――やがて。ランタンの明かりの範囲内に、「忽然と」という形容をしたくなるぐらいの唐突さで扉が現れた。
鉄と銀で出来た重厚で巨大なそれは、一人の少女が暮らす私室の扉として、あまりに相応しくない。いや、この世で最悪の魔物を封じる扉としては、むしろあまりに脆弱と言えるかも知れない。
☆ ☆ ☆
……魔物。そう、我々紅魔館の住人は未だに「彼女」への恐れを拭えずにいる。
幻想郷に紅魔館が《
「――彼女を。地下の牢獄に住まうあの吸血鬼を、この館の外へは出さないでいただきたいのです」
女はそう言った。幻想郷を包む博麗大結界を維持するために、フランドールの存在は危険なのだと。
結局の所フランドールはこの、世界から排斥された存在たちの楽園においてすら排斥される存在だった。
彼女への罪悪感と、彼女を館に留めおかなくてはならない危機感、そしていつあの異能が自分へと振り下ろされるかわからないという根源的な恐怖。それが今の紅魔館の現状だ。
魔理沙がやって来て、フランドールは確かに変わった。封印が解かれたばかりの頃より、ごく普通の少女のように笑うようになった。
だが、紅魔館は変われずにいる。今もまだ。
☆ ☆ ☆
扉の前に立つ。気力を振り絞って、拳で扉を三度打つ。
「……妹様」
ノックと言うには禍々しい響きが消え去った後で、部屋の中にいるだろう少女へと呼びかける。
意識せず小声となってしまい、一つ咳払いをしてもう一度繰り返した。冷たい闇の中に残響が消える。
返事はない。仮にも吸血鬼がこの時間に眠っているというわけでもないだろうが、人生の大半を昼夜のない世界で生きていれば、体内時計も狂うのかも知れない。
仕方なく、鍵を外し肩で押すようにして扉を開く。
錆びついた蝶番が、亡者の群れのように背筋をざわつかせる悲鳴を上げた。油を差しておくようメイド長に頼まなければ。
扉が開いた途端、今までよりもさらに濃度の高い闇が視界を覆う。さすがにこの暗さは、吸血鬼ならぬ身には辛いものがある。ランタンの明かりがあってなお、自分の手の輪郭が不確かに見えるのだ。
意を決して踏み込む。闇の中へ再び、妹様、と呼びかける。相変わらず返事はない。
ここにはいないのだろうか?
闇の中、ぼんやりとランタンの明かりの中に鉄格子が浮かび上がる。
フランドールは、既にこの部屋で暮らす義務はないにもかかわらず、この部屋を住まいとしている。
自ら檻の中へと舞い戻る。それがどういう心算なのか、それは正直なところわからない。
魔理沙あたりは、もしかすると何故なのかあたりが付いているかもしれない。そういうところに、特別敏い人間なのだ。
とにかく、部屋の主を探さねばならない。
そして、本を自分の手で渡すのだ。そしたら、何かが、変わるかもしれないのだ。
ベッドの方に明かりを向けようとランタンの遮光窓を調節――
「―― だ ぁ れ だ」
声は背後からだった。同時に理解不能な悪寒が躰の芯を駆け抜けた。
がしゃん、とランタンと本が手から滑り落ちて音を立てる。
床には絨毯が敷き詰められていたために、割れるようなことは無かった。
が、パチュリーには既にそんなことを気にしている余裕がない。
くすくす、と囁くような笑いが首筋を撫でる。
全身を冷たい死の予感が包んでいる。
一瞬にして自らが氷の彫像と化したような錯覚。
ああ、まずい。
これは死ぬ。
今まさに死んでもおかしくない。
というか死ぬ。
「ねえパチュリー、答えてよ。わたしはダァれ?」
長い腕に抱き締められているかのような感覚。しかしそこに親愛の温かみは無い。鉄の義手による抱擁ですら、もっと暖かなものだろう。それもそのはず、実際に彼女は肌に触れているわけではない。
恐怖が否応なくそれを悟らせる。今まさに、自分の命は背後の悪魔に握られている、と。存在の死点、“目”を文字通り掌握されているのだ。
彼女が少しでもその手に力を込めれば、パチュリー・ノーレッジという存在は針でつついた風船よりも呆気無く弾けるだろう。魔術師として積み上げてきた研鑽も、織り上げてきた成果も、築き上げてきた日常も。全て意味など無くして塵芥と化す。
「だいじょうぶ? 脈が安定してないよ?」
笑いながら爪の先で“目”を撫でてくる。途端に白目を剥いて失神したくなるほどの戦慄が魂を揺さぶる。さながら猫に弄ばれるネズミの心地だ。
今までの生の中で命の危機に晒されることはままあった。しかしどれだけ死地を経ようとも、この悪寒ばかりは慣れるものではない。人間としての常識を外れたところにいる魔法使いという種族ですら、恐怖という本能ばかりは乗り越えられないのだ。
「こんなに震えて、カワイソウに。ねぇ?」
口調は何とも愛おしげでさえある。
「く、はっ」
詰まった喉を無理に開くと、老婆のような喘鳴が漏れる。
ふっ、とその時不意に再び部屋が闇に鎖された。
落とした拍子にねじが締まったのだろう、ランタンの火が消えたのだ。急に周囲の温度が下がったような気さえする。
その網膜を刺すような闇の中で、相も変わらず存在の死点を掌握された状態のまま、パチュリーは無我夢中で己の指を繰った。
爪先から髪の先まで電気でも通ったように恐怖の痺れが貫いているのを感じる。だがそれを堪えて、震える指先を虚空に踊らせる。
早く、早く、早く。
そしてこの窮地のさなかにあって、弛まぬ研鑽はしかと実を結んだ。
掌中に灯る簡易魔法陣が、正確に同心円と五芒星をなして光を放つ。術の発動と共に円の中心に召喚された一枚のカードを、引き裂くほどの強さで掴み取る。
我は呼ぶ、天より陽の
「――日符、《ロイヤルフレア》っ!」
宣符と共に、冥府の底に太陽が落ちた。