☆ ☆ ☆
夜、紅魔館の屋根へと登ったパチュリーの見上げた先、時計塔の天辺に彼女は腰かけていた。
青く澄んだ月の下で深紅のワンピースは逆光に沈み、しかしその背に彩られた虹色の翼は星明かりを結晶させたように鮮やかに輝いている。
その手には悪魔の尾めいた外見の杖が握られ、冷たい漆黒を蒼い夜に浮かべていた。
夢見るような一瞬の後、パチュリーは意を決してふわりと飛び上がる。
無詠唱で織り成される飛行術式が、形無き翼を魔女に与えている。魔理沙のような古めかしい箒などは必要なく、種族“魔法使い”はその身が既に一つの魔法なのだ。
「……ここにいたのね、妹様」
「その名でわたしを呼ばないで」
声をかけた瞬間、ぞっとするような怒りと共に紅の魔眼がこちらを凝視した。ガツン、とその手の魔杖が屋根を叩く。彼女の苛立ちが波となって夜を震わせた。
早速間違いを犯したことに消沈しかける。が、それを辛うじて堪え、強く睨み返す。
「フラン。外に出てはいけないと言わなかった?」
「貴女に面と向かって言われた覚えは無いね、パチュリー」
「確かにそうね。ならば改めて言います。館に戻りなさい」
「……別に戻るのは構わないわ。だって用は済んだから」
怒りはまるで最初から無かったように消え去り、代わりに蠱惑的な笑みがその幼顔に浮かぶ。
「パチュリーがここに来たから。ここにいたらきっと来ると思ったの」
ゆらりとフランドールが立ち上がる。人形めいた動きで、怪物めいた笑顔で。
「この館の誰も、わたしがどこにいようと見もしない。いないもののように振る舞い、畏れるように逃げていく。お姉様だってそう! 煩わしげに一瞥したら無視をして! 何も言わずにどこかへ行ってしまうッ! ……けどパチュリーは違うよね」
かつ、と靴底が屋根を叩く。彼女の周囲だけ重力が別方向に向いているかのように、こちらへと尖塔の壁を真っすぐに歩いてくる。
「パチュリーだけは、わたしが外に出ようとすると止めに来る。わたしが暴れれば駆けつける。……パチュリーだけが、わたしを見てくれた!」
「魔理沙はどうなの?」
「マリサは別よ。マリサは外から来る人だから。好きだけど、家族じゃないもの」
家族。彼女は確かにそう言った。
パチュリーはぐっと唾を飲み込み、自らもフランへと近づく。
「そうね。彼女は家族じゃない。家族の確執に、少し関わらせすぎたものだと思うわ。――だから」
ぴたり、30フィートほどの距離で互いに止まる。
「だから、私がやるべきなの」
「うん」
近くで見るフランの顔。紅い瞳に、紫の影が映る。こんなにも、真っすぐに彼女を見つめたことが今まであったろうか。
僅かな逡巡。だが、彼女が自分の行動に注視していることが、なけなしの勇気をパチュリーの胸に取り戻させる。
「だから――」
意を決し、叫ぶ。
「拳骨をくれてやるからそこに直りなさい、フランドール!」
「できる? できるのひ弱な魔女風情に? うふふふ、あははははッ、やってみなさいよパチュリーッ!」
返される哄笑、そしてノーモーションからの突撃!
豪速で振り抜かれる魔杖。
だがパチュリーはまともに当たれば真っ二つにされるであろうその一撃を、防御障壁の曲面を滑らせ、その反動で距離を置く。
離れながら抱えた魔導書に魔力を通せば、自動的に開かれたその書面に必要な術式が浮かび上がってくる。
選択する。――最初から、全力全開を!
「――火水木金土、五大は我が掌中に在り。七曜の魔女が此処に令する。顕現せよ《賢者の石》!」
「あは、ぶちかましてあげる! ――歌えよ炎、我執るは神滅の刃! 禁忌《レーヴァテイン》!」
両者の宣符が弾幕勝負の火蓋を切った。
パチュリーの周囲に一抱えほどの輝石が合計五つ召喚されると同時、フランドールの手にした魔杖の先から紅蓮の炎が生れ落ち、まるで身の丈を超える大剣めいた形を成す。フランドールがその切っ先をこちらに向けた。
「手加減なんてしないから、このボクネンジン!」
「笑止! 大魔女の実力にひれ伏しなさい!」
パチュリーの輝石から迸る五色の光線が、フランの振るう魔剣の斬撃から飛散する光弾とぶつかり合い弾け飛ぶ。轟音と閃光に紅魔館が激震した。
そのきらめきの中で、パチュリーは安堵した。
こうするべきだったのだ、最初から。
夜を彩る虹色の翼が、それにも負けず輝く少女の笑顔が、こんなにもまぶしいのだから。
☆ ☆ ☆
「これで宜しかったのですか、お嬢様?」
「フン、館の被害は問題ないわ。どうせ修復するのはパチェなんだし」
手にしたティーカップの水面に赤いさざ波が立つのを、レミリアは顔をしかめて見つめた。けれど、表の騒ぎを止めようとはしない。
館のテラス。激突する二人が見える位置に、レミリアと腹心たるメイド長はいた。
「いえ。最初から弾幕勝負に混ざらなくて良かったのか、という意味ですわ」
「基本的に弾幕勝負は一対一。この私が横からグングニルなんて差し込もうものなら、フランだけじゃなくパチェも怒るよ」
一笑して、紅茶を口に含む。広がる血の味が、今は少し苦々しい。
……本来ならば、子供を叱るのは肉親の役目であったかもしれない。だが五百年を生きた吸血鬼として、たった一人の肉親として、妹へと何をすれば良いか。フランドールの力を恐れた父が彼女を幽閉して以降心を病んだ、彼女の為に何をすべきか。それが、レミリアにはわからないのだった。
自分では、どう足掻いても彼女の心を救えない。運命はそう告げていた。
遠からず、彼女の狂気はこの幻想郷を滅ぼす。それがレミリアの予見した最悪の未来。
白黒の魔法少女だけでは、ダメなのだ。魔理沙の前ではまるで普通の幼女のように振る舞うフランも、館の人間が抱えた怯えや隔意を見るとすぐに心を閉ざす。それはどうしようもない事で、どうにもならない事だった。
レミリアはその運命を変えるべく、様々なことを試してきた。だが、自分では駄目なのだった。狂うほどの長きに渡り封印された彼女を助けようとしなかった。それだけで、最早姉妹の間には消えない確執の溝が刻まれている。……少なくともレミリアにはそう感じられた。
親友として全幅の信頼を置くパチュリーですら、彼女だけの力では無理だった。どれだけ理想的な軌道に運命が乗っていたとして、結局最終的に結果を導くのは人の意思だ。パチュリーの行動次第では、レミリアの目的は果たされない。
……果たしてパチュリーは、立ち上がった。
彼女がこうしてくれると識っていた。だからこそ彼女を囲い込んだ。だがもし、もししくじったら彼女は失われ、妹は決して救われない。
運命を操る力は、レミリアにとって呪いだ。望む結果の付近へと事態を導くことができても、人の意思によって動く未来はレミリアの思う通りにはならないことが多い。高速で飛行している時に、決められたポイントを一つとして間違えず通らなくてはいけないようなものだ。眼前に立ちふさがる失敗の未来と、針に糸を通すような細い希望の道筋。
レミリアは膨大に積み重なる運命の山に、そう、はっきり言ってしまえば怖気づいたのだ。
自分は死なない。だが、親友は死ぬ。親友と妹を天秤にかけて、自分の力ではどうすることもできない妹を、自らの手で葬ることで救おうかとすら考えた。
考えて、自分の愚かしさが憎いと思った。
あまりにも無力。
強大無比なる吸血鬼が、無力。
ぐっ、と牙を噛みしめて、レミリアは空を見上げた。出来るのは最悪の未来に至らぬよう、介入するタイミングを計るだけ。
吸血鬼に祈りは無い。あるのは冷徹な打算と、非情な覚悟。それだけなのだ。
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