8 奸雄
張超・袁遺隊の進軍目標は、朱儁本隊のそれとは反対の方向になりつつあった。
本隊は徐々に南西に進み始めていたが、別働隊は北に進みつつあった。また、その規模も膨らんでいる。初戦で周辺で最大の勢力を誇っていた穏健派黄巾賊を撃破、併合した彼らに小規模な賊のほとんどは戦いもせず降伏。総兵力は一万二〇〇〇を超えるところまできていた。
と同時に豫州東にできていた黄巾党の糧道はずたずたに引き裂かれていた。
別働隊の目的であった黄巾党の兵站を鹵獲、もしくは破棄すること。また、それらの行動を陽動として本隊の負担を減らすこと、の前半の部分をほとんど達成しつつあった。
となると、彼ら、というより袁遺は一つの決断を迫られていた。
それは、最初の投降兵と共に行軍した夜に雛里と話し合った、本隊との合流時期である。
そのことで彼は軍議を開いた。
天幕には別働隊首脳部の七人が集まっている。
「高覧、雷薄。降伏した者たちの練度はどれくらいのものだ?」
袁遺は投降した賊をまとめているふたりに尋ねた。
初めは、雷薄にその任を任せていたが、数が増えすぎたため高覧にも任を与えたのだった。
「苛烈ならざる状況において防戦に耐えうる程度です」
高覧が切れのいい発音で答えた。雷薄もそれに同意した。
「そうか…」
袁遺もふたりの行軍や訓練を見ていて、同じ見解だった。
つまるところ、攻勢に投入するのは、いささか無理がある、ということだった。
「この短い期間で、そこまでの調練、よくやってくれた。ありがとう」
袁遺は素直にふたりを称賛した。
全くの本心であった。この短い期間で飢虎となんら変わりない匪賊を少なくとも官軍の旗の元で戦わせられるまで仕上げたのだ。並の者にはできないことだった。袁遺は少なくとも一月はかかるであろうと思ったことを半月で仕上げたのであった。
「では、これからの指針を発表する。我々は鄢陵近辺まで移動し、そこで陽動の任を果たす。なお、移動の際にその征途を邪魔するものは全て叩いてつぶす」
袁遺はいつもの感情の薄い面持ちで言った。いつもと違う部分があれば、やや強い言葉を使ったことだった。少なくとも彼のあまり好まぬものだった。
その言葉に事前に相談を受けていた雛里以外が凍り付いた。
全員が少なくとも糧道を潰したとして、本隊と合流すると思っていたからである。
「伯業様、進言します」
凍り付いた空気を最初に破ったのは、高覧であった。
「なんだ?」
「攻勢に投入できぬ部隊では、その陽動の任は果たせませぬ。速やかに本隊と合流するべきです!」
一語一語をはっきりと発音する話し方で高覧は言った。
「この一万を活かす最もよい方法は、本隊と合流し、本隊の厚みとすることです。単独でひとつの戦線を形成、支えるには、今の部隊では力がありません」
高覧という男は無口な男であった。
必要なとき以外、口を開こうとしない。そして、口を開いても、無駄なことを一切言わぬ男である。そんな男が今、自分の主人に向かって洪水の様に言葉を浴びせ、調練をした自身の見解を述べ、主人の翻意を促してる。
陣営に加わった期間が短い雛里は、その様子に驚いていた。
彼女は高覧がこんな語れる男だとは思ってもいなかった。
必要なときに必要なことだけをはっきりとしゃべる男は今がまさにそのとき、とその弁舌を振るっていた。
だが、
「道理である。が、だめだ」
袁遺はばっさりと切り捨てた。
「何故?」
高覧が尋ねる。
「確かに我々は穏健派と呼べる黄巾党を取り除き、賊の糧道を潰すことに成功した。もちろん、それが君たち将と兵の献身と奮闘によってもたらされたものだということもわかっている。だが、何の見境もなく村々を襲う餓狼の如き賊が、まだ残っている。そんな連中が、少なくとも集団的に行動できぬようにする必要がある」
袁遺は、やはり無表情な顔で言った。
つまり彼が本隊との合流に反対している理由は民衆の身の安全に他ならなかった。
「というより、それは我々のなすべき仕事である」
それが彼の筋の通し方だった。
民に身の安全を図るために黄巾党との秘密裏な取引をさせないなら、それをさせない自らが民の身の安全を守る。
それが袁伯業のやり方であった。
この場の全員が彼を見た。
人格者としての面と冷徹な指揮官としての面を持つ袁遺らしい判断だった。
「他に何かあるか?」
今度は逆に袁遺が皆を見た。
「何もないなら、鳳統。これからの計画を説明しろ」
彼の参謀が実戦部隊指揮官たちに彼らが定めた計画を説明していく。
行動範囲を本隊と合流にそれほど時間がかからず、かつ、長社に逃げ込める範囲に限定すること。同数、もしくは多い敵とは一度だけ戦い。その後に本隊と合流。
袁遺は考える。今、自分たちがいる地域で自分たちと同数もしくはそれ以上の兵力を有しているのは朱儁本隊と向かい合っている波才の軍だけである。もしくはこの近辺の黄巾党を糾合してできる集団であろう。
そして、この集団こそが我が部隊が戦う相手になるだろう、と袁遺は予想していた。
また、その出来上がった集団を指揮するのは誰か? それは、彼の予想通りなら、波才の下についているそれなりの地位の者が派遣されるだろう。
それを叩けば、黄巾党の求心力は落ち、集団的な抵抗はなくなるはずだ。それに朱儁と向かい合う賊からそれなりの地位の者が消えるのは本隊の援護となる。
問題はその糾合される数がどのくらいまで膨らむかである。だいたい、こちらの二倍近くの数になると袁遺は予想していた。
また、指揮官となる人物が突然、地から湧いてきた場合であるが、まあ、そんな人物がいるなら、もっと早くにこちらの前に姿を見せているはずだから、あまり有意していないが、戦場では最悪のタイミングで最悪のことが起きるのが常である。そのことは雛里と話し合っておく必要があるな、と袁遺は心に留めておいた。
頭は思考の海を泳いでいたが、耳は雛里の言葉を一言も漏らさなかった。
彼女の説明が終わった瞬間、袁遺は言った。
「これらの旨は書簡にして、本隊に送る。張超様、書簡を書いていただけますか?」
この部隊の名目上の指揮官であり、かつての師に袁遺が言う。
草書の達人である彼には適任であった。
すぐに彼は筆を取り、軍の書簡としては立派過ぎるものができた。それはすぐに本隊の朱儁の元へと届けられた。
四人の実戦部隊の指揮官たちは行軍の準備をしに各々の部隊へと向かっていた。
「わ、わたしは、伯業様にお仕えできて本当によかったと思います」
ふたりになった天幕で雛里が自身の主人に言った。
袁遺が民の安全のことを考えていることに素直に感動を示している。それは彼女の美徳であるが、袁遺は珍しく意地の悪い気持ちが芽生えてきた。
「なら、俺が穏健派黄巾党を討つと言ったときは、失望したのか?」
そう言った袁遺の顔には意地の悪い笑顔が浮かんでいた。感情をあまり表に出さない男であるが、整った顔立ちを持っている。そのためか、その手の笑みがひどく似合っていた。
袁遺からすれば、雛里が彼女の慌てたときの口癖である、あわわ、と言いながら、謝罪じみた言葉を返してくると予想していたが、それは裏切られた。
「伯業様、お忘れになりましたか? 方針を決めたのは、確かに伯業様ですが、その具体的な作戦を立案したのはわたしですよ」
思わぬ反撃であった。
袁遺は、先ほどの意地の悪い笑みより珍しい驚いた顔をし、雛里を見た。
驚いたが悪い気分ではないな……
そう思うと、袁遺は腹の底から訳の分からない喜びが湧き出してきた。
「ならば、我々は共犯の関係にあるわけだな」
心底、嬉しそうな笑顔を浮かべた袁遺が言った。
一度命令が下されれば彼の部隊の行動は早い。
ほとんど時間を要さず、張超・袁遺隊は鄢陵へと進発した。
そして、その途上で二度、五〇〇名規模の黄巾党とぶつかったが、それは鎧袖一触であった。
目的地に着いた袁遺は、まず、雛里を連れ、自らが三〇〇の部隊を率いて偵察に出た。起こりうるだろう決戦に備えて、その場所を自らの目で見て決めるためである。
その後も袁遺は忙しく動き回る。
雛里と相談し、黄巾党の動きを予想し、いくつもの策を立てておく。それと同時に高覧、雷薄の調練を監督し、そのふたりと張郃、陳蘭を交え、実戦でどれくらいの用兵が可能かを検討する。
また、張超には敗走した場合、その逃走経路を伝えた。
狼狽する師に対し、袁遺は無表情な顔をして、言った。
「この部隊で唯一、あなただけが死ぬことが許されぬ人物です」
袁遺からすれば、この自身を推挙した人物は軍人などではなく、後世に今の文化を伝える文化人であった。軍人が戦場で死ぬのは仕方がないことである。だが、軍人ではない彼が死ぬことは許されない。彼には本来、なすべきことがあるのだ。
「それに勝つ算段があるから戦うのです。負けると分かっていたら、やりません。それが兵法というものです」
そう続けて師を安堵させた。
後に、張超は史実通りに十九篇の賦(朗誦のための文)、頌(詩の一種)などを残す。
それだけではなく、部隊の運営の細かな指示まで出していた。
例えば、今まで日に一食は必ず、温かい食事を兵たちに提供していたが、今は日に三度、全てが湯気を立てたものを食わせている。
兵に温かな食事を提供することは彼らの戦闘力に想像以上に大きい影響を与える。
軍に従軍し、そのことを肌で感じた雛里が袁遺に、何故、今まで三食とも温かな食事を与えなかったのかを尋ねた。
袁遺は答えた。
「調理の手間を減らすためだ。竈を作り、薪を集め、火を熾すのは重労働だ。今は焼き石を使ったりして、その労力を減らしているが、やり過ぎると鍋に穴が開く。戦が終わったら、穴の開いた鍋を鋳溶かせばいいんだが、戦の途中に開けば、それは酷いことになる」
雛里は感心してそれを聞いた。
その他、こまごまとしたことまで、袁遺は動き回った。
それこそが戦争に勝つための方法であると知っているからだった。
そんな袁遺のもとに朱儁から伝令がやって来た。
いや、やって来たというより飛び込んで来た、という方が正確だろう。
それは別働隊の陣に飛び込むと同時に、馬が潰れ、乗ってきた本人も息が絶え絶えであった。
彼を迎えた陳蘭が水筒から水を飲ませてやった。
ぬるくなってしまっているそれを伝令は、一気に飲み干すと、咽た。
陳蘭は、そんな彼の背を撫でてやり、支えながら、袁遺のもとに連れてきたのだった。
「右中郎将より伝令。黄巾党波才の部隊から五〇〇〇が鄢陵方面に向かった。追撃できず、撃破せよ、とのことです!」
「ご苦労」
袁遺が言った。その顔はこんなときでも無表情な男であった。
「高覧、三〇〇率いて、偵察に出ろ」
「御意」
袁遺に命じられると高覧は駆け出した。
波才の部隊から指揮官が派遣された場合、袁遺はあらかじめ高覧に指示を出していた。
一戦して敵の規模を測る威力偵察部隊ではなく敵の行動を詳細に監視できる通常の偵察部隊を多数派遣し、この鄢陵に蜘蛛の巣にも似た警報組織を造った。
袁遺は五〇〇〇が五〇〇〇の内に叩く気はなかった。この近辺の賊たちを糾合させ、巨大化させた後に叩くつもりであった。
そうするとによって、初めてこの豫州黄巾党の集団的な反乱を止めることができるのだった。
その後、高覧から上がってくる情報によると、黄巾党は二万まで膨れ上がり、その指揮官は劉辟と黄邵であった。
袁遺は高覧に帰陣を命じ、彼が部隊を率いて帰ってくると、あらかじめ定めた地点まで移動した。
そこが決戦の場となるのだった。
両軍の単純戦力比は一万二〇〇〇と二万で、1:1.67であるが、黄巾党側は兵站を完全に現地調達、つまり略奪に頼っているため、兵站部隊というものがほとんど存在せず、ほぼそのままの数字が戦場に投入されるが、官軍側、つまりは張超・袁遺隊の実戦部隊はほぼ6割の7000弱になる。
よって、戦力比は約1:3になり、黄巾党側が攻者三倍の原則を満たす圧倒的な優位になっている。
しかし、袁遺は雛里と相談し、地形でその差を埋めようとしていた。
張超・袁遺隊の中備は黄巾党降伏兵を率いる雷薄である。兵は二五〇〇と一番多い数字を握っている。ただし、この軍旅に初めから参加していた正規兵と呼べる者は最も少ない。
右備は張郃で、一五〇〇。
左備は高覧、同じく一五〇〇である。
袁遺の本隊が一〇〇〇。
陳蘭は予備兵力で五〇〇と一番少ない数字であるが、全てがこの軍に初めから参加している正規兵で練度が一番高い。
そんな彼らは丘の上に陣取り、高所を独占していた。
ただ中備の丘は起伏が緩やかで、他と比べると平坦である。そのため、戦闘になれば、ここに敵兵が集中すると考えられている。
なので、右備、左備は中備を援護しやすいように配置されている。
言わば中備は蝶番の様なものである。
つまり、官軍側は右備、中備、左備の五五〇〇が常に戦闘に参加できるが、黄巾党側には幾分かの遊兵ができ、戦力差は1:2くらいまで下がる。数的劣勢にある袁遺が、決戦兵力を増やすために非常に努力していることがわかる。
また、どこも物資が不足している状態で、現地調達に頼った黄巾党軍は糧秣に不安があり、逆に三食温かい飯を食っている官軍兵とで士気の差があった。そのことが戦闘力に影響するとも、袁遺は考えていた。
そして、袁遺の予想通り、黄巾党は中備に集中して、襲い掛かってきた。
中備。
雷薄という男にとって、『中備にて全軍を支える』という言葉は蠱惑的な響きを持って、心に迫ってくるものであった。
彼は、「
そんな顔には不敵な笑みが浮かんでいる。
肝が据わっている彼は向かってくる敵が五倍以上いようが、冷静に間合いを測り、槍を振り上げている兵たちに、
「叩け!」
と大音声で下知した。
同時に軍鼓が叩かれる。様々な音が大音量で鳴っている戦場で部隊に下知するためには楽隊と呼ばれる銅鑼や太鼓を鳴らす部隊が必要である。もっとも、雷薄の声は、それを必要としない、と錯覚させるほどの大きさであった。
雷薄の見立ては正確であった。兵たちの槍は重力に曳かれて、黄巾党先鋒の頭上へと落ちた。
打撃。運のない者にとっては斬撃。
ある者は肩や黄色い布を巻いた頭を打たれ、ある者は穂先に切られ、絶叫がこだまする。黄巾党の先鋒隊が乱れる。
「起こせ!」
また、雷薄の大声が響いた。そして、軍鼓が続く。
下知に応え、槍は再び振り上げられる。そして、再びの大音声。
「もっかい、叩けぇ!」
二度目の打撃でも敵の戦列が乱れる。
そこへ、左右両備からの弓矢の援護射撃が降り注いだ。
先鋒隊の進撃は止まり、後続が渋滞を起こす。それに雷薄は満足げな笑みを浮かべ、鼻を鳴らし、また、大声で叫んだ。
「ふん、よっしゃあ! 今だぁぁ! もっかい、いくぞ。起こせ!」
雷薄は下知し続ける。兵たちが倒され、その倒された兵の穴を埋めるだけの人員がいなくなるか、もしくは士気が低下し、戦いを続けることを兵が拒む(所謂、敵前逃亡)まで、彼は叫び続けるだろう。
繰り返しになるが、雷薄隊と黄巾党の戦力差は五倍以上である。雷薄が隊長なだけに手勢は普通の隊より頑張るかもしれないが、戦力比では先に崩れるのは雷薄隊の方である。
事実、彼と彼の部隊はこの戦いで二度の大きな危機に遭うのであった。
しかし、それは仕方がないことである。
『中備にて全軍を支える』とは、つまりはそういことであり、大きな危険を孕んでいるからこそ蠱惑的であるのだった。
本陣。
張超、袁遺、雛里の三人の目には前線の奮闘が写っていた。
それに張超は感嘆の声を上げる。
「おお…やれてるじゃないか」
そう言った顔には喜色が色濃く浮かんでいた。
確かに、現在、前線は官軍有利に動いていたし、黄巾党側の方が多く死傷者を出していた。しかし、兵数が違うのである。
そのため雛里は張超のように楽観視など全くしない。袁遺に至っては、中備にのみ限定すればランチェスターの法則的に負け戦をやっている自覚さえあった。
袁遺の思考は暴走する。
あー、このままいけば最後に立っているのは、あちらだ。いや、ランチェスターの法則の補給の点を計算に入れれば、違ってくるのか? いや、補給を計算に入れるのは第二法則の方で、第一法則ではどうだった…いや、補給は時間に対する補足だ、関係ない。違う。あ、いや、補給はクラウゼヴィッツの攻撃限界点だったか。それならいいのか? いや、そんなことはどうでもいいんだ。そもそもこちらは三方向から叩いて一騎打ち的状況ではないから、第一法則に当てはめるのは不適当だ。いや、もうどうでもいい。黄巾党共は、全く自軍の損害を考えずに、攻めてきている。確かに、中央に敵が集まるのは予想していたし、それについて手は打った。今、目の前の光景は俺の予想から何一つ外れていない。しかし、焦れる。
顔はいつもの無表情だ。だが、戦場ではその顔が泰然とした余裕を見せ、何かを超越した雰囲気を漂わせ、兵たちを落ち着かせていた。袁伯業という男には今この状況も彼の掌の上で戦場の全てを見通し必勝の策をめぐらせている、と兵は信じ込んでいた。
実際のところは袁遺の策は単純なものだった。
相手の攻勢限界点まで耐えて、陳蘭の精鋭五〇〇で敵首脳部を叩く。
それだけだった。というより、攻勢に投入できない部隊を抱える彼にはそれ以外の方法を取りようがなかった。
再び袁遺は思考の海を泳ぐ。
いっそのこと、黄巾党が、こちらの中央の備えを警戒し、左備、右備のどちらか端から攻めてくればよかったのだ。そうなれば、兵の展開できる範囲は限られている。だが、この様子じゃあ、黄巾賊共は兵を湯水の如く投入するだろう。そうすれば、大きな混乱が起き、こちらが首脳部を叩きやすくなるのに。
だが、現実には、そうなっていない。つまりは、どうしようもないことだった。
ちなみに、袁遺が黄巾賊を指揮していたならば、左備を集中的に攻めていた。もちろん投入する兵を絞ってである。中央より他部隊からの援護を受けず、左備を崩せば、右備も自然と下がらなければいけない展開が作れるからだ。もっとも、それは兵糧が潤沢にあり、十分な補給を受けられる前提があってこそである。だが、袁遺が兵を率いるということはその点には何の心配もいらなかった。この男の真骨頂は、兵に安心して戦わせるだけの食料と武器を整える兵站能力と脱落者を出さずに兵を進ませる行軍能力であるからだ。
もちろん、これは無意味な仮定であった。だが、この仮定と同じくらい無意味なものが袁遺の思考の暴走である。といっても、現在、彼には、自分が慌てていないということを兵に示すか、思考を遊ばせるくらいしかすることがなかった。
そうこうしている内に中備・雷薄隊に一度目の危機が迫ってきていた。
黄巾党側も焦れてきていたのだ。
前線の膠着を打破するために、黄巾党の指揮官である劉辟が兵を率いて、前線へと上がってきたのだ。
効果は絶大であった。
乱れていた隊列は回復し、黄巾党側に勢いが戻る。
となると、袁遺は一つの判断を下さなければいけなかった。
自身が一〇〇〇を率いて中備に向かい、雷薄を援護。雷薄には兵を下がらせ、一度陣形を整わせる。
だが、袁遺はそれを行わなかった。
この戦でそうしなければいけない場面は必ず来る。必ず来るが、それは今ではない。
袁遺の頭に、本当にそうか? 今の余力がある状態で一度下がらせた方がいいのではないか? そんな自問が浮かぶが、それを抑え込む。
中備では雷薄が今までよりも大きな声を張り上げていた。
その声は戦場の喧騒を超えて、本陣の袁遺たちの元まで届くほどだった。
だが、兵を叱咤し続ける雷薄も内心では、焦りを感じていた。明らかに黄巾党の圧力が増したからである。
そんな雷薄を救ったのは左備の高覧であった。
左備。
この戦いで黄巾党指揮官・劉辟に間違い、もしくは不運があったとすれば、左備に寄り過ぎていたことである。
高覧はそのことを確認すると、すぐに動いた。
中備への援護射撃の指揮は、この軍旅に最初から従軍していた最も信頼できる者に任せ、自身は正規兵を中心とした五〇〇を率いて逆落としに突っ込んだ。
そのことに劉辟は気付くのが遅れた。それが致命的だった。
突如の左側からの横撃は、それがたった五〇〇名によってもたらされたものでも、回復していた戦列を乱すには、十分なものだった。
奇襲となった横撃により高覧は自身が斬った三人の返り血で全身が汚れた。
だが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
というのも、彼が率いている五〇〇、その中の最初から従軍している、謂わば、正規兵が、敵の隙を見つけるとそこへ突っ込んでいった。そして、それに気が付いた他の正規兵が降伏兵を率いて、それに続き、突破口を拡張という戦術運動を行い黄巾党に強引に食い込んでいく。
まったくもって頼もしい連中である。高覧は素直に感動していたが、それとはまた別の面で冷静だった。後代の言葉で下士官という立場の正規兵に一〇〇名を任せると、撤退地点を確保しておけと命じる。そして、自身も敵陣を切り進む。
戟で相手の頭を叩き潰す。その横では降伏兵がふたり、喉と腹を刺されて絶命するのが見えた。
それでも高覧とその部隊は冷静である。高覧を中心に、彼らは暴力の奔流となって暴れた。
たかが五〇〇名の部隊であったが、左備に寄り過ぎていた劉辟はその奔流と肉薄する羽目になった。
高覧が劉辟の前に立ったとき、先に動いたのが劉辟であった。
一閃。
横なぎに放たれた一撃を高覧は難なく躱す。
空を切った刃が翻り、袈裟掛けに高覧へと襲い掛かるが、高覧は、その一撃を戟で弾いた。
弾かれた劉辟は、怯んだ。それが大きな隙となった。高覧はその隙を見逃す男ではなかった。
戟を劉辟の首へと叩き込んだ。
柄を握る手に劉辟の頸骨が砕ける感触を感じる。血が噴き出す。首は落ちることがなく、首の半分程の所で刃が肉と骨に食い込み、戟が抜けなくなった。
高覧は戟を諦め、剣を抜き、叫ぶ。
「敵将は討ち取った! 撤退しろ!」
高覧は一〇〇名に守らせていた撤退路から左備へと脱出した。
見事な用兵であったが、突撃した五〇〇名の内、九〇名が死亡、もしくは行方不明だった。
高覧は確かに敵将を討ち取り、中備の危機を救ったが、それは一時的なものであった。むしろ、黄巾軍は劉辟を失ったことに発憤して、勢いを増したといってもいい。
中備・雷薄隊の二度目の危機は、一度目の危機のすぐ後に訪れた。
中備。
雷薄隊の限界が見えていた。
すでに力闘は二時間半にも及び、疲労は頂点に達し、兵たちは立っているだけでやっとであった。
にも関わらず、今も槍を上げ下げしている。奇跡である。
その奇跡は声を嗄らしながら兵を叱咤激励している雷薄が起こしたものであった。
「おめぇら! 気ぃ抜くな! 振れぇ! 振れぇぇぇ! 見せろやぁぁ!」
そんな罵声と何ら変わらない下知を聞くたび、疲れ切り、膝をつく元黄巾賊の兵たちは、
「
と狂した声を上げ、隊列に復帰し、槍を振るうのである。
雷薄の持つ野蛮な陽気とでも言うものが兵たちを狂気へと駆り立てていた。
それは狂信の黄巾党に何ら負けない狂気であった。
だが、それも限界であった。
「こりゃあ、だめだ」
雷薄は思わず呻いた。彼にも、もう余裕はなく、思ったことを考えなしに口にした。それは将ならば、兵の前で言ってはいけない言葉であった。
その言葉通り、前線が崩れ始めた。
それを見た雷薄は叫んだ。
「おめえら、下がれ! 撤退し、伯業様に従え!」
彼は自分の主が、この前線の崩壊の前兆に気付くと同時に行動を起こすことを全く疑っていなかった。であるなら、袁遺は今、前線へと向かっている途中のはずだ。ならば、自分の役目は味方は一兵でも多く生き残らせ、敵は一兵でも多く殺すことであった。
雷薄は駆けた。
と、同時に自分に続く者が複数いた。それは彼の言うことを聞かなかった兵たちである。喜ぶことなのか、怒ることなのか、そんな兵は少なくなかった。彼らは雷薄と共に黄巾党軍へと突撃した。
「俺の手勢はよぉぉぉぉ…」
それに対して、雷薄は叫んだ。
「可愛いじゃねぇかぁぁぁぁ!!」
それを聞いた兵のひとりが雷薄を追い越し、敵の頭を叩いて砕き、敵に頭を砕かれ死んだ。
本陣。
袁遺は中備、前線が崩れるのが避けられない未来だと感じた途端、叫んだ。
「陳蘭、以後、雛里の指示に従え! 先生はこのことを文書に残してください! 袁遺隊、我に続け!」
そのまま彼は本陣を飛び出した。
雷薄の期待通り、袁遺は前線の立て直しの援護に向かったのである。
袁遺隊が前線に到着したのは、雷薄が駆け出したときであった。
袁遺は、混乱している兵を収容すると同時に、取り残された兵の救出を行った。
今この場で、孤立しながらも抵抗している者は勇者で英雄である。そんな者たちを救うことに何の躊躇いもない。もちろん、それには彼自身も参加した。
救助された者の中には雷薄もいた。
彼は顔に布を当てていた。その布は血で赤く染まっている。顔を大きく切られたらしい。
「男ぶりを上げたな、雷薄」
袁遺はわざと明るい声を作り、軽口を叩いた。雷薄には神妙な顔をするより、こういった態度の方がいい。そう判断したのだった。
「伯業様は真似しないでください。その綺麗な顔に傷が付けば、世の女子がお嘆きになります」
雷薄もそれを察してか、軽口で答える。
「うん、思ったより元気があるな。ならば、私が支えている間に兵を再編しろ。これより、私の指揮下につけ。中備を支えるぞ」
「はっ!」
雷薄は、まだそんな元気があるのか、と感心するほど、生気に満ちていた。
だが、それは戦場でアドレナリンが過剰分泌されているだけで、外面通りに取ってはいけないと、袁遺は自身を戒めた。
袁遺が手勢を使って前線をなんとか支えている間に雷薄は部隊を立て直す。雷薄の手勢は一四〇〇まで減っていた。これは後代の言葉で全滅(全体の四~五割(組織によってこの数字は異なる)が戦闘不能で、組織的な戦闘が不可能になる状態。もちろん、文字通り最後の一兵まで戦い続けた例も歴史上ある)であった。
それでも中備が突破されなかったのは、命を捨てる覚悟で前線を支えた雷薄と彼に続いた者たち、そして、孤立しながらも抵抗を続けた者たちのおかげであった。
これで中備は、二四〇〇と数字の上で言えば最初と大きく変わっていないものになったが、一度、疲れ切り、隊列を乱した兵である。二時間半前と同じことができるはずもない。
だが、それは黄巾党も同じことであった。
官軍中備の突破という虹を見た黄巾党指揮官・黄邵は増援を前線に送り込んだが、袁遺の救援により、それはできずに終わった。
その結果、黄巾党側の前線にも混乱が起こっていた。
互いが救援と増援を送り込んだ結果、もみ合うような乱戦が発生し、双方が混乱したのだった。
その混乱から官軍側は復帰しつつあった。袁遺の素早い対応の成果である。
黄邵は悩んだ。今、こちらが有利だが、この混乱を収拾し、もう一度、敵の中央に突進させなければ、こちらが崩れる。
官軍別働隊がこの近辺で集められた兵糧の殆んどを鹵獲もしくは破棄したため、兵は空きっ腹を抱えて戦っている状態である。一度でも止まれば、もう二度と動けないだろう。
だが、そんな思いとは裏腹に体は動かなかった。
何故なら、同じように前線の混乱を収めようと上がった劉辟が敵に討ち取られたからだった。
怯えているわけではない。だが、自分が同じ轍を踏めば、間違いなく負ける。しかし、今、行かなくても負ける。ならば、行く。
一度決断すれば、黄邵は素早かった。
彼は前線へと上がり、混乱の収拾へと乗り出した。
それを待っていた者がいた。
本陣の雛里である。
彼女は陳蘭に命じ、予備兵力を出す。
本来、指揮権のない参謀ができることではないが、袁遺が本陣を出る前に陳蘭を雛里の指揮下に置き、そのことを張超に文書にして残させた。よって、それが可能となった。
陳蘭には、そのことに何の反感もなかった。袁伯業という仕えにくい主に対する彼の処世術は、徹底的な服従であった。彼は自分の主である袁遺に、どうやってもこの人には敵わない、という思いを抱いている。そして、この人は腹に一物を持つ人物を絶対に許すはずはない、と確信していた。であるからこそ、彼は徹底的に従う。それも、主に二心など絶対にありえないと思わせるほどに。
故に、袁遺の指示を受けた雛里は彼の代理人であった。そんな彼女の命令に陳蘭は動いた。
もちろん、愚直に敵陣に突っ込むような真似はしない。
陳蘭は、まず、右備の張郃隊の援護を受けられる位置まで移動する。この戦いで一番被害を受けていないのは、予備兵力を除けば、彼の部隊だったから、一番強力な援護を受けれるだろう。
「右が薄いぞ、行けー!」
彼は敵のわずかな隙を見つけるとそこへ向かって突っ込んでいった。
それと同時に、張郃隊から、その部分へ矢が放たれ、さらに隙が大きくなった。
陳蘭は、その不器量な風采からは想像できないような隙のない機敏な動きで、黄巾賊の兵を断ち割っていく。
彼は冷静だった。黄巾党の後先考えない勢いは確かに脅威だが、微妙なところで統制が取れていない。その隙を上手くついた用兵であった。
「行けるぞー! 押せ! 抜け! 」
陳蘭は何か効果のありそうな勇ましい言葉を思いつく限り叫ぶ。もちろん、この乱戦の中で部隊全てに聞こえるはずはない、彼は自分自身を鼓舞するためにも叫んでいた。
彼は自分の部隊がこの戦を決める部隊であることを確信していた。自分がこの部隊を抜き、黄邵を討ち取れば、少なくとも別働隊の戦いは終わる。
「直れ! 見せろ! 行けや!」
黄巾党指揮官・黄邵は、絶叫し自身に肉薄する陳蘭を見て、部隊を一旦下げる決意をし、どこまで後退するかを確認しようとし、それを見た。
黄邵は正史・三国志においては曹操旗下の于禁に討ち取られ、三国志演義では同じく曹操旗下の李典に捕らえられ、処刑されている。
故、それが彼の目の前に現れるのは、ある意味、必然であったのかもしれない。
袁遺は中備でそれを見た。黄巾党軍の後方に、はためく旗を。
それは青地で曹の文字が記されている。
袁遺はその軍旗を掲げる隊が誰によって率いられているか、知っていた。
曹の旗を掲げる部隊は黄巾賊を次々と屠っていった。張超・袁遺隊と一戦交えて疲労しているということを差し引いてでも、かの部隊は精強であった。
彼女の気質をそのまま表したような部隊だ。
袁遺はそう思った。
彼は周りを見る。
部下たちは味方と思われる部隊の出現によって、勝利が転がり込んだことを確信していた。だが、彼らは喜びを表すより、虚脱しきっていた。無理もないことであった。
袁遺は再び、戦場に視線を移す。
黄邵が討ち取られていた。
ああ、あれは確か彼女を慕う姉妹の姉の方だったな。
なんてことを考えていた。
黄巾党は集団の体をなしていなかった。
「左備、右備、本陣に伝令を出す。雷薄は治療を受けろ」
袁遺が言った。
彼は張郃と高覧に戦後処理を任せると同時に雛里を呼び寄せた。
援軍に来てくれた部隊の隊長、古くからの知り合いに挨拶に行くためであった。
最後に会ったのはいつだったか…そんなことを考えていると雛里がやって来た。
「ご無事ですか、伯業様!?」
「大丈夫だ。今から援軍に来てくれた部隊の隊長に会いに行く。雛里も来てくれ」
そんな会話をしてから歩く。
少し歩いてから気付いた。彼女が馬でこちらに向かって来ている。
金色の美しい髪を左右に結びロールを作っている。整った顔立ちからは、知性と品性、そしてなにより覇気を感じる。
陳留の太守であり、袁遺の従妹である袁紹とは友人の様な犬猿の仲の様な不思議な関係をしている。
袁遺を助けた部隊の隊長、曹孟徳は不敵な笑みをその美貌に浮かべ、袁遺に言った。
「余計なことをしたかしら、伯業」
補足
・劉辟
黄巾党の頭目のひとり。
正史では何度か名前が出てくるが、于禁にやられていたり、曹仁にやらていたりするよくわからない人。同姓同名とする説と名前を間違えたとする説がある。
演義では高覧と一騎打ちをし、三合以内で倒されている。
なお、高覧はその後で趙雲にやられて以後出番なし。
でも、この作品では、ちゃんと出番がある。
出番が増えるよ。やったね、高覧ちゃん。おいやめろ!
・ランチェスターの法則
戦争における人員の損害(つまり、自軍の戦闘力)を出す方程式。
第一法則は弓や槍などの火器を使用しない戦争。第二法則は火器を使用する戦争。
袁遺はランチェスターの法則的に負け戦をやっている、と言っていたが、実際は、人数が少ないとは言え、三部隊が一部隊を囲んで叩いていたから、そもそもランチェスターの法則に当てはめるには、ちょっと無理がある。まあ、思考が暴走していたからしょうがない、ということにしておいてください。
てきとうで申し訳ありませんが、本当に詳しく知りたい人は、そう言ったサイトなり本なりを調べてください。
・クラウゼヴィッツの攻撃限界点
攻撃によって得られる優勢の限界。
攻撃側は、時間と共に戦果を増やしていくが、同時に戦闘力を減らしていく。
その原因は、人員の損耗などが挙げられるが、まあ、つまり、攻撃側は始めは有利だが、途中で防御側と有利不利が入れ替わるから、有利なときに講和を結ぶなりして、勝利を確定しろ、て話。
・後代の言葉で全滅
組織によって割合は異なるが、攻撃側か防御側かによっても異なる。基本、防御側の方が大きな数字になり、攻撃側は小さな数字になる。
定義づけと演習や作戦を立てるときの目安であり、実際は、その数字を超えても戦い続けられる。だが、攻撃力にしろ防御力にしろ効率性は減少するので、常に同じ戦果を発揮できるとは限らない。