異・英雄記   作:うな串

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4 牽制艦隊戦略

 

 

 袁遺と曹操の衝突と殆んど同時に、孫策は長江を渡り江南の地へと侵攻した。

 孫策軍の勢いは炎が原野に燃え広がる様な凄まじいものであった。瞬く間に秣陵や故郷の呉を制圧する。

 この段階で袁曹の戦いは袁遺の勝利で終結した。僅か一七日間の戦いであったが、それと同じ期間で孫策が故郷周辺を制圧できたのは、彼女の軍の規律が整然としていたのが大きかった。

 孫策は略奪を一切禁じて、降伏する者は寛大に受け入れた。さらには従軍希望者がひとりでもいれば、その家の賦役を免除し、従軍を希望しない者には強制しなかったために、江南の人々は孫策のもとに雲の如く集まったのだった。

 孫策軍は会稽を制圧した後、動きを変えた。

 袁遺と曹操の戦いの勝者である袁遺に備えるために、寿春に末妹の孫尚香と宿将の黄蓋を派遣した。

 そして、残った孫策たちは呉や会稽の地方豪族の取り込みにかかった。呉なら朱氏、張氏、顧氏。会稽なら虞氏、魏氏、孔氏、賀氏たちである。

 この地方豪族の取り込み工作から江南の地の状況や特性が色濃く見えてくる。

 江南の地が気候条件から、そこに発生する集団が多分に分散的かつ割拠的な性格を持つことや、開発が進んでいないことは何度か触れてきた。

 このニューフロンティアを開発するために地方豪族は強力なリーダーシップを持つ人物を必要としていた。

 江南の開発とは、先住民にあたる山越との戦いでもあった。山越は春秋戦国時代の越の国の人々の末裔というのが定説である。

 江南の地に漢民族が流入し開発が進むと、この越族の生活境界線を侵すようになり、争いが起きてきた。

 この戦いは地方豪族にとっては重要なことであった。

 土地を開発して自分の生産力を上げるだけではなく、戦いに勝って山越族を農奴や部曲(私兵)としたのだ。

 そのため、古来より中華では文官と武官なら文官の方が貴ばれるのに対して、この時代の江南の地では人狩り戦争ができる武官の方が強い力を持ったのだった。

 事実として、華北の地方豪族より江南の地方豪族の方が割拠的になりやすいという地理的な特性を抜きにしても領主化が進んでいた。

 つまり、孫策の軍事的才能を地方豪族たちは求めたのであった。

 かくて、孫策の武力と呉、会稽の地方豪族とが結びついて、孫策を頭とする豪族連合に近い軍事政権が誕生したのだった。

 そして、この孫策政権には中央の混乱を避けて江南の地に移住してきた江北の名士たちがブレーンとして参加した。具体的な名を挙げるなら、張昭、張紘たちである。

 孫策は足場を固めることに成功した。

 だが、その足場から一歩でも外に出れば、そこは袁遺と劉表が作った包囲網の中であった。

 

 

 袁紹の滅亡から袁曹の開戦まで、曹操が袁遺との戦いに備えるため孫策と秘密裏に手を握りながらも将来を見越して接近しすぎなかったように、袁遺もまた曹操との対決に備えながら間違いなく起こるであろう孫策との対決にも備えていた。

 改めて触れるが、複数の敵に包囲された状態で主導権を握ろうとする行動を内戦作戦、逆に敵を包囲した状態で主導権を握ろうとする行動を外線作戦という。

 今回の場合、袁遺と劉表は外線側であり、孫策は内戦側である。

 そして、外線側にとって重要なのは敵の背後となる対角線上にも自勢力を配置することである。

 袁遺もその基本に沿って、孫策を取り囲んだのであった。

 孫策が本拠地を移した呉郡の長江を挟んだ対岸の広陵には張超(袁遺の推挙人の張超とは同姓同名の別人)がいる。さらに、その背後である下邳には張超の姉の張邈がいた。

 広陵に親袁遺勢力がいることは、孫策にとって本拠地の外廓防衛地帯がなく喉元に刃を突き付けられている様なものだ。

 ただし、広陵の戦力自体はそれほど数の多いものではない。

 一応、水軍もあるが、その数は大型船四隻と小型船が二六隻の合計三〇隻である。

 だが、この三〇隻は戦略上重要な戦力であった。特にこの軍船が配置されている場所(・・・・・・・・・・・・・・)が戦略の妙であった。

 この揚州の北の対角線である南には山越族、そして、交趾の士燮がいる。

 劉表が山越族の中で最大の部族や士燮に朝貢を行わせ、冊封体制に組み込み、対孫策の一角とした。

 冊封体制とは天子と周辺部族が名目上の君臣関係を結んで行う外交のことである。

 そうしておいて、劉表は山越族に武器や食料を供給し、彼らを支援した。

 その劉表は江夏に六万の軍と大小合わせて合計四五〇隻の軍船を派遣した。

 この六万の兵と四五〇隻は劉表にとって、かなり余裕のある数字であった。劉表には後、五万の軍と三〇〇隻の軍船、さらには民間の商船約二五〇隻(戦闘任務ではなく主に輸送任務)の補充兵力があった。

 水軍(海軍)というものは陸軍以上に、増強が難しい。水上戦力というのは商業力と産業力に依存するものであり、たとえ軍事的に必要であっても、自国の経済力で賄える規模以上の水上戦力は持てないのである。一〇〇〇隻を超える水軍力は荊州の経済力の強さを表していた。

 その水軍は江夏の防御だけではなく、揚州廬江郡への侵攻を孫策に匂わせる動きさえ行った。

 もし廬江が劉表の手に落ちれば、劉表が九江郡に対して圧力をかけることができるようになり、寿春の袁遺への橋頭堡という価値が落ちる。孫策からすれば無視できない。

 西の劉表の対角線上の東の親袁遺勢力は海上の勢力であった。

 袁遺と曹操の戦いの開戦前後、袁遺の従妹であり青州東莱郡の太守である何夔が、長広県で海賊行為を行っていた管承とその一味を説き伏せ帰順させた。

 袁遺はその管承に揚州の沿岸で海賊行為を行わせたのであった。

 揚州の沿岸の地形や潮の流れ、水深などは張邈や劉表の細作が宣伝工作を隠れ蓑にして、あらかじめ調査していた。

 管承は呉郡の―――現在の中国では埋め立てられ、上海市となっている―――海域で民間の漁船や商船、海岸付近の村々を襲った。

 そして、管承は呉の軍船に対しては、その姿を認めるなり徐州、青州方面へと逃走した。

 これらは全て孫策が軍を一か所に集中させないためのものだった。

 孫策は自分の利益のためにも、また地方豪族の求めに応じるためにも南へと拡張しなければならないが、長江の向こう側の寿春にも現在、兗州にいる司馬懿勢に備えるために兵を配置しなければならない。水軍も六万の兵と四五〇隻の軍船という大軍を動員した劉表に備えるのみならず、管承率いる海賊や本拠地の対岸すぐに存在する張超に備えるため分断されている。

 さらに、袁遺はこれまでの戦争および外交の成果で、その外縁に孫策の味方になりそうな勢力を殆ど叩き潰していた。

 北の鮮卑や烏丸、匈奴、遼東の公孫康は司馬懿の北方遠征で軒並み叩かれ、残った部族も劉虞が抑えている。

 西に目を向けても涼州の馬騰は漢王朝に叛いた状態になっている孫策を明確に非難し、逆に敵対関係にある。

 最後に益州の劉備であるが、これは少し例外である。孫策は使者を劉備の元へと送って接触を図っていたが、劉備は董卓・袁隗の方に接近した。だからと言って、劉備は孫策とは敵対しなかった。使者の遣り取りは続いている。

 しかし、劉備はその遣り取りで常に孫策に自制を訴え続けた。曰く、戦いではなく話し合いで解決しよう、と。

 事実として、劉備は話し合い―――外交で袁隗・董卓陣営と一旦の折り合いをつけた。

 孫策はそれに対して劉備に漢王朝との仲介を頼んだが、その動きは劉備までも敵に回すわけにはいかないための形だけの要請であった。

 つまり、袁遺は戦略的優位を作り上げたのだった。

 

 

 戦略的に絶望的な状況であっても、孫策と周瑜はそれでも戦争での問題解決を考えていた。

 はっきり言ってしまえば、彼女たちは孫策の手による天下の統一を半ば諦めていた。袁遺と曹操の戦いで袁遺が勝った時点で、孫策の天下の目はほぼなくなったのである。もし曹操が勝っていれば、まとまりかけていた天下が再び乱れ、孫策にも天下の目が出ただろうが、袁遺が勝ち、反董卓連合直後の様な多数の群雄が割拠することなく孫策は孤立してしまった。

 孫策は江南の地で満足することを選んだのだが、そのためにはいくつかの譲歩を袁隗・董卓側から引き出さなければならなかった。

 まずは揚州の安全のために、張超がいる広陵は絶対に確保しなければならない。また、広陵の確保は長江のみならず淮水も防御線として利用することが可能になるため水軍力の強化にもつながる。

 さらには、荊州の江夏および長沙を手に入れて、そこを外廓防衛地帯にしたかった。

 また揚州の豪族を手懐けるために、いくつかの特権を漢王朝に正式に認めさせる必要があった。

 そのひとつが現在、劉表が持つ南蛮・山越政策の白紙委任状に等しい鎮南将軍の位である。

 揚州の豪族が孫策に求めるのは南への拡張であり、天下ではない。山越に対して人狩り戦争を行うには、山越が冊封体制に組み込まれていることは不都合だった。劉表が持つ鎮南将軍の位を手に入れて、孫策が対山越の全権を手に入れるしかなかった。

 そして、揚州各地の人事権も孫策には必要であった。

 江南豪族の領主化を表すものとして、孫策は取り込んだ地方豪族に対して『奉邑』を与えていた。

 ひとつ、あるいは複数の県が、ある地方豪族の『奉邑』になると、その豪族は県の上級役人を自由に指名でき、そこから上がる税収も自由に使うことができたのである。

 まさしく領主化が極まった様な制度である。

 この『奉邑』制度を続けるにしろ、さらに推し進めて屯田制に移行するにしても、江南の地の領主化傾向を考えれば人事権、任命権が必要であったし、さらに言えば、現在の漢王朝の税制にも完全に従うことができなかった。

 だが、譲歩を引き出すためには問題が多すぎた。

 張姉妹や劉表が納得するはずがない。特に劉表は現在の疲弊した漢王朝の経済を支えているのである。彼を無視してまで、江夏と長沙、そして鎮南将軍の位を取り上げることは袁隗・董卓にもできないだろう。

 それを表すかのように、孫策が寿春を袁術から奪って以来続いている袁隗との交渉は難航していた。孫策が江南の地を手に入れても、相変わらず孫策には呉郡太守の地位を用意し、主だった配下にもそれなりの地位を与える、と袁隗はまったく譲歩しないのであった。

 孫策側も、寿春と指呼の間である袁隗、袁遺の故郷である汝南を襲うと匂わせて脅しかけてみたが、それでも袁隗は袁家の地が荒らされれば必ず孫家の地に報復すると強気の態度を崩さなかった。

 この問題を解決するには、やはり戦争しかないと、孫策と周瑜は結論付けた。戦争を仕掛けて、優位な状況で―――敵にこちらの条件を呑ませて―――講和する。それ以外ないと。

 だが、上記のように戦略的に孫策は不利である。戦争という手段もまた問題が多い困難な道であった。

 

 

「張超の軍船が高郵県にいる……?」

 周瑜がポツリと呟いた。

 しばらくの間、彼女は考え込むと、やにわに顔色を変えた。その様子は、どう見ても剣呑なものだった。

 呉の城の一室の中央には巨大な机が置かれ、その上には揚州を中心とした地図があった。地図には各軍を表す駒が配置され、地図の周りにはいくつもの書簡が積まれていた。

 孫策軍の参謀室の様なものである。

 その部屋には周瑜と孫策だけがいた。

 戦争を決意しながらも、そのことを知るのは孫策軍の中で孫策と周瑜のみであった。

 現在、孫策にとって最大の障害である袁遺は謹慎の身である。そのことは孫策の耳にも入っていた。

 だが、孫策が攻勢に出れば、それを大義名分として袁遺の謹慎が解かれ討伐の軍を起こすことが目に見えていた。

 だから、現在は袁遺という優秀な指揮官がいない状況で、一撃を加えることができる絶好の機会である。その一撃の予兆を敵に悟らせないため、戦争の決意と時期と場所はぎりぎりまで味方にさえも秘匿にしておく必要があった。

 そして、その一撃は絶対に失敗の許されないものであった。

 失敗し、どこかの方面が不利な状況で謹慎を解かれた袁遺と戦争になれば、その失敗が孫策を破滅させる傷になりかねない。

 この先制攻撃を行う場所は戦争の帰趨さえも決めかねない重要な選択であった。

 周瑜は、その一撃を広陵へと加えるつもりでいた。喉元に突き付けられている刃を振り払うためであった。

 そのために、周瑜は広陵の張超軍とその背後の下邳の張邈軍について細作を送り調べた。

 そして、張超軍の軍船が高郵にいることを掴んだのだった。

 高郵県は広陵郡の郡治所がある広陵県の北に位置する県である。ふたつの県は中淩水によってつながっており、中淩水は長江へと流れ込む。

「……確かに、おかしなとこにいるけど、それがどうしたの?」

 周瑜の様子に孫策が怪訝そうに尋ねる。

「…………予定を変更する必要があるかもしれないわ」

 答えた周瑜の声は僅かに震えていた。

「高郵に軍船がいることが敵の失策ではない限り、こちらは上陸作戦を取ることができないかもしれない」

「どういうこと?」

 孫策の問いを受けて、周瑜は地図を示した。

「張超の軍船が高郵にいるのは、船戦を避けるためよ。敵はこちらが錨を下ろして、兵を上陸させている船が自由に動けない状況で攻撃を仕掛けると思うわ」

 孫策の水軍と張超の水軍では、水兵の力量は圧倒的に孫策軍の方が上である。

 だが、錨を下ろし自由に動けない状況では、より強い艦隊であっても、より弱い艦隊に慈悲を請わざるを得ないのだった。

 もちろん、先に張超の軍船を艦隊決戦で壊滅させてから広陵に上陸するということもできない。広陵を無視して徐州の内側へと遡上し続けるのは、あまりにも危険な行為であった。

 また、孫策軍は張超の軍船三〇隻を上回る軍船を動員できるが、やはり江夏の劉表軍―――六万の兵と四五〇隻の軍船―――に備えるために軍を割かざるを得ず、高郵に敵船を封じ込めつつ、広陵を陥落させるために十分な兵を上陸させる軍船の動員はできなかった。

「敵の失策って可能性は?」

 孫策は尋ねたが、その声には諧謔的な響きがあった。

「ないわね。高郵に軍船を配置したのは、間違いなく袁遺の策よ」

 周瑜は断定した。

「この戦略的に優位を作った状況で、相手の戦術的意義を無意味にしてくる。これはまさしく袁遺の手管よ」

 彼女は状況と戦略の節々に袁遺の癖の様なものを感じていた。

 そして、それは事実だった。実際には実力を発揮しないが戦略上無視できない牽制艦隊がある限り、当の艦隊が如何に弱体でも孫策軍は広陵上陸を諦めざるを得ないという着想はイギリスのトリントン伯が一六九〇年に侵攻してきたフランスにビーチー岬海戦で敗れた後に行った作戦や、同じくイギリスのケンペンフェルトが一七七九年にイギリス侵攻を見せていたフランス・スペイン連合艦隊に対して行った作戦から袁遺は得ていた。

 この牽制艦隊戦略は孫策軍の戦略に大きな影響を与えた。孫策軍の武器である水軍が戦略上ではまったく意味をなさなくなったのだ。

「じゃあ、広陵じゃなくて、どこを攻めることにする?」

 孫策が尋ねた。

「……………………寿春から豫州へと侵攻するしかないわね」

 周瑜はたっぷりと考え込んでから答えた。

「汝南に?」

 孫策が言った。

 汝南は袁隗、袁遺の故郷である。

 名士(そして後の士大夫)にとって、家の祭祀を保つことこそが最重要である。

 だから、故郷が焼かれる、特に先祖の墓を荒らされることは名士間での評判に大きな傷をつけることになる。

 そのため、孫策は汝南に侵攻することで―――曹操との戦争に見られるように―――決戦を避けてくるだろう袁遺に決戦を強要するのかと尋ねたのであった。

「汝南も、もちろん選択肢のひとつだけど、本命は潁陰、許、臨潁あたりよ」

 だが、周瑜は袁遺が決戦に乗ってこないことも見据えていた。

 袁遺は反董卓連合との戦いで連合に勝つために宣伝工作で袁紹を逆族にして、家名が傷つくのも恐れなかった男である。

 今回も故郷を見捨てるとも考えられた。

「潁陰、許、臨潁あたりを抑えれば、袁隗・董卓陣営と荊州を分断することができる。現在、袁隗・董卓陣営は荊州の経済力に財政面で大きく依存している状況にあるから、分断すればむこうは干上がり、戦を続けることが不可能になる。そこで講和を持ちかけるわ」

 いかな袁遺とて軍資がなくては戦争は続けられない。

 さらに、潁陰、許、臨潁への侵攻は決戦を避けてくる袁遺軍に決戦を強要しようとして失敗した曹操軍の二の舞にならずに済む作戦でもあった。

「ただ、問題もいくつかあるわ。潁陰、許、臨潁あたりまで戦線が伸びれば、その分、補給に苦労することになる。それに袁遺軍八万と豫州軍を相手にすることを考えれば、相当無理な動員をしなければならない」

 孫策軍の動員とは、地方豪族が部曲を率いて従軍するということである。

 しかし地方豪族にとって、この孫策と袁遺の戦争に大きな旨みはない。繰り返しになるが、彼らにとって重要なのは南への拡張である。そのため決して士気が高いとは言えない。

「どのくらい?」

「……最低でも一六万。袁遺との戦いに一二万を投入して、残りの四万は劉表と張超、張邈の備えに」

「それは相当な無理ね」

 一六万。その数は孫策の軍と揚州の地方豪族が抱える私兵、成人男性を急遽徴兵して、やっと到達する数字である。

 成人男性の徴兵は経済を疲弊させる。彼らは社会で最も多くの仕事をこなしている年齢層である。はっきり言って、後先考えない根こそぎの動員が必要であった。

「それに、急遽かき集めるわけだから、中には訓練が十分ではない兵も出てくるわ」

「それは問題ね」

 孫策が言った。

 だが、言葉とは裏腹にその表情には覇気があった。どころか楽しげでさえある。戦意が削がれている様子はない。

「動員にはどれくらいかかるかしら?」

「ひと月で必ず」

 戦略的に不利な孫策陣営にとって時間が経てば事態が好転するということはない。時間は彼女たちの味方ではないのだ。最悪なことは先制攻撃が行えずに袁遺の謹慎が解かれ、あの常勝将軍が万全の状態で揚州へと攻め入って来ることである。行動へ移すならば、むしろ事態がさらに悪いものになる前に移らなければならなかった。

 

 

5 荊州学

 

 

 孫策陣営が盛んに動き回っているのに対して、その孫策陣営の消滅をこの天下で最も願っている陣営は孫策の輪をかけて動き回っていた。

 その陣営とは劉表陣営であり、その動きは孫策陣営が武力に訴え出ようとするのとは正反対の動きであった。

 

 

 遠く秦嶺山脈より源を發した沔水(べんすい)は襄陽の県城の西北でまず檀溪水を合わせる。沔水はさらに東流し、樊城の南を通過し、続いて大きく南に曲がる。この沔水が彎曲するときに流れはいちじるしく速度を減じ、土砂が堆積され、ここに三つの砂洲が形成されるのである。この場所を宛口といい、北方より淯水(いくすい)が流れ込む。淯水を遡れば現在、司馬懿の姉の司馬朗が県令を務めている宛へと至る。宛口とは宛に至る入り口という意味である。

 沔水は宛口を過ぎても南流し、白沙曲を過ぎる。『曲』とは河流が屈曲する地形のことである。曲で水速が衰えるので土砂が堆積し、砂洲ができるのである。この砂洲は魚梁洲と呼ばれていた。

 その魚梁洲を目指して一艘の小舟が沔水を進んでいた。

 小舟には櫂を取る童子風の少年と、その主であろう妙齢の女性が乗っていた。

 魚梁洲は広大である。

 荊州襄陽の名士であり人物評の大家である鳳徳公の庵と、さらには小さな畑があった。鳳徳公は自らが田土を耕し、琴を爪弾き、書を読み、悠々と隠遁の日々を過ごしていた。

 この魚梁洲の西の対岸には鳳氏の本拠があり、東の対岸にも高名な人物鑑定家が居を構えていた。

 その人物鑑定家こそ小舟に乗る女性であり、姓は司馬、名を徽。字は徳操。豫州潁川郡の出身であるが、戦乱を避けて荊州にやって来た。そこで鳳徳公の支援を受けて、水鏡と号して私塾を開いた。この私塾で雛里と諸葛孔明は、かつて机を並べていた。

 小舟が魚梁洲へと着いたとき、鳳徳公は小さな畑で雑草を毟っていた。司馬徽はその姿をすぐにみとめた。

 鳳徳公もすぐに司馬徽に気付き、目を細め、手を軽く上げた。

 それに司馬徽は礼を取った。彼女は鳳徳公に対して姉に仕えるが如く接していた。

 鳳徳公は司馬徽の十歳年上であったが、彼女から実際に受ける印象はもっと老成したものだった。

 彼女は隠士である。欲や執着といった魂の脂身が抜けきって、己を大気と同質にしたかの様であった。事実、州牧の劉表に執拗な辟召を受けたが、決して承服していなかった。

 劉表の辟召を断ったのは司馬徽も同じであったが、彼女は姉事する鳳徳公ほど浮世の執着を捨てていなかった。私塾を開いたのが、その証拠である。自らの理想が実現しないとき、後進の育成に乗り出すことは、儒教の始祖・孔子以来の儒家の伝統である。

 今回の魚梁洲訪問もこの私塾を開いたからこそ、起きたことだった。

「実は州牧殿から、友好のための使者たちを益州に派遣するが、その一団に加わって欲しいという親書を戴きまして。それで、その一団に加わろうかと思い。出立前の挨拶をと、本日は立ち寄らせてもらいました」

 司馬徽が言った。

 現在、司馬徽の教え子である諸葛亮が益州の劉備の下にいる。

 彼女は劉備からの信頼も厚く、軍師として益州の政治や軍事に大きな権限を持っている。その諸葛亮と縁のある司馬徽を使者たちの一団に加えて、あわよくば誼を通じようと劉表は考えていた。孫策と劉備が手を結ばないようにするためである。また、将来的にも劉備と誼を通じておくことはいろいろと役に立つ。

 そして、司馬徽自身もそのことには気が付いていた。

 だがしかし、たとえ気付いていても司馬徽は劉表の企み通りの行動をするつもりであった。

 何故なら、それこそが最も荊州の平和に寄与するからである。

 この今まで招聘を断っておきながら、突如、仕官はしないものの劉表の意に沿い、使者のひとりとして益州へと赴こうとする姿勢は彼女が修め、そして門下たちに教授してきた荊州学という学問に基づいての行動であった。

 当然、この時代の学問であるため荊州学とは儒学の一種である。

 この時代、儒学に大きな変化があったことは今までに何度か触れてきたが、改めて書く。

 鄭玄らの在野の研修家たちが中心となり、経典解釈を以っての綜合的、体系的な理解を目指し始めた。特に『周礼』『儀礼』『礼記』の三礼(三つの内で最も重要視されたのは『周礼』)により諸経を体系化したのであった。

 対して、荊州学は戦乱によって誕生した儒学である。

 戦乱を避け、保身を主眼に置いて荊州へと流寓してきた者が主であったために様々な学問を修めた名士、学士たちが流入してきた。司馬徽もそのひとりである。

 彼ら他所から流れてきた儒家と劉表に招かれて荊州での学問振興に尽力した宋忠、さらには鳳徳公(龐徳公)のような地元有力者が自由に接触し合う中で、その総合化、統一化が行われ、新しい理念に基づく学術活動の末に荊州学は産声を上げたのであった。

 その大きな特徴はふたつ。

 ひとつは老子の思想を取り入れたことである。

 もうひとつは、鄭玄が三礼を中心に据えたのに対して、荊州学は『春秋左氏伝』を中心に据え、鄭玄が讖緯思想も研究したのに対して、それを迷信だと否定し論理的かつ合理的思想を展開したことである。

 それぞれが中心においた三礼と『春秋左氏伝』を比較してみると、両者が何を重視したかが見えてくる。

 『周礼』は周王朝の政治制度、特に官位制度について記されたものであり、戦国期以降の儒者が理想とする制度としてきたため、後世で改革の後ろ盾として、とかく引用されてきた。

 『儀礼』は周の階級制度は王・諸侯・卿・大夫・士であるが、その中で士に関する風習(特に仕来り、つまりは礼儀)について書かれたものである。

 『礼記』は周から漢にかけての儒者が政治・学術・習俗・倫理などあらゆる分野に及ぶ記録の集積であるが、そもそも礼記とは、礼に関する注記という意味であり、礼が中心にある。

 つまりは『礼』を以って、秩序化を試みたのである。

 対して、『春秋左氏伝』は紀元前七〇〇年頃から約二五〇年間の魯国の歴史について記されたものである。

 朱子学の祖である朱熹は九経の『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』の三つを「左伝は史学、公・穀は経学」と述べた。

 史学とは読んで字の如く歴史の学問のことである。経学とは、経書には聖人の心が込められていると信じ、それをとらえることを最終目標とする学問である。つまり朱熹は『春秋左氏伝』を歴史書と評価したのだ。

 当然、約一〇〇〇年後の南宋の人物である朱熹の評価など、当時の荊州の知識人たちは知る由もないが、歴史書だからこそ荊州学は鄭玄のそれとは違い論理的かつ合理的思想であり、乱世の学問なのである。

 荊州学派は戦乱の春秋時代を書いた『春秋左氏伝』には乱世を治める具体的な規範を多く含んでいると確信し、『礼』ではなく人間中心の合理的な経典解釈を行ったのである。

 これは余談になるが、『春秋左氏伝』は古文にしか見られない。

 古文と今文については以前に語ったが、古文は孔子の旧居の壁などから出てきたとされる秦代以前のテキストであり、今文とは漢になって儒教を復活させようとしたとき、その書物は始皇帝の焚書坑儒により焼かれたため経典を暗記していた学者たちに書かせたテキストである。

 では、荊州学は古文派の学問であるかといえば、そうではない。

 宋忠と共に中心的役割を果たした綦毋君(きぶくん)がいる。彼は徐州琅邪郡の出身で春秋公羊伝に精通した今文派の学者である。広陵太守の張超に仕えている趙昱に公羊学を教えている。

 つまり、荊州学とは古文派と今文派の対立を越えて、乱世を終わらせようとした学問である。

 司馬徽の行動も、この行動規則に沿っている。今、荊州と益州が接近することが乱世の終結に大きく関わると彼女は考えたからこそ、使者の一団に加わろうとしていた。

 それに対して、鳳徳公はあるかないかの微笑を浮かべて言った。

「あら、それは気を付けて。蜀といえば難所で有名ですから」

 隠者とはいえ、彼女もまた荊州学の成立に関わったひとりである。司馬徽の行動の変化の意味を十分に理解していた。

 そして、益州にいる諸葛亮もまた荊州学を修めた人間である。

 事実、司馬徽は益州で諸葛亮に袁遺と孫策の戦いが袁遺勝利に終わった場合のプランを聞かされることとなる。

「ところで、何か雛里からの便りはありますか?」

 司馬徽は話題を変えた。荊州の平和という点において、諸葛亮よりも重要な立場にいる元教え子について尋ねた。

「本宅に、手紙は欠かさず送っているようだけど、私は見ないようにしているのよ」

 鳳徳公は曖昧な表情を浮かべて答えた。

 雛里と鳳徳公の関係は決して悪いものではないし、鳳家は荊州の中では劉表派というより袁遺派、ひいては現在の漢王朝派ということになる。

 だが、鳳徳公個人は自身を隠者として、あまりにも陰謀渦巻く中央官界には距離を置いていた。

「そうですか……」

 そのことを理解している司馬徽は、どこか寂しそうにしながら、それ以上、尋ねることをやめた。

 しかし、彼女の中にはひとつの確信があった。雛里も諸葛亮と同様に荊州学を修めた人間であり、この乱世を終わらせるために学んだことを使っているだろうという確信が。

 

 

 袁曹の戦いの勝者が袁遺であったことは孫策陣営にとって最悪の結果であったのに対し、劉表陣営にとっては最良の結果であった。

 劉表は南の経済力と荊州で培われた学術を以って、天下を操ろうとしていた。

 その手法は曹操が勝利者であった場合、何の意味もなさなかっただろう。曹操―――華琳には、敵対勢力は武力で以って押しつぶす以外の選択肢は基本的にない。

 だが、勝者は袁遺である。そして、袁遺と渡り合うにはその手段は有効であった。

 袁遺は少なくとも今の段階では名士からの支持を必要としていた。そして、この荊州学を作り上げたのは名士たちである。何の大義名分もなく荊州を攻めれば、名士たちから支持は得られない。

 劉表とその首脳陣の一部は、これまでの袁遺の動きからその事実に気付いていた。

 そして、洛陽の情勢も劉表に味方した。

 雛里と賈駆に生じた、論功行賞に端を発した対立と妥協の末に、洛陽ではともかく人材が足りなかった。

 劉表はその空白にこの荊州学を生み、学んだ名士たちを送り込んだ。

 例えば、杜畿(とき)もそのひとりである。

 杜畿、字は伯侯。司隸京兆尹杜陵県の出身である。孝廉に推挙され、さらに漢中の丞となったが、天下が乱れると官を捨てて荊州に移り住んだ。

 杜畿は洛陽に戻ると河東太守に任命され、単身、河東郡へと赴き、そこで善政を行う。

 彼は河東郡の情勢が落ち着くと学校を開き、自らが教鞭をとり住民の教化に努めた。

 このとき、河東出身の楽詳という学者が杜畿によってとりたてられるのだが、楽詳は後に儒宗(儒学の大家)と評されるまでになる。

 杜畿の他にも邯鄲淳(かんたんじゅん)隗禧(かいき)なども中央官界に戻り、名を成していく。

 こうして荊州学派は中央官界でも無視できない存在になっていくのであった。

 ただし、劉表にとって当面の脅威は孫策である。

 だから、劉表は中央官界へと向かう名士や帰郷する名士たちに孫策の脅威を洛陽や各地の儒者に伝えてくれるように頼んだ。反孫策のキャンペーンである。

 彼らはそれを引き受けた。事実として、荊州の名士たちの殆どは孫策に対して全く好感を抱いていなかった。戦乱を避けて荊州へと移ってきたが、袁術、そして孫策はその荊州にさえ乱を起こし、再び自身の生活を壊す可能性のある存在だった。

 と同時に、劉表は秘密裏に袁遺の官界復帰を袁隗や董卓に訴え出た。

 これは袁遺に速やかに孫策を討つように依頼しているのと同義である。

 現在の南に頼った経済状況では劉表の訴えを無視するどころか、まだ時期ではないと誤魔化すことさえ簡単ではない。

 袁隗や董卓たちも決断を迫られていた。

 

 

 次の戦争の跫はもうすでに各陣営に響いていた。

 




捕捉

・ビーチー岬海戦
 一六九〇年、フランスがイギリス侵攻を試み、トゥールヴィル伯が率いる七五隻の艦隊とイギリス・オランダ連合艦隊五六隻がイギリス南部の英仏海峡に突出したビーチ岬で激突した。
 イギリス海軍を率いるトリントン伯ハーバート提督は当初、この海戦には反対していたが、当時ウィリアム三世とイギリスを共同統治していたメアリ女王の勝算を問わずに直ちにフランス艦隊と会戦せよ、との命令に従い、戦った。だが、フランス軍艦を一隻も沈められずに、一五隻の損失を出し、味方のオランダ艦隊を見捨ててテムズ川河口へと撤退した。
 しかし、勝者のフランス艦隊はイギリス侵攻を諦め、フランスへと帰港した。
 味方を見捨てての撤退は問題視され、トリントン伯は軍法会議にかけられる。
 トリントン伯は軍法会議でこう弁明した。
 曰く、実際に実力を発揮しないが戦略上無視できない牽制艦隊が存在する限り、フランスはあえて上陸を試みないであろう。
 これは正しい考えであり、正しい判断であった。実際、フランス側は風下の海岸に錨を下ろして上陸作戦を展開している最中に、イギリス艦隊に攻撃されることを恐れて作戦を断念したのである。
 トリントン伯は無罪となったが、二度と艦隊を率いることはなかった。

・イギリスのケンペンフェルトが一七七九年にイギリス侵攻を見せていたフランス・スペイン連合艦隊に対して行った作戦
 このとき、フランスはイギリス戦艦より巨大で高速な戦艦八〇隻を揃え、スペイン艦隊はフランス船ほど高性能ではなかったが、それでも六〇隻の主力艦を用意することができた。
 それに対してイギリスのリチャード・ケンペンフェルトはフランス・スペイン連合艦隊との直接対決を行わない牽制艦隊戦略を採用し、西方海上に牽制艦隊を備えた。
 フランスとスペインはこれに対して慎重になり過ぎたことや意見の統一ができなかったためにイギリス侵攻を断念した。

 地図を作りました。この話のネタバレがあります。また大まかなイメージを掴むためのもので正確なものではいことを御理解ください。


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