異・英雄記   作:うな串

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乙の章
1~2


 それは、別名の烏鷺の戦いの通りに、まるで烏と鷺が縄張りを争っているようだった。

 だが、ここには鳥はおらず、それは黒と白の丸い石であった。それらが、縦一尺五寸(四十五.五センチ)、横一尺四寸(四十二.二センチ)の盤の上に並べられている。

 所謂、囲碁と呼ばれる遊戯である。

 ふたつの手が、その石を整地し、勝敗を判定しようとしていた。

「コミを入れても一目半負けたか」

 そう言った男の顔は無表情である。

 あまり感情を表に出さない人物である袁遺は囲碁で負けてもそうであった。

「雛里も強くなった。これは、もう敵わないかもしれないな」

「いえ、そんな……」

 対して勝った方の少女、雛里は恐縮しながらも、どこか嬉しそうに、はにかんだ。

 ここは後漢の都、洛陽の袁隗の屋敷の一室である。

 彼らは黄巾党討伐の任を終え、洛陽にて恩賞の沙汰を待っている間、袁遺の叔父にあたる袁隗に宿を貸してもらっていた。

 そこで暇を潰すために袁遺は雛里を碁に誘った。

 初めは袁遺が白星を積み重ねていた。

 コミと呼ばれる後手の不利をなくすためのハンデキャップを導入し、現代風に変えてはいるが、ルールは大体同じである。

 ただ、袁遺は一八〇〇年先の定石を知っていたために、この時代の人間より恐ろしく強い。

 雛里が局地戦に終始している中で、手割り計算の概念を知っている袁遺は、ただ石の効率のみを追求していた。旧来の碁と近代碁の戦いである。イカサマとまでは言わないが、せこい話である。

 だから、袁遺は雛里にいくつかの定石を教えたところ、勝敗は徐々に逆転し始め、この一局をもって勝ち越されたところである。

「雛里、頼んだ服ができただろうから、散歩がてら取りに行こう」

 袁遺はそう言って、石を片付け始めた。

 

 

異・英雄記

乙の章

 

1 洛陽

 

 

 洛陽についた次の日の朝。

 袁遺は雛里に黄巾党討伐に対する報酬を渡した。

 それと同時に、

「先の黄巾の乱にあたって、君の貢献は大きなものだった。そこで改めて、私の軍師になってくれないか」

 雛里に出仕を求めた。

「は、はい。こちらこそよろしくお願いします」

 元々、雛里から仕官したので、彼女に異論はない。

「うん、それじゃあ、ついて来てくれ」

 袁遺はそう言って、雛里を蔵の前まで連れ出した。

「部屋だけではなく、この蔵も叔父上から借りていてな」

 そう言いながら、彼は蔵のカギを開け、中に入って行った。

 明り取り窓からの光だけでは、蔵全体を十分に照らすことはできないが、あまり物が入っておらず、ガランとした印象であった。

 袁遺は、そんな蔵の中にあった鉄の棒を拾い上げ、床の一部を剥がした。その下から出てきたのは、壺に入った大量の銭だった。

「支度金だ。必ず、全て使え」

 そう言って、雛里に蔵のカギを渡す。

 雛里は今まで見たことのない大金に目を回していた。

 袁遺はそんな彼女を置いて、蔵から出ていく。

 後に雛里が正確にその銭を数えたところ、官位が売買されていた漢王朝で、主人の袁遺以上の官位が買えるだけの金額であることが分かった。

 その後、雛里を洛陽の町へ連れ出し、袁家で使っている仕立て屋まで連れていき、服を二着作らせた。もちろん、代金は袁遺持ちである。

 一着は、官が朝廷に出仕するとき着る服、朝服である。もう一着は、後代の言葉で言えば、パーティードレスであった。

 袁遺は、できるだけ早く作るよう頼み込んだ。

 お得意様の袁家の貴公子の頼みである。職人は、十五日で仕上げさせてもらいます、と請け負った。

 雛里は、できた服を試着している。

 パーティードレスの方は雛里が着ていた服をモデルにしたようで、紫がベースのところや装飾の一部にそれが見て取れた。しかし、服の全体としての印象は、むしろ大人びたもので、雛里が着るとその印象は穏やかながらも、艶やかなものがあった。

「うん、似合っているよ、雛里」

 袁遺が言う。優し気な声色であった。

「あ、ありがとうございます」

 雛里は顔を真っ赤にして、俯いた。

 そんな彼女に袁遺は言う。

「雛里、さっそくで悪いが、明日、その服を着て、友人の家に行くぞ」

 その友人とは、袁遺がこの洛陽に残していた部下のことである。

 

 

 まだ朱儁隊の別働隊として、豫州を駆け回っていた頃、雛里は四人の実戦部隊隊長に洛陽に残してきたという部下のことを聞いたことがあった。

 陳蘭は、その丸く、親しみが持てる顔に困惑の色を浮かべながら答えた。

「そ、その、伯業様が洛陽で遊学していたときの友人だったと聞きました」

 陳蘭は、この軍師候補の少女の質問に困り果てた。

 あの仕えにくい主が部下が他の部下の陰口を言うことを嫌っているのを知っていたからだ。将たちの人間観察は自分の目で十分である、袁遺はそう思っていた。

 であるから、雛里の質問に対しては、客観的な事実のみを答え、彼の人柄には触れなかった。どうしても好きになれない部分を持っていたからだ。

 そして、雛里は陳蘭のその葛藤を正確に読み取った。

 陳蘭自身の個人的感想を聞けないのであれば、客観的な事実のみを聞く方針に転換したのだった。

「では、その方は伯業様にどのような仕事を任されているのですか?」

 この黄巾党の乱では洛陽で社稷の動きを探らせている、と袁遺は言っていたので、所謂、秘密諜報活動を担当していると雛里はあたりを付けていたが、陳蘭から返ってきた答えは予想を裏切るものであった。

 陳蘭は口籠りながら、自分にはよくわかりませんが、と前置きしてから言った。

「伯業様が思い付かれた策を実践するうえで問題になる点を洗い出すことが役目です」

 後代の言葉で言うところの軍事研究である。

 軍事とは実証主義による科学であり、実践できてこそ初めて意味を持つ。そのことを理解している袁遺は自身の友人にして、その才能に信頼を置いている部下に、その手助けをさせたのだった。

 それを聞いた雛里は、自分が得意としている分野と洛陽に残っている件の部下の役目がかぶっていることに一抹の不安がよぎった。

 人間には競争心というものが存在する。同じ分野が得意な者がふたり、同じ主の元に存在したとき、その競争心が良い方向に働けばいいのだが、往々にして悪い方向に働くものである。

 そして、そのふたりの主は、部下が他の部下の陰口を叩くのも許さない人物だ。下手をすれば、とてつもなく悲惨なことになる。

 雛里は、起こるかもしれない面倒な未来に口癖である、あわわ、という言葉が口から洩れた。それに陳蘭は、大丈夫ですか、先生(軍師とは文字通り、軍の師匠であり、先生と呼ばれたりもする)と困惑の色を強めながら、雛里に尋ねた。

 そんな彼女たちの元へひとりの男がやってくる。

 彼女たちは、その男を見たとき、はじめ、賊が陣内に入ってきたのかと思った。

 そう、賊の様な強面の雷薄だった。

 雛里は雷薄にも訪ねた。正直なところ、雷薄のことは少し苦手であった。

「ああぁん、あの男のこと!?」

 その原因は、この乱暴な話し方と声の大きさだった。

「はっきり言やぁ、嫌な奴だな」

「お、おい、そんな言い方はないだろう」

 雷薄の言葉に陳蘭は慌てた。袁遺に一緒になって陰口を叩いていたと思われたくなかったからだ。

「おまえな……」

 雷薄はそんな陳蘭に呆れた。

「そんなんじゃあ、疲れるだけだぞ」

 雷薄は言う。

「確かに、うちの大将に仕えるのはきついわな。楽なことじゃねぇ。だが、楽しくもある。あの人は俺を泥の中から拾い上げてくれた。んで、俺の得意なことをやらせてくれてる。さらに豊かにしてくれる。当面はそれでいいだろう」

「……」

 雛里と陳蘭は黙った。

 この乱暴な男の袁遺への忠誠心と、彼独特の処世の一端を見出したからだ。

 雷薄は、謂わば、諦めを知らぬ運命論者であった。

 先天的なものではない。軍に長く関わることによって作られたものだ。というのも、兵卒から信頼されるために指揮官という立場の人間には様々な方法論がある。手っ取り早いのは、肉体的に優れたことを見せることだ。つまり、部下の危機に際して、身の危険を顧みず、彼を助ける。そんな勇者的な行動を示す指揮官を兵は信頼する。いや、そういった行動を見せなければ、兵からの信頼を勝ち取れないのである。特に、経験の多い古参兵は、指揮官の力量が自分の生死に直結することを知っているため、完全に実力主義の徒である。だから、何かしらの優れたところを見せねばならない。

 もちろん、そんな行動をして生き残れる者は多くはない。その結果、生まれるのが、諦めを知らぬ運命論者である。

 諦めを知らぬが故に最善を尽くし続けるが、運命論者故に死を恐れない。それは戦においてでも、主君に対してでも変わらなかった。主には尽くす、しかし、いつか、用のない猟狗として煮られるときはそのときだ。それが雷薄の考えだった。

「だから、何度でもはっきり言う。あいつは嫌な奴だ。張郃と高覧にも聞いてみな。あいつらも好いてはいないぞ」

 そう言って、雷薄は去って行った。

 実際に、そのふたりに聞いたところ、好まざる部分を持った男らしい。

 張郃は、

「優秀な奴だ。家柄もいい。だが、好きになれぬ部分もある」

 と答えた。

 高覧は、

「実際に、会って判断なされよ」

 と言われ、はぐらかされた。

 結局分かったのは、主の友人であり、好かれておらず、面倒な部分を持つ人間だということだけだった。

 

 

 その日の袁遺の服装は雛里に合わせたものであった。

 青みががった黒の軍袴仕立ての細袴を履き、上には黄蘗色の上衣と薄い灰色の二重廻し風の着物を纏っている。二重廻しには黒と白の色違いの糸が縫いこまれている。この二重廻しのおかげで、上衣の黄色が安っぽく見えず、深みのある印象を与えている。

 雛里の紫の服に合わせた黄色であった。

 道すがら、雛里は袁遺に、今日会う男のことを聞いた。

「あいつとはこの洛陽で出会ってね。気が合い、友人となった」

 袁遺は懐かしむように言う。

「優秀な奴だ。姉妹が七人いて合わせて八人姉弟だ。全員が高い評価を受けているが、あいつは、その中でも飛びぬけて優秀だ。楊俊という男が彼を非常の器と言ったが、それについては俺も同感だ」

 雛里は、あの袁伯業がそこまで高く評価していることに驚愕した。

「だが、嫁をもらったくせに、中々、官職につかず、挙句、俺の部下になりたいと言い出した。望めば、すぐに、どこかの太守になれる男が、部曲(私兵のこと。ただし身分は奴隷に近い)の真似事をしている。おかげで、俺は、あいつの御父上に合わせる顔がないよ」

 袁遺は、やや自虐的な笑みを浮かべた。

「ああ、わざわざ、出迎えてくれたか」

 袁遺の言葉を聞いて、雛里は視線を袁遺から前方に移した。

 こじんまりとしているが、よく手入れされている屋敷の前に一組の男女が立っていた。

 女性は美しい顔立ちをしていた。理知的な光を宿している大きな目、高い鼻、美しい唇、それらがバランス良く配置されている。髪は優雅にうねる長髪で、純度の高い黄金というより陽光というべき金色だ。立ち姿には、どことなく品があった。

 隣に並んだ男も、その女性の隣に立つにふさわしい容姿をしていた。

 目はやや垂れ気味だが、柔らかな雰囲気を感じさせ、悪い印象を与えない。身長は高く、歩いてくる袁遺のそれよりも高い。物腰には育ちの良さからくる気品を感じる。

 ふたりの服は、豪華なものではないが、手入れが良くされており、清潔感を感じる。

「ようこそおいでくださいました。伯業様、武功と無事の御帰還、心よりお祝い申し上げます」

 男が礼を取り、妻もそれに続いた。

「ありがとう。久しぶりだな、仲達」

 袁遺は、友人であり、部下でもある男、司馬仲達に柔らかな笑みを浮かべた。

 

 

 屋敷に招かれた袁遺の二重廻し風の上着を仲達の妻、張春華が脱がせ、預かった。

「姓は司馬、名を懿、字は仲達。以後お見知りおきください」

 典雅な響きをした声で仲達は言った。

「あ、わ、わたしは、姓を鳳、名は統、字は士元。黄巾党討伐の折に袁家の末席に加えていただきました」

 雛里は緊張した面持ちで挨拶を返す。

 仲達は妻を隣に招き、雛里に紹介する。

「妻の張春華です。私ともどもよろしくお願いします」

「あ、あわわ、こ、こちらこそよろしくお願いします」

 緊張の極にある雛里は、やや回らない呂律で答えた。

 袁遺は、久しぶりに彼女の口癖を聞いたな、などと思いながらその光景を眺めていた。

「どうぞ、食事の用意ができております」

 タイミングを見計らい春華が言った。

 案と呼ばれる膳に主食、汁物、主菜などが並べられて出てきた。

 木の器に入れられた羹(所謂スープ)は、コンソメスープとでもいうべき清湯である。濁りなど一切ないそれは実に豊かな味わいである。炻器に乗せられた山クラゲと筍の冷菜、味付けは濃いめであり、添えられている瓜には飾り細工がされている。同じく大きめの炻器には、淡水魚のあんかけから揚げ。あん自体は薄味だが、数種類の香菜が乗せられており、立ち上る湯気が香しい。豚肉の煮物。一度、蒸し、余計な脂を落とした後に素揚げしうまみを閉じ込め、その後濃いめのタレで煮るのだが、タレに使われている酢のおかげでしつこくはない。これにも香菜が使われている。そして、井戸水で冷やされた果物が数種類、並んでいる。

 彼らは、冷めては駄目なものを先に平らげると、自然に言葉が多くなった。

「そうですか、士元殿は、荊州の出身で、あの水鏡先生のところで学ばれたのですか」

「は、はい」

「私は河内郡の出です。その後、洛陽、長安、故郷の温県と移り、また、洛陽に戻ってきました。ですから、この司隷から出たことがありません。よろしければ、荊州について教えてもらえませんか」

 司馬懿は柔らかな物腰である。それが生来のものなのか、鎧ったものなのか、雛里は判断が付きかねていた。

「荊州は大変豊かな土地です。そして州牧の王叡様が党錮の禁によって追放された劉表殿を始めとした清流派の党人の保護に積極的であるため、学問が盛んな土地でもあります」

「王叡殿の良い噂はあまり聞いたことないが、存外に上手く荊州を経営しているのだな」

 口をはさんだのは袁遺であった。

 袁遺の知っている王叡という男は身分が下の者に無礼な態度をとる尊大な性格の持ち主であった。その反動で名士とされる清流派の知識人たちを保護している、と考えられる。

「ですが、黄巾党はそんな荊州でも乱を起こしました。これは、漢王朝の力がそれだけ衰えているということなのでしょう」

 司馬懿のその言葉で場が少し暗くなった。

「お茶をお持ちします」

 見計らったように、春華が言った。

 各人の料理は食べ尽くされている。

 彼女が持ってきたお茶を袁遺は口にする。

 保存状態が良いのだろう、香りが高く、その果物に似た甘い香りを楽しむことができた。苦みがやや強い味についても袁遺の好みに合わせたものだった。

「春華殿、いろいろと骨を折っていただいたようで、感謝します」

 彼は部下のできた嫁に礼を言った。

 今日の料理等の差配は彼女のものだった。

 彼女はそれを謙遜しながらも嫌味にならない程度で受け止めた。その所作は洗練されたものだった。

「ああ、仲達。治書御史様はお元気であろうか?」

 治書御史とは彼の父親である司馬防のことである。洛陽県令、京兆尹(長安を含めた郡の長官)を歴任し、その厳しい性格は有名であった。

「相変わらずでございます。姉上や妹たちも息災です」

 それは良かった。袁遺はそう言って茶を口に含み、口腔で香りを楽しむ。

「伯業様。張既殿が帰還の御挨拶をしたいと申し出ております」

 仲達が言う。

 それは黄巾党討伐の道中に書簡で届けられた約束のひとつであった。

「そうか。では、あちらの都合のいい日を聞いて、整えてくれ。恩賞の沙汰は、まだ時間がかかるようだ」

 袁遺はそう、仲達に命じる。

「彼に初めて会ったのは、私が官職につく前だったな」

 袁遺が思い出すようにつぶやいた。

 そのまま、この日の食事は終わり、袁遺と雛里は帰途についた。

 その道中、袁遺は雛里に尋ねた。

「どういう男であった。仲達は?」

「は、はい……その……」

「君が将に彼のことを尋ね回っていたことは知っている」

「あわわ……すいません」

 縮こまる雛里に袁遺は、怒っていないことを伝え、答えを促す。

「そ、その、物腰の柔らかな才人だと思います」

 彼女の答えに袁遺は心の中で同意した。

「皆が嫌うのが、分からないか?」

「は、はい」

「ふむ……」

 袁遺は考える。

 あの四人が仲達を嫌う理由は分かる。仲達は心の内を隠すのが上手かった。それが不気味に思えるのだ。そして、逆に仲達は自分の考えを全て見通している、と相手に思わせる行動をとることがある。それをそつなく行うのだ。その部分を皆が半ば恐怖心と共に嫌っているのだ。

 ただ、袁遺からすれば違った。

 心の内、全ては読めないが、いくらかは読める。だから、友人になることができたのだった。といっても、無条件で信頼しているわけでもない。むしろ、袁遺は仲達を四人より警戒していた。

 仲達は、才能ある実務者が、常にそうある様に、その思考は常に多面的、相対的である。彼は、物事全ての小さな機微に、喜怒哀楽を感じ、心を動かすが、ある一面では、冷徹な軍師としての思考を止めることは決してない。例えば、袁遺が死んだら、彼は部下としても友としても袁遺の死を悲しむが、同時に、自身の最大限の利益を確保するために、冷徹に行動するであろう。その点が、司馬懿を警戒させているのだった。

 もちろん、袁遺自身にも言えることであるが、立場が違った。もし、袁遺が司馬懿の家臣であったなら、仲達は袁遺の役目を終えたと思ったら、彼を排除するだろう。

 仲達や雛里の様な立場の人間は、范蠡や張良の様にならなければいけない。さもないと、獲物尽きて猟狗煮られる。その未来が待っているからだ。もちろん、例外もある。ただ、その例外のひとつは、皮肉にも史実の司馬仲達である。

「君がこのまま私に付き従うのであれば、彼のまた違った面が見えてくるだろう」

 袁遺は、戦場の指揮官としての顔で言った。

 

 

2 涼州事情(勢力篇)

 

 

 後日、また、袁遺は仲達の家を訪ねた。雛里は伴わず彼ひとりである。

 出迎えてくれた春華に先日の礼を言い、仲達と共に客人を待った。

 やって来たのは小男だった。袁遺、仲達の長身ふたりに囲まれると、それが更に際立った。丸顔で目が細い。だが、それらは悪い印象を与えておらず、むしろ、福々しい恵比須顔だった。

 その顔の持ち主こそ、彼らが待っていた張既であった。

「お久しぶりです、伯業様。このたびは、黄巾賊討伐で多大な武功を挙げられたと聞きました。おめでとうございます」

「ありがとうございます。本日は、先生に涼州についてお聞きしたく、ご足労を願いしました」

「せ、先生などと、お止めください。わ、私は庶民の出で、郡の小役人に過ぎません」

「では、徳容殿。お願いします」

「私にわかることでしたら、何でもお話しします」

 袁遺は少し、考えると

「では、羌族はどうですか。前漢の頃より、漢に何かが起こると背いて叛乱を起こすのが常。黄巾賊のそれに呼応して、何か動きはありませんでしたか?」

 外敵というべき、非漢民族の部族の質問をした。

「確かに、今までならその通りですが、現在の涼州牧の馬騰殿は、大層な女傑で羌族を上手く取りまとめております」

「ほう……」

 その答えを聞き、袁遺は意外な思いだった。正史では、黄巾の乱の年に、馬騰は韓遂と結び、官軍と戦っているはずだからだ。

「馬涼州牧は、どの様な領地経営で羌族を取りまとめておられるのですか?」

 そこから張既が語ったのは、馬騰の領地経営のやり方であるが、それは原始的かつ先進的なものだった。

 涼州にはいくつもの軍閥があり、それを取りまとめているのが馬騰である。張既の話を聞く限り、馬騰は、その軍閥を民主主義的な方法論で取りまとめているらしい。

「なるほど……涼州牧殿は相当な出来物の様ですね」

「全くその通りです」

 袁遺は春華が淹れた茶でのどを潤す。

 会食のときに出されたものとは違い爽やかな香りと苦み、渋みが抑えられたすっきりとした味の茶であった。

「徳容殿は、その軍閥の面々と面識はおありですか?」

「はい、全てが騎乗の達人で、武に優れた者たちです」

「羌族に対抗するためには、やはり、騎馬ですか」

 袁遺は、そう言いながら、今まで黙して話さなかった仲達に目配せする。

「涼州に近い漢中はどうですか、張魯という男が五斗米道と称した鬼道教団を率いています。黄巾の乱の折、洛陽でもその動きに注意するよう主張していた者もおりましたが」

 仲達は自分の気になっていたことを張既に聞いた。袁遺だけでは視点が偏るため、仲達に意見を言わせたのだった。そして、袁遺には、確かに漢中という視点はなかった。

「漢中は、その……」

 張既は言葉を詰まらせた。

 袁遺は始め、漢中について何も情報を持っていないかと思ったが、張既の視線がこちらを向いていることに気付き、思い至った。

「私のことはお構いなく、徳容殿が知っていることをただ述べてください」

 五斗米道は道教の教団であり、道教は老子を教祖として祭りあげている。ただ、祭りあげているたけで、道家には直接関係ない(ただし、影響を受けている面もある)とされる。だから、事実上、土着宗教であり、漢王朝内では好意的にとられていない。そのため、儒家たちと関わりがある袁遺に対し、気を使ったのだろう。ただ、気を使わなければ、いけないということは、漢中はそれなりに栄えている、ということになる。

「張魯は、上手くやっているようでして、漢中はかなり安定しています。ですが、乱を起こそうという動きは今のところ見せてはいません」

 やはり、袁遺の考えを肯定する答えが張既から出てきた。

 袁遺は宗教に対して、一定の不信感を持っている。そのため、漢中については、自分は深く関わらない方がいいと考えた。どうしても色眼鏡で見てしまい、碌な結果を招きそうになかったからだ。

 何気ない様に、袁遺は茶に手を付けた。

 そして、今日のふたつの目的のひとつを口にする。

「そう言えば、董卓という者の噂をここ最近、聞くのですが、どのような人物なのでしょう?」

 自分の知識通りに行くなら、当面の敵になりそうな者についての情報を集めるのが、目的であった。

「彼女には一度会ったことがあります」

 張既が言った。

 彼女、か……やはり、というべきか董卓も女体化しているのか。

 そこまでは、袁遺の予想の範疇であったが、張既の人物評はそれをはるかに超えたものだった。

「儚げで心優しい方でした」

 儚げ……? 心優しい……?

 それは袁遺の思い浮かべる董卓像にはない言葉であった。

 袁遺は衝撃を誤魔化そうと茶に手を付け、口元まで持っていったところで、それが空であることに気付いた。

「持ってこさせましょうか?」

 仲達が尋ねた。

「いや……ああ、いや、すまないが貰えるだろうか」

 断ろうと思ったが、今は考える時間が必要であった。それを稼ぐために貰うことにした。

 新しい茶が来るまで、袁遺は考える。張既が謀られた可能性は、いや、彼の観察眼には信頼を置いている。であるならば、もっと情報が必要だ。

 袁遺は内心、焦っていても無表情であった。

 新しく茶が届けられた。それを一口飲むと、袁遺は探るように言う。

「董卓は文武に優れた人間ですか?」

「う~ん、文武に優れた配下を抱えておりますが、本人については、私も分かりません」

「配下?」

「賈駆という者と華雄という者がそれぞれ、文官と武官の筆頭でしょうか」

「賈駆と華雄、ですか」

 袁遺は頭を悩ませる。

 正直な所、董卓に野心はありますか? と、はっきり聞きたいところであるが、聞けるわけがない。なら、仕方がない、か。

 袁遺は仲達に再び目配せするが、どうやら、彼も、もう聞くことはないらしい。

 であるならば、今日のもうひとつの目的を果たすとしよう。

「徳容殿」

 袁遺は佇まいを正す。

「これはまだ、正式なものではありませんが、私は黄巾党討伐の功として、長安県令の職を得ることになりました」

「それは、おめでとうございます。長安は光武帝が即位されるまではこの国の都でした。そのことを考えれば、要地の県令は大変な栄誉でありますな」

 その恵比須顔に満面の笑みを浮かべながら言われるのは、袁遺の胸に何かめでたい気持ちを抱かせた。これこそが、張既の最大の魅力であった。

「まったくその通り、かような要地を任されるのは身が引き締まる思いです」

「いえ、あなたなら見事にやり果せるでしょう。私にできることがありましたら、微力ながらも、お助けする所存です」

「それは心強い。徳容殿のような人物にそう言っていただけるとは、有り難い限りです」

「いえいえ、そんな、何かありましたら、いつでもお声かけください」

「では、早速」

 今まで浮かべていた微笑を取り払い袁遺は言う。

「どうでしょう。私と共に長安に移っていただけませんか?」

「そ、それは……」

 張既は、まさか、いきなり、そんなことを言われるとは夢にも思わなかったため、言い淀んだ。

「徳容殿は、十六の頃から役人を務めております故、あなたの様な手練れた文官がおれば心強い限りです」

「しかし、いきなりは……」

 袁遺は、その動揺に付け込むように言葉を叩きつける。

「失礼ながら、庶民の出のあなたに、それ以上の出世は望めません。十六より務めていれば、それは私などに言われなくても十分、理解しておられるはずだ」

「……」

 事実だった。張既は自分より経験が浅く、そのうえ能力のない者たちが出世していくのを横目で見ながら、小役人に自分を収めていた。確かに、自分の出世は雲を掴む様な話だ。

「徳容殿」

 今まで黙っていた仲達が口を開いた。

「伯業様は仕えるには大変な苦労がある人ですが、これ以上ないくらい楽しいことですよ、それは」

 それで出仕を受けようと思うのか、袁遺はそう思ったが、

「伯業様、その話、有り難くお受けいたします」

 張既は受けた。

 能力を持つ人間の大抵がそうである様に彼も自身の能力を活かせる場所を求めていたのだ。そして、袁遺にそれを見出したのだった。

 張既は、現在の職があり、その引き継ぎのために長安での合流は遅れる、と許しを乞うた。袁遺は、後ろ足で砂をかける行動は慎むよう、言い、それを許した。

 張既が司馬懿邸を去った後も袁遺は冷めた茶をただ見つめ、物思いに耽った。

 これから起こりうるだろう洛陽での政治的な動向は、一層の注意を払う必要がある。皇帝、宦官、董卓。それら全てを冷静に分析できる者が必要だ。それができるだろう仲達を長安に連れていかず、このまま洛陽に残すか。いや、京兆尹を務めた父のもとで育ったのだ。長安について俺より詳しいはずだ。そんな人間は手元に置くべきだ。で、あるならば、他に洛陽で情報を集める優秀な人物を探す必要がある。誰なら、それに能う……

 様々な人物を思い浮かべる。そして、幾人かの人物にたどり着いた。

 袁遺は傍らに控え、自分の邪魔をしないように黙している司馬懿を見た。

 彼が俺の立場なら、俺と同じ選択を取ったか。いや、愚問だ。必ず取る。だから、こいつは油断できんのだ。情を感じているが、それでも冷徹な面はあらゆることを計算する。そして、その計算された方を選ぶ。

「仲達。至急、会談の場を整えてくれ。もうひとり、会っておきたい人物がいる」

 袁遺は、無表情な顔をより一層、無機質にして、部下に命じる。

 彼がそれを断らないのは知っている。袁遺が彼の立場であったら、断らないからだ。故に、詫びることもしない。彼も詫びないだろうから。

 

 

 それから三日後、袁伯業は黄巾党討伐に対する恩賞として、長安県令の職を授かった。彼は実戦部隊の隊長四人と軍師ふたり、黄巾の乱の最中、降った兵のうち希望する者の中から能力、性格、犯罪歴を加味し選抜した八〇〇名を私兵として引き連れ、長安へと向かった。それは彼にとって何かの始まりとなることであった。




補足

・范蠡
 春秋時代の越の政治家、軍人。越王勾践を覇者にまで押し上げた立役者。
 狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵る、の人。
 その鮮やかな進退は見事と言う他ない。
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