異・英雄記   作:うな串

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諸事情により、投稿ペースを不定期投稿にさせて頂きます。期間はそんなに空けないと思いますが、ご理解ください。


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10 鬼ごっこと駆けっこ

 

 

 孫策が袁遺・董卓の急襲を受けて撤退した。

 その情報は先陣を奪われた形になった劉備・公孫賛軍に意外な形でもたらされた。

「それが曹操さんから流れてきたの?」

「はい、その通りです。桃香様」

 尋ねられた諸葛亮は困惑の色を浮かべながら、答えた。

「どういうことだ、わざわざ情報をこちらに流すなんて? 何かの罠か?」

 関羽も困惑した様に言った。

「ただ、こちらも少し遅れてですが、その情報が斥候から入ってきましたから、罠ではないと思います。曹操さんは野心の塊の様な人ですけど、味方の足を引っ張るようなことはしないはずです」

「じゃあ、どうしてわざわざ情報を流したのだ?」

 張飛が尋ねた。

「おそらく、こちらの力量を探るのが目的ではないでしょうか」

「桃香は新参者だからな。どのくらいの力を持っているか、他の諸侯も気になっているのさ」

 公孫賛はそう言ってから、真剣な表情で続けた。

「それより、これからどうするかだと思うんだけど。敵は虎牢関に籠っているんじゃなくて、城外に出てきたんだろう。威力偵察の目標も変わるんじゃないか?」

「そうですね。虎牢関にいると思われていた敵が野に出てきた。問題は、こちらが敵を全く補足できてなく、敵は酸棗から虎牢関の間に捜索線を張っていればこちらを補足できることです」

「こっちは敵を見つけていないけど、敵はこっちをすぐに見つけられる状況なのだ」

「それに地の利は敵にありますから」

「う~~ん、それじゃあ朱里ちゃん。どうしよっか?」

「そうですね」

 劉備に尋ねられた諸葛亮は、しばらく考え込んだ後、方針を提案した。

「警戒部隊を出しましょう」

「警戒部隊? 偵察部隊ではなくて?」

 関羽が疑問を呈した。

「はい、今は敵の奇襲を防ぐことを第一に考えましょう。敵の規模だけでも持ち帰らなければ作戦の立てようもありませんから」

「そうだな。袁紹の性格を考えると何か手柄を挙げないと、何を言われるか分かったもんじゃないからな」

 やけに哀愁を感じさせる声で公孫賛が言った。

 袁紹と付き合いの長い彼女は、これまでにも袁紹に振り回される経験を何度もしてきたのだ。

「それじゃあ、私の騎兵がそれを務めるよ。足の速い部隊の方がいいだろう」

「うん、お願い。白蓮ちゃん」

 公孫賛がその役割を買って出て、この時代でいうところの中隊である卒(一二五人の部隊)の軽騎兵の部隊を臨時編成し、先発させた。

 その様子を見ながら、諸葛亮は董卓・袁遺陣営の選択について考えた。

 袁遺の元には彼女の親友の雛里がいる。

 鳳雛。そうあだ名される彼女は軍略の天才である。その彼女がこの戦略を考えだしたのか。

 そう考えて、諸葛亮の胸に痛みが走った。

 董卓と袁遺の軍の意図を読もうとするたびに、その攻略法を考えるたびに、敵方に雛里がいる。その事実が否応にも心に痛みを走らせるのだ。

 長社で別れたとき、諸葛亮は親友と敵対することになると考えてもいなかった。

 違う主君に仕えても、かつて私塾で語り合ったように、学んだことを世のために役立て、困窮と悪政にあえぐ庶人を助けるはずだ。そうなるなら、戦わないはずだ。そう思っていた。……いや、違う。そう思いこんでいた。心のどこかで戦う可能性を認識していた。ただ、認めたくなくて、誤魔化していた。

 諸葛亮は、こんな揺れた心では、まずいと精神的な均衡を努めて保とうとした。

 彼女は慎重にそれぞれの部隊の役割を指示していく。

 自分の私情が一切挟まれていないか、それが自分の主である桃香にとって最大限の利益を生むものであるか、絶えず自問する。

 彼女が判断を誤った場合、敬愛する主も共に戦う仲間も信じて付き従う兵も皆が死ぬことになる。

 私情を挟むことなどできなかった。

 雛里が長安で葛藤したように諸葛亮もまた葛藤したのである。

 だが、彼女たちの葛藤とは関係なく戦は進んでいく。

 何故なら、雛里が仕えた男は果断に富んだ人物であり、果断に富んだ故に野戦での運動戦を選んだのである。そして、運動戦で少数の方が有利を保ち続けるには、常に機先を制し続けなければならない。

 故に、戦の進行は加速度的に進んでいく。

 

 

 劉備・公孫賛部隊が警戒部隊を出したように袁遺もまた、偵察部隊を出していた。

 雷薄が兵三〇〇を率いて黄河を左手にして原武周辺を探索していた。

 部隊は騎兵と歩兵の混成部隊である。

 この劉備・公孫賛の出した警戒部隊と袁遺が出した偵察部隊の編成の違いで両者が現在、得ている情報の量と質の差がはっきり見て取れた。

 そして、それはこの両部隊と本隊のその後に大きな明暗を分けることになる。

 先に敵を発見したのは雷薄であった。

 彼は騎兵を子細に観察した。

 まず初めの印象は皆が良馬に乗っていることであった。遠目でそれが分かるほど、馬格が良かった。

 次に騎乗兵が着ている服であった。鎧を着ていない。着物も異様な形に膨らんでいない。

 この時代の鎧は基本的に鉄板、もしくは銅板をつなぎ合わせて作る。鋲打ちの技術も存在しているが、未だ鎧作りへ技術転用されていない。その鎧というより、小さな鉄板を無数に張り付けたタンクトップは遠目からでも目立ち、その上に着物を羽織っても異様な膨らみとなる。それが騎兵からは見て取れない。

 軽騎兵だ!

 雷薄は断定した。

 そして、袁遺という野戦指揮官の実際性のみを煮詰めた様な男の下で指揮官をしている雷薄である。彼はすぐに劉備・公孫賛隊が持つ情報の実情を看破した。

 雷薄は騎兵を三〇騎、伝令として本隊へ走らせた。

「いいか、馬が潰れても構わん。ともかく一瞬でもいいから、この情報を伯業様に届けろ」

 兵は怯えながら、何度も首を縦に振り、走り去った。

 それは伝令に急ぐというよりも、何か猛獣から逃げる様な格好であった。

 だが、仕方がなかった。

 雷薄がその強面に不埒な笑みを満面に浮かべていたからだ。それはさながら、得物を前にした猛獣である。

 そして、雷薄自身も部隊を下がらせ、陣形を整える。

 敵の騎兵部隊も雷薄隊の存在に気付いたからだ。雷薄はそれに備えた。

 だが、劉備・公孫賛の騎兵隊は雷薄隊を襲わず、撤退していった。

 その際、彼らも雷薄と同じように三〇騎を伝令とし、それを先行させ、他は雷薄隊の追撃から伝令を守るような陣形であった。

「くそッ、さすがにむこうも莫迦じゃねぇか」

 雷薄が称賛の様であり未練の様である言葉を吐き捨てた。

 彼らの目的も戦闘ではなく、警戒である。

 三〇を伝令として出して、残りは距離を置いて、雷薄隊とその後方にいるだろう本隊への警戒任務を続けるだろう。

 もし、彼らが攻撃してきた場合、警戒任務すら不可能な損害を与える自信があった。

 いくら向こうの方が多く騎兵を有していても、軽騎兵である。戦闘力は普通の騎兵に比べて高くはない。というより、戦闘力はないに等しい。戦闘力があれば、攻撃したくなり、偵察を疎かにしてしまう。これは後の時代の偵察航空機が武装を付けていない、もしくは極端に制限されていることから、人間から抜けぬ癖の様なものなのだろう。

 だが、距離を置かれるとなると面白くない。こちらの行動が制限されてしまう。

「よし、おめーら! 騎兵用の礫は捨てるなよ。必ず持ってろ!」

 雷薄隊の歩兵たちは騎兵に投げ、落馬を誘発するための手の平大の石を持っていた。

「俺たちは偵察任務を継続する! だが、敵の騎兵がまだこの辺をうろついているかもしれねぇから気を付けろよ! それから騎馬兵。敵の騎馬兵に仕事をさせるなよ。俺たちがあいつらの後ろを取ろうとしていると思わせるぞ。だが、実際には取らねぇからな。敵を精神的に疲弊させるぞ」

 雷薄は有利な状況のうちに腹を括って、さらに優位を積み重ねておこうとした。任務の最優先事項の敵の情報は、もう袁遺に送ったのだ。ここで果敢な行動に出ても、自分の主は文句は言わない。

 雷薄の言葉に一部の兵の顔が青ざめた。

「おいおい、なんだその顔は。恐いのか?」

 雷薄は兵を見渡しながら言う。

「じゃあ、引き揚げるか? そっちの方がおっかねえことになるぞ。今、伯業様があの騎兵とその後ろにいる部隊をぶっ叩きにこっちに向かってる。それを、のこのこ引き返して行って、その途中で会ってみろ。どんな叱責を喰らうか分からねぇぞ。いや、そんな叱責を俺が喰らうハメになったら、てめぇら、許さねぇからな!」

 雷薄の言葉に兵たちは覚悟を決めた。

 敵よりこの強面で声のでかい上官の方が怖かったのだ。

 だが、それでもこの怖い上官の下で戦場を駆ける方が生きて帰れそうである。兵たちは皆、そう思っていた。

 そう思わせることが雷薄の最も優れた資質である。

 

 

 雷薄隊から来た伝令の報告を聞いた瞬間、袁遺は叫んだ。

「出陣だ! 呂将軍、華将軍、張郃は私と共に雷薄の元へ。張将軍、陳蘭、司馬懿は別働隊として陽武方面へ。指揮は司馬懿がとれ!」

「はい」

 仲達は恭しく一礼した。それは戦場に似つかわしくない所作であった。

「ちょ、ちょっと待ってーや。いきなり出陣て、それと別働隊ってどういうことや」

「そうなのです。意味が分からないんですけど!」

 張遼と陳宮が声を上げたが、袁遺は

「将軍は司馬懿から。陳宮殿は行軍中に説明します。時間がありません」

 そう言って強引に出撃準備を進める。

 張郃、陳蘭はすでに自分の部隊の元へ行き、指示を飛ばしていた。特に歩兵が主体の陳蘭は騎馬隊の張遼と距離を話され過ぎぬように、その風采の上がらぬ容姿からは想像できないほど機敏に指示をし、準備を整えていく。

 行軍中、袁遺は陳宮にこれほど急いでいる訳を説明した。

「敵は、軽騎兵のみで構成された部隊を偵察に出しました。まあ、警戒だったのかもしれませんが、敵と遭遇したときに運動力のみを有する部隊を出した。これから考えられるのは敵がこちらの総兵力すら掴んでいない、ということです。掴んでいたら、威力偵察部隊を先行させますから」

 敵の総数を分かっていない状態で威力偵察部隊を出すのは無謀とほぼ同義語である。何故なら、威力偵察部隊を出す前提として前面の敵が対処可能な規模であるということがある。

 そのことを朱儁の元で威力偵察部隊を務めた袁遺は嫌と言うほど理解していた。あのときも、豫州の黄巾党の大まかな数を把握しており、袁遺は本隊からの救援を受けられるギリギリのところでその任務を果たしていた。

 であるが故に虎牢関に籠っていることを前提に―――袁遺にそう誤断させられて―――動いた劉備・公孫賛は危険な状況に追い込まれている。

「そんな状況の軽騎兵の本隊はどんな連中か分かりますか?」

「……貧乏くじを引かされたってことですか?」

 陳宮の回答に袁遺は満足そうな笑みを浮かべた。

「その通り。敵の規模が分かっていない危険な状況なのに偵察部隊に行かされたのは立場が弱い者です。連合の力関係は官位勲等より、兵力が物を言うことが大抵です。つまり、あまり兵がいない諸侯だ。それを叩いて、偵察程度でも危険な任務と連合に認識させる」

「諸侯は、この先に起こるであろう乱世を睨んでいるから、自分だけは兵を損ないたくない。だから、危険な任務には就きたくないし、他人に就かせようとして諸侯同士で争いが起きる。すると連合の崩壊は早くなる、ですか?」

「……はい、その通りです」

 袁遺は感心して言った。

 陳宮は袁遺が劉備・公孫賛軍を叩きたい理由を殆んど見通していたからだ。

「それに我々は、袁司空の任命から、十常侍の排除、私の後将軍拝命、そしてこの戦場に着くまでに貴重な時間を無駄にしたのです。戦場で一番大事なのは兵の命でもなく、金でもなく、時間です。我々がどぶに捨てた時間は、この国の一年分の税よりも貴重だった。だけど、連合はまだ、その時間を無為に過ごしている。その間に有利を積み重ねておきたいのです。それが急な出陣の理由です」

 陳宮も袁遺の意図を理解し、それに賛成だったが、同時に袁遺に性格の悪さを感じていた。有能だけど、絶対こいつは人格に問題がある。そう感じるほど袁遺は連合の犯したミスを拾い上げていた。

 袁遺は馬を走らせる。乗馬は苦手を通り越して嫌いであったが、今はそんなことを言っている場合ではない。

 五万で二〇万を翻弄しなければいけないのだ。そして、袁遺自身が言った通り、戦場で最も大事なものは時間だった。それを節約する早さを持つ馬はある意味で袁遺に今、最も必要なものであった。

 たとえ、馬に鞭をくれ、しがみ付く様な格好で無様を晒していたとしても、袁遺は馬を駆けさせ続けた。

 袁遺たちが雷薄と合流したとき、雷薄は何かを大声で叫び、兵たちに槍でひとつの方向を示させた。

 袁遺は、その意味を理解し、呂布に命じた。

「呂将軍、兵がさす方角の騎兵を!」

「……わかった」

 飛将軍と謳われる呂奉先を先頭に騎馬隊が雷薄隊と睨み合うようにいた軽騎兵一七〇を蹴散らす。

 そして、生き残った一部の兵を捕虜にして情報を聞き出した。

 兵は半ば放心したような状態で言った。

「このまま原武に続く道を見張っていろ、と言われました。本隊は陽武の方へ向かうから、何かあったら伝令を出せと……」

 雷薄との睨み合いの様な対峙から飛将軍の一撃、そして、そこからの生。それは余りにも落差が大きすぎた。気が抜けるのも仕方がないことだった。

「陽武の方に向かったか」

 袁遺は捕虜を後方に移送するよう命令を出してから、呟いた。

 三〇〇の偵察部隊に発見されました、なんて言って酸棗に帰るわけにもいかないので、敵は司隷内に進むしかない。酸棗から洛陽を目指した場合、通る道はふたつ。袁遺たちが駆け上がってきた原武方面と仲達を別働隊に向かわせた陽武方面である。このふたつの道の違いは陽武方面の方が川をひとつ多く越えなければいけないことであった。そのため、陽武方面の方が遠回りとなる。

「よし、敵と同じ道を通って追いかけるぞ」

「へ……な、何ですと!? 追いかける!?」

 袁遺の言葉に陳宮が声を上げる。

「こういった場合、来た道を引き返すのが常識ですぞ」

 陳宮の言う通りであった。今まで通って来た道なのだから、安全が確保されていることになり、進軍速度も自然と上がる。そちらの方が常識的選択であった。対して、袁遺の選択は敵の退路を絶て別働隊と前後から挟撃できるが、危険な道を行かなければいけない。そして、敵に追いつけなければ別働隊が撃破されるだけのハイリスク・ハイリターンな選択である。

「ここで無理をひとつしておけば、後で楽ができる。敵に洛陽への道が全て危険な状態と思わせることができる。先行部隊は雷薄が務める」

 陳宮はそれ以上、何も言うことができなかった。

 確かに兵士の人数、士気、体力に余裕のあるうちに無理をしておけば、後々、楽ができるというのは頷けるし、最も危険な先行隊を袁遺の子飼の部下が務めるのである。そこに文句は言えない。

 それに袁遺が兵に無理をさせ続けるとは陳宮は思っていなかった。

 洛陽から虎牢関への道程で見せた兵を落伍させない手当は、兵を大切にすることが後々に勝利のためになることを理解している証左であった。

 袁遺は先行隊を務める雷薄隊の元へ行った。

 雷薄を始め皆が整列して袁遺を出迎えた。

「雷薄、俺はよくよく運が良いな」

 袁遺は不敵な笑みを浮かべながら言った。

「へぇ~、何故です?」

 雷薄も応じるように山賊の親玉がする様な笑みを浮かべた。

「お前たち雷薄隊は俺の麾下の中で最も命知らずで勇者の集まりだろう。それがこの状況で手元にあるんだ。これを僥倖と言わず、何と言う」

 袁遺の言葉を聞いたとき、雷薄は、そう来たか、と一瞬苦い表情を浮かべてしまった。そして、隊が皆、袁遺と向かい合っている形だから部下にその表情を見られなくて助かった、と思った。

 袁遺と雷薄も長い付き合いである。

 だから、この手の装飾された勇気という偽善と悪徳以外の何物でもないものを使うことを袁遺が恥じていることを理解していた。そして同時に、今、その恥ずべきことを行わなければ、戦果をあげられない故に躊躇なく使ったことも理解した。

 雷薄はそのことに不快感などなかった。

 今、有利を確保しない方が後々に苦労とそれによって訪れる兵の損失があることを簡単に予想できたからだ。それを抑えるためにあらゆる手を使う。戦場で見て来たいつもの袁遺だった。

「なあ、そうだろう?」

 袁遺は雷薄のすぐ後ろにいた兵に話しかけた。

 その顔は普段の無表情からは想像できないほど柔らかな笑みを浮かべていた。

 きっと、詐欺師はこういった顔を浮かべて人に近づくのだろう。

 兵は高揚しながら、叫ぶように答えた。

「は、はい、その通りです!」

 この時代、というより農民が心身共に余裕のない時代、子供の時分から他人はもちろん親にさえ褒められたことがない者が殆んどである。そんな者が畏敬している隊長がさらに尊敬し付き従っている総大将というどれくらい偉いかさえも分からない人間に褒められたのだ。それは初めて体験する甘美な物だった。そして、それをもう一度味わいたくなる。承認欲求を満たすためにときとして人間は、呆れ驚く程の無茶を行うことがある。

「ははは、すごい。頼りにしているぞ」

 袁遺は呆れるほど純粋な兵から好意を絞り出す。自分でなければ殺している傲慢さだ。袁遺は自身を呪った。

 兵たちに表情が見えないようにして、雷薄に話しかけた。

「私の部隊の楽隊を貸す。それで何とかしろ」

 その顔はいつもの無表情であった。

「はい、助かります。でかい音は恐怖と疲れを吹き飛ばし、勇気を生みますから」

 雷薄が言う。

 それが彼がいつも戦場で、でかい声を出して指揮する理由であった。

 雷薄隊を先頭に部隊は出発した。

 彼らがやるのは鬼ごっこである。劉備・公孫賛隊を捕まえれば勝ち。逃げられたら負けのシンプルなルールである。ただ、この鬼ごっこには両部隊の命運がかかっていた。

 

 

 時間を少し巻き戻し、劉備・公孫賛の元に警戒部隊から伝令が届いたところから始める。

 それを受け取った劉備・公孫賛の首脳陣で、いち早く反応を示したのが諸葛亮であった。

「敵の偵察部隊は伝令を送っただけで、陣を組んでその場に留まったんですか!?」

「は、はい……」

 諸葛亮があまりにも大きな声を出したので、尋ねられた伝令は戸惑った様子であった。

 いや、伝令だけではない。この場にいた皆がそうであった。

「どうしたの、朱里ちゃん?」

 劉備が尋ねた。

「はわわ……大変まずい状況です」

「まずいとはどういことだ?」

 続いて関羽が尋ねた。

「敵は偵察部隊にも関わらず、陣を敷いて留まりました。これは、こちらがどれだけ敵の情報を持っているかと、こちらの戦力がどれくらいかを完全に読み切ったうえでの選択です」

 そして、諸葛亮は、袁遺が陳宮に話した内容と同じことを説明した。

 運動力のみを有した部隊が出て来たことから威力偵察部隊を出せないほど情報を掴めていないことを察知し、危険な任務を押し付けられるのは立場が弱い、つまり弱い軍しか持っていないと推測がなされる。

「これは私の失策です。敵が虎牢関に籠るとばかり考えていたから、偵察任務等の小さなことから引き受けて様子を見るよう桃香様に進言したせいで……」

 諸葛亮は頭を下げる。

「仕方がないよ、朱里ちゃん。虎牢関に籠ることは誰も疑っていなかったんだし、それより今はこれからのことを考えよう?」

「そうだぞ、朱里。これからどうするんだ? まさか、逃げるのか?」

 そんな諸葛亮を劉備と関羽が慰めた。

 諸葛亮は頭を上げると引き締めた顔をして言った。

「は、はい。三〇〇の偵察部隊に見つかったから帰るというのは、さすがに許されません」

「じゃあ、迎え撃つのか?」

 張飛が尋ねた。

「……」

 諸葛亮は逡巡する。

 確かに迎え撃てば、こちらが優位だ。

 敵の規模がわからないが、伏兵を上手く使えば、余程の兵力差でない限り勝てる可能性はある。

 だが、敵の偵察部隊がいる。それが厄介だった。

 敵の偵察部隊の指揮官は胆が据わった人物のようで見つかっても、未だに離脱していない。そのせいで伏兵が置きづらい状況であった。

 その偵察部隊を蹴散らそうとすると自軍は敵が向かって来ている場所に行かなければならない。敵の規模が分からない状況でそれはできない。

 そんな中で彼女が出した結論は天然の要害となりうる場所で戦うことであった。

「陽武方面に移動しましょう」

「陽武方面に?」

「はい」

 諸葛亮は意図を説明する。

 それをまとめるなら、

 まずは敵の偵察部隊の補足から逃れ、本隊の行動の自由を取り戻す。

 陽武方面は、陰溝水、官渡水、濮水が交差する天然の要害であり、そこなら兵数が少なくとも十分戦うことができる。

 そして、何より陽武方面の方が兗州への逃げ道が豊富である。

 以上であった。

 劉備・公孫賛隊は諸葛亮の指示に従って行動し始めた。

 偵察部隊には、そのまま敵と距離を取りつつも警戒を怠らず、何かあればすぐに本隊に合流するように指示を出した。

 この時点で諸葛亮は、まさか袁遺が追って来るとは考えていなかった。

 しかし、それは仕方がないことだった。

 陳宮が言ったように来た道を引き返す方が常識である。

 それに諸葛亮は袁遺の持つ兵の規模を把握できていなかったから、まさか連合の五分の一しか兵がおらず、リスクの高い選択をして優位を保たなければならないとは考えられなかった。

 そして、司馬懿の別働隊もそこに理由があった。

 上に書いたように陽武方面には川が多い。陰溝水、官渡水、濮水に囲まれている。

 川は確かに強力な防御線と成り得るが、それは諸刃の刃である。全ての渡河点を抑えようとすると膨大な兵が必要となるからだ。

 川沿いの全域に兵をばら撒き、どこかで優位を奪われて渡河され、兵力が再集結する前に各個撃破される。そんな最悪な結末が訪れるかもしれない。

 だから、万が一に備えて、最も信頼する部下に指揮権を持たせて向かわせたのだった。河川防御の難しさを理解している司馬懿なら最適な防衛方法を選択するだろう。

「それにしても敵は偵察部隊の指揮官でも、こちらの状況を正確に読める者が揃っているのですな」

 行軍の最中に趙雲が言った。

「そうだな。これで難攻不落の虎牢関に籠られていたら、大変なことになっていたかもしれんな」

 関羽が応じた。

「逆ではないでしょうか」

 諸葛亮が口を挟む。

「そんな指揮官がいるからこそ、野に出て戦っているんだと思います」

「どういうことだ?」

「柔軟性と高い行動力を持つ部隊を十全に運用できるような指揮官がいるから、関に籠らず、その能力を活かせる場所で戦っているんじゃないでしょうか」

 諸葛亮の答えは袁遺の行っていることを正確に言い当てていた。

 少なくとも、華雄が袁遺に問われ、答えに詰まっていたことの完璧な回答を用意していた。

 運動戦において重要な要素は、部隊の柔軟性と行動能力であった。

 その点で言えば、劉備・公孫賛隊が不利な状況に追い込まれているのは諸葛亮の能力の問題ではなく、情報を集める時間を浪費して、今更それをしている連合の対応の問題であった。

「そう言えば、朱里。陽武のなんという場所に行くのだ?」

 関羽が尋ねた。方角と距離は聞いているが、その地の名前を聞いていなかったのである。

「官渡です」

 諸葛亮は答えた。

 それは史実において曹操と袁紹が雌雄を決した場所である。

 しかし、その場所に人馬の屍が積み重ねられることは、この劉備・公孫賛と袁遺の戦いでは起きなかった。

 彼らが曹操と袁紹でないからでも、今が反董卓連合だからでもない。

 ただ、そこに劉備・公孫賛隊を入れると不利になる部隊が存在し、そのことに気付くだけの能力を持った指揮官がいたからだ。

 

 

 司馬懿も別働隊の移動の最中に敵の規模とどのくらいの情報を得ているのかと自分たち別働隊の任務について張遼に説明した。

「それは分かったけども、じゃあ、どうするんや? 川全部を見張れるわけやないで?」

「河川の防御で重要なのは主導権です。どこからどこへ渡るか、それを相手に選ばせないことです。逆の立場の話ですが、淮陰侯が魏豹を討ったとき、彼は大量の船を囮として並べ、上流で桶を筏として河を渡りました。そして、主力のいない敵国の首都を攻撃したのです。これは主導権が淮陰侯にあったから彼が勝ったのです」

 司馬懿が例に韓信の逸話を出した。

「今、現在、主導権はこちらにあります。敵はこちらの兵数すら分かっていない状況です。私たち別働隊が戦闘になる場合、敵は三〇〇にも満たない偵察部隊との戦闘をも回避するほど消極的な行動を見せたときです。防御的な戦闘を行うなら、地形を利用するのが上策。陽武方面で少数で戦える場所は、陽武と中牟の間の官渡になります。つまり、我々はそこに敵をいれないように動きます」

 司馬懿の言葉に張遼は逡巡した後、口を開いた。

「敵の目的地とそこに移動する理由は分かった。納得もできる。でも問題は、敵の数やないか? はっきり聞くで、こっちより、どれだけ多い?」

 張遼、陳蘭、司馬懿の部隊の合計は九〇〇〇であった。

「こちらの倍だと予想しています」

 司馬懿は答えた。その声には悲壮感など全くなかった。

「また、あれをやるんか?」

 張遼が言っている、あれとは孫策の軍を叩いた騎馬の長距離奇襲と伏兵を用いての挟撃戦法である。

「いえ、やりません。兗州への退路が多すぎて、敵の退路を正確に読めません」

「じゃあ、どうするんや? 二倍の敵と当たるんはきついで」

「我々は耐えればいいのです」

「耐える? 耐えてどうなるんや?」

 司馬懿は一拍置いてから張遼の質問に答えた。

「袁将軍が敵を後ろから追いかけているはずです」

 司馬懿の言葉に張遼は声を上げた。

「はぁ!? 追いかけるって……普通は来た道を戻って、敵を待ち伏せるのが常識やろ?」

「はい、その通りですが、連合は失策を重ね続けています。時間を浪費し、出て来た偵察部隊は情報が全くない故に過剰に慎重な防御態勢を取ろうとしている。運動戦ではそのことを徹底的に利用するものです。袁将軍は危険を冒してでも、敵の失策に付け込みます」

 張遼は少しの間、考え込むと、天を仰いで叫ぶように言う。

「あ~~危険を冒して敵を追撃する主人と二倍の敵に当たれちゅう部下。あんたら、どっかイカレとるで……けど今は信じたる。二倍の敵だろうが三倍の敵だろうが戦ったるわい!」

「お願いします」

 司馬懿は恭しく頭を下げた。

 袁遺たちの部隊がやるのが鬼ごっこなら、司馬懿たちがやるのは駆けっこである。

 距離とスタート地点は違うが、相手より早く目的地に着かなければいけないのは同じだった。

 この駆けっこ、勝ったのはギリギリで司馬懿たちであった。

 その勝因は地の利と訓練の方針であった。

 地の利は特に説明する必要はない。

 かつて、袁遺は長安でふたりの軍師に兵の脚力、伝達速度、集団襲撃、各階級指揮官の自立性の四つを将兵に求めると言った。

 ここで言う兵の脚力とは兵個人の能力だけを指すのではなく、兵全体の脚力を指す。移動能力と言い換えていいかもしれない。

 例えば、歩き方である。

 ぬかるんだ道を歩くとき、無遠慮に歩けば、弱い表面はあっと言う間に崩れ、後を歩く者は泥の海を進まなければならなくなる。すると隊は遅れる。

 それを防ぐために、ぬかるんだ場所では、つま先から足をつけるように歩いていく。それを体に叩き込むのである。

 これは兵個人としての能力寄りの話であったが、兵全体の話で言えば部隊の方向転換である。

 袁遺という男は陣形を重視していない。

 彼は陣形なんてものは歩兵なら横隊と縦列、それに方円の三つ。騎兵は横隊と縦列、それに逆V字の様な隊列を組めれば十分だと考えていた。

 代わりに運動性を重視していた。

 例えば戦略図で部隊は矢印や凸の様なマークで記されることがある。これは部隊の前方、つまり進行方向を意味するのであった。

 人が隊列を組んでいるわけだから、方向転換には時間がかかる。

 袁遺は横隊、縦隊での方向転換の訓練を徹底的に行っている。

 彼は強い兵より早い兵を求めているのだった。

 そして、その早い兵であるが故に別働隊は劉備・公孫賛隊の意図を挫くことができたのだった。

 司馬懿が劉備・公孫賛隊を補足したのは彼女たちが陽武を過ぎた辺りであった。

 劉備・公孫賛部隊は一万四〇〇〇(劉備五〇〇〇.公孫賛九〇〇〇)。別働隊は九〇〇〇(張遼五〇〇〇.陳蘭・司馬懿四〇〇〇)で戦力比はほぼ1.5倍である。

 この戦いは劉備・公孫賛と張遼・陳蘭・司馬懿の戦いと言うより、張遼と公孫賛、劉備と陳蘭・司馬懿の戦いであった。

 まず、張遼隊が騎馬隊の長所を活かして敵の後方に回り込む機動をした。それに公孫賛が対応する。

 劉備配下の関羽、張飛、趙雲の部隊が陳蘭・司馬懿の部隊に襲い掛かった。

 英傑三人を相手に陳蘭・司馬懿は粘り強い戦いをした。

 戦闘正面を限定するように務めて、防衛的戦闘を行う。

 前線が苦しくなれば、仲達は自分の隊の騎馬兵一〇〇を最もきつい部分の敵の後方に投入した。

 運動防御である。

 実際攻撃させることもあれば、襲うように見せかけるだけのときもある。後方を脅かす(もしくはそう見せる)ことで、一時的に前線の圧力を減らし、崩れかけた隊列を立て直せるだけの余裕を稼ぐ。

 運動防御は弱者がとりうる中で最も有効な戦法であった。だが、同時に限界もある。運動防御は何も解決しない。敵を喰い止めるだけで、劣勢を覆すには至らない。例えるなら、おぼれている人間に対して十秒分の空気を与えるだけで、水から引き揚げることはしないのである。

 張遼隊と公孫賛隊の戦いは、この劉備隊と陳蘭・司馬懿隊の戦いとちょうど正反対であった。

 兵数で劣る張遼隊が公孫賛隊に対して、有利な状況を築いていた。

 兵は将に対して神秘的ともいえる憧憬を抱いてこそ強くなる。張遼の武勇は兵にそれを抱かすに十分であった。その点で言えば、関羽、張飛、趙雲にもそれは当てはまる。つまり、この戦いはお互いの片方の部隊が人知を超えたところにある武勇に対して、堅牢な思考、確かな判断、迅速な行動で対抗している戦いであった。

 張遼を先頭に彼女の兵たちは公孫賛隊を削り取る様に攻撃していく。

 だが、幽州で騎馬民族との戦いに明け暮れる公孫賛も、ただやられているだけではなかった。

 劉備隊が有利と見るや否やその動きを張遼隊を倒すというより、歩兵の援護に向かえないようにするものへと変えた。

 こうなってくると張遼はつらい。無理に突破すると彼女の部隊の隊列が崩れるかもしれない。すると突破したところで有効的な攻撃ができない。

 張遼は歩兵の戦闘を見た。

 そこには美しい黒髪を靡かせ、凶器ゆえに宿る冷たい色気を発露させた青竜偃月刀を操る女性の姿があった。

「あれが関羽か……?」

 張遼は思わず呟いた。

 清龍偃月刀の使い手であり、その強さと美しさの噂は聞いたことがあった。そして、噂通りの……いや、噂以上の腕前であった。

 張遼は武者震いした。

 だが、それは関羽に対してではなかった。

 一度、手合わせしたいと思っていたが、どうやら、それは果たせそうにないらしい。

 何故なら、彼女には劉備隊の後方に砂塵が立つのが見えたからだ。

「ホンマに追いかけて来よったんか……」

 彼女の武者震いは本当に危険を冒して敵を追いかけて来た男に対してだった。

 

 

 行軍中の部隊に軍鼓の音が木霊する。

 それに続いて、その軍鼓の音に勝るとも劣らない大音声が響き渡った。

「オラァァァ! なんだその音は!? 俺の声に負けてんぞ! もっと気合い入れて、デカい音を出しやがれ!」

 雷薄であった。

「苦しいか!? 辛いか!? なら、それを終わらせる方法を教えてやる! 敵に追いつけ! そしたら、もう歩かなくていいぞ!」

 雷薄は兵を叱咤し、歩かせる。ただひたすら先に進ませる。右足を前に出させたら、左足を前に出させる。

 軍鼓の音が大きくなった。

「よーし、いいぞ。その音だ!」

 雷薄の蛮性の陽気は今や袁遺の本隊の最前列を行く自分の部隊全員に伝染する。それは部隊全員に危険な道を進んでいることを忘れさせていた。危険な道でも何でもいい。ただ、敵に追いついてこの苦しみから抜け出したい。追いつけ! 追いつけ! 追いつけ! そんな気迫が部隊全員から感じられた。

 歩くというより、右と左の足を交互に出していた兵たちの内のひとりが歓声を上げた。

 眼前に劉と記された旗を、そしてその向こうの陳という旗を見たのだった。

 歓声は雄叫びとなり、隊全てに広がった。

「おっしゃああああ!! 伝令、敵補足、別働隊と戦闘中、と伝えて来い!」

 雷薄の命令に騎兵が五騎が走った。

 伝令はすぐに各隊に伝えられる。

 袁遺が呂布隊、華雄隊、張郃隊に攻撃命令を下した。

 後ろから大将の劉備が襲われる形になった劉備軍は一気に崩壊した。

 関羽、張飛が大将で義姉の劉備を守るために前線から駆けつけようとするが、混乱する部隊でそれを行うのは難しかった。

 劉旗が揺れる。

 袁遺の隣でそれを見た雛里は心が揺れた。

 あの乱れる劉旗の下には所属する陣営が違ってしまった親友がいるはずであった。

 そう思うと訳の分からない感情が込み上げてきた。喉が渇く。手の先が震えてきた。

 それでも目は戦場を離さない。たとえ、そこにさらに胸を痛める光景しかなくとも。

 劉備隊の歩兵に変化があった。

 動きが鈍い。士気が落ちてきている証拠だ。特徴的な乱れ方をしてる陣形もあった。あれは兵が逃げようとしたとき、起こる乱れ方だ。

 その光景を見て、さらに痛みが走った。そして、雛里は思わず傍らにいる袁遺に叫んだ。

「雷薄さんの部隊を動かしてください!」

 なんで? 自分の耳朶を震わせた言葉に、雛里はそう思った。

「戦闘に参加する必要はありません」

 戦場という音が溢れている場所のため普段より大きな声で話す自分。

「敵の右側面に向かって思いっ切り走らせれば、敵は……少なくとも右翼の兵は横っ腹を突かれると思い心理的衝撃を受けます」

 その自分は今、親友がさらに危機的状況に陥る献策を主に行っている。

 思いと行動、言葉が正反対だ。

 かつて、張郃は雛里を見て、自分たち実戦指揮官のように何かが変わるのか、それとも司馬懿のように何も変わらないのか。そんなことを考えたことがあったが、これが雛里の変化であった。

 彼女は優し過ぎる面を持ち、非情になりきれぬことがあった。

 だが、彼女は軍師だった。それも袁遺という男の下でその全ての才知を揮っている軍師である。だから、軍師の仕事をするのだった。彼女は望んで軍師になったのだから。

 袁遺は伝令を出した。

 雷薄にもうひと仕事してくれ、と言って、敵右側面を突くような機動をするよう命じた。実際、攻撃しなくともよい。勢いよく目立ちながら兵を駆けさせれば、右翼を崩せる。そう伝えた。

 行軍中、危険な道の先頭を征っていた雷薄隊を予備兵力扱いしていたが、それを投入するのが最適な場面が出てきてしまった。若干、心苦しかったが、仕方がなかった。

 雷薄隊は、すぐに命令を実行に移した。

 と同時に、伝令がひとり、袁遺の元に雷薄隊からやって来た。

 伝令は緊張しきって袁遺に雷薄の言葉を伝えた。

「してくれ、とは情けない。何故、しろ、と言いません」

 雷薄の口調をそのまま述べたのであろう。伝令はそれだけ言うと真っ青な顔をした。袁遺からの処罰を恐れている。

 だが、袁遺は雷薄の言葉に彼らしさを感じて嬉しくなった。そして、

「ご苦労」

 と伝令を労い、彼を休ませた。原隊復帰させようにも彼が部隊に戻るまでに全てが終わってしまうからだった。

 雷薄隊三〇〇の投入の効果は驚くほど大きな効果をもたらした。

 横っ腹を突かれると誤解した右翼の兵の大半がわっとばかりに逃げ出した。前後から挟撃されている状況で、さらに右側面を突かれるかもしれないという思いは、敵の心理に大打撃を与え、士気を喪失させたのだった。

 右翼が潰走したことは、劉備隊の全ての部隊に伝染した。そして、劉備隊の潰走は公孫賛隊に伝播する。友崩である。

 勝敗は決した。

 戦後処理の最中、雛里は諸葛亮が討ち取られなかったことを知ったが、特に心が動かなかった。

 彼女にはやるべきことが多すぎた。

 運動戦では各指揮官が柔軟性を維持するために、ある程度の自由度が与えられている。そんな彼らが指揮系統から逸脱しないようにするのは参謀の仕事であり、つまり、彼女の仕事だった。

 袁遺と雛里は、仲達から報告を受けていた。

 それは行軍道程、戦闘推移、人的被害まで及んだ。

「陳蘭隊の被害が大きいです。約六〇〇名の死傷者を出しました。一回の戦闘では異常と言える数字です」

 陳蘭隊は二〇〇〇。原則的に一回の戦闘ででる死傷者の数は、部隊の一割にも満たないのが通常である。少ないと思うかもしれないが、被害が多く出るのは潰走の段階である。

 陳蘭隊の部隊の異常な大きさは関羽、張飛、趙雲の英傑三人を相手にした代償であった。

「わかった。代替兵員を回す。雛里、すぐに書類をまとめろ」

「はい」

 袁遺の命令に雛里が返事をした。

 代替兵員は、呂布隊と張遼隊以外の元何進の兵と急遽徴兵した一万の兵から出されることになる。

 袁遺は虎牢関までの行軍で彼らを甲乙丙の三種類に分けた。体力、年齢、経験などで分けられ、甲が最も質が良く、丙が最も良くない。

 甲種は、そのまま各実戦部隊に振り分けられ、乙種は代替兵員に、丙種は後方勤務となっている。

「追撃、終わったでー」

 そんな中、追撃戦を行っていた張遼と華雄が報告にやって来た。

「ご苦労様です、張将軍、華将軍」

 袁遺は彼女たちを労った。

「ちょうど良かった。各部隊の指揮官に伝達があったので、ふたりも聞いてください」

 袁遺は雛里に、今から言うことを各指揮官に伝達するから書面に残せ、と命じてから言った。

「兵の略奪は、懐に収まる範囲で敵兵の死体からは許可する。公孫賛軍の馬は略奪しても良いが、所持は許さない。この後、巻の町に着いたら、軍司令部が相場の倍の値段で買い取る。以上」

 雛里はそれを書き記すと兵を呼び寄せ、各指揮官に伝達させた。

「ふたりも分かりましたか?」

 張遼と華雄は頷いた。

「あれ? 陳蘭はどうしたん?」

 張遼は、辺りに陳の旗がないことに気付き尋ねた。

 まさか、さっきの戦闘で……一瞬そう思ったが、袁遺は否定した。

「陳蘭は動けなくなったり、隠れている敵兵を捕まえに行きました」

 動けなくなったり、には怪我以外にも自己保存を完全に諦めてしまい自棄になって、座り込んだ敵兵も含まれる。

「それ、どうするんや? まさか殺すんか?」

 張遼があからさまに嫌な表情を浮かべて尋ねた。

「いえ、情報を聞き出した後、後方へ移送し、捕虜にします」

 袁遺の答えに張遼は、そうか、と呟くと安堵の表情を浮かべた。

「司馬懿、君の部隊は、まだ動けるな。偵察に出てもらう」

「はい」

 仲達は自分の部隊に戻っていく。

「私は負傷兵を見舞ってくる。おふたりは自分の部隊をまとめてください。陽武の町へ向かいます。雛里、行軍の順番は、この書簡に書かれた通りにするから、これも各部隊に伝令」

 袁遺は書簡を渡すと治療を受けている負傷兵の元へ行った。奮戦し負傷した兵を称えるのは、士気を維持するうえで常套手段だった。

 そんな男の背中を見送りながら、華雄は張遼に話しかけた。

「なあ……」

「なんや?」

「その……」

 華雄は言い淀んでから続けた。

「中原の指揮官は皆、ああで。中原の戦は皆、こうなのか?」

 華雄の問いかけに張遼は苦り切った顔で答えた。

「いや、絶対あいつらだけや」

 

 

 この後も、敵も味方も、ああいう指揮官に振り回されることとなる。

 




補足
 今回は特にないです。
 相変わらず、地理状況が分からない文章なので地図を作りました。そして、これも前回と同じでペイントでてきとうに描いたので距離や位置などは正確ではありません。特に川は滅茶苦茶てきとうです。あくまでイメージの参考にして、これが全面的に正しいなんて思わないでください。
2019/12/16 地図の一部を修正しました。
2021/10/28 丁の章でも使うため、地図を再び修正。


【挿絵表示】

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