異・英雄記   作:うな串

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 書き忘れていたのでここで書きます。
 原作では華雄は元は何進の部下でしたが、この二次創作では初めから董卓(月)の部下になっています。
 このような原作改変が多々あります。そのことをご了承ください。


6~7

6 その日3

 

 

「仲達、私は朱右中郎将様の下で件の黄巾党討伐に参加することになった」

 それは、まだ袁遺が黄巾党討伐の任に就く前のことであった。

「それで君に言いたいことが、ふたつあってな」

 袁遺は親友であり、部下でもある司馬懿の家を訪ね、彼に言った。

「此度の軍旅には君は連れていかない。それで、私が戦死したら、いい加減、職に就き、君の良くできた細君に苦労を掛けるな」

 袁遺は意地の悪い笑みを浮かべた。

「そのようなこと仰らないでください。縁起が悪いですよ」

 そんな軽口はふたりの間では昔からよくあることだった。仲達は軽く流した。

「そうだな。それでふたつ目なんだが……」

 そこで言葉を区切り、袁遺は表情を引き締める。

「社稷の動きを見張って欲しい」

 声を潜め言った。

「これは、何ら根拠のないことなのだが、一部の官が黄巾党と内通しているかもしれない」

 袁遺の言葉に仲達も表情を引き締め、問うた。

「一部の官というと?」

 その質問に袁遺は、苦い表情を浮かべる。視線は一度、司馬懿から外され宙を彷徨った。

「あまりにも荒唐無稽であるが、十常侍だ」

 史実において、十常侍の張譲は黄巾党と内通していた。それが王允の告発で発覚したが、張譲はすでに死んだ宦官に罪を被せ処罰を逃れた。そして、逆に王允を免職している。

 曹操や袁紹が女性となっている世界で、袁遺自身の持つ『三国志』の知識がどれだけ通用するかわからないが、それでも気になっていた。

「これに限らず、黄巾の乱の各地域の方面軍指令の更迭の動きなども探ってほしい」

 黄巾の乱で、盧植が賄賂を渡さずに更迭された例がある。もし、自分の所の指令官がそうなり、とんだ無能が上官になるかもしれない。そうなれば、最悪、叔父の袁隗の力に縋ることになるかもしれない。

「分かりました。私にも伝手がいくつかあります。そこから探ってみましょう」

「頼むぞ」

 袁遺は、もう行くと立ち上がった。司馬懿は、無事のお帰りを願っておりますと言い、送り出した。

 だが、袁遺は立ち止まり、何かを思い出したかのように司馬懿に向き直った。

「ああ、言っておくが、最初のあれ、冗談ではないぞ」

 それを聞いた彼は、柔らかな笑みを浮かべ言った。

「伯業、君が世に出れば、私は天下で最も扱き使われる臣になるんだ。そうなれば、誰も官職に就いていなかったことを責める者はいなくなるよ」

「ふっ……そうだな。よく分かっているな」

 束の間、ふたりは、ただの友に戻った。

「じゃあ、行く」

「御武運を」

 その後、軍旅の途中で袁遺は鳳統と出会い、彼女の主となった。そして、彼女と謀り、別働隊の実質的な指揮権を得たとき、司馬懿からの密書が届いた。

 そこには、十常侍・張譲が同じく十常侍・封諝を使い黄巾党に内通しており、その証拠を確保したことが記されていた。

 と同時に張既との再会の機会がもたれることの書簡もあった。内容が内容だけに良い知らせと悪い知らせを一緒に送って来たのだろう。それは仲達なりの諌止だった。怒りに囚われると冷静な判断ができなくなるぞ、彼はそう言いたかったのである。

 だが、袁遺の心のさざ波は治まらず、雛里にそれを見抜かれる結果となる。

 

 

「左都候就任、おめでとう、仲達。県尉から突然の配置転換。いつかの言葉通り、君は本当に天下で最も扱き使われる臣になったわけだ」

 司馬懿は袁遺の謀み通りに宮中及び宮門の警備員の管理と監視、また、宮中内での罪人の移送を担当する左都候に就任した。

「はは」

 袁遺の言葉に対して、仲達は上品に笑っただけであった。

「うん。では、君の姉上の報告を聞かせてくれ」

「はい」

 張既に出仕を求めた日、袁遺は仲達に、ある人物との会談の場を設けるよう、命じた。

 その人物とは、仲達の実の姉である司馬朗、字は伯達であった。

 長安県令として洛陽を離れなければならない袁遺には、都の実情を探る人物が必要であった。

 それで白羽の矢が立ったのが司馬朗であった。

 袁遺が彼女を選んだ理由はふたつ。

 ひとつは、単純に能力と人格であった。

 弟の司馬懿を通じて、司馬朗とも面識があり、彼女の才覚に袁遺は高い評価を置いていた。人格面については才覚より一段上の評価であった。情を持ちながら流されることもなく、厳格さを持っているが人心を顧みないことをしない。彼女なら、冷静な判断と果断な行動をするだろう、と確信していた。

 そして、もうひとつは仲達自身が司馬朗を使う有用性に気付き、また、袁遺の性格を考えたとき、必ず、姉の司馬朗の協力を得るのに弟の司馬懿が全力を尽くすことだった。仕えにくい主である袁遺に対して、この手のことに私情を挟むことは、彼の信頼を損ねることになる。

 あの心優しい姉を陰謀に巻き込むのは、彼女を尊敬する弟としては気が咎めることであった。

 しかし、仲達の思考は相対的であり、政治的要求の前に善悪は存在しない、そのことを知っている。

 仲達は主の望み通りに、姉との会談の場を整え、司馬朗の説得にも力を貸した。

 司馬朗は袁遺の頼みを受けた。

 ただし、彼女も強かであり、条件を出してきた。

 もし、洛陽が危険な状態になるなら、妹たちを故郷に返す手伝いをする。それが不可能な場合、袁遺の任地である長安で保護する。

 そして、自分は漢朝のために働くが、袁遺自身が簒奪を企むなら断る。

 このふたつであった。

 袁遺はその両方を快諾した。

 前者については、望まれれば手伝っていただろうし、後者については、将来、帝位を簒奪したなどと罵倒を受けるのは御免だった。

 こうして、司馬朗は袁遺と仲達が不在の洛陽で諜報活動を行っていた。

 彼女が集め、整理した情報は、袁遺が袁隗と賈駆に会っている間に仲達へと渡った。そして、司馬朗は郷里へと帰って行った。ただし、妹たちは故郷の温県ではなく、長安へと向かった。

 これは温県が予定戦場に近いため、妹たちが戦火に巻き込まれぬようにするためである。そして、司馬朗は郷里の一族も長安へ向かうように説得しに帰郷した。

 袁遺は約束を守り、それについて董卓と賈駆に帰郷の許可は取りつけた。さらに高覧に故郷である温県まで送らせると言ったが、司馬朗はそれを断った。弟の親友であり主には兵力が必要であろうという心遣いであった。

「たとえ後宮の情報であっても、いくらかの賄賂を渡せば、手に入るとは……青銅政治、ここに極まるだな」

 袁遺は無表情であったが、声には幾分かの侮蔑が含まれていた。

 かつて乱世にならぬために十常侍まで肯定してみせた男は、それが乱世の歯止めとならぬと見るや否や手のひらを返した。

 機会主義かつプラグマティズムの徒である袁遺らしいと言えたし、実際に会ったことあるなしに関わらず、政治に関わる者は互いの利益が第一なのだ。メロドラマのセリフや悲恋物の歌の歌詞にありそうな、裏切るくらいなら―――、なんて莫迦な言葉は政治の世界では吐くことは許されない。

「仕方ありません。強力な権力を手にできる宦官は極一部。下級宦官は上級宦官の不満のはけ口として、いじめられることは少なくないと言われております。それに高齢の下級宦官は使えないと判断された場合、追い出され、乞食に身をやつすのが、常です。そんな者にとって金は何に代えても欲しいものでしょう」

 言葉とは裏腹に、司馬懿からは同情の念は感じられなかった。

「まあいい。時間がないため三日以内にけりをつけるぞ」

 袁遺の宣言により、仲達は動き出した。

 袁遺と仲達の企みは、仲達を宮殿警備の管理と監視を担当する職に就けることによって、十常侍への刺客(袁遺自身が担当することになっている)を宮中へと送り込みことだった。

 また、十常侍が余計な警戒をせぬように、わざわざ彼の父親を参内させた後に仲達を都候に就けた。

 世間からすればこの人事は司馬防に対して、息子を人質に取ったように見えるだろう。十常侍もその例外ではなかった。

 仲達はまず、十常侍の封諝に接触した。

 そして、黄巾党内通の証拠があることを教え、取引を持ちかける。

 司馬懿は、かの戯曲の悪魔の―――誰がどう見ても笑っているように見えるが、誰がどう見ても笑っていないように見える―――笑みを浮かべながら言う。

「このままでは貴様は、張譲に見捨てられ、捨て駒として切り捨てられる。我々としては、張譲を排除し、董卓より袁家が有利になれるよう協力すれば、貴様を宦官の筆頭にしてもいい」

 封諝は誘惑に負けた。

 司馬懿の言う通り、張譲は必ず封諝を捨て駒にし、身の安全を図る。それに宦官は先に述べた通り過酷な環境にあるため、出世欲というものが人の何倍も旺盛である。彼は司馬懿の甘言を受け入れた。

 封諝の役目は、十常侍の生き残りの張譲、段珪を誘き出すことだった。

 彼は、司馬懿が内通の証拠を確保していることを餌に、その対応を協議したいとふたりを誘い出した。

 張譲と段珪は誘いに乗った。

 夜半、彼らが呼び出された部屋へ行くと小さな明かりがともされているだけで、封諝の姿は見えなかった。

 不振に思いながらも、彼らは部屋へと足を踏み入れた。

 すると突如、入口の扉が閉まった。

 宦官ふたりは慌てて、扉の方を振り返ると、明かりが消えた。

 暗闇の中、蜀台の傍に立っている影が見えた。その人物が明かりを消したのだった。

 目を凝らし、その人物を確かめようとしたとき、影は踊り、姿を消した。そして、首に熱いものが走るのを感じ、宦官・張譲は、その生を終えた。

 扉を閉めたのは、司馬懿であった。隣には封諝がいた。

 部屋の中から物音がしたかと思えば、急に静かになり、その後、すぐに扉を一定の間隔で叩く音がした。

 それは、予め決められていた合図であった。

 司馬懿は扉を開けた。

 出て来たのは返り血を浴びた袁遺であった。

 廊下の光で、部屋の中の情景が浮かび上がった。

 そこで、封諝が見たものは、奇妙な姿勢のふたつの死体であった。

 それは張譲と段珪のもので間違いなかったが、そのふたつの死体は首が落とされており、落とされた首を抱えるように蹲っている。

 まるで、彼らふたりが自ら望んで、首を刎ねられたような格好だ。

「お怪我はございませんか、伯業様?」

 司馬懿が自分の主に問いかけた。

「大丈夫だ。それより、こいつを頼む。佩剣して宮殿内に入ったなどと、ばれたら、あとで問題になるからな」

 そう言って、司馬懿に自分の得物である日本刀によく似た形状の刀を渡す。宮殿の警備に関する役職の仲達ならば、武器を持っていても、そこまで怪しまれることはなかった。

 袁遺の表情は、たった今、人を殺してきた人間にしては普段通り過ぎた。

 そんな相変わらずの無表情で封諝に袁遺は向き合い、言った。

「封諝殿、協力感謝します。あなたの協力がなければ、あのふたりを葬り去ることができなかったでしょう。この御恩死んでも忘れません」

 袁遺の次の行動は、素早かった。また、今しがた武器を司馬懿に渡したことに封諝は油断していた。

 袁遺は封諝との距離を一気に詰めると、左手で彼の口を塞いだ。同時に、懐から出していた短刀で封諝の腹を刺し、そのまま刃を左右に捩じる。

 封諝は目を見開き、苦悶の表情を浮かべる。

 だが、袁遺の左手によって、声を出すことができない。

 封諝の両手が短刀を突き立てる袁遺の右腕を強く握るが、刃はそれでも宦官の内臓を攪拌するのをやめない。

 やがて、彼の体は糸の切れた操り人形のように倒れた。だが、右腕を掴んでいた封諝の両手はそのままであった。袁遺は左手を口から離すと硬直する前に封諝の指を一本一本広げていく。そして、袁遺は封諝の絶命を確認した。

 袁遺は、死体に向かってもう一度言う。

「あなたが死んでも忘れません」

 その表情は、あまりにも冷たかった。

 袁遺には、約束を反故にした罪の意識など全くなかった。自ら男のソレを切り落とし、権力闘争に身を投じたのだから、こうなる結末は覚悟しておくべきことなのだ。それに十常侍が他人を欺き、殺めて上ってきたのだ。そして、袁遺に同じように欺かれ、殺された。自分たちの番が来ただけだ、それだけのことなのだ。そして、いつか袁遺の番が来る。本当にそれだけのことなのであった。

 こうして、霊帝時代に専横を極めた十常侍は全て死んだ。

 翌日、三人の宦官の黄巾党との内通が発表され、首が晒された。

 

 

「……本当に宮中で直接始末するなんてね」

 そう言った賈駆の声には、呆れ、畏怖、侮蔑、様々な感情が含まれていた。

 宦官誅殺の事後処理に袁遺は司馬懿を連れ、賈駆と面会していた。

「内通の罪を問うても、封諝を切り捨てるだけで残りふたりは生き残りますので、まあ、こうするしかありませんでした」

 後ろめたいことなど何もない様に袁遺は言った。

「それより、まずは董司空と袁司徒に録尚書事を兼任させましょう。それと宦官が重要な地位に就けないよう、法の改正もしなければいけません。でなければ、また、宦官に政治的な主導権を握られます」

 十常侍が専権を振るっていたのは、中常侍と呼ばれる役職が宦官の専任の官職であったからだ。

 皇帝の傍に侍り、様々な取次が可能なこの役職を独占できることは大きな権力を宦官たちに与えることになった。

 袁遺は、その特権を取り上げる必要があると主張した。

 董卓と袁隗を録尚書事に就けるのもその一環であった。録尚書事は、上奏事を掌り綱紀を統括する尚書を束ねる役職である。漢では三公は録尚書事(正式には参録尚書事)を兼ねるのが通常であったが、宦官が中常侍を選任されてから、尚書の仕事である上奏や帝への取り次ぎの業務を独占した。結果、三公は地位だけが高い何の権限もない有名無実の位になってしまったのだ。

 その権限を宦官から取り戻す必要があった。

「分かっているわよ」

 賈駆が怒鳴るように答えた。

 これでやっと滞っていた中央の行政がまともに機能し始める。

「ああ、それと、あの三人のため込んだ財産の没収ですが、私の手勢で引き受けましょうか? 司空殿が都で金持ちの家を襲い、財を没収している、などといった噂を立てられると心外でしょう?」

「……監視をひとり付けるわよ」

 賈駆は袁遺のことを全く信用していなかった。

 むしろ、十常侍の生き残りをあっさり処理して見せた手腕に、さらに警戒を強めていた。

 また、黄巾党との内通の証拠を持ちながら、何も行動を起こしていなかったこともそれを加速させる要因となっている。

 ただ、袁遺からすれば、自分はそれを上奏できる地位になく、叔父に頼っても上奏事を全て取り仕切っている十常侍に握りつぶされ、何らかの報復が予想出来ていたため、仕方がなしに眠らせていただけであった。

「もとより自分の懐に入れるつもりなど一切ありませんが、その方がいいでしょう。隆盛を極めた十常侍の財です。監視のひとりやふたり付けねば、疑いたくなるほど貯め込んでおりましょうから」

 袁遺の言葉通り、接収された財は莫大なものであった。それは反董卓連合との戦費に回されることになる。

「それで、賈駆殿。私に兵権を預けるか、否か。どのような決断を下されましたか?」

 袁遺は先延ばしされていた問題に手を付ける。

「……あんたじゃなくて、他の……例えば、呂布や張遼を主将にして、あんたが軍師や副将をするってことじゃダメなの?」

 賈駆がどこか縋る声で言う。

 彼女自身、それで袁遺が受けるわけがないと思っていた。それに袁家内の争いという形にするためには袁遺を主将に据えるのが適当だとも理解できる。それでも、袁家の一族に軍権を持たせるのは躊躇せざるえなかった。

「でしたら、あなたが主将で、私が副将。その形ならどうでしょう?」

 それを聞いた司馬懿は、表情を変えずに心の中で、この主はエグいことをする、と思った。

 袁遺も司馬懿も賈駆がその条件を受けないことは分かっている。彼女は親友であり、主人である董卓の元を離れないだろう。子飼の部下は全て前線に投入される中で董卓を洛陽にひとり置いてはいけない。袁遺が信用できないように袁隗も信用できないのだ。今は協力しているにしても、いつ、彼が態度を豹変させるか、分かったものではない。

 袁遺は、まるで譲歩した風に提案したが、実際は賈駆を袋小路に追い込んでいるに過ぎない。

 相手が悪い。仲達は賈駆に同情した。

 袁遺の実際的な人物としての面を最も知る仲達は、この仕えにくい主が必要ならいくらでも冷酷になれることを知っていた。

「張既は、張既はどうしているのよ!?」

 賈駆が尋ねた。今の彼女は助かるためならそれこそ藁をも掴むであろう。袁遺陣営で唯一好意的な印象を持っている人物の名を上げた。彼が何かをしてくれるわけではない。それでも何かに救いを求めたかった。

「張既は現在、馬涼州牧殿と交渉しております。袁紹の企みに乗らないようお願いしているところです」

「準備がいいじゃない」

 賈駆は言った。声には明確な侮蔑の色が含まれている。

 それを聞き、仲達は、まだ嫌味を言う元気があるのか、と思った。

「大将だけれど、朱儁ならどう?」

 賈駆の声は荒げてはいないが余裕をあまり感じられない声だった。

「朱光禄大夫殿、ですか。彼の下なら喜んでつきます」

 その言葉に賈駆の表情が明るくなるが、次の言葉にそれは一変する。

「では、董司空に頼み、帝の勅を戴いてください」

「あんた、知ってたのね!」

 袁遺が十常侍の生き残りを始末している間、賈駆は双方の落とし所となる人物を探した。そして、それにふさわしいと思った朱儁にすでに打診していた。

 だが、朱儁は断った。伯業の力量を考えると彼こそが主将にふさわしい、と逆に彼を推薦した。そして、どうしても自分を主将に据えたかったら、帝の勅命を以って据えろ、と言った。

 それは、できないことだった。今現在、洛陽は二頭政治であり、その片方は袁遺を主将に据えようとしている袁隗である。彼が必ず妨害するだろうことが見えている。ここで揉めて反董卓連合の迎撃に間に合わないなどという最悪の事態に陥る可能性がある。彼ら袁家は、洛陽が落とされても命は助かるかもしれない。だが、董卓は確実に殺される。それだけは賈駆にとって許容できるものではなかった。

 賈駆は殺意を込めて袁遺を睨む。

 いっそ、この男を殺してしまおうか。何度もそう思った。だが、それはできない。この男が長安に残してきた部下が主の仇と牙をむくからだった。そうなれば、両面から洛陽は挟まれる。どうしようもない袋小路だ。

「はい、知っていました」

 袁遺の態度は全く悪びれたところがなかった。

 賈駆は追い詰められた様な表情を一瞬したが、それをすぐに消し言った。

「……張遼に監軍使者を兼任させるわよ」

「畏まりました」

「どのくらいの官位が必要?」

 賈駆は冷静であった。一度、決めれば時間がないことは分かっている。勝つための算段を付けるのに手を抜くという考えは一切なかった。

「後将軍でお願いします。黄巾の乱のおり、叔父上が就いていた官職でしたので、縁起を担ぎます。黄巾の乱は勝ちましたし」

「呂布、張遼、華雄、陳宮を部下につけるけど、上手くやりなさいよ。華雄は猪武者なところがあるから気を付けなさい」

「はい、ご忠告ありがとうございます」

「月……董卓と袁隗のふたりから上奏し、後将軍に就ける。こうなったら、死んでも勝ちなさいよね」

「はい」

 その言葉を聞くと賈駆は上奏の準備に向かった。

 袁遺も一度、長安に戻り、雛里たちと合流する必要があったため、その準備をしなければいけなかった。

 洛陽を発つ前、司馬懿が袁遺に尋ねた。

「董卓殿を巻き込むように交渉すれば良かったのではないのですか? 司空殿をこの手の面倒ごとに巻き込みたくないであろう彼女はもっと早く折れていたと思いますが」

「それは流石に彼女に恨まれ過ぎる。人間誰しも触れてはいけない物がある」

 そこまで言うと袁遺は自虐的な笑みを浮かべながら続けた。

「それにしても、ここまで信用がないとはな。これから先のことを考えると思いやられるな」

 袁遺の言葉に仲達は同意した。

 この主従ふたりは反董卓連合との戦いで全てが終わるとは考えていなかった。

 集まった諸侯を撃退した後、分断して叩く。この戦いは、その長い戦いの一歩目に過ぎない。

 

 

7 その日4

 

 

 長安に戻った袁遺は、まず県令代行の雛里から報告を受けた。

「……長安の住人は戦争の気配を感じておりますが、治安に乱れはありません」

「物価、特に食料と生活必需品の値上げはどうだ?」

「行頭さんたちには人心を煽る様な値上げはしないようにお話はしました。今のところ値上げはありませんが……」

 雛里が言い淀んだ。戦争が長引けば、どうなるかは分からないからだ。

「わかった。洛陽に行く前に私からも言っておこう。それで兵の方はどうなっている?」

「は、はい。一万が実戦に投入可能です。それと訓練を終えていない兵が三〇〇〇います」

 一万。訓練が完了し、なおかつ長安の生産能力が平時より少し劣る程度にすむ数字だった。もちろん、長安の人口を考えたとき、無理をすれば三万まで兵員を動員することが可能であったが、それだけの働き盛りの男手を引きぬく反動を想像すると行わずに済んだのが幸いであった。

「広大な長安を守るには、例え一三〇〇〇あっても足りない。中途半端に残すより一万全てを連れていく。訓練を終えていない三〇〇〇でも治安維持には使えるはずだ」

 非情とも言える決断であったが、ときに戦術は如何なる非情をも肯定する、であった。

 そして、袁遺は黙り込んで考える。

 雛里はそんな主を伺う様に見つめる。

「……雛里」

 袁遺は彼女を真っ直ぐ見つめると口を開いた。

「反董卓連合に劉備が参加する可能性がある」

 感情が抑えられた声で袁遺は言った。

「それはつまり、諸葛亮と君が戦うことになるかもしれない、ということだ」

「そ、それは!」

 雛里は声を上げた。普段の彼女からすれば考えられない大きさであった。

「雛里。君が望むなら、反董卓連合との戦いに参加しなくても構わない。長安で県令代行を続けてくれ」

「わ、わたしは……」

 雛里の声にあったのは失望と怒りと悲しみ。彼女は自分の主から、そんな言葉を聞きたくなかった。それはある意味信頼されていないと同義であったからだ。

 冷たい表情で袁遺は雛里に言う。

「もし、君が戦に参加するなら、諸葛亮と戦う覚悟ではなく、彼女を殺す覚悟と彼女に殺される覚悟を持ってもらう必要がある」

 君にはそれがあるのか? 袁遺の小石の様に無機質で小さな瞳が無言の内に問いただしていた。

 雛里には、その問いに対する答えがなかった。

 彼女は親友である諸葛亮―――朱里と別れたとき、彼女と戦うことを覚悟していた。だが、そこまでだった。彼女に殺されることも彼女を殺すことも考えたことがなかった。いや、無意識の内に考えないようにしていたのかもしれない。

 雛里は目を閉じ、思い出す。袁伯業、彼に助けられた日を。彼に付き従おうと決心した日を。

 殺す殺されの覚悟は分からない。それでも、この人に最後まで付いて行こう。その決心だけは揺るいだことがない。

「伯業様。わたしは、あなたの軍師です。最後まであなたに付いて行きます」

 雛里は生涯変わらない決意を口にした。

 

 

 張既を新たな県令代行とした。彼の落ち着き、鷹揚とした気質は、戦の緊張を和らげるはずであると考えからだ。それに涼州との交渉には彼の手腕と人脈が必要であった。何夔を彼の内政面の補佐として付け、残っていた実戦部隊の隊長三人も前線へと投入する。

 一万の兵と軍師の雛里。張郃、陳蘭、雷薄の隊長三人を連れ、洛陽に戻ってきた袁遺は、すぐに後将軍へと任官された。

 本来、儒教的な作法では、一度それを断り、再度任官されたときに受けるのが通例であるが、そんな余裕はなかった。時間はいくらあっても足りなかったからだ。

 任官の後、董卓とその将とで軍議を開いた。

 董卓陣営の董卓、賈駆、華雄、張遼、呂布、陳宮。

 袁遺陣営は袁遺、鳳統、張郃、高覧、雷薄、陳蘭、司馬懿。

 計十三人の参加であった。

 袁遺は董卓陣営の面々に目を走らせる。

 董卓からは不安と緊張が読み取れた。だが、こちらに対する敵意はない。彼女は本当に根っからの善人なのだろう。

 賈駆は警戒こそ緩めていないにしろ、敵意は以前より少なかった。袁遺の策に乗ったのだから、それを成功させるために自身の全能力を注ぎ込もうとしている。その割り切りは称賛に値した。

 華雄は董卓陣営で一番の敵意を袁遺に向けていた。殺意と言ってもいい。これを御せ、というのは中々苦労しそうであった。

 張遼も賈駆と同じ様に警戒はしているが敵意はあまり感じない。ただ、賈駆とは違い彼女からは余裕も感じられる。それが演技にしても、そうじゃないにしても、その胆力は大したものだった。

 呂布からは何も読み取れなかった。もしかして、ただボーっとしているだけなのか。袁遺は判断に困った。

 陳宮は華雄に近い反応であった。だが、敵意は殺気まで昇華されておらず、華雄に比べればマシだった。

 つまり、誰も好意的な反応を示していなかった。

 なのに、やるべきことは多く。時間は少ない。そのうえ、袁隗と董卓、その関係を悪化させないように手段を択ばなければいけなかった。

「軍議を開くわよ」

 賈駆が口を開いた。そして、董卓陣営の将に向かい言った。

「予め言ってあったように袁遺を大将として、諸侯を迎え撃つわ」

 その言葉に華雄の殺気がより一層膨れ上がった。

「袁家の者を総大将として仰ぐことなどできん! 都の袁一族を誅し、その首を掲げて兵を鼓舞し、連合に我らが威を示すのだ!」

 華雄は袁遺を睨みつけながら、叫んだ。

 自分の首が胴と離れる危機にあるというのに袁遺は、いつもの無表情であった。

 ここで殺されるなら所詮自分も謀った十常侍と同じ程度のそれまでの男であっただけで自分の元に来た部下たちの鑑定眼もその程度と覚悟は決めていた。

「華雄さん」

 だが、どうやら首と胴はまだ別れなくてもいいらしい。

 大きな声ではないが、それでもある種の力を持った声だった。

 その声を発したのは董卓であった。

 悲しみが宿った瞳で真っ直ぐ華雄のことを見据える。

 亡国の二文字が点滅しつつある帝国の中枢に座る人間としては欠点ととられかねないほど善人で心優しい董卓は一族を誅滅するなどといった行為を忌憚していた。

 そして、董卓を敬愛し、忠誠を誓っている華雄としては主にそんな顔をさせたくなかった。

 華雄は納得はしていないが、怒気を引っ込めた。

「袁遺さん、華雄さんが申し訳ありません」

 董卓が袁遺に頭を下げた。

「頭をお上げください、董司空。袁紹・袁術と私は従兄。将軍たちに御疑いあるのは無理なきこと」

「ですが……」

「今は軍議を進めましょう」

 袁遺は促した。今は時間がいくらあっても足りないのだ。それにこのまま、うやむやに進めてしまうのも悪くない。

「そうそう、ウチも袁家の者が総大将を務めるちゅうのに思うところがないわけやないけど、今は時間がないし、いきなり殺すちゅうのもな」

 そう言ったのは張遼であった。

 袁遺に対して気を許していないが、軍議を進めることを促す言葉であった。

「ふん、何が軍議だ。どうせ虎牢関に籠るだけだろう。何も話し合うことなどないではないか」

 そう言って華雄が悪態をついたが、袁遺は彼女の言葉を否定した。

「いえ、虎牢関には籠りません。我々は司隷東部を戦域に設定して、そこで戦います」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!!」

 袁遺の言葉に賈駆が大声を上げた。

「野戦を挑むつもり!? あんた、連合とこちらの兵力差がどれくらいあるのか忘れたの!? 二〇万と四万よ! 負けるに決まっているじゃない!」

「詠の言う通りなのです! いくら呂布殿が天下無双とは言え、その兵力差をひっくり返すのは無理なのです!」

 董卓側の軍師たちが一斉に反論したが、袁遺は無表情な顔で返した。

「野戦で負ける、ではなく、決戦で負ける、です」

「はぁ!?」

 袁遺は、無感動な口調で話し始めた。

「野に出て戦いますが、決戦を挑むつもりはありません」

 決戦とは兵力を限られた戦場に集結させて殴り合う型の戦いである。

「戦域を決めて、そこで運動戦を行います」

 対して、運動戦(機動戦)は決められた戦域で戦うことである。

 決戦が点で勝負を決めるのであれば、運動戦は面で勝負を決めるのである。

 もちろん、運動戦でも、いや、運動戦であればこそ、いくつもの戦闘が発生するが、それらは皆、遭遇戦の形態を取らせるので決定的な意味を持たない戦闘になる。

「そうですね……賈駆殿。二〇万を超える軍勢を行軍させることを考えてください。まさか、二〇万全てに縦列隊形を組ませて行進させますか?」

「するわけないじゃない。偵察部隊を先発させるし、だいたい二万くらいの部隊に分けて進ませるわよ」

 賈駆は答えた。

 もし二〇万の兵士を全て縦列隊形で進めた場合、全てが歩兵で縦列を四つ作ると仮定するとその長さは一二〇キロメートルになる。しかもこれは荷馬車や騎馬兵が存在していないと仮定しているため、実際にはもっと長い長さとなる。

 はっきり言えば、そんな状態でまともな行軍などできない。もし仮にこの計算通りに兵を進ませた場合、最後尾の兵は先頭の兵が出発してから、だいたい四日後に出発することになる。

「そうでしょう。つまり、敵の二〇万を絶対に集結させずに、二万を叩き続けるのです。まあ、二万と言いますが、それだけ集められる諸侯は限られていますので、実際はもう少し少ない数を相手にすると思います」

「……勝てるんですか?」

 董卓が尋ねた。その声には勝利の希望を見出したのか、今までにはなかった微かな明るさがあった。

「勝てません」

 だが、袁遺は斬り捨てた。

「こちらも損害が出ますから勝てませんが、半年から一年の時間を稼ぐことができます。それだけの時間があれば、連合は解散するはずです。二〇万もの兵を養う食料は、そうそう用意できませんから」

「なあ、別に野に出て戦わなくても、それこそ虎牢関に籠って戦っても、時間は稼げるやろう」

 張遼が尋ねた。

「その通りですが、洛陽を攻めるには何も虎牢関だけが道でありません。南には隘路であるが、轘轅関、大谷関(太谷関とも)、伊闕関の三つのうちどれかを通って伊水を渡り洛陽に攻め寄せるという方法もあります」

 袁遺の挙げたルート以外にも、武関から函谷関を通り長安方面から攻めるという手もある。これが董卓陣営、特に賈駆が袁遺を簡単に排除できない理由になっている。

 彼を殺した場合、長安に残る張既が主人の敵討ちと敵対し、連合を引き入れる可能性があるからだ。

「ですが、我々には二方向、三方向から敵を防ぎ続ける兵力がありません。それなら、我々は運動力を常に有している方がいいのです」

「理屈はわかったけど、そう上手くいくんか? 連合が南に別働隊を派遣するちゅう可能性もないわけやないやろ?」

「可能性はありますが、低いと思います」

 袁遺は断定した。

「実は酸棗に集結しつつある連合に使者を送り、私が総大将として虎牢関に入ることを伝え、董司空は暴政など行っておらず、袁紹のすることは天下を乱すだけの無益な行いだと記した書簡を諸侯に届けているはずです。となると、董卓の暴政から洛陽と帝を救うという大義面分は曖昧になるはずです」

「曖昧になったところでどうなるというんだ?」

 華雄が不満そうな声を上げる。だが、今までと違いヒステリックに大声で叫び、軍議の進行を邪魔するものではなかった。

「曖昧になることによって、漢室を助ける忠義の士という風聞から袁家の帝を巻き込んだ権力争いに協力した邪智奸佞の輩という風聞に変わる。まあ、得られるべき名誉が無くなり、得られるものが実だけになります」

 得られる実、つまりそれは―――

「洛陽と皇帝陛下、このふたつが残された実です。袁紹や袁術、いや、群雄の誰もが、連合の内ただひとりがそれを手にすることを是としないでしょう。となれば、連合の誰もが、抜け駆けとなる別働隊を私の代わりに足止めしてくれます」

 所詮、連合とは利で結びついただけの集団であり、その利が限定的であるほど瓦解の速度は自然に早くなる。

「うん? 虎牢関に籠らんのに虎牢関に入った、て書いたんか?」

「ええ、書簡にはちょっとした仕掛けがしてありまして、その方が都合がいいんですよ。まあ、行軍の中継地点として虎牢関には行きますから、まんざら嘘ではありません」

 袁遺は意味深な言葉で張遼の質問に答えた。

 その後、軍議はときたま、華雄が不満の声を上げることはあったが、滞りなく進んだ。

 袁遺の部下である高覧が、三〇〇〇を率いて洛陽南方の守備に就く、ということになった。

 もちろん、三〇〇〇程度で出来ることは限られており、万が一、敵が来た場合、それを洛陽と本隊に知らせることと遅滞戦闘が任務となる。そして、戦闘となった場合、生きて帰れない捨て駒だった。

 命じた袁遺も命じられた高覧もそれは理解していた。

 高覧はそれについて特に否はなかった。本隊にいても危険なのは変わりないのである。

 董卓と賈駆は洛陽に残る。後は全員、野戦へと向かった。

 

 

 出撃する前に袁遺は袁隗に声をかけた。

「お願いがあります、袁司徒」

「お願い? まだ、わしから毟ろうというのか?」

 袁隗は軽口を叩いたが、袁遺の発する雰囲気が異常なものであったことに気付き、すぐ態度を改めた。

「もし、私が負けた場合、全てを私に押し付けけてください。私ひとりに。董卓を裏で操り、皇帝と民を蔑ろにする暴政を敷き、大恩ある叔父上をも騙す。私の名が夏桀殷紂と並ぶようにしてください」

 負けたとき、袁遺は死んでいるだろうから、生きている者にまで汚名を着せる必要はない。自分が全て引っ被って、あの世に持っていくことにする。

 中々の悲壮な覚悟だったが、袁隗は甥の腹の内を全て読めていた。

「負けると考えていない奴が、負けたときのことを口にするか?」

「負けたときにどうするか。それを考えるのが叔父上の仕事だからです。こんなこと進言せずとも、叔父上なら俺が負けた場合、全てを俺に押し付けるはずでしょう?」

 それが政治だからだ。

 政治に善悪は存在せず、ただ正誤のみが存在する。それは連合軍側だけでなく、袁遺たちもそうである。

「だが、叔父上には世話になりました。罪悪感を幾分か取り除いておくくらいの恩返しをしてもいいでしょう。それに叔父上の言う通り負けることは考えていません」

 それが将軍というものだった。

 戦うなら勝つ。それはつまり、負けるなら戦わない、ということになり無駄な戦いを抑えることになる。

 甥の悲壮な覚悟に叔父は軽口で返した。

「わかった。だが、夏桀殷紂と並べるのは、あまりにも酷すぎるので、王莽くらいにしておいてやる」

 袁遺はそれに腹を捩ると、礼を言う。

「うん、それは有り難い。では、行きます」

「武運を」

 袁遺が司徒府を出て、自分の部隊へと向かう道中で仲達と出会った。

「どうしたんだ、仲達?」

 袁遺が尋ねた。

「今、左都侯の職を辞任して来ました」

 仲達は答えた。

 彼は後将軍の参軍として袁遺と共に戦場に行く予定であった。

「目まぐるしく官職が変わって、それをやらせている俺が言うのもなんだが、本当に扱き使われているな」

「そうですね。ですが、長安令から、いきなり後将軍になられたあなたも同様ですよ」

「……おかしな人事を行わなければならず、それがまかり通る。まるで乱世だな……いや、違うか。正真正銘の乱世だ」

 袁遺は吐き捨てるように言った。

「あなたなら、ついにこの日が来た、などとは決して思わないのでしょうね」

 そんな袁遺に仲達が世間話でもするように話しかけた。

 仲達は自分の主の心情を慮った。腹の内を部下に読み取られるのを嫌う男であるが、戦場に行けば、気分が悪くなることしか起きないのだ。ならば、そこへ行く前に幾分か気分が良くなってもらっておいた方がいい。だから、その腹にため込んだものを吐き出させようとしたのだった。

「仲達……」

 袁遺は苦い笑みを浮かべた。

 だが、すぐにそれを消し、友の好意に甘えることにした。

「そうだ。俺は、この日が来たなどと莫迦なことは決して思っていない」

 何度か口にした決意。無論、目の前の友に対しても言ったことがある言葉。

 自分は死ぬまで漢朝の臣でありたい。乱世の群雄になるつもりはない。立った群雄を全て潰す。漢王朝を滅ぼしてたまるか。

 だが、漢朝を救う日を、群雄を潰して回る日を待ちわびたことなど一度もない。

「ついに、この日が来たなどと言うやつは、はっきり言って特大の莫迦だ。そして、そんな莫迦に限って、現実と欲望を直結させたがる。これを飛躍の機会としてのみ捉えてやがる。この連合と俺たちの戦いで起きるあらゆる事象に意図的にか無意識にか目を背け、そのたった一面だけを見ようとする」

「天命という言葉もありますから」

 仲達の言葉遣いは部下としてのそれであったが、発する雰囲気は友としてのそれであった。

 天命とは、天からの命令で、天から人に与えられた使命。宿命などの意味がある。そして、それは儒教において基本的な概念でもあった。

「仲達。この面において俺は君に取り繕うことは一切しない。だから、言う。俺にとって天命とは、足掻いて足掻いて足掻きぬいて、それでもどうにもならない絶対的な事実のことだ。決して、自分の何かを肯定するためのものとは思っていない」

「あなたらしい答えだ」

 仲達は穏やかに、そして心底嬉しそうに微笑む。

 うん、そうかと袁遺は言った。そうですと仲達は答えた。

 ふたりの間にかつての黄巾党との戦に出向く前の様に友としての雰囲気が束の間戻った。

 だが、今回は仲達も戦場に行く。それはそれだけ彼らがギリギリの状況にあることを示していた。

 袁伯業という男の冷徹な部分は、袁紹の策謀を肯定的に捉えていた。

 大多数に利益が分配される場合、ときに悪行、悪徳は肯定される。権力の本質である。

 だが、邪魔者を消し、権力を自身が握るか好ましい相手に握らせる。それは他人に自分も同じ手段を取ってもいいのだと思わせることでもある。手法の是非を棚上げし、権力を握ることに重点を置くのは、まさに大乱乱世に他ならない。

 そして、それは袁遺にも言えることだった。

 彼もまた、十常侍の生き残りを内通の名分があったが、強引な手法で排除したのも事実である。

 それは袁紹と本質的に変わりない。

 だが、袁遺と袁紹、袁術に違いがあるとすれば、あのふたりはそれに賤しい気持ちを何ら持っていないことだった。彼女たちの欲に際限などというものはなく、さらに厄介なことにそれは叶えられて当然だと信じている。

 だから、あのふたりは、いつか自分自身にその手法が降りかかるなどということは考えてもいなかった。

 逆にそれを理解している袁遺にとって、自身に因果が巡ってくるは覚悟のことだった。もちろん、だからと言って何をしても許されるわけではない。結局、そのときが来たときにどのような態度を示すか、その程度の違いであった。

 

 

 袁遺にとって、足掻いて足掻いて足掻きぬいて、それでもどうにもならず、その因果の報いを渋々と受け入れる。その日こそ、ついにこの日が来た、と言える瞬間であった。

 

 




補足

・その長さは一二〇キロメートルになる
 行進長径という言葉がある。
 これは徒歩で行軍する軍勢に必要な隊列の長さのことであり、以下の式を以ってそれを出す。
 兵と兵の間の距離×(人員数÷縦隊の数)+部隊同士の間隔
 実際に計算してみると、
 まず、兵と兵の距離だが、槍などの長物を持つことを考えて、余裕を持って、二メートルとする。
 人員数は二〇万。縦隊は四列。
 部隊同士の間隔は、この時代の中隊にあたる卒(一二五人)でまとまって歩いていると仮定して、中隊間は約五〇メートル空けるのが後代で経験則から導き出された距離である。
 これらを式に当てはめると
 2×(200000÷4)+(50000÷125×50)=120000メートル=120キロメートル
 となる。
 全て歩兵換算であり、騎馬兵、荷駄などは含まれていない。

・殷紂
 殷の紂王のこと。帝辛。
 彼の名前が出て来たのは二度目だが、前回、補足し忘れたのでここで書きます。
 彼についてではなく、殷について。
 殷は周がつけた名前で、商の国名で呼ぶ方が適切だが、この二次創作では殷で統一します。
 また、前漢、後漢も西漢、東漢と呼ぶ方が中国的には正しいのですが、同じくここでは前漢、後漢で統一します。それに加えて万が一に五代十国時代の後漢の話なったときは後漢(五代十国)とします。

・それは儒教において基本的な概念でもあった
 不知命、無以為君子也。不知礼、無以立也。不知言、無以知人也。
 天命を自覚せぬようでは君子ではない。礼を弁えねば、世に立つことは出来ない。是非の判断ができなければ人物の識別ができない。

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