ある日、少女は男のアトリエに迷い込んだ

※完結済み
※2019年12月13日にpixivにマルチ投稿を開始
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12074864

1 / 1
『オールドマンの歴史博物館、ロコナイズと共に』

 黒い線が、真っ白な紙面の上に軌跡を残した。

 

 エアコンの設置されていない小屋の中。床にはデッサン紙が散乱しており、天井の柱には埃がたまり、壁の表面は剥がれ落ち、その近くには肖像彫刻が乱立している。まるでゴミ溜めの倉庫のような有様の中、開放された窓から仄かな涼風が、中心に座っていた男の頬を撫でた。ついでに、塵が舞った。古い洗濯機のような臭いは、しかし男にとっては馴染みの深いもので、鼻についても今更だ。

 

 背もたれのないレザー調の丸椅子は、中身のスポンジが半分以上剥き出しになっている。そんなボロ椅子の上に座っているのは、綺麗に整えられた口ひげと、額に刻まれた一文字のシワが特徴的な、老練の男であった。

 

 男が手に持つのは、鉛筆一本。自身の横に置いた姿見の鏡を見ながら、ひたすらに手を動かし続ける。汗をどれほど流そうと、尻が痛みを訴えてきても、身体はピクリとも動かさず手だけを動かし続ける。鬼気迫った顔で、ひたすら鉛筆を紙面に滑らせる姿は、修羅の如き様相を醸し出していた。

 

「何を描いているのですか?」

 

 明るい少女の声だった。窓から涼風と共に耳を撫でるそれに、初めて男は手を止めた。姿見を見ることもやめて、力のない瞳を窓に向けた。

 中学生ほどの少女だろうか。ウェーブのかかった亜麻色の長髪を、首元から二つのリボンで分けてまとめている。その背に力強い真夏日を受けながら、しかし少女は光を受けた小瓶のようにキラキラとした幼い瞳を向けてくる。

 

「これかい? 何の変哲もない、自画像さ」

 

 見えやすいように、丸椅子を少し後ろに引きながら、男は少女の質問に淡々と答えた。

 少女はそんな答えに、顎に手を当てながら穴が開くほどそれを見て口を開いた。

 

「シンプルな絵です。そこからどうやってパーソナリティーをエクスプレッションするのですか?」

 

 独特な言葉遣いに、男は一瞬戸惑いがちに目を伏せた。言葉の意味をよく噛み砕き、少女が何を言わんとしているのか、一時の沈黙を以て導き出す。

 

「なぁに、簡単なことだよ」

 

 男はそう言って頷くと、改めて鉛筆を握り、椅子をもとの位置に戻して紙面に線を書き足し始めた。窓際、そのすぐ横にある姿見を何度も見つめ返しながら、黒い線を生み出していく。

 そうして、いくつもの線は輪郭となり、皺となり、目となり、形となって明瞭な人を模った。あとはそこに影を落とし込み、人としての風格を映し出せば完成といったところで、しかし男は描く手を止めて固定していた紙を手に取った。

 

「これは、これだけで終わり」

 

 描きかけの自画像を、男はあっさりと手放した。床に落ちた瞬間、それは床に散らばった絵の中の、有象無象のひとつと成り果てる。まるで、海の中に真水を放り込んだかのように。絵は、絵画の波に消えていった。

 

「コンプリーティングですか?」

「違うとも」

 

 少女の質問に、男はしっかりと首を横に振った。そして、自身のアトリエの中をゆっくりと一瞥してみせると、両手を広げて、骨と皮だけの胸を張った。

 

「ここは、未完成のアトリエ。完成した作品は、ひとつもない」

「アンルートのワークをストップしたと?」

「少し違うとも。作品は、今も刻一刻と出来上がっている」

「うーん、ノットアンダースタンドです。ひとつのワークをコンプリートしないのは、インポータントなリーズンがあるからですか?」

「そう。これは、私の表現の仕方の問題だとも」

 

 少女は首を傾げながら、その瞳でじっくりとアトリエの中を、ひとつひとつの作品を観察し続けた。顔が汗だくになるほどそれを続けても、少女は納得したような表情を見せることも、声を発することもない。

 

「日を開けて、興味があればまた来なさい。先入観があっては、見えるものも見えなくなるからね」

「……イグザクトリーです。ロコのアライブをホープしていてください」

「そうかい? なら、いつも通りにしておくとしようかね」

 

 男は何事もなかったかのように、次の紙をキャンバスに固定すると、再び鉛筆を握って線を引き始めた。

 少女はそんな男の姿をほんの少しだけ見ると、踵を返して夕日の中に溶けて行った。

 

 

 

 ◆◇◆

 

 

 

 男はその日も、ゴミ箱の様な混沌としたアトリエの中央で鉛筆を手に、紙面と向き合っていた。時折、外に生えている立派な深緑に覆われた広葉樹を見ると、さっさと手を動かして紙面に軌跡を記していく。

 

「ふむ」

 

 男はやけに落ち着いた様子で、右手の人差し指の腹で自身の描いた軌跡をなぞった。紙面に鼻をこすりつけそうなほど身を乗り出して、首をひねりながら何度も同じことを繰り返す。なぞり過ぎたせいで黒鉛が滲むように広がりをみせたところで、男は黒くなった自身の指の腹を見つめると、その指で困ったように額の皺を掻いた。

 

「はて、さて」

 

 視線の行き場もなく、なんとなしに窓の外を見てみれば、雲一つない青空が広がっていた。真上から照り付ける陽射しは広葉樹に瑞々しい輝きを与え、くるぶしほどの高さの雑草が生い茂る地面をこれでもかと焼いていた。

 そんな光景を、蜃気楼のようにぼうっとしたまま眺めつづけていると、奥行きに影が映り込んだ。ありゃあ何だ、とジッと目を凝らしてみれば、先日にロコと自称していた少女が歩いてきていた。砂色の傘(おそらくは日傘だろう)をさしている様で、他の景色よりも一際影が濃くなっていたらしい。左手には如何にも持ち運びやすそうな小さめのキャンバスとイーゼルを。右手には画材道具を収めているのであろう飴色のカバンを持っている。なるほど、こんな陰気なアトリエに興味を持ったのは同志であったかと、ひとり頷いてみれば、ふとした違和感に首を傾げた。傘と、両手を見比べて頭を捻った。そうだ、傘を持つ手があいていないのだと気が付けば、興味は全て傘に集中した。天辺から、伝うように下に視線を移していくと、持ち手の部分が二股に分かれていることに気が付いた。その分かれた先は、何と少女の両肩である。両肩に、鷹が獲物を掴むような具合に器具で固定しているのだ。何と独創的で機能的なデザインだろうかと、男は喉を低く鳴らしながら舌を巻いた。

 

「オールドマン! ロコがカミングしました!」

「そうかい。気の済むまで、ゆっくりしていきなさい」

 

 少女、ロコは先日と同じ窓の前に陣取ると、挨拶もほどほどに、せっせとイーゼルとキャンバスを設置し始めた。男はその様子を、外を見ていた時と同様に漠然と見るだけだった。

 

「……? もしかして、ワークのインペディメントになっていましたか?」

「なぁに、行き詰まっているだけだから、気にしなさんな」

 

 男にとって、行き詰まりというものは悪友のような存在だ。一緒に過ごせば色の落ちた惰性と共に時間が経ち、付き合い続ければ時間だけが費やされる。得るものなど何もないが、一緒に過ごせば時間ばかり加速する。冷静になれば勿体ないと感じるくせに、過ごす間だけは満たされていると錯覚する。男にとっての行き詰まりとは、そういうものなのだ。

 

「……ふむ」

 

 男がぼうっとしている間に、ロコは既に準備を終えていた。右手に鉛筆を一本。それを目の前に掲げて構図を練ろうとしている。どうやら被写体は、男のアトリエらしい。じっくりと、ねめつけるような視線が、アトリエの中を鋭く突き刺した。眼球が忙しなく動き、そうかと思えばいったん止まり。緩急をつけた眼の運動が繰り返される。視線先には肖像彫刻が、散乱した中の一枚のデッサン紙が、男の今描いている絵が、壁の汚れが、と。ひとつひとつの物に対して、集中した視線が何度も向けられた。

 

 面白い、と男はひとつ頷いた。

 男は迷うことなく、紙面の上に黒鉛を走らせた。

 

 

 

 周囲が茜色に染まる頃には、ロコは画材道具をさっさと片付け終えていた。男は未だに絵に没頭している。それを確認すると、彼女は一礼だけして、来た時と同じように荷物を持ち、夕日の向こうに消えていくのであった。

 

 ◆◇◆

 

 

 

「オールドマンは、リアリズムをリスペクトしているんですね」

 

 ロコが男のアトリエに訪れる日は、あまりにも不定期であった。土日のどちらかには必ず訪れ、平日であっても2、3日はここに来るのだ。あまりに熱心な通い方に、しかし男は何を言うでもない。指摘することもない。ただいつも通り、自分の活動を遂行するだけだ。

 

「私の作品の根幹だからね」

 

 手を動かしながらも、男は律儀にロコの言葉に答えた。いつも、鉛筆一本だけを使って絵を描く男の姿を見てきたロコは、彼と同じように絵を描きながら口にした。

 

「カラーはディスライクですか?」

「どうしてだい?」

「オールドマンは、カラーをユーズしたがりません。ロコがルックしているネバーは、ノットユージングです」

「それは私の表現さ。色を付ける時には、しっかりと付けるとも」

「では、そのワークにカラーをアダプトしてはどうですか? グレートなワークになることノーミステイクです!」

 

 ロコの指摘に、男は鉛筆を動かす手を止めて考え始めた。絵を描いているロコを見て、自分の作品を見て。しばらくそれを繰り返していると、額の皺を指先で掻きながら、ボロボロの丸椅子からゆっくりと腰を上げた。

 

「水彩画の道具なんて、何処にやったかね」

 

 言いながらも、男の足に迷いはなかった。部屋の隅っこに足を運ぶと、積み上がったデッサン紙を横によけて、そこから色褪せたパレットと、所々毛先の飛び跳ねた筆を数本、そして絵具のチューブが放り込まれたバケツを発掘すると、定位置に戻って腰を下ろした。パレットを膝の上に、バケツの中から必要な絵具を取り出して、筆はバケツに立てかけた。絵具の蓋をとり、いざパレットの上に出そうと力を入れたところで、滑らかな動作は終わりをみせた。

 

「……固まっているね」

「アートサプライスがオールドすぎます。それではグッドなワークはキャントです」

「誤算だね。もう色は使わないと思っていたから、置き去りにしていたよ」

 

 男は額の皺に黒鉛で黒くなった指を当てた。その間にも、もう片方の手で絵具のチューブを握り、力の入れ方を変えていたが、鉄の棒でも握っているかのような手応えを受けて、額の皺がもう一本浮き出てきた。

 

「ロコのペイントをレンドしましょうか?」

「ふむ。そうだね、お願いしようかね」

 

 男がそう言うと、ロコは「リーブです!」と元気よく声を上げて自分の画材道具の中から絵具の箱を取り出した。そして素早く、小走りで開放された窓まで来る姿は、小動物の様な、あるいは孫のような可愛らしさを連想させた。

 

「どのカラーをユーズしますか?」

「ふむ……さて、どうしようかね」

 

 パレットを持ちながら、男は窓まで足を運んだ。緩慢な動きで、窓に辿り着くまでにロコが手に持っている絵具の色を確認しながら。窓まで到着すれば、男はもう一度じっくり、絵具を確認するように見つめた。

 

「遠慮なく、使わせてもらうね」

 

 そう言うや、行動は迅速だった。慣れた手つきで絵具のチューブを手に取ると、パレットから出した指でチューブを握り、蓋はもう片方の手でさっさと外した。そして蓋を持ったまま、開封したチューブを手に取りパレットに色を絞り出す。球体型の一口チョコくらいパレットに盛り付けると、チューブを再びパレットから出した指でつまみ、蓋を閉めて持ち主に返却した。これを、手慣れた様子で何度も繰り返した。

 

「ユーズドなオペレーションです」

「年の功ってね」

 

 男のパレットは、気が付けば色鮮やかな水玉をいくつも作っていた。色の種類に満足すると、彼はロコに「ありがとう」と言葉を残して、また丸椅子に腰を下ろして、ようやくその手に筆を持った。

 

「上手くやろうかね」

 

 そんなことを独り言ちると、男は黙々と色塗り作業に取り掛かった。

 

 

 

 ◆◇◆

 

 

 

 開放した窓から、火照った体を冷やすように涼やかな風が舞い込んだ。埃が舞わない程度の涼風は、草木に生える恵みの香りを存分に含んでいる。青々しくも甘い植物の匂いが、秋の訪れを告げていた。

 

「オールドマン。クエスチョンがあります」

「なんだい?」

 

 モノクロのチェックのシャツの上に萌葱色のセーターを羽織り、頭には紅葉のようなベレー帽をかぶったロコは、その日もいつもの窓の前で絵を描いていた。お互いに風に身を委ね、黙々と手を動かしているところで、彼女は唐突に口を開いたのだ。

 

「アートとは、フリーダムでマストだと思いますか?」

「自由だとも」

 

 ロコの質問は、男の即答によって返された。迷いのない、まるで常識を肯定するかのような調子だった。

 

「自由であるべきだとか、自由であるもの、ではない。ただ、自由なのだよ」

 

 噛みしめるように、言い聞かせるように、穏やかな言葉がそよかぜに乗った。ロコはそんな即答に目を丸くして、男の姿を見つめた。

 

「誰もが、好きに表現する。アートは、それだけなのだよ」

「……それが、パブリックにネガティブなフィーリングをされたとしても?」

「アートとは、得てして理解されないものだよ」

 

 まなじりを下げて、穏やかな瞳がキャンバスに向けられながら。男は「でもね」と静かに口を開いた。

 

「理解者は、居てくれるものだ。出逢ったら、大切にしてあげなさい」

 

 紅葉が一枚、開放した窓からアトリエの中へ、そよかぜによって運ばれてきた。慰めるように頬を撫でる風は、変わらず秋の匂いと共にやってくる。鼻の奥を、ツンとつつくような、優しい香りだ。アトリエの中は、凪いだ海面のように心地の良い静寂に包まれていた。

 

「ロコにも、グッドパーソンができるでしょうか?」

「できるとも。必ず」

「そのワード、トラストしてもいいですか?」

「年の功を、侮っちゃいかんよ。君がアートに対して真っ直ぐである限り、必ず現れる」

「……それなら、グッドです」

 

 ロコの小さな呟きは、秋風にさらわれた。

 二人は、お互い静かに手を動かした。

 

 

 

 男のキャンバスには、柔らかい表情の女の子が描かれていた。

 

 

 

 ◆◇◆

 

 

 

 風にあおられると肌寒さを覚えるようになった、落葉の目立つ頃。アトリエの周囲はモミジとイチョウのカーペットに覆われていた。男はそんな外の世界を、いつものように丸椅子に座りキャンバスと向き合って、描いている。

 一方で、ロコはそんな外の空間ではなく、馴染みとなったアトリエの中を描いていた。開放された窓越しに、二人は互いに鏡合わせのように絵を描き続けている。

 

 ロコは絵を描いている中、ふとした瞬間に疑問を持った。どうしてオールドマンはアトリエにオールウェイズにビジットしているのでしょうか、と。

 ロコが来訪した時、決まって男はアトリエの中に居た。変わらず、中央に置いた丸椅子に座ってキャンバスと向き合っているのである。ロコは次にいつ来るか教えたことは一度もない。その上、いつも訪れる時間帯も曜日もバラバラだ。それなのに、決まって彼はこのアトリエの中に、いつも通りに居るのだ。

 

「オールドマン」

「なんだい」

 

 男はいつも言葉少なく、必要なことだけを語る。ロコが訊かなければ何も答えないし、彼からロコに問い掛けることはない。ただ、間違いなく目の前に居て、絵を描いている。ロコにとっての彼は、月のような存在だ。いつも静かに、必ず空に浮かんでいる。雲間に隠れても、確かにそこで輝いている。交信を図れば、秋の虫の音のように返ってくる。

 

「……アトリエに、カラーがインプットされましたね」

 

 ロコが疑問を口にすることはなかった。咄嗟に、目に飛び込んだ色鮮やかな男のキャンバスを見て、そんな言葉が飛び出した。深く考えたわけではない、何気ない一言である。

 

 男はそんなロコの言葉に、満面の笑みをもって答えた。

 

「聡明だね」

「えっ」

 

 男は確かにそう呟いた。世間話程度に中身のないロコの発言に対して、確かな重みを乗せて言ったのだ。その温度差に、ロコは目を白黒させた。

 

「色をくれた君になら、そうだね」

 

 やたらと伸びた髭に手を当てながら、男は描く手を止めて思案にふけった。

 その様子が、ロコには珍しく映った。作品をみせるために、行き詰まったから、作品が完成(?)したから手を止めたことは確かにあった。しかし、製作途中に手を止めたことなど、色をつけるかどうか考えていた、あの時だけだ。

 

「次、ここに訪問する予定はあるかい?」

 

 立て続けのことに、もはやロコの頭の中はカオスと化していた。あまりにも意表を突いたことの連続で、頭の中をぐちゃぐちゃにかき乱されていた。

 

「来ます、けど」

「そうかい。なら、私も用意をしておこう」

 

 どうしようもない変化が訪れていた。彼女はそれを、本能から察していた。

 

「お爺さん!」

「……」

 

 男は、ロコの呼び掛けに最初、反応を示さなかった。いつものように、何事もなかったかのように作品に向き合って、筆を動かそうとした。そこでようやく、ハッと気が付いたように顔を上げて、彼女の方を見た。

 

「呼び方が、すっかり定着していたね。何か、あったのかい?」

 

 いつものように、柔らかい瞳が彼女の目の前にあった。縁側で日向ぼっこをするように、安穏とした様子だ。

 

「……」

 

 ロコは言葉を詰まらせた。男の様子を見て、何を言い出すべきかわからなくなってしまった。散らばった考えを手元に掻き集めようとしても、ガラクタの山が出来上がるだけだ。考えが、まるでまとまらない。

 

「作品は――」

 

 上擦った声が飛び出した。緊張に喉が震えた。原因は、ロコにもわからなかった。それでも、彼女は何かに迫られる様に、ふと頭に過ぎったそれを口にした。

 

「完成、しそうですか?」

「……そうさねぇ」

 

 男は顎にひとつ手を当てて、考え込むような素振りをみせた。しかし、考えているという割にはあまりにもあっさりと、答えを口にした。

 

「完成は、近いとも」

 

 心臓を鷲掴みにされるような衝撃が、ロコを襲った。

 対して、男は何事もなかったかのように、いつものようにキャンバスに向き合った。

 

 ロコが手を止めている間にも、男はキャンバスに向けて手を動かし続けるのであった。

 

 

 

 ◆◇◆

 

 

 

 冬の風も肌に刺すほど痛々しくなってきた頃合いだった。

 

 ロコが男のアトリエに訪れた時、男は真っ先に「いらっしゃい」と歓迎の言葉を口にした後、作業していた手を止めて開放した窓から一枚の蝋引き封筒を差し出した。

 

「招待状さ」

 

 ロコが首をかしげていると、男がそう言って手招きをする。男の方から、こうしてアトリエと外との垣根を超えるのは、初めてのことだった。それがあまりにも突然で、ロコの思考は停止したまま、肌に刺す風から逃げるように、アトリエの窓に近づいて封筒を受け取った。

 

 手に取った瞬間、その滑らかな手触りにハッと意識が覚醒した。ニスを塗った様な、あるいは漆塗りを丁寧にしたような、肌が吸い付くような感触。封筒一枚だというのに、その重さは指に確かにのしかかってくる。丹念に細工を行った、その真剣な意思が伝わって来るかのようだった。

 何より目を引いたのは、その封蝋であった。綺麗な円を描いた銀色。その円の中にはローマ数字の刻まれた時計の文字盤が刻まれている。そして、時計の文字盤の中にはさらに英語で小さく、文字が記されている。万年筆で後から書いたのか、ここだけ嫌に達筆で黒く、「Dear kindred soul」と。アートの一環として筆記体を勉強していなければ、ロコはその英語を読み解けなかっただろう。

 

「開封は、お家でやりなさい。今開けても、仕方のないことしか書いてないからね」

 

 中身は、手触りからしてメッセージカード一枚だろうか。硬い台紙のような感触が封筒越しに伝わってくる。一体どういうことなのか、突然手渡された封筒の真意を問い質そうと顔を上げた時、男は既にいつもの丸椅子に腰かけていた。

 

 丸椅子のカバーも、今ではすっかり剥がれ落ちてしまい、中のスポンジ部分が全て露出してしまっている。何度か座り直しているからか、スポンジ部分も日に日に削れて床に小さな屑となってぽろぽろと落ちている様は、嫌でも時間の流れを感じさせられた。

 

 男は、キャンバスに既に筆を走らせていた。

 ロコは、彼に声を掛けるタイミングを完全に失ってしまった。

 

 彼女は、静かに窓から立ち去って、自分の画材道具を広げ始めた。封筒は、大切にカバンの中に安置して。イーゼルにキャンバスを立てかけた。

 

 今日もまた、キャンバスの中に新しいものが描き足される。

 鉛筆を片手にした少女の瞳は、鷹のように鋭くなった。

 

 

 

 ◆◇◆

 

 

 

『我が同志へ オールドマンより招待状を記す

 

 年が明ける前に

 一度だけアトリエにおいでなさい

 私の作品のすべてを

 完成した姿でお見せしよう

 

 さいしょの展覧会は我が同志が相応しい

 よーく見て私のアートをさがしておくれ

 うごかしても構わないよ

 なぜなら埋もれた作品があるからね

 らいほうを心の底から楽しみにしているよ

 

 あまり長く書くのも無粋だね

 りゆうもないからここらで締めとさせていただこう

 がんばり通せば必ず報われる

 とうぜんのことさね

 うんと楽しんでおくれ

 

 それと私の作品の名前は、我が同志が決めてくれると嬉しい限りだ

 私も一応は決めたけど、それを見るのは君が私の作品に名前をつけた後だ

 場所は、いつものキャンバスの裏だよ

 

 それでは

 ごきげんよう

 

 

 

                               オールドマン』

 

 

 

 ◆◇◆

 

 

 

 蝋引き封筒には、一枚のカードキーと共に、メッセージの記されたポストカードが封入されていた。まるで記念銀貨のように輝く封蝋を傷つけないように開けて、中身を読み込むと、ロコはその蝋引き封筒一式を手に家を飛び出した。

 

 酷い招待状であった。招待状とは名ばかりの告別であった。あんな幼稚な細工で、まさか騙せると思っていたのだろうか。気づかずに、日を跨ぐと思っていたのだろうか。

 

 してやったり、と思われるのが癪で堪らなかった。自分勝手に全てを片付けられることが、あまりにも嫌だった。だからロコは、招待状を読んですぐに家を飛び出した。こんな別れはあんまりだと、憤りが身体を動かした。

 

 暗い灰色の空の下で、真っ白な息が吐き出される。街灯は徐々に遠のいていき、しばらくすると、今はもう葉っぱがついていない広葉樹が見えてきた。男が、よく視線を向けていた大木だ。

 

「オールドマンっ!」

 

 アトリエには、まだ灯りがついていた。周りに頼りになる光が無い中、男のアトリエの光に吸い寄せられるように、彼女は走り、いつもの開放されているはずの窓まで駆け込んだ。

 

「どうして……!」

 

 開放されているはずの窓は、今に限って閉まっていた。慌てて中を覗き込んでみれば、まだ、男の姿があった。集中しているのか、その形相は鬼もかくやというほどの気迫を纏っている。しかし、詳しいところまでは、霜がついてしまっていてよく見えなかった。表面をハンカチで拭いてみても、内側の方に霜が付いているのか、視界はほとんどよくならなかった。何を描いているのかさえ、判別できない。

 

 ロコは、それ以上の行動を起こせなかった。

 窓を叩くことも、おそらくアトリエの鍵であるカードキーで中に侵入することも。どちらの選択肢も、とれなかった。

 

 芸術家としてのロコが、ストップをかけた。男の制作を、今ここで邪魔することは絶対にしてはならないと。プライドが叫ぶのだ。

 

 

 

 ロコは寒空の下で、白い息で窓を曇らせながらも、ただ静かに男の活動を見守った。10分、30分……1時間だろうか。

 時間の感覚などわからないもので、ただ外気に晒された頬が寒さに赤らみ、鼻の奥が寒気にツンと痛みを覚える。

 

 男はようやく作業を終えたのか、肩の力を抜いて大きく深呼吸をしてみせた。そして、アトリエの奥の方にのっそりと歩いていくと、緩慢な動きで、布を手に戻って来る。そして、その布をキャンバスにかけて隠したところで、ようやく窓の方を見た。

 

『やぁ、早いね』

 

 男の声は、窓に遮られてロコの耳には届かなかった。しかし、手を上げてこちらに喋り掛けていることから、何を言おうとしていたのかは察することができた。

 

「オールドマン! ロコは――」

『それでは、ごきげんよう』

 

 男が一礼をすると、アトリエの灯りがプツンと途絶え、中は暗闇に包まれた。咄嗟のことに、ロコは言葉を詰まらせて、その場で固まって何度も瞬きをした。唐突に暗闇に包まれたアトリエの中は、何も見通せない。目が慣れていないこともそうだが、月さえ隠れている闇の中では、中を見通すことが叶わなかった。

 

「――っ」

 

 ふと、手に持っていた蝋引き封筒のことを思い出した。ロコはそれを手に、アトリエの裏側へと回った。アトリエの角を二つ曲がれば、目の前には照明によって照らされた鉄の扉が飛び込んで来た。ちょうど胸のあたりの高さに、カードキーを通すためのリーダーがあった。

 

「これで!」

 

 カードキーを通すと、ピピッと快活な機械音と共に「ようこそ、白石太郎のアトリエへ」と中性的な機械音声が闇夜に木霊した。その後にようやく、ガチャと開錠される音が響く。

 

 半ば扉を破るような勢いで、ロコはアトリエの中に入った。入り口を通過した途端、アトリエの中の闇が払われ、光が舞い込んだ。あまりに急な光に、ロコは思わずその場で怯んで足を止めた。

 

「……っ、オールドマンは?」

 

 チカチカと明滅する視界が治り、光にもようやく慣れてきた時。目を開けてアトリエの中を見回したが、男の姿はどこにも見当たらなかった。あるのは、床に散らばった無数のデッサン紙と、肖像彫刻、布が被せられたキャンバスと、置きっぱなしにされた画材道具だ。濁った水の入ったバケツに、数本の筆がつけられている。パレットは使っていた色をそのままに、広げられた絵具が残されている。

 

「……」

 

 ロコは男の痕跡をしばらく見つめた後、何を意図するわけでもなく、ふと足元に散らばっているデッサン紙の中から一枚を手に取った。色の塗られていない、鉛筆だけで描かれた男の自画像だ。青髭と額の一文字の皺が特徴の、30代半ばほどの風貌だろうか。デッサン紙は端々がひどく痛んでいたが、絵そのものに損傷は見られなかった。

 

 もう一枚、足元にあった無数のデッサン紙の中から一枚を手に取った。こちらは、40代後半の時だろうか。ヤギ髭になっており、顔の染みや皺が少し増えているように感じられた。目のくぼみも、先ほど見たものよりは少し深くなっている。額の一文字の皺は、変わらずそこに存在している。

 

 どちらも、表情を描いていない。

 口元や、瞳は確かに描いている。だが、その顔からは表情が消し去られているのだ。意図的に描かなかったのか、排除されている。

 

 床に散らばったデッサン紙を、それから何枚も手に取って目を通した。年齢が重なっているもの、バラバラなもの、同じような自画像が、無数に散らばっている。まるで、練習中の失敗作のように、同じようなものが何枚も、打ち捨てられているのだ。

 

 時折、風景画もあった。おそらく、いつもの位置から見た窓の外の世界を描いたのだろう。大木の葉っぱの数、あるいはその大きさから、季節や時期の大雑把な情報は読み取れた。それもまた、無数に思えるほどの枚数が存在した。

 

 男がいつも座っていた丸椅子の周辺に転がっているデッサン紙は、そんなものだった。一通り見終わって、それを積み上げた後。今度は部屋の奥に散らばっているデッサン紙の方に、ロコは手を伸ばした。

 

「これは……」

 

 その絵は、今までと打って変わったものだった。

 棺桶が、描かれている。十字架の描かれた棺桶だ。こちらも鉛筆だけで描かれている。背景は真っ黒に染まり、まるで棺桶が闇の中に安置されているような絵に、思わず体の芯から震えが走った。開け放った扉から入って来る冬の風が、不気味に身体に纏わりついた。

 

「ひっ」

 

 次のデッサン紙を手にしたとき、小さな悲鳴がアトリエに寂しく木霊した。

 骸骨の絵だった。人の全身の骨が、立体感をもって描かれている。まるで本当に目の前にあるかのように。白黒の世界に吸い寄せられそうなほど、深く。台の上に乗せられた、骸骨の絵。目にぽっかりと空いた空洞が、まるでこちらを見透かしているかのように、じっと、黒色に塗りつぶされている。

 

「オールドマン……?」

 

 見てはいけないものを、見ているような気がした。人の心を土足で踏みにじるような罪悪感が、ロコの胸の内に沸々と湧いてきた。次のデッサン紙を取る手が、伸びなくなってしまった。手が震えて、力が入らない。

 

「あっ」

 

 手に持っていた蝋引き封筒と、メッセージカードとカードキー、デッサン紙が音を立てて床に散らばった。ロコは慌てて、封筒とメッセージカードとカードキーを拾い集めた。他に紛れないようにと、要らぬ心配が素早い行動に繋がった。

 

『さいしょの展覧会は我が同志が相応しい

 よーく見て私のアートをさがしておくれ

 うごかしても構わないよ

 なぜなら埋もれた作品があるからね

 らいほうを心の底から楽しみにしているよ』

 

 メッセージカードに記された文字が、拾った拍子に目に飛び込んで来た。まるで、負い目を感じている彼女を激励しているかのような、絶妙なタイミングだった。

 

 ロコは改めて、メッセージカードに目を通した。読み直して、何度も読み返して。それを大切に蝋引き封筒の中に仕舞い込むと、次のデッサン紙を手に取った。手の震えは、止まっていた。

 

 女性の安らかな寝顔が描かれていた。まだ二十代後半ほどの、美しい女性だ。長いまつ毛に、美しい線で描かれた髪の毛がよく映えていた。そんな彼女の体は、たくさんの花に埋もれている。

 

 そんな絵が、何枚も、何枚も描かれていた。これらもまた、色が塗られていない。精々、鉛筆で塗りつぶされているか、敢えて色を塗らずに表現しているか。それ以上に色をつけられたものは、一点も存在しなかった。

 

 次は、壁際に散らばったデッサン紙だ。以前に男がこり固まった絵具を引っ張り出していたあたりである。

 

 デッサン紙を一枚手に取って、今までとの違いにロコは目を見開いた。

 それは、大木に身を寄せた女性の絵だった。無数に舞う桜の花びらの中、身を預けて余りある桜の木の幹に身体を預けて、まどろんでいる女性。木の幹は茶色く、強調されたオウトツがその丈夫さを表現していた。咲いた桜の隙間から漏れる白い陽光は、まどろむ女性と、大地から生えた青々とした草と、散った桜の花びらを鮮やかに照らし出している。穏やかで、美しい絵であった。

 

 さらに一枚とってみてみれば、それは神前式の絵であった。白無垢を着た女性と、五つ紋付羽織袴を着た額に一文字の皺をつけた男性が、それぞれ瑞々しい笑顔で、神社に向かっている。そんな行脚を、賑やかに、美しく描き出している。

 

「この男性は、オールドマン?」

 

 女性は、間違いなく先ほどのデッサン紙のものと同一人物であった。それだけではなく、花に埋もれた女性の絵とこの女性も、同一人物であると考えられる。更には、男性の方は額に変わらず一文字の皺がある。

 即ち、これはロコがオールドマンと呼ぶ男性と、その先に眠りにつく女性との、結婚の様子を描いた一枚。

 

「――」

 

 ロコは、今まで見てきた絵の意味を、今ここで理解しかけていた。

 まさか、という確信めいた考えが、頭の中に寒気と共に湧きおこる。

 

 慌てて、憑かれた様に彼女はデッサン紙を勢いのままに見ていった。どれも、華やかに彩られた美しい絵だ。幸福と美しさ。世界を祝福するように描かれた絵ばかりが、何枚にも渡って描かれている。構図や、場所、時間帯は様々であったが。そのどれもが、色彩に満ち溢れていた。

 

 色が、ついている。

 女性が生きているのであろう間は、色が付いているのだ。

 

 そして、色が消えてしまったのは。

 おそらく、女性が亡くなった時から。

 

「オールドマン、あなたは……」

 

 ロコは言葉を飲み込んだ。まだ、何かを言うべき時ではないと、己を奮い立たせて、今度は肖像彫刻の方に視線を移した。

 

「これも、やっぱり……」

 

 肖像彫刻は、どれも額に一文字の皺が刻まれていた。年齢順に左から並んでいるのか、若いほど表情が柔らかく、歳を重ねるほど表情が険しくなっていく。その変遷を、流し見ただけでも読み取れてしまう。

 

「スマイルが、ベターです」

 

 ロコは立ち上がり、丸椅子から更に奥にある空間に足を進めた。散らばったデッサン紙の数は、こちらだけ異様に少なかった。所々、茶色い木の床が見えてしまう程に。デッサン紙のカーペットは不完全で、ロコはそこに手を伸ばした。

 

「――ッ!」

 

 そのデッサン紙には、色がついていた。

 このアトリエから見える窓の外の景色と、今にも鼻歌を口ずさんで動き出しそうな、絵を描いている最中の少女。ロコが、描かれている。見ているだけで伝わる躍動感と、ロコのパーソナリティが映し出された紙面に、鼻の奥がツンと刺激された。目の前が霞むほど、胸の内が満たされていた。

 

「オールドマン……!」

 

 彼の描くロコは、いつもコロコロと違った表情をしていた。キャンバスに向かって難しい顔をしているものがある。得意げに筆を走らせる彼女が居る。目を輝かせて紙面越しにこちらを見つめて口を開く少女がいる。顔に影を落として俯いた、弱気な女の子がいる。驚きに目をまんまると見開いて。窓枠に肘を立てて、楽しそうに微笑みながらこちらを覗き込む姿が。

 

たくさんのロコが、そこに居る。

 

 

 

「……ここは、オールドマンのヒストリーだったんですね」

 

 散らばった全ての作品を見終えた時、ロコはポツリと息を吐くように呟いた。羨むような、尊敬するような、透明な瞳が宙に向いた。熱に浮かされたように、しばらくそうしてぼうっとしながら、考える。この作品の名前を。

 

 考えて、考えて。考えがまとまらずアトリエの中を一瞥した時、ふと布を被ったキャンバスに目が行った。丸椅子の前にある、いつも男が絵を描いているスペースにある、キャンバスだ。そう言えば、それだけは見ていなかったと、思い出したようにロコはそこに近づいた。

 

「このワークがラストです」

 

 遠慮も、ためらいもなく、ロコは布を一気に取り払った。

 すると――

 

「あっ」

 

 左右で、外とアトリエの中と、二分割の構図だった。アトリエの中に居る男は、外を見ながらキャンバスに筆を走らせている。外に居る少女、ロコはアトリエの中を見て筆を走らせている。アトリエの床にはデッサン紙の絨毯が敷かれて、壁際に肖像彫刻が立ち並ぶ。外の地面には、モミジとイチョウが美しく敷かれて、左端に見切れたように大木が描き出されている。アトリエの中の背景は古めかしい木製と剥がれた壁を強調して描いている。外の背景は、奥行きに向けてどこまでも広がる夜空と、見切れるように光差す沈む夕景色が、大らかに描かれていた。

 

 

 

 その絵は、ロコと男の――思い出。

 

 

 

 ぽつん、と床を濡らす雫がこぼれ落ちる。絵が霞んで、抽象画のようにひどく曖昧に映った。霞んだ夜空と夕景色がまじりあって、黄昏時のようにきらびやかな景色が、そこに映し出されているように見えた。例えそれが水面を通した抽象のフィクションだとしても、彼女にとってその絵画は、百万ドルの夜景よりも価値のある、思い出の宝石だった。

 

「ワークネームが決まりました、オールドマン」

 

 ロコは、いつもの窓に近づいて外を見た。窓ガラスは透明な鏡面となって、微笑むロコと小奇麗になったアトリエをうっすらと映し出している。開錠して窓を開放してみれば、目元を撫でる冬の風が心地よく、空からは雲の裂け目から、静謐なる月がロコを見下ろしていた。

 

「ネームは、『オールドマンとロコアート、フュージョンのヒストリー』です」

 

 空に向かって呟くと、ロコはそっと窓を閉めた。オートロックだったのが、閉めた瞬間に機械音と共に施錠がなされた。それにほんの少し肩を揺らして驚きながらも、ロコは中央にあるキャンバスの裏側に回り込んだ。

 

 

 

 ――『オールドマンの歴史博物館、ロコナイズと共に』――

 

 

 

 そんな文字が、キャンバスの裏に記されていた。ご丁寧に、「筆を置くしわがれた手」の色付きの絵を添えて。やけに達筆なサインと共に、完結させていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――尚、帰宅したロコが両親と姉にこっぴどく叱られたのは、言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆◇◆

 

 

 

「はて、さて」

 

 背を曲げて杖をついた老人は、額の一文字の皺を掻きながら、困ったように歩道橋から下を見下ろしていた。きらびやかな衣装を着た少女たちが、歌やダンスを披露している姿。普段ならば横目に通り過ぎるのだが、老人の連れがどうしてもと言ってやまず、そのステージを見ていた時のことだった。

 

「ロコのニュージェネレーションなステージを、アイズでしっかりイングリーブしてくださいね!」

 

 老人にとっては、どうにも会うのが気恥ずかしい相手が居た。バツが悪い、といった様子で肩を縮ませながら、しかし老人はしっかりと、その目に彼女の姿を映していた。

 

「叔父様、どうなされたのですか? そんなに肩を縮こませて」

「なぁに、少し知り合いがね」

「なら、もっと前に移動してもいいでしょう」

「お前さんが、それを言うのかい? 娘の晴れ舞台に、コソコソしているお前さんが」

「いや、それは……」

「言いっこなしさ。腹を探られりゃ痛いもんだからね」

 

 少女のステージは、拙いながらも趣のあるものだった。翼でも生えたかのように大らかに飛び出した歌声に、溌溂なダンス。独特な話し方は相変わらずの様子で、輝く笑顔から振りまかれるエネルギーが、ピリピリと老人の方まで伝わってきた。

 

「叔父様? 手が忙しないですよ」

「筆が無いのが惜しいのさ」

 

 老人の片手は、宙に絵を描いていた。思うままに、湧いてきた意欲を発散するように。空気のペンで宙にアートを描き出す。

 

「好きにするのが、一番だね」

 

 老人の耳に馴染むような優しい声は。

 ステージに立つ少女たちの声によって、青空にさらわれていくのであった。

 

 

 

 ――End――

 

 

 

 

 




補足:
 オールドマンがロコに渡した蝋引き封筒一式、その価値はおよそ300万円ほど。
 封蝋の型は芋で作って、完成させた後は美味しく頂かれたので、ワンオフ品




感想、どうかよろしくお願いいたします


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。