西暦二五年に光武帝・劉秀によって再興された後漢はある三つの病魔に侵されることになる。
ひとつは外戚。
後漢王朝は短命の皇帝が多く、跡継ぎを残さないまま崩御することも珍しくなく、結果として幼帝が非常に多く即位した。
その幼帝の代わりに実質的に政治を行ったのはその皇帝の母親―――つまりは皇太后とその一族である。
その中でも梁冀は最も力を持った外戚であった。
彼は自分の意に添わぬ皇帝を毒殺し他の幼帝を擁立する、玉座さえ左右する力を持ったのだった。
しかし、皮肉にもこの幼帝―――桓帝によって梁冀は誅殺されることになる。
このとき、没収された梁冀の財産は国家の租税の半分ほどあり、また連座して死刑になった一族、免職になった一族を合わせれば三〇〇人を超え、朝廷が一時的に空になったことも梁一族の力の強さを表すことだった。
だが、梁冀―――外戚という病魔を取り除いた後漢王朝はすぐに別の病魔に侵されることになる。
この梁冀の誅殺に皇帝の手足となり動いたのが宦官だった。
この宦官こそが第二の病魔である。
去勢され子孫を残すことがなく一代限りの存在である彼らが、桓帝により養子を取ることを許されると、宦官は世襲貴族の様相を呈していく。
宦官は皇帝の身の回りの世話だけでなく皇帝への上奏を取り仕切る職を独占し大きな力を持ち、賄賂等の汚職を行っていくことになる。
この宦官の汚職を名士―――儒教的徳目により名声を獲得した地方豪族が弾劾すると、宦官は弾劾した名士たちを逆に禁固刑(公職追放)に処した。
こうして腐敗政治が加速する中で、天候不良等の天災が重なり民は疲弊し、全国で反乱が続発した。
その中でも最大の農民反乱が黄巾の乱であるが、この話はそれより少し前、とある男が父の喪が明け、官職に復帰してからしばらくしてからの話である。
異・英雄記
丁の章完結記念短編
軍営は煙ぶるような霧雨の中にあった。靄がなければ、見渡す限りの沼沢に、その間を縫う様に稲田が広がる水郷地帯の風景が見えただろう。豫州の潁水と揚州の淮水の合流地点、豫州汝南郡と揚州九江郡と揚州廬江の間には中華の北と南の風土が混ざり合った風景が存在していた。
軍営の主、袁遺は地図を前に規矩と書簡を手にしていた。
袁伯業、その顔には人に冷たさを感じさせる表情があった。顔は整っているが、作り物じみた無表情に近い顔である。特に、その瞳は小石のように無機質で、また同様に小石のように小さい。三白眼である。この眼こそが冷たさを感じさせるのであった。
対して、その袁遺と共に地図を見つめる男が与える印象は袁遺と正反対であった。品のある暖かさ、その物腰からは育ちの良さを感じさせる。
男の名は司馬懿、字は仲達、袁遺の軍師である。
袁遺は視線はそのまま地図に向けたまま口を開いた。
「やはり、賊の討伐だけならどうとでもなる。純粋な戦術上の話なら、前の方が辛かった。穏健な賊が民を抱え込んでいたときだ。だが、今回はただ討伐すればいいという問題ではない」
「仰る通りです」
司馬懿が同意した。
袁遺が、この豫州と揚州の境界付近まで部隊を率いてきた目的は賊の討伐であったが、袁遺が派遣されるまでには複雑な事情があった。
この潁水と淮水付近の水郷地帯には、ある賊の
村塢とは、賊の山林叢沢に立地した簡単な障壁を巡らしただけの集落であり、その他にも『営』や『塁』という風に呼ばれたり、史書に記されたりする。
この賊は武力でもって河川の農業用水の利権を主な収入源としていた。
しかし、やり過ぎたため討伐の軍が差し向けられることになったのだが、この賊の村塢はふたつの州、三つの郡に跨っていたために、問題が発生した。
このとき、揚州廬江郡太守はこの賊に対して恩信を行おうと接触を持っていた。
恩信とは、賊を撫順して平定する、恩徳や信義等を媒介として官吏と賊を結び付ける方法である。
この恩信は後漢の時代に賊だけではなく―――匈奴や鮮卑、烏丸といった―――夷人に対しても多く行われてきた。
というのも、後漢前半から中期にかけて基本的に郡国の都尉は廃止され、常備兵も原則配置されなかった。
これらが変わるのは後漢後期からであり、州刺史の権力が強化された州牧が設置されたのも、この一環である。ただし、州牧設置は劉焉が自分が地方で独立するために提案したという側面もある。
そして、恩徳や信義をもとに賊を教化するのは儒教的であり、清流派名士の典型的な平定方法であったのだ。
恩信はまとまりかけていたのだが、それと同時に揚州九江郡太守である袁術が賊討伐の軍の派遣を決定したのである。
袁術も太守であるが、彼女は後漢最大の名門である袁家の一族である。財力や囲っている私兵の数は、そこらの名士や太守とは比べものにならず、なおかつ、それを自由に動かせる。
この報に、廬江太守の交渉は台無しになった。賊が騙し討ちされたと怒りを露わにしたのだ。
廬江太守からしても、顔に泥を塗られたに等しい。
だが、袁術にはそんなことどうでもいい。賊を討伐しようとして何の文句を付けられる所以があるのかと、廬江太守に怒りの矛先を向けた。
これは賊が複数の州や郡に跨って活動していたからこそ起きた問題であった。
この剣呑な状況に対して、一番困ったのは三つの郡のうち残された汝南太守である。
問題が大きくなり、何らかの責任を取らされたら堪ったものではないと、ある人物に助けを求めたのだ。
それが袁術の叔父にあたり、汝南郡で最大の名士であり、そのとき司徒の地位にあった袁隗である。
袁隗はすぐに袁術を宥めすかしてこの問題から手を引かせると共に、廬江太守にも同様に賊の問題は汝南郡で処理をするが、功績は廬江太守と汝南太守になるように朝廷に働きかける、決して悪いようにはしないと事態の収束に動いた。
それに廬江太守は渋々ながらも、三公のひとつである司徒に悪いようにしないと言われれば仕方がないと、手を引いたのだった。
そして、残された賊という問題は、このとき袁家にその才能を半ば使い潰されるように使われていた袁遺が解決することになった。
「ただ討伐するのではなく、可能な限り廬江太守の顔を立てるために恩信の形が残らなければならないが、こんな湿地帯に長く対陣すれば、疫病が流行る。そうなれば最悪だ。せめてもの救いは陳蘭と雷薄に土地勘があったことだな」
袁遺が言った。陳蘭と雷薄は以前、袁術の下で部曲として仕えており、九江郡の地理には明るい。
「となると、九江郡から攻め入って、賊に打撃を与えた後、降るように交渉しますか?」
司馬懿が尋ねた。その声には典雅な響きがあった。
「ダメか?」
「いえ、それが最良でしょう」
「なら、分かっているな」
「はい、そのためにはこの沼沢地に複数ある村塢が互いに連携しないように分断する必要があります」
司馬懿は間髪入れずに答えた。
このふたり、こと戦略面の能力は同等であり、思考を殆ど共有できる稀有な存在であった。
「それが君の仕事だ」
袁遺が頷いた。
それから、ふと何かに気付いたように続けた。
「ああ、後ひとつ良いことがあった。司徒殿(袁隗)から軍資金は十分にもらってきた。まあ、当然と言えば当然だな」
司馬懿はそれに嫌みのない笑みで返した。
「それは重畳ですね」
「ああ、君にとっては他家の金だ。存分に使え。貧乏たらしい戦争ほど情けないものはないからな」
袁遺は口元を皮肉気に歪めた。
袁遺の率いる部隊の総数は約二五〇〇。この時代の軍単位でいうなら曲、後世の言葉で言うなら連隊にあたる。
袁遺は複数の偵察部隊を派遣して、この水郷地帯に存在する賊の村塢を調査した。
その偵察部隊の中で、最も鮮やかに敵の村塢を見つけてきたのは雷薄であった。
雷薄が率いるのは、一二五名の威力偵察部隊である。
「賊は自分たちの討伐部隊が派遣されたことは掴んでいるだろう。間違いなく警戒しているはずだ。気を付けろ」
雷薄は口元に凶悪な笑みを刻みながら、野蛮ではあるが陽気な声で袁遺に返した。
「任せてください! ここらは俺の庭みてぇなもんです」
雷薄の容姿は、これから戦うであろう賊よりも賊らしいものだった。その顔には放埓な笑みがあった。
俺の庭と豪語したように雷薄隊は湿地に足を取られることなく順調に進み、沼沢の隙間に作られた稲田を挟んで敵と対峙した。
敵の総数は分からない。
部隊に緊張が走るが、雷薄は冷静な命を部隊に下した。
「おめぇら、声を揃えて叫べ。まずは威嚇だ」
雷薄隊は命じられた通りに、鬨の声をあげた。
それに対抗するように、賊と思わしき集団からも鬨の声が返ってきた。
雷薄はそれを聞いて断定した。
「むこうは一〇〇もいねぇな…………となると、あれは偵察部隊か。よし、てきとうに襲い掛かるか」
雷薄はどちらが山賊かわからない判断を下したが、その真意は理性に裏付けされたものであった。
「攻撃だ! むこうの規模から考えて敵は偵察だ。こちらが突撃すれば、すぐ逃げ出す! それを追っかけて敵の本隊なり寝座なりを見つけて報告すりゃあ仕事を果たしたことになるだろう!」
敵は雷薄の読み通りの動きをした。
喊声をあげて突っ込むと、賊は蜘蛛の子を散らした様に退散したのだ。
その後、逃げた賊を追跡するように部隊を進め、賊の村塢を発見したのだった。
雷薄はそれを袁遺に報告し、激賞を受けたのだが、内心では不安が渦巻いていた。
彼が発見した村塢は決して大きくなく、防御施設も土塁くらいだった。
村塢の規模は当然ながら建設者の権力の多寡によって変化する。そこから考えれば、そこに籠る賊の規模も見えてくるが、問題はその立地であった。
土塁の周りは川と湿地だらけである。そんな場所で力攻めを行おうなら、無駄な損害を積み上げるだけである。
雷薄は袁遺の下に移って来たばかりである。そのため、まだ袁遺の為人を掴み切れていなかった。そして、前に仕えていた袁遺の従妹は無能であった。お調子者で、思慮の欠片もない、どうしようもない愚物だったのだ。その袁術と同じ一族であることが、若干の不安を雷薄に抱かせていたのだった。
俺を買ってくれているのはありがたいが、力攻めとか言い出さなければいいけどな、と雷薄は考えていた。
だが、袁遺は雷薄の心の内を見透かしたように集まった指揮官たちの前で宣言した。
「無理攻めは私の趣味ではない」
袁遺は地図を示した。地図には判明した賊の村塢を表す石が置かれている。
「敵の主要な村塢は三つ。多く見積もってそれぞれに一〇〇〇規模の賊がいる。つまり、我々は自軍より多い敵に三方向から囲まれているという状況だ」
「それは愉快な状況ですね」
雷薄が茶々を入れた。
「ああ、まったくだ」
袁遺は無表情ながらも声はいつもよりわずかに高く、雷薄の茶々を面白がって受け入れた。
袁遺がこの敵に三方向から囲まれているという状況でとった作戦は内戦作戦であった。
「こちらが村塢のどれかひとつを攻撃すれば、間違いなく他の村塢から援軍が来て我々の背後を襲うはずだ。その援軍を叩く。つまりは敵を合流させずに各個撃破する」
司馬懿、陳蘭の部隊が陽動として雷薄が発見した村塢に攻撃を仕掛け、その村塢を助けに来た別の賊を袁遺、張郃、高覧、雷薄の主力で撃破する。
後に、天下の諸侯相手に袁遺が見せた内戦作戦の原型は、兵を素早く動かせる指揮官たちと自分とほぼ同等の戦略家としての能力を持った軍師である司馬懿が揃った時点で完成していたのだった。
司馬懿・陳蘭の別動隊七〇〇は、雷薄が発見した村塢を攻撃した。
賊の村塢の周りは雷薄の報告通り、川や沼に囲まれた湿地帯である。
川の深さは腰の高さまであり、さらに泥に足を取られれば、人の助けを借りなければ泥から足が抜けぬ程である。近づくことすらままならない。
だから、まず司馬懿は周辺の村々から小舟を相場の倍の値段でかき集めた。
司馬懿は、袁遺が吝嗇だと思われること過度に嫌っているという悪癖を知っているため、存分に使えと言われて遠慮すれば、逆に不興を買う結果になることを理解していたのだった。
兵を小舟に乗せ、泥の上には伐り出した板を敷いて足場を作って、少しでも動きやすくしたのだが、それでも気休め程度の効果しかなく、司馬懿隊の陽動である攻撃の効果は陽動にしても低かった。
それでも司馬懿は、
「あまり無理をさせないよう」
と鷹揚に実戦指揮官である陳蘭に命じた。
「状況によっては攻撃を中止し、部隊を動かすことになります。深入りしすぎて後退に支障をきたさないように」
「はい!」
陳蘭は硬い声で答える。
陳蘭は丸顔で良く言えば親しみのもてる、悪く言うなら不器量な風采の持ち主であった。
頼りなく見えたが、その実、彼は有能であった。司馬懿が細かな指示をしなくとも、十分に行き届いた現場指揮をやってみせた。
旗を大量に立て湿地に群生する葦を兵士に揺れさせて兵がいる様に装い、敵に兵を分散させていることを悟られないようにした。ともかく前線を周り常に兵たちに接し、司馬懿が現場に出て、あれこれと対処しなければならないという状態は作らなかった。
彼は理解していたのである。袁遺が選んだ戦略は最良ではあるが、途轍もない才能と情熱と冷静さを持っていなければ達成することが不可能だということを。
陳蘭は思った。
少なくとも、自分ならこんな選択はできない。この村塢の陽動攻撃に兵を割かれた状態で、さらに敵が二方向から押し寄せてくる可能性があるのだ。普通なら、身動きが取れない、どうしようもない状況に陥るはずだ。しかし、伯業様は平気で部隊を動かしている。自分とはモノが違う。
同時に、彼は自分の上官につけられた男のことを思った。品は良いが、底知れぬ不気味さを感じさせる男のことを。
そして、司馬殿も伯業様と同じものが見えている。伯業様を真の意味で救えるのは彼しかいない。
だからこそ、陳蘭は司馬懿が他の村塢の賊の動きと袁遺本隊の動きにのみ注力できるように、現場を十全に掌握していたのだった。
陳蘭はこの戦いの結果、袁遺には絶対に敵わないと心の底から思うようになり、徹底的な服従が彼の処世術となる。
袁遺本隊と攻められた村塢を助けるために出てきた賊との戦いはお互いの発見から戦闘までに長い時間の経過があった。
湿地や川が点在する土地のために、お互いが兵力を満足に展開して戦う場所が限られていたからである。
この瞬間、この戦闘で主導権を得るのは先に部隊を展開した側になった。何故なら、先に展開できた側が、態勢未完の相手に襲い掛かることができる。如何に厳しい訓練を重ねて優れた戦闘力を持っていようと行軍隊形では、それを発揮できない。
賊軍には地の利があった。ここら一帯は彼らの縄張りである。袁遺軍にも雷薄という地理に明るい男もいたが、やはり全体が慣れている賊の方に利があった。
対して、袁遺側の有利は兵の練度が段違いということだ。行軍の速度、部隊展開の速度は訓練によってしか獲得できない。そして、袁遺という野戦指揮官はそれをこの時代の感覚からすれば異常なほど重視する。
地の利と練度、その戦いは練度に軍配が上がった。
袁遺隊が先に戦闘隊形を整えたのである。
袁遺は、張郃に態勢未完の敵の前衛部隊を蹴散らすように命じた。
張郃は袁遺の筆頭武官の立場にある。彼が最も古くから袁遺に仕えている。角ばった顔には達筆家によって書かれたような力強い眉毛があり、威厳に満ち溢れていた。
「突撃!!」
張郃は麾下の兵に下知する。その声は太かった。
鎧袖一触、張郃隊は瞬く間に敵の前衛部隊を戦線から弾き出した。
そして、張郃隊はそのまま敵前衛部隊を追撃する。
袁遺は手元に残っている高覧と雷薄の部隊に、未だに行軍隊形のままである賊への攻撃を命じた。
高覧、雷薄の両隊が斉射を開始する。
賊も行軍隊形のまま、何とか反撃しようとするが、その効果は薄かった。
やはり行軍隊形では、戦闘力を発揮できない。
賊は何とか乱戦に持ち込もうと白兵戦を仕掛けるが、前衛部隊を全滅させた張郃隊が側面から襲い掛かってきた。
賊の長く伸びた行軍隊形はあっという間に、張郃隊によってズタズタに引き裂かれた。隊列が完全に崩壊し、潰走し始める。
「伝令を出せ!。張郃と高覧は敵を追撃しろ! 雷薄は偵察だ!」
袁遺は伝令を走らせる。
確かに賊軍をひとつ潰したが、まだ賊は残っている。素早く捕捉、撃破しなければならない。
しかし、袁遺にはひとつ幸運な要素があった。
司馬仲達という存在である。
袁遺が敵より兵の総数で劣っているにも関わらず、簡単に兵を分けることを決断できたのは、袁遺と同等の戦略眼を持つ司馬懿がいたからこそであった。
袁伯業という男は主に持つなら、これほど面倒な人物はいない。特に、軍師や指揮官に対する評価基準は過酷以外の言葉で表現できない。
そんな袁遺に別動隊を任されたのである。ただ包囲しているだけでは袁遺からの信頼を失うことを司馬懿は理解していた。
司馬懿は斥候や司馬家で囲っている細作、さらには人々の噂から戦場の敵味方の位置を把握しようと努めていた。
そして結果、袁遺本隊よりも早く最後の村塢から出撃してきた賊軍を捕捉したのだった。
その情報はすぐに袁遺に伝えられた。
「でかしたぞ、仲達」
袁遺は満足気に頷いた。
袁遺本隊はすぐに司馬懿の情報を元に進軍を開始した。
袁遺に撃破された賊の中には追撃の手を逃れ、救援に行くはずであった村塢へと逃げ込もうとした者たちもいた。
司馬懿はそれに、
「逃げ込もうとする者を討つ必要はない。ただし、こちらに危害を加えるようなら容赦はしないように」
と自軍に命じた。
「良いのですか?」
司馬懿の命令に対して、陳蘭がやや困惑気味に尋ねた。
逃げ込もうとする賊を討てと言われれば簡単に討てる。村塢の周りは湿地や川に囲まれており、簡単に逃げ込めないのだ。それに今、村塢は囲まれており、籠城側は下手に逃げて来た賊を受け入れて開いた門から敵が雪崩れ込んでくるかもしれないという不安があり、スムーズに敗残兵を収容できるとは思えない。賊を村塢に接近させた後、矢で射殺せる算段が高かった。
「良いのです。それより逃げ込めなかった賊に降伏を促してください。降伏した場合、決して危害を加えないように」
しかし、司馬懿は穏やかな声で命じた。
賊は村塢に逃げ込めた者と、湿地に足を取られ泥まみれになりながらもがいているうちに、村塢が危険を感じて門を閉じたため逃げることができなかった者がいた。
そんな賊を陳蘭が兵を率いて、降れ、命は助ける。故郷に帰ることも許すし、望むなら兵士として入隊させてやる、と説いて回った。
殆んどの賊が降った。
降った賊を使って、司馬懿は村塢に対して降伏を促した。
「援軍が敗れたことは逃げ込んだ賊によって村塢に伝わった。おそらく動揺しているでしょう」
降った賊たちが、降伏したこと、決して罪には問われず、命は助かることを村塢に大声で叫んでいるのを聞きながら司馬懿は陳蘭に説明した。
「そこへ降伏が許されたということが伝われば、いざとなれば降伏しようと考える者が村塢でも出てくる。別に全ての賊がそう思わなくてもいい。仲間がやられたことで憤る者も出る。起こってほしいのは、考えの違うもの同士の不和だ」
人の思想や信念が完全に一致するということはない。そして、その差異が大きければ大きいほど不和を呼び、村塢の亀裂となる。
これが司馬懿が逃げて来た賊を討たなかった理由である。
それを聞いて、陳蘭は思った。
この人は気品に溢れているが、陰謀を飼い慣らすことができる人だ……
後に司馬懿は、その二面性のある冷徹さや洞察力の高さやそれを利用した作戦や策略を駆使することから張郃、高覧、陳蘭、雷薄に司馬懿は恐怖の裏返しとして嫌われることになるが、それはこの瞬間にも見られていた。
司馬懿の情報を元に袁遺軍は賊軍の捕捉に成功した。
「面倒だな」
賊を確認すると、袁遺は誰にも聞こえないように呟いた。
賊は陸上戦力だけでなく、五隻の小型船が陸上戦力を先行するように並行する川を進んでいた。
船から一方的な射撃を側面に受けることは間違いなく、最悪、後方に兵を送り込まれる可能性もあった。
そうなる前に敵の陸上戦力を突破しなければならない。
先行していた雷薄隊が川沿いに小さな丘があり、今なら丘を確保できるがどうするか、と袁遺に指示を仰いできた。
雷薄は冷静だった。一見すれば、高所は戦術上の要地であるが、今はそうではない。
袁遺軍の戦術目的は敵の突破である。
丘を確保し、そこに主力を置いても、川沿いであるため船からの射撃を受け、逆に側面警戒のための平地に配置した軍が突破される可能性が高かった。
袁遺軍の理想は丘に少数の兵を配置し耐えている間に、平地側の主力が相対する賊を突破して、敵の後方に出て丘の部隊と残りの賊を挟撃することである。
まるで砂丘の戦いだな……
袁伯業という未来の知識を持つ異物の脳裏に、三十年戦争の残り火であるひとつの戦いが過った。
砂丘の戦いの勝者であるイギリス・フランス軍と似た状況であるのは敵である賊軍であり、袁遺軍はむしろ敗れたスペイン軍に状況が酷似している。
そのことを理解したとき、袁遺は、ふと思った。
相手はただの賊であり、歴史上六人しかいないフランス大元帥のひとりテュレンヌではない。気負う必要などないが……まあ、勝てるなら歴史は変えられるという願掛け程度に考えて、やるべきことをやるか。
袁遺には確かに未来の知識はあるが、未来の思い出はない。物心がついたとき、自分が異物であると理解した。歴史や軍事、経済、文学などの知識はあれど、それをどのように学んだのかを思い出せないのである。
そんな中で思ったことが、ひとつあった。
自分の知る袁遺という歴史上の人物は従弟である袁術に敗れ、逃亡先で部下の裏切りで殺されるはずだ。人はいつか必ず死ぬにしても、そんな死に方は嫌だ。歴史を変えるしかない。
それでも、袁遺は歴史は変えられるという証明だ、などと気負ってはいなかった。彼という人間の精神構造は現実家だった。そんな証明などと意気込まずとも、目の前の敵を倒さねければ危険であるということだけで十分であった。
「雷薄に伝令だ。丘を占拠しろ。それと高覧に私の元に来るように伝えろ」
袁遺は感情の薄い声で命じた。
一時間後、両軍は展開を完了し、対峙した。
袁遺は雷薄隊と高覧隊を丘の上に配置し、その側面である平地側には張郃隊を配置した。
対して、賊軍は丘の麓側の兵を薄くし、平地側の兵を厚くしている。
「前進!」
袁遺の号令と共に太鼓が一定のリズムで連打される。
それに雷薄隊と高覧隊でも軍鼓が連打され、両隊が前進を開始した。
それに呼応する様に、賊軍でも平地側の部隊が前進を開始する。
前進する雷薄隊と高覧隊を丘の麓の賊が阻もうとする。さらに、川の小型の軍船から矢が放たれた。
そして、ほぼ同じタイミングで張郃隊もまた前進する賊を止めようと干戈を交えていた。
戦場が一時的な膠着状態となる。
しかし、雷薄隊と高覧隊が徐々に前方の敵部隊を押し始めていた。反対に、敵を受け止めた張郃隊はそのまま敵を止め続けている。
練度の差であった。袁遺の訓練は部隊の機動力に重きを置いているとはいえ、賊に後れを取るほど正面戦闘力が弱いわけではない。それが表れているのだった。
そして、袁遺の作戦は敵部隊の正面突破という常識的な考えに基づいたものではなかった。
「よし、いいだろう。後退の銅鑼を鳴らせ」
袁遺の命令によって銅鑼が叩かれる。
それに合わせて今度は張郃隊が徐々に徐々に後退し始めたのだ。
下手をすれば、この後退は敗走になりかねなかったが、張郃と下士官たちの指揮により張郃隊は耐えた。
賊の丘の麓の部隊は雷薄隊と高覧隊に押されているのに対して、平地の部隊は張郃対の後退に引きずられるように前進した結果、この両部隊の間に大きな間隙ができたのだ。
それを見逃す袁遺ではなかった。
「高覧隊を動かす軍鼓だ!」
今まで叩かれていた太鼓のリズムが変わった。
すぐにその変化に反応して、高覧は部隊を率いて逆落としに、その間隙へと飛び込んだ。
典型的な鉄床戦術である。
そのまま高覧隊は張郃が相対する敵の側背を攻撃する。
決定的な一撃であった。張郃隊と高覧隊に挟撃される形になった賊の戦列が崩壊した。
その戦列の崩壊は雷薄隊が攻撃している賊にも伝染した。潰走の連鎖反応である友崩である。
勝敗は決した。
援軍がふたつ共、壊滅させられたことを知った村塢は降伏を申し出たのである。
袁遺は、廬江太守が提案しようとしていたのと同じ条件で彼らの降伏を許した。
こうして、政治的な混乱のせいで紆余曲折あったが、この賊は討伐されたのであった。
西暦二五年に光武帝・劉秀によって再興された後漢はある三つの病魔に侵されることになる。
ひとつは外戚。ひとつは宦官。そして、地方豪族である。
村塢に依るような人は元々、農民であったが、税が払えず逃げ出し仕方がなしに賊に身をやつしたという者も少なくない。
この様な人々を地方豪族―――名士が小作人や部曲(私兵)として取り込み、肥大化し最終的に皇帝を越える力を持ち、漢王朝は滅びる。そして、魏、呉、蜀の三つの国が興るのである。
しかし、この外史には袁遺という異物がいる。
捕捉
・砂丘の戦い
砂丘の戦いは三十年戦の残り火ともいえるフランス・スペイン戦争の戦いのひとつである。
1658年、テュレンヌ率いるフランス軍一万八〇〇〇は艦隊三隻を伴う英国軍三〇〇〇と共に南オランダのスペイン領ダンケルクに立て籠もるスペイン軍三〇〇〇を包囲した。
その救援のためにドン・ジュアン将軍率いる騎兵六〇〇〇、歩兵八〇〇〇、それにイギリス反乱軍の二〇〇〇をスペインは派遣した。
そのことを察知したテュレンヌは歩兵六〇〇〇(その内一〇〇〇は英国軍)を包囲に残すと、スペインの迎撃に向かった。
戦場となった地形は本編と殆ど同じで海岸と平地に挟まれた丘があり、その戦場全体を見渡せる丘は砲兵が置き去りにされることを覚悟したスペイン軍が確保した。
しかし、その砂丘は英国艦隊の艦砲の射程範囲内である
攻撃にあたってテュレンヌは四つのパターンを考えた。
①こちらが砂丘側に大兵力を置き、平地側を少数にする。対して、敵が砂丘側を少数にし、平地側を厚くするパターン。
②こちらが砂丘側に大兵力を置き、平地側を少数にする。対して、敵も砂丘側を厚くし、平地側を少数にするパターン。
③こちらが砂丘側に少数の兵を置き、平地側を厚くする。対して、敵も砂丘側も少数にし、平地側を厚くするパターン。
④こちらが砂丘側に少数の兵を置き、平地側を厚くする。対して、敵が砂丘側を厚くし、平地側を少数にするパターン。
この中でフランス軍にとって最良なのは④である。艦砲射撃で砂丘側の部隊が耐えている間に、平地側の大部隊で敵の将数を討ち、砂丘の敵の背後を取る。
スペイン軍にとっての最良は③の状態で、平地側の部隊が敵の正面突破に成功することである。
そして、両軍にとって最悪なのは②である。これでは戦線が膠着してしまう。
残された①であるが、これは両軍ともに突破が容易であるが、ややフランス軍にとって不利である。
テュレンヌはここまで考えて、ひとつのことに気が付いた。スペイン軍は基本的に平地側を突破する方が得であるということだ。
テュレンヌはその利で敵を釣って、最終的に自軍が有利になるように仕向けたのだった。
両軍の配置は、フランス軍が砂丘の麓に歩兵二〇〇〇、平地側に歩兵三〇〇〇と騎兵三〇〇〇。予備兵力として騎兵六〇〇〇と歩兵一〇〇〇。
スペイン軍は砂丘に歩兵一〇〇〇、平地側に歩兵五〇〇〇と騎兵二〇〇〇。予備兵力として騎兵四〇〇〇と歩兵二〇〇〇。
つまりは③、スペイン軍にとっての最良のパターンとなったが、これはテュレンヌの思惑通りであった。
戦闘が始まりと、テュレンヌは予備兵力の騎兵から三〇〇〇を割いて、砂丘へと向かわせる。
砂丘側のスペイン兵たちは苦戦を強いられ、また、スペイン軍は実は砂丘側がフランス・イギリス軍の主攻面だと思い、ここに予備隊を全て投入してしまうが、これこそがテュレンヌの罠であった。
テュレンヌは敵が予備隊を投入したことを知ると、自軍の残りの予備隊を平地側に投入したのだ。
これによって、スペイン軍の平地側の部隊は崩れ、スペイン軍は退却を余儀なくされた。
フランス・イギリス軍の死傷者は約四〇〇(全体の二.七パーセント)に対して、スペイン軍は戦死者一〇〇〇、捕虜五〇〇〇、行方不明者二〇〇〇と全軍の五〇パーセントを失う大敗北であった。
この戦いはテュレンヌが自軍の主攻面を相手に悟らせずに、相手を自分の意図する通りに行動させ、主導権を握った戦いである。
本編では袁遺は部隊の精強さでもって主導権を取り続けたが、丁の章が全体的に正面決戦では絶対に勝てない相手に、戦略でもって勝利するということを書き続けていたため、逆に正面決戦でもって勝つ戦いというものを書きたかったから、こういう風な短編を書きました。
それでも、袁遺が軍の柔軟性や機動力を以って戦術でも有利を作っているあたり、結局、そういう話が俺の好きなことなんだろうな、とも思った。