の住処であろう場所に勝手に入った「敵」なのに。
目の前の少女がまた口を開くが、その口調もどこか戸惑いがあった。
「どう、しテ……泣いてイル?」
――言われてから、初めて、自分が涙を零していることに気が付いた。
今も、その頬を伝う雫は止まることを知らない。
目の前が滲んで見えていたのは、眠気のためだけではなかったようだ。
――こんなことにも判別がつかなくなっていたとなると、いよいよ、危なくなってきたか。
そう思ったことが、引き金になってしまった。
世界が、一気にぐらつく。
片膝立ちしていた体勢が崩れて、地面に手をついてしまう。
どうにか保たせていた自我も、急速に失われていくのが分かった。
――こんなところで、意識を失うわけにはいかないのに……!
心はそう強く叫んでいるが、抗いようもない眠気が自分自身を奪っていく。
このまま、地面に倒れ伏せたら楽になれる。
もう、どうしようもない、みたいだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――薄れゆく意識の中で、脈略のない記憶が浮かび上がっては消えていく。
夜の静けさに包まれたモガの村。
村の広場に集まる人々。
焚き木の炎の揺らめきを見つめる子供たち。
物語を紡いでいくヨシの穏やかな顔。
人と、竜の、不思議なお話。
手渡された焼き菓子の香ばしい香り。
暖簾をくぐって暖かく出迎えてくれた、ある子供の両親。
ふと見上げた星空。
朝早くから出航する漁船の汽笛。
村を出発するときに手を振ってくれたギルドの受付嬢の姿。
孤島を吹き抜ける清涼な風。
生い茂る前人未踏の森。
いつの間にか沈みかけていた夕陽。
岩壁にぽっかり口を開けるトンネル。
星明りに照らされた入り江。
目の前に悠然と鎮座する竜の骨。
首に架かっていた藍い首飾り。
背後に響く人の声。
そこに佇んでいたのは――――
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
――ここで終わらせてたまるか。
ここに来て、まだ何もできていない。
私は、何も彼女に伝えてはいないのだ。
もう一度、手に力を込める。
閉じかけた目を無理やり開く。
そして、顔を上げるのだ。目の前の少女を見ろ、私!
かくして、私は少女と、再度の邂逅を果たす。
もう一度目を合わせた。少女の顔には、驚愕が浮かんでいた。
もう倒れこむと、思っていたのだろう。あいにく、ハンターはしぶといのだ。
それとも、私が笑っているからか。ちゃんと笑えて、いるだろうか。
さあ、口を開こう。
伝えるつもりの言葉は、ちゃんと紡がれるだろうか。
でも、言わなければ、この気持ちを。
ハンターとして、ではなく、ひとりの、「夢見ていた人」として。
『
「――あいた、かった。あえ、て……うれし……かっ、た。」
『
「あり……がとう。よう、せい……さ…………」
どさっ、という音が、耳に響く。
地面の、冷たい感触が、私を、包み込んだ。
もう、体は、動かない。何も、感じられない。
どうやら、限界、みたいだ。
――でも、言いたいことは、伝えきった、はず。
世界が、闇へと、堕ちていく。
細切れになった、意識の中で、感じられたのは、
小刻みな足音と、
伝う涙の感触だけ。
――――あれ? わたし、は、なんで、泣いて……いたんだっ、け……?
今回はかなり短くなってしまいました。
これ以降のお話も、小分けになっていくと思われますが、ご了承ください。