異・英雄記   作:うな串

30 / 45
年末年始の予定が変わったので、少し早く投稿します。次の投稿日は未定です。
甲の章~丙の章の誤字脱字の改訂作業も行わないとな。


丁の章
1~2


 手の内にあった一掴みの麦は、もうすでに手の平に張り付いた、いくつかの粒でしかなかった。

 洛陽の一角のこじんまりとしているが、よく手入れされている家、その家主である司馬仲達は一本しかない庭の木に背を預け、その陰の中にいた。

 彼と同じ木陰の中には竹で組まれた長椅子の上に何冊もの本が開かれ、陰干しされている。

 仲達の目線は少し前の地面に撒かれた麦を啄む雀に注がれていた。

 心地よい風が司馬懿の頬を撫でた。枝が揺れる。影も揺れる。

 幽州を制圧し、洛陽へと戻った司馬懿を袁遺は労い、数日ゆっくり休むように言った。

 司馬懿はその休日で本を干すことにした。久々に家へと帰り、何ともなしに手に取った書物に黴が生えていたからだ。

 司馬懿は本を陰干しながら、その近くに麦を一掴み持って、腰を下ろした。そして、それをときたま地面に撒きながら、寄ってくる小鳥を眺めていた。

 ふと、司馬懿は自分に近づいてくる気配を感じた。その方向に首を向ける。

 そこにいたのは整った顔立ちの陽光の様な金の髪を持った女性―――司馬懿の妻の張春華だった。

「子供っぽいことをなされてますね、旦那様」

 張春華が優し気な声で言った。

 司馬懿はそれに、視線を鳥の方に戻して答えた。

「こうでもしないと忘れてしまいそうだからね」

「何をです?」

「見なさい。君が寄って来たというのに、雀は逃げずに未だに麦を啄んでいる。普段ならすぐに飛び立つが、こうやって麦を啄んでいても無事だったから慣れてしまったんだ」

 司馬懿はさらに残りの麦を地面にばら撒く。ほんの僅かの麦であったが、それでも雀はすぐにそれに飛びついた。

「食べるのに夢中だ」

「人は欲のために死に、鳥は餌のために死ぬ、ですか?」

 張春華は中国の古いことわざを口にした。

 聡い妻はすぐに夫の言いたいことに気が付いた。司馬懿は雀を通して、自分自身を見ようとしていた。

「またすぐに、私は洛陽を離れることになると思う」

 司馬懿は言った。

「伯業様は袁紹を討伐したが、恩賞は与えられなかった。罪を雪ぐという面があるから仕方がないが、主が恩賞を与えられなかったのに、私が受け取るわけにはいかない。色々とやることになる」

「ですが、使用人を雇う分くらいはもらってきてください」

 春華が言った。

「どうかしたか?」

 司馬懿は妻へと顔を向けた。

 現在、夫妻は老婆の使用人をひとり雇っている。春華も家事は行うし、生活は慎ましかった。ひとりで十分であった。

「子が、できました」

 それを聞いて、司馬懿は弾かれた様に立ち上がった。

 長椅子にぶつかって、それが倒れ、本が地面に散乱する。

 それに雀が驚き、飛び立ち逃げていく。

 だが、仲達はそんなことを気にも留めない。

 ただ、妻を強く抱きしめた。

 そして、ふと、あの夜を思い出した。冀州侵攻の前に別れを覚悟しての、秘めやかで深い交わりだった。

 春華も夫の背中に腕を回す。

「大丈夫だ……」

 司馬懿は何かに言い聞かせるように呟いた。

 

 

異・英雄記

丁の章

 

 

1 言葉よりもなお響いて

 

 

 天下は怪物となりつつある男の不可解な沈黙に怯えていた。

 袁遺が冀州で袁紹を討伐していたとき、南では孫策が袁術から寿春を奪っていた。

 張勲は袁遺が冀州で袁紹と雌雄を決すると聞いて、これを絶好の機会だと捉えた。

 彼女は袁遺の元に呂布や張遼、張郃、曹操旗下の夏候惇や夏侯淵、さらに涼州の馬超といった勇将、猛将が揃っているとはいえ、敵地に進攻して袁紹とぶつかれば、大きな損害が出ると思ったのだった。

 だから、兵を集めて、さらなる領地の拡大を考えた。

 冀州の奥深く、下手をすれば幽州まで袁紹が抗戦すれば時間の経過は袁術と張勲の味方になるのは間違いなかった。

 そして、袁遺ではなく袁紹が勝ってもいい。

 徐州と豫州を切り取りさえすれば、傷付いた勝者には十分に対抗できる。

 しかし、その集めた兵は孫策がすでに懐柔した者たちだった。

 寿春の城は孫策の息のかかった者たちに占拠された。

 袁術と張勲は全てを捨てて逃げ出した。後に、孫策が意図的に逃したという噂も流れたが、その真偽は不明だった。

 そして、孫策は張勲が呼んでいた他の兵のうち、従わない者を討ち、従う者を吸収した。

 孫策は悲願の独立を果たしたのだった。

 だが、ここで孫策、そして張勲にとって大きな誤算があった。

 冀州では戦わずに土地を侵食していくという戦略が展開されていたのだ。袁遺軍の損害はないに等しかった。さらには呂布隊が南下を開始した。

 孫策というより、周瑜の予定ではすぐに長江を渡り、江南の地を平定するはずであったが、急遽それを中止して防衛を固めた。

 張勲も周瑜も袁遺を過小評価していたと責めるのは酷であろう。袁遺という存在が異質だった。

 呂布隊は豫州汝南郡平輿県に駐屯した。

 さらに後方では袁遺の本軍と馬超軍も黄河を渡河中であり、曹操軍も鄴の城まで来ているという情報が孫策の元に入ってきた。

 この時点で四海の多くの人が思った。

 孫策はすぐに討伐されるだろうと。蛮勇に頼り、まったく焦った蜂起を行ったと。

 だがしかし、多くの者の予想を裏切り、袁遺は軍を退いた。

 呂布隊と陳蘭隊を司隷河南伊中牟県に残して、他は洛陽へと帰還した。また、馬超と馬岱は涼州へと帰っていった。

 その後、司馬懿が幽州より帰還し、今度こそ孫策を討伐すると思われたが、袁遺はまったく動かなかった。

 

 

「本初の埋葬は無事に終わった」

 重厚な声である。

 それを発した男はその声の主に相応しい人物だった。

 白いものが混じる金の髪を撫でつけ、隙なく佇む。目には意志と理性、そして知性を宿した光がある。その目元の皺は老いではなく、威厳を他者に感じさせた。

 太傅の袁隗である。

「ありがとうございます、叔父上」

 その袁隗と向かい合う青年が言った。

 青年は特徴的な目の持ち主だった。

 瞳が小さい三白眼で、その小さな瞳は無機質な小石を想起させた。砂に帰るまでを荒涼とした大地で砂塵のみを友として過ごす様な小石を、である。

 青年は袁遺。漢の後将軍、洛陽の令。そして、自分の従妹を破滅させた男だった。

「逆賊の墓だ。掘り起こされ、辱められる可能性がある。故に、場所は極一部の人間しか知らない」

 中華に死ねば仏という価値観はない。

 中華史上最高の英雄と評される岳飛を謀殺した秦檜の例を見るように、死後も罪は許されない。

「所在がバレぬように、お前もその墓に近づくことを禁じる。いいな?」

「はい。彼女も私には来て欲しくないでしょう。生涯、近付きません」

 袁遺は頷いた。

 袁遺にとって袁紹はもはや過去のことだった。

 そして、彼には過去に構っている余裕などなかった。

「まあ、本初のことはどうでもいい。陛下もすっかり、お忘れになられた。今は孫策だ」

 袁遺、いや、漢帝国には西で孫策という新たな敵が出現した。

「それについてはお時間を戴けますか?」

 袁遺は常日頃の無表情な顔で言う。

「間違っても陛下が孫策討伐の勅命を下さないようにして、まず孫策とは話し合いで、落としどころを探ってください」

 謂わば、外交チャンネルを開けということだった。

「公路の旧臣で、そのまま孫策の幕下に入った者とは接触した」

 袁隗が答えた。

 そして、そのまま袁遺の無表情な顔を探るように見つめた。

 別に袁遺は不機嫌なわけではない。自然と感情の薄い顔になるのだった。

「どうかしました?」

 袁遺が尋ねた。

「…………いや、お前はわしを責めることができるぞ」

 袁隗が言った。

 袁隗は内外の諜報を担当している。彼の間諜には江湖でも名を馳せた凄腕が揃っていた。

 それでも今回、張勲と孫策に出し抜かれた。

「責めません。そもそも叔父上の手の者の多くは袁紹の冀州に集中していました。全土を見張るには、中華は広すぎます」

 事実である。

 反董卓連合のときは基本的に洛陽で防諜に多くの人員を割いたが、今回は冀州に多くの人員を割いていた。

 もし袁紹ではなく、袁術に多くの人員を割いていたら、袁隗たちは張勲と孫策の謀略に気付いていただろう。

 優先順位の問題だった。

 更に言うなら、張勲は謀略という点では有能であった。

 そして、孫策の将の周泰が陰からそれを手助けしていた。

 周泰は連合に参加した諸侯の中で唯一、主の元に洛陽の情報を届けた細作でもある。

 少ない人員では厳しかった。

「それで、本当に次は孫策ではなく、曹操の方に人員を集中するのか?」

 袁隗が尋ねた。

「ええ、お願いします」

 袁遺は小石の様な瞳をより一層、無機質にして答えた。

 四海の多くの人が思った疑問―――何故、袁遺は孫策を攻めなかったか。その答えはそこにあった。

 確かに、彼は冀州で袁紹相手に芸術的と評してもいいような勝利を手に入れたが、その成果を全てが自分の戦略によってもたらされたものだと欠片も思ってはいなかった。

 あの勝利は外交や諜報、そして、将兵と参謀の献身がなければ、達成できなかったと信じていた。

 だから、袁遺は冷静だった。

 あのとき、南皮から強行軍で黄河を渡った。そんな状況で自軍より精強な孫策軍に勝つのは苦労すると思った。

 もちろん作戦はあった。

 袁紹相手にやったように大軍の利を活かして戦闘を避け、寿春に孫策軍を押し込んでやればいい。

 まだ独立して日も浅い孫策は、城内をまとめ切れていない。裏切りが必ず起きて、落城は目に見えていた。

 だが、袁遺はそれができなかった。

 彼が恐れたのは、曹操がそのタイミングで自軍の背後を突くことだった。

 俺はあまりにも綺麗に勝ち過ぎた。袁遺は思う。

 半数以上の兵を死傷させた反董卓連合のときとは違い、今回は戦闘自体を徹底的に避けたため死傷者は殆んどでなかった。そのうえで土地を全て占領し、敵軍を壊滅させた完璧な勝利だった。

 それに多くの人は畏怖を抱いた。

 確かに、恐れられるほど強い力は争いを抑止する。

 しかし同時に、恐怖は争いを生む。

 古代アテネの歴史家で、ペロポネソス戦争に将軍として参加した経験を綴った『戦史』の著者のトゥキディデスは、その著書の中で戦争が起こる原因を挙げた。

 それが経済的利益、相手への恐怖、戦争に名誉を求める、この三つの内のどれか、もしくは全てである。

 曹操が袁遺を脅威と思ったなら、勝利の機会を絶対に逃さないという確信が袁遺にはあった。

 袁紹が消え去った今、曹操が野心を捨てぬ限り、袁遺という存在は曹操の拡張において障害でしかない。

 仕方がないが、外交上の関係などそんなものだ。

 散々述べたことだが、両者の利益が大事であり、一方が得をするゼロサムゲームや誰も得をしないマイナスサムゲームのなったとき、両者は争うようになる。

 その点で言えば、袁遺からしても曹操は利益を生み出す存在ではなくなった。

 袁紹の盾としての役割を終えた曹操の強大な軍事力は危険でしかない。その力を削る必要があった。

「今の孫策を討てと言われれば、二か月の準備期間を頂ければ討てます。しかし、背後を曹操に突かれたら、間違いなく負けます」

 袁遺が地図を広げて言った。

 曹操は、あの華やかな南皮ではなく、鄴で政務を行っている。

 兗州と連絡が取りやすいからとしているが、袁遺はすぐに黄河を越えるためだと考えていた。

「曹操は表面上こちらに恭順の意を示しているのだろう。なら、曹操を先鋒に孫策を攻めればいいのではないか?」

 袁隗が地図を見ながら尋ねた。

「それも恐ろしいのです」

 袁遺が切り捨てた。

「曹操と孫策が手を結んだ場合、豫州で合流され、そこで決戦を強いられる。まともな正面決戦では曹操軍に勝てません。少なくとも彼我の兵数が三倍以上なら、やってみる価値もありますが……そんな動員はできません」

 袁遺と曹操の両者は、冀州遠征を終えても、兵の数を増やすのをやめなかった。

 袁遺は孫策討伐のためと、降ってきた張燕の麾下の黒山軍を関中の地に移住させた。そして、兵士の適性があった者には訓練を、その適性がないと思われた者には屯田を行わせている。

 対して、曹操は領地になったばかりの冀州を安定させるには抑止力となる軍が必要で、広大な冀州には今の兵数では足らないと、元青州黄巾党の中から兵を募っている。

 やや余談になるが、曹操は諸侯の従来のやり方である名士の部曲を取り込むという方法を行わなかった。

 彼女はそれが袁遺には通じないと先の冀州征伐で学習した。

 そういった名士との関係を考えた外交や工作をさせれば、袁遺は仙術の様な手練手管を繰り広げてくる。仙術には対抗できない。

 そのため、自分だけの私兵と成り得る兵を元黄巾賊に求めた。

 それは史実でもそうである。

 もちろん、手に入れたばかりの冀州で大規模な徴兵をできないという他の要因もあるが、その結果、豊かで人口の多い冀州を手に入れた割には兵の数は増えていなかった。

 袁遺と曹操、双方の兵力は約一〇万ずつと拮抗していた。

「だが、反董卓連合のときのように、曹操や孫策をこちらに引き込んで、時間を稼いで追い返すなんて真似も無理だぞ」

「分かってます」

 黄巾の乱、反董卓連合と、漢帝国の柔らかな下腹と言える司隷東部は大きな打撃を受けた。

 その傷が癒えつつある中で、もう一度そこに戦火が広がれば、漢帝国の財政は崩壊する。

 というのも、現在の帝国の経済は南に依存しつつある状況だった。

 反董卓連合の戦いの被害が比較的少ない荊州や揚州からの税や物流は漢帝国にとって欠かすことのできないものだった。

 それなのに、孫策の独立によって揚州からの税が途絶え、戦争を恐れて人や物の流れが滞っている。そんな状況で、荊州からの物流にも支障をきたすことは致命的だった。

 しかし、それは曹操も同じである。

 やはり彼女にしても揚州からの物流が止まったのは痛手であった。

 また、反董卓連合、青州黄巾党の南下、そして袁紹の侵略に備えることで兗州は疲弊していたし、さらに(被害自体は少ないが、両軍合わせて約二〇万の軍が動き回ったため疲弊した)冀州の立て直しには兗州で儲けた財を投入している。

 司隷東部が戦場になった場合、そこに隣接している陳留郡は反董卓連合のときのように軍が駐屯する。

 となると、やはり、経済が止まる。

「何夔が計算しました。七〇日以上、司隷東部近辺が戦場になれば、ふたつの組織を財政破綻させた莫迦がふたり生まれることになります」

 袁遺は書簡を差し出した。

「彼女の置き土産です」

 何夔はこの仕事を最後に、青州の東莱郡に太守として赴任した。彼女は袁遺にとって唯一の有能な従妹であった。

「……頭が痛い話だな」

 袁隗は書簡を片手に、苦い表情をした。

「それに曹操を打倒するにしても大義名分がありません」

 確かに、曹操は邪魔になった。利益も生み出さない。

 だからといって、それを攻め滅ぼせば、袁遺、ひいては漢王朝の声望が地に落ちる。

 袁遺は天下の皆が袁遺流の誠実さを理解しているとは思わなかった。だからこそ、袁遺は反董卓連合や冀州で勝利を挙げることができた。

 間違いなく四海の人々は袁遺の横暴と捉えるだろう。それは徳を失う。

「そっちは何かあったんだろう?」

「はい。司馬懿が言うには青州黄巾党の降り方が怪しい、と。それを調べる人員も出していただけませんか?」

 袁紹という強大な敵がいたときは、袁遺はそれに目を瞑ったが、袁紹が消えた今、曹操打倒に利用できるカードとして使おうとしていた。

「分かった」

 袁隗が重厚に頷いた。

「それと荊州牧の動きも。孫策という敵が出現したのです。こちらとの距離を縮めようとします」

「敵の敵は味方というやつか」

 袁遺の言葉に袁隗が間髪入れずに反応した。外交の基本である。袁隗くらいになれば、すぐに察する。

「はい、そうです。その対応は名士に顔の利く太傅がお願いします」

「それも分かったが、曹操や孫策が先に攻めて来た場合はどうする?」

 袁隗が尋ねた。

 現在、漢帝国が展開している軍は首都洛陽の防衛戦力と中牟県の呂布と陳蘭の部隊だけである。あとは軍とは言えない治安維持のための警察組織と并州から降伏して来た張燕の元黒山軍を新兵として訓練しているくらいであった。

 今、曹操と孫策のどちらかに先制奇襲された場合、危険なことは軍事畑ではない袁隗にも分かることだった。

「大戦が終わったばかりで将も兵も疲れていますし、五万、一〇万の軍を即時展開できる状態を維持し続ける費用もありません。ですから、七〇日以内に決着をつけます」

 戦時の国家と軍、その首脳部にとって将兵をいかに休息させるかという問題は常に重大なものだった。この問題を軽視した国家は自分の死刑執行書にサインしているのと同じことだった。

 そのことは袁隗にも理解できたが、問題はそうではなかった。

「……その方法を聞いているんだが」

 袁遺はその言葉に困惑の色を僅かに浮かべて返した。

「具体的なものは相手が攻めてこなければ言えませんし、その……叔父上に戦略目的を説明したところで……」

「わしには理解できん、と」

 袁遺は慌てた。

「ああ、いえ、おそらく叔父上だけでなく、司空や賈駆殿も。もしかしたら、鳳統も私の意図を察することはできないと思います」

「……どういうことだ」

「今は言えません。まずは秘することが第一です」

 袁遺は言葉を選びながら続けた。

「ともかく、相手を少しでも疑心暗鬼にしておきたいんです。孫策との外交もそのひとつです」

「……わかった。お前に任せる」

 袁隗は退き下がった。

 これで会談は終わりだった。

「では、自分は将軍府に。やることがありますので」

 そう言って袁遺は立ち上がり、拱手した。

 袁遺は将軍府へと歩み出したが、突如、立ち止まり、口を開いた。

「そう言えば、公路殿の所在は分かりましたか?」

「いや、まだ不明だ」

「……そうですか」

 そして、今度こそ袁遺は出ていった。

 周りに人がいないことを確認した袁遺は、ポツリと呟いた。

「やけに簡単に退いたと思ったら、そういうことか。こっちが退いたから、そっちも退けよ、か」

 袁遺は自虐的に口元を歪ませた。

「まあいいか。いくら俺でも、ふたりとも殺したくないからな」

 

 

 曹操―――華琳が撤退する袁遺軍を見たとき、その矜持が酷く傷付けられた。

 彼女は袁遺が退いた理由を瞬時に理解した。

 伯業は私が背後を突くことを警戒した。

 華琳は袁遺に心の内を見透かされたような気がした。

 彼女は軍を鄴まで移動させたが、ずっと自分を誤魔化していた。

 この移動は万が一にも兗州に戦火が及んだとき、自分が手塩に掛けて治めてきた領地を守るためだと。

 だけど、分かっていた。自分自身にも気付かれないように静かに息を殺して、袁遺軍を壊滅させる絶好の機会を待っている自分がいることを。

 思い返してみれば、華琳は間違いなく袁遺軍を後ろから奇襲しようとしていた。

 何故か? 今の袁遺に勝つにはそれ以外の手がないと思ったからだ。

 そして、袁遺軍の撤退を見たとき、思った。読まれた、もしかしたら伯業には勝てないの、と思ってしまった。

 そんなことを考えた自分が許せなかった。

 曹孟徳は勝たなければいけない。何者にも負けてはいけない。何故なら、それが曹孟徳だからだ。

 その執念にも似た気概は、彼女の軍師たちにも伝播していた。

 華琳が冀州の鄴に移ってから、荀彧が州牧として兗州を統治することになった。

 華琳に敬愛以上の感情を抱いている荀彧からすれば、主と離れ離れになることはこの世の終わりの如きことだった。

 だが、華琳に兗州を任せられるのはあなたしかいない、と言われ、さらに当分は鄴と陳留と洛陽を行き来きすることになるからと説得されて、涙を流しながら、州牧の地位に就いた。

 その兗州陳留の城に華琳と三人の軍師―――荀彧、郭嘉、程昱―――が集まっていた。

 華琳は洛陽からの帰り道に陳留へと立ち寄り、軍師たちを集めて大きく変化しつつある状況について話し合った。

「それで桂花。孫策の動きは?」

 曹操が桂花―――荀彧に尋ねた。

 彼女は地図を指差しながら、答える。

「孫策は現在、九江郡を支配下においたっきり、防備を固めるだけで動こうとしません。おそらくは袁遺の東進を恐れて、他の郡への侵攻ができないと考えられます」

 荀彧の言う通り孫策陣営の頭には、袁遺が考えられない速度で洛陽から徐州まで軍を展開してみせた記憶があった。

 単純な直線距離では寿春は徐州より近い。下手に遠征に出て、その間に袁遺軍が素早くやって来たら、一気に寿春は陥落する。

「そのことで、孫策さんが秘密裏にこちらと接触してきました~」

 そう言ったのは程昱だった。

「それで、孫策はなんて言っているのかしら?」

 華琳が尋ねた。

「このままでは袁遺によって曹殿も滅ぼされる。今は手を組み、天下を二分しようと」

「はっ、同盟という点では伯業の方が孫策より上ね」

 華琳はそれを笑い飛ばした。

「細かい条件はこれから詰めていくとしても、揉めるのが目に見えている。それでは、こちらの利益を何も提示していないと同じじゃない」

 そして、吐き捨てた。

 仮に袁遺を打倒せたとしても、曹操陣営と孫策陣営が揉めるのは明々白々だった。

 華琳の故郷の沛の譙と寿春はあまりにも近過ぎた。

 緩衝地帯が殆んどない、その距離は彼女にとっては絶対に許容できないものだった。

 もし曹操と孫策が戦い、譙が戦火に包まれた場合、彼女の故郷での評価は落ちる。故郷での評価の落ちることの面倒さは袁紹を思い出せばよかった。彼女はそうなるように仕向けた従兄の手によって、泉下へと送られた。

 譙の守りを考えれば居巣、どんなに考えても合肥までは抑えておきたかった。

 袁遺が冀州を丸ごと譲ったような大胆な譲歩を行う余裕が、孫策陣営にはないという切実な事情があった。

 しかし、華琳とその軍師たちは袁遺と対決するという予想には同感であった。

 かつては董卓・袁隗と袁紹という強大な敵に挟まれた結果、その片方と手を結んだのである。

 だが、袁紹が滅びた今、いつまでも手を取り合ってという気など、華琳にはさらさらなかった。

「問題は単独で袁遺相手に勝てるかだけど、それについてはどうかしら?」

 華琳は挑発的な視線を、自分の軍師たちに送った。

「勝算だけで言えば、十分にあります」

 答えたのは郭嘉だった。

「しかし、問題はそれ以外です」

 そして、書簡を華琳に差し出し、続けた。

「反董卓連合の戦場になった辺りの疲弊が大きく、我々の戦いが長引けば物の流れが止まり、商人は潰れ、庶人は日々の生活さえもままなくなります」

 曹操陣営もまた、袁遺と同じ結論に辿り着いていた。

「戦場で袁遺軍を壊滅、もしくは降伏させて勝利する場合は七〇日以内、洛陽を陥落させて勝利する場合は五〇日以内で達成しなければ、勝っても華琳様が手に入れるのは空っぽになった国庫と荒廃した土地だけです」

 華琳は書簡に目を通す。

 そこに書かれた予想には説得力があった。

「それは伯業も同じでしょう」

「そうです。となると、お互いの採るべき手は、たった一度の会戦で全てを決する大決戦ですが、それだと袁遺に勝ち目はありません。百度やれば百度、我々が勝ちます」

 郭嘉のそれは慢心ではなかった。

 お互いに限られた場所に兵力を集中して殴り合う戦い―――決戦では袁遺は曹操に何をどうしようと勝てない。兵の精強さが違う。

 それは袁遺も認めるところだった。彼の軍師たちもそれを認めるだろう。

「それなら絶対に伯業は決戦を望まない」

 曹操が言った。

 郭嘉はそれを肯首する。

 持てる戦力を一ヶ所に集中して、一度の会戦で全てを決する決戦は双方がそれを望まない限り、余程の手違いを犯さない限りは決して実現はしない。

 決戦に引きずり出せば、必ず勝てる。

 しかし、袁遺は勝てないなら戦わない。その基本を突き詰めたのが、あの冀州遠征での戦略であり、勝利だった。

 そんな男を如何に決戦に引きずり出すかだった。

「ですが袁遺は、例えば反董卓連合のときのように我々の先鋒を各個撃破し続け進軍を停止させ、時間を稼いで我々が撤退するのを待つこともできません」

「その前に、袁遺側の蔵の金がなくなる。そして、私も寒貧になるわね」

「華琳様と袁遺さんだけじゃなく、漢帝国もそうですよ」

 程昱が言った。

 華琳は柔らかく笑い。そうね、と相槌を打った。

 だが、すぐに表情を引き締め、地図を睨むように見つめた。

 伯業なら、どうする……

「華琳様、こういう策ではないでしょうか?」

 口を開いたのは荀彧だった。

「袁遺が我々の足を止めている間に、別働隊が洛陽から水路で河内郡を通って、こちらの背後に出る。冀州は幽州の異民族を動かして牽制しておき、その間に并州の兵も加えて一気に兗州を落とす」

 敵の主力を足止めしている間に別働隊で敵の本拠地を落とす、といったことは古来より軍学の基本である。事実、袁遺はその応用を冀州で見せた。

「壮大な策ね」

 華琳は言った。

「壮大過ぎるわ。伯業はそんな策を採らない」

 しかし、彼女は切り捨てた。

「伯業は発想に奇抜な部分があるものの、作戦自体は恐ろしく単純化されたものよ」

 華琳は友人で、今や最大の敵となった男を深く理解していた。

 袁伯業という男は問題は原則化できるほど単純化して考え、解決を図る。

「では、華琳様。こちらも単純化して、機先を制しますか?」

 郭嘉が言った。

 華琳はすぐに、その意図を察した。

 戦争の要訣は先制にこそある。

 反董卓連合を思い返しても、酸棗で諸侯同士が駆け引きをして時間を浪費しなければ、その結果は変わっていたかもしれない。一か月という時間をドブに捨てても、袁遺軍に五〇パーセント以上の損害を与えたのだ。

 正面から戦えば間違いなく袁遺に勝てる。奇襲で準備が整わない袁遺を攻撃して、袁遺に何か策を弄する余裕を与えない。

 袁遺も漢帝国どころか曹操領も財政破綻させるわけにはいかない。

 何故なら、勝ったところで財政破綻した領地を立て直すのは勝者だからだ。少しでもマシな状況で兗州と冀州を手に入れたいところだった。

 だから、破綻する前に軍を揃えて曹操陣営の望む決戦に乗って来る。

 というより、華琳は心の中でそれしかないと思っていた。だが、同時に疑い、恐れている自分もいる。

 何故、伯業は先制奇襲の危険がある状況で、何もしてこないの?

 確かに、孫策という存在は厄介だ。財政破綻の危機もある。そして、袁遺ほどでもないが華琳も、奇襲的に彼女を撃滅した場合、天下が袁遺を非難することは理解している。

 しかし、それらのどれもが先制奇襲の危険性ほどではない。奇襲されれば袁遺は一気に崖っぷちまで立たされる。

 彼女が華やかな南皮で政務を行わず、鄴で行っている理由もそこにあった。

 もし、袁遺が先制奇襲に走った場合、南皮では対応に遅れ、兗州失陥の恐れがある。

 そうなれば統治して日の浅い華琳では、冀州で徹底抗戦を行うことはできない。敗北は必至だった。

 伯業も先制奇襲が最善の手のはず……それでも何故、動かないの? それとも、伯業には思い付けて、私には思いつけない策があるの?

「……まずは周りを固めるわ」

 華琳は内に抱いた恐れを振り払うように、軍師たちに指示を出した。

「風は孫策側との交渉を続けなさい。向こうは二大勢力を上手く操ろうとしているわ。そのことを逆手に取ってやりなさい」

「御意」

 風―――程昱は答えた。

 難しい交渉であったが、手はいくつかあった。

 確かに孫策が占拠した寿春は華琳の故郷に近かったが、それ以上に袁遺の故郷にも近かった。いかな袁遺といえど、譲歩には限界がある。そこを誤れば、孫策は外交的孤立に追い込まれる。武器はそれだった。

「桂花は、このまま兗州を統治なさい。戦になれば陳留郡が兵站基地になるわよ」

「はっ」

 荀彧が拱手した。

「凛は、具体的な作戦を立てなさい。あなたの才が伯業に劣らないことを、この曹孟徳に示してみよ」

「はい」

 凛―――郭嘉は華琳の挑発的な言葉を真っ正面から受け止めた。

「私は并州と幽州の牽制を行うわ」

 そのための策は、すでに華琳の中にあった。

 そうだからこそ、華琳はあまり気の進まない権謀術策渦巻く都まで足を運んでいるのだった。

 曹操軍は静かに、しかし、素早く動き出した。

 このとき、華琳が戦争を決意した要因を、上記のトゥキディデスの三要素に求めれば、後ろふたつになる。

 袁遺の脅威を感じた。そして、だからこそ、彼女は名誉を求めた。

 袁遺に勝って、曹孟徳は曹孟徳であろうとしていた。

 

 

 周瑜は一七度目の敗北を味わい、親友の夢を台無しにした。

 夜半、寿春の一室で彼女は、地図と駒を使って机上演習を行っていた。

 状況は最悪より少しマシ程度、袁遺と曹操が轡を並べて揚州へと侵攻、その兵数は冀州侵攻で動員された一〇万を想定している。

 対して、孫策は二万。

 その二万は周瑜の頭の中の戦場で、幾度も蹂躙されている。

 周瑜はその美貌に厳しいものを走らせた。

 袁遺と曹操が兵の徴募と訓練を続けていることは、もうすでに入って来ている。現実にそれが起これば一〇万では済まない。倍の二〇万は間違いなく動員される。一〇万で負けていては話にならない。

「それに袁遺は四万で二〇万に勝っている」

 周瑜は呟いた。その声には苦悩の色があった。

 単純な戦力比は袁遺と同じである。それでも勝てないのはつまり、足りないのは兵力ではなく、それ以上に袁遺と自分の差ではないのか。

 彼女は思った。雪蓮の夢だけは潰させない。

 それは余りにも悲痛な心の叫びだった。

 そのためには絶対に袁遺と曹操が手を組むのは避けなければならない。

 彼女も袁遺と曹操の手切れが近いことは理解できた。

 まずは逆説的に考える。何をやれば袁遺と曹操は再び手を取り合うか?

 周瑜は地図のふたつの地点に目をやった。

 汝南と譙である。袁遺と曹操の故郷、ここを攻めたとき、ふたりは間違いなく再び手を組む。

 汝南が攻められれば、譙の危険度も跳ね上がり、その逆も然りだった。

 正史を知っている人からすれば、皮肉な話である。

 孫呉は幾度となく揚州を北上して合肥を攻めたが、その度に撃退された。

 しかし、今、孫策は合肥どころか寿春まで抑えている。

 だが、それ以上攻めようとすれば、破滅は必死だった。これでは寿春を抑えている優位が何も発揮できない。

 周瑜の視線は汝南と譙に注がれたままだった。

 袁遺はそれを狙っているのか?

 彼女の頭に疑惑が湧いてくる。

 現在、袁遺は不思議な沈黙を保っている。

 確かに兵の徴募や訓練を行っているが、展開している軍は中牟県に駐屯している呂布隊と陳蘭隊、それに洛陽の防衛部隊くらいだった。全軍が即座に動ける状態ではない。

 こちらが動くのを待っているのか?

 周瑜は疑心暗鬼の中にいた。

 あの戦場でただの一度も主導権を失ったことがない男が、敵に先制の隙を見せている。あからさまな誘いにしか思えなかった。

 こちらを攻撃に誘い出して、同じ朝臣ということを利用した袁曹の同盟を延長する気でいるのか?

 周瑜は袁遺の手が読めず、動くことができなかった。

 彼女は歯痒かった。

 長江の向こうの江南の地は現在、混沌としている。

 揚州牧の袁術が消え去ったことで、孫策派と袁隗・董卓派、それにどちらにも属さない独立を考えている派閥で争っている。

 さらに荊州からは劉表が、徐州からは張邈・張超姉妹が細作を送って宣伝工作や諜報活動を盛んに行っている。

 時間の経過は絶対に孫策にとって有利に働かない。

 それでも動けない。袁遺や曹操がどう動くか分からない状況で、二万の戦力を割いて江南へと渡るなど絶対にできない。

 今の状況は、親友であり主である孫策が袁術の客将をしていたときよりも歯痒かった。

 周瑜はやっと地図から顔を上げた。

 ふと、窓の外を見れば、そこには満月と満点の星空があった。

 周瑜はそれに誘われるように、窓を開けた。

 冷たい夜気を孕んだ風が彼女の頬を撫でたが、幾度となく重ねた想像上の敗北で茹だった頭には心地よかった。

 何とはなしに動かした視線が、城壁の上の人影を捉えた。

 その人影が誰のものか、周瑜はすぐに察した。

 その影の動きを絶対に見間違えることはなかった。

 主であり、親友である孫策だった。

 何をと思えば、足は自然と城壁へと向かっていた。

 

 

 孫策はただ何とはなしに星へと手を伸ばした。

 彼女がいるのは寿春の西の城壁の上だった。頭上には大きな満月と満点の星空が広がっている。

 幼い頃、彼女はその星を掴めると思った。

 だがしかし、星は決して掴めなかった。

 それと同じように天下も簡単に獲れると思った。三尺の剣一本と親友である周瑜さえいれば、自分の覇は天下を覆うと。

 そしてもちろん、天下は未だ獲れていない。

 それどころか、やっとの思いで袁術から独立できたかと思ったら、いきなり最大の危機に直面している。

「広いなぁ、天下は」

 孫策は言葉をこぼす様に言った。

 しかし、その声色には悲観的なものは一切含まれていなかった。

 それは彼女の生来の母譲りの強さと主君としての責任感がもたらしたものだった。

 孫策はふと、人が近づいてくる気配を感じた。

 すぐに、その正体を察した。その息遣いや足運びは彼女にとって半身といえる人物のものだった。

「こんな所にどうしたの? 冥琳」

「そっちこそ、こんな所で何をやっているのよ?」

 呆れたような声を孫策は返された。

「別に~ただ、天下は広いなぁって」

 その答えに周瑜は怪訝な顔をした。

 それに孫策は、くすくすと笑う。

「冥琳」

 だが、彼女はすぐにそれを切り替えた。

「袁遺と曹操がぶつかるのは間違いないのよね」

「ええ、すでに両者は互いが邪魔な存在としか思ってないわ」

 周瑜は断定し、続けた。

「袁遺からすれば曹操の強大な力は脅威でしかなく、曹操からすれば袁遺は自勢力の拡張の障害でしかないわ」

 それを聞いた孫策は頷き、尋ねる。

「じゃあさ、ふたりがぶつかった場合、どっちが勝ったら、私たちにとって得なの?」

「曹操ね」

 周瑜は即答した。

「今の漢帝国は袁遺、袁隗、董卓という三本の足を持った鼎で煮えたぎっている油の様なものよ。袁遺が勝った場合、曹操は油の中に放り込まれるだけだけど、曹操が勝った場合、その油は天下に撒き散らされるわ」

「つまり、纏まりつつあった天下が乱世に逆戻りってわけね。そうなったら、こっちも動きやすくなる」

「そうだ。そして何より、曹操はその油をかぶって大火傷してくれるかもしれない」

 その言葉に孫策は、それはいいわ、と明るい笑い声を上げた。

 だが、その笑いは自虐的な意味のものへと変わる。

「けど、それじゃあ、曹操と手を組めないわね」

 孫策の言葉に周瑜の眉が下がった。

「ええ、それは曹操と一緒に油をかぶりに行くようなものね。そして、自分たちだけに油がかからないように動けば、反董卓連合の二の舞になるわ。袁遺はそういった関係性の隙を見逃さない男よ」

 曹操と手を組んだ場合、お互いがお互いに損害を押し付け合うのが目に見えていた。

 そのことが原因で反董卓連合が解散したのは分かっている。

 しかし、曹操と孫策は妥協し合うには余裕がなかった。

 同盟が解消された後、殆んどの場合、関係が険悪なものになるのは歴史的によくあることだった。

 袁遺と曹操もその例のひとつになろうとしている。

「袁遺とは手を組めないかしら」

「……」

 周瑜は親友の言葉に固まった。

 

 

 このとき、周瑜の心は恐怖にも似た感情に支配されていた。

「無理よ」

 堅い言葉を周瑜は吐き出した。

 そして、捲し立てるように続けた。

「袁隗や袁遺の一族である袁術を追い落として独立したのよ。彼らが許すはずはない」

「けど、袁遺はそんなこと気にしないように思えるけどね」

「たとえそうだとしても、こちらに不利な条件をいくつも突き付けてくるわよ。蓮華様や小蓮様を人質に出すよう言ってくるかもしれないし、長江以北の地は絶対にこちらに渡さないわよ」

 周瑜の心を支配していた恐怖に似た感情の根源はふたつ。

 ひとつは袁遺と手を組めば、孫策の天下の芽は間違いなく絶たれるということだった。

 そして、もうひとつは、たとえ天下への野心を捨てた先にあるものも、やはり孫策にとって望んでいるものとは、まったく別の未来だという事実であった。

 正直なところ、周瑜は親友が今も天下に頑なに拘っていないことを薄々気が付いていた。

 孫策は江南の地さえ安全に治めることができれば、中華の大地全てを手に入れようとは考えていない。

 しかし、江南の地を安全に治めるためには長江の上流の地である荊州も手にいれなければいけない。船の戦いにおいて上流と下流では前者の方が有利であることは言わなくても分かるだろう。戦争になった場合、荊州を抑えていなければ孫策軍は常に不利を強いられることになる。

 荊州が肥沃で人口も多いことを抜きにしても、防衛上、必須の地であった。

 そこの支配を劉表から奪い、なおかつ袁遺を味方につけるためには当然、劉表より袁遺に得を示さなければいけなかった。

 そして、孫策陣営にはそれに見合うだけの利益を示すことができなかった。

「……そう」

 孫策は言った。その顔は優し気である。

 まるで周瑜の心中を慮っているようであった。

 いや、周瑜は完全に心の内を見透かされたと断定した。

「当分は防備を固めつつ、外交で袁遺と曹操が手を組まないように仕向けるのが最善よ」

 そして、曹操に勝って欲しい。できれば多大な損害を受けて。

 策とは言えない、天運に身を任せるが如き行動だった。

 孫策は東の方へと視線を向けて、呟いた。

「それじゃあ、母様への報告は当分できそうにないわね……」

 言の葉を風が吹き上げた。

 風は西から東へと吹いていた。ちょうど、孫堅の墓がある方向であった。

 

 

2 袁術

 

 

 名門袁家に生を受け、一時は河北四州を手にしていたことを考えれば、袁紹の墓は粗末なものだった。

 袁遺の言葉通り、大きくもなければ立派でもない。当然、金玉珍宝の類も副葬されなかった。

 ただし、漢王朝の反逆者として考えた場合、袁紹はひとつだけ恵まれていた。

 喪に服し、御霊を守る者がいることだった。

 袁術だった。

 香を焚き、未だに従姉が死んだことを信じられないような顔で墓を見つめ、そしてその下に眠る袁紹を思っていた。

 確かに、彼女は袁紹のことを好いてはいなかった。

 互いに張り合う性格でもあり、また何と言うか、両者の巡り合わせが悪く、袁術は袁紹を天敵として捉えていた。

 だがしかし、彼女は袁紹の死を望んだことはなかった。

 そして、その袁紹を殺したのが同じく従兄の袁遺だということも信じられなかった。

 袁術にとって袁遺とは顔は怖いが決して悪い印象を持つ従兄ではなかった。

 袁紹と袁遺は敵対したが、それでも袁術は袁遺が袁紹を殺すとは思っていなかった。自分が袁紹を好いてはいないが、その死を望んでいないように、袁遺もまた同じだと、ごく自然に思っていたのだった。

 しかし、これらは袁術の言い訳が多く含まれていた。

 確かに袁術は袁紹の死を望んでいなかったし、袁遺が袁紹を殺すとは思わなかったが、袁術には別の衝撃が心の中にあったのだ。

 だから、殺害の事実を知ったとき、彼女は七乃―――張勲に震える声で尋ねた。

「ど、どうして伯業は麗羽のことを、こ、殺したんじゃ? れ、麗羽は伯業にそんなに嫌なことを、し、したんじゃろうか?」

 それは孫策に領地を追われ、都の袁隗の所へ身を寄せようとしていた最中でのことだった。

 尋ねられた張勲は正確に袁術の心の内を見通した。

 正確に言えば、袁術が真に恐れていることは袁遺が袁紹を殺したことではない。袁遺が敵対した従妹を殺したということだった。

 袁術は袁遺が冀州に遠征中、その留守を狙って軍を動かして領土を拡張しようとした。紛れもなく袁遺への敵対的行動である。

 それを袁遺に知られたとき、自分も殺されるのではないかと、袁術は恐れているのだった。

 袁紹が袁遺に酷いことをしたから、袁遺が袁紹を殺したのであって、袁遺は自分のことを、たとえ領土拡張を行おうとした事実があっても殺さないと袁術は心の底から信じ込もうとした。

 だが張勲は、それをあっさりと裏切った。

「そうですね。袁紹さんが袁遺さんの敵になったからですかね」

 張勲の答えに袁術は、ピィッと奇声を上げた。そして、震えだす。

 袁術を独特の可愛がり方をしている普段なら、張勲は袁術をわざと怖がらせて、その姿を愛でるのだが、このときばかりは違った。

 張勲は袁伯業という男が、そんな甘い男でないと考えた。

 袁遺は自分の賢さを鼻には掛けず、韓信の股くぐりの如く年下の袁紹、袁術に遜った態度を取り続け、ついには袁家の序列という檻から出たのである。

 そんな男なら袁術を殺すのではなく、利用するだろう。

 袁術を全面的に押し出して、客将であったのに主である袁術の領地を奪うという孫策の不義を大々的に宣伝する。

 そうやって、孫策との戦いを有利なものとする。反董卓連合や袁紹との戦いでみせた手段である。

 しかし、袁遺は孫策を倒したとしても、袁術には揚州を決して渡さないだろう。

 当然のことだった。袁遺の留守を狙って背後から刺そうとしたのである。反董卓連合のときのような広大な土地と強大な軍事力を失った袁術に譲歩する理由はまったくない。

 利用されるだけ利用されて、使い捨てられるのがオチだった。

 そうなると予想した張勲は愛する主を袁遺の元へと行かせることは絶対にできなかった。

 だから、脅しつけるような形で言ったのだった。

 震える袁術に最後に残った幸運は、彼女の叔父が袁遺ほど実際主義的な人間ではなかったことだった。

 張勲の前に袁隗の手の者だという男が現れて告げた。

 大人しくしているなら、身の置き場所くらいなら用意していやる。

 袁隗にとって姪にできる最後のことだった。

 張勲はそれを飲んだ。

 ふたりに与えられたのは故郷から少し離れた場所にある小屋であった。

 その近くには秘密裏に埋葬された袁紹の墓がある。

 大人しく袁紹の御霊を守れということだった。

 絶対に袁遺はそこには近付かないというお墨付きももらった。

 袁術は張勲が意外に思うほど大人しくしていた。

 それほど、袁紹の死が衝撃的だったのだ。

 食料や生活費は月に何度か袁隗の遣いと名乗る者が届けに来た。食料の中には蜂蜜が欠かさずに含まれていた。

 月日は流れ、あるとき、届けられる荷物の中にふたつの珍宝があった。

 ひとつは、くすんでしまったが在りし日は輝いていたことを思わせる金杯。もうひとつは星空を切り取ったような瑪瑙だった。

 それが届けられた意味を袁術は分からなかったが、今となってはそんなこと、彼女にとってどうでもいいことだった。

 孫策に領地を盗られてから十数年後、袁術は体調を崩した。

 そして、ある夏の日の盛りに生死の境を彷徨った。

 袁術は長年、自分に付き従った張勲にか細い声で言った。

「蜂蜜水が飲みたい」

 張勲は主を助け起こし、金杯に注いだ蜂蜜水を袁術の口元へ運ぶ。

 袁術はそれを弱弱しく口に含んで、小さく喉を鳴らした。

 そして、彼女は満足したような穏やかな表情をして、眠る様に息を引き取った。

 

 

 この正史より少しマシという最後こそが袁隗が姪にしてやれたものだった。

 




補足

・中華史上最高の英雄と評される岳飛を謀殺した秦檜の例
 岳飛、多くの中国人にとって『ぼくのかんがえたさいきょうのえいゆう』状態にある南宋の名将。
 秦檜、そんな岳飛を謀殺した佞臣。岳飛の廟の前に縛られた姿の銅像が立てられ、参拝客に唾とか吐かれる。
 興味のない人はこれくらいの認識で大丈夫です。
 以下は私の趣味全開の補足。興味のない人は読まなくて大丈夫です。
 皇帝が万里の長城の向こう側に連れ去られて滅びるという屈辱的な幕引きであった北宋。
 その後、宋は江南の地に拠って南宋を再興するが、女真族(後の金)によって奪われた故地と皇帝の奪回を思う人々は多くいた。
 その希望を一身に背負ったのが岳飛である。
 現代では政治的な判断がなかったと批評されることもありますが、それでも名将であったことは間違いないと思います。
 淮水から北の地を奪われた南宋は良馬を調達するのが難しく(一応、大理国から馬を輸入していたようだが、その時期や量などの詳しいことは分かっていない)、金の重装騎兵に重装歩兵で対抗しようとするが、その多くは失敗に終わる。
 だが、そんな中で岳飛はそれを成し遂げる。
 これ割と意味わかんないことやってんだよな。金は後々モンゴルにボコられるから、過小評価されることもあるが、このときの金の重装騎兵は、マルムーク重装騎兵と世界の騎兵のツートップって感じだし。
 そんな精強な金の重装騎兵を破り、勝ち続ける岳飛を謀殺することなるのが、秦檜である。
 秦檜が金から送られてきたスパイ説とか、そもそも故地を全て取り返すのは不可能に近いから講和を結ぶという現実家説とかはおいておく。
 それでも無実の罪で岳飛を処刑したとされ、後に岳飛の名誉が回復されたから、秦檜とその妻、他の岳飛を陥れた佞臣の像は岳王廟に設置され、廟の参拝者に唾を吐きかけられたり、ゴミを投げつけられたりしている。今はもう禁止されたが、それでも唾を吐く人は後を絶たないって聞いたことがある。曖昧で申し訳ない。
 ただし、秦檜の評価についてはともかく、この人物の面白い所は明らかに天命を得ていたとしか言えない点があることだ。
 秦檜はこの後、南宋で宰相として強大な力を持って行くのだが、その過程で自身の派閥を作る。
 その派閥作りが南宋にとって、どちらかといえば有益に働くのだった。
 晋でもそうだが、北からやって来た士大夫と南にいた士大夫の争いが起きる。それを秦檜が派閥を作ることで皮肉にも争いは小さくなった。
 おそらく秦檜はそれを狙ってはいない。ただ、自身の私腹を肥やすことと南宋の実利が、天命を得たと表現しかしようのない偶然の下で連結したのだった。
 もちろん、反秦檜の者もいる。その代表は朱子学の生みの親の朱熹の父親である。
 それでも、南宋への害という点では、その後の韓侂冑、史弥遠の方が南宋にとって間違いなく害悪である。
 まあ、正直、自分も岳飛が故地を奪回できたとは思えないですけど、じゃあ、岳飛の英雄視は間違っているかと問われれば、別に英雄視してもいいと思う。
 岳飛にしても、秦檜にしても、本当のことはもう誰も分からないわけで、残された記録を見て、各々が楽しめばいいんじゃないかと思います。
 かなり話が脱線しましたが、これ以上は本当に蛇足にあるので終わります。
 でも、ぶっちゃけた話、南宋の武将で一番好きなのは岳飛じゃなくて、孟珙です。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。