異・英雄記   作:うな串

28 / 45
丙の章で一番、書きたかった話だった。

あとがきの部分に、今回も簡単な地図があります。
地図としては正確ではなく、あくまでイメージを補うためのものだと思ってください。
また、地図にはこの話のネタバレが含まれておりますので、ご注意ください。


17~19

17 ライヘンバッハ・プラン(前)

 

 

「俺が兗州牧の兵じゃなくてよかったって、心の底から思ったよ」

 袁遺は軽佻浮薄な軽口を隣に佇む司馬懿にのみ聞こえる声量で吐き出した。

 それを受けて、司馬懿も軽口で返す。袁遺同様の声量であった。

「同感です。あなたの軍師である方がマシだと思えるくらいです」

「ははッ」

 その答えに袁遺は小さく笑った。

 自分が仕えにくい主であることの自覚はあるし、司馬懿を扱き使っているという自覚もあった。

 そして、今も司馬懿の手によって六〇〇〇名以上の死傷者を出した曹操軍に司馬懿自身を作戦指導の参謀として送り込もうとしていた。

 兗州陳留。曹操の本拠地に袁遺は軍師である司馬懿と数名の参謀、そして護衛兵力として姜維が率いる騎兵を中心とした部隊と共に冀州侵攻の作戦説明のためにやって来ていた。

 陳留で曹操たちに出迎えられたとき、怨嗟こそ渦巻いていなかったが、決して心の底から歓迎されているわけではないことを袁遺一行は感じ取った。

 だが、袁遺はそんなもの歯牙にもかけず、曹操と二、三挨拶を交わしてから切り出した。

「そちらの軍の状態を確認させていただきます」

 曹操軍が自分の立てた計画通りに動けるか知るための確認だった。

 袁遺たちは陳留の街から少し離れた軍事演習場へと案内された。事前に書簡を送っていたため、準備はすっかり整えられていた。

「放てーーーッ!」

 雄黄色の髪で眼鏡を掛けた女性―――于禁の号令と共に二〇〇〇程の軍勢が一斉に引き絞った弓を放った。

 風切り音と共に矢が空に吸い込まれるように高々と舞う。

 矢は十度放たれた。

 袁遺はその放たれるまでの時間を心の中で数えていた。

 約一分。その発射速度は熟練兵のそれだった。

 演習場に次の号令が響いた。

「掛かれッ!」

 于禁の部隊の背後から別の軍勢が駆け出た。得物は槍である。そして、その動きは機敏だった。

 兵たちは指揮官たちに命ぜられた場所で何度か槍を振り下ろす、もしくは突く動作を行う。ふたつの違いはそれぞれ指揮官の好みの差だった。効果で言えば、振り下ろす(叩く)方が効果的とされている。

 それに続いて控えていた後続の部隊が突撃動作に入る。ただし、別の進路を取ってだ。

 後続の部隊はふたつに分かれ、片方は最初の部隊の右方向に角度をつけて進み、もう片方は左方向へ同様の運動を行った。敵陣突破と突破口拡張の戦術運動である。

 兵たちは傷が目立つ女性の隊長―――楽進の指揮を受けながら、洪水の様に突撃する。

 袁遺はこの戦術運動を黄巾党との戦で朱儁が行っているのを見たが、かつての上官のそれより兵の速度は上で、なおかつ隊列の乱れもなかった。

 これは朱儁と楽進の差というより、兵の練度の差である。

 ここまでの精強さと統制を得るには想像を絶する過酷な訓練が必要だった。

 故に、冒頭の感想という名の軽口が吐かれることになる。

 于禁と楽進でここまで凄まじいならば、彼女たちより曹操に長く仕えている夏侯姉妹の部隊など、その強さを考えるのでさえ袁遺は嫌になってきた。

 味方なら頼もしいと言えるかもしれないが、華琳はいつまで俺の味方であってくれるかな? それに俺は味方に、ここまでの精強さを求めていないし、当然、敵にもそうだ。世の中、なかなか上手くできてないよな。

 しかし、彼はそれを表に出さず、曹操へと向き直って言った。

「兗州牧殿の軍の精強さには感服しました。陛下がこれをご覧になられたら、袁紹討伐の成功を確信して、さぞお喜びになるでしょう」

 大きく、そして良く響く声であった。

「陛下のご威光あってこそです」

 曹操は謙遜してみせた。

 双方、極めて政治的意図が多分に含まれた態度だった。

 では、軍議をしましょうか。袁遺が切り出した。

 

 

 陳留の城、その一室に曹操は自分の軍師三人―――荀彧、郭嘉、程昱―――を集めて、袁遺と司馬懿に紹介した。

 それを受けて、袁遺も司馬懿を彼女たちに紹介する。

 そのとき、彼女たちの視線が鋭くなったのは、過去の因縁からだったが、袁遺も司馬懿も受け流した。

 袁遺は曹操に口調は普段のものでいいと前置きしてから、話し始めた。

「我々の戦力は五万。それに馬涼州牧が西涼の錦と名高いご息女に一万の兵を率いさせて動員することを約束してくれました。その一万は現在、洛陽へと向かっている途中です」

「錦馬超を引っ張り出してきたの」

 曹操が声を上げた。

 袁遺はそれを肯首する。正確に言うなら、馬超の従妹の馬岱も副将として参戦している。

「そちらは事前に言っていた五万の動員は可能ですか?」

「問題はないわ。そうでしょう、文若?」

「はい」

 字で呼ばれた荀彧が答える。

「五万の軍の糧秣および黄河を越えるため船も延津に確保してあります」

 予定では袁遺および馬超の軍は洛陽から、曹操軍は延津から黄河対岸の司隷河内郡へと渡り、そこから冀州へと侵攻することになっている。

 このとき、晋陽の張燕も南下して冀州に進攻することになっているが、これは牽制以上の意味はなく、どんなに進軍しても州境辺りで退却すると予想されている。

 ここまでは曹操陣営の皆が納得はできたが、次の段階で懐疑の色が浮かんだ。

「冀州進攻の後は、兗州牧の軍は甘陵、青州との州境周辺から袁紹の本拠地南皮を目指してください。我々は鄴、鉅鹿郡、安平国と南皮を目指します。涼州軍は戦略予備として後方に温存します」

 袁遺が軍を大きく分けることを口にしたとき、曹操軍の軍師たちの反応は洛陽の後将軍府で賈駆たちがしたそれと同様だった。

「よろしいでしょうか、後将軍」

 荀彧が言った。言葉使いこそ丁寧であったが、棘があり、心根にある嫌悪感を誰もが感じる響きだった。

「どうぞ、荀殿。金言は常に歓迎するところです」

 しかし、袁遺はそんなものなど感じないように応じた。

「それでは……軍を分けるのは非常に危険です。袁紹軍が我々の迎撃に動員する兵数はおそらく八万~一〇万。各個撃破される恐れがあります」

「分かっています。敵にそう思わせるのが狙いなのです」

「袁紹軍をこちらに誘き出すにしても、これだけ距離があいていれば、危険と言いたいのです!」

 荀彧の声色に苛立ちが混じった。

 彼女は男性嫌いのところがあり、かつ男性を見下している。

 しかし、袁遺軍には反董卓連合のときに手痛い一撃を喰らっているし、連合自体は袁遺に振り回され続けた挙句、解散にまで追い込まれている。

 だから、袁遺を無能だと侮っていない。

 むしろ逆で、袁遺の意図が敵戦力の南方誘出にあることまでは読めても、そこから先、袁遺が何をしようか読めない自分への苛立ちを袁遺にぶつけているのだった。

 だが、袁遺がその狙いを説明しても苛立ちは晴れるどころか、より一層大きくなっただけだった。

 この作戦の説明中、殆んど言葉を発さずに袁遺と自分の軍師の発言を興味深そうに聞いていた曹操は袁遺の説明を聞き終わった後で口を開いた。

「いいでしょう。その策でいきましょう」

 その言葉を聞いて袁遺は、表情にほんの僅かな穏やかなものを宿して言った。

「よかった。ところで曹公、ふたりだけで話せるでしょうか?」

 黄巾党討伐のときに曹操が切り出したように、袁遺が言った。

 違いがあるとすれば、今度は荀彧が反対の声を上げなかったことだった。

 軍師たちは部屋を後にし、袁遺と曹操のふたりっきりになった。

「それで何の用かしら、伯業?」

「華琳。袁紹からの調略はあったか?」

 袁遺の言葉に曹操―――華琳は声色に不機嫌なものを混ぜながら答えた。

「なかったわ。疑っているの?」

「そうではないが、俺が袁紹なら真っ先に君を自陣営に引き込む」

 事実、足元の洛陽を固めて袁遺はすぐに彼女と結んだ。

「反董卓連合での非礼を詫び。媚び、煽て、脅し、宥めて、賺す。あらゆる手を打って、何としてでもやり遂げる」

 それはそれだけ袁遺が曹孟徳のことを評価しているということで、彼女からすれば悪い気はしなかった。

「それは光栄なことだけど、分かってないわね、伯業。何としてでもやるのが袁伯業なら、絶対にやらないのが袁本初よ」

「……それもそうか」

 袁遺は僅かに口元を歪めた。

「けど、惜しいことをしたかしら。調略があったことにして、もう少しそちらから、ふんだくってやってもよかったわね」

 華琳は軽口を叩いた。

「ああ、用というのはそれだ」

「どういうこと……?」

「今回の戦には董司空も参戦する。総大将は彼女ということになるが、配置は馬超軍と同じで予備隊だから全軍の指揮は俺が執る」

 董卓の参戦は極めて政治的な理由によってだった。

「そして、戦功第一も彼女になる」

 前漢では高祖から景帝の御世の前半まで、丞相は元勲が務めるという不文律が(呂氏の専横中は微妙ではあるが)あった。楚漢戦争で戦功第一の蕭何、楚漢戦争でも活躍し、冒頓単于との戦いでは謀略により高祖の命を救い、さらに呂氏一族を滅ぼして劉氏を守った陳平、呉楚七国の乱で漢を勝利に導いた周亜夫などである。

 景帝の御世後半にそれは否定されたが、袁隗と袁遺はその故事を持ちだして董卓の司空の立場を固めようとしているのだった。

 これは袁遺が経済の立て直しのときに口を出したため、今回の件でバランスを取ろうというのだった。

 もちろん、それだけではない。

「あなたはそれでいいの?」

 華琳が尋ねた。

「俺と叔父上は反逆者の身内で、袁紹を倒したところで罪を雪ぐという側面が強い。絶対に戦功第一にはできない」

 となると、董卓が参戦しなかった場合、曹操軍が戦功第一となるが、それはそれで董卓側も袁隗・袁遺側も面白くない。

 涼州や荊州、曹操や袁術、徐州をまとめ、張燕や北方の騎馬民族を使って袁紹の側背を脅かし、徐州の叛乱を素早く鎮圧してこちらの混乱の芽を早期に摘み取り、劉備(というより諸葛亮)にいいように利用されたことに耐えた。ここまでやったのに、一番おいしい所を曹操とその配下に持っていかれるのでは堪ったものではない。

 ただし、曹操に何も与えないわけではない。利益を行き渡らなくして反董卓連合を解散させたのは袁遺自身である。今度は自分がその轍を踏むつもりはなかった。

「君には冀州の地と費亭侯の地位が陛下から与えられる。もちろん、兗州はそのままだ。誰か他に州牧の地位は渡すことになるが、都督兗・冀州諸軍事として両州を治める」

「……条件としては悪くないわね」

 袁紹の冀州は最も人口が多く、肥沃な大地だった。それを手に入れることは決して悪い話ではなかった。

 それに費亭侯、つまりは列侯である。また、華琳の亡き祖父・曹騰がかつて列せられていた場所(兗州泰山郡費)でもある。祖父を敬愛していた彼女からすれば、同じ場所で列侯に封じられるのは他の場所で報じられるよりも意味があった。

 戦功第一という名誉は渡さないが、袁紹が収めていた肥沃な大地と祖父と同じ封土で列侯という実を与える形である。

「それにしても伯業、あなたはもう勝った気でいるのかしら。確かにあなたの策は良いものだったけど、気が早いんじゃないかしら?」

 意地の悪い笑みを浮かべて華琳は言った。

 袁遺はそれに怪訝な顔をして返す。

「当然だろう。勝てると思ったから攻め込もうとしているんだ。と言うより、もしかしたら負けるという状況で冀州に攻め入る余裕など現在の漢王朝にはない」

 それはあまりにも鮮明な軍指揮官としての姿勢、その表明であった。

 戦争をするからには負けてはならない、というのは信念以前の常識である。

 これは油断や慢心などではない。裏を返すなら、負けるのならば戦わないということである。即ち無駄な争いを抑えることである。

 反董卓連合との戦場に赴く前、袁隗の前でも宣言したことであり、袁遺の本質であった。

 そして、この本質によって、冀州侵攻の戦略は立てられていた。

 その戦略に動員される軍の概要を簡単ながら示しておく。

 

 鉅鹿郡方面侵攻軍

 総兵力五万(実戦要員三万 兵站等の非戦闘部隊二万)

 大将   袁遺

 軍師   鳳統(筆頭軍師)

      陳宮(呂布隊軍師)

 実戦指揮 呂布

      張遼

      張郃

      高覧

      雷薄

      陳蘭

 参謀は楊俊、王象など三〇名が袁遺の参謀本部で部隊運営やそれぞれの部隊に作戦指導として派遣されている。

 他の主だった将の名前を挙げるなら、王平、姜維は張郃隊に所属している。

 また、張超が対外交渉役として従軍している。

 

 清河国(清河郡)方面侵攻軍

 総兵力五万(実戦要員三万五〇〇〇 兵站等の非戦闘部隊一万五〇〇〇)

 大将   曹操

 軍師   荀彧

      郭嘉

      程昱

 実戦指揮 夏候惇

      夏侯淵

      許褚(大将護衛兵力)

      典韋(大将護衛兵力)

      楽進

      李典

      于禁

 袁遺軍から司馬懿を筆頭に九名の参謀が作戦指導のため派遣されている。

 他の主だった将の名前を挙げるなら、韓浩は夏候惇隊に所属している。

 

 戦略予備

 総兵力一万八〇〇〇(戦闘要員一万三〇〇〇 兵站等の非戦闘部隊五〇〇〇)

 大将   董卓(名目上の総大将)

 軍師   賈駆

 実戦指揮 馬超     

      馬岱(馬超軍副将)

      華雄

 司馬馗など五名の参謀が作戦指導として馬超軍に派遣されている。

 また、河内郡太守の張楊が兵站部隊を担当している。

 

 以上、総兵力一一万八〇〇〇

 

 袁遺軍と曹操軍の戦闘要員と非戦闘要員の比率の違いから双方の戦争観の違いも感じられるが、それは置いておいて、その陣容は反董卓連合ほどとは言わないが、分厚いものとなっている。強大な戦闘力を有していると言っても、何ら過言ではない。

 しかし、この戦争の妙は、この大軍の運用方法にあった。

 

 

18 幸せな選択

 

 

 幽州漁陽郡安楽県。袁紹が鮮于輔と蘇僕延を撃破した場所の近くであるが、その付近で私有地を持つ地方豪族の王松は客人によって、ある決断を迫られていた。

「あの後将軍が軍を率いて、黄河を越えました。王殿も兵を率いて将軍の元へ馳せ参じるべきです」

 よく響く張りのある声だった。

 その声の主を見たとき、まず、その胴の長さに目が引かれる。

 まるで竹だった。

 さらに首は太く。顔は細い。

 本当に竹に手足が生えているような男だった。

 彼の姓は劉。名は放。字は子棄。幽州涿郡方城県の出身である。

 劉放の祖先を辿れば漢の武帝に辿り着く。つまりは皇族であった。

 孝廉となったが、世が乱れたために王松に身を寄せたのだ。

「なあ、しかし、劉殿。それは少しおかしいのではないか?」

 王松は弱った声で言った。

「劉殿は私が、袁紹に攻められた劉虞殿の救援に行こうとしたとき、必死に止めたではないか」

 袁紹と劉虞が戦ったとき、この王松は劉虞の救援に向かおうとした。

 幽州に住まう者なら劉虞を助けるのは当たり前だと思ったのだった。劉虞の人徳によるものであった。

 だが、この客人の劉放は同じ皇族であるのにもかかわらず、それを止めたのである。

 それなのに、今度は袁紹と戦う袁遺を助けに行けと言う。無茶苦茶だと王松は思った。

「劉虞と袁紹が戦ったとき、どう考えても劉虞に勝ち目がなかった。劉虞に味方すれば、王殿は殺されていました。何故、恩あるあなたが死ぬのを見過ごすことができましょうか」

 劉放はしれっと言った。

「先ごろ、天下の諸侯が反董卓連合などという似非の大義を掲げて騒乱を起こしました。そんな中で袁公ひとりだけが道を違いませんでした。そして、天子の御言葉をかしこみて罪ある者を討伐し、向かうところ勝利があるのみです。そんな人物が河朔(かさく)を掃蕩しようと黄河を渡ったのです。大勢は決したも同然」

 立て板に水と流れるようにしゃべる劉放だったが、王松には不安があった。

「王殿。早く駆け付ける者には幸せがありますが、後から従う者にあるのは破滅のみです。それこそ一日が終わる前に馳せ参じるべきなのです」

 王松は劉放の弁にほんの僅かな下品さを感じ取っていた。

 劉放は悪人ではない。劉虞のときも本当に自分のことを思って止めたのだということも分かっている。そして、今も本当に自分の得となることを言っていることも理解している。

 だが、彼の言には自分の賢さを他者に売り込もうとしている素浪人じみた品のなさを感じるのである。

 この男の言を信じて大丈夫かな。そう思うが、王松には袁遺が勝つのか袁紹が勝つのか分からなかった。

 劉放は王松の反応が鈍いと見るや否や、さらに舌を回転させる。

「袁遺軍には冀州河間郡鄚県の名士で彼の推挙人である張超がいるようです。将軍は恩師の旧地を奪還するつもりです。自身の沽券と恩人のことを考えますと相当の覚悟があるはずです」

 王松はそれを聞きながら思った。

 そういえば、劉虞殿の救援を取り止めたときも、この男の弁舌に丸め込まれたんだったな。

 王松の心は劉放の意見に傾いていた。

 彼は流されることに不安を感じながらも、結局はこの客人の言うことに従うのだった。

 しかし、不安とは反対にこの選択の向こうには、劉放の言う通り幸せがあることを王松は知る由もなかった。

 

 

19 ライヘンバッハ・プラン(後)

 

 

 董卓・袁遺が曹操、馬超の軍を率いて冀州へと侵攻してきたことを知らされたとき、袁紹陣営は袁遺の読み通りの動きをした。

 袁紹とその軍師たちは袁遺軍が北の趙国、鉅鹿郡方面へと、曹操軍が東の清河国(清河郡)へと進路をとったことを知ると各個撃破の好機と受け取った。

 彼女たちには自信があった。幽州で劉虞と公孫賛を撃破したときに手に入れた自信が。

 ただ、田豊のみが慎重な対応を提案した。

 曰く、袁遺が軽々(けいけい)と兵を分けるという愚策を講じるはずがない。こちらを誘っている可能性が高く、何か策があるはずだ、と。

 だが、それは袁紹によって却下された。

「一体どんな策があると言うんですの!?」

 田豊はその問いに答えることができなかった。

 このとき、田豊に味方してくれる軍師はいなかった。

 何故なら、あまりに反応が鈍いと袁紹軍に味方している并州や幽州、青州の名士や異民族が敵対する可能性があった。いや、并州や幽州、青州だけではなく、冀州の名士の中にも出てくるかもしれない。

 彼らの多くは袁紹の武威によって従っているのだ。弱気なところを見せられなかった。

 結局、田豊は留守役が命ぜられ南皮に残ることになった。また、辛評も兵站管理のために南皮に残る。

 袁紹たちは八万の軍を率いて南下、まずは魏郡と趙国の郡境付近にいた袁遺軍へと目標を定めた。

 しかし、予定戦場へと到着したとき、袁遺軍の姿は影も形もなかった。

 斥候を出し、その真相を調べたところ袁遺軍は袁紹軍の到来を知ると全軍で後退したのだった。

 その追撃に移ろうとするが、袁遺は軍を複数の部隊に分けて後退しているため、部隊の編成に手間取った。

 そうこうしている内に、袁紹の元に曹操が魏郡を抜けて清河国(清河郡)へと入ったことが知らされた。

 無視できる問題ではなかった。袁紹はすぐに目標を曹操軍に切り替える。

 だが、こちらも袁遺軍と同じであった。

 予定戦場へとついた頃には曹操軍はすでに後退している。あまつさえ物資の一部を放棄してまで、その足を速めていた。

 事ここに至って、袁紹軍の軍師たちは袁遺の策が何かを理解した。

 袁遺は戦闘を徹底的に避けるだけで、袁紹軍の各個撃破の戦略を根本から破壊しにきたのだ。

 袁遺軍にしろ、曹操軍にしろ、撃破出来ずに逃げられた場合、もう一方の軍は無視できないほど袁紹領に進攻することになる。

 だが、そちらを撃破しに向かえば同じ様に後退し、その間にもう一方の後退した軍がまた進軍を始める。

 すると、同じことの繰り返しだった。ただ領土がじわじわと削り取られる。

 そして、領土が奪われるということはその土地の名士の信頼を失うということだった。

 名士を名士足らしめているのは名声だが、地方豪族を地方豪族足らしめているのは私有地に他ならない。

 袁紹は力に依る支配を行っている。だから、こうやって為すすべもなく領地を侵食されている今の状況は、名士たちに袁紹には自分たちの土地を守る力がないと受け取られることだった。

 軍師たちに遅れてそのことに気付いた袁紹に味方していた名士たちは櫛の歯が欠ける様に、袁紹の元を離れていった。

 当然、自分たちの部曲を引き連れてである。

 袁紹軍は一戦も交えぬうちに兵をみるみる減らしていくことになる。

 だが、上記のことに袁紹自身が気付いていなかった。

 彼女はヒステリックな声を上げる。

「どうなってますの!? 私は負けていませんわ! あの目付きの悪い男とちんちくりんの曹操さんは逃げているばかりじゃありませんの!!」

 袁紹にとって、まことに始末の悪い戦いだった。内線作戦がまったく機能せず、勝ったのか負けたのかわからぬうちに、ただ領土と味方の名士を失っていく。

「どうなってますのーーー!!」

 袁紹の絶叫が虚しく響いた。

 

 

「ええーーーい! 何だ、これは!?」

 曹操軍でも袁紹と同じように声を上げる者がいた。

 夏候惇である。

「逃げてばかりで、まったく戦わん! これではつまらないではないか!」

 両目(・・)に怒りの炎を宿し、叫ぶ。

 袁紹と雌雄を決すると気合を入れて冀州へと侵攻したにもかかわらず、ここまで戦闘がない。肩透かしを喰らった気分だった。

 夏候惇の声に猫の耳の様な頭巾を被った少女が反応する。

「うるさいわね。何度も何度も同じことを叫んで。少しは黙ってなさいよ」

 荀彧だった。

「何ーーーーーッ!」

「何よ!」

 両者はいがみ合う。

 その光景を離れて見ている少女たちがいた。

 楽進、于禁、李典の三人であった。

「荒れているな。春蘭様も、桂花様も」

 腰まで届く美しい銀の髪を編み込み束ねた少女がポツリと言った。その少女の肌には幾条もの傷跡が見て取れた。楽進である。

 そして、それに応じたのは雄黄色の髪で眼鏡を掛けた少女であった。于禁である。

「春蘭様は戦いがなくてイライラしているし、桂花ちゃんもなんだかよく分からないけどイライラしているの」

「そやな~、春蘭様がイラつくのは、まだ分かるねんけど、桂花がなんでイラついてんのかは分からんねん」

 肌面積の多い大胆な服装の少女が言った。李典である。

 ただ、上司がイラついている以上に分からないことが彼女たちにはあった。

「実は、ウチ、今の状況がよく分からんねん。進んで、後退して、進んでるだけやろう。イライラはせんけど、どないなっとんねんって思うわ」

「沙和もなの~」

「それは私も同じだ。冀州に攻め込むとなったとき、激戦になると思っていたんだが……」

 三人は頭を悩ませる。

 もちろん、事前に説明は受けているが、そのときは戦わないことが上手くいくのかと半信半疑だった。

 そして、それがこうやって目の前に現実のこととして表れても、未だに信じられなかった。

「どうかしました?」

 そんな彼女たちの前にひとりの少女がやって来た。

 身長はやや低め、長い金髪でその頭の上には人形のようなものを乗せ、飴を咥えている。

「あ、風ちゃん」

 于禁が言った。

 風は彼女の真名であり、その姓は程。名は昱。字は仲徳である。

 曹操の軍師のひとりだった。

 同じ軍師ならば、桂花―――荀彧が苛立っている原因とこの状況が分かるのではないかと三人は程昱に疑問をぶつけた。

「あーー、桂花ちゃんが苛立っているのは仕方がないことですよ。風も軍師として思うところがありますから」

「軍師として?」

「そうですよ」

 李典のオウム返しに答えて、程昱は続ける。

「華琳様は反董卓連合解散の後に、袁遺さんの戦い方を研究するように風たち軍師に命じました。その一環として、風たちは反董卓連合のとき、どうすれば袁遺軍に勝てたかということを考えたのです」

 それは袁遺が自分の軍師の雛里や司馬懿に命じたことでもある。

「そして、袁遺さんが今やっているこの作戦こそが、最も反董卓連合のときに効果的な作戦であるのです。実際に今の戦いは反董卓連合と似た状況でもあるわけですから」

「どういうことですか?」

 楽進が尋ねる。その声には驚愕の色があった。

「こちらは袁紹軍より多い兵数を揃えて、軍を分けて敵を挟んでいますね。そして、袁紹さんたちは総数では多い敵相手に各個撃破を狙って動いています」

「そう言われれば、そうやな」

「もし、反董卓連合が袁遺さん相手に、今やっている戦闘を避けることをすれば、きっと袁遺さんも困ったと思いますよ」

 もっとも司隷東部と冀州では地形が違うという点があった。

 司隷東部が黄河の氾濫が支流にも及んで、残留した黄土により起伏の激しい土地になっていることは前にも書いた。

 そして、この冀州、正確に言うなら現在の北京付近から黄河までは、ひたすら見晴らしの良い平原である。

 中国史において唐代の安禄山(あんろくざん)、遼の太宗(耶律徳光(やりつとくこう))、金の太宗(呉乞買(ウキマイ))、明の永楽帝、清の順治帝、そして日中戦争の日本軍は北京付近から黄河までを一気に蹂躙している。それほど動きやすく見晴らしが良いのだ。

 その違いから、反董卓連合のときの袁遺軍は察知されにくく、今回の袁紹軍は見つかりやすいということもある。だが、それでも連合がこの戦闘を避けるということを思い付いていれば、袁遺はもっと苦労する羽目になっていただろう。

「ところで、三人の部隊で犠牲は出ましたか?」

 突然、程昱が話題を変えた。

 楽進たちはお互いの顔を見合わせた。皆が突然の話題変換に怪訝な表情を浮かべている。

「いません。そもそも戦闘自体が殆んどないのですから。せいぜい後退するときに物資の一部を放棄したくらいです」

 やがて、楽進が皆を代表するように口を開いた。

「それも連合ができなかったことのひとつです」

「どういうことなの~?」

 程昱は、風はまだ華琳様に仕えていませんでしたが、と前置きしてから言う。

「連合では袁紹さんが後に敵になりそうな諸侯を損耗させようとしたために、先鋒の動きが鈍くなりました。それと同じように勝つためとはいえ、被害が大きくなりすぎれば、華琳様も馬超さんも良い顔はしないはずです。だから、こうやってひたすら損害が出ない策を採用したんだと思いますよ」

 程昱は袁遺の凄みというものを感じていた。

 彼女は華琳から、主が冀州と費亭侯の地位が与えられることを聞いたし、董卓側への配慮も聞いた。

 それに、作戦に参加した曹操軍や馬超軍に損害ができるだけ出ないようにするという心配りも見た。

 同盟関係において袁遺ほど誠実な人間は間違いなくこの大陸にはいない。

 ただ、殆んどの人間が楽進たち三人と同じように袁遺の誠意をただ呆気に取られて眺めているだけで、その誠意に報いようとしないだろう。袁遺にとって、この天下とは不実な人間の集まりのようなものだ。

「それで、桂花ちゃんが苛立っているのは反董卓連合を勝たせるための最適解をよりにもよって、連合を解散させた袁遺さん本人の手によって示されたのが原因です」

「皮肉な話やな」

 李典が言った。

 それに程昱は声を変え、頭の上の人形を揺らした。

「まあ、嬢ちゃんがイラついているのは曹操の大将が最も欲していたものを袁遺が提示してみせたことで、軍師として、そして、女としての嫉妬心がムラムラと沸いてきたってことだな」

「コラ、宝譿。ムラムラではまるで桂花ちゃんが発情しているようじゃないですか」

 そうやって、腹話術で漫才のようなことをやり始めた。

 それに楽進たち三人は乾いた笑いを上げるだけだった。

 

 

 ネタにされた桂花―――荀彧は苛立ちながらも主である華琳に面会した。

 彼女にはさらに苛立たせることがあったのだ。

「華琳様、袁紹に仕えている妹の荀諶から、兗州牧様に口利きをして欲しいという書簡が届きまして……」

 荀彧は語尾を濁らせながら言った。

 つまりは、袁紹から曹操に鞍替えしたいというわけで、早い話が裏切りである。

 荀彧からすれば、身内の恥を晒しているようなものだった。

「構わないわ。荀彧・荀攸・荀衍・荀諶・荀悦は、現代まったく匹敵する者がいない。潁川郡では有名な話よ」

 華琳は人材には貪欲だった。

「それだけではなく、何人かの袁紹の臣下も華琳様や袁遺に取りなしと欲しいと……」

 荀彧はかつて袁紹に仕えていた。そのときの縁を頼ってやってくる者がいたのだ。

「構わないわ。皆、受け入れてやりなさい。伯業からも名士は受け入れるように言われているわ。ただし、蔵を開いて食料を提出するという条件のもとでってね」

 それが袁遺の馬車限界後の糧秣の調達の仕方だった。

「それにしても、あなたでそれほどの口利きの依頼が来たなら、袁遺のところには、もっと多くの依頼が来ているんでしょうね」

 事実だった。

 袁遺の推挙人で冀州出身の張超の伝手を使って、多くの名士たちが恭順の意を示していた。

 袁遺は恩師に、どうぞ先生のお好きにと言って、彼らの生殺与奪の権を任せた。反董卓連合のとき、張超を粗略に扱った名士に対して報復したいなら、させようというのだった。

 もっとも、張超は報復など行わなかった。このままいけば、旧地は間違いなく回復するし、今回のことで名声と冀州の名士たちに多大な借りを作ることができた。それで十分だった。

 また、張超の元だけではなく、司馬懿や雛里の元にもこの手の類の者らが来ていた。

 司馬懿なら、彼のことを『聡明誠実、剛毅果断の大物』と評した人物評の大家である崔琰(冀州清河郡東武城(とうぶじょう)県)など、雛里ならば、共に水鏡塾で学んだ崔州平の実家(冀州安平国安平県)の一族である。

「沈没する船からネズミが逃げていくようね」

 華琳が口元に皮肉気な笑みを浮かべた。

「それで桂花、次の伯業の手が読めるかしら?」

 その言葉に荀彧は前のめるように返した。

「はい、もちろんです。華琳様!」

 程昱の言う通り、戦術のことで袁遺に後れを取ったが、もう二度とそんなことはないという気概が込められていた。

「間違いなく、馬超を動かすはずです」

「そう。それじゃあ、伯業はもっと皮肉な光景を私たちに見せるつもりね。麗羽にとってはさぞや屈辱なことになるでしょうね」

 そして、華琳もその気概を持っていた。

 ふたりの脳裏に国士無双と謳われた名将の戦術が浮かんでいた。

 ただし袁遺は、ふたりが思い浮かべた約四〇〇年前の戦いではなく、約一六〇〇年後の戦いから、この作戦の着想を得ている。

 もちろん、この主従が知らないことである。

 

 

 後に袁遺はこの戦いについて尋ねられた。

「早々に出陣したことは袁紹の明らかな失策でしたね」

 その言葉に袁遺は優し気な声で諭す様に答えた。

「違うよ。袁紹軍の本当の失策は華琳の軍に逃げられた後、もう一度、私の軍を補足しようとしたことだ。袁紹たちは華琳に逃げられた段階で南皮で本拠地決戦に切り替えるべきだったんだ」

「そうですか……私には袁紹たちにはまったく戦術眼がないように思えましたが……」

 袁遺は質問者に苦笑を浮かべるだけだった。

 この未来の話は置いておくとして、袁遺の言葉通り、袁紹たちはこの戦争を敗北へと導く選択をする。再び、袁遺軍を補足しようとしたのである。

 袁遺軍はすでに魏郡、鉅鹿郡を突破して、安平国まで進攻していた。

 このとき、袁遺軍は一時占領した土地の守りに兵を割き、その数を三万まで減らしていたが、名士とその部曲に逃げられた袁紹軍も開戦当初の半数以下の三万四〇〇〇と、似たような数だった。

 それでも袁遺は戦わずに、後退した。

 袁紹は再び袁遺軍の補足に失敗したのだ。ここで彼女たちは本拠地決戦へと方針の転換を図ったのだが、遅すぎた。

 馬超と董卓だった。

 時間を巻き戻し、馬超の動きを洛陽へと着いたところから説明する。

 彼女は母親に命ぜられて、従妹の馬岱と共に騎兵一万と共に洛陽へと向かった。袁遺たちの援軍のためである。

 出立の前に馬超は母の馬騰に、

「袁遺の戦い方をよく見て来なさい」

 と言われた。

 洛陽への道中は張既が糧秣を各地で整えていたため何の苦労もなく、物見遊山気分で進むことができた。

 そして、洛陽に着いたら袁遺や董卓から手厚い歓迎を受けた。

 酒宴が開かれ、袁遺自らが接待役を務めた。

 翌日、後将軍府で彼女は馬岱と共に作戦の説明を受けるのだが、一度目の説明ではまったく理解ができなかった。

「私の軍と兗州牧の軍の二手に分かれ、敵戦力の南方誘出を行います。その後、計画的撤退と兵力優位を活かして敵が択るだろう内線作戦の崩壊を狙います。一応、補足しますと、この計画的撤退とは敗走ではなく、後退を戦術運動として攻勢作戦の一部に取り入れ、戦略規模で実施するものです」

 馬超には辛うじて袁遺と曹操の軍を分けるぐらいのことしか理解できなかった。

 馬岱も似たようなものだった。

「そ、その……袁将軍、悪いんだけど、もう一度説明してくれないか」

 袁遺は少し考え込むと、分かりましたと答えて言い直した。

「私と兗州牧の軍を二手に分けます。この両軍は間違いなく袁紹軍より少ない数となり、袁紹たちにとって各個撃破の機会に見えるはずです。こうやって、まずは敵を誘き出します。ここまではいいですね?」

「お、おう」

「次に撃破しにやって来た袁紹軍に対して、両軍はそれぞれ戦闘を避けることを徹底します」

「逃げていいの?」

 尋ねたのは馬岱だった。

「構いません。その間にもう一方の軍は進みます。これを無視できない袁紹軍がそちらに向かったら、同様に撤退。両軍がこれを徹底することで袁紹の領土を徐々に侵食していくことになるでしょう」

 袁遺が地図と駒を使って説明する。

「私の軍と兗州牧の軍の距離が空き過ぎているんです。袁紹は決戦を避けられた場合、どちらかの軍を止めることができなくなる」

 馬超は理解できたが、今度は信じられなかった。逃げているだけなのに、そんなにうまく敵の領土を奪うことができるものなのかと。

「え~~と、それじゃあ、あたしたちは何をすればいいんだ?」

「まずは兗州牧軍の後方で待機を。もし前軍が袁紹軍に補足されそうになるなら、騎兵の速さを活かして、袁紹軍の背後を狙う様な動きをしてください。そうやって撤退の隙を作ります。運動防御という奴です」

 ちなみに、袁遺軍のこの役目は呂布隊と張遼隊がやることになっている。

「それはなんとなく分かるけど……」

「これは前衛の崩壊を救う重要な任務です。それともうひとつ、全軍を勝利に導く重要なものが―――」

 そうして説明を受けて冀州へと侵攻したが、馬超は狐に抓まれた様な日々を過ごした。

 袁遺の言う通り、逃げているだけで袁紹の領土を掠め取っていくのである。自分の知っている戦場とは違うものがそこにあった。

「お姉様~、叔母様に袁遺の戦いを見て来いって言われたんでしょう。どうやって報告するの?」

 隣で馬岱が声を上げた。

「どうやってって……」

「だって、このままじゃあ袁将軍は逃げてばっかりだったけど、袁紹の領土を奪いましたって報告することになるよ。大丈夫? 怒られない?」

「じゃ、じゃあ、それ以外なんて言えば良いんだよ!?」

「そんなの蒲公英に言われても分からないよ」

 蒲公英は馬岱の真名である。

 まいったな、と頭を悩ませる馬超の耳に怒号のようなものが風に乗って入ってきた。

「逃げてばかりで、あの腰抜けは一体何をやっているんだ!!」

 華雄の声だった。かなりの距離があるが、それでも聞こえてくる。

 またか、と馬超は思った。

 華雄は冀州に進攻して以来、ああやって袁遺を罵っていた。

 自分を戦闘には出さず、なおかつまともに戦わない袁遺に腹を立てているのだ。

 かなり口汚く罵るのだが、その度に董卓や賈駆に窘められた。しかし、華雄は態度を改めるどころか、より一層の悪態をつくのであった。

 馬超にはその気持ちが分からなくもなかった。

 袁遺は策を弄し過ぎていて、一本気な武人たちの気質には合わないと感じる。

 しかし、同時に馬超は戦闘がないことに安堵している自分を発見していた。

 いくら漢王朝のためだとは言え、中原のごたごたに巻き込まれて、兵たちが傷付き倒れ、縁の薄い地で骸を晒すのはやり切れなかった。

 だから、袁遺がおかしなことをやっているなとは思いながらも、決して華雄のように袁遺を罵ったりはしなかった。

 そんな予備兵力の役目が訪れた。

 参謀の司馬馗が馬超たちの前に来て拱手して、叫ぶように言った。

「後将軍より伝令。急ぎ、河間郡と渤海郡の郡境まで進軍し、袁紹が本拠地帰還する場合は妨害せよ! そうでない場合は曹操軍と合流して南皮を包囲せよ!」

 それが馬超たち戦略予備部隊に与えられたふたつ目の任務であった。

 馬超たちは騎馬の機動力を以って、南皮への最短ルートを塞いだ。

 これにより、袁紹は本拠地決戦をも封じられたのである。

 もっとも、敵の主力を引き付けている間に後方に回り込むなど、古来から兵法の基本とされていることだ。

 例えば、楚漢戦争のとき、ちょうど袁遺軍が通って来た魏や趙で、韓信が魏豹相手や、かの有名な背水の陣でそれを行っている。

 袁紹軍は馬超軍の突破を諦めた。

 何故なら、馬超軍の後方には曹操軍が迫ってきており、自軍の後方を袁遺軍が追いかけて来ている。このままいけば、袁紹たちが反董卓連合のときにやろうとした前後からの挟撃による包囲戦に陥るからだ。

 自分たちがどんなに苦労しても成し遂げられなかったそれを袁遺はいとも簡単にやろうとしている。袁紹と軍師たちは歯噛みした。

 結局、袁紹軍は本拠地への帰還を諦め、幽州への前線基地の役割を果たしていた易へと目的地を変えたのだった。そこには食料と幽州防衛の兵がいる。

 しかし、本拠地を捨てた時点で、冀州の名士の殆んどが泥船に付き合う気なしと袁紹を見捨てた。それにより、袁紹の手勢は一万ほどになってしまった。

 この冀州侵攻で袁遺は、一八一三年に第六次対仏大同盟がナポレオン相手に取った作戦から着想を得ている。

 連合軍はナポレオンは戦場では軍神であり、彼が率いる本軍には絶対に勝てないということを認識して、本軍との正面衝突を避け、部下の軍団を叩くことにしたのだ。

 これをライヘンバッハ・プラン(トラッヘンベルク・プランとも)と言う。

 ナポレオンは本軍は勝つが部下が負けるためにその尻拭いを行い続け、消耗戦に引きづり込まれた。最終的に一四回の戦闘の内一一回も勝利を上げながら、後方の首都パリが降伏して敗北、一回目の退位を行うことになる。

 袁遺はこのプランをさらに推し進め、名士つまりは地方豪族の心理と袁紹の体制を勘案に入れて、戦わないという戦略を確立したのだった。

 袁紹は力に依る支配を行っているため、力がないと名士たちが離反する可能性が高い。

 その名士―――地方豪族相手に揺さぶりをかけるなら、地方豪族を地方豪族足らしめている土地を占領するのが有効と判断したのだ。土地を抑えるということは、名士の首根っこを抑えるということである。

 袁遺は反董卓連合のときに袁紹と諸侯の関係を破壊したように、今回は袁紹と名士の関係を破壊したのだった。

 

 

 流れる景色を見ていると、もしかしたら走馬灯というのもこういう感じなんだろうか、と袁遺は思った。

 冀州河間郡の景色は袁遺にとって懐かしいものだった。彼はここから官吏としての道を歩み始めたのである。

 全ての事情を知る者からすれば、袁伯業という官吏の最初期は袁家の……特に袁紹のためにその才能を使い潰されたようなものである。後に冀州へと赴任する袁紹のために袁遺は冀州のいくつかの県で県尉を務め、賊の討伐に明け暮れた。

 袁遺は青春の最後を冀州の血風の中で過ごした。

 そして、彼は戻ってきた。まるで成長した稚魚が生まれた川を遡上するように。

 目的も在りし日と同じである。賊の討伐。漢朝に仇為す者を討つためだ。

 袁遺は曹操軍と馬超軍を合流させた後、両軍に南皮を囲うように命じた。囲うだけで攻撃は控えさせ、全権を司馬懿に委任して、自分は軍を率いて袁紹の追撃へと進発する。

 華雄がそれについて反対の声を上げたが、対処は董卓と賈駆に任せた。

 曹操は大人しく従った。彼女は袁遺が最後の仕上げをどのように行うか見たかったのだ。

 袁遺は部隊を分けて、袁紹を追撃した。分進合撃である。

 彼の手元には、袁紹を見限った名士たちからの降伏の手土産代わりの情報があった。袁紹がどこに向かっているか、ほぼ正確に捉えていた。

 いや、情報だけではない。後方連絡線の安全も確保され、残した守備部隊も本隊に合流。名士たちから糧秣を半ば自発的に接収して、全軍が飽食できるだけあった。

 問題は何もなかった。

 袁遺は将、そして参謀たちに命じる。

「袁紹軍を易水で補足、撃滅する!」

 袁紹の首を手土産にしたいと目論む者たちを警戒して、袁紹軍の動きは鈍かった。十分に補足できると袁遺は確信していた。

 ひとりの人間の意志のもと、軍は暴力の奔流となって袁紹軍へと押し寄せた。

 

 

 袁紹はそれを易水に浮かぶ小舟の上で見た。

 砂塵だった。戦場では遠くで巻き上がる靄は敵の襲来を意味していた。

 袁紹は叫んだ。

「袁遺が来ましたわよ! 殺しなさい! あの男を殺しなさい!」

 そして、岸の方へ戻るために船から飛び降りようとする。

 袁紹の袁遺への殺意は凝り固められ、本人でさえもどうしようもなくなっていた。

「や、やめてください! 姫!」

「そ、そうだぞ、危ないって!」

 それを顔良と文醜が必死に止める。

 こんな小さな舟であるが、やっとの思いで見つけて何とか袁紹と僅かな護衛兵力を乗せりことができたのである。

 顔良と文醜は主人の身の安全を守るだけで精いっぱいであった。

 ふたりは分かっていた。袁遺を殺すことも、袁遺軍に勝つことも、それどころか、未だに岸に残り、袁遺軍と川に挟まれた友軍が助かることも、それらのどれもが不可能であるということを。

「殺しなさい! 袁遺を殺しなさい!」

 ただ、袁紹の怨嗟の絶叫のみが響いた。

 

 

 岸に残された袁紹軍で最も粘り強く戦ったのは麹義だった。

 密集して堅陣を組んで、絶望に抗う。助かる見込みはない。あまりにも無意味な闘争を続けるのは麹義と兵たちの意地以外の何物でもなかった。

 彼らの正面には二本の『張』の将旗が風に靡いている。

 張郃と張遼の部隊だった。

「おお、噂に聞く張遼の騎馬隊か。相手にとって不足なし」

 麹義は場違いな快活な笑みを浮かべた。

 麹義隊は沽水で厳綱の騎馬隊を相手にしたときのようにはいかなかった。

 張郃が堅く組まれた陣形に対して、騎馬隊が思うように損害を与えられないことを知っていたからだ。損害を与えるなら、歩兵部隊の援護が必要である。

 密集した麹義隊に矢が降り注ぐ。張郃隊のものだった。

 麹義隊は密集し堅く組まれた故に機動力はなく、また地形的有利もない。良い的だった。反撃も張郃隊より兵数が少ないため効果が挙げられない。

 だが、麹義隊は崩れなかった。

 どんなに陣形が小さくなろうが兵たちは逃げ出すことはなく、抵抗し続けた。

 張郃にしろ、張遼にしても敵ながらと尊敬したが、悲しいことに抵抗力は低下していた。

 張郃は横隊による歩兵突撃を敢行した。

 陣形を崩さないような早歩き程度の速歩であったが、数の差は絶対的なものであった。

 麹義隊はそれを正面から受けた。

 怒号と悲鳴が交差し、血飛沫が舞った。

 麹義隊の皆が張郃隊を止めるのに全力になった結果、側面が無防備になる。

 そこへ張遼隊が突っ込んだ。

 それで終わりだった。

 陣形は崩れ、隊長の麹義も戦死した。

 張遼隊は、その勢いのまま麹義隊の近くの部隊へと襲い掛かった。

 

 

 袁紹軍の中で最も不運だったのは審配の部隊だった。

 彼らは『雷』の旗を掲げる部隊と弓矢で応酬し合った。

 しばらくすると、その部隊の中からガラの悪そうな男が押し出て来て、耳をつんざくばかりの大声を上げた。

「おい! おめぇら! おめぇらの大将は逃げちまったんだろう!? なら、これ以上、抵抗しても無駄だろうが! とっとと降伏しろ!」

 乱暴な言葉使いだった。

 しかし、審配部隊の兵たちには、これ以上ないくらい魅力的なものに感じられた。

 彼らは死にたくなかった。

「悪いようにはしねーからよ! 逃げた主君に義理立てしても、しょうがねぇーって!」

 兵たちは攻撃の手を止めた。中には持っていた弓や槍を捨てた者さえいる。

 兵、下士官、将校、誰もが審配が降伏すると言うのを待っていた。

 審配がすぐにそう言えなかったのは、羞恥心が邪魔をしたからだった。

 ここですぐに降伏してしまったら、これからの人生で自分は笑いものにされるのではないか。そう考えると何も言えなかったのだ。

 彼は意味もなく自分の足元を見つめた。

 そこには当然、何もない。

 次に空を見上げた。

 曇っていた。僅かに陽の暖かさを感じた。だが、何の意味もない。

 最後に、兵たちを見た。

 皆が自分に怨嗟の視線を向けていた。

 審配は慌てた。

 そこに、もう一度、向かい合った敵部隊から品のない大声が響いた。

「おめーらは良く()ったよ! 伯業様にもそう言ってやっから、あっ」

 声は途中で途切れた。

 そして、兵たちは突如、首を左の方へと向けていた。審配もそれに倣う。

 移動した視線の先には『張』の旗を掲げ、疾駆してくる騎馬隊があった。

「あーーあーーあーー! こりゃもうダメだ! おい、こっちも攻撃だ!」

 再び、向かい合う部隊から矢が飛んできた。

 審配隊には抵抗する気力は残されていなかった。

 審配は敵の隊長を恨んだ。

 確かに、一度、乱戦になった部隊を止めるのには並大抵じゃない労力が必要なことは分かっている。味方にまで余計な被害が及ぶことは珍しくない。だけど、投降を呼びかけたのなら、最後までやり通して欲しいと思った。

 兵たちは審配を恨んだ。

 審配が早く投降の旨を口にしていれば自分たちは助かった。自分たちは彼に殺されたと思った。

 審配隊は壊滅した。

 審配は馬に踏み潰され死んだ。兵の多くは易水に叩き落とされ溺死した。

 最後まで抗った部隊も早くに諦めた部隊も結局は碌な目に合わなかった。

 

 

 反対に袁紹軍の中で最も幸運だったのは辛毗の部隊だった。

 辛毗は部隊を指揮して、『高』の旗を掲げる部隊の攻撃を耐えた。

 彼女はその部隊の隊長を知っていた。

 かつて袁紹軍にいた高覧である。

 彼の手堅い用兵には一目置いていた。

 そして、その用兵術はさらに磨きが掛けられていた。

 高覧隊は統制の取れた恐ろしい圧力で、辛毗隊を河へと突き落とそうとしてくる。

 反撃の機会を見つけようにも、そんな隙はどこにもなかった。

 後ろの河が近くなる。

 それを確認したとき、辛毗は易水に浮かぶ小舟を発見した。主の袁紹が逃げるために使用しているものだった。

 小舟はもう豆粒くらいの小ささだった。

 主はもう逃げ切れる。これから先のことは分からないが、少なくとも易水で捕らえられることはない。

 袁紹に対しての自分の役目は終わったと辛毗は思った。

「降伏する!」

 毅然とした声で辛毗は言った。

「抵抗をするな! 武器を捨てよ!」

 なら、最後まで付き従ってきた兵たちに対しての責任を果たすべきだと思った。無駄死にはさせない。

 しばらくして、高覧隊からの攻撃は止んだ。

 辛毗は部下に自分の首に縄を掛けさせ、さらに後ろ手に縛って、高覧隊の前へ歩み出た。

 それをかつて見た顔―――高覧が直々に向かい出た。

「降伏を受け入れて下さり、感謝します」

 辛毗は言った。その声のどこにも敗者であることを示す響きはなかった。

「貴殿の決断に敬意を表します」

 高覧が堅い声で応じた。

 辛毗は易水で生き残った、ただひとりの袁紹軍の軍師であった。

 

 

 そして、袁紹軍の中で最も袁遺を憎んで死んだのは郭図だった。

 雛里は攻撃を袁紹軍の右翼に集中させた。

 彼女の狙いは単純だった。右翼に意識と戦力を集中させた後に、左翼を襲う。ただそれだけである。

 しかし、雛里の目論みは外れることになる。

 右翼への攻撃だけで袁紹軍は壊乱状態になったからだ。

 これには袁遺も呆気にとられた。

 雛里は作戦を変更して、左翼を突く予定であった陳蘭隊を予備兵力として温存、同じく呂布隊を袁紹軍の中央へと投入した。

 呂布隊の突撃はダメ押しの一撃となった。

 易水に取り残された袁紹軍は消え去った。

 残ったのは軍とは言えない、統制を失った烏合の衆だった。

 沮授は混乱の最中に兵に討ち取られた。

 そして、最後に残った郭図は呂布隊の突撃、その圧力によって河へと叩き落とされた。

 同じ様に叩き落とされた兵や下士官、将は大勢いた。

 郭図は足掻いた。

 手足を動かし、水面に顔を出す。

 その顔は憎悪で歪んでいた。

 絶対に袁遺を殺す。

 こんな状況でも郭図は袁遺への憎悪を忘れていなかった。いや、むしろ、それを生きる糧としていた。

 そんな郭図に上流から何か大きなものが転がり流れてきた。

 それは彼と同じように易水に叩き落とされ、溺死した馬の屍だった。だが、郭図はそれを理解できずに、馬であったものとぶつかり揉まれながら、易水の流れに飲み込まれた。

 身体が回転する。息ができない。水を大量に飲んだ。

 それでも、それでも彼は思った。

 殺す! 絶対に殺す! 袁遺を殺す!

 郭図は自分が生きているのか死んでいるのかさえも分からなかった。

 ただ、袁遺を憎んだ。心臓が動く限り、袁遺を恨み続けた。

 死ね、袁伯業! 死ね! 死ね! 死ね!

 

 

 この易水で、袁紹軍の首脳部は壊滅したと言っても過言ではない。しかし、袁紹の悲劇は終わっていなかった。

 




 乙の章11~13の補足で、いつかアウステルリッツとライプツィヒからもパクるのでナポレオンとか欧州戦史に詳しい人はネタバレしないでくださいって書いてたけど、ライプツィヒからパクれたのは約一年四か月後だった。アウステルリッツをパクるのは何年後になるんだろう。
 丙の章は何とか三が日が終わるくらいまでには完結させたい。
 
 いつものように、不正確さの塊のような地図を作りました。あくまでイメージの参考にして、これが全面的に正しいなんて思わないでください。
 また、この話のネタバレが含まれています。まだ本文を読まれていない方はご注意ください。

【挿絵表示】


補足

・韓信が魏豹相手や、かの有名な背水の陣でそれを行っている。
 魏豹のは前にも書いたが、韓信は大量の船を囮として河に並べ、その上流で桶を筏として河を渡って、主力のいない首都を攻撃し、魏を征服した。
 背水の陣も趙軍は河を背にした漢軍を殲滅の好機と考え、城の兵総出で出陣したが、逃げ道のない漢の兵が必死で戦い、攻めあぐねたので、退却したところ、漢の別働隊に空になった城を奪われていた。
 この話で参考にしたナポレオン戦争の諸国民の戦いでも、ナポレオンが敵を追撃している最中に別の部隊がパリを陥落させている。
 このパリを防衛していたマルモンはナポレオンと長い付き合いで、ナポレオンの手によって公爵にしてもらったのに、パリで降伏して裏切ったため、ナポレオンを激怒させた。まあ、部下が裏切ったから、マルモン自身も裏切らざる得なかったという面もあるが。

・ライヘンバッハ・プラン
 本編でも書いたが、ナポレオン本軍との直接戦闘を避けることを根幹においた戦略。
 プロイセンのグナイゼナウ、元大陸軍でスウェーデン王太子のベルナドット、オーストリアのヨーゼフ・ラデツキーの誰かが立てた作戦だと言われている。
 ナポレオンに攻撃された軍は後退するが、他の軍はそのナポレオンの背後連絡線へ向かって攻撃するため、ナポレオンは敵の追撃を取り止め、自身で後方連絡線を守るか部下を派遣しなければならないが、部下はだいたい負ける。
 ロシア遠征でベテランの兵や下士官、将校を大量に失った大陸軍にはかつての力がなかったのである。
 まあ、それでも勝つナポレオン本隊は本当におかしい。
 三日で150キロを行軍して敵を撃破した後に、また移動して別の敵を撃破するとか。後退に遅れた敵軍をたった一度の会戦で、その三分の一を撃破するとか。本当に戦場では軍神と表現するしかない。
 そんなのとまともに戦うな、という話ですよ。

 易水については次回に解説します。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。