6 軍師たち
郭嘉は一抹の不安を拭い去ることができなかった。
彼女は自分の主である曹操―――華琳が、これから起こる戦争を究極的に自分対袁遺の戦いであると感じ取っていると直感していた。
それは華琳の外交方針に強くにじみ出ていた。
洛陽で賈駆から冀州経営の白紙委任状にも等しい好きにしろという言葉を引き出してから、華琳はまず并州の匈奴と接触し、独自の外交チャンネルを形成した。
納得できない并州牧から苦情が寄せられた。明らかな越権行為である。
それに華琳は、賈駆から許可を取っていると押し切った。
挑発的、挑戦的といえる越権行為である。
そして実際に、華琳は漢王朝から咎められることを恐れていなかった。
というのも、以前にも述べたが、彼女にとって現在の漢王朝とは董卓や袁隗、袁遺によってかろうじて保っているだけのものに過ぎない。
だから、反董卓連合直後の頃ならともかく、軍事力が回復した今では董卓や袁隗、袁遺の風下に立っている気など、さらさらないという認識をごく自然と持っていたのだ。
ただし、同時に冷静な計算も行われていることが、華琳を覇王気取りの禹歩舜趨の輩に終わらせなかった。
今、最も警戒しなければならないのは袁遺からの奇襲的な先制攻撃である。
だが、本当にそれは袁遺に可能なことなのか? いや、そもそも本当に袁遺にその気があるのか?
細作を派遣して調べたところ、袁遺軍で即時展開できるのは―――町々の軍レベルではない警察組織を抜かせば―――中牟県の呂布と王平の部隊くらいである。それ以外の部隊は訓練中、もしくは再編中である。
はっきり言えば、先制奇襲など不可能だった。
それならば、袁遺軍の侵攻は恐ろしくない。
ここ最近の、とかく風聞に気を遣う袁遺の様子を見るに、この越権行為を理由に兗州、冀州へと袁遺が侵攻するとなると、間違いなく迂遠な手続きを踏むはずだった。
まずは官を派遣し、華琳に并州の越権行為を問いただす。
華琳は当然、強硬な態度で臨む。
となると、袁遺は軍の動員を行いつつ詔を受け、洛陽を発つことになる。だが、それより先に自軍の準備を終え、万全の態勢で迎え撃つ自信が華琳にはあった。
その自信を肯定するかのように、朝廷は并州牧の陳述に対して、調査するとだけ伝えると事実上この件を黙殺した。
華琳の読み通りだった。
また、孫策陣営との接触も細心の注意を払いながらも、強気な外交態度で臨んだ。
孫策は袁術からその地位を奪う様に独立した。
一応、袁術は袁遺が冀州に遠征している隙に他州に攻め込もうとしていた、父祖の旧地を回復するなどの名分を宣伝しているが、誰もが正統性を認めていなかった。
袁術の非を鳴らしているが孫策自身は漢王朝に臣下の礼を取るわけでもなく、父祖の旧地と言いながらも奪った九江郡と孫家には何の所縁もない。孫策には何の大義名分もなかった。
そのため、孫策側との接触には細心の注意を払い、その事実を誰にも覚られないようにする必要があった。
華琳が治めている冀州の名士たちは、袁遺ひいては漢王朝に降ったのであって、華琳に降ったのではない。彼らを治めるには大義名分が必要である。賈駆の失言と事実上の黙認という一応の名分がある越権行為ならともかく、敵対勢力との接触という利敵行為は名士たちからの評判は間違いなく悪くなる。それは冀州統治にとって大きな問題であった。
そのため、接触は慎重に慎重が重ねられ、謀略が練られた。
曹操陣営も、董卓・袁隗陣営が多くの細作を自分たちに回していることを、その正確な数は分からなかったが感付いていた。
その目を欺くために必要な労力だった。
そして、その労力の大部分は華琳の軍師である程昱によって担われた。
「お初にお目にかかります、陸伯言です」
丸眼鏡を掛けた、薄い緑色の髪の女性―――陸遜が口を開いた。
「まずは、この様な恰好であることをお許しください」
彼女は商人風の着物を纏っていた。赤紫の羽織は、ところどころ錦糸が擦れる様に縫い込まれている高級品である。それと陸遜の隙のない穏やかな雰囲気とが、彼女を商いが成功している大商人に見せていた。
「いえいえ~、こちらの事情を汲んでのことですから、お気になさらず」
それに程昱は如才なく応じる。
「私は費亭侯より今回の交渉で全権を与えられた程仲徳です。以後お見知りおきを」
力の抜けた調子で程昱は言う。
両者は豫州沛国譙県で会談した。譙県は曹操の故郷である。
譙は孫策という敵が出現したことで、戦火に晒される恐れが出てきた。そのため、程昱は主の曹操に進言した。
「故郷とそこに眠る先祖の墓を守るのは孝に当たります。物資を故郷に送って、孫策の西進に備えるのはいかがでしょう」
曹操はそれを受け入れ、その物資の輸送の指揮を程昱に任せた。
こうして、程昱は譙に赴いたが、同時に孫策の軍師である陸遜も寿春から商人に化けて秘密裏に譙へと向かった。
物資の輸送は曹操陣営と孫策陣営の会談のための隠れ蓑だった。
「以前にもお伝えした通り、我が主・孫策は費亭侯と手を結び、袁遺と対抗することを望んでいます」
やや間延びした口調で陸遜が言った。
「それについて費亭侯は、孫殿が具体的に何をやってくれるのかを非常に気にしておりました」
程昱は尋ねる。
曹操からすれば、孫策という陣営は袁遺と手を結ばれると厄介だが、手を結ぶとなると問題がいくつも付きまとう面倒な存在であった。
袁遺と手を組まれた場合、袁遺という策謀に長けた男が孫策をいかに利用するかということを考えなければいけない。そして、対応を考えさせられているということは、後手に回っているということであり、敵に主導権を奪われているということだった。それは間違いなく良くない。
しかし、孫策と手を組んでも、その旨みは薄かった。
「はい~、孫策様は袁遺の故郷である汝南に攻め込むと仰られております」
場違いなほど、にこやかに陸遜は答えた。
「故郷を侵されることは体面に関わりますから、袁遺さんも迎え撃たなければなりません。袁遺軍を引きずり出すことができます。費亭侯は背後から袁遺軍を攻撃してください」
「それはそれは……」
一聴すると悪くない作戦に聞こえるが、程昱は冷静にその作戦の困難さを看破していた。
孫策軍は味方としては、まったくと言っていいほど頼りないのである。
それは孫策軍が弱いと言うより、孫策たちの置かれている状況が悪過ぎた。
孫策は荊州の劉表と下邳・広陵の張姉妹という敵を抱えてしまっている。
程昱はひとつの噂話を思い出した。
その出所は劉表陣営であると程昱はあたりを付けていたが、袁遺が孫策のことを南の袁紹と扱き下ろしたというのである。
その言葉通りに、孫策の状況は袁紹と酷似している部分があった。
孫策は二万の兵を抱えているが、その全てを袁遺との戦いに投入できなかった。袁遺の反対側の徐州には張邈と張超がいる。常に背後に備えて軍を割かなければならなかった。投入できるのは一万程度である。
如何に孫策軍が精強と言っても、豫州に攻め込むには一万は心許ない数字であった。
豫州牧である周昕は軍事方面で派手な功績はないが、それでも戦意が欠けた男ではない。豫州の人口から考えると一〇万の軍を動員して防衛に当たり、袁遺に策を弄するだけの時間を稼ぐだろう。陸遜が言う、後背を突く作戦は決して成功率が高いものではない。
こちらと袁遺さんを争わせて、両者を疲弊させようとしていると考えるのは穿ち過ぎですかね……
程昱は考える。
「悪くはありませんが、こちらにも策がありますので」
その言葉は強がりでも相手を試しているのでもなく、事実だった。
曹操には孫策に頼らなくとも独力で袁遺を打倒せるという自負がある。
「さすがは費亭侯ですね。あの袁伯業が恐れているだけのことはあります」
穏やかに追従する陸遜であったが、このとき両者の中ではひとつの心理戦が展開されていた。
程昱と陸遜は、ここまでのやり取りで両陣営の外交方針を正確に掴んでいた。
曹操陣営からすれば、孫策と手を結ぶ旨みがない。
上で挙げた様に独力で袁遺と渡り合えるという事実もあるが、経済的な諸問題も関わっていた。
過去にも触れたことだが、揚州と曹操の故郷である譙が近過ぎるという問題がある。
袁遺との戦いが終わった瞬間に曹操と孫策は争うことになる。
それは袁紹との戦いが終わった瞬間、双方が互いの利益を害するようになった袁遺と同じであるが、ここでも孫策は荊州の劉表と下邳と広陵の張姉妹という敵を抱えているという点が問題になってくる。
この両者は孫策陣営にとって大きな障害となっているので、孫策と敵対した場合、袁遺がやったように両陣営を利用し孫策に対して有利を得たい。
しかし、曹操と以前から親交があり、その勢力の規模から曹操に頼らなければいけない張邈たちとは違い、劉表と上手く手が結べるかが問題であった。
現在、曹操は―――董卓・袁隗陣営もそうだが―――経済的諸問題を抱えている。
袁遺に勝ったからといって、それは解決しない。
むしろ、孫策陣営の提案に乗れば、豫州にまで戦争の傷痕を残すことになる。
そうなれば、経済状況はさらに逼迫し、南への経済的依存がさらに強くなるだろう。
劉表にとって敵である孫策と手を結んで、劉表にとって味方である袁遺と戦うのは、確実に劉表陣営からの心証は悪くなる。
孫策は怖いが曹操も信用できないと思われれば、現在の経済的支援が縮小される可能性は高かった。孫策に対抗できる程度の力はあって欲しいが、大きくなりすぎても困ると経済的な枷を嵌められるのだ。
だから曹操側の外交方針は、孫策に袁遺とは絶対に手を結ばせずに、こちらとも敵対させないという適度な距離を保つものだった。
そして、程昱は孫策側も自分たちと同じような方針でこの会談に臨んでいるという確信に近い予想を立てた。
袁遺と曹操の疲弊は孫策に時間的余裕を与える。
その得た時間で孫策が何をするか、問題はそれである。
程昱は脳裏にふたつの可能性を描いた。
ひとつは江南の地へと進軍し制圧する。もうひとつは徐州への侵攻である。
前者は長江という天然の要害があり、影響力の濃い故郷を基盤として態勢を立て直す。これで寿春が袁曹のどちらに対しても橋頭堡となり、両者の喉元に刃を突き付けている状況になるだろう。
対して、後者は袁遺が作った孫策包囲の一角を崩すことである。徐州の張姉妹さえ取り除けば、孫策は今よりは動きやすくなる。
そのどちらも袁遺と曹操の戦いには関係ないものである。
妥協点はここですね。程昱は思った。
袁遺という強大な敵がいる状況で、曹と孫、両者は手を取り合うでもなく争うでもない、距離を取るという選択肢を選んだ。
曹操は孫策という不安要素を気にせずに袁遺と対決することができ、孫策(そして、それ以上に周瑜)にとって、袁遺と曹操が轡を並べて攻め込んでくるという最悪の状況は避けられた。
もっとも、これは華琳に袁遺に勝つことができるという強力な自負があってこその強気な選択であった。
このふたつの外交から郭嘉は華琳の強気な態度が袁遺を意識したものだと感じ取った。
そして、それは間違いではなかった。
華琳―――曹孟徳には解決しなければならない問題があった。
それは反董卓連合のときに軍を叩かれ、一時的にでも董卓・袁隗体制の下についたという事実であった。
曹操は天下を手中に収め、乱れた世を正すのは自分であるという天命を感じている。この天命は他の名士たちにも、そう思われなければならない。曹孟徳しかこの乱世を治める者はいないと。そう思われてこそ曹操の天下取りが正統性を帯びることになる。
だが現在、彼女の将や軍師の極一部しか曹孟徳に乱世の終焉を見出していない。
天下の多くの人間は袁遺に、それを見出している。
儒家からの高い評価とこれまでの戦争で証明してきた軍事的才能、互いの利害を絶妙に調整する外交手腕、それらを使って積み上げてきた功績がもたらす袁遺の個人的な権威を曹操は上回らなければならなかった。
それ故に挑戦的な強気な態度をとっているのだった。
そこには曹孟徳の思想や美意識を見ることができる。
彼女の中には(例えば儒教という)儀礼主義を用いて自身の権力を正当化するという考えがない。曹操は軍隊や刑罰というむき出しの力だけで、それを獲得できると考えている。
自分が英雄と認める者たちを倒して、倒して、倒して……覇王として君臨する。
そのために現在この大陸で最も畏敬されている袁伯業という男を打倒さなければならない。かつて一時的にでも膝を屈してしまったという不名誉を雪がなければならない。
ターゲットにされた袁遺からすれば迷惑な話であろう。袁遺という人間の感性や認識、知性からすれば、曹操のそれはホメロスの叙事詩の精神性に近い。集団の中で抜きんでた名誉を手にするために互いに競い合う。そうした
郭嘉はここまで深く曹操と袁遺の心理を読み取ったわけではないが、それでも曹操と袁遺の間に存在するズレを感じ取っていた。
それは袁遺の戦術を研究したからであった。対袁遺の戦略を計画することになった郭嘉には必要なことだった。
反董卓連合、徐州遠征、冀州遠征、これらの袁遺の戦略を分析して郭嘉は袁遺が運動戦を重視していると断定した。
彼女は思う。
袁遺は決戦に重きをおいていない。どころか、無意味なことだとすら考えているかもしれない。
何度も述べてきたことだが、決戦は戦力を一か所に集中してその一点で勝敗を決めてしまう戦いである。
対して、運動戦は面で戦う。決められた戦域で相手の意図を挫き、こちらの意図をより多く達成して相対的な有利を築く。反董卓連合や冀州遠征でその運動戦の特性は色濃く出ていた。
だから郭嘉は奇襲により相手の準備が不十分なうちに、こちらが望む決戦を袁遺軍に強要するつもりでいた。
まずは、本軍。
鄴から予定戦場である巻と敖倉の間の平野は約二〇〇キロ。軍の規模と途中に黄河を渡ることを考えても、どんなに遅くとも出発から一〇日くらいには到着できる計算であった。
そして、陳留の支軍は、その本軍の側面援護である。
現在、中牟県には袁遺軍の中で唯一、即時展開可能な呂布隊と王平隊が駐屯している。これが遅滞戦闘を行ってくる可能性が高い。時間を稼がれるのはまずかった。
だから、支軍は中牟県の軍を抑えるのが当面の任務で、時機を見て本軍に合流する予定であった。
やや余談になるが、この支軍は軍師の荀彧が事実上の指揮を執り、武将では夏侯淵、李典たちがいる。
素早く司隷東部を抜けて袁遺軍と雌雄を決するこの作戦を考えている間、郭嘉はともかく袁遺について考え続けた。だから彼女には分かる。袁遺は曹操が望むような英雄同士の戦いなど絶対に行わない。
郭嘉はそのことを主に言うべきか迷った。
だが、言えなかった。
曹操―――華琳が袁遺との戦いを心底楽しそうにしていたからだ。
勝てばいい。勝ちさえすれば、華琳様が袁遺よりも強いと。華琳様こそが天下を統べるにふさわしいと四海の人々に示せる。主君と戴いた人物に天下を取らせるという、軍師にとっては采配の振るいがいのある戦場ではないか。郭嘉はそう思って、言葉を飲み込んだ。
だが、彼女は一抹の不安を拭い去ることができなかった。
一抹の不安という点では、孫策の軍師である周瑜も同じであった。
「―――というわけで、現状、曹操さんが敵に回る可能性は低くなったと思います。それと、間違いなく曹操さんたちは董卓・袁隗……いいえ、袁遺さんとの全面対決の準備段階にあります」
「良くやってくれたわね、穏」
寿春の城、その一室で孫策と周瑜は穏―――陸遜から譙で行われた話し合いの報告を受けた。
陸遜を労った孫策以上に、周瑜は心の中で陸遜を称賛していた。
袁遺と曹操が手を組む。現在の孫策陣営の軍師としては、これ以上恐ろしいことはなかった。
それが回避できたのだ。陸遜の働きは孫策陣営の壊滅をまぎれもなく防いだのだった。
孫策は明るい声色で続けた。
「疲れたでしょう、穏。ゆっくり休んでちょうだい」
それに陸遜は、は~~いと間延びした調子で応じ、何かを心得たように自分の屋敷に帰っていった。
曹操陣営との接触……いや、それを含めた孫策の外交状況を正確に把握しているのは孫策本人を抜かせば、周瑜と陸遜のみであった。
今回の譙での会談は孫策陣営内でも秘密裏に行われた。
曹操と孫策の接近が天下に知れ渡ることは曹操陣営にとって害しかない。曹操に袁遺の打倒を願っている孫策陣営からすれば、曹操にとって利にならぬことはするべきではなかった。
もっとも、曹操と袁遺の戦いが―――曹操の勝利で―――終わった場合、曹操との関係は一気に険悪なものとなる。そのときに、今回の会談の噂を流し、劉表に曹操への不信感を植え付けるつもりであった。
「曹操の方は何とかなったけど、袁遺……いいえ、袁隗の方はどうするの?」
陸遜が去った後で、孫策が口を開いた。
「今はこのまま交渉を引き延ばすしかないわね」
それに周瑜がやや沈んだ声で応じた。
「それなら、こっちもみんなには内緒ね」
孫策の独立の早い段階で、袁術の滅亡後、孫策に鞍替えした寿春の地方豪族を通じて袁隗が接触してきた。
曰く―――速やかに九江郡を明け渡すなら孫策には呉郡太守の地位を用意し、主だった配下にもそれなりの地位を与えるとのことだった。
袁隗の話を聞いたとき、孫策の勘が罠だと告げていた。
そして、周瑜も真っ先にその危険性を進言したのだった。
主だった配下に与えられる官職には江南の地を遠く離れた洛陽へと赴かなければならないものもあり、他にも孫策と同等である太守の地位もある。
これは、はっきり言うなら孫策陣営の解体であった。
有力な配下や一族を孫策から物理的に遠ざけたり、もしくは孫策と同等の地位に就けることで君臣の境界を曖昧にする。
例えば、孫策と―――廬江太守を打診されている―――周瑜のふたりの間では、たとえその地位が同等になろうとその友情や信義、忠誠が揺らぐことはないが、周りは違う。独立独歩、割拠的な性格を帯びる揚州の気質を考えたとき、地方豪族たちは孫策と周瑜を同等の力を持っていると見做すだろう。そうなれば、孫策の揚州での求心力が自然と落ちる。
それに思い至ったとき、周瑜は目の前が真っ赤になった。袁隗と自分との孫策の評価の差が大きいことに怒りを覚えたのだった。
もちろん、袁隗は孫策を侮っているわけではない。
姪である袁術を追い落として寿春を占拠したのである。袁一族としても恥をかかされたが、現在の漢王朝の体制に反旗を翻す行動でもある。それを不問に付すというのである。譲歩したと間違いなく言える。
それに孫策陣営の解体にしても孫策を恐れての行動である。侮られていることは決してないが、それでも譲歩の結果が太守か、と周瑜は怒りでこぶしを固めた。
だが、周瑜の軍師としての部分が震えるほどの怒りの裏で冷静に計算を行っていた。
親友であり、主である器量がたかだか太守に見積もられたことの責任の一端は自分にあると彼女は自覚していた。独立から今まで、何ら有効な手を打てていない現状がその値をつけさせたのである。それは軍師である周瑜自身の不手際でもあった。
袁隗が孫策を低く評価するのは、それだけ袁遺を高く評価しているということである。袁遺なら必ず孫策を打倒するということが根底にあるからこその見積もりだった。
そして、周瑜は事実として袁遺を脅威と認識している。怒りに任せて徒に戦をしていい相手ではない。戦うためには戦略をしっかりと定めて戦わなければならない。
周瑜にとって幸いなことに、親友であり主君である孫策もまたその点を理解していた。
低い評価に腹が立ったが、今のわずか一郡を抑えただけで、劉表や張姉妹という敵に囲まれ、将来のことを考えれば信ずるにはあまりにも危うい曹操のみが味方という状況で袁遺と戦うのは圧倒的に不利である。
そんな中でふたりのとった行動は程昱が予想した通り、袁遺と曹操がぶつかっている間に江南の地を制圧し、そこに勢力基盤を移すことだった。
そうすれば、攻めは寿春を橋頭堡とし、袁遺、曹操の両者の故郷への侵攻を容易にする。そして、防御は長江という天然の巨大な堀が袁遺か曹操か、その勝者の南下を防いでくれるだろう。
だから、袁遺との戦いを先延ばしにすることを考えれば、この袁隗の勧告のことは身内にも秘密にする必要があった。
何故なら、その内容を知れば、間違いなく妹の孫権、孫尚香をはじめ臣下たちも、侮られていると怒りを覚えるだろう。
古くから孫策に付き従っている臣下たちならよいが、袁術から独立後になし崩し的に従っている者たちが、そんな風に侮られているのに袁遺との戦いを先送りにする孫策を弱腰だと感じ、見限る恐れがあるからだった。また、江南で風見鶏を決め込んでいる地方豪族にも弱みは見せるべきではなかった。
秘密を守るためには秘密を知る者を限定するべきである。わずかに陸遜のみにそれを明かして、程昱との会談に赴かせたのだった。
そして、陸遜は曹操と袁遺の衝突が間違いないという情報を持って帰ってきた。
周瑜は、これで安心して江南に侵攻できると思った。江南を制圧して、今の不安定な状態から脱出できると。
だがしかし、周瑜の心中に一抹の不安が芽吹いていた。
その脳裏に袁遺が冀州遠征で見せた魔術的手腕が蘇った。
もしも、袁遺の軍事的才能が陸の上のみに限定されるものでなかったら……もし、あの男が水上でも異常な存在であったら……
周瑜は願った。
曹操が袁遺に勝つことを。そして、袁遺の頸を刎ね飛ばすことを。
ともすれば、江南制圧の成功よりも強く袁遺の敗北と死を願っていた。
「曹孟徳との戦争でいかな利益が上がるか、私はそれを考え続けてきた」
袁遺の口から零れる様に発せられる言葉に雛里は耳を傾けた。その表情は、一言も聞き漏らすまいとした真剣なものだった。
今、後将軍府には雛里と彼女の主である袁遺しかいなかった。
袁遺の周りには『毛詩』『楚辞』や洛陽で詩家たちが詠んだ詩が書かれた書簡が山のように積まれていた。雛里の周りに積まれているのは、袁遺とその参謀たちが計測してきた司隷東部―――巻や敖倉付近―――の地形をまとめた書簡であった。
宛へと行く司馬懿と別れて洛陽に帰ってきてから、袁遺は雛里と彼女の下につけられた参謀たちに測量してきた地形にどのような工事を施せば強力な防御力を得らるか考えろと命じた。謂わば、野戦陣の設計である。
そして、袁遺は洛陽令として働く以外は儒教の経典や詩を読み漁り、ときたま―――
「下見長城下 尸骸相支柱」
「傳告後代人 以此爲明規」
と詩で感じいる部分をため息を零す様に呟くのだった。
そんな日を四、五日過ごすと袁遺は、一日の仕事を終え帰って行く参謀たちの中で雛里のみ残るよう命じて口を開いた。
「部下の中では君と仲達のみに、話しておこうと思ったんだが……」
そう前置きして、曹孟徳との戦争でいかな利益が上がるか、私はそれを考え続けてきた、と袁遺は言った。
利益―――袁遺の戦争観で最も重視していると言っても過言ではない要素である。雛里もそのことは十分に理解していた。
「……それは野心の塊の様な曹操さんが天下を狙い、現在の秩序を壊すことが目に見えていますから、その秩序を守るために戦うのではないんですか?」
雛里は尋ねた。
それに袁遺は肯首した。
「そうだが、それ以外の利益もないか考えてみた」
「……あったのですか?」
「あった」
袁遺の顔はいつもの無表情であった。特に小さく無機質な瞳がそれに拍車をかけていた。
「曹孟徳自身だ」
「えっ……」
雛里は小さく言葉を漏らすと、袁遺の顔を凝視して尋ねた。
「それは……どういう……?」
「才能だよ、彼女の。彼女の才能が漢王朝にとって有益なんだ」
雛里は思う。確かに曹操は陳留太守のときから善政を行っていると評判であり、その軍の強さも主の袁遺が常に警戒し続けるほどだ。能力、才能という点では文句のつけようがない。しかし―――
「……確かにすごい才能ではありますが、大きな権限を預けるのは今回のように武力衝突に発展する危険が常に付きまとうのではないでしょうか……?」
曹操が天下という極彩色の野心を捨てぬ限り、叛乱の危険があった。
「権限は与えない」
だが、袁遺は雛里の心配を斬り捨てた。
「君の言う通りだ。彼女の野心は彼女の政治や軍事といった能力の魅力を台無しにし、損なわせる。特に私はどうしようもないくらい猜疑心とは縁が切れない男だ。だから、彼女のその手の才能は魅力というより脅威にしか感じない」
その無表情な顔に嫌なくらい似合う冷たい言葉だった。
「私が利益になると思ったのは彼女の詩文の才能だ」
「詩文の……」
そうだ、と袁遺は頷き、書簡を片手に話し出した。
「文化は力となる。地方に割拠する群雄と正統性を競うにも、内に対して自分の権力を正当化するにも役に立つ」
「……その……曹操さん以外にも優れた詩家の方は大勢いると思います。それこそ伯業様自身もそのひとりのはずです。曹操さんでなければならない理由があるのですか?」
雛里は尋ねた。
「一言でいうと、我の強さだ」
「我……?」
「そう、我だ」
後漢後期、詩の世界でひとつの流行があった。それは五言の楽府を真似て作品を作ることである。
五言とは一句が五字からなる詩のことである。そして、楽府とは前漢の武帝の時代に設立された民間の歌を収集し記録する役所のことであり、いつしかその集められた歌がその役所名をとって楽府と呼ばれるようになった。
例えば、陳琳の『飲馬長城窟行』は同名の楽府を下敷きに労役によって離れ離れになった夫婦の悲哀を書いている。
「現在の主流は誰の者とは分からない普遍性を詠むことに対して、曹操は具体的な情景に対して自分の心情を詠むんだ。それが一種の力強さとなっている」
普遍性を詠むのが一般的な世界では、過剰な感情が噴出したような詩を詠むためには強大な自我を持つ必要がある。曹操にはそれがあった。
個性の自覚からくる力強い表現―――後世で『建安の風骨』と称される作風である。
「それは俺には無理だ。俺の詩は典故を多用し、相手の知識や想像力に任せる部分が多い。彼女ほどの力強さはないよ」
典故とは古典の故事を引用する修辞技法である。隠喩とも言う。
四言律詩でも、五言律詩でも、七言律詩でも、ともかく漢詩は一句の字数は限られている。そこで有名な人物や場所、出来事を詩の中で言及することによって、その故事を読者に想起させ、詩の世界に奥行きを与えるのだった。
それは読者の知識量に頼る面があるし、力強さというよりも構成の巧みな繊細な作風である。
そう言った袁遺の顔に僅かながら感情が浮かんでいた。それは袁遺が一瞬見せた文人・袁伯業としての表情だった。
「ここ最近いろいろと詩を詠んだが、乱世の影響か……ともかく悲愴感と不思議な力強さが同居する詩が多い。このままいけば彼女を先頭に詩の世界が大きく変わる。それは新しい価値観の創造だ。文学が大きな文化力を持つことになる」
雛里はその創造された文化力を袁遺がいかに使うかは分からなかったが、袁遺のこれまでの名士の対応や外交の巧みさを考えれば、また上手く物事を運ぶだろう。しかし、軍師として絶対に確かめておかなければならないことがあった。
「曹操さんの持つ利益は分かりましたが、曹操軍は強敵です。曹操さんを手に入れるために策を捻じ曲げるわけにはいきません」
「分かっている。勝つことが第一だ。ただ君と仲達には私がいきなり彼女の首を跳ね飛ばす気がないことを知っておいてほしい」
袁遺は口元を僅かに歪ませて続けた。
「勝利しても、皇帝を擁するこちら側に弓を引いた彼女を助命するだけでも面倒なことが多くあるだろうからね」
荊州の劉表には内憂外患がある。
外患とは孫策である。
その危険性については、これまで何度も触れてきたため、ここでは語らない。
内憂とは後継者問題であった。
劉表にはふたりの息子がいる。
長男はもうすでにこの世を去った先妻の陳氏との間に生まれた劉琦、次男は後妻である蔡氏との間に生まれた劉琮である。
家の存続と繁栄を考えれば、多くの子をもうけなければならないが、跡継ぎの資格を持つものが複数存在した場合、いくつもの問題も発生した。長男よりもその下が優秀な場合などが、その例である。頼りない長男よりも優秀な次男以下に家を継がそうという働きが必ず出てくる。
何故なら、そこには組織につきものである派閥争いが絡んでくるからである。現状において不遇をかこっている一派が、盛り返しを期待して弟の下に集まるのであった。
劉表の後継者問題もその典型であった。
長男の劉琦側についているのは他所から流れてきた儒学者を中心とした名士であり、次男の劉琮を推しているのは彼の生母である蔡氏の一族を中心とした襄陽の名士であった。一応、劉琦派にも荊州在来の名士もいれば、劉琮派にも外から流れてきた儒学者がいるが、それは例外の範囲に収まるものである。
つまりは、この兄弟の争いとは荊州で最大規模の地方豪族である蔡一族と、その蔡一族に反感を持っている名士の対立であった。
これまで劉表はその争いをなるべく穏やかな手段で収めようとしていた。
その様子に両派閥の人々は、劉表を優柔不断な人物だと噂した。
劉琦派は儒教の倫理観で考えるなら跡継ぎは長男であると言い立てた。劉琮派―――特に妻である蔡氏は、あなたが今の荊州牧の地位にあるのは我が蔡一族という後ろ盾があってこそであり、当然その後は自分が産んだ子が継ぐべきと憤慨した。
だが、本当の劉表はかなりの名業師である。
でなければ、内では在来の名士と他所から移ってきた名士が対立し、外では群雄が割拠する状況で、荊州という兵家必争の地を治めることはできない。
しかし今、状況が変わり、劉表に事を穏便にすましている余裕がなくなったのだった。
外患である孫策にぶつけようとした駒のふたつである袁遺と曹操の対決が近い。
劉表はこのふたりがぶつかることを政治的な必然だと断じていた。
利益によって結びついたふたつの勢力が、お互いに何ら利を生み出さない存在になったとき、その関係が険悪となるのは外交では基本的なことである。何ら不思議なことではない。
しかし、袁遺と曹操がぶつかっている間に孫策が自由に動けるのが問題だった。
劉表やその参謀たちは、孫策は揚州に侵攻すると予想していたが、それでも万が一、荊州に来た場合、非常に厄介だった。
蔡瑁の立場をもう少し安定させなければならない。劉表はそう思った。
以前にも触れたが、孫策(以前の仮想敵は袁術であった)が攻めてきた場合、迎え撃つのは劉表の義兄である蔡瑁になる。
孫策軍の規模を考えると荊州全土を占拠されることはあり得ないが、戦況が不利になるとその責任を蔡瑁に求めて、反蔡一族の名士たちが政治的に攻撃するのは確実であった。
そうなっては蔡一族の軍事力を拠り所のひとつとしている劉表の立場も危うい。蔡一族のみが力を持つのは困るが、力を失っても困る。
さらに面倒なことに、自分の子供たちが後継者争いに乗り気ではないことだった。
長男である劉琦は義理をよくわきまえた孝行心に富んだ人物であるが、病弱であり、自分の思惑や器量を超えた後継者争いに心身ともに疲弊していた。
次男である劉琮も聡明な面を見せているものの、その年齢はまだ十四歳と決して成熟した大人とは言えず、自分の意志というより母である蔡氏が強く望んでいるために仕方がなくリングに上がらされたという状態だった。
奇怪な政治的位置に立たされた劉表はひとつの決断をした。
その心理状態は焦った故の開き直りのそれであったと言える。劉表は思った。今のようなときには、普段では絶対に打たない窮地のときの一手を打つ必要がある。
そして、ひとたび決断すれば、劉表の行動は早かった。
彼はすぐに自身の謀臣である蒯越を呼び出した。
蒯越は能力もさることながら、劉琦派、劉琮派のどちらにも属していないのだった。
「なかなか思い切った考えでございますね」
襄陽の城の一角にある書見の間で、蒯越は呟く様に言った。
「いろいろと考えたが、これしかないような気がしてきてな」
答えた劉表は顎のほっそりとした優し気な顔に、どこかとぼけた雰囲気を漂わせていた。
「それに、この密謀を異度の他の誰に話していいものか見当がつきかねた」
蒯越はその言葉に、苦笑にも似た顔をした。劉表の腹芸に感心しながらも、呆れていたのだった。
「そこまで主に見込まれたからには是非もありませんが、それでもご長男をこの荊州から追い出す先鋒を務めるのは心が痛みますね」
劉表が打とうとしている一手とは、長男である劉琦を遊学という名目で洛陽へと送ることであった。
劉琦は、ありていに言ってしまえば人質である。
しかし、下手に荊州にいるよりも安全であった。経済的に荊州に依存しつつある漢王朝で、劉琦の扱いはかなり手厚いものになるのは間違いない。
と同時に、荊州から追い払われることでもあるから、劉琦は後継者レースからほぼ脱落したとみなされるだろう。
「琦は恨まん。琦には琮を蹴落とそうという気力がない。悲しいかな。それだけの才能がないことも、支えてくれる賢者もいないことも自覚しておるからな」
「言葉は悪いですが、ご長男についている方々は荊州に勢力基盤を持たない故に逆転を狙っている方々ですから、弟君についておられる方に比べえると、どうしても頼りなく思えますね」
蒯越は劉琦自身への言及を避けながらも相槌を打った。
劉琦は確かに荊州から追い出されるが、劉表は劉琮を正式な後継者だと内外に発表するつもりはなかった。後継者争いを一時的に劉琮優勢に傾け、相対的に蔡一族の立場を強化する。
「問題は都の方だ」
「…………都に、奇貨居くべし、とでも考える輩がいると」
奇貨居くべし―――秦の宰相であった呂不韋が、趙で人質となっていた秦の公子(後の荘襄王)を目にしたとき、呟いたとされる言葉である。公子とは、太子以外の王族の男を指す用語である。
これは珍品だ。仕入れておこう。その言葉通りに、呂不韋はこの公子を援助し、とうとう秦の王位に就け、自身は一国の宰相の地位に上るのであった。
つまりは、強大な富と力を持った者が劉琦を傀儡として、荊州を事実上支配するのではないかという懸念であった。
呂不韋は始皇帝が失脚させたが、劉表は自分の息子にそのような力がないことを知っている。
「それは袁伯業が力を持っている間は大丈夫です。こちらが利益ある存在のうちは、袁遺は決してこちらの不利益となることは致しません。自分が利益がある存在だということを必死に示すために、そのような輩は排除するでしょう」
蒯越が続ける。
「どころか、こちらの事情を荊州牧が思う以上に読み取ってくれます。本心で言えば、袁遺と曹操、そのどちらが勝っても畢竟あなたからすればどうでもいいということを」
その言葉に劉表は重々しく頷いた。
劉表と蒯越、この主従の関係に無理にでも近似値を求めるなら、袁遺と司馬懿のそれに近い。
劉表は蒯越の能力を高く評価し必要としているが、同時に警戒もしている。
何故なら、劉表は蒯越の行動原理を完全に理解しているからだった。この点が袁遺・司馬懿との相違点だった。
蒯越の行動原理とは荊州の平和、それに尽きた。
前荊州牧の王叡が行った利己的な闘争と、その結果としての敗北の末に混乱した荊州を治めるために劉表に力を貸したのも、後継者争いでも両派閥に属していないのも、それが理由であった。
話は逸れたが、劉表は蒯越の審美眼に信頼を置いている。彼女がそう言えば、袁遺という男はそういう男なのだろう。
そして、劉表からすれば袁遺と曹操、その戦いの勝者はどちらでもよかった。究極的に言えば、袁遺と曹操は孫策にぶつけるための駒でしかない。
「念のために馬騰とも誼を通じておく必要があるな」
劉表が呟いた。
涼州の馬騰は漢王朝に対して忠誠を誓っているため、現在は皇帝と都を抑えている袁隗・董卓と友好的な関係であった。
だから、袁遺と曹操の戦いで勝者が曹操であった場合、馬騰は決して曹操に良い印象を抱かないだろう。敵の敵は味方の理論で、曹操の背後を脅かすために孫策が馬騰と接近する可能性があった。そのため、曹操と馬騰の仲介役になることを劉表は望んでいた。
また、曹操と友好な関係を築けなかった場合でも馬騰は曹操を牽制する役割に使えるので、やはり誼は通じておいて損はない。
「今、洛陽から袁遺が参謀の一団を派遣して通信網の整備をさせています。その一団が、宛に着くはずです。その帰りにご長男を同行させましょう。私もお供し、都で袁遺、袁隗、それに董卓と話をつけて戻ってまいります。伝令を宛に出して、その旨を伝えます」
「頼むぞ。わしは琦に話しておく」
「お任せください」
蒯越は恭しく一礼した。そして、いろいろと準備がありますので、と断り、退出した。
蒯越の表情は平素と変わらないものだったが、内面は乾ききっていた。
袁遺、曹操、孫策、袁隗、董卓、馬騰―――荊州の安定のためには彼らをどのように使えばいいか、謀略家としての彼女が全てのものを状況を作る事象と処理し、冷徹な判断を下そうとしていた。
そして、彼女は己の主である劉表でさえ、荊州の安定のための事象のひとつとして捉えていた。
蒯越の思考を現代風に意訳するなら―――
何故、劉表はこのタイミングで後継者問題にメスを入れたのか、であった。
蔡一族の立場を強化することの重要性は理解できる。劉琦が洛陽へと赴くことで享受できるメリットも分かる。
しかし、袁遺と曹操の戦いの結果を見てからでも遅くはないはずだ。それでも、このタイミングでなければならない理由があるのか。
蒯越は思考を走らせる。
今、司馬懿を筆頭とした参謀団が洛陽から荊州へと向かっている。
目的は表向きは対孫策のために都と荊州の通信網の整備と両者が親密な関係ということをアピールし、孫策側に圧力をかけることである。だが、真の目的は曹操との戦争で予定戦場となる地点の下見である。その表向きの目的の親密さのアピールをより強いものとするために参謀団が向かってきているタイミングで、劉琦の洛陽入りを決断したのか。
蒯越は一瞬そう考えるが、即座に否定した。理由としては弱過ぎる。
つまり、利という問題ではなく、もっと劉表個人の問題で決断されたということだ。蒯越は断定する。
そして、たどり着いたのは劉表の健康問題であった。
荊州のほんのごく一部の人間だけが、劉表が体調の悪さを感じていることを知っていた。
その原因は加齢と若い頃の逃亡生活での無理である。
劉表様は自分の死期が思っていたより早いと悟った。だから、今、後継者問題にひとつの区切りをつけにいった。でも、自分の口で後継者を宣言するのではなく、洛陽へと送ったのは万が一、荊州が危険にさらされたとき、兄弟の片方が生き残れるようにするというより、迷いがいまだ断ち切れずに濁したというところが、あの人の人としての限界だったのかしら。
蒯越は心の中で呟いた。
彼女の中で計算が始まっていく。
このままいけば、荊州でも最大の力を誇る蔡一族が後ろ盾の劉琮が後継者となるはず、では、劉琦派がどのくらい足掻く? 劉琮派は現在の親董卓・袁隗の方針を継承するのか? 曹操が勝者となった場合、都を手中に収めた後で都にいた劉琦をどうするのか? 孫策の動きは?
だが、それらは劉表の死期によって全てが変わってくる。
蒯越は思考の方向転換を行う、劉表が死ぬまでにやらなければいけないことを整理することにしたのだった。
主の死の要素をも、ひとつの要素ととらえる思考は、まさしく冷徹な謀略家としてのものだった。
劉琦・蒯越の一行が襄陽を発ったのは、その二日後であった。劉表は、その見送りには出てこなかった。
補足
・「下見長城下 尸骸相支柱」「傳告後代人 以此爲明規」
前者は陳琳の『飲馬長城窟行』の一節。本文に書いた通り、同名の楽府を下敷きに労役によって離れ離れになった夫婦の悲哀を詠んだ歌。
後者は阮瑀の『駕出北郭門行』の一節。孤児について詠んだ歌。テーマは漢楽府の『孤兒行』と似るが、『駕出北郭門行』は五言形式の雑曲歌辞で、『孤兒行』は雑言形式の相和歌辞。このあたりに建安期における楽府制作の新傾向の一斑を見ることができる。
・先妻の陳氏との間に生まれた劉琦
劉琦の母親が陳氏とされているのは演義でであり、正史では記述されていない。
一応、お気を付けください。