異・英雄記   作:うな串

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4 中牟県

 

 

「あそこで将軍は袁紹軍と戦ったのですね」

 凛とした声をやや熱っぽくして姜維―――若蘭(じゃくらん)は言った。

 それに袁遺は、いつもの無表情とやや皮肉気な声で返した。

「正確には俺は逃げていただけで、実際に指揮を執ったのは雛里だな」

 司隷河南伊、巻と陽武のやや巻寄りの場所は、かつて雛里が不期遭遇戦で二倍以上の軍に勝つという快挙を成し遂げた戦場であった。

 六日前、司馬懿は兵法を学び直すという名目で荊州の宛へと旅立った。

 それは荊州との連携強化というのが最大の目的であったが、その途上、袁遺が参謀団と姜維とその部隊を引き連れて、同行した。

 そこで部隊を実働させてみて司馬懿に兵法を教えるということをやってみせたが、それは事実上、予定戦場の下見であった。

 洛陽令としての仕事があるため宛まで同行することはできず、司馬懿とは別れたが、その帰途でも戦場となりえる場所には足を運んだ。

 そして、その度に袁遺は、

「詩を詠みたいから、大休止を命じる」

 と言って、部隊を停止させた。

 天下を欺くための嘘だった。

 その間に、画工に命じて地形を絵にして残す。参謀たちは手勢を使って必要となるだろう距離などを測り、記録する。

 袁遺は若蘭を伴って、残留した黄土が作り出した瘤に上って辺りを見回した。そこから雛里の才能が輝いた戦場が見えたのだ。

 若蘭は冀州の戦いの後に、張郃の部隊から独立し幽州遠征に参加した。洛陽に帰って来てからは袁遺の指揮下に入り騎兵部隊の隊長職にあった。戦場では袁遺の親衛隊兼予備隊の役割を担うことになっている。

 彼女はそのことを喜んだ。

 もともと若蘭は袁遺の戦略に興味を持ち、彼に仕えることになったのだ。袁遺の傍に侍り、それを間近に見られる役職は彼女の望むものだった。

 袁遺も若蘭の才能を認め、戦術レベルに留まらず、作戦、戦略レベルのことを教えるようになっていた。

「運動戦では戦術的に要求されていることと戦略的に要求されていることが大きく乖離することがある」

 袁遺は若蘭に、戦場という点ではなく、もっと大きな戦域という面で考えろ、と命じて続けた。

「例えば、右翼が敵に攻撃を加えていても、左翼では防戦一方、後退を余儀なくされている状況だ。戦術的には左翼に増援を送るべきだが、戦略的にはさらに右翼に戦力を投入しなければならない場合がある」

「その場合、左翼側はどうすれば?」

 若蘭が尋ねる。

「野戦築城だ」

 袁遺が答えた。

「土地に工事を施すことで陣地に防御力を付加する。そうやって、寡兵で敵を喰い止める。それが無理なら、自軍の後方に敵が潜り込まなければ後退してもいい」

 その言葉に若蘭が言った。

「つまり、かつての逃亡中であった伯業様は左翼で、雛里様が指揮していた軍が右翼というわけですね」

 それに袁遺は優等生を見る教師の様な顔をした。

 若蘭は袁遺の意図を理解し、過去の事例からそれを示して見せたのだ。

 あのとき、袁紹とその軍こそが連合を連合足らしめていたものであり、連合の弱点であった。戦略的に攻める箇所はそこである。

「だからと言って、叛乱軍の陣形を乱すために御自身を危険に晒すのはいかがなものかと思います」

 若蘭は咎めているというより心配しているといった風だった。

「軍師ふたりにもきつく言われたよ」

 袁遺は洛陽に帰ってから軍師たちに挙げさせた自身の失策とそれに対する批評を思い出した。

「だが、あの戦いは準備期間も外交努力もなかった。幾分かの無茶をしなければならなかった」

 袁遺は遠い目をした。

 若蘭の頭脳は得た情報から現状の分析に掛かっていた。

 袁遺と司馬懿が予定戦場として下見をしている場所は司隷東部である。ここが戦場になる場合、その敵は位置的に曹操しかあり得ない。孫策が仮想敵なら豫州が主戦場となるはずだった。

 しかし、曹操が相手だと袁遺がどのような戦略を立てるか、若蘭には見当がつかなかった。

 彼女も曹操軍の兵卒の精強さを理解していた。それに数では互いに一〇万前後の動員が可能で、兵数で大きく上回ることができていない。つまり、決戦ではその兵の質の差で絶対と言っても間違いなく勝てないことも分かっていた。

 そういった点で言えば、兵の質では孫策軍も精強であるが数は二万前後。五倍の差があり、むしろ袁遺側が有利であった。

 伯業様は運動戦では寡兵で敵を防ぐために野戦築城を用いると仰られたけど、曹操軍がその野戦陣に対して真っ向から攻撃してくるとは思えない。そもそも、わざわざ野戦築城をしなくとも虎牢関に籠る方が十分に強固な防御力を得れる。それでも野に陣を構える理由が何かあるはず……

 若蘭は考える。

 今までの伯業様の戦運びを考えると、主導権をこちらが握って曹操軍に野戦陣と正面から対峙しなければいけない状況を作る。きっと、それが虎牢関に籠らず、野に陣を構える理由だけど……それが主導権にどうやって繋がるんだろう?

 しかし、彼女にはそこから先の採るべき作戦を思い付けなかった。

 それに彼女には経済的視点が欠けていた。

 七〇日以内に戦争を集結させなければ漢帝国と曹操は互いに財政破綻を起こす。だから、ただ陣に籠って攻撃を耐えているだけではいけない。曹操軍を撃滅する必要があった。

 ただし、その視点を欠いていることで若蘭を責めるのは酷だった。この手の経済状況を一介の騎兵将校である彼女が知る由もなかった。

「騎馬隊を率いる者の目からすれば、この地形はどう映る?」

 思考の海を漂っていた彼女を袁遺が現実へと引き戻した。

「いや、地形だけではない。地面はどうだ。馬を駆けさせ易い状態か?」

「地形は決して良いとは言えません。こんなに波打っているようでは突撃の勢いが削がれます」

 若蘭は連続する瘤を示しながら言う。

「地面は草原が一番ですけど、ここは土がむき出しです。そのような場合は人間と一緒です。砂状でも泥濘でも動き難いです」

「踏みしめられる方がいいが、あまりに硬すぎると困る?」

「その通りです」

 若蘭は肯首した。

「……分かった」

 そう言うと袁遺はいつもの無表情で東北の方角を見つめた。

 しばらくの間、微動だにしなかったが、ゆっくりと袁遺の右手が顎を撫でた。そして、口を開いた。

「涼州の地面はどうだったんだ? 馬は気持ち良く駆けていたのか?」

 袁遺は優し気な声で若蘭に尋ねた。

「そうですね……」

 若蘭の脳裏に一瞬、故郷の風景が浮かんだ。胸に愛郷の念が去来する。

「故郷の冀県は馬を駆けさせるには、それほど良い場所ではありませんでした。けど、安定の地は駆けていると心地よかったです。私も馬も」

 姜維の切れ長の目は、まるでその風景を見ているかの様に優しく細められた。

「徳容(張既の字)に聞いたことがあるよ。安定の西部から姑臧(こそう)辺りは涼州で最も広い緑地だとね。あれは……そうだ。彼と初めて会ったときだ。涼州のことを尋ねてね。弋居(よっきょ)では鉄が採れるとかいろいろ教えてもらったよ」

 袁遺が懐かしそうに言った。

 余談になるが、五胡十六国時代、このオアシス地帯に依っていくつかの国がそこを首都とする。

「徳容が話すとその緑地はまるで楽園の様に聞こえたよ」

「想像がつきます」

 若蘭が張既を懐かしむ様な柔らかな笑みを浮かべて言った。

 現在の長安令の張既は福々しい恵比須顔で、自然と周りを和ます気質があった。反董卓連合のときは涼州へと渡り、その気質と人柄で築いた人脈を使い、涼州の軍閥が連合側に回ることを防いだ。

「良い所ですよ。機会があれば是非行ってみてください。案内します」

 若蘭の言葉に袁遺は、その無表情な顔に僅かな影を落としながら答えた。

「いや、私は行かない方がいいかもしれない」

「え……」

 若蘭が、どうして、といった悲しい顔をする。

 袁遺はそれを慰める様に優しい声色で言った。

「今の私は赴く場所全てで大地を血で染め上げ、死体の山を作る。そんな良い場所を真っ赤に染め上げるのは忍びない」

 若蘭には主のいつもの無表情が悲しげなものに見えた。

「では、全てが終わった後に絶対に行きましょう。将軍が戦う必要がなくなった後で必ず!」

 若蘭が叫ぶように言った。普段の若年を侮らせない理知的な雰囲気は影を潜め、年相応に見えた。

「…………そうだな。全てが終わった後で必ず。うん、そのときは案内を頼んでもいいか?」

「はい」

 満面の笑みを若蘭は浮かべた。

「では、それまでは戸を出でずして安定を知る、か」

「戸を出でずして天下を知り、窓を窺わずして天道を見る。老子ですね」

「御名答」

 場が柔らかな雰囲気に包まれた。これが戦場の下見であることが忘れられた様だった。

 確かに若蘭―――姜維は袁遺の戦略に興味を持って仕えることになったが、仕えている内に彼女は袁遺に亡き父の面影を見るようになっていた。

 袁遺にしても、そんな若蘭をかわいく思っていた。彼は雛里や華琳にも見せることがあるように、ときたま孫に接する祖父の様になる。

 だが、その雰囲気はすぐに壊された。

「袁将軍、必要な測量が終わりました」

 参謀の辛毗がやって来て告げた。

 袁遺から柔らかなものが削ぎ落されるように消え、常勝将軍として完全に機能し始めた。

「ご苦労。では行軍を開始する。次は巻と敖倉の間だ」

「はい!」

 袁遺は戦いに備えなければならず、現状においてふたりの約束は夢物語に過ぎなかった。

 

 

 首都・洛陽の防衛戦力を抜かせば、董卓・袁隗陣営で唯一即時展開が可能な状態の軍は中牟県に駐屯している呂布と陳蘭の部隊である。

 そして、その両部隊を事実上、統率していたのは呂布の軍師である陳宮であった。

 袁遺はこの両部隊を中牟県に駐屯させるときに、陳宮に命を下した。

「主力の集結が成るまで、敵を担当防衛地域に足留めせよ」

 誤解の余地がないほど明確な命令であった。

 それを思い出しながら、陳宮は中牟の城壁の上に立った。

 城壁は真新しい部分と古びた部分の色合いがはっきり分かれており、一見するとチグハグな印象を受けた。陳宮が中牟県に駐屯するとすぐに城壁を調べ、崩れそうな場所を補修するように命じたのだった。

 空は快晴で、遠くには砂塵が起こるのが見える。

 騎兵を中心とした呂布隊七〇〇〇名が訓練をしているのだった。

 この時代の価値観からすれば異常なまでに機動を重視する袁遺と違い、呂布隊が行っているそれは、むしろ正面戦闘に重きを置いた密集隊形の維持のための訓練だった。

「恋殿はさすがですな~ここからでも兵気が漲っているのが分かりますぞ」

 陳宮は敬愛する主を褒め称えた。その顔には喜色が溢れんばかりに浮かんでいる。

 決して順風とは言えない賈駆とは違い、陳宮と袁遺は良い関係を構築するのに成功していた。

 反董卓連合で陳宮は一定以上の能力と見識があることを示した。

 袁遺はその能力を評価して、判断の難しいことも陳宮に委ねるようになった。

 袁遺という人間の将や軍師の評価基準が過酷以外の言葉で表現できないことを思えば、陳宮にとってそれは大きな自信になった。また、陳宮を認め、敬意さえ払ている袁遺の印象も少しは改善した。

 反董卓連合のときは有能であるが性根が歪みきった男というものだった袁遺の人間性の評価は、あれでなかなかマシなところもあるといった程度に変化していた。

 もっとも、袁遺の敬意というのは彼なりの払い方であった。

 陳宮は命令の『敵』が誰かを考えた。

 中牟県の位置からすると、それは曹操ということになる。孫策なら豫州に駐屯するはずであった。

 現在、曹操軍はふたつに分かれている。

 ひとつは曹操と共に冀州の鄴にいる軍集団。もうひとつは曹操がかつて治め、現在は彼女の軍師である荀彧が政務を行っている陳留の軍集団である。

 そして、陳留と中牟県が直線距離で約八〇里(四〇キロ)であることを考えれば、陳留に駐屯する軍を最も警戒する必要があった。

 だから、陳宮は陳留郡を探るための細作の増員を袁遺に要求した。

 すると、袁隗の手の者である細作がすぐに派遣されてきた。

 それ以外の必要なものも催促すると、同じ様に言った通りの数が送られてきた。

 軍馬であろうが、兵糧であろうが、参謀であろうが、内政官であろうが、測量士や画工といった特殊技能を持った人間であろうが、袁遺は何も言わずに整えた。

 たったひとつだけは断られたが、それでも袁遺からの余計な口出しは一切なかった。

 それに陳宮は思った。

 袁遺はねねのことを信頼しているのです。

 陳宮が敵の足留めが可能であると判断したのなら、それに必要と言ってきた物は何も言わずに可能な限り整えてやるのが、任せた者の責任の取り方である。それが袁遺の考え方であったし、敬意の払い方でもあった。

 その中で唯一、断られたことは呂布隊と共に駐屯する陳蘭隊の帰還を取りやめることである。正確に言うなら、陳蘭と王平を交代させて、陳蘭を函谷関の付近で行われている調練に教官として参加させるということだった。

 陳宮は陳蘭のことを高く評価していた。

 この風采の上がらない男は、何かにつけて要領が良く。軍務上、陳宮の目の届かないところに風貌からは想像できない、実に行き届いた対応をしているのだった。

 それに陳蘭は兵たちにも慕われている。要領が良く、無茶なことを言わない指揮官を兵たちは好いているのだった。

 しかし、戦場では意外なほどの度胸を発揮する。陳宮もそのことを反董卓連合で袁紹軍と戦ったとき、陳蘭が味方右翼を支えたという事実から知っていた。

 そして、この陳蘭の帰還も彼の人柄を表す話として、陳宮の記憶に留められることになる。

「先生、代わりにやってくる王子均は私と比べ物にならないくらい優秀な者ですよ」

 陳蘭はそう言って、主と陳宮の間に入ったのであった。

 結局、陳蘭は王平が到着次第、中牟県を離れることになった。

 だがしかし、陳蘭の帰還は陳宮の意気込みに水を差すものではなかった。

 陳宮が兗州の陳留郡からの敵を足留めする方法を考えたとき、手はひとつしかないと思った。

 袁遺軍の兵卒は曹操軍や孫策軍に比べると弱兵である。

 そんな中で、張遼と呂布の麾下の、何進に仕えていた頃からの最古参兵たちだけが、辛うじてその両軍と渡り合えるだけの精強さを持ち合わせていた。

 つまりは、呂布を中心とした呂布隊の強さを存分に引き出し、輝かせることのみが曹操軍に対抗しえる手段だと陳宮は信じた。

 そして、その呂布隊を最も輝かせることができるのは、この天下において自分だとも彼女は思った。

 今となっては遥か昔、黄巾の乱の折、袁遺は雛里がどういうタイプの軍師か考えたことがあった。芸術家タイプか技術者タイプかである。

 この中牟県の防衛を任せられた陳宮は前者の芸術家タイプだった。

 陳宮はまるで詩や絵画、彫刻で呂布の強さを表現するように、戦場でそれを表現しようとしているのだった。

 そして何より、陳宮本人も呂布という題材で、その強さを表現することは他者より抜きんでているという自負がある。

 陳宮は天から祝福を受けているような気がした。

 ねねは幸せですぞ! 恋殿の強さを示す、ただそれだけに全力を尽くせばよい。恋殿の軍師としてこれ以上の幸せはありませんぞ!

 陳宮は小さな体を目一杯広げて、手を天に掲げた。そして、力の限り拳を握り込んだ。まるで、授けられた天意を取りこぼさないようにしている様だった。

 

 

5 戦略

 

 

 悪いときは、事態がどんどんと悪い方向に転がることがある。

「いい加減にしなさいよ! そんなくだらないこと勝手にやりなさいよ!」

 このときの賈駆も、その負のスパイラルに嵌っていた。

 彼女は叫んだ後で、その耳朶を振るわせた声が自分の口から出たことを信じられないような顔をした。

 司馬懿が幽州から帰還する少し前から、曹操は洛陽へ足繁く通った。

 そして、曹操は董卓や賈駆に面会を求めて、冀州統治の相談をしていたのだった。

 その大部分は、そんな些細なことを、と人に思われるような問題ばかりだった。そのくせ、重要な問題は独断で行い、事後報告するのが当たり前だった。

 賈駆は曹操の意図を察していた。

 曹操の欲しいのは事実上の白紙委任状である董卓と賈駆の好きにしろという言葉だった。

 それを与えると曹操の動きに掣肘を入れづらくなる。曹操が信用できない状況で、それを与えることは絶対にできなかった。また、曹操もそれが簡単に与えられるとも思っていなかった。

 だから、彼女はわざと董卓と賈駆を苛立たせようとしていた。

 賈駆もそれは分かっていた。分かっていたのだが、彼女は我慢できずに叫んでしまった。

 曹操の弁舌が巧みということもあった。彼女は丁寧な態度を取りながらも、針小棒大にくだらないことををまるで重要事の様に賈駆たちに相談した。

 その態度が賈駆の神経を逆なでした。

 だが、賈駆が耐えられなかったのは、何よりも時期が悪かった。

 袁遺が功を立て名声を得たから、賈駆も主であり親友である董卓に大きな功を上げさせる必要があった。袁遺によって与えられたものではない。賈駆と董卓自身の能力によって打ち立てた功績が必要だった。それでこそ、袁遺や名士たちに董卓の必要性を分からせることができた。そして、賈駆自身に巣食う不安を取り除くことができる。

 それなのに曹操は、相談する必要もない些細なことを仰々しく伺いを立ててくる。賈駆は時間を無駄にしているような気がした。

 賈駆は苛立った。

 そして、現在、洛陽を離れている袁遺のことが思い浮かんだ。

 今こうやって無駄な時間を過ごしている間にも、袁遺はさらに武功を立てる準備をしている。

 そう思うと言葉は自然と口から出ていた。

 場に沈黙が流れた。

 曹操の口が一瞬、満足げに歪んだ。

 賈駆は放心に近い表情を浮かべていた。

 董卓は賈駆の非礼を詫びようとするが、先に曹操が口を開いて詫びの口上を述べ、素早くその場を後にした。

 曹操は欲しかった白紙委任状を手に入れた。これは明らかに賈駆の失策だった。

 悪いときは、事態がどんどんと悪い方向に転がることがある。

 曹操と入れ替わる様に袁遺が洛陽へと帰還したことが知らされた。

 

 

 参謀旅行から洛陽へと帰還した袁遺は、すぐに董卓によって呼び出された。

「後将軍・袁遺、董司空に拝謁いたします」

 袁遺は司空府で拝跪して言った。

「面を上げてください、将軍」

 董卓の声は暗かった。

 袁遺は頭を上げる。

 そして、見えた董卓の顔も声と同様であった。横に並ぶ賈駆のそれは董卓に輪をかけて暗かった。

 それだけで、袁遺は大まかなことを察した。

 華琳、か……

 董卓の謝罪から始まった説明は袁遺の予想を肯定していた。

「司空」

 袁遺は頭を下げた。

「曹都督の非礼、まことに申し訳ありません。責は彼女に対袁紹の最前線を担わせると推挙した私の不明にあります」

 彼は董卓たちが自らに非があると認めていることを察すると先手を打って謝罪した。

 袁紹が河北に健在であった頃、曹操との協調路線に舵を切ったのは袁遺である。曹操との手切れの時期が近い今、その方針に対して責任を袁遺に求められては堪ったものではない。より正確に言うなら、曹操との協調路線に踏み切ったことの責任はいずれ必ず取らなければならないが、それは決して今であってはならない。少なくとも、曹操を倒した後である。

 それに董卓は慌てたが、賈駆は袁遺の心の内を読んだように言った。

「それじゃあ、聞かせなさいよ。あんたはいったい何を考えているの? 曹操とどうやって戦うつもり?」

 賈駆自身、何度も考えた。それでも曹操に対しての戦略を形成できなかった。

 七〇日以内に勝たなければ、漢帝国の国庫が空になり、国が亡びる。

 しかし、兵の精強さが違うため決戦で勝つという目算も立たない。

 ならば天下の城塞である虎牢関に籠ることも考えたが、籠城で耐えたところで然したる意味はない。

 完全に手詰まりに陥っていた。

「回りくどいかもしれませんが、一から説明させてください」

 袁遺が言った。

 それに対して賈駆が何か言うよりも早く董卓が、お願いします、と丁寧に応じた。

 袁遺は、地図はありますかと尋ねた。

 賈駆は、用意してあるわと言い、それを広げた。

「曹操が攻めて来た場合、七〇日以内に敵軍を撃破します」

 袁遺は、かつて袁隗に説明したときと同じような言葉から始めた。

 時代に関係ない戦争の原則だが、作戦を計画する際に必要となる基本的な情報が四つある。自軍の作戦意図。自軍の戦力および配置。敵軍の作戦意図。敵軍の戦力および配置である。

 袁遺が口にしたのは『我々は何をなさなければならないのか』という自軍の作戦意図であった。まずはこれを決めないと動きようがない。

 次に必要な情報とは敵の戦力および配置である。

「現状、曹操は軍をふたつに分けています」

 袁遺は地図のふたつの地点を示した。ひとつは冀州の鄴であり、もうひとつは兗州の陳留である。曹操の現在の本拠地とかつての本拠地である。

「兵の移動や集められている物資の状況から考えて、この二地点にはそれぞれ約五万が集結していると参謀部は結論を出しました」

 敵兵力を掴んだのならば、次は敵軍が何を目的としているかである。

 袁遺は作戦立案において、この分析に最も注意を払った。

 敵の戦力を掴んだところで、それをどのように扱うかを読み間違えれば、全てが無意味となるからだった。誤断は確実に敗北に繋がる。

 出した結論は、曹操が決戦を望んでいる、だった。決戦になれば、絶対と言ってもいいくらい袁遺軍に勝ち目はない。

 そして、袁遺も経済的諸問題から決戦はともかく野戦には応じなければならないことも理解していた。

「曹操軍は決戦により一撃での戦争終結を考えている可能性が高いです。そのためにはこちらの準備が整う前に先制侵攻を行うはずです」

「そうなれば、こっちも経済的な問題から時間を掛けられないから、それに乗らざる得ない」

 賈駆が相槌を打つ様に言った。

「そうです。となると、曹操軍はある程度の幅と奥行きがある大軍を展開できる場所を戦場に選ぶのは間違いない」

 袁遺の言葉に賈駆は地図に目をやって、即答した。

「巻から敖倉の間」

「はい」

 黄河とその支流の氾濫が作り出した起伏の激しい地帯と、敖倉とその背後の山岳地帯、黄河の支流が官渡水と汴水に分岐する地の間こそ、袁遺の睨んだ曹操の予定戦場だった。

「その場合、曹操軍からすれば、中牟県に居座る呂布軍は酷く面倒な存在となる」

 袁遺側の準備が整う前に素早く司隷河南伊を通打、制圧しなければならない曹操軍は、鄴の軍と陳留の軍が一度合流してから司隷に攻め込むという時間的余裕がなかった。

 鄴の曹操本隊が南下をすると同時に陳留の荀彧の支軍が本軍の側面警戒を行いつつ、予定戦場での合流―――つまりは、分進合撃を行わなければならない。

 しかし、袁遺軍に曹操軍の様な兵の精強さがないのと同じように、曹操軍には袁遺軍の様な柔軟な機動性がない。袁遺の様に旅団規模に分けて進ませることができず、必然、袁遺軍より進軍速度が遅くなる。

 袁遺はそれを説明する。

「……つまり、呂将軍に陳留の軍を足留めしてもらって、その間に袁将軍が曹操本軍を叩くということですか?」

 それを聞いて、董卓が尋ねた。

 相手の戦力を集中させずに、こちらは戦力を集中して分断した敵を叩く。反董卓連合に袁遺がやった戦法である。

「それは無理よ」

 否定したのは賈駆だった。

「全軍が洛陽で臨戦態勢なら可能だけど、今は軍を休ませてるし函谷関の付近で訓練を施している兵もいる。全員を一度集めないとだめだから時間がなくて、それはできないよ」

「その通りです。それに加えて二倍程度の軍では、決戦では曹操の本軍には勝てません」

 袁遺が言った。

「二倍の袁紹軍に将軍の軍師である鳳統さんが勝ったと聞きましたが……」

「あれは袁紹の軍だったからです。曹操軍には二倍程度の有利では正面戦闘では絶対に勝てません」

 袁遺は断定した。

 董卓と賈駆は半信半疑の様子であった。そして事実、袁遺の曹操への評価は常に過大評価気味である。

「それにむしろ狙いは曹操の本軍ではなく陳留の支軍です」

「陳留の軍をどうしようって言うのよ?」

「それを支点にして敵の戦略の崩壊を狙います」

「……どうやって?」

 賈駆は、にわかには信じられなかった。

 だが、袁遺に冀州で戦いを避けることで戦略的優位を築くという魔術的な手法を見せつけられているために信じざる得ない。

「具体的なことは言えません。実際に敵が攻めて来たとき、状況に合わせて行動することになると思いますし、私がやりませんので」

「はぁ!? どういうことよ!? それじゃあ誰がやるって言うのよ!?」

 大声を上げる賈駆に対して、袁遺は極めて落ち着き払った声で返した。

「司馬仲達が」

 袁遺の脳裏にひとつの情景が浮かんでいた。

 

 

「こうして、完全包囲下に置かれ、逃げることもできずに殲滅されることとなった」

 袁遺は司馬懿が仕えてから、彼に自分の知る戦例を教えるようになった。司馬懿には父が西からやって来た人から歌や話を集める道楽によって知ったと、その出所を誤魔化した。

 机上に駒などを使い再現しているのは、史上最も有名な包囲殲滅戦であるカンネーの戦いであった。

 後に袁遺に仕えることになる雛里もそれを長安で教えられることになる。

「……芸術としか表現できませんね」

 ため息をこぼす様に司馬懿は言った。

 主が再現した戦いをもう一度、味わうように駒を見つめたまま考え込んだ後、司馬懿はやおら口を開いた。

「ひとつ尋ねてもよろしいでしょうか、伯業様」

「……ああ、構わない」

 長年、友として付き合ってきたふたりであったが、今は主従という関係である。司馬懿はすぐに袁遺に部下としての態度で接したが、袁遺には珍しいことに未だにそれに対して微かな違和感を感じていた。それだけ、司馬懿という男は袁遺にとって特別な友人であった。

「この戦争……ポエニ戦争でしたか」

 司馬懿はポエニという言葉を発音しづらそうに言った。

「最終的な勝者はどちらだったのですか?」

 袁遺は、その言葉に虚を突かれた様な顔をした。それから、僅かに口元を歪めると答えた。

大秦(ローマ)だ。そう、この見事なまでに包囲殲滅された方が最終的に勝利した」

 それから袁遺は説明した。

 カンネーの戦いの後でローマは一時期採っていた持久策を再び採用し、カルタゴ本国からの増援であるハンニバルの弟のハシュドゥルバルとその軍を撃破し、さらにはカルタゴの勢力圏であるアフリカ大陸を攻め、ハンニバルとカルタゴ本国の切り離しを図ったこと、そして―――

「最終的にザマと呼ばれる土地でハンニバルはカンネーとは反対に敵中央を突破することができず、両翼を騎兵に包囲され負ける。漢の五年のことだ」

「漢の五年……垓下の戦いがあった年ですか」

「そうだ。垓下の戦いの二か月前にザマの戦いだ」

 西ではローマを震え上がらせたハンニバルが敗北し、東では西楚覇王・項羽が敗れた。東西の大国のその後を決定づける戦いは共に紀元前二〇二年に行われた。実に運命的な話である。

「つまりは、この戦争は主要戦域が大秦(ローマ)から徐々に別の場所に移って行ったということですか」

「そうだ」

 同じ話を聞いても雛里と司馬懿の能力の違いが、その後の会話の発展を違うものへとしていた。

 雛里は戦術的な方向へと発展し、司馬懿は戦略的な方向へと発展した。

「ある人物が残した言葉がある。勝敗を決する決定的戦域とは、どのようなときでも―――」

 袁遺はその後、アルキダモス戦争やガリポリの戦いについて司馬懿に語って聞かせた。

 両者とも主要戦場と軍の展開において大きな課題を戦史に残した戦いである。

 

 

 袁遺は懐かしい光景に若干の未練を感じながらも目の前の董卓と賈駆に告げた。

「司馬仲達なら必ずやり遂げます」

 対袁紹の戦略を袁遺が発表したとき、司馬懿は主の命令で行った反董卓連合解散の原因の分析と連合の立場から袁遺を破る作戦が不十分であったと恥、そして恐怖した。軍師とは文字通り、軍の師である。それが師となりえないなら、仕事を果たせていないということであり、袁伯業という男がそんな軍師を許すはずがないと思えたのだ。

 袁遺は司馬懿という男が同じ轍を二度と踏むはずがないと確信していた。

 仲達のことだ。どこかであのときのことを教訓として活かせることを俺に示そうとするはずだ。じゃないと俺から信頼を得られないと考える。自分でも仕えにくい面倒な主だと思うが、仕方がない。俺も二度と同じ失敗をしないために、連合との戦いから帰って来て、仲達の罵倒のような批評を聞いたんだ。フン、仕方がない。

「分かったわ。それじゃあ任せるよ」

 賈駆が言った。

 彼女は袁遺の考えがまったく分からなかった。

 だが、賈駆も司馬懿と同様に、袁遺の戦略を読み取れなかったという事実がある。その苦い思い出によって、賈駆は袁遺に戦争のことで強く出ることができなかった。

 そして、董卓は―――賈駆からすれば非常に危ういと思うほど―――袁遺を信頼しきっていた。

「それじゃあ、もうひとつ聞くけど……」

 賈駆が話題を変えた。

 袁遺は、何でしょうと穏やかに応じた。

「公孫賛はどうするの?」

「……もちろん、中郎将として戦いが起これば、それに参加してもらいます」

 賈駆の問いに袁遺は不快に類する記憶が呼び起こされた。だが、それは表に出さず、常日頃の無表情で答えた。

 袁紹の討伐後、燕王として幽州に戻った劉虞と違い、公孫賛は中郎将のまま都に留まった。

 公孫賛本人は再び遼西郡の太守に就くことを望んでいたが、公孫賛が率いている部隊の後任が定まらないという理由から、現在も中郎将のままだった。

 だがしかし、公孫賛の幽州への帰還は大きな障害を持っていた。

 朝廷の中枢にいる幾人かの者は彼女が劉備の洛陽脱出に手を貸したという噂が真実であると直感していた。

 それは反董卓連合に参加しながらも、袁紹によって幽州から追われた公孫賛を助けた董卓・袁隗陣営からすれば明確な裏切り行為であった。

 もしまた劉備を軸に策略が起きたとき、公孫賛は自分たちではなく劉備のために動くのではないか、その疑惑が公孫賛を目の届かないところで自由にさせることを董卓・袁隗陣営の首脳陣たちに躊躇わせていた。

「おそらく、今までにない激戦が起こると思います。そこでの中郎将の活躍を私は期待しています」

 袁遺は言った。

 つまりは公孫賛に対する踏み絵だった。彼女自身で自分が益のある存在だと示して見せろ。その機会を与えることが劉備脱出の後始末をさせられたが、袁紹の背後を脅かすのに役立った公孫賛への袁遺なりの礼の仕方だった。

「…………それも任せるよ」

「はい」

 できれば公孫賛が賢いことを望みながら、袁遺は頷いた。

 いざとなれば、手を汚すのは袁遺だった。

 

 

「子均殿じゃないか、洛陽に戻っていたの?」

 袁遺と共に洛陽へと帰還した若蘭は、後将軍府で王平を見つけ思わず声を掛けた。

 若蘭と王平は共に張郃隊にいたことがある。だからといって、特別仲が良いわけではない。その証拠に若蘭は王平には真名を預けていないし、王平の真名も知らなかった。

 しかし、年齢が近いためか自然と話すことが多かった。

 王平は文字が読めなかった。知っている文字の数は自分の名前を抜かせば、両の手の指で事足りる程度だった。

 それでも、言っていることは道理に適っており、人に読んでもらった書物の大略を掴み、論じては要旨を捉えていた。

 王平は特に史記や漢書の歴史書を好んだ。

 彼女は若蘭に漢書の内容について質問をした。

 漢書は儒教的価値観が強く反映されている。そのため、それに馴染みの薄い王平には首をかしげざる得ない記述もあった。それについて尋ねていたのだ。

 漢の風土が薄い涼州の出身であっても、若蘭はこの時代の著名な在野研究家の鄭玄の儒教観に強いを関心を持ち、その知識量は袁遺さえも舌を巻くほどだった。

 対して、若蘭は王平に彼女が旅をして見てきたものを尋ねた。

 蜀の難所と名高き桟道、五斗米道という鬼道集団が統治する漢中の様子、それらのことを聞いていると若蘭は昔、鮮卑や遊侠の徒と交わり強さを求めていたときのことを思い出した。

 幽州遠征に伴って、ふたりは張郃の旅団から独立し、話す機会は減ったが、それでも会えば話に花が咲く。

「昨日、戻って来た。だけど、また出なくちゃならない。今度は中牟県」

「それじゃあ、行き違いか」

 それに王平は肯首しながら、話題を変えた。

「そうだ、張校尉も洛陽に戻ってるよ」

 張郃はふたりにとって、かつての直属の上官である。

「何でも郷里の儒者を推挙したのが称えられるとかで、一旦呼び戻されたんだ」

 王平はそれが腑に落ちないようだった。

 彼女が長安周辺の地で部隊長として訓練に参加していたときは、空気が戦場のそれの様に痛いくらいに肌をチリチリと焦がしていた。まったくの戦争状態に感じられた。

 だが、洛陽に来てみれば、その感覚は嘘のようになくなっていた。自分がこれから中牟県に行くことでさえ、どこか信じられなかった。

「儒者の推挙が、どれだけすごいことか分からないけど、こんなときに校尉を呼び出してもいいのかな?」

 王平は、ポツリと漏らした。

 だが、若蘭からは別のものが見えていた。それは伯業様の擬態だ。彼女は直感的に断定した。

 この認識の違いは彼女たちの儒教的な教養の差だった。

 俯瞰的な視野で眺めると、この時期の袁遺は『徳』を求めていた。

 『徳』、たった一文字、音にすれば二音。実体のない、あやふやなものだが、それこそが天下を制するうえで必要不可欠なものだと袁遺は知っていた。

 中華に限らず、歴史上の多くの王朝、帝国が儀礼主義(宗教的なものも)によって自身の権力を鎧ってきたかを考えれば、その必要性は簡単に理解できる。

 いや、袁遺にはもっと身近な例があった。

 自身が破滅させた従妹の袁紹である。政治的宣伝工作に敗れ、儀礼主義で自身の権力を鎧うことができなかった彼女は力に依る支配に頼った。

 確かに、力がなければどうしようもないが、力だけでもどうしようもない。

 そのことを袁遺に突かれて、袁紹は破滅した。

 袁遺と曹操の衝突が避けられなくなった今、前にも述べたが、袁遺は天下から曹操を使い捨てたと思われてはいけなかった。

 それは『徳』を失う。

 主に名士たちにそう思われないように、袁遺は擬態を要求されていた。

 以上は俯瞰的な視野で眺めた場合で、実際、若蘭はここまで踏み込めていなかった。だがそれでも、袁遺が大義名分を重んじていることは理解できた。かつて長安で宣伝工作の重要性を袁遺に説かれている。

「でも、張校尉が称賛を受けるのは良いことでしょう」

「それはそうだけど」

 かつての上官が何らかの栄誉に浴するなら、ふたりは素直に喜べた。張郃は彼女たちにとって尊敬できる上官であった。

「時間はある?」

 若蘭は王平に尋ねた。

 王平は、あると答えた。

 お茶にでも付き合ってくれない。若蘭は言う。

 王平は笑顔で応じた。

 てきとうな店に入って、彼女たちは茶と甘味を楽しんだ。

 そこでも王平は戦時の臭いをまったく感じなかった。

 しかし、中牟県に赴任すると、それは一変した。長安の近くで訓練していたときは比べ物にならないくらい、前線の雰囲気が中牟にはあった。緊急展開可能な軍と訓練中の軍の違いだった。

 

 

 現在の中華はマーブル模様の様に平和と戦時が入り混じっていた。

 




補足

・黄巾の乱の折、袁遺は雛里がどういうタイプの軍師か考えたことがあった。
 甲の章3  オーダー・オブ・バトル(前)を参照。

・勝敗を決する決定的戦域とは、どのようなときでも―――
 第一次世界大戦中、イギリスの海軍大臣であった(後の英国首相である)ウィンストン・チャーチルが彼自身の行動方針として書き残したものの中のひとつ。
 勝敗を決する決定的戦域とは、どのようなときでも、その地において決定的な勝敗が決せられる戦域を指す。これに対して主要戦域とは、主要な軍隊や艦隊が展開される戦域を指す。主要戦域が必ずしも常に決定的戦域となるわけではない。
 この言葉の通り、ガリポリの戦いを英国(というよりチャーチル)は第一次世界大戦で決定的戦域にしようとした。
 だが、一九世紀以降ヨーロッパの列強に対して敗戦を重ねてきたヨーロッパの病人と蔑まれたオスマン帝国を甘く見た結果、ガリポリの戦いはイギリスおよび連合軍の敗北に終わり、チャーチルは海相を罷免される。
 このガリポリの戦いがチャーチルの思惑通りに行っていれば、第一次世界大戦はもっと早くに終結していたという研究もある。
 そうなればチャーチルの言葉通り、ドイツとフランスが戦う西部戦線でもなく、ドイツとロシアが戦う東部戦線でもなく、トルコで第一次世界大戦の帰趨が決せられることになっただろう。
 そうなれば、海外投資の減少、軍需産業以外の産業の減退、アメリカと日本の台頭、ロシア革命やアイルランド民族運動などが起きなかった、もしくはその発生が遅れたため、イギリスはもう少しだけ覇権国家でいられた可能性がある。

 アルキダモス戦争については戊の章でペロポネソス戦争含めて詳しくやることになると思う。

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