異・英雄記   作:うな串

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19 栄誉なき戦場

 

 

「では、これをふたつの陣営に届けてくれ。姿が見つからない方が良いが、届けて無事に帰れるなら多少は見つかっても構わない。そのさじ加減は任せる」

 袁遺は、ふたりの男に二通の手紙を渡した。

 男たちが人に与える印象は正反対のものであった。

 ひとりの男は、まったく印象に残らないと言うべきか、人込みで見かけたなら、それをこの人と認識できないような影の薄さがある。特徴というものが欠落したパーツのみで構成された顔や身体であった。

 逆に、もうひとりの男は、まさに偉丈夫の見本であった。

 引き締まった身体。髪は結られておらず、雑草の様にぼうぼうと伸ばしている。顔立ちは整っているが、こちらもまた針金のような髭を好き放題生えるがままにしている。しかし、その瞳には粗暴さなどなく、理知的な光を宿していた。

 彼らは袁遺が叔父の袁隗から借り受けた連合の内情を探っていた間諜であった。

 ふたりとも、それぞれの事情から袁隗に仕えたが、以前は江湖の世界でも指折りの実力を備えた猛者である。この程度の仕事は造作もない。

 部屋から出ていく彼らの背を見送りながら、袁遺は自分の企みが、どういう方向に転がるか考えていると彼の思考は果てしない暴走を開始した。

 どうなるかな? 失敗するかな? それは何人の人間が現状の危うさに気付いているか次第になるか。いや、俺も気付いていないかもしれない。もうすでに首にロープをかけられて宙に浮いているのに、まだ、地に足を着けているつもりでいるのかな……

 だとしたら、誰まで道連れにする? 華雄も張遼も呂布も董卓の部下だ。彼女たちは、まあ、無責任だが、洛陽の董卓の元に戻るなり、他の諸侯に仕えるなり、下野するなり、好きにしてもらおう。

 張郃と陳蘭と雷薄も自分で選ばせるか。俺と共に死ぬのと、どこかに逃げて山賊になるのとマシの方を選ばせよう。

 高覧には悪いが、仲達の妹たちを長安から逃がす仕事をしてもらわなければならない。張既か何夔が何か良い知恵を持っていることを期待するか。

 雛里は……

 そこまで考えて、袁遺の思考は一時停止した。

 俺は今、何の理由もなく雛里に死んで欲しくないと思った。いや、そんなことは当たり前だ。できれば誰も死んで欲しくない。俺も死にたくない。だが、だが、それは……

 袁遺らしくなかった。袁伯業という男は善性と悪性が複雑に絡み合って歪んだ性格をしており、そうであるからこそ、冷徹な指揮官と寛容な統治者のふたつの顔を持つことができたのだ。

 そんな袁遺にとって、ほぼ無条件で生存を願うなど気の迷いでしかなかった。

 それだけ精神が疲弊しているのか? 仲達なら、こんなことは……

「仲達?」

 袁遺は思わず親友で部下の男の名を呟いた。

 あいつなら、首に縄をかけられて宙に浮いている俺に付き合う様な真似などしない。だが、今も彼は俺に付き従っている。もしかして、俺はまだ大丈夫なのか……

 ふと、袁遺の視界に処理すべき書類が入った。そして、口元を自虐的なもので歪ませた。

 そもそも俺は最後まで足掻き切ってから死ぬ男だ。こんなことを考えていること自体、気の迷いだ。今はやるべきことをやるしかない。

「それはこれを片付けることだな」

 迷いを断ち切るように声に出して、袁遺は目の前の書類との格闘を開始した。

 

 

 巻の情勢は最悪であった。

 諸侯たちは袁遺軍の物資を奪い。ただ、それを喰い潰すだけで、なんら行動に移ろうとしていない。

 諸侯からの評判は最悪な総大将であったが、少なくとも袁紹は連合を動かすという仕事だけはしていた。彼女には強大な軍事力という背景があり、様々な思惑を持つ諸侯をまとめるには、それを用いるしかなかった。

 しかし、巻には袁紹はいない。彼女の代わりになれそうな袁術には、やる気はなかった。

 今、袁術の興味は好物の蜂蜜水の残りが少ないことであり、戦いから意図的に目を背けようとしている。

 もちろん、全ての諸侯がそんな虚脱しきっていたわけではない。

 劉備も、そのひとりである。

 ただし、劉備軍にも、たるみが、まったくなかったとは言えなかった。

 彼女の軍もまた、六割の死傷者を出す大敗北を経験しているのだ。やはり、士気が低くなるのは致し方ない。

 それを劉備が絶えず声を掛け励まし、関羽や趙雲がどやしつけて、何とか軍律を保っているのであった。

 しかし、それにも限界がある。

 いつしか兵たちはそれに慣れ切り、惰性で受け止めるようになるだろう。

 そうなる前に動かなければならない。

 未だこの連合の大義を見いだせない劉備であったが、虐げられている庶人がいる可能性が僅かでもある限り止まるという選択肢はなかった。

 だから、自分たちと同じように軍律を保っている諸侯と協力できるように動いたのだ。

 まず初めに接触したのは、一度の戦闘もなく、開戦当初に近い兵数を保っている広陵の張邈であった。一度も戦闘がないとはいえ、さすがに行軍で脱落者を出している。

 意外なことに、彼女の軍が最も士気が高く、軍律を保っていた。

 張邈軍は略奪に走るどころか、演習さえ行っている。

 劉備は期待に胸を膨らませながら、諸葛亮を伴い張邈軍の陣営へと向かった。

 劉備と諸葛亮が、その陣営に足を踏み入れたとき、まず、その期待が粉砕されることになる。

 兵たちが地面に座り込んで、話していたからだ。

 武器は手が届く距離にこそあるが、地面に置かれている。

「前進、駆け足!」

 という、やや低いが女性の大声が陣の奥の方で響いた。

 訓練を行っているのは本当だが、それをやっている兵は半数くらいしかいない。

 ここでも兵が、だらけている。

 劉備は暗い思いがした。

 しかし、諸葛亮は別の思いであった。

「桃香様。あれを」

 劉備は諸葛亮が示した方向を見て、自分の認識が間違いであったことを知った。

 兵が立てられていた。もちろん武器は持っている。そんな兵が要所要所にいる。

 哨兵を立てていたのだ。

 行軍を全て規則通りにやらせることは兵に多大な疲労を与えると以前に書いたが、それは部隊の待機でも同じである。

 例えば、全ての兵を整列させ手に武器を持たせて直立させるのは、万端事足りないと褒めるべきなのだろうが、兵に無駄な緊張と疲労を強いていることでもある。だからといって、兵の全てに武器を投げ出させて座り込ませるのもよろしくない。緊急事態に対処できない状態に部隊を置くのは指揮官としては無責任極まりない。

 張邈は、ここが戦場であることを忘れていなかった。

「規律を保つために兵の半分に訓練を課していますが、残りの兵は疲労を抑えるために休ませています」

 諸葛亮が劉備に説明する。

 その説明に合わせて、劉備の視線が張邈の陣営を移動する。

「その休ませている兵も疲労は最低限に、しかし、奇襲を浴びるほど気を抜かせていません」

 劉備の中で一度砕け散った希望が蘇った。

誰何(すいか)!?」

 ふたりの姿を目に留めた哨兵が体ごと向き直って、大声を上げた。それと同時に座っていた兵たちが武器を取り、立ち上がる。

「平原の相、劉玄徳と、その臣下の諸葛孔明です。張広陵太守に面会、願います」

 諸葛亮が応じた。

「失礼しました。ただ今、取り次ぎます」

 そう言って、兵は走って行った。その方向から、張邈は訓練している兵たちの方にいるようだ。

 少し待たされると、兵が戻ってきて、ご案内いたします、と言う。

 案内された先は袁遺軍から接収した小屋であった。そこで劉備と諸葛亮は、張邈と対面する。

「平原の相の劉備、字は玄徳です。こちらは諸葛孔明」

「広陵の太守、張邈、字は孟卓です」

 当たり障りのない挨拶をして、まず口を開いたのは張邈であった。

「それで、劉殿。いったい、何の用でしょう?」

 張邈の態度は丁寧なものだった。本来なら、相と太守ではあまりに身分が違い過ぎる。

「はい、私、このままだとダメだと思うんです」

「ダメ?」

「このまま、ここで何もやらずに、ただ宴会みたいなことをやったり、ボーッと過ごすんじゃなくて、この連合は悪政に虐げられる庶人を助けるために立ち上がったはずです!」

「その本分に立ち返るべきだと?」

 力説する劉備に、張邈は尋ねる。

「はい!」

 力強く肯定する劉備。

「……」

 それに対して、張邈は少しの間、考えてから、

「確かに、その通りですね」

 と言った。

 張邈のその台詞を聞いたとき、劉備の表情が明るくなった。

「このまま時間を無為に過ごすのは、確かに危険なことですね。巻の諸侯を説得して、何か行動を移すべきです」

「そうです。そうです」

 嬉しそうに劉備が頷く。

「となると、必要なものは袁遺軍の情報になりますね」

 しかし、張邈の次の言葉に、劉備の表情は再び曇ることになる。

「ですが、私の軍には精強な軍馬がいません。情報収集の任務には向かないため、それは別の諸侯にやってもらうしかありません」

 それを聞いた劉備は、え、と小さな声を上げ、困惑した表情で傍らに控える諸葛亮の顔を見た。

 諸葛亮と劉備の視線が交差する。

 そして、諸葛亮が口を開きかけたとき、張邈は何かを汲み取ったように、諸葛亮に頷いてみせた。

 張邈と劉備でも身分に違いが有り過ぎるのに、劉備の臣下である諸葛亮が簡単に口を挟むわけにはいかない。そのため許しをもらおうとしたのだが、それを見透かして張邈が許可を与えるように頷いたのだ。

 諸葛亮は決意に満ちた真剣な顔で話し始めた。

「情報収集については分かりましたが、その援護をしていただく必要があります」

「どのような?」

「袁遺軍の指揮官は状況を的確に読んで、常に自軍が有利になるように独断で動ける柔軟性を持っています。それに対抗するためには、どうしても後方からの援護が必要です」

「つまり、後詰として兵を出せと?」

「はい」

 諸葛亮が頷く。

「しかし、袁遺軍の状況は、まったく分かっていないのですよ。総大将である袁公が敗れ酸棗まで退きましたが、その戦いで袁遺軍がどれだけの損害を受けたのかも。囮となった袁遺が、どこに駐屯しているのかも。こんなことを諸葛さんは、言われなくても承知でしょうが、滎陽にいる軍を敖倉にいると読み間違えた場合、偵察部隊もその後詰も壊滅する可能性が高い」

 張邈の言うことは常識的である。

 被害の規模を小さくするために偵察部隊を派遣するのに、その偵察部隊を守るために被害の規模が大きくなるような真似をするのは愚の骨頂だと言えた。

 しかし、諸葛亮の意見も間違いではない。

 諸葛亮の認識では、通常の偵察部隊を出したところで、袁遺軍なら簡単に揉み潰してしまう恐れがある。

 それは諸葛亮自身と劉備軍が味わった苦い経験から出された結論であった。劉備軍は警戒部隊から、軍の規模や連合内の立場を読み取られて、半数以上が死傷する被害を出している。

 なら威力偵察部隊を出すしかなく、そのためには後続の部隊が必要であった。

 結局、情報がないと何もできないのだから、その価値と被害の大きさから損得勘定をするしかない。

 その損得勘定に絡んでくるのが、連合という同盟関係の常識だ。

 以前にも書いたが、連合(もしくは同盟)とは参加した勢力全てに利益が分配されるプラスサムゲームでなければならない。それが利益が一部の勢力にしか渡らないゼロサムゲームや誰も得をしないマイナスサムゲームになっとき、その関係が破棄もしくは破約されるのは、避けられないことだ。ちなみに、その後、同盟していた両者の関係は大抵が険悪なものになる。

 つまり、張邈からすれば、危険を冒して情報を手に入れるという行為がリスクとリターンに合わないと感じているのだ。

 となると、諸葛亮からすれば、張邈の説得においてリターンを増やすかリスクを減らしてやるしかない。

「……ですので、張太守には鮑騎都尉(鮑信)の説得も、お願いしたいのです」

 そして、減らせるリスクとは、数を揃えて諸侯ひとりひとりが受ける被害を少なくする程度のものしかなかった。

「私たちは、公孫太守や袁州牧を説得します」

 袁遺軍に一度敗れたとはいえ、公孫賛軍は強力な騎馬隊を有している。偵察隊の任務には不可欠である。

 また、一度敗れたということは袁術軍も同様だが、彼女の軍は、この巻で一番大きな規模である。協力を得られたなら心強い。

 しかし、そうなれば、そうなるで、別の問題が出てくる。

「では、その軍勢を誰が指揮するんですか?」

 張邈がその問題を指摘した。

 言い出したのは劉備であるが、彼女は連合で最も地位が低く、軍勢の規模も小さい。

 だが、地位と軍の規模で、ふさわしいのは袁術であるが、その袁術にはやる気がない。それに連合の初期に袁術が行った身勝手な行動で諸侯たちからの評判は悪かった。

「簡単な部隊行動基準のみを定めて、後は独自に判断することになると思います」

 総大将がおらず代理が立てられない状況なら、そんな風にそれぞれが動くしかできそうになかった。

「………………分かりました」

 張邈は長い沈黙の後で了承した。

「鮑騎都尉の説得はやってみましょう」

「ほ、本当ですか!?」

 劉備が叫ぶ様な声を出しながら、前のめった。

 その表情は喜色に満ちており、それを見ている者も幸せにする人間的魅力に溢れていた。

「はい。そちらも遼西太守と揚州牧の説得をお願いします。特に揚州牧の軍の規模は、それだけでも精神的な余裕を兵に与えます」

 張邈は頭を下げ、丁寧に言った。

 さらに、ふたりをわざわざ陣営の入り口まで見送った。

 そうして、小屋まで帰ってくると、そこには妹の張超がいた。

景雲(じんゆん)もご苦労様。何もなくてよかった~」

 劉備と会談していたときの固めな雰囲気と口調はどこへやら、張邈は妹に砕けた口調で話しかけた。

「万が一に備えて、景雲に別の部屋に待機してもらったけど、私の思い過ごしだったかな~」

「まあ、いきなり連合を組んでいる相手に斬りかかったりなんて、普通しないわよ」

 姉の態度とは違い張超―――景雲の態度は固い。それが彼女の性分であった。

「うん、そうね」

 張邈が頷く。

「それより、どういう風の吹き回し? あんなに嫌がってた袁遺軍と戦いそうな提案に乗るなんて?」

 景雲の脳裏に、姉が酸棗で袁遺と敵対したことを嘆き、交戦することを恐れていた情景が浮かんだ。

「うーーーん……」

 腕を組み部屋を見渡してから張邈は妹と向き合い言った。

「決して大声を出さないでね。それと見せるのは一度だけ。あなたが見終わったら、燃やすから」

 張邈は懐から一通の手紙を出した。

 しばらく視線を姉の顔と手紙に行き来させてから、景雲はそれを受け取った。

 手紙を読み始めた彼女の眉間にしわが寄る。先に進むごとに手が震え、読み終わったときには青ざめた顔をしていた。

「姉さん」

 景雲は顔を姉へと寄せ、声を潜めて言う。

「これ、袁遺からの手紙じゃない。それにこの内容」

 妹の狼狽に姉の張邈は曖昧な表情をするだけであった。

 手紙の内容は、袁紹に宛てたものとは違い実利的なものだった。

 自分には連合に参加した諸侯全てと敵対する意思はなく、都の袁一族を守るために、身勝手な軍事行動で漢王朝の静謐を乱す袁紹の暴走を止めるために、仕方なく戦ったということ。それを豫州や冀州の名士に説明したこと。そして、似た様な手紙を袁術にも送り、揚州への撤兵を促した。だが、袁術は熱さも喉元を過ぎれば忘れる人物であり、時間が経てば領土的野心を持ち、揚州にとっての楔である広陵を攻めるかもしれない。だから、広陵を守って欲しい。その援助は必ず行う。自分が流した噂によって傷付けられた名誉の回復も必ず行う。最後に、身勝手ながらあなたとの友諠に縋らせて欲しいと結ばれていた。

「つまり、袁術に帰るように言ったから広陵が危ないぞ。だから、テメェーも帰れや。それと二〇万集めて三万だか四万の軍に叩き返されて名士に無能と思われるだろうから、お前が無能じゃないことと危なくなったら五倍以上の軍にも勝った部隊が援護に行くぞって後ろ盾になってやる。だから、大人しく言うこと聞いとけやって感じ」

 張邈が凄みを効かせて話すが、幼く見える容姿のせいであまり怖くない。

 それに呆れているのか自分たちが危険な状況に置かれていることに恐れているのか、景雲は何も言葉を発することができなかった。

「だから、どういう風の吹き回しって聞かれたら、劉備に袁術の動きを探ってもらうため」

 景雲の口が言うべき言葉を探すように形を変える。

「…………姉さんは、なんで連合に参加しようと思ったの?」

 やっとのことで喉から搾り出せたものは、根本的な疑問であった。

「華琳と伯業が参加すると思ったから」

 そんな妹に姉は優しげな表情を作る。まるで妹を落ち着かせようとしているようであった。

「私たちが州牧や太守、県令としていられるのは、その地位にふさわしい治世と漢王朝が任命したという権威。そのふたつを以って民や名士を治めているの。だから、漢王朝の敵という董卓を討つ連合なら参加しておいた方が良い。そうしたら、広陵の政治に参加している名士に言えるでしょう。自分は漢王朝にこれだけ忠を尽くしている。あなた方にもそれを望むって。それに、華琳も伯業も参加するはずだし、あのふたりが組むなら負けはないと思った」

 だから、勝ち馬に乗ろうとしたってわけ、と張邈はカラカラと笑った。

「でも、まさか伯業が敵に回るなんてね。彼なら、董卓軍の主力を連合が引きつけている間に洛陽を強襲して袁一族を保護、後で袁紹や袁術に敵を引き付けていたおかげですって言って、ふたりを持ち上げて実利だけを取ると思ったんだけどね」

 おそらく、彼女の言うそれが董卓と彼女の部下以外の多くの人が利益を得られる選択肢であっただろう。

 しかし、その選択は董卓と連合の争いを袁紹と袁術の争いに代えるだけで、行きつく先は結局、漢王朝の衰退である。なら袁遺は都の袁一族が生き残る可能性の高い方を取った。たとえ、その結果が袁家の家名に泥を塗ることであっても。

「それにまだ、あなたには言ってなかったけど、華琳の軍が伯業の軍に叩かれたの」

「えッ!?」

 景雲が驚愕の声を上げる。

「陳留郡での袁紹軍の略奪をできる限り早く止めようとして、隊列を崩してでも部隊速度を上げた結果、そこを突かれたみたい」

 張邈の声は、ただ事実のみを告げる乾き切ったものだった。

「だけど、たとえ損害を受けていても、華琳なら自領で略奪なんて真似を許すはずがない。袁紹と衝突するのは目に見えている。そうなれば連合は終りね」

「じゃあ、袁遺の手紙に従って帰るの?」

「袁術の出方次第ね。それに約束は約束だし鮑騎都尉の説得をしなくちゃ。あなたは衛茲と共に袁遺軍の残っている兵糧を集めてその量を報告して。部隊を動かすなら兵糧はいくらでも必要よ」

「わかったわ」

 小屋を出ていく妹の背中を見ながら、張邈は自問した。

 面倒なことになっちゃった。全部、私の責任ね。もし私に華琳や伯業くらいの用兵の才能があれば、もう少しマシな状況になっていたかしら?

 だが、彼女は、その羨んだ二人の現状を考えて思い直した。

 片や四世三公の名声をドブに捨てて従妹と殺し合っているし、片や軍を叩かれて自領で略奪が行われている。

 私の方がマシな状況ね。

 だからといって、張邈はふたりがここで終わるとも思っていなかった。

 あのふたりなら、どんなことがあっても這い上がってくる。なら、あのふたりよりもマシな状況にいる自分が生き残れる可能性はあるはずだ。自分にふたりより才能がなくても。

 彼女には連合を抜けるという裏切り行為に後ろめたさも罪悪感もなかった。

 そもそも連合とは利益のために結びついた関係である。なら、利益が得られなくなった時点で、それに固執するのは愚かなことだとさえ思っていた。

 何度でも言うが、政治には善悪などというものはなく、正誤のみが存在する。道徳が現実の要求より上に立つことはない。

 後漢という儒教色が異常に強い世を生きる張邈でも、そのことは嫌と言うほど分かっていた。だからこそ、彼女はここまで生き残ってこれたのだ。

 

 

 え~っと、敵が卑屈な態度を取るときは攻めてくるっていうのは孫子の何篇だったかな?

 これが張勲の主に届いた手紙の感想であった。

「七乃ーーーーーッ!!」

 袁術軍の陣営に袁術の声が響き渡った。

 それを聞いた者たちは、またか、と思った。

 巻に滞陣してから、袁術は事あるごとに張勲を呼びだした。不安で不安で仕方がない袁術は信頼する張勲に我がままを言うくらいしか不安の解消方法が分からなかったのだ。

 それを理解している張勲も普段より甲斐甲斐しく主の世話をする。

 今日は、どんな我がままかな、と袁術の元に向かった彼女は、主が手紙を持っていることに気が付いた。

「美羽様。何ですか、それは?」

 張勲が尋ねる。

「伯業からの手紙なのじゃ、読んでたもれ」

 そう言う袁術を張勲は、

「は~い」

 と袁術が不安がるから普段と変わらぬ感じで答えながらも、袁遺の手紙に不吉なものを感じていた。

 張勲が手紙を読み始める。

 手紙の内容は謝罪と媚と懇願であった。

 書かれている事実は張邈の元に届いたものと大差はない。ただし、文体は地に頭を擦り付ける様なものであった。

 都の袁一族を守るために、身勝手な軍事行動で漢王朝の静謐を乱す袁紹の暴走を止めるために仕方がなく戦ったのであって、諸侯全てと対立するのは不本意であるという内容を袁紹と自分を貶め、これでもかと袁術を持ち上げて書き連ねてある。

 張勲は、これが戦力差五倍以上の敵に挑んだ男が書く文章か、と思った。それぐらい矜持も何もない卑屈な文体であった。

 だが、見過ごせない言葉もある。

 ご丁寧に連合の悪い噂を豫州の名士の間に広めたことまで書いてある。袁紹の故郷とは袁術の故郷でもある。だから、袁術の悪い噂も故郷で広がったということだ。

 それについても謝罪の言葉があるが、張勲からすれば、面倒なことをしてくれたな、という思いである。

 故郷での名士の評判が下がると、任地での名士の評判が下がる。

 すると袁術の揚州での力が落ち、名士たちの間に孫策待望論が生まれる可能性があるからだ。孫堅の残した風評は揚州ではまだ死んではいない。

 これには揚州という地の特殊性があった。

 生態学では中華の淮水(現代なら淮河)の北南に分けられ、それぞれで自然環境も生活様式も異なる。

 北の黄河流域を『オープン・ランド』、南の長江流域を『フォレスト・ランド』という。

 この視点から古代中国を語ってみる。

 『オープン・ランド』とは名前の通り、開けた大地である。

 乾燥しており雨量が不安定で大森林が少ない。だから、華北大平原は見通しが良く、集団の移動が盛んで、その集団間のコミュニケーションも活発である。

 その反対で『フォレスト・ランド』とは、森の大地である。

 高温多湿で雨量も一年を通して安定しているため森林が生い茂る。照葉樹林地帯である。そうであるが故に集団の移動は制限される。

 集団の移動のし易さと雨量の差がふたつの大地に大きな違いを生み出した。

 北は、雨量の多少が収穫に大きく影響し地域格差を生み出す。そして、集団が移動しやすいということは軍を動かしやすいということである。その結果、肥沃な大地を求めて戦うという統一帝国の樹立に繋がった。生態学的に見て、秦漢帝国は『オープン・ランド』が造ったということになる。

 対して南は、安定した雨量が穀物の豊凶に大きな影響も与えず、一定の収穫量を保証する。しかし、高温多湿の森林地帯は集団の移動が難しく、疫病の宝庫でもある。そのため人口は伸び悩む。その結果、『フォレスト・ランド』に発生する集団は、多分に分散的かつ割拠的な性格を持つ。

 揚州からの統一帝国の誕生は朱元璋と彼の大明帝国を待たなければならず、そのためには『オープン・ランド』の気質を持った晋と宋が遊牧民族に中原から叩き出され、『フォレスト・ランド』というニューフロンティアの開発を行わなければならない。

 そんな『フォレスト・ランド』を一時的にでも、まとめかけた孫堅は謂わば揚州のカリスマとして大きな衝撃を揚州の地方豪族たちに残した。

 だから、孫堅がいた頃に力を持っていた豪族たちが、あの頃の夢をもう一度と娘の孫策に肩入れする可能性は袁術の力が落ち具合と反比例する。

 それが張勲には面倒この上ないことであった。

 手紙の終わりの方には、袁州牧には叔父上(袁隗)も期待するところであり、この袁紹の莫迦げた企みが終わった後にお力を借りることになるかもしれません、と中央での躍進が期待できる言葉さえ書いてある。

 張勲は読み終わると袁術の方を見た。

 彼女の主は目を輝かせている。

 それは中央での栄達が見えたというより、本拠地の寿春に帰れるということへの喜びであった。袁術にとって寿春に帰れそうな理由なら何にでも縋りたい心境であった。

「は、伯業がそこまで言うなら、しょうがないの。揚州も統治しなければいけないし、か、帰ってやるかの」

 そう言いながら袁術は、子供が親に欲しいものをねだる様に、上目遣いで張勲を見る。

「ダメかの、七乃?」

「う~~~~ん……」

 張勲は人差し指を唇に当てながら、焦らす様に考えるふりをする。

 彼女は袁遺の手紙の裏にある真意を考えていた。

 まず初めに思ったのが、上の敵が卑屈な――――というやつである。ちなみに孫子行軍篇である。

 こっちを油断させておいて攻めて来る、ということは十分に考えられる。

 だが、張勲は董卓や袁隗、袁遺に袁紹と袁術を同時に敵に回す余裕もないことを理解していた。

 そうなった場合、どちらと手を結び、どちらと敵対するか。張勲は少なくとも袁遺は袁術と手を結び、袁紹との対決を選んだと認識していた。

 その根拠は手紙の内容であった。

 袁紹にはあれだけの罵詈雑言を書き連ねたのに対して、袁術には媚を売っている。普通に考えれば、手を結びたい相手を罵倒したりしないはずだ。

 そして、揚州を統治する勢力が孫家より同じ袁家の方がマシだとも考えると予想していた。

 なら、寿春まで帰るのもアリかな。どうせ、美羽様には戦う気もないし、ここにいれば揚州での袁家の評判が下がるだけで、孫策さんの得にしかならないし……と張勲は思考を巡らせながらも、愛する主がハラハラと自分を見つめる愛らしい姿を堪能する。しかし、それを邪魔する者が現れた。

「ご報告があります。平原の相、劉玄徳殿が揚州牧様に面会を願い出ています」

 

 

「現在、袁揚州牧様はご多忙のため、用件は私が聞きます」

 劉備と諸葛亮に面会したのは袁術ではなく、張勲であった。

 それに劉備は不満であったが仕方がない。張勲に情熱的に軍を動かすことを説いた。

 しかし、張勲はのらりくらりと躱し、言質を取らせず、

「分かりました。揚州牧様にお伝えします」

 とだけ言い、面会を終了した。

 追い返された態の劉備は途方にくれた。

「どうしよう、朱里ちゃん?」

「……そうですね」

 諸葛亮は考える。

 袁術に断られるとなると張邈がそれを理由に及び腰になる可能性が高かった。彼女は会談の最後でも袁術の参戦を要求していた。

「孫策さんと会ってみましょうか」

 諸葛亮が言う。

「孫策さんと?」

「はい、袁術軍で一番強い部隊は間違いなく孫策さんの部隊です。彼女の力を借りられるなら心強いです」

 諸葛亮は荊州の司馬徽の私塾で学んでいたため、隣の揚州の事情にも少しは明るかった。

 だから、孫策が袁術から独立しようとしていることを読み取ることができた。

 となると孫策は名声を上げる機会を望んでいるはずだ。そして、この連合は彼女にとって、その機会であり、今のところそれは達成できていない。なら、協力してくれる可能性がある。袁術(もしくは張勲)も自軍はともかく孫策の部隊なら動かしてくれる可能性もあるかもしれない。

 だが、このとき袁術と張勲はもうすでに帰還の意志を固めつつある状況であり、それを覆すのは不可能であった。それに孫策の軍師である周瑜にも袁遺軍と積極的に戦おうという意思はなかった。

 だから、面会に成功し、孫策と周瑜に兵を動かすことを頼むと周瑜はたった一言で斬り捨てた。

「それは無理だな」

「どうしてですか!?」

 劉備は思わず声を上げた。

「我が主は揚州牧の客将だ。揚州牧の許可なく動くことなどできない」

 まったくの正論である。

「まあ、私はやってもいいんだけどね」

 しかし、孫策が横で茶々を入れる。

 それに周瑜は恨めしそうな眼をして、劉備たちに聞こえるか聞こえないかの声量で、雪蓮っと窘めた。

 それに孫策は悪戯が成功した子供の様な笑顔を浮かべた。

 彼女の言葉は真実であった。

 袁遺軍には一度やられている。そして、袁術軍を崩壊から救うということで少しはやり返せたが、まだまだ足りない。だから、袁遺軍と戦うのはやぶさかではない。

 しかし同時に袁遺軍が強いということも認めており、袁術軍の中の一部隊と言う立場では、袁遺の意図を挫くことは出来ても戦争に勝利することは出来ないという認識も持っていた。ただ、元来血の気が多い性格であるために戦わないのは退屈で、こうやって親友でもある周瑜に甘えるようにからかっているのだった。

「ですが、袁遺軍の現在の情報くらいは手に入れておいた方がいいのではないでしょうか」

 諸葛亮が言った。

「それはそうだが、袁遺軍の戦略とこちらの状況を考えるとそれなりの規模の軍を動かすことになり、統制が取りにくい状況だ。そこはどうするつもりだ」

 周瑜の言葉に諸葛亮は違和感を感じた。

 軍師なら今の状況で多少無理をしてでも情報を得たいと思うのは間違いではないはずだった。なのに、この落ち着き払った態度はどうだ。

 諸葛亮はさぐりを入れる。

「簡単な部隊行動基準のみを定めて、後は独自に判断することになると思います。これなら誰が指揮を執るかで揉めなくて済みますし、どの諸侯が精強か分かるのではないでしょうか」

 孫策軍の強さを見せて名を上げる。それに合致することをあえて言ってみせて、周瑜がどのような反応を見せるか諸葛亮は餌を撒いた。

「ふむ、ひとりの諸侯に全権を渡すのは不可能であるから、それしかないな」

 そして、周瑜の反応はあからさまな無視であった。

 諸葛亮はどこまで踏み込むか悩んだ。

 独立を考えているだろうと踏み込んでも、袁術との関係を考えれば孫策からの不興を買う結果にしかならない。かと言って、弱小勢力である劉備たちが提示できるメリットは少ない。

 そんな苦悩する諸葛亮の主の劉備は軍師とは別の意味で苦い思いであった。

 どこへ行っても駆け引き駆け引きで、何が得で何が損か、そればっかりを気にして話さなければならない。そして、その結果が今の連合の惨状である。なのに未だにそれを続けている。

 庶人のため、漢王朝のために戦う。それだけじゃダメなのかな。

 劉備は思った。

 そして、この駆け引きに飽き飽きしている者がもう一人いた。

「名誉なら、戦わなくても手に入っているんだけどね」

 孫策であった。

 ただし、彼女は劉備とは違い一刀を以って問題を斬り捨てることを選んだ。

「なッ!?」

 周瑜が驚きの声を上げる。

「……どういうことですか?」

 諸葛亮が尋ねた。その声はかすかに震えている。

 周瑜が、どういうことだと言いたげな顔をする。

 孫策はそれを視線で制すると諸葛亮の質問に答えた。

「袁遺が豫州で連合の悪い噂を流しているのよ」

 これだけ言えば、袁術の郷里の評価が落ちることで相対的に孫策が得をするということを諸葛亮は理解した。

 そして、それは諸葛亮と劉備陣営が持っている交渉のカードの意義が消失したことでもあった。

 劉備は場と諸葛亮の雰囲気から何かを察し、縋るように諸葛亮を見るが、諸葛亮は申し訳なさそうに首を横に振った。

 劉備の気持ちが爆発した。

「で、でも、それじゃあ洛陽で苦しむ人たちは!?」

 それが唯一、彼女を動かすものであり、彼女の心の支えだった。

 だが、それさえも消え失せようとしていた。

「大丈夫よ。洛陽で悪政なんて行われていないから」

 孫策が言った。

「えっ……」

 劉備は目の前が真っ暗になった。

「うちの将が洛陽の情報を手に入れて来たのよ」

「できたのですか!?」

 諸葛亮が驚きの声を上げた。

「ええ、各諸侯の細作に袁隗の細作と何が敵か味方か分からない状況だったみたいけど、うちには優秀な将がいるから」

 ねえ、と孫策は周瑜に同意を求めた。

 周瑜は面白くなさそうに肯定した。劉備たちは知らないことだが、周泰のことである。

「その情報によれば、最初期に混乱はあったが袁隗の協力後、問題は連合と戦をしていることぐらいしかないようだ」

 周瑜が孫策の後を継いで説明した。

 劉備は何も言うことができなかった。自分のやってきたことは、ただ争いを起こしただけだということを知ったからだ。

 この戦場には大義もなければ栄誉もなく、敵味方も関係なく参加した者全てが損をしただけだった。

 二日後、袁術が連合からの離脱を宣言し、豫州を通って寿春へと帰って行った。

 劉備にはそれを止めるだけの気力がなかった。

 そして、袁術に続き、巻の諸侯たちは次々と領地へと帰って行った。

 

 

20 葬送

 

 

 袁術を筆頭に領地に帰る諸侯は袁紹のいる酸棗には近づかず、それを避けたが、ひとりだけ真っ先に酸棗に向かった者がいた。

 張邈である。

 彼女は酸棗に着くと一触即発状態の曹操と袁紹に会談を呼び掛けた。

 曹操にしても袁紹にしても、知らない仲ではない張邈の呼び掛けを無碍にはできなかった。

 会談の席に着いたふたりは、そこで巻の諸侯たちが領地に帰ったことを知らされた。

 袁紹は怒り狂った。

 曹操への怒りも忘れたように、真っ先に帰還した袁術を口汚く罵った。

 曹操は複雑ながらも安堵した。

 いくら袁紹の憎しみが強くとも、残っている諸侯が三人では連合は解散であろう。そうなればこれ以上の自領での略奪も行われずに済む。

 袁紹は自分の陣へと戻って行った。軍師と将たちを集めて会議を開くようである。

 袁紹が去ると曹操が口を開いた。

「……それで彩雲(さいゆん)。あなたはどうして戻ってきたのかしら?」

「袁術の行動を総大将に報告するために」

「そう、麗羽に報告ね」

「ええ、そうよ。それでこっちも聞いていい?」

「何を?」

 張邈―――彩雲は真剣な顔を作ってから言った。

「袁遺軍から受けた被害は?」

「……三~四割程度ね」

 曹操は太守にしては破格の二万近い兵力を有していた。特に黄巾党の乱以降、兵の数を伸ばしている。

 彩雲は素早く計算した。まだ一万は切ってないのね。

「袁紹軍の被害は分かるかしら?」

「そちらも三割くらいね」

 となると袁紹軍は約四万の規模になる。

「華琳、私はね。あなたと伯業を天秤にかけに来たの」

「でしょうね」

 曹操は事も無げに言った。

 彼女もまた連合の性質を理解している。だから、裏切った云々を言う気はなかった。

「私の軍は一万前後。もし麗羽が酸棗でこれ以上の略奪を行い、あなたと対決することになるなら、広陵軍はあなたの指揮下に入って戦うわ」

「……彩雲。あなた、戦うことを嫌がっていると思ったけど」

「伯業と戦うのが嫌なのよ。勝てると思えないから。それはあなたも同じ。曹孟徳と戦って勝てると思わないから戦いたくない」

「…………」

「信用できない?」

「いいえ、信じるわ」

「じゃあ、腰抜けだって思ってる?」

「いいえ」

「…………ならいいか」

 彩雲は曹操が沈黙した間に考えたことが分かった。

 袁遺と曹操が戦うとき、彩雲がどのように行動するか考えたのだ。そして、無害であると位置づけた。

 おそらく、彩雲は広陵でそのとき揚州を抑えている勢力と睨み合っているか攻撃を受けている。そのどちらかだろうと曹操は予想した。そして、袁遺も似た様な結論を出したのだろう。そんな確信めいた予感があった。

 それらは彩雲も予想ができたが、口に出さないことにした。

 危惧していた事態は訪れず、袁紹軍は冀州へと帰っていった。

 それは反董卓連合の崩壊を意味していた。

 

 

 諸侯が去った後の巻で袁遺は兵を埋葬した場所に全軍を集めた。

 将校と軍師は喪服の白い羽織を着用し、下士官の立場の者には白いタスキと鉢巻を、兵には鉢巻のみを付けさせる。

 香を焚き、厳粛な雰囲気を演出する。

 命令を聞いて死んでいった者たちを故郷に連れて帰ってやることは出来ない。だから過剰と思えるほどの儀式で送り出して、生き残った者の罪悪感をまぎらわせる。海上での戦いで死体を保存出来ずに水葬を派手に行っていた時代と同じである。ラム漬けにされて持ち帰られたという例外も存在するが。

 将軍たちは皆、戦争の終結を実感し不思議な感情に包まれていた。

 終わったという安堵感と本当に終わったのかという不安が綯い交ぜになって胸を締め付ける。

 そんな中で袁遺ひとりが次の戦いを見据えていた。

 袁遺軍は洛陽へと帰還する。

 その途上、虎牢関で兵を休ませている間に袁遺は軍議を開いた。

「司馬懿。君は兵を率いて高覧と合流し、道を塞いだ障害物の撤去作業を行え」

 袁遺は命じた。

「御意」

 司馬懿が軍礼を行う。

 それを見て、袁遺は張遼に向き合ってから言った。

「張将軍。軍監として彼の別行動を承認していただきたい」

「……分かった」

 張遼は、連合と戦っているときは好き勝手やってたのに何を今更、と思いながらも許可した。

「高覧への命令書を書くから取りに来い」

「はい」

 袁遺は視線を司馬懿から全ての将へと移すと口を開く。

「洛陽までは、もう四〇里(二〇キロ)もない。兵を脱落させないよう気を配ってくれ。彼らは生きて帰れると高揚し元気なように見えるが、辛い戦いを続けてきたばかりだ。無理は効くようで効かない」

 全員がそんなことは言われるまでもなく分かっているという顔をした。

 袁遺の軍を動かすときに求めるものを彼の配下だけではなく、董卓側の将にも浸透してきている。

「では、皆も休んでくれ」

 軍議は終わった。

 司馬懿は命令書を受け取りに袁遺へと続き、他は皆は袁遺の言葉通りに休むことにした。さすがに皆が疲れ切っている。

 袁遺は命令書を仲達に渡すと言った。

「先に褒美を渡しておく」

「褒美?」

 オウム返しに仲達は尋ねた。

「そうだ。高覧に君の指揮下に入るように書いておいた。それと長安には本当に僅かだが私の財産がある。帰還後、私と叔父上が董卓によって殺された場合、高覧とその金で妹たちを守ってやれ」

 仲達は親友であり主である男を見つめる。その顔はいつもの無表情であった。

「……金は全て使ったと伺いましたが?」

「それは叔父上から金をせしめるための方便だ。いざというときに少しは残してある。そして、死んだならそれを使えない。だから、君が使え」

「董卓は、おふたりを殺しますか?」

「賈駆が殺すという可能性もある。それに私は勝手に張邈や袁術と和睦する様な文書も使った。叔父上が私を殺し、知らぬ存ぜぬで通す場合もある。そうなったら、身を守るために先立つものは必要だろう」

 袁遺は紙をもう一枚差し出した。譲渡したことを記したものだった。

「ありがとうございます」

 仲達はそれを受け取った。

 袁遺はそんな親友であり軍師である男に言う。

「だが、もし私が生き残ったら、君は私に扱き使われ続けるぞ」

「それは元より覚悟の上です」

「うん、そうか」

 袁遺は笑った。自然な笑顔だった。

 仲達も同様に笑う。

 彼らは束の間、ただの親友に戻った。

 ふたりには確信があった。

 袁遺が殺されることではない。袁遺は生き残り、袁紹を始め、立った諸侯たちと戦うことになるだろう。そして、勝つごとに袁遺と司馬懿の関係は変わり、最後はどちらかがどちらかを破滅させる関係になるかもしれない。だから、こうやって笑い合えるのは貴重な時間であることを。

 洛陽まで後二〇里という所で仲達は兵を八〇〇率いて高覧と合流すため、軍を離脱した。

 その後ろ姿を軍を停滞させない程度に眺めてから、袁遺は洛陽へと向かった。

 

 

 乙の章、了。丙の章へ。

 




補足

・巻
 ここで書くべきことじゃないかもしれないけど、この袁遺が軍を駐屯させていた地名は『けん』と読みます。『まき』じゃないです。じゃあ、読み仮名ふれよって感じだけど、この話、投稿するかなって、あとがきの所に補足を入力しているときに初めて読み仮名を振っていないことに気付いたから、ここに書きます。

・孫子行軍篇である
 辞を卑くして備えて益すは進まんとするなり。
 相手が遜った言葉を使いながらも、準備を整ているのは進撃する証拠である。

・ラム漬けにされて持ち帰られたという例外も存在するが。
 カクテル、アドミラル・ネルソンの作り方。
 ラムで満たされた樽を用意します。トラファルガー海戦で戦死したホレーショ・ネルソンの死体をそれにぶち込みます。するとあら不思議、イギリスに帰った頃にはなんとラムが空っぽになってました。
 割と有名な逸話だけど作り話のようで、本当はブランデーらしくて、盗み飲みされることなく大切に本国まで運ばれたらしい。
 あ、本当のアドミラル・ネルソンの作り方は自分で調べてください。

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