異・英雄記   作:うな串

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2 漢中

 

 

 頬を打つ風が幽州の風景を公孫賛の脳裏に思い出させた。

 黄土台地の砂塵が舞う乾燥した空気が幽州のそれと似ていたのだ。

 公孫賛は今、渭水の畔にある上邦に一五〇〇の兵を率いていた。

 そこから難所として名高い蜀の桟道を越えようとしていた。

 蜀の桟道は関中と漢中を結ぶ細い糸の様な街道で、秦嶺山脈の深い渓谷沿いに切り開かれている。

 秦嶺山脈は標高三七六七メートルの太白山を筆頭に二〇〇〇メートル級の山々が聳え立つ、それに浸食性の地形のために渓谷は深く、関中と漢中を厳然に分かっていた。

 桟道とは渓谷の崖際に木の杭を打ち込み土台とし、その上に木の板を敷き詰めて道としたり、あるいは谷にかかる橋や岸壁を穿って作った道である。

 だが、蜀の桟道は劉焉が張魯に命じて焼き落とさせた。

 そのため通行不可能に思われていたが、その実は桟道の一部が復旧されていたことが分かったのだった。

 発見したのは長安令の張既であった。

 彼は涼州の地勢に明るく、また馬騰を始めとした涼州軍閥に顔が利くため、袁遺によって長安令に抜擢された。

 そして、劉備が益州の地を奪ったことで彼の重要性はさらに増すことになった。劉備と対立した場合、涼州の馬騰を始めとした軍閥や羌族、鮮卑といった異民族が劉備に靡かないよう、その外交手腕を期待されていた。

 洛陽で主の代わりに軍を取り仕切る雛里は、袁遺の指示が出る前に張既に西の情報を集める様に依頼した。

 その結果、張魯が羌族と接触していたことが分かったのだ。

 当然のことだろう。劉備、というより諸葛亮と法正が上奏を行う目的として馬騰の協力を得て、羌族を抑えようとしたように、漢中を治める者には羌族はひとつの問題である。

 その羌族と接触するために使っていた道を張既が発見したのだった。

 それが西から大回りに祁山を通って漢中に入るルートである。

 史実では諸葛亮が第一次北伐、および第四次北伐で通ったルートである。

 余談になるが、演義では史実で行われた五度の北伐が、第四次北伐を二度の北伐に分けているために北伐が六度行われたことになっている。そのため、この祁山ルートは演義では第四次北伐ではなく、第五次北伐に通ったことになっている。

 何故、公孫賛が諸葛亮の通った道を逆に辿ることになったか、それはある意味で因果応報であった。

 曹操との戦争が終結後、公孫賛はそのまま司馬懿の麾下に入り兗州に駐屯した。

 しかし、洛陽へと帰還が言い渡された。

 突然のことであったが、公孫賛はホッとした。

 何故なら、彼女は陳留で居心地の悪さを感じていたからだ。他の部隊の兵たちの公孫賛を見る目は明らかに侮蔑に近い感情が込められていたのだった。

 司馬懿麾下の将兵たちは知っていた。公孫賛が荀彧の支軍相手に殿の命を躊躇し断ったことを。

 そして、公孫賛の代わりに殿の任を引き受け、その命を犠牲に司馬懿勢を脱出させ勝利に貢献した陳蘭との対比で、公孫賛は臆病者と白い目で見られていたのだった。

 それから解放されることに公孫賛は安堵したが、洛陽で新たに命じられたのはまったくの予想外なことであった。

「総大将として劉皇叔と共に漢中を攻めよ」

 皇帝の命令―――勅命であった。断ることは許されない。

 公孫賛は混乱を抱えたまま、いつの間にか彼女と同様に兗州から呼び出されていた劉放を参謀として洛陽を発ったのだった。

 

 

 張魯討伐の上奏を受けて、劉備の体裁は早急に整えられた。益州牧の位が送られたのだ。さらには、漢中征伐に成功した暁には左将軍の位も送られることが、内々に決まっていた。

 ただし、全てが劉備の願い通りにことが運んだのではなかった。

 劉備の上奏は確かに受け入れられ、張魯討伐の詔が下されたが、その総大将は劉備ではなかった。

 上記の通り、総大将は公孫賛であった。

 しかし、総大将と言っても公孫賛の手勢は一五〇〇程度であり、名目上のだけのことであった。かつて袁遺が袁紹打倒のために冀州へと侵攻したとき、その総大将を董卓が務めたに近い。

 あのとき、袁遺は一族の者である袁紹の討伐は罪を雪ぐという面が強く、そのため功の部分が曹操に集中することを嫌って董卓を名目上の総大将に添えた。

 今回の公孫賛の総大将抜擢の目的もおおよそ同じであった。

 劉備……というより、諸葛亮と法正が董卓や袁隗、袁遺、さらには馬騰との対立を避けるために上奏したことを袁遺は逆手に取って、漢王朝による討伐という面をより濃くしたのだった。

 漢中を攻め落としたのは劉備ではなく漢帝国、漢中の民は劉備の民ではなく漢帝国の民である。そういう意識を漢中の民や各地の名士たちに思わせるのが目的であった。

 そして、その役目に公孫賛が選ばれたのは彼女が劉備の洛陽脱出に手を貸したという事実があったからだ。

 さらに言うなら、そのことを袁遺は不問にしている。

 袁遺は公孫賛を総大将にすることで、あのときの借りを返せと無言の内に促しているのだった。

 ただし、それは劉備ではなく諸葛亮に対してである。

 洛陽脱出に際して、諸葛亮は袁遺なら感情に囚われず何が今の状況で最善かを間違いなく判断すると信頼し、袁遺もまた諸葛亮ならリスクとリターンを正確に読み取って自分の軍権は侵さないと彼女を信頼した。

 だが、今回のことは歪な信頼関係となった。

 諸葛亮は、たとえ謹慎中でも袁遺なら必ず漢中攻めを許可すると信頼し、袁遺もまた諸葛亮ならこちらの意を必ず読み取ると、その能力を信頼した。そう、そちらが要求を飲まないなら公孫賛に対して処分を下す、という真意を。

 袁遺にとって公孫賛とは、司馬懿の命じた殿の任を躊躇し、代わりに陳蘭が殿を務めたときから、最早、心を砕く存在ではなくなったのだった。

 公孫賛が袁紹に敗れて洛陽にやってきて以降、袁遺は彼女に報い続けた。反董卓連合に参加したことを許して受け入れ、中郎将にし、劉備の脱走に手を貸したことに目をつむった。

 もちろん、それは無償の善意ではなかった。公孫賛という存在が袁紹の背後を脅かすのに役立ったからである。

 しかし、事態は公孫賛の政治感覚を越えてしまった。自分が袁遺にとって無益な存在になったというのに、その意味をまったく考えなかったのだ。彼女は董卓、袁隗、袁遺の不信感を拭う努力をしなかった。

 その結果がこれである。故に因果応報と言えるだろう。

 ただし、公孫賛以外の人間がその因果に抗おうとしていた。

 

 

 諸葛亮が職務を切り上げ自宅に帰ってきたときには、更深といえるような時間帯であった。

 彼女は帰るなり、使用人に茶を所望した。ともかく喉が渇いていた。

 諸葛亮は通常の職務の他に憤慨する武官たちを宥め賺すのに追われた。

 総大将を公孫賛が務める、そのことを報らされると、武官たちは横やりを入れて手柄を盗みに来たと憤慨したのだった。

 そんな武官たちに諸葛亮は、益州奪取以前の将たちには、

「公孫賛さんには袁紹軍によって平原の地を追われたときには朝廷に口利きをして助けられ、さらには洛陽脱出にも協力していただきました。その恩を返すのは今ではないでしょうか」

 と公孫賛への恩返しという名分を持ち出して宥め、黄忠、厳顔、魏延たち益州で劉備に仕えた者たちには、主君である劉備に頼んで彼女の口から、

「漢王朝を蔑ろにしないことは、たぶんこういうことを受け入れるのも含まれると思うの。それに朱里ちゃんが言うには白蓮ちゃん……じゃなくて、伯珪ちゃんの大将は名前だけで戦力としては充てにできないみたい。だから、頼りになるのは今まで張魯軍と戦ってきた紫苑さん、桔梗さん、焔耶ちゃんの力なの。いろいろ思うところがあるかもしれないけど力を貸して」

 と宥めた。

 諸葛亮は降将の心理を看破していた。

 降将は意識的にも無意識的にも活躍の場を強く求めている。負けて降ったのである、それはつまり古参の将よりも劣っていると新たな主に取られかねない。降将たちはその挽回の機会を求めているのだ。

 諸葛亮の見たところ、劉備に心酔して役に立とうと躍起になっている魏延はもちろん、黄忠、厳顔の老将もその例外ではなかった。むしろ、老将であればこその自尊心を君主である劉備を使うことでくすぐったのであった。

「ふぅー……」

 諸葛亮は昼間のことを思い出すと疲れが増したような気がした。

 それを振り払うように、彼女は運ばれてきた茶碗に手を伸ばした。両手で茶碗を包み込むように持ち、口へと運ぶ。茶の香りと温かさに癒されるような気がした。

 だがしかし、束の間の癒しは突然の来客によって終わることになる。

「法孝直様が訪ねてまいりました」

「…………すぐにこちらに通してください。それとお茶の用意も」

 現れた法正は普段のどこか斜めに構えた様な雰囲気をまとっていた。夜分遅くに申し訳ない、と頭を下げたが、あまり申し訳なさそうには見えなかった。

 法正は出された茶を片手に、まるで世間話でもするように話し始めた。

「武官たちの御守を全部、あなたに任せてしまって申し訳ない。私の性分では怒りを収めるどころか、火に油を注ぎそうなので」

「いえ、孝直さんにはもっと辛い悪役をやってもらっていますから」

「いや~、そう言ってもらえれば助かります」

 法正は茶碗を傾け、喉を潤した後で続けた。

「しかし、袁伯業という人の外交姿勢はもっと誠実なものだと思っていました。それは私の見込み違いだったのでしょうか?」

 法正の疑問を諸葛亮は当然のことだと思った。袁遺のやっていることは劉備の利益を減らすことだ。今までの袁遺の外交姿勢からすれば異例だろう。

 だが、諸葛亮は何の迷いもなく法正の問いに答えた。

「いえ、見込み違いではありません。袁遺さんは誠実な方です。ただ、同じだけの厳しさを併せ持った人なんです」

 諸葛亮の言葉は何の偽りのない本心であった。彼女はその誠実さに頼って洛陽から脱出したのである。

 そして、その結果、公孫賛が漢中攻めの総大将を務めることになってしまっているのだ。

「なるほど……諸葛さんの見立てには信を置いてますよ。となると、私には分からない損得が袁遺と桃香様……ああ、いや、桃香様にはその手の損得勘定なんてできないから諸葛さんとの間にあったのか」

「そこが桃香様の良い所でもあるんですよ」

「もちろん、褒めたつもりですよ。桃香様はその手の損得勘定が苦手ですが、そのことを自覚して下の者に任せる度量がある。度量も自覚もないならともかく、度量も自覚もあるのだから、中傷されるいわれもない」

 法正は残っていた茶を乾した。

「まあ、そんなことはどうでもいいんです。宜しければ、あなたと袁伯業の間にどのような貸し借りがあったのか、お教えいただけないでしょうか」

 諸葛亮は迷った。外交において、味方さえも欺いて信頼関係を構築しなければならないときもある。だが、法正を欺けるとは思っていなかった。

 迷いに迷い、諸葛亮は洛陽脱出の経緯をありのまま話した。欺けないなら胸襟を開くしかなかった。また、諸葛亮の人間性の表れでもある。

 しかし、同時にそれは最大の障害を作ることと同義でもあった。

 話し終わった諸葛亮は姿勢を正し、法正へと深々と頭を下げた。

「孝直さん、今回の件は全て私に任せてもらえないでしょうか」

 全ての事情を理解したとき、法正ほどの謀略家なら、自分と袁遺の両方を上手く出し抜くことができると諸葛亮が確信しているからだった。

「…………そこまで賢いと損な生き方をすることになりますね。諸葛さん、それはそれで苦しい道ですよ。むしろ、ここで公孫賛を楽にしてやってはどうです」

 法正の返答に諸葛亮は自分の確信が間違っていなかったことを知った。

「私が魏延や厳顔、黄忠を焚きつけますよ。益州の武将の力を見せるのはここしかないとか言って。そして、独断に近い形で漢中を速やかに制圧して、公孫賛を介入させずに戦を終わらせます。こうすれば、四海の人々は桃香様が張魯を倒したと思うでしょう。その後、使者を派遣して皇帝に勝利を上奏する。これで、外交上の主導権を握れるでしょう。当然、責任は私が取ります。どうぞ、諸葛さんと桃香様で私の処遇をお決めください」

 法正は口元に皮肉気な笑みを浮かべて続けた。

「という、私の腹の内を読みましたか、諸葛さん? まあ、当然ですか。私の考え通りにいけば、公孫賛は間違いなく殺されます。総大将が戦が終わった後にノコノコとやってきたなんて、そんなものは総大将なんて言えないですからね。処分の理由には十分です。そうなることがわかっていたら、諸葛さんは絶対に私の好きにさせませんか」

 法正の問いに諸葛亮は答えず、頭を下げたままだった。

「ですが、諸葛さん。袁遺にとって公孫賛はその程度の、こちらから利益を吸い上げるエサの役割さえ期待していない切り捨てた存在になったということですよ。今回は生き延びても次また何かあったら、どうせ使い捨て以下の扱いをされるだけです。ならいっそ、今回で楽にしてやるのが慈悲というものですよ。諸葛さんが気に病む必要などありませんよ。公孫賛が無能であっただけの話で、無能の責任は本人が取るべきなんですよ」

「いえ、違います」

 諸葛亮は頭を上げた。そして、真っ直ぐに法正を捉えたまま続けた。

「公孫賛さんの命という問題ではないんです。時期と戦略の問題です」

 諸葛亮は、はっきりと言った。

「おそらく孝直さんの言う通りにしても、袁遺さんは公孫賛さんの無能故の結果として、桃香様や私を責めないでしょう。孫策さんという敵もいることですし。ですが、袁遺さんからの信頼を失うことになります。桃香様が益州を手に入れてから日が浅い、今の状況で袁遺さんを敵に回すことは戦略上の失策になるんです」

「そうですか……わかりました。諸葛さんにお任せします。ですが……」

 法正はそこで言葉を切った。

 だが、諸葛亮は法正が何を言いかけたかわかっていた。

 これから先も公孫賛は劉備(と諸葛亮)に対する脅しの道具として袁遺に使われ続けるだろう。

 そして、いつか必ず劉備も諸葛亮もそれに付き合い切れなくなる。そうなると、公孫賛は袁遺によって殺されることになる。

 公孫賛は、あの洛陽で諸葛亮自身によって巻き込まれ、破滅へと追いやられたのだ。

 それなのに、諸葛亮は公孫賛を見捨てた。今回、公孫賛を助けるのも結果論であり、これから先はその限りではないと、法正に宣言したに等しい。恩知らずで、恥知らずの人面獣心の外道の極み、いくら罵倒されてもされ足りないだろう。

「諸葛さん、信頼してますよ。その証としてどうか、私のことは真名で呼んでいただけますか」

 しかし、諸葛亮に与えられたのは罵倒よりも心にくるものだった。

 公孫賛を見捨てて、君主の利益となる道を行くことを選んだなら、最後までその道を行け。絶対に情にほだされるな。信頼しているよ、と。鞭を打たれたに等しい。

「はい、私のことも真名の朱里と呼んでください」

 なら、甘えたことは言っちゃだめだ。諸葛亮は思った。

「はい、朱里さん。私のことは茨花(ちーふぁ)と」

 

 

 十日後、劉備軍は漢中へと侵攻した。

 その先鋒は黄忠、厳顔、魏延と劉備の言葉通り、地理に明るい元劉璋軍の者たちであった。

 彼女たちは漢水沿いに北上し漢中盆地の西の玄関口といえる陽平関を目指した。

 それと同時に、別動隊である張飛率いる部隊が米倉山へと向かい、関羽が率いる部隊が西漢水を北上した。張飛隊には法正が、関羽隊には劉備軍に降った黄権がそれぞれ派遣され土地勘のない張飛と関羽を助けている。

 米倉山は定軍山の裏手に連なる山で、その名が示す通り糧秣貯蔵庫が置かれている。また、西漢水を北上すれば祁山へと辿り着き、公孫賛軍と合流することになる。

 張飛隊と関羽隊は張魯軍の兵站を脅かすことと公孫賛との合流が目的ではあったが、同時に張魯軍分断のための陽動も彼女たちの任務であった。

 それに対して、張魯軍の動きは鈍かった。

 張魯の弟で軍権を任されている張衛は戦意に溢れていたが、例えば袁遺軍の様に別動隊を各個撃破して回る運動戦を展開したわけでもなかった。

 張衛が採った策は陽平関を始めとした防御施設に兵力をばら撒き、その場その場で籠城戦を行うことであった。

 しかし、それは援軍のない劣勢側にとって決して上策といえることではなかった。

 また、張魯の心が降伏に傾いていたため、張衛を積極的に支援しなかった。

 結局、戦は兵力差により陽平関が陥落した段階で張衛の主張する抗戦を退けて、張魯は降伏した。

 ただし、張魯が降伏を申し出た相手は劉備ではなく公孫賛であった。彼は報復を恐れて因縁があり戦ってきた旧劉璋軍が多くいる劉備軍にではなく、漢王朝に降伏して庇護を求めたのだ。

 張魯の処遇は諸葛亮と劉放の話し合いの末、張魯とその家族を中原へと移送し、五斗米道信者の中で同行を希望する者も移住を許可することになった。

 この移住は五斗米道という民間宗教が中華全土に波及し、後の道教の隆盛につながるのだが、当然、諸葛亮も劉放もそんなことは知る由もなかった。

 そんな未来のことより、この張魯討伐により、劉備は予定通り左将軍の位に就き、左将軍府を開いた。

 これは前の益州の主であった劉璋が成し得なかったことであり、それを成した劉備の権威を高めた。また、錦の御旗の下で張魯を討伐したことにより正統性も手に入れた。

 だが、この成功の陰で、その反動と言える歪みが発生していた。

 

 

3 歪み

 

 

 洛陽の南門を出てしばらく歩いたところに陳蘭の墓はある。

「今じゃあ、もう誰も来なくなったな」

 雷薄はポツリと呟いた。

 彼も当然、葬儀には参加し、埋葬されるのも見届けた。そのときは弔問客であふれかえっていたが、今では訪れる人も殆んどなく、どこか物寂しかった。

 墓の前にはもうすでに張郃と高覧がいた。ふたりとも手には酒瓶を提げていた。

 雷薄も手に持っていた酒瓶を掲げてみせる。

「酒ばかりになったな」

 張郃が言った。

「まあ、いいさ。あいつは俺たちの中で一番、酒が強かった。これくらい平気で飲み干すさ」

 雷薄が笑ってみせる。

 三人は墓前に持ってきた酒を供えた。

「たくッ、てめぇはおっ()んで簡単に将軍になりやがって、こっちは面倒なことになってんだぜ」

 雷薄の乱暴な口調とは裏腹に、その声はどこか哀愁を宿していた。

 

 

 劉備の張魯討伐の直後、ひとつの問題が浮上していた。

 それは曹操の叛乱鎮圧の論功行賞をどうするかであった。

 本来なら総大将を務めた袁遺が皇帝に諸将の功を上奏して、その功に相応しい褒賞が与えられるのであるが、肝心の袁遺が洛陽へと帰るなり弾劾され罷免されたために上奏が行われず先送りされたのだった。

 しかし、信賞必罰は軍隊の基本である。命を懸けて戦った将兵に報いなければ、士気の低下を招く。速やかに恩賞を与えなければいけない。

 賈駆の胸には、この論功行賞においてひとつの強い決意があった。

 それはこの論功行賞をきっかけに董卓の権威を高めることであった。

 こんな逸話がある。

 前漢の功臣・陳平がまだ無名の頃、祭りで宰領役になった際には祭肉を迅速、公平に分配して名声を高めたが、彼は以下のことを漏らした。

「天下を与えられたなら、この肉の如くたちどころに裁いてみせるのだがな」

 後に陳平は丞相となり、言葉通りに天下を裁くことになる。

 そして、彼の漏らした言葉は宰相の役割を端的に表している。

 肉を公平に分配するとは、決して一律均等に分配することではない。貧富、貴賤、長幼の次序を斟酌して、差等を設けて分配し、その差等に村人たちが不満を抱かなかったことである。

 これは、郷里社会の狩猟や祭祀、即ち経済と礼節にわたる分配の原則であり、一歩踏み込めば財政的物流における均輸、調均などの国家の財務運営や王朝儀礼の実践原則となり、究極的には陳平のつぶやきに見る様な天下を統治する天下均平の理念となった。

 論功行賞も同じである。

 武功に応じて、それに相応しい褒賞を授与する。

 これを董卓の主導で行うことによって、賈駆は董卓の影響力を強めようとしていた。

 賈駆の決意の背景には、袁遺が謹慎したにも関わらず、その影響力が弱まるどころか強くなる一方なことに対する恐怖があった。

 また、董卓も論功行賞には意欲的だった。

 といっても、彼女の場合は賈駆の様な権力論が背景ではない。まったくの善意からだった。

 劉備が張魯を討伐して左将軍の位に就いたのだが、その左将軍より高位に就いている者は袁遺と董卓、その両方の麾下の中では司馬懿のみであった。

 反董卓連合から長い間、激戦に次ぐ激戦を戦ってきた将兵、参謀が劉備より、下手をすれば孫策より低い地位にいる事実に董卓は心を痛めたのだった。将兵、軍師、参謀の献身に公正な官位と俸禄で報いたいと心の底から願った。

 だが、その無垢な願いは叶わなかった。

 袁遺に驃騎将軍府を任された雛里が慎重な論功行賞をと、提言したのだった。

 現在、軍では論功行賞とは別の問題が発生していた。

 陳蘭隊の壊滅は陳蘭の死という悲劇を招いたが、同時に彼の麾下であった経験豊富な下級将校、下士官を大量に失うことでもあった。

 彼らの高い能力が袁遺軍の柔軟な機動を可能にしていた。それを失ってしまっては軍の再編はやむを得ない。

 そんな中で、ただ官位をばら撒かれたら軍の再編に支障をきたすため、仮の処置として官位ごとに金銭を褒美とし、後日、改めて正式な論功行賞を行うことを雛里は提案した。

 ただし、与えられた金銭を遊資とするようなことはせず、すぐに使うことを厳命するよう重ねて献策した。

 現在の漢王朝の経済状況は決して良好とは言えない状態が続いている。それでも投下すべき資本が決してないわけではないので、雛里の提案は経済の活性化、内需拡大策の一策でもあった。

 雛里の提案は賈駆にとって、とうてい受け入れられるものではなかった。董卓の威信を示すことができない、平凡な論功行賞である。

 しかし、雛里も譲ることができない。

 袁遺に驃騎将軍府を任されたのである。主の不在の間に、彼が作り上げた軍からその最大の強みであった柔軟性や機動力の高さが失われ、骨抜きにされてしまうなど、留守を任された者として絶対にあってはならない。

 雛里は普段の彼女からは想像できないほどの、強硬な態度を見せた。

 このふたりの対立は論功行賞を最悪のものとしてしまった。

 論功行賞が折衷案的なものとなったのだ。

 校尉以上の者たち―――例えば呂布や張郃たち―――には官位を、後代の言葉で言うところの下級指揮官たちには金銭を恩賞とすることにした。

 だがしかし、袁遺麾下の張郃、高覧、雷薄たち三人は示し合わせたように、自分たちには将軍職という重責に耐えられる能力はなく過分な恩賞でございます、と与えられるはずであった将軍職を辞退して、金銭を恩賞として要求した。

 これはこの時代の―――最初はそれを断り、再度任官されたときに受けるという―――礼儀ではなく、彼らの本心であった。

 三人は袁遺の留守を預かる雛里に対して取り計らってくれるように頼み込んだ。

「軍師殿、何とかなりませんか」

 驃騎将軍府を訪れた三人を代表するように、張郃が言った。

「将軍職は確かに名誉ですが、我々に将軍職が勤まると思えませんし、何より伯業様が不在の状況で恩賞を受けるなど……」

 彼らが将軍職を辞退しようとしている理由、その根本は自分たちは袁遺の部下であるという強い認識であった。

 袁遺軍において、将軍職に求められる役割とは後将軍時代の袁遺のそれであり、曹操との戦争時の司馬懿のそれであった。

「我々には伯業様のような……例えば、複数の分散した部隊を参軍たちを使って掌握し続ける様な作戦指導力はありません。それなのに将軍などなれば……」

 張郃はその達筆家によって書かれた様な力強い眉を曇らせながら、続けた。

「軍師殿もご存じでしょう。我々が主と戴いた方が、将……兵に死ねと命じる立場にある者に対して、どれほど厳しい態度で臨まれるかを」

 もちろん、張郃が例に出したような分進合撃が可能であることが将軍になるための条件ではない。

 現在、分進合撃が行えるだろう指揮官を各陣営で探したところで袁遺と司馬懿しかいないだろう。

 だからと言って、例えば呂布が将軍失格かと問われれば答えは否である。彼女の騎兵指揮官としての能力は一級品である。

 また、張郃本人の野戦指揮官としての能力も一級品である。個人的な武勇で張郃を上回る将は現在の中華にも多数いるだろうが、指揮能力や部隊機動の速度や柔軟性においては現在の中華で確実に五本の指に入る。

 その能力は袁遺という戦争指導者の下では個人的な武勇に比べても、遥かに貴重な資質である。

 客観的に見れば、将軍の資格は十分にあるだろう。

 しかし繰り返すが、張郃たち三人には袁遺個人の部下という意識が強過ぎた。袁遺の―――過酷過ぎる―――評価基準こそが絶対であったのだ。

 そして何より、袁伯業は猜疑心とは無縁になれない男である。

 そんな主が謹慎中の間に自身の権力が拡大するような真似をすることを許すはずがない。袁遺の猜疑心は大きくなり、将来の禍になると三人は考えたのだ。

「我々には将軍という官位は重過ぎるのです」

 雛里にも、彼ら三人の気持ちが痛いほどわかった。それを叶える様に結局、三人には彼らの望み通りに金銭が与えられた。

 この論功行賞は賈駆にとっても、雛里にとっても最悪の形で幕を閉じることになる。

 賈駆は企んでいた董卓の威信を示すことなどできなかった。

 呂布、張遼、華雄はそれぞれ前将軍、右将軍、後将軍となったはいいが、将軍府を開くにあたって人材が不足していた。

 そして、その人材を賈駆は用意することができなかった。

 仕方がないと言えば仕方がない。

 賈駆と彼女の主である董卓は名士人脈がなく、また中原の目ぼしい人材は袁遺と曹操が反董卓連合解散後に、自身や部下―――主に、司馬懿と荀彧―――の人脈を総動員して、もうすでに搔き集めてしまった。旧袁紹軍の名士たちも似た様なものである。

 賈駆は曹操の旧臣の中で董卓・袁隗体制下の漢王朝に仕えることを良しとせず野に降った者たちの登用すら考えたが、既の所で留まった。

 彼らが素直に召喚に応じるかは別に、ひとつの問題があった。

 袁遺が一時的に中央官界から離れているのは曹操を過分な地位に推挙したというのが建前である。

 本来なら、曹操は漢王朝への叛乱の罪で頸を落とされているべきであるが、彼女の文才を利用したい袁遺が全てを有耶無耶にするために問題点をすり替えて、自分が謹慎するという荒業を繰り出したのだ。

 その結果、曹操は命は助かったが、名士間の評価は地に落ちた。

 それに引きずられて元曹操麾下の文官武将の評価も、かなり低いものになってしまったのだ。

 それなのに、元曹操麾下の人材を登用して、万が一にでもその者が何かを起こせば、わざわざ登用した賈駆、ひいては董卓の威信は間違いなく今以上に失墜する。さらに今回、袁遺が官位を返上して謹慎したのだ。登用した賈駆と董卓もそれに倣わなくてはいけないだろう。袁遺には孫策という最高の名誉挽回の機会があるが、賈駆たちにはそれがない。そうなれば、政治生命の終わりだ。

 そんなリスクを冒せるほど、今の賈駆には余裕がなかった。

 だが、任官したはいいが、将軍府が開けませんというのも話にならない。

 賈駆や董卓だけでなく、軍全体の威信に係わる。

 そのため、賈駆と論功行賞で対立した雛里が、賈駆を助けなければならなくなった。

 袁遺麾下の参謀たちをスタッフとして各将軍府へと派遣することにしたのだった。

 結果、この論功行賞は董卓の影響力の限界をまざまざと天下に見せつけられることになってしまった。

 そして雛里の方も、多くの人材を呂布たちの将軍府に派遣したために深刻な人手不足に陥ったのだった。

 人員を補給しようにも参謀の育成には時間がかかる。また、その教育には未来の知識を持つ袁遺が不可欠である。

 雛里は事態が自分の能力の限界を超えたことを悟った。

 彼女はすぐに袁隗を通じて謹慎中の袁遺へ秘密裏に指示を仰いだ。

 袁遺の下した決断は軍全体の縮小だった。

 陳蘭隊壊滅のために失った下級将校や下士官、そして今回の論功行賞のため足りなくなった参謀の手当てがつかないなら、曹操との戦争に動員した規模(約一一万)までの回復を諦めて、軍が袁遺の求める能力を発揮できる規模で再編することにしたのだった。

 その規模は八万前後、孫策を相手にするには些か頼りない数字である。

 賈駆と雛里、双方が妥協した結果、お互いの思惑は悉く外れ利益をもたらさないどころか、大きな傷を負うことになった。

 この論功行賞は、多くの人の将来に暗い影を落すことになる。

 

 

「あの猪が後将軍になれんなら、ホンモノの猪だって後将軍になれるぜ」

「おいッ」

 張郃が雷薄の軽口を嗜めた。

 猪とは華雄のことを指す。

 彼女は冀州遠征以降、袁遺の戦略や作戦どころかその人格さえも批評し続けている。

 そのことを董卓や賈駆がやめるように嗜めるが、華雄は態度を改めようとしない。

 それを董卓麾下である呂布や張遼でさえも白眼視しているが、やはり主を馬鹿にされている袁遺麾下の者たちは腹に据えかねる。だが、袁遺がそれに対して董卓に抗議をしないため、雷薄たちも口を慎んでいた。

 しかし、今回の論功行賞で賈駆が晒した醜態が雷薄に思わず我慢の限界を越えさせた。雷薄たちにもそのしわ寄せがきていた。

「言わせろよ」

 雷薄は座った眼で続けた。

「あれに後将軍の働きができると思うのか? ああッ! 後将軍の働きってのは、つまり伯業様がやってきたことだ。それと同じことがあの猪にできると思ってんのか?」

「伯業様を基準に考えれば、漢王朝が始まって以来でも後将軍になれるのはほんの一握りだ。今なら鎮軍大将軍(司馬懿)以外いないだろうさ。だから、伯業様と同じでなければ後将軍になれないというのは無茶な話だ」

 宥めるような口調で張郃は答えた。

 それに雷薄は噛みついた。

「無茶じゃねぇ。そうじゃなきゃならないように伯業様が変えちまったんだ。今の軍で無能が将軍を務められるか。作戦を理解して、戦況を正確に読んで、何かやらかしちまったら即刻それを修正し、参謀の手綱を握って、ときには独断で動くことを厭わない。それができない奴が将軍になったんだ。尻拭いをさせられるのは俺たちだぜ」

「それは……」

 張郃は言葉に詰まった。雷薄が全面的に正しいことを理解していたからだ。

 雷薄の言う通り、袁遺が多くのことを変えてしまった。

 袁伯業という未来の知識を持つ異物が軍の全権を握っている限り、ただ勇猛さを誇っているだけの武辺者は軍にとって無用どころか害になる場合があった。

 張郃の様子には雷薄はもう一度、陳蘭の墓に向かい合って言った。

「だから、こいつは良い命の懸け方をしたよ。無能の尻拭いのためじゃなくて、勝つために命を懸けたんだ」

 張郃は背を向ける雷薄に何の言葉もかけることができなかった。

 高覧は黙して何も語らなかった。

 彼は自分を軍の一機能として振舞える人物である。華雄の能力を云々するのはその機能外のことである、と弁えているようだった。

 雷薄がもう一度言った。

 

 

「良い命の懸け方だよ」

 




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