6 寓話的帰結
袁遺と曹操の戦争終結後、兗州に駐屯することになった司馬懿軍の駐屯地は山陽郡昌邑県であった。
山陽郡昌邑県が曹操以前の州治所であったということもあるが、位置的に豫州と徐州の両方と連携が取りやすいという理由からであった。
袁遺は、この段階では戦略的の比重を水軍力に置いていた。強力なランドパワーを持つ国家と強力なシーパワーを持つ国家の戦争において、いかに相手が得意とする分野で賢明に戦うかが重要であることを彼は知っていたし、その賢明な戦い方こそが牽制艦隊戦略である。
そのため、徐州の張姉妹との連携のために司馬懿を兗州へと派遣したのだった。
これは些か余談となるが、袁遺が司馬懿を豫州ではなく兗州へと駐屯させたことに、彼の戦略観が如実に表れていた。
もし袁遺と曹操の戦争の勝者が曹操であった場合、彼女は豫州へと軍を駐屯させていただろうし、戦争終結からかなり早い段階で揚州への侵攻を企図していただろう。
この袁遺と曹操の違いは彼らの戦争観の違いと兵の質の差であった。
正面戦闘において無類の強さを誇った曹操軍ならば、豫州に駐屯して孫策軍と開戦しても、問題なく決戦を行えただろう。
だが、袁遺軍は違った。袁遺は孫策軍と真正面から決戦を行って勝てると思っていない。どころか決戦自体を無意味なものとさえ考えている。
だから、陸上の防御作戦においては豫州全体を戦域とする運動戦を彼は想定しており、そのために孫策軍と距離を取ることで司馬懿勢が自由に動き回る余裕を与えたのである。
そして、司馬懿に与えられた自由は殆どフリーハンドに近かった。
彼は都督兗州諸軍事として兗州の軍事どころか民政も掌握する立場であり、皇帝から節と鉞を賜り、執行権と独断行動権も持っている。また、才能と声望、今までの実績を加味すれば袁遺不在の状況では徐州の張姉妹や豫州牧である周昕にも影響力を発揮できるだろう。となると、自身の三万五〇〇〇の軍に加え、豫州九万と張邈の軍八〇〇〇、張超軍九〇〇〇(水軍を合わせた数)と、主である袁遺さえも指揮したことのない大軍を操ることができる。
だが、司馬懿からすれば、その大軍の指揮権を有していることは白刃を素手で握っている様な心境と同義であった。何かを間違えれば指が飛び、剣は地面へと落ちる。
影響力の行使、その匙加減を間違えると司馬懿は望まないにもかかわらず、袁遺の持つ君主権力への挑戦者としての立場に名士たちから押しやられる可能性があった。
袁伯業という主は、そうなった部下を決して許すことはない。
しかし、対応を間違えて対孫策戦線を致命的な戦局にしてしまえば、それはそれで袁遺に許されないだろう。
司馬懿は軍団指揮官として望み得る限り最高の自由を手にしたが、素直に喜んでいられる立場になかった。
ここが袁伯業の仕えにくい所であったし、張郃たちが将軍職を断った理由でもある。袁遺は必要な力を司馬懿に与えたが、その力の使い方を少しでも間違えることを許さない。
そのことを司馬懿が袁遺の臣下の中で最も理解していた。それを理解できない者に袁遺はここまでの権限を与えない。
もっとも、そのために司馬懿は兗州に来てから心休まる日々はなかった。
そんな司馬懿にとって、現在は上記の通り袁遺軍全体の戦略は水軍力に比重を置いたものであり、その戦略は功を奏しているため、独断で袁遺の戦略を大きく変えることがない状況は幸運なことであった。
だが戦況以外のことで、司馬懿個人にはあまりにも大き過ぎる出来事が起こった。
来客の報せを司馬懿が受け取ったのは、昌邑県の州治所の執務室であった。彼は豫州牧である周昕に派遣する参謀への指示をまとめているところであった。
周昕には汝南郡を中心に軍を展開するよう指示する予定であり、その防衛計画は参謀と共に作り上げた。
汝南郡は主である袁遺の故郷である。そこを焼かれると、袁遺の評判が台無しになる可能性があった。先祖代々の祭祀を守ることが、名士としての最重要課題であるからだ。袁遺の影響力が小さくなれば、孫策との戦いが不利となる可能性がある。
司馬懿は行っていた軍務を中断して、自らがその客を出迎えた。客とは面識があった。
客は司馬懿自身が出迎えにやって来たことに驚いたような顔をし、慌てて跪こうとしたが、司馬懿が素早くそれを制した。
「長文殿、どうか、そう畏まらずに」
温雅な声と表情で、司馬懿は言った。
「しかし、貴殿は今や鎮軍大将軍・都督兗州諸軍事・兗州牧。礼を守ることが即ち秩序を守ること。貴殿がかつての友誼をお忘れでなかっただけで、十分でございます」
長文と呼ばれた客は、それでも畏まった態度を崩さなかった。
だが、司馬懿も譲らなかった。彼は茶を用意することを命じつつ、自ら手を引いて、客を自分の執務室へと案内した。
司馬懿を訪ねてきた客は
陳家は名家である。特に陳羣の祖父である
ただし、清流派であるが故に高位の官には就けなかった。
陳寔は宦官の専横を批評したために党錮刑(公職追放)を受けることになる。世に言う党錮の禁である。党錮の禁は黄巾の乱勃発を契機に解かれる。
その陳寔の孫である陳羣もその才や徳を多くの人物鑑定家たちに絶賛された。
司馬懿と陳羣が出会ったのは洛陽であった。陳羣は洛陽へと留学してきたのだった。袁遺が県尉となって間もない時期であった。
陳羣の才や徳の高さは名士間に鳴り響いており、彼と誼を通じようと幾人もの名士が門を叩き、また、陳羣も高名な人物を訪ねた。
司馬懿と陳羣との出会いは偶然のものだった。
その日、司馬懿は―――現在は驃騎将軍府で参軍(参謀)の任に就いている―――楊俊と共に辺譲を訪ねていた。
彼は楊俊の師匠であったため、その縁で『非常の器』と高く評価した司馬懿を師匠へと引き合わせている最中に、陳羣もまた辺譲を訪ねてきたのだ。
それ以来、彼らの交流は何とはなしに続いたが、司馬懿が郷里の温県に帰ると、直接顔を合わせることは絶え、これは久方ぶりの再会であった。
茶を片手にお互いが、それぞれのことを語り合った。
「しかし、皮肉なことになりましたな、仲達殿」
陳羣が言った。言葉遣いはかつて交流があったころのものへと自然と戻っていた。
「当時、出世栄達に何の興味も示さずに、官職にも就かず隠士然としていた貴殿が鎮軍大将軍・都督兗州諸軍事・兗州牧とは」
彼の声には過ぎ去った年月の重みがあった。
「仕えるべき人物を見つけることができたのです。そして、その方に大業を成していただくために働いた結果です」
「袁公、か……」
陳羣は茶碗を傾けた。
「貴殿を動かす程の人物だ。余程の傑物なのだろうな」
「伯業様と長文殿は同じ豫州の出でしょう。いくらかの評判は聞かなかったのですか?」
「もちろん、当時から袁公は優れた人物だと名高かったが、まさかここまでの人物であったか、というのが正直な気持ちだ。まったく、人を見る目がなかったと顔から火が出る思いだよ」
陳羣は自虐的に苦笑した。
「自己弁護をするわけではないが、仲達殿は東平の相であった
「かの登龍門のご子息のことでしょう」
「そう、その李瓚殿だ」
登龍門とは成功に至るための関門という意味の言葉であるが、その語源は党錮の禁あたりの時代である。
この政治が腐敗した中で清廉潔白を貫き、悪逆な宦官に抵抗した
李瓚はその李膺の息子である。
「彼が亡くなる直前、息子たちにこう言ったそうだ。今に世の中は乱れるであろう。天下の英雄の中で曹操に過ぎる者はいない。張孟卓(張邈)はわしとは交流がある、袁本初(袁紹)はそなたの母方の親戚ではあるけども決して彼女たちを頼るな。必ず曹殿に身を寄せよ、と。しかし、その曹操は貴殿の主に敗れた。袁公の力量を見誤ったのは、決して私だけではないということだ」
司馬懿は、その言葉に曹操が名士たちからの支持を失ったことを確信した。
あの戦いで司馬懿は一軍を率いて勝利に大きく貢献したが、その勝利は薄氷を踏む思いで得たことを誰よりも知っていた。少なくとも、ある段階までは敵の行動が容易に予測できるが、それに対して打てる手が殆んどないという状況が続いていた。そして、その状況から脱するためには陳蘭とその麾下の部隊という大き過ぎる犠牲を払わなければならなかったのである。
だが、それでも世間の目から見れば、袁遺と曹操の評価には絶対の壁ができてしまったのだ。
「今、李瓚殿のご子息たちは兗州で胥吏をしている者もいれば、故郷に帰った者もいますよ。伯業様が曹殿と停戦の条件として将兵、官吏の助命を約束しましたから」
「なんだ、知っておられたのか。それならそうと言ってくれればよかったものを。貴殿もなかなか意地が悪い」
「それは失礼しました」
司馬懿は頭を下げた。
「ところで、お噂では周豫州牧が柘県の県令や州の別駕(筆頭官吏)として長文殿を招聘しようとしたが、貴殿は断られたとか」
司馬懿が突然、話題を変えた。
仲達は陳羣の心の内を探っていた。出世した者の前に交流が絶えた知人が突然、訪ねてくる場合、官職の世話をしてくれと頼みに来たと相場が決まっているからだ。そして、頼られれば世話をしなければならないのが、名士としての義務である。それを怠ると評価を下げ―――武官としての位人臣を極めた仲達には関係ない話であるが一般的には―――悪評が跳ね返って将来の出世を妨げることになる。
もし官職の世話を頼みに来たのなら、州吏や県令程度ではなく、もっと上の官位を求めているのか、と司馬懿は勘繰った。
「長文殿ほどの人が未だに野にいることは、漢王朝にとって大きな損失です。我が主は今は謹慎中の身でありますが、陛下をお助けする人材を広く求めております。よろしければ、私の方から謹慎が解かれれば、すぐにでも伯業様にご推薦したいのですが、いかがでしょう?」
「お心遣い、感謝します。しかし、袁公について、もっと話をお聞かせください」
「なんでしょう?」
司馬懿は応じた。
「噂では、地方官の治績は十常侍の専横により荒廃した田畑の回復の度合いによって評価するとの布告は袁公の発案だとか」
「さあ、私はその手の政治に関わっていませんので、申し訳ないが、存じ上げません」
司馬懿は言葉を濁した。この評価基準が微妙な問題であることは以前にも書いたが、そうであるが故に主の評判を落とすかもしれないことを司馬懿は肯定することができず、明言を避けた。
だが、陳羣は司馬懿の言葉の響きの違和感から、それを肯定と受け取った。
そして、姿勢を正して言った。
「仲達殿、どうか推挙の話、お願いしてもよろしいでしょうか。私にもできそうなことがありました」
「できそうなこと?」
「はい、どうやら袁公は物事を変えることができる人物であったようで、私は現在の郷挙里選を消し去りたいのです」
そう言った陳羣の目は座っていた。
仲達には陳羣の気持ちが理解できた。だが、それを口にしなかった。きっと陳羣は、それは本当の理解ではない、と言うだろうからだった。
「穏やかじゃないことを仰られる。郷挙里選を消し去って、どうするというのです?」
「それをずっと考えてきましてね。代わりに別の制度を作ろうと思います」
「別の?」
「はい、名づけるなら『九品官人法』とでもしておきましょうか」
陳羣が言った。
その制度を掘り下げるには、この時代の人材発掘制度を掘り下げなければならない。
そして、後漢の人材発掘制度―――郷挙里選を掘り下げると、この時代の名士が抱えていた屈折が見えてくる。
郷挙里選をかみ砕いて説明すれば、地方の高官や有力者がその地方の優秀な人物を中央に推薦する制度である。
この郷挙里選は四代皇帝・和帝から徐々に機能しなくなる。
まずは外戚が、次に宦官が郷挙里選を私物化したのであった。
外戚と宦官がどのように後漢王朝で力を持ったかは、これまで幾度か述べたために、ここではその詳細は省くが、国政を私物化した外戚、宦官は郷挙里選において自身の一族や知り合いを推薦するように地方官に圧力をかけたのである。
そして、それを良しとしない名士たちは宦官の専横を弾劾するが、宦官は弾劾した名士たちを逆に禁固刑(公職追放)に処した。今まで散々述べてきた党錮の禁である。
党錮の禁は知識人たちに漢王朝への大きな不信感を植え付けた。
その不信感を抱いた人物のひとりに、郭泰がいる。
郭泰は上記の李膺に高く評価された人物で、李膺よりも年下であったが、友人と遇された若き人物鑑定家である。
この郭泰、かつて官吏となることを勧められたが、それを断った。曰く、天が滅ぼそうしているものを支えてることはできない、と。また後に、宦官に抵抗した陳蕃、竇武が処刑され、さらに一〇〇名以上の清流派人士が鉤党(悪い派閥づくり)の誣告を受けて処刑され、それに連なる七〇〇余名が公職追放された。第二次党錮の禁であり、処刑された者の中には李膺の名も含まれている。
郭泰はこれに慟哭した。優れた人々がここに果て絶えた。国は亡びるだろう、と。
この新を間に挟んで約四〇〇年続いている漢の滅亡を彼に予期させたのは、党錮の禁によって植え付けられた不信感によるものだろう。
後漢王朝に絶望し、官吏の道に進まなかった郭泰が向かった先は後進の育成である。前話でも書いたが、儒教の祖である孔子が自身の理想が実現しないと悟ると、諸国を周遊し後生を育成したように、これは儒家の伝統である。
社会もこれを歓迎した。地方を回る郭泰の車には面会を求める地方豪族たちの名刺が山と積まれたのである。
後漢王朝に不信感を覚えていたのは郭泰のみならず、多くの清流派人士も感じるところだったのだ。
こうして清流派知識人たちの間で流行したのが、お互いを評価し合う人物鑑定であり、その人物評価によって名声を得て誕生したのが、名士である。政治腐敗が進んだ中で、この名士間での名声は名士たちに官位より貴ばれたのであった。
さて、時代は進み、外戚も宦官もその力を失い、この名士たちの時代がやってくる。史実なら曹操の台頭であり、曹魏政権の成立である。
魏王朝初代皇帝である曹丕が即位すると、あるひとつの法が施行されることになる。
それが郷挙里選に代わる人材発掘制度の九品官人法である。
この法は各郡に人材推薦を任務とする中正官を置き、人材をランク付けして推薦させる人材発掘制度である。ランクは最高一品官から最低九品官までの九等であった。
漢の官僚を新王朝である魏に吸収することを当面の目的に施行されたが、その後も一般の官吏を登用するのに用いられた。
しかし、郷挙里選が外戚や宦官に私物化されたように、この郷挙里選は名士―――地方豪族に私物化される。
九品官人法、その名目上は徳行主体の人事基準から能力主体の基準へと移行するためであったが、実際には地方の力関係がそのまま郷品に反映された。
そして、この法が決定的に名士たちに私物化されるのは、中正官の上に権限の強い州大中正が置かれたことである。
州大中正の制により、家柄だけで高位高官が約束され、名士は世襲の貴族へと変貌していく。
そして、魏王朝は亡び、晋王朝へと交代するが、貴族は貴族のままであった。
この王朝が滅亡して皇帝家が代わっても、貴族は次の王朝でも変わらず貴族であることは君主権力を弱体化させ、国家の分裂性を高めることであった。
名士たちは今まで批判し、弾劾してきた外戚、宦官と同じ存在になってしまったのだ。まさしく、怪物と闘っていた者が、その過程において自らが怪物になるという寓話的帰結だった。
九品官人法、史実でそれを作ったのは陳羣であり、州大中正を設置したのは正始の政変で魏の朝政を支配した司馬懿である。
司馬懿が、改めて袁遺に紹介することを約束すると、陳羣は帰っていった。
彼は豫州潁川名士の取りまとめ工作にいそしんでいた。
豫州潁川郡には著名な知識人が多い。そして、今までその潁川グループの中心にいたのは曹操に仕えていた荀彧であったが、彼女は先の戦いで失脚した。その間隙に、陳羣は滑り込もうとしていた。
陳羣が潁川グループを掌握することは袁遺にとって利益となる。
現在、謹慎中の袁遺の復帰運動を潁川名士たちで行おうとしていた。
また、上記のように、袁遺は孫策との戦いが防衛戦争となる場合、豫州を戦域に設定して運動戦を想定しているため、豫州の名士―――特に今までは曹操を支持していた名士―――が孫策に敵対的行動をすると、防御作戦がやりやすくなる。
君主と名士の関係とは、何かの目的のために主君をいただき、武力や知恵や財、兵、人脈などで君主を助け、その代わりに主君は臣下の利益となる関係である。
陳羣が袁遺に九品官人法の成立と施行を頼むためには、袁遺の利益とならなければならない。
だが、司馬懿は陳羣と袁遺の利益が最終的には相反するものになると予感していた。
彼の脳裏に、あの晩夏の暑さが蘇った。
あの晩夏の四阿で、袁遺が、人材登用の方法も変える。地方に人材を挙げさせるのに郷品を作る、と言っていたのを司馬懿は覚えていた。そして、その後、品だけでは一部の名士に要職を独占される恐れがあるから、同時に班も作る、ということも。
陳羣の九品官人法は、陳羣の望んだ形には絶対にならない。司馬懿は断定した。だが、そうなると、陳羣や彼を支持する名士たちは袁遺を切り捨て、司馬懿を彼らの利益代表者に担ぎ上げるはずであった。
司馬懿はその鋭敏な頭脳で、そうなったときの未来を考えた。
彼の脳内では、ひとつの頸が刎ね飛んでいた。
果たして、その頸は自分の頸であったか、袁遺の頸であったか、司馬懿自身にもわからなかったが、彼にとってはおぞましい未来でしかなかった。
「……全ては党錮の禁から始まったな」
司馬懿は陳羣の胸の内を読んでいた。
司馬懿の陳羣に対する印象は、この時代の典型的な名士であった。
陳羣は学識の豊かさはもちろん高潔で道義を重んじ、誇り高い。だが同時に、他人にも儒教的な高潔さや誠実さを求め、道徳を汚すような行いをする人物を許さない、ある種の傲慢さを持っていた。その傲慢さはこの時代の名士なら誰でも持っていた傲慢さに根差したものでもあった。それは知識人として、また郷里社会の指導者として『家』を連綿と続けてきた自負である。司馬懿も―――本人の性格の歪みという面もあるが―――例外ではない。
であるが故に、陳羣にとって公職追放の憂いは、彼の人間としての誇りを粉々に砕いた。
そして、名士たちが高位高官を代々受け継ぐような九品官人法へと辿り着いたのである。儒教的な徳を身に着けた名士こそが、朝政を司るに相応しいという清冽な傲慢さのもとに。
司馬懿が職務に戻ろうとすると、洛陽から書簡がもたらされた。
仲達がそれを開き、内容を読むにつれて、その品の良い顔に興奮の赤みが差した。
彼の妻である張春華が出産し、男子が生まれたことが書簡には記されていたのだ。書簡は雛里が代筆したものだった。
書簡が書かれたのは十二日前のことで、母子共に健康であるらしかった。
「生まれたかッ……」
震えた声で司馬懿は言った。喜びが腹の底から湧き上がってきた。
だがしかし、同時に自分が父親になったという実感を得ることができていなかった。そして、都督兗州諸軍事の責務など投げ捨てて、今すぐに洛陽へと帰りたいという気持ちも湧いてこなかった。
酷い父親だ。司馬懿は自虐的な笑みを浮かべた。彼の場合、それさえも品がある微笑に見えた。
仲達は筆を執って妻に手紙を書き始めた。
その途中に、司馬懿はふと手を止め、別の紙にただ一文字、書きつけた。
師、と―――
7 東観
洛陽の郊外寄りの住宅街にある袁遺の屋敷は、こじんまりとしたものだった。
そこに袁遺は籠り、謹慎の期間を過ごしていた。
といっても、袁遺は何もしていないわけではなかった。彼の部屋の調度品は品の良い華やかなもので調えられていたが、そこかしこに書簡が山積みとなり、乱雑としていた。
袁隗の手の者たちから洛陽の情勢や孫策の動き、味方である各州の動きは袁遺の手元に入ってくる。
現在、袁遺にとって興味深い情報は―――親友である司馬懿に男児が誕生したという私的なものを抜かせば―――東観の様子であった。孫策に関しては謹慎中の身である故に、表立って動くことができず、打てる手が限られているために敢えて捨て置いている面がある。
東観は洛陽の南宮、光武帝と共に漢の再興に尽力した二十八人の将の像が描かれている雲台の隣にある修史の史料庫である。
今まで何度も触れてきたが、そこでは史書『東観漢記』の編纂が行われている。
現代では散逸したため、全容を知ることはできないが、その評判は決して芳しいものではない。
唐の劉知幾の『通史』に曰く―――同時代史であるためにさまざまな制約を免れ得ず、複数の著者の記述の寄せ集めである。
後漢の四代皇帝である和帝の時代から劉弁・劉協まで百年以上が過ぎたのである。社会情勢は大きく変わった。
編纂され始めた時期の『東観漢記』は漢の復活である後漢の無謬性を証明するような記述が多いが、現在の蔡邕が中心となっている部分は後漢の制度を後世に残そうとするような、名士たちが党錮の禁によって予感した後漢の終焉を看取ろうとするような記述が多い。
特に蔡邕は、宦官の専横を直諌したために宦官の恨みを買い。冤罪で叔父と共に処刑されかける。
叔父は民衆の前で頸を刎ねられるが、蔡邕を哀れんだ宦官のひとりが彼のために訴え出て死は免れ、家族と共に流刑に処された。翌年、大赦を受けたが、その後も宦官といざこざが起こり、揚州へと身を隠した。
身を隠すこと十二年、この期間に蔡邕は十意(正確には十志であるが、志は霊帝の一代前の桓帝の諱であるために、同じ意味である意を用いている)を書きあげた。これは後に『後漢書』の八志の原資料となる。
志は制度志のことで、後漢の礼儀、祭祀、暦、官職、地理、車服などの国制をまとめたものだ。
揚州でこれを書きあげる蔡邕が、後漢の滅亡を予感するだけの絶望を味わったことは想像に難くないだろう。
蔡邕は霊帝の死後、実権を握った董卓が名士たちの信頼を得ようとする一環で尚書に任命され、洛陽へと帰還した。彼は袁隗が董卓に協力する前から、董卓に手を貸していた数少ない名士であった。
しかし、大多数の名士たちは董卓に協力せず、蔡邕は袁紹の反董卓連合結成の動きが見えると、董卓の政権は長くなく洛陽へと戦禍が広がると思い、非常に目をかけていた
王粲、字は仲宣。兗州山陽郡高平県の出身で、曾祖父の
彼は戦を避けて、荊州へと向かうつもりであった。故に、蔡邕は後漢の制度がどのようなものであったかと自身の詩を後世に残すために王粲に蔵書を託したのであった。
だが、袁隗が董卓に協力するようになると状況は好転し、戦禍は洛陽どころか、その東辺を扼する要衝である虎牢関にさえ及ばなかった。
それでも、名士たちの脳裏から漢王朝の滅亡の可能性が消えることはなかった。事実、袁紹と内通していた朝臣もいた。
そんな絶望感の残り香が色濃く匂う、統一性のない雑駁な史書の編纂作業に加わることになったのが、曹操―――華琳である。
彼女の参加は『東観漢記』の欠点を更に大きくするものであった。
華琳も漢の滅亡を予感していた。だからこそ、黄巾の乱より袁遺に敗れるまで権謀術策を駆使し、戦い続けてきたのである。
しかし、蔡邕たちの記述は華琳の感覚からすれば、耐え難いものだった。めそめそと泣く様な記述である。辛気臭いの一言であった。
華琳と蔡邕は激論を戦わせることとなる。
その戦いは、彼女にとって味方の少ない戦いであった。
東観は儒者の巣窟であり、後漢の硬直化した儒教観を唾棄すべきものと考えている華琳とは水と油の連中である。また、袁遺がその身を犠牲にして曖昧にしたとはいえ、漢朝に弓を引いたことで華琳の名士間の声望は地に落ちている。
華琳を支持する名士は、冀州遠征時に袁遺に降った陳琳を始めとした少数の華琳の文才を評価する文士たちだけであった。
それでも彼女は退くということはなかった。ここで素直に頭を下げれるなら、どこかで袁遺に頭を下げていた。
そんな曹操の風向きが変わったのは、劉表の送り込んだ荊州学派が洛陽で影響力を持ち始めてからだった。
蔡邕に蔵書を託された王粲が荊州から帰ってきた。
それが幸運なことであったか不運なことであったかは王粲本人にもわからないだろうが、彼は荊州で荊州学に触れた。
洛陽へと帰還した王粲は真っ先に蔡邕に会いに行き、蔡邕の下で『東観漢記』の編纂に加わるのだが、あろうことか王粲は華琳の味方をした。
荊州で荊州学に触れてきた王粲は、荊州人士の乱世を終わらせるために新しい学問を生み出し、研鑽するという情熱を胸いっぱいに吸い込んできたのだ。そんな彼からすれば、いくら恩があるとはいえ蔡邕たちの記述は死んだ子の歳を数える様なものだった。
また、華琳と王粲を繋いだのは、蔡邕たちの儒教観に対する疑問だけではなかった。文士たちが新しいスタイルの詩を作ろうとする動きでもあったのだ。その中心が曹操の文才である。
東観での風向きが変われば、華琳の評価も変わる。そして、その変わる方向は袁遺の望む方向であった。
袁遺は漢王朝を存続させたい。それは蔡邕も同じだろうが、袁遺は漢王朝を存続させるために、その制度を大きく変えようとしていた。それに対して蔡邕たちは制度の変更を認めない保守派であった。この点が、この時代特有の硬直化した儒教観である。
袁遺が革新者(保守的な名士からすれば破壊者)なら、蔡邕は旧い価値観の集積者であった。歴史的に見て、この二者は決して単独では歴史に現れず、常にお互いがお互いの影のように現れる。
「しかし、蔡尚書に対する態度を見ると、華琳は相変わらずだな」
袁遺は苦笑した。華琳が変わらずに、自身の美意識に殉じていることに呆れつつも安堵感を覚えていた。漢王朝に弓を引いた立場にあるのに、そんなことがなかったように振舞っている。だが、自分に負けて萎らしくなる華琳など見たくもない。
ただ、同時に彼の大き過ぎる猜疑心は華琳の影響力が徐々に大きくなっていくことに、敏感に反応していた。華琳、文学に限らず芸術家は、その死が悲運であればあるほど、その作品は実力以上に評価される。だけど、君ほどの文才だ。君の作品にそんな下駄を履かせる必要はないだろう。だから、決して俺に手を汚すような真似をさせないでくれよ。
袁遺は頭に過った薄暗い策謀をかき消すように、東観の現状を多少の誤差はあれど、ほぼ自分の想定の範囲内に収まっていると結論付けた。
袁遺が孫策の動きに対して余裕を持って構えているのとは対照的に、驃騎将軍府の留守を預かる雛里は過敏にならざるを得なかった。
雛里の手元に集まってくる寿春の情報は、はっきり言えば常軌を逸していた。長江の寿春・秣陵間を行き来する軍船、商船の数が増え続ける一方なのである。それだけ、人や物資が寿春に集められているということである。
雛里と参謀部が推定したところ、その数は一〇万を超える。そのうえ、未だ増え続けている。揚州全てから人を集める勢いである。孫策は根こそぎの総動員を行っていると結論付けた。
それが明らかになるにつれ、孫策の討伐は反董卓連合、袁紹、曹操に勝ってきた袁遺しかいないという袁遺復帰論が名士間で湧き起こった。特に、ここ最近、荊州から帰ってきた名士たちは盛んに孫策の脅威を宣伝し、漢王朝の反孫策の風向きをより強いものにしていた。さらには、戦場になりそうな豫州の名士たちも袁遺の復帰運動を行っている。
となると、留守を任された雛里は袁遺が復帰次第すぐに動けるように準備を整えておかなければならない。
もちろん袁遺からの指示はあったが、当面は司馬懿に任せるため、洛陽・兗州間の連携をしっかり保つくらいしかなかった。仕方がなかった。袁遺が謹慎の身である間、表立って動けず、受け身にならざるを得ない。
それでも、将軍府はやにわに忙しくなった。
しかし、その忙しさの中で、雛里は一抹の不安を覚えていた。
袁遺の影響力は謹慎したにもかかわらず大きくなる一方である。その勢いは袁伯業本人でさえ制御できなくなるほどではないかと思うほどであった。まるで濁流にでも飲まれている様である。
雛里は思う。もしかしたら、伯業様が登っているのは栄光の階段ではなく、破滅の階段かもしれない、と。
捕捉
・劉知幾
唐の時代の歴史研究家。前漢の宣帝の末裔であるとされる。
漢は亡びたけど、なんだかんだ劉邦の血って唐まで残ったんだなって、感慨深くなる。