もし、よろしければ、見てください。
あなたにとって、プリンツ・オイゲンといえば、金? それとも銀?
私にとってはプリンツ・オイゲンといえば、チビでブサイクで、もじゃもじゃなカツラ被っているオスマン帝国やフランスと戦った人。
けど、エンタープライズといえば、スタトレなんだよな。
何の話してんだか……
17 春泥の思い
「こんなに簡単にいくなんてね」
その声には皮肉めいた響きがあった。
洛陽の司空府。その一室で袁隗と董卓、賈駆の三人が戦後についての話し合いを行っていた。
彼女たちの様な内務官僚は基本的に戦争が始まってしまえば、ほとんど手を触れることができない。その割には責任だけを負わされる場合が非常に多い。そのため、彼女たちは戦争の経過について話し合うより、勝った場合と負けた場合どうするか、それを決定するのが役目だった。
そして、その決定された政策のために漢王朝の重臣や名士たちに根回しを行ったのだった。
それは、何の問題もなく呆気なく終わった。
賈駆からすれば、洛陽に来てから、あんなに埒が明かなかったのに、袁隗が間に入っただけで、すんなりと終わったのだ。嫌味のひとつも言いたくなる思いであった。
これは中華の地域性の問題であった。
三国志で北と南の気候風土、住民の気質の違いを語られるが、東と西でも違いがある。
董卓が洛陽で支持を得られなかったことや反董卓連合があれほど大規模になったのも、これに起因する。
後漢の時代には、『關西出將、關東出相』という言葉と認識がある。『山東出相、山西出將』も同じ意味である。
訳すなら、関西は将を出し、関東は相を出す、という意味だ。
この関とは洛陽と長安の間にある函谷関のことであり、この以東と以西では気候や住民性が異なるのであった。この関の西からは優秀な将軍が出て来て、東からは優秀な宰相が出てくる。つまり、地域性と職業適正が関連するという考えである。南船北馬の東西版と思ってもらえばいい。
だから、西出身の董卓が文官職の最高位の三公に就任するのが、東に勢力基盤を持つ諸侯や名士たちからすれば、面白くないのである。
確かに連合の根本にあるのは袁紹の嫉妬であるが、諸侯の一部も袁紹ほど大きなものでないにしろその感情を抱いたのだった。
もちろん、全ての諸侯が嫉妬を理由に参加した訳ではない。
曹操は名を上げるために。袁術が参加したため参加することになった客将の孫策も名を上げ、独立し易くするという野心がある。劉備や公孫賛は純粋に漢室や民のために参加した。変わった理由として、張邈は曹操と袁遺が参加すると考えて、あのふたりと同じ陣営になるために参加したのだ。彼女は曹操は名を上げるために参加し、袁遺は都の袁一族を助けるため、時機を見て長安から洛陽に侵攻し、一族を救出して長安に立て籠もると考えたのだった。だから、張邈は袁遺の忠誠心の量を読み違えたことに背筋が凍る思いであった。
そんな董卓と関東の名士たちの間を袁隗が取り持った。
袁隗にとって、それは得意分野であると同時に彼の最も恐ろしい能力でもあった。
政治の世界において、あるふたつの重りが天秤の両側に置かれ、そのどちらを重視するか政治家たちは選ぶ。
ふたつの重りの名はそれぞれ『政策』と『政争』である。
そして、大抵の場合、政治家たちは『政争』の重りをより多く乗せることを選ぶ。
しかし、社会は『政策』の方に重りを多く乗せることを望んでいる。
袁隗の最も傑出した能力は、その『政争』の重りを『政策』の重りに変えることであった。まさしく政治的魔術である。
というのも『政争』も人間関係のひとつであり、その人間関係において競争意識を制御する術を学ばなければ、一生を台無しにしかねないことは以前にも書いた。
それは『政争』にも言えることであり、袁隗は政治家たちが目指す目的を勝利から協調に変えることができる。正確に言うなら、協調が不可能と悟るから人は勝利を目指すのである。袁隗は、その協調が可能であると長く人に思わせることができるのであった。
合理的か否かという視点から見ても、合理的であった。
協調より勝利を目指した場合、その後に生じた問題全てを自分が背負わなければならない。それは高い確率で勝利で得た利益よりも大きなマイナスになる。そして、いつしか、そのマイナスは決して投げ出すことができない重い背負い荷と化す。
だが、協調は違う。協調ができれば問題は多くの人が分担して負担することになり、結果として小さなものとなる。
この『政争』と『政策』、協調と勝利に失敗した例をひとつ上げるなら、宋の新法党と旧法党の対立であろう。
制度疲労等の様々な要因により赤字へと転落した財政を立て直そうとして新法党の王安石は効果的であるが多くの既得権益から、特権を奪う様な政策を行ったため、旧法党や商人、果ては太后からも反感を買うようになり、政界中枢から駆逐されることになる。その後、実権を握った旧法党も党内で協調することができず、それぞれの出身地や政策、個人的な好き嫌いにより朔党、蜀党、洛党の三つに分裂し、徽宗と蔡京の時代が来てしまう。そして、北方国境線の彼方の草原に戦塵が舞い、北宋の『突然死』が起こるのだが、話が脱線し過ぎたために、そろそろこの話題はここで止めておく。
話を戻して、袁隗と董卓、賈駆の勝った場合と負けた場合の話し合いとは、この勝利の後に起こる問題についてのことであった。
洛陽の漢王朝の役人や名士とは協調できたが、袁紹との協調は完全に不可能であるため、袁遺を使って勝利を目指すことになったが、勝利した後に必ず問題が起きる。国家経営や袁紹以外の連合に参加した諸侯をどうするかなど、それら全ては対処方法を間違えれば連合との戦い同様に漢王朝が潰れることとなる問題であった。
「ですが、本当によろしいのですか?」
董卓が申し訳なさそうな声で袁隗に言った。
「何がかな?」
袁隗が返した。
「勝った場合と負けた場合、その両方について、です」
董卓が答える。その瞳には何か芯の強さの様なものがあった。
「負けた場合、袁遺さんに全てを背負い込ませてしまうことは……」
董卓は語尾を濁らせた。心優しい董卓にとって袁遺に悪い印象はなかった。
彼は長安で自分たちの軍勢に宿を貸し、食料を分け与えてくれた。それに袁遺からすれば、長安で兗州と司隷の間で行われる連合と董卓軍の戦いを様子見し、その趨勢を見て一気に洛陽を強襲した方が簡単に利益を上げられたはずだった。それなのに彼は家名を破り、従妹の袁紹と戦っている。
その上、負けた場合、彼の死後の評価まで汚すのは、あまりにも気が引けるのであった。
親友である賈駆なら、袁家から出たことなんだから袁一族の袁遺に責任を取らせればいい、と言うが、董卓はそれが嫌だった。彼女は袁紹に事実無根の悪名を着せられたのである。それなのに袁遺に事実無根の悪名を着せるのでは、袁紹とまったく同じということになる。
人にされて嫌なことは人にはしない。善人過ぎる董卓には、それが当たり前のことであった。
「伯業自らが言い出したことだ。司空が気にすることなど何もあるまい」
「ですが……」
「それが伯業なりの敗戦の責任の取り方だ。それに伯業が負けた場合、司空たちは命は助かるが、その官職や位階、勲等は取り上げられることになる。それはそれで代償としては小さくない」
袁隗の声には大人が子供を諭すような響きが含まれていた。
「では、勝った場合でも司徒は本当に司徒を辞任されるつもりなんですか?」
「それが唯一、先帝の名誉を傷付けずに済み、多くの名士から支持を得られる方法であるからな。それに辞任すると言っても代わりに太傅に就く。そちらの方が位は高いぞ」
袁隗はお道化たような調子で言う。
だが、確かに太傅は三公より位は高いが実権などほとんどない名誉職である。そのため事実上の降格に近い。それでも、袁隗の言ったようにそれが唯一、先の皇帝である霊帝の名誉を傷付けず、名士からの支持を取り付けやすい方法であった。何故、そうなのかは後で詳しく話す。
「それより問題は財政と本初以外の諸侯に対して、どのような対応をするかだ。財政は国庫に金があるのが不思議な状態だし、そんな財政で諸侯全てを敵に回すなんてことは不可能だ。それについて、そちらには何か妙案はあるのだろうな?」
袁隗はふたりを見据えた。
その眼差しには魔物の巣窟である社稷を生き抜いてきた袁隗だから持てる迫力と強さがあった。
「それについては厳しいけど何とかするわよ」
袁隗のそれに若干気圧されながらも賈駆が答える。
しかし、袁隗は強かであった。賈駆には期待はしたが、まったくの無条件で信頼した訳ではなかった。
もし、彼女たちが効果的な手を何ら打つことができなかったら、伯業を頼ることになるだろうな。そうなると、あの甥はさらに権力を握ることになるか……
袁隗は、ただ単純に不安と言い切ることのできない複雑な感情が胸の内に広がるのを感じた。それが広がる感触は、ただただ気味の悪いものであった。
彼は伯業が漢王朝への忠誠やその思い、その決意の言葉を口にするのを何度も聞いたことがある。
自分は死ぬまで漢朝の臣でありたい。漢王朝を滅ぼしてたまるか。これらの言葉は袁隗はもちろん、袁遺の部下たちも聞いてきた。
些細な……あまりにも些細なことだが、袁隗にとって、棘となり心に刺さっている違和感があった。
その違和感の正体とは、袁伯業という男が忠誠心を語る対象が全て漢王朝であり、皇帝と言ったことが一度もないことである。
皇帝とは天意を受けて(たとえ、そういう建前であっても)即位するのだから、王朝=皇帝と捉えても良い。そういう意味で袁遺も漢王朝という言葉を使っているかもしれない。
だが、袁隗は素直にそう捉えることができなかった。
袁隗の気持ちを現代の言葉に意訳するなら、
袁遺にとって、袁遺自身も袁隗も皇帝さえも王朝というシステムの一部に過ぎず、現帝に問題があれば、それを排して、他の帝位継承者をたてるのではないか。
という不安であった。
わしの気のせいか……
袁隗は自問した。
彼は確かに練られた人間だが、自分を完璧な存在だと思っていない。いや、練られた人間故に人は間違いを犯すし、人の本質を読み違えたりもすることを承知しているのであった。
わしの弟で袁遺の父の本質も読み違えた。
袁隗は、ふと弟のことを思い出した。
袁隗の弟で袁遺の父親である男は名門袁家の一員としては、あまりに凡庸であったし俗物であった。
袁隗の弟に政治的才能はまるでなかった。どころか、名士としての責任感でさえも欠けているように思えた。
彼の長所は人としての情を多く有していることくらいしかなかった。本人は詩家として名を成したいという夢を持っていたが、彼の作る詩歌は凡庸であり、どうもそれで名を成すことは難しそうだった。
しかし、彼は諦めきれずに足掻いた。
例えば、遥か西の彼方に行き西域の歌を聞いたという者がいれば、彼を招き、それを聞いた。楚の知る人も少なくなった古い歌を知る老人がいると知れば、それを聞きに行こうとした。高位の役職に就いていないとはいえ名門袁家の者であり、そう易々と旅をすることは許されなかったため、人をやってそれを覚えさせ、汝南の屋敷で演奏させた。
果ては名士なら読まぬことが誇りとされる稗史雑書の類も掻き集めて読み漁った。
それらは袁家の財産で行われたため、この行為に眉を顰める者もいたが、袁隗は弟のことが嫌いではなかった。
凡庸で俗物ではあったが、決して卑しい男ではない。いや、人間という生き物は必ず卑しさを持って生まれてくる。問題は、その持って生まれた卑しさの見せ方、示し方であり、弟はその卑しさの見せ方は気分の悪いものではない。そう思っていた。
その弟が変わったのは息子が生まれてからであった。
後に遺と名づけられる袁伯業、その人である。
袁遺の誕生を彼は心から喜んだ。情なら人一倍有している。彼にとって息子は限りなくかわいい存在であった。
そして、その息子が稀有な才能の片鱗を見せたときの彼の、はしゃぎ様はすごいものであった。袁遺が成長するにつれて、彼は今まで収集した各地の歌を袁遺のために演奏してやり、様々な書物を袁遺の望むままに見せてやった。
これが原因かどうか袁隗は判断がつきかねたが、袁遺の詩は典故が多い作風となった。
幼くして私塾で学び、年上ばかりのそこで、常に主席の座を譲らなかったときなど、親馬鹿の見本の様に振る舞った。
だが、袁隗からすれば袁遺に多大な才能があることが不安であった。
袁家の序列というものがあるからだ。
袁隗自身も兄の袁逢より才能があり、先に三公の司徒となったが、常に兄のことを立ててきた。
それと同様に袁家の序列で言えば、袁遺より年下の袁術や袁紹の方が上であり、そのふたりは袁遺に比べれば凡庸であった。
そんな彼女たちに、袁遺は自分同様、大きな才を鼻に掛けず序列を守ることができるか、それを心配したのである。
しかし、その心配をよそに袁遺は袁術と袁紹のことを常に立て、謙虚な態度を貫いた。
それでもなお、袁遺に踏み絵を踏ませたくなるのは袁隗という人間の能力の限界であった。
洛陽に遊学した袁遺に宿を貸した袁隗は時機を見て、袁遺に言った。
「伯業、お前の官職の世話は、わしがしてやろう」
「ありがとうございます、叔父上」
そう答えた袁遺の感情の薄い顔を袁隗は観察した。
このとき、袁隗は司徒であり、十常侍ほどではないにしろ強力な権力を誇っていた。そんな叔父に官職の世話をしてやると言われたのだ。普通なら、高位の官位をくれるのか、と色めきたってもいいはずであったが、袁遺は普段と何ら変わらない様子であった。
「冀州の河間郡鄚県の県尉は、どうだ?」
そして、それは県尉という品秩が最も低い官職を言い渡されても変わらなかった。
「どうだ?」
袁隗は再び問うた。
「はい、謹んでお受けします」
礼を言い頭を下げる袁遺に袁隗は、面白くなさそうに言った。
「わしの腹の内を読んだか」
「……どういうことでしょう?」
「とぼけるな。吝嗇だと思ったろう?」
「いえ、無駄がないなと思いました」
「ふん、言いおるわ」
この手の冗談を介するのは良いことだ。ただ同時に恐ろしくキレる頭だ。こちらの考えを全て見通しおった。まったく、あの弟の息子がこれほどまでとは……
吝嗇とは袁隗が品秩が最も低い県尉の職を出したことではない。
袁遺は、おそらく将来、冀州のどこかの郡の太守か冀州刺史に袁紹か袁術を就かせようと袁一族が画策しているのだと予想をしたのだ。県尉として賊の掃除をさせ、袁紹なり袁術の統治を行い易くさせておく。
袁遺に踏み絵を踏ませながらも、その踏み絵を他の利益と連動させる。だから、袁遺は無駄がないと言ったのである。
袁隗は甥の本質を見極めようとした。どのくらい時間が掛かっても構わない。袁遺の才能の大きさとそれがどこへ向かうかを見極めなければならない。
県尉となった袁遺は県令を丸め込んで兵の徴募を行うという強引なところもあったが、それ以外は堅実に職務をこなしていた。
それは間諜から常に袁隗に伝えられた。
優秀な奴だ。それが報告を受けた袁隗の甥に対する感想であった。
袁遺は軍事だけではなく、政治的なバランス感覚も兼ね備えていた。
その証拠に袁遺は徴募を行う前に、鄚県の名士である張超と親交を持ち、彼に草書の手解きを受けている。
袁遺が県令を丸め込んで出した兵の徴募には、喃の様な故郷から離れて食うに困って応募したという人物は少なくなかった。
本来、こういった人物の受け皿は名士であり、小作人や部曲などにするのが普通である。
だから、袁遺が行ったことは張超のシマを荒らした様なものなのだ。そのために袁遺は先に張超と親交を持ち、それとなく徴募の伺いも立ててから、それを行ったのだった。
息子が県尉という品秩が最も低い官職に就いたことに父は不満も怒りも示さなかった。
遺、お前はいつか偉くなるぞ!
そう言ってただ純粋に喜んだだけである。
そして、袁遺が賊を討伐したと聞けば、同じように喜び。張超に草書の手解きを受けていると知れば、早く息子の書が見たいと、はしゃいだ。
彼は父親としては善良であった。
その後もいくつかの冀州の県で県尉を堅実に勤めあげる袁遺の元に、その善良な父親が亡くなったという知らせが届いた。
急いで故郷に帰り、父の亡骸と対面した袁遺は、それに縋りついて号泣した。看取ることができなかった不孝を詫び、泣き叫んだ。
それは儒教の作法でもあったが、袁遺は善良な父の前では、ただの孝行息子であった。そして、亡き父に対して今でも孝行息子であろうとしている。
袁遺が慣例に従い父の喪に服すとき、袁隗は、その面倒を見てやった。
考を尽くそうとする親族を助けるのも、儒教的徳行のひとつである。また、それを抜きにしても、弟とその息子への肉親の情であった。
この弟の死で、袁隗は弟の本質を読み違えいたことを知った。
儒教は厚葬を良しとする。墓の中には金玉珍宝の副葬品を入れ、壮大な葬式を行い、長い期間喪に服すことを要求する。
袁遺は喪に服している最中、自分の書いた詩や父の集めた各地の詩歌や小説(この時代では政治や哲学に関係がない低俗な笑い話のこと)を模写して、月に一度、喪が明けるまでの間、墓前で、それを焼いたのであった。
その過程で袁遺が父に対して一編の詩を読んだことを知り、袁隗はその内容から弟のことを誤解していたことが分かったのだ。
その詩を意訳するなら、詩に対する煩悩も尽く駆逐され、春の泥となり花を守る心もまたなくなる。筆と硯と親しむのは蝗除けのおまじないの護符を請われるときくらいであった。
そんな詩である。
弟は最初に抱いた詩家としての野望も親馬鹿な父としての顔を失っても、袁家の私有地の小作人のために蝗除けのおまじないの護符を書いてやることはやめなかったのである。
彼は確かに凡庸であった。俗物であった。それでも、ないと思っていた袁家の一員としての責任だけは持っていたのだ。
その人がどういう人間であったか、それが分かるのは、恐らく本当に最後のことなんだろう。
袁隗は、この一件でそれを学んだ。
頭のキレ過ぎる袁遺のことも、その甥のことを思ってくれた心優しい董卓のことも、分かるのは最後の瞬間であろう。そんな確信めいた予感を袁隗は抱いた。
話し合いが終わり、司空府を出た袁隗をひとりの大きな岩の様な男が待っていた。
それは袁隗の護衛であった。
彼に先導され、御車に乗る。
皮肉なことに、踏み絵を踏まされた袁遺が袁隗の命を助けるように動き、踏み絵を踏ませてまで袁隗が守った序列、その恩恵を受けている袁術と袁紹が袁隗を危機に陥れる様な真似をしている。
ままならん。
袁隗は馬車に揺られながら思う。
そして、心に刺さった違和感の棘がもたらす疼痛とは気長に付き合うことにした。あの甥が父に見せた情は確かに本物であったから。
18 因縁
因縁という黒い感情がある。
酸棗の地では炊事の煙が、そこかしこで上がっていた。
袁紹軍の兵たちが食事の準備をしているのだ。
といっても、本来の袁紹軍の軍律では食事まで、まだ時間がある。
だが、兵たちには規律を守るという意識自体が薄くなっていた。
酸棗で略奪を行い、思い思いに煮炊きしている者。何をするでもなく、ぼーっとする者。
自棄になって、好き勝手にしているか虚無的になっているかの二種類の反応を示す者が殆んどであった。
そんな中で、ひとりの男が部下を連れて、軍の立て直しに躍起になっていた。
彼の胸の中には、黒い感情がある。
袁遺が書簡で罵倒の限りを尽くしたことによって、袁紹は従兄である袁遺へ憎しみと殺意を抱いたが、その前から袁紹陣営で袁遺に憎しみを抱いていた者がいた。
袁紹の軍師のひとり郭図である。
彼らの因縁は高覧によって繋がれていた。
高覧がまだ袁紹の陣営に属していた頃、郭図が最高指揮官としてある匪賊討伐を行ったことがあった。
その郭図の下に野戦指揮官として高覧が就けられた。
匪賊討伐といっても、そんな大げさなものではない。
若者たちが、その有り余る若さ故に愚連隊を気取って暴れ回っている、そんな程度の話であった。本来なら邏卒辺りの仕事で軍隊の出番ではなかった。
しかし、若さというのはときに恐ろしい程のエネルギーと無謀さを見せるものであり、また若者の中に少し智慧の回る者がおり、どうも子供の悪戯で済ませられない話になってきた。
そのため、軍隊で少し脅しつけてやろう、ということになったのだ。
その仕事を与えられた郭図は不満であった。
彼は自分の才を鼻にかけるところがあり、こんな匪賊討伐以下の仕事はその才には役不足に思えてならなかったのだ。
それが誰にとってのかは分からないが、ひとつの不幸であった。
彼の下に就けられた高覧は生真面目であり、与えられた仕事を淡々とこなし、自分を組織の一機能の様に振る舞う男である。
高覧はやる気のない最高指揮官に兵の前では、その態度を改めるように進言した。
油断した上官を戒めるのも部下の仕事である。高覧はただ自分の仕事をしただけであった。
もちろん、そのまま言わず、
「兵は存外に指揮官を見ておりますよ」
と言外に匂わせた程度であった。上官を真っ向から否定する態度は軍隊では好ましくなない。
しかし、それが郭図の癇に障った。
才ある人間が大なり小なりそうであるように郭図にも、他人が自分よりも劣っているという思いがあった。いや、彼の場合、他の人よりも多分に持ち合わせ過ぎていた。
自分より劣る男が賢しらに差し出がましい真似をしてきた。
郭図は意地になった。
だからと言って、愚連隊もどきに後れを取るようなことはなかった。
だが、上官同士がいがみ合っている部隊の空気は最悪であった。
その兵たちの欝々しい雰囲気を郭図も感じた。
そして、郭図は、それを自身への批評としか感じられない男である。
この軍旅中、郭図の高覧への憎悪は、際限なく分裂、増殖を繰り返した。
これ以降、高覧は袁紹軍内部での冷遇が始まる。
それには郭図の讒言があったのは言うまでもない。
郭図の心境はネズミをいたぶる猫のそれであった。郭図という猫は執念深さと残虐性を持っていた。
しかし、ネズミは、まったく予想しえない形で猫の爪から逃げていくことになる。
袁遺であった。
父の喪が明け、袁術のときと同じように袁紹にも、父の形見分けをして、将ひとりをもらい受けることになったのだ。
選んだのは高覧であった。彼が冷遇されていることを袁遺は知っていた。
そして、この国の歴史を紐解けば、讒言の行きつく先は大抵が失意の死である。高覧も、それを理解しているから、袁遺の誘いを受けた。
だが、袁遺と高覧、そして袁紹の知らないところで問題が起こったのだ。
獲物を奪われて堪るか、と郭図が反対したのである。
といっても、郭図の反対自体は問題ではない。本当の問題は、これが原因で袁紹の軍師同士が争い出したのである。
これも一種の地域間の争いであった。
郭図・辛評・辛毗は、荀彧・郭嘉・鍾繇らを輩出した豫州潁川郡の派閥であり、田豊・沮授・審配は冀州の派閥である。
袁紹の軍師陣は、このふたつの派閥で争うことも有れば、派閥内でも争うことがある状況であった。
もし仮に、自他共に認める仕えにくい主の袁遺が彼らの主であったなら、このどちらの派閥にも属さない許攸も含めて全員を派閥争いで主が受け取る利益を無駄に少なくしたとして粛清するだろう。
田豊・沮授・審配の冀州の派閥が性格が悪く讒言癖のある郭図への反発から反対した。さらに、同じ潁川郡の出身の辛評・辛毗も冀州派閥に頼らず、冀州の名士と顔をつなぐために冀州の名士とも親交がある袁遺に恩を売ろうと、郭図に反対した。皆が郭図に反対したのだった。
結局、時間こそ掛かったものの高覧は袁遺の元へと移籍した。
だが、郭図は、この一件から袁遺を酷く憎悪することになる。
彼は物事全ての問題を他人に原因を求める男であり、自分に何ら落ち度がないと思うタイプの人間であったのだ。
だからといって、郭図は袁遺に対して、手出しすることは出来なかった。
そもそも軍師間の争いは袁紹に秘密裏に行われていたのである。
袁遺に手を出して、それが明るみに出るのは、さすがの郭図とはいえ、躊躇わざる得なかった。
そのため、郭図の袁遺への憎悪は時間が経つにつれ、どんどん積み上がっていく。
そして、この反董卓連合が結成され、その前に袁遺が敵として現れたのだ。
郭図の憎悪、それを覆っていた蓋が外れた瞬間である。
だから、袁紹が袁遺を倒す作戦の立案を命じたとき、郭図が最も袁紹の意を汲んだものを制作した。包囲からの挟撃による殲滅である。
しかし、それは捻じ曲げられた。
田豊が将来、敵対するであろう諸侯の兵力を削るような布陣を提案したのであった。
さらには沮授が、そもそも袁遺なんか放っておいて、洛陽を取りに行くという郭図の作戦を根本からひっくり返す計画を出した。
結局、作戦は折衷案的なものに収まった。
その結果がこれだ!
郭図は憎しみの籠った目で、酸棗の自軍の様子を見渡した。
自制が消え失せた敗残兵の群れだ。軍と呼べる代物ではない。こうなったのも俺の邪魔をした田豊、沮授と袁遺のせいだ! 何が洛陽の確保だ! 何が将来の敵の戦力を削るだ! そんなものは糞だ! 袁遺の首を叩き落とせば、終わる戦争だ! それをッ! それをッ!!
郭図は呪詛の言葉を心の中で吐き続ける。
袁遺が少数で勝っていることを不思議に思う奴がいる。評価している奴さえもいる。だが、俺に言わせれば、こんなもの評価に値しない。奴が勝っているのは、連合に参加した諸侯が戦争を望みながらも戦闘を忌避している中で、奴だけが戦闘になることを恐れていないからだ!
郭図の分析は的を射ていた。
確かに、郭図の人間性は最低であったが、彼の能力は本物であった。
袁遺がここまで諸侯に勝利できたのは、三十年戦争によって欧州各国が戦争に疲れた切った中で起こったオーストリア継承戦争や七年戦争でフリードリヒ大王が戦果をあげた状況に似ている。
これについては、なんで三国志が下敷きの恋姫の二次創作で北宋やら三十年戦争やらオーストリア継承戦争やら七年戦争の話してんだ、こいつ、と思われるので、補足で詳しく書く。
まあ、つまり、大きな戦争の後で戦うことに嫌気がさしていたときに起こった戦争で、フリードリヒ大王が人口比三〇対一をひっくり返して勝ったのは、本人が才能と運に恵まれたのと戦うことを厭わなかったためだ、ということであり、それが袁遺と酷似している、ということが言いたいのだ。
もし、袁術や橋瑁・劉岱・王匡にやる気があれば、袁遺が袁紹軍と戦おうと思うだけの戦力を残していなかっただろうし、曹操が自軍の被害をまったく考えずに戦えば、その時点で曹操軍は自軍の壊滅と引き換えに袁遺軍を壊滅させていただろう。これは袁遺が開戦当初の四万を有していて、さらに呂布が自軍にいることを考えれば、曹操軍が正面からの決戦で如何に強いかが分かる。
なのに、余計な駆け引きを行い袁遺を勝たせて、袁遺は強いだの、才能があるだの言っている諸侯が郭図には滑稽に見えた。
これは理論先行型の人間の極論であったが、全てが間違いではなかった。
郭図の見立てでは、呂布や張遼はともかく、他の将たちとその部隊は決して正面戦闘は強くない。
だが、袁遺を頂点に張郃、雷薄、陳蘭、そして、主戦場には来ていないが高覧は他の武将に比べて、兵を疲れさせず素早く行軍させることができる。だから、主導権を取られて、戦いが袁遺の優位に進むのだ。
そこから考えられる袁遺軍相手に行うべきことは、真っ正面からの決戦を強要することであり、袁遺が兵を縦横に動かす余地を奪うしかない。
そして、それは今において他ならない。
袁遺軍も前線基地を移動したのだ。態勢を整えなければならない。その隙を突く。
だが、それはできていない。
酸棗を含めた陳留郡からの徴発を曹操が拒否したためだ。
袁遺を倒した後で徴発した分は必ず補填する、と主である袁紹を通して提案したにも関わらず、断固として拒否したのであった。
何が民を思ってだ! この前まで民からの徴発など、どいつもこいつもやっていただろう!
売官が後漢王朝で一般的だった霊帝の時代、まず金で県令なりの地位を買い。その任地で税を必要以上に徴収し、それでさらに上の官位を買うというのが、よくある出世の仕方だった。だから、反乱が多発し、最終的に黄巾党の乱へと繋がる。
そもそも、あの女は宦官の孫であり、父親は一億銭と宦官への賄賂で太尉の職を買った濁流派だろうが! それを今更ッ!
郭図は確かに正しい部分もあった。
しかし、自分が何らかの高い能力を持っていることを周りに示そうとするあまり、常に他者に攻撃的、対立的に振る舞う人間は決して受け入れられはしない。
郭公則は、まさしく性格が才能を持て余したという見本のような人間であった。
袁遺が連合の追撃を振り切り、敖倉に到着したとき、彼の姿はボロボロであった。
敖倉の手前で馬が潰れ、地面に投げ出された。そのまま地面を転がった袁遺は大きな怪我はなかったが、泥まみれの格好になった。ちなみに、囮の袁遺隊で馬を潰したのは彼だけであった。
それでも彼は水を服の上から被ると、予め敖倉に送っていた非戦闘員たちに指示を飛ばした。
「飯を作れ! 私の部隊と主力の分だ。食事を取らせた後は休ませろ。雷薄、君もだ」
「まだ、やれますよ」
雷薄は言った。
「半日後でも、今と同じ言葉が吐けるか?」
「……休みます」
「そうしろ。文官! 敖倉の軍需品の蓄えをまとめた書簡を持ってきてくれ。それとこの周辺の地図だ」
袁遺は敖倉を前線基地へと変える作業をしなければならなかった。
物資と道の整備状況から部隊の移動や輸送が可能な規模を計算する。
この手の行軍計画を立てさせれば、袁遺は文句なしに有能であった。
そして、やにわに外が騒がしくなり、伝令が飛び込んできた。
「後将軍、主力部隊が帰ってきました!」
袁遺は思わず立ち上がりそうになったのを堪えて、努めて冷静に振る舞った。
「報告、ご苦労」
冷静に、そして毅然に。たとえ、どんな報告がなされようと、そんな態度を崩してはならない。
出迎えた軍、その先頭にいた雛里の表情から、袁遺は彼女たちが目的を達成したことを知った。
「どうやら目的を達成したようだな。ご苦労、良くやってくれた」
「はい、伯業様もご無事で何よりです」
袁遺は将軍たちの労いもそこそこに、食事と休憩を勧める。兵にも同様であった。
雛里と仲達には、自分に細かな報告をしてから、それらを行うよう命じた。
先程まで、袁遺が戦争計画を立てていた部屋に、袁遺と彼の軍師ふたりが集まった。
袁遺は茶を従兵に入れさせる。
茶は多少香りがするくらいの品質だが、戦場では貴重な嗜好品であった。
それを一口、含んでから、雛里が口を開いた。
「死者と行方不明者は一四七三名。戦闘不可能な怪我人は約四五〇〇になります」
「残存兵力は一万七〇〇〇か。本当に良くやってくれた」
袁遺が雛里を再び労った。それは、まったくの本心から出た言葉であった。
「それにしても、仲達。まさか、曹太守まで叩くとはな」
「勝手に将兵を動かして申し訳ありません。これは全て私の責任であり鳳司令代行には、一切の責はありません」
「君たちの地位は、自分で考え、動くためにあるのだ。命令を聞くのは兵の仕事で、命令の聞かざるところを考えるのが将の仕事だ。それを問題にするつもりはない。それに、おかげでやり易くなった」
袁伯業という人間の性格的にも、置かれた境遇的にも面白いところは、これがまったくの本心であるということだ。
確かに、彼は仲達の相対的に思考を巡らせる部分を警戒してはいた。主君である袁遺がなった囮を最大限に利用したことなど、その最たるものだろう。
しかし同時に、自分では絶対に曹操相手に、ここまでの戦果をあげることは不可能だということを理解していた。
だから、袁遺は、その思考が自分のために使われている間は彼の理解者であり、庇護者であらねばならなかった。
警戒と友情とが袁遺の歪んだ心情の中でかき混ぜられ、袁遺と司馬懿の関係を余人の理解の外へと進ませていく。
「当分は戦いより謀略で優位を作っていく。だから、部隊の主な役目は偵察になるだろう。大まかな行軍計画は制作しておいた。食事と休憩の後に目を通し、改善点を言ってくれ」
「は、はい」
「分かりました」
雛里と仲達が軍礼をする。
「うん、本当に良くやってくれた。今は、ゆっくり休んでくれ」
袁遺の労いの言葉を受けると、ふたりは部屋から出て、食事に向かった。
ひとりになった袁遺は、筆を取り書簡をしたためる。
その無表情な顔には、僅かに謀略家としての暗さが認められた。
結局、袁遺も郭図の性格に文句を付けられるほど立派な人間などでは、決してなかった。
補足
・關西出將、關東出相
パッと思い付く限り、後漢までの関より西出身の名将と関より東出身の宰相を並べてみる。
将・白起、王翦、李広、霍去病、衛青、耿弇、馬援、班超
宰相・商鞅、范蠡、管仲、晏嬰、蕭何、曹参
だいぶ抜けがあると思うが、孫武、孫臏、呉起、楽毅、韓信あたりが入らないから、いまいち微妙だな。まあ、白起、霍去病、衛青がいる時点ですごいんだけどね。それと、異民族討伐で活躍した将が多いのは、やっぱり、そういう土地なんだなって感じ。
後、霍去病、衛青のふたりは正直、関の真ん中らへんだから、西には入らないかもしれない。ふたりが入らないなら、宰相の方に霍光が入る。
・三十年戦争によって欧州各国が戦争に疲れた切った中で、起こったオーストリア継承戦争や七年戦争でフリードリヒ大王が戦果をあげた状況に似ている。
さあ、この補足は長いぞ。
宗教が原因で始まった戦争であるが、ヨーロッパの伝統で各国が介入した結果、何が何だかわからない状況になった三十年戦争。
え、神聖ローマ帝国が力を持ちそうなの。じゃあ、俺、カトリックだけどプロテスタント側に参戦するわ、とかやらかしたフランスさんはさぁ……まあ、正直な話、割と宗教関係ないじゃんって理由で参加している国も多いよ。
歴史好きの間では、神聖でもローマでも帝国でもない神聖ローマ帝国と呼ばれている当時のドイツは、この戦争の主戦場になり、人口の60%を失っている。
普通、三十年戦争に触れるならグスタフ・アドルフとヴァレンシュタインのふたりを細かく説明しなければいけないが、さすがに、それをやると長くなりすぎるので、グスタフ・アドルフが戦術面で、ヴァレンシュタインが組織面で戦争の歴史を大きく進めた、とだけ書いておこう。リシュリュー、テュレンヌについても、リシュリューは絶対王政の基礎を作ったり、常備軍設立の為にいろいろとやった人です。テュレンヌは六人しかいないフランス大元帥のひとりです、くらいしか触れない。
さて、この三十年戦争の中でオランダの法学者フーゴー・グロティウスが著書『戦争と平和の法について』で、国家間の戦争も個人の喧嘩と同じであり、国家間の法律が必要で、他国の権利を尊重し、相互間の契約(条約)を守らなければならない、という考えを述べた。
この考えは、スイスの法学者エンメリッヒ・ド・ヴァッテルに受け継がれ、その著書『諸国民の法』の中で国際法について説いたのだが、法学者の理想とは、だいたい現実では実現されないものと相場と決まっている。だが、なんと一時期、ヨーロッパでは、その理想が守られたのである。
もちろん、これには理由がある。
ひとつは啓蒙主義が台頭したため。
もうひとつは、三十年戦争にヨーロッパが疲れていたこともあるが、この後に起きたプリンツ・オイゲンの名を高めることになるスペイン継承戦争で、上に描いたグスタフとヴァレンシュタインが戦争を進化させたため、たった一回の戦闘で恐ろしいくらいの損害を出す様になってしまったのだ。
プリンツ・オイゲンとマールバラ公が活躍したマルプラケの戦いでは、勝者のマールバラ公は軍全体の約30%を喪失している。
その他の戦いでも基本的に勝っても30%、負ければ50%の損害を負うことが分かった。
この時代、ヴァレンシュタインが軍の組織を進化させた結果、傭兵に常に給料を払い続ける常備軍ができていたため、あまり損耗率が激しい戦闘をさせると傭兵が契約を拒否して、別のところに行ってしまうという事態が発生した。
だから、このときのヨーロッパの君主たちは戦争を望んでいるけど、戦闘を避けている、という状況と啓蒙主義のために、奇しくも法学者の理想が実現したのだった。
そんなヨーロッパに、ひとりの名君が生まれる。
それがフリードリヒ大王である。
ナポレオンとかヒトラーとか頭がアレなヤバい……もとい、何かすごい奴らを信者にもつ、好かれる人には好かれるし、嫌われる人に嫌われるフリードリヒ大王の半生は、これまた長くなるので割愛する。
まあ、父親に虐待されたり、亡命しようとしたが、親にバレてその手引きをした忠勇な部下を処刑されたりとか、人間は母親と姉しか愛していないとか、何だかんだあって父親に認められ王位を継げたはいいが、一時期、頭お花畑になっていたときに、アンチ・マキアヴェッリズムとか書いて、王になったときに、その書いたことと正反対のことやっちまって、いろんな人に叩かれたとか、いろいろあった人です。
この人はオーストリア継承戦争と七年戦争を戦い抜くわけですが、本文で書いた通り、軍才もあるし、他のヨーロッパの君主が嫌がっていた戦闘になることを厭いません。
七年戦争では一六回におよぶ大戦闘を繰り広げている。
最終的にクネルスドルグで負けたが、ロシア皇帝に自分の信者がつき、プロイセン有利に和平を結べたという強運を発揮した。だが、彼が七年戦争を戦い抜けたのは、戦闘になることを厭わなかったからだ。
ちなみに、この時代でも勝っても30%、負ければ50%の損害を負う、という原則は当てはまる。
例を挙げるならツォルンドルフの戦いでは敗者のロシア軍は50%を失い、勝者のプロイセン軍が38%失っている。負けたクネルスドルグでも兵力の48%を失っている。
つまり、袁遺も被害が大きい運動戦という方法を取りながらも、戦闘することを恐れていないため、戦闘を尻込みする連合相手に有利を取れているということで、この乙の章の反董卓連合戦は、李靖の奇襲戦術とか、ナポレオン戦争とか、七年戦争とかのいろんな戦いを参考にして書いているという、ちょっとした裏話をしたかったわけです。
後、この七年戦争中にパリに旅行したイギリスの文豪のローレンス・スターンの著書『センチメンタル・ジャーニー』に、こんなシーンがある。
せっかく、パリに来たのに戦争のせいで物があんまりない。そうやって愚痴るスターンに宿屋の主人が、今、私の国(フランス)とあなたの国(イギリス)が戦争しているんですよ。そんなこと言わないでください、と窘めるのである。
つまり、戦争とは君主と君主の戦いであり、国と国の戦いではなく、非戦闘員なら自由に国内外を行き来できたのだ。
啓蒙主義的であり、これこそが、法学者たちの理想である。
あ、ちなみに、イギリスはプロイセンの資金援助だけして、欧州では、そんなに戦わず、海の向こうの植民地を奪い合いをやっていたよ。なんていうかイギリスって感じ。
そういえば、七年戦争といえば、ロシアのスヴォーロフが……とか、アンハルトという後のプロイセン参謀部の基礎になった人がいて、とか延々と書き連ねそうなので、もうそろそろ本当にやめます。
ここまで読んでくれた人は本当にありがとうございます。なお、時間を無駄にしたいう苦情は一切、受け付けませんので、あしからず。