また、あとがきの部分に簡単な地図を載せますが、距離や位置などは正確ではありません。イメージの参考程度で、これが地図として正確だとは思わないでください。
それと地図にはこの話のネタバレがあります。ご注意ください。
9 北方に戦塵が舞って―――(前)
河北に燻っていた火種がとうとう燃え上がった。
幽州牧の劉虞を新帝に擁立しようと動いていた袁紹であったが、その劉虞自身が乗り気ではない。
というより、劉虞は董卓と袁紹の争いに巻き込まれること自体が御免だった。
しかし、だからといって、どちらにも肩入れしないでいることが無理であることも劉虞は理解していた。
中立を保つということは、独力で自立性を維持しなければならない。それは軍事的にも経済的にも誰にも頼れないということである。
それは不可能だった。
幽州の生産力や幽州内の太守との関係、また、北方の非漢民族である鮮卑、烏桓との関係を考えれば、そこから生じる問題、その全てを独力で解決するのは不可能である。
では、どうするか、と考えて劉虞の選んだ道は董卓・袁隗の側に付くことだった。
劉虞には皇帝に尽くす忠心はあっても、自分が帝位に就く野心はない。なら、現帝を握っている陣営に付くのは当然の帰結だった。
彼は洛陽へ田疇を使者として送った。
田疇は勇猛な食客二〇人を選ぶと、彼らと共に洛陽へと向かった。
袁紹の領地の冀州を通るわけにはいかず、并州を通ることになったが、并州は今日の黄土高原である。
黄土が風に吹き上げられて、目も開けられない砂塵の中を進むことになる。また、夏には一回の雨で年間降水量の三割に当たる量が降り、大規模な地滑りを起こすことが多々ある。これに関しては時期ではなく、その心配はなかったが、逆に川の流量が少なく、渇きを堪えながら進み、ときには草を掘り起こしその根の水分を啜って、渇きを癒した。
それほどの苦労をして進む田疇であるが、洛陽に辿り着く前に戦火は幽州に燃え広がっていた。
「もーーー我慢なりませんわ! 劉虞さんは帝位に……いえ、わたくしと、あの目付きの悪い男のどっちに付く気ですの!?」
戦火の起こりは袁紹の我慢の限界からであった。
劉虞との交渉が難航している間に、彼女の耳には袁遺が曹操や袁術といった反董卓連合に参加した諸侯を寝返らせたことや、連合に参加せずに情勢を見守っていた者たちが次々と董卓・袁隗の体制を支持し始めたことが入ってきた。
自分はやることなすこと上手くいかないのに、何故あっちは順調に事が運んでいる。
その原因を袁紹は他人に求めた。
袁遺が、董卓が、袁隗が、劉虞が、自分の邪魔をしている。
袁紹の中で怒りが燃え上がる。怒りという炎を持つ溶鉱炉は不純物を取り除き、恐ろしい強度と切れ味を持った殺意という名の刃を作った。
そして、彼女はそれを振るうことに何の躊躇いもなかった。
袁紹の軍師たちもそれを肯定した。
初めに口を開いたのは好戦的な郭図であった。
「ここまで時間を掛けるのは敵対行為以外の何物でもない! もはや劉虞と手を取り合う余地はなし!」
郭図の人間性は最悪である。
讒言癖があり、残忍で執念深く、他人を見下している。
しかし、その能力には光るものがあったし、彼の言は事実だった。
宣伝工作で後れを取っている袁紹陣営は速やかにそれを挽回しなければならない立場にある。それなのに返答を渋るということは攻撃と取られても仕方がないことだった。
他の軍師も郭図の意見に賛成した。袁紹の軍師の中で最も慎重派である田豊さえも攻撃には賛成であった。
ひとりの男が郭図に続いて発言する。
「袁遺が曹操や袁術を懐柔したことを考えますと我々の背後を脅かすために劉虞や公孫賛にも手を回している可能性は十分に考えられます。そして、戦の要訣は先制にこそあります」
怜悧な顔付きの男である。その声も外見を裏切っていない理知的な落ち着きのあるものだった。
彼の名は沮授。冀州広平郡の出身である。
袁紹の軍師陣の仲は最悪で、特に冀州派閥と豫州潁川派閥で争っている。そして、冀州派閥の沮授に対して、郭図は豫州潁川派閥である。
いくら主の袁紹に、その対立を軍師たちが隠しているとはいえ、同じ意見を主の前で言うことは珍しかった。
それだけ劉虞への予防戦争は重要なことだった。
いざ、袁遺と実戦になったときに後ろから攻められたら堪ったものではない。その脅威を取り除く機会は袁遺が軍の再編成を行っている今だった。
それに呂布や張遼の部隊のような強力な騎馬部隊が反董卓連合において大きな活躍をした。
だから、彼女たちに対抗するために、こちらも強力な騎馬部隊を作らなければならない。そのためには良馬の生産地である幽州を抑える必要がある。
軍の再編は兗州から帰ってきてから進め、途中、青州黄巾党が冀州に流れ込んでくるというアクシデントもあったが、兵の規模は五万まで回復している。先の戦いの損耗率でいえば、袁紹軍は袁遺軍よりも小さな数字だった。それと冀州の人口の多さにより、立ち直りは袁遺軍よりも早かった。
後は兵站さえ整えれば、戦争へと雪崩れ込める。
そして、冀州は豊かな土地である。多少の無理をすれば、すぐに解決できる問題だった。
袁紹は顔に場違いなほどの明るさを宿しながら宣言した。
「幽州に侵攻して劉虞を討ちますわよ!」
その声には自覚のない傲慢さが溢れていた。
侵攻は電撃的だった。
劉虞を新帝に戴こうとする行為から、一八〇度変容して劉虞を討とうとするのである。変容は急激なほど良い。何故なら、変容が急な場合、今までのやり方で得ていた支持者を失うより先に新しい支持者を獲得できるからだ。
このマキアヴェッリの考えとその効果を軍師たちは知識と知らずとも、肌感覚で理解していた。
冀州と幽州の州境にある易の城塞から軍を進発させ、幽州涿郡を一気に制圧。そこで物資の徴収を行った後、幽州牧の治府がある広陽郡葪へと軍を進め、葪の城を包囲した。
幽州の冷たさと砂塵を含んだ風が劉虞の頬を打った。
劉虞。字は伯安。徐州東海郡郯県の人である。
後漢を再興した光武帝の長男・劉彊の末裔であり、つまりは皇族である。
細長い顔の持ち主で、黒髪は年の割には半白になっていた。常に悲しげに見える表情を浮かべている。別に悲哀を友としているわけではない。生まれ付きそういう顔なのだ。
だが、今はその常に悲しんでいるように見られる顔でよかった。そんな思いが葪の城、その城壁に立ち、城を囲む袁紹軍を見ていると頭に浮かんだ。
袁紹軍五万が城を取り囲んでいる。
劉虞には人徳はあっても、武の人ではない。それは彼自身も自覚している。
だから、この五万をどうにかできる自信などなかった。
もちろん、だからといって何も手を打たなかったわけではない。
籠城の準備を進めつつ使者を派遣し、ふたつの勢力に援軍を頼んだのであった。
ふたつの勢力のうちひとつは漁陽太守の
鮮于輔は漁陽郡の出身で劉虞の従事であったが、国人からの信頼が厚い彼を太守に推挙したのだった。
また、彼の元には劉虞に心服する烏丸族の
もうひとつの勢力とは公孫賛である。
正史では劉虞と公孫賛の関係は最悪であった。
使者の殺害や物資の略奪等の末、彼らは武力衝突へと発展し、最終的に公孫賛が劉虞を殺害する。彼らの争い原因は公孫賛が劉虞を妬んでいたためとされているが、この外史の公孫賛―――白蓮は欠点に成り得るくらいのお人好しだった。その性格故に両者の関係は悪いものではない。
劉虞が徳によって北方の異民族を統治し、それでも抑えられないときは公孫賛が麾下の白馬義従を率いて武によって抑えるというアメとムチを使い分ける体勢で北の異民族問題に対処していた。
少し北方の異民族についても触れておこう。
今まで何度か名前を挙げてきた匈奴はこの時代、北匈奴と南匈奴に別れており、かつて漢を弟として君臨していた強国の面影はない。
特に南匈奴は騎馬遊牧民族らしささえ失っており、農業に従事している者もいる。話は逸れるが、時代が進むにつれて、南匈奴は漢人地主の小作人になる者や中央権力者の奴隷に身をやつす者など窮乏を極めていくのだが、皮肉にもこうやって中華の内へ内へと入り込むことで五胡十六国時代の原因となる。事実、五胡十六国時代の英雄のひとり石勒は奴隷の身分から皇帝にまで成りあがった。彼は南匈奴に服従していた小部族の出身である。後はその石勒が仕えていた劉淵なども匈奴系である。
では、北匈奴は精強さを保っていたかといえば、そうではない。彼らはかつて従えていた烏丸や鮮卑に手痛い反撃を喰らっている。
烏丸(もしくは烏桓)も鮮卑も元は同じ部族の東胡である。匈奴との戦いに敗れて烏丸山に逃げたのを烏丸、鮮卑山に逃げたのを鮮卑という。
特に鮮卑は桓帝の時代に檀石槐が、かつての匈奴の版図をまるまる切り取り、隆盛を誇った。
だが檀石槐の死後、鮮卑は分裂し、いくつかの指導者がそれぞれの集団を率いているという状況である。
漢はそんな異民族たちに『夷を以って夷を制す』の方針を取った。例えば、鮮卑が叛乱を起こしたら、その叛乱鎮圧には必ず烏丸を従軍させ、逆に烏丸の叛乱には鮮卑を従軍させた。また、同じ部族同士を戦わせることもあった。そうやって、彼らがひとつにまとまるのを防いだのである。
だから、劉虞が親漢の異民族を治めて、公孫賛が反漢の異民族に対処するという図式ができたのだった。
話を本筋へと戻して、公孫賛は劉虞の要請を快諾した。
部下からの反対もない。
彼女たちは袁紹が劉虞の次に自分たちを標的にすることを分かっていたからだ。
なら、劉虞と協力できるうちに袁紹を叩いておいた方が良い。
それに、もし劉虞が袁隗・董卓と結べたなら、反董卓連合での戦いで捕虜になった兵たちの返還交渉の窓口になってくれることも期待できた。
使者の魏攸はこの後、烏丸や鮮卑の元を回り、公孫賛が不在の間は遼西郡に手を出さないようにすると確約した。
魏攸の人望は厚く、それは異民族にもそうであった。彼がいるところには異民族も侵入しないといわれるほどである。
遼西の守りに兵を割かれることなく、公孫賛は二万の兵を動員することができた。
また、劉虞が幽州牧になって以来、倹約に努めていたため葪の城には食料や油などの物資は豊富だった。
人心も落ち着いていた。彼は民に好かれていたし、部下の程緒も民を見て回り、民心の慰撫を行っている。程緒もまた人望厚き人だった。
だから、鮮于輔と蘇僕延の二万二〇〇〇と公孫賛の二万の軍を待ちながら、劉虞は一万六〇〇〇の兵と共に城に籠るという状況で、数の上なら袁紹軍五万と親劉虞陣営五万八〇〇〇で戦力比約1:1.16と劉虞たちの有利となっていた。
だが、籠城戦の常に変化する状況に対応し続ける自信が彼にはなかった。
鮮于輔、遼西太守殿。早く来てくれ!
劉虞は縋る様に心の中で叫んだ。
泣きたい思いだったが、いつもの物悲しそうな顔がそれを隠していたため、兵に胸の内を気付かれずに済んでいる。
そんな彼の近くに控えていた兵が叫ぶように言った。
「袁紹軍がおかしな動きをしています!」
その言葉に劉虞は驚き、自分も目を凝らして袁紹軍の陣を観察する。
遠すぎてよく見えないが、山の様なものができている。そして、その山に人が群がっている。何だと思い、さらに目を凝らすが、やはりよく見えない。
「ありゃあ、穴を掘ってるんじゃないか……」
近くにいた兵が呟いたのが劉虞の耳に入った。
確かに、そうだ。兵が穴を掘っている。坑道を作り、城壁の下を潜る気か!?
劉虞はそう思ったが、さらに敵の陣を子細に観察すると別の考えが浮かんだ。
よく見れば、あの山のような土を押し固めているんじゃないか……じゃあ、あれは陣を強固にしているのか……?
袁紹軍の行っているのは後代の言葉で言えば野戦築城であった。土地に工事を施し、陣地に防御力を付加することである。
袁紹軍の兵たちは地面を掘り起こし、壕を作くる。その作業で出た土を盛り、押し固めて土塁にする。木を切り出して逆茂木にする。
その様子に劉虞は袁紹軍が長期戦を覚悟していると推測した。
そして、それはまったくの間違いであった。
袁紹の軍師たちは劉虞の推測とは逆のことを考えていた。すなわち早期決着である。
劉虞は敵の意図を読み間違えたが、それは些か仕方がないことだった。
彼は戦に明るい人物ではなかったし、それになにより、袁遺と戦ったことで袁紹軍に起こった変化を天下で最初に見ることになるという不運もあった。
しかし、劉虞は袁紹軍の意図を正確に読み取ったとしても、効果的な手を打つことはできなかっただろう。そして、劉虞は彼自身の力のなさに対する代償を払わなければならなかった。
二〇万も集めたに関わらず四万の軍に解散に追い込まれ、また直接戦闘でも半数以下の兵に潰走させられた。
敗北も敗北、大敗北であったが、その事実を袁紹の軍師陣は冷静に受け止めた。
袁遺に対して異常な憎しみを燃やす郭図でさえも、連合を解散させた要因を考え、袁遺の戦術を研究した。それこそが袁遺を殺すために必要なことだと思っているからだ。
この袁遺の戦術の研究を袁紹の軍師の中で最も熱心に行ったのは沮授であった。
袁遺が行った複数の相手に挟まれた状態で主導権を握ろうとする戦術と自分たちが行った相手を複数の部隊で包囲して主導権を握ろうとする戦術、後代の言葉で言うなら内線作戦と外線作戦を比べて、彼はひとつの仮説を立てた。
内線作戦と外線作戦とでは内線作戦の方が有利である。そんな仮説だった。
その沮授が、この幽州攻めでの筆頭軍師である。
本来の序列でいえば田豊がその地位に就くはずなのだが、彼女は留守を任されている。
董卓や曹操といった黄河の対岸に敵対勢力に備えながら、行政を取り仕切れるのが彼女しかいないからだ。
沮授は反董卓連合のときに雛里がやっていたように、細作や斥候、人々の噂話から、漁陽と公孫賛が軍を動かしていることを知った。
特に漁陽の動きはすぐに察知できた。
そのわけは烏丸の風習によるものだった。
彼らは内は争いを裁け、外は外敵を防ぐ勇敢壮健な者を大人(酋長)に選び、その大人が人を集めるときは木に刻み目を入れたものを『落』の間に回す。
『落』とは烏丸の最小社会組織のことで放牧地で一ヶ所に立った二、三戸のテント、だいたい二〇人前後の集団であり、その上には落が二〇個ほど、だいたい四〇〇人前後の『邑落』というのがある。
この『落』にしても『邑落』にしても、ただの氏族集団の寄せ集めと捉えてはいけない。
少数で多くの羊などの動物を管理する遊牧騎馬民族の生活を考えると、家族をもとに人々のつながりを組織化したものと考えた方がよい。戦場に投入されれば、ひとつの部隊としてそのまま機能する。
また、烏丸は文字を持たない。諸説あるが、文字を持つ遊牧民族は南北朝末期から唐にかけて一大帝国を築いた突厥が最初である。
そのため、大人から呼び出しがあると烏丸は大騒ぎになる。だから、その動きは分かりやすい。
また、公孫賛も幽州で一番の戦闘力を持つ諸侯だ。その動きを幽州に進攻して以来、劉虞の動きと同等に警戒していた。
公孫賛たちが動いているなら、袁紹軍の数の優位は消し飛んだことになるが、沮授は冷静だった。
何故なら沮授にとって今の状況は、仮説を立証するための絶好の機会でもあったからだ。
彼が立てた策は袁遺が反董卓連合でやったことと同じである。
つまり、劉虞たち五万八〇〇〇を合流させずに各個撃破する。
葪から漁陽は約一四〇里(七〇キロ)、また遼西郡の郡治所の陽楽県は約四六〇里(二三〇キロ)離れている。親劉虞軍勢が葪に到着するまでに各個撃破する時間差は十分に存在する。
沮授は軍議で自分の考えを述べた。
袁紹軍の軍師間にある対立から、反対意見が(特に潁川郡出身の軍師たちから)いくつか挙げられたが、沮授の
「袁伯業にできて我々にできぬなどということはあり得ません!」
という挑発的な言葉に軍師たちよりも袁紹が大きく反応した。
「その通りですわ!」
彼女は叫びながら立ち上がった。
そして、彼女の将や軍師たちを睥睨しながら続ける。
「あの男より、わたくしの軍が、わたくしが劣っているなどということはあってはならないのですわ! おやりなさい、沮授さん!」
気焔を吐いたような言葉だった。
では、その勢いのままに袁紹軍が行動を開始したかといえば違った。
袁紹軍がまず初めに行ったのは劉虞が目撃した野戦築城である。
袁遺の戦術とは運動戦であり、運動戦での野戦築城とは主に寡兵で敵をよく防ぐために用いられる。
袁紹の軍師たちは、袁遺を分析することでその有用性に辿り着いた。
もっとも、兵力の差を地形によって補うのは別段、珍しいことでもない。その地形を人工的に作り出す野戦築城へと辿り着くのは決しておかしなことでもなかった。
土塁が完成し、陣地にある程度の防御力が付与された時点で葪に一万の兵を残し、残りの四万(戦闘員二万四〇〇〇、兵站部隊一万六〇〇〇)が、漁陽から南下してくる鮮于輔と蘇僕延の二万二〇〇〇の撃破へと進発した。
なお、葪の包囲を継続する一万には袁紹軍の二枚看板の顔良と軍師の辛毗が残った。
万が一でも葪の包囲が破られることになったら、敵中で孤立することになる。それだけは絶対に避けなけれならないため、それなりの実力者が残らなければならなかった。
そして、この状況の変化に劉虞は、どうすればいいのか分からず籠城を続けるという選択肢をとるしかなかった。
劉虞より自由を与えられて袁紹軍四万は北上する。
袁紹軍は急いだ。
相手に烏丸族がいるので、濕余水を上手く使って敵を向かい打ちたかったのだ。
騎馬民族の強さのひとつにパルティアンショットがある。
これは馬上で後ろ向きに矢を放ちながら、敵と一定の距離を保ち続ける一撃離脱戦術のことである。遊牧民族国家のパルティア王国の名前が由来であるが、パルティア固有の戦術ではなく、騎馬遊牧民族なら殆んど行った戦術である。
これを封じるためには敵が自由に馬を動かす余地を奪うしかない。
つまり、敵が濕余水を渡ったところで戦いを仕掛け、川を背にさせる作戦だった。
もちろん、パルティアンショットを封じただけで勝負が決するわけではない。そのことは袁紹軍の軍師たちも分かっている。だが、敵の強みを潰すことはやっておく必要があることも理解していた。
この判断と行動は、袁紹軍にとって良い方向へと事態が動いた。
蘇僕延が派遣した先遣隊が北上する袁紹軍を発見し、その数を蘇僕延に報告した。
それを聞いた蘇僕延は悩んだ。
袁紹軍がこちらに向かって来ているということは葪は落ちたのか? 劉虞殿はどうなった? いや、四万の敵が向かって来ているなら、まずい。
殆んどが騎兵で構築された蘇僕延の軍に鮮于輔の軍が付いて行けず、両軍の距離が離れている。七〇〇〇で四万を相手にするのは難しい。
蘇僕延は軍を停止させた。
鮮于輔軍との合流を待ちつつ、斥候を放ち葪の様子を探った。
軍を停止させていた時間は一日であったが、その一日は袁紹軍を予定戦場に到着させ、鮮于輔・蘇僕延軍に背水の陣を強いることになったのだ。
ただし、袁紹軍にも問題がなかったわけではない。
確かに敵に背水の陣を強いたが、そこに到着するまでに強引に兵を駆けさせたため、彼らには大きな疲労があった。対して、軍を停止させ休息を取っていた蘇僕延軍の強力な騎兵部隊は人馬ともに体力、気力が充溢していた。双方の要素がこの戦いにどのような影響を与え、どのような結果をもたらすか。
この外史の未来で、濕余水・沽水の戦いと呼ばれる戦が本格的に始まろうとしていた。
この戦いでひとり、並々ならぬ功名心を逸らせている男がいた。
その男の名は麹義。涼州西平郡の出身で羌族の戦法を知りぬき、部隊の兵たちもまた精強であった。
俺こそが両軍の命運を握っている。俺の活躍次第で勝ち負けが決まるのだ。
麹義の顔が欲望や野望といったもので輝いた。まさしく戦場で隣にいて欲しい男の見本の様だった。何故なら功名心を支えるのは戦場で起こり得るあらゆる困難に立ち向かい、打破しようとするバイタリティであるからだ。
また、そんな気力がなければ麹義の任せられた任務は達成できなかった。
空から戦場の地形と両軍の陣形を見てみると鮮于輔・蘇僕延軍の後方北側六里(約三キロ)には濕余水があり、後方への撤退は出来ない。
そして、このとき両軍は奇しくもまったく同じことを考えていたのだ。
両軍は精鋭の騎兵を互いに左翼に配置し、敵右翼を包み込むように攻撃しようとしていた。
そして、その精鋭騎兵―――蘇僕延軍と対峙ている袁紹軍最右翼の部隊こそ麹義の部隊だった。もちろん麹義だけではなく、彼の後方にも部隊は控えている。それでも敵と一番初めにぶつかるのは彼の部隊だった。
麹義隊の総数は一八〇〇。そのうち八〇〇は盾と槍を持ち、残りの一〇〇〇は弩を装備している。
麹義はその兵たちをふたつの部隊に分け、それぞれに密集隊形を取らせた。指揮官、楽隊、伝令などはその密集隊形の中央に配置する。そして、全員が盾の下に小さくなって、そのときを待った。
麹義隊に敵騎兵の存在を感じさせた最初の要素は雷のような馬蹄の響きと、それによってもたらされた地面が揺れ動いているという錯覚だった。
次に北狄特有の奇声の様な掛け声が蹄の音と地響きに加わった。
肉声が聞こえる所まで敵騎兵が迫っても麹義隊の兵たちは待った。恐怖や緊張が彼らになかったわけではないが、肉体も精神もそれらの影響を受けていない。兵たちは常日頃、騎馬民族の戦い方を熟知する麹義に、騎馬集団突撃の最大の武器が何かを教え込まれていた。
騎馬集団突撃の最大の強さは心理的衝撃の大きさだった。
馬という動物が自分に目がけて疾走してくる。その恐怖が、印象が、最大の武器だった。
だから、麹義は訓練で兵たちに言う。
「実際、騎兵は自分たちがしっかりと防御態勢をとっていれば、突撃はそんなに威力を発揮しない」
麹義は陽気な口調で兵たちに言う。
「だが、恐怖で隊列を乱すから威力を持つんだ。敵が、騎兵が強いんじゃない。俺たちの弱さが敵を強くしているんだ」
事実である。
馬は基本的に臆病で障害物を避ける習性があるため、がっしりと組まれた隊形に突撃させるには高い難易度を誇ると同時に得られる戦果も少なかった。もちろん歴史上、戦果をあげたいくつかの例外もあるが、殆んどが実行した側が常識を超え得る何かを持っていたからで、やはり例外は例外である。
それを事あるごとに麹義は兵に言い聞かせた。
その効果が今、発揮されていた。
突撃を開始した蘇僕延軍の狙いは、ふたつに分けられた麹義の隊の間を突破して、状況によって、中央への側面および後方への攻撃か敵本陣に対して強襲を行うことだった。決して袁紹軍右翼を正面から叩き潰そうとしていなかった。この点で言えば、蘇僕延軍は常識的である。
そして、麹義隊が待っていたときが訪れた。それは彼我の距離が四〇メートルを切ったときだった。
「迎撃!!」
麹義の命令に間髪入れずに軍鼓が連打される。それを聞いた各部隊の長が命令を下し、下士官が兵をどやしつける。
小さくなっていた麹義隊は突如立ち上がり、盾をしっかりと保持した。そこから槍を向かって来ている敵騎兵へと突き出す。その槍の柄舌には赤や黄色などの色とりどりの派手な飾り布が靡いていた。
馬の目からは今まで小さく固まっていた塊が突如動き出し、何かよく分からないものを突き出してきたように見えた。一応、補足しておくと馬は色を認識できない。だから、派手な色どりは馬というより味方の兵士たちを鼓舞するためだった。噛み砕いて言えば、派手な色をしているから何か効果も高さそうだ。兵たちはそう思った。鰯の頭も何とやらである。
元来臆病な動物の馬は恐怖を感じた。足が鈍る。
そこへ両部隊の弩から箭が放たれ、蘇僕延軍へと降り注ぐ。
限界まで引き付けて放たれた一〇〇〇発の箭であったが、その命中率は二割に届かなかった。それでも騎兵の勢いは完全に消滅していた。
そうなっては間隙をすり抜けても、後方に控えていた部隊に蘇僕延軍の騎兵たちは簡単に討ち取られてしまう。
麹義の知恵と胆力が蘇僕延軍を充実した気力、体力を上手くいなした。
蘇僕延軍と袁紹軍右翼の戦闘は完全に膠着していた。
対して、袁紹軍の鮮于輔軍右翼への攻撃は徐々に効果を挙げつつあった。
ひとりの猛将の活躍が大きな要因である。
「てりゃーーーーー!!」
緑の髪をした少女が、右に左にと大剣を振るう度に血飛沫が高く吹き上がる。
袁紹軍の二枚看板、そのうちのひとりの文醜であった。
「そりゃッ!」
すれ違いざまの一撃を騎兵に喰らわせる。頭蓋を甲ごと割られた兵がふらふらとよろめいた後にドッと落馬した。
文醜と彼女の隊を中心に鮮于輔軍右翼に圧迫を加える。
鮮于輔は右翼へ予備兵力を送って戦列を支えるが、それは崩壊を先延ばしにするだけで、状況の打開には寄与しなかった。
逆に蘇僕延軍の右翼への間隙突破が完全に失敗したことと敵右翼への攻撃が有効に働いていることを確認すると、沮授は主の袁紹に中央の軍を押し出し一気に戦いを決めることを進言する。
袁紹はそれを是とした。
「やっ~ておしまいなさい!」
袁紹は中央に高笑いと共に下知する。
軍鼓が連打され命令が中央の軍に伝えられる。攻勢に移った袁紹軍の中央の部隊は鮮于輔軍に圧迫を加える。
勝負を決するには十分な力だった。
鮮于輔軍が潰走する。
沮授がここまで温存しておいた予備兵力を出し、追撃を命じた。
その様子を小高い丘に敷かれた本陣から袁紹は見た。
そして、思った。
これですわ! これこそがわたくしにふさわしいものですわ!
袁紹は自分のものになった勝利、その光景に高揚していた。
連合のときは諸侯がわたくしの足を引っ張ったため、袁遺なんかに後れを取りましたが、これこそが本来の実力で、わたくしの征く道は勝利で飾られているべきですわ!
葪を囲う顔良と辛毗の元に吉報と凶報が同時に届いた。
吉報はもちろん主力が濕余水で鮮于輔・蘇僕延軍を破ったことである。
損害は三〇〇〇と十分に戦闘力を保った状態である。
そして、凶報というのが公孫賛軍が想定を超える速さでこちらに向かって来ているということだった。
馬車を使って兵量を輸送する場合、通常は二〇〇キロメートルが限界である。
これ以上は荷車を引く馬のための秣が移動中に全て消費してしまうため不可能だった。以前に書いたことだが、道端の草を食べさせてすまそうにも、それは不可能だ。馬は大食いであっという間に食べ尽くす、そして青草ばかり食べさせれば腹を下す。
だから、袁紹軍の軍師たちは二〇〇キロ前後の地点で公孫賛軍が略奪なり何なりで(主に馬の)食料の集めるため、その進軍が一時停止すると考えていた。
だが、そのことで劉虞の配下の魏攸が手を打っていた。
「細作からの情報によると公孫賛に援軍を頼みに行った魏攸が、その道中の土垠で部下に公孫賛軍の糧食の手当をさせていたようです。その分、糧秣の準備や輸送で楽ができたためにこの速さだったようです」
幼い少女が言った。
黒くふんわりとした髪を二つ結びにしている。背は小柄で丸顔、目はクリッとし、年相応の背格好だった。
だが、彼女はただの少女ではない。
彼女の名は辛毗。袁紹軍の軍師であり、その頭には知謀が詰まっている。
放っていた斥候や細作、人々の噂から導き出したことを説明する辛毗の言葉に、深い青色の髪を持つスタイルのいい女性が一々相槌を打った。
この女性が袁紹軍の二枚看板のひとり顔良だった。
辛毗の言葉を聞き終えてから、顔良は口を開いた。
「じゃあ、これからどうするの?
紅々は辛毗の真名である。
辛毗―――紅々は地図を示しつつ言う。
「我らが主の率いる主力が
正確に言うなら、葪から濕余水は約二五キロ。そこから三キロ離れた地点で戦闘が行われた。
「公孫賛軍は、無終の南西辺りです。距離で言えばだいたい一五〇里(七五キロ)です」
「それじゃあ、麗羽様が帰ってくる前に公孫賛さんの軍がこちらに来ることはないんだね」
顔良が安心したような声色で言った。
「ですが、葪を包囲しつつ公孫賛軍を相手にするのは、たとえこちらの方が兵が多くても難しいことです」
そう言いながら、辛毗は地図を睨む。
そして、ひとつの考えが浮かんだ。
「意見具申します」
その考えは常識外れではあったが、辛毗に躊躇いはなかった。ある思いが彼女の背を押していた。
沮授は好きじゃないけど、ひとつだけ良いことを言った。袁遺にできて私たちにできないことはない。
「葪の包囲を解きましょう」
「葪の包囲を解いている~~~~!!」
袁紹が絶叫した。
少し前、葪を囲んでいる軍から伝令が来た。
その伝令は予備の馬を何頭も連れ休まず駆け、馬が潰れたら予備の馬に乗り換えるということを行い急いでやって来た。
葪で何か異変があったのかと、ざわつく首脳陣に辛毗が書いた書簡が渡された。
そこには公孫賛軍の情報と顔良と辛毗が独断で葪の包囲を解いている最中で、準備が終わり次第、主力と合流すること、それにその理由が記されていた。
それを見て袁紹は思わず叫んでしまったのだ。
「何を勝手なことしてやがりますの!」
「しかし、これは案外、良い手かもしれませんよ」
沮授が袁紹に言った。
それから、この書簡に書かれてある通り、と前置きしてから続けた。
「公孫賛軍の位置から到着にはまだ時間があり、主導権を確保するためにはこの時間を使うしかありません」
書簡には包囲していた戦力と主力が合流して戦力を厚くした方がいい、と書かれていた。
確かに鮮于輔・蘇僕延軍との戦いで被害を受けたし、戦力が増すのは喜ばしいことだ。
そして劉虞にそれを追撃されても、公孫賛が援軍に来るまで時間がまだあり、その間に劉虞を撃破すればいい。むしろ、城から引きずり出すことができる絶好の機会だと辛毗は説明している。
それに城を囲まれている劉虞には外の情報は入ってき難い。公孫賛軍の接近と城を囲っていた軍の移動を結びつけ、戦場の全体図を読み取ることができない。
また、不明な確信で城から打って出れるほど劉虞には積極性がなかった。そんな積極性があったなら、涿郡に袁紹軍が侵攻した時点で野に出て遅滞戦闘を行い、援軍到着までの時間を稼いでいただろう。
他の問題もその積極性が関連していた。
城を出た後の劉虞軍が袁紹軍の冀州への背後連絡線を遮断するという問題も存在したが、沮授はそれは大きな問題ではないと思っていた。
糧秣は現地調達(徴収・略奪)も併用している袁紹軍には補給路を分断されることが即、破滅に繋がるわけではない。もちろん、長期化すれば危ういが、当分は大丈夫だった。
冀州への撤退路を断たれるという点では心理的圧迫を加えられるが、その心理的圧迫を耐えることができれば、逆に劉虞に心理的な攻撃を加えることができる。
撤退路を遮断した劉虞軍を無視して公孫賛軍に全力で当たる袁紹軍を劉虞が見たら、彼はどう思うか。
劉虞の性格からして焦る。
自軍はただ戦場で遊兵と化しているのではないか? 袁紹軍と戦った方が公孫賛軍の援護になるのではないか? そもそも葪を空けていて大丈夫なのか?
そうやって悩んで結局、背後連絡線の遮断を自ら取り止める可能性が高かった。
それに、もし仮に遮断され続けても、倍近い戦力で公孫賛軍と戦えるというメリットもあった。
だから、背後連絡線については気にする必要はなかった。
「伝令を出し合流地点を指示しましょう」
「どこで合流するつもりですの?」
袁紹が尋ねた。
「ここから二〇里(一〇キロ)先、濕余水と沽水の合流地点付近で。河を防御に利用します」
沮授が答える。
反董卓連合の際にも述べたが、河川を防御線とすることは難しい。全ての渡河点を抑えようとすると膨大な兵が必要となるからだ。そして、川沿いの全域に兵をばら撒き、どこかで優位を奪われて渡河された場合、兵力が再集結する前に各個撃破される可能性が大である。
だから、河川防御ではともかく兵数が多ければ多いほどいい。
沮授は案外と言ったが、本心では城の包囲に残した軍とこのタイミングで合流できることが本当に有り難かった。しかし、日頃の対立から手放しにそれを表すことができなかった。沮授は冀州の出身で辛毗は豫州潁川郡の出身であり、派閥というものがあった。まさしく、彼の人としての限界である。
しかし、袁紹は未だにどこか納得しかねた様子だった。部下の独断専行を是とすることができない性格だったからだ。
そんな袁紹に文醜が声を掛けた。
「何、むすっとした顔しているんですか、麗羽様?」
その声はどこか楽しげだった。
「あなたこそ、なんで楽し気ですの?」
「だって、斗詩と肩を並べて戦えるんですよ。それに何て言うかな~~」
文醜は腕を組んで考えるように言葉を選ぶ。
「こう、手持ちのものを全部注ぎ込んで大きく賭けるって感じがして良いんですよね~~」
彼女は薄い目に大きく張るような博打を好むところがある。そんな彼女からすれば、独断で囲みを解いて主力と合流し、沽水を大きく使っての河川防御は大きな賭けのように思えた。
実際のところはギャンブル性は薄いのだが、文醜の可笑しな素直さが袁紹にとって清涼剤となり表情が和らいだ。
そして、軍は移動を開始した。
沽水は主力から約二〇里(約一〇キロ)、葪からは約六〇里(約三〇キロ)、葪から部隊は無理をすれば一日で合流できる距離である。
事実、顔良と辛毗は多少の脱落兵を出しながらも三〇キロを一日で踏破し、本隊との合流を果たした。
劉虞からの追撃もなかった。
囲みを解かれた彼が最初に行ったのは偵察隊を出すことだった。
劉虞は袁紹軍の行動が自分を城から引きずり出すための罠だと思ったのだ。それを確認するために偵察隊を派遣したのだ。
この偵察隊が鮮于輔・蘇僕延軍の壊滅と袁紹軍が沽水に布陣したことを持ち帰るのに費やした時間は一日、独断専行によって稼がれたこの一日は戦争の帰趨を左右するものだった。
この一日で袁紹軍は再編し、河川防御の体制を整えた。
濕余水・沽水の戦い、その後半の幕開けである。
補足
・漁陽太守の鮮于輔
鮮于輔が漁陽太守になるのは本来なら公孫賛が死んだ後であるが、この外史で劉虞の幽州就任から少ししてという設定です。
今回も簡単な地図を作りましたが、いつも通り不正確さの塊のような地図です。あくまでイメージの参考にして、これが全面的に正しいなんて思わないでください。
また、この話のネタバレが含まれます。まだ本文を読まれていない方はご注意ください。
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