ネタバレ注意

映画・小説『天気の子』で唯一にして最高の遺物だった"銃"が、もしも須賀圭介と関係があったらどうだろうと思い書きました。
時間軸、感情軸、設定等に沿うように書きましたが、何かありましたら教えて頂けると助かります。

pixivでも公開しています。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=11435987

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深淵の記憶

 須賀圭介は項垂れる。あーあ、やっちまった。気軽に名刺なんて渡すんじゃなかったか。引き返して、やっぱり返してくれとでも言おうか、いやいやそんな格好悪いことできるかよ。

 東京を覆う雲は今日も重く、須賀の気分をどんよりとさせる。開いた傘には雨粒が叩きつけ、時折ボツボツと大きな音を立てた。須賀はスマホを取り出し姪である夏美からのメッセージを確認する。送っておいた取材テープの文字おこしが終わったとの内容だった。東京まで十時間。須賀は仕事を終えて眠ってしまったかのように揺れるフェリーを振り返る。その手前でキョロキョロと忙しなく首を振る家出少年(たぶん)を見る。いつかの自分を重ねる。

 まあ、その眼に免じていざとなったら世話してやるよ、須賀はそっと呟いた。

 須賀は再び前を向き、朝と夕の境界を失った東京へ歩き出す。そこでガツンッ、と大きな何か、黒く重い何かで勢いよく後頭部を殴られた、気がした。それは過去の記憶で、ズシリと詰まった感触が掌に広がる。鉛を背負ったその鉄の重さに声を上げそうになる。須賀は口に手を当てて思い出した。

 水溜まりを蹴り、一心不乱に駆け出した。

 

 

 * * *

 

 

 明日香が死んだ。ポツリと口に出してもそれは実感のこもらぬ音でしかなく、水面を揺らす波紋にすらならない。窓の外に降りしきる雨にさらりと流されてしまうほど軽く、意味のない言葉だった。ウイスキーの入ったショットグラスがカラリと鳴った。

 深夜。須賀は大久保の路地裏でひっそりと営業しているバーで飲んでいた。カウンターに突っ伏して今にも眠りこけてしまいそうな様子だった。カウベルが音を立てて店の扉が開いたが、須賀はそちらを気にする余裕すらなかった。須賀の妻である明日香が死んで二ヶ月ほどたった。娘の萌花がものごころつく前でよかった、なんて須賀が思ったことは一度もない。萌花は今頃、山吹にある須賀の事務所兼自宅でスヤスヤと寝息を立てているはずだ。須賀がここへ通い始めてから一ヶ月が経った。

 須賀のすぐ隣のスツールに誰かが座った気配がした。そこでようやくそちらに目を向けると、この季節に――といっても雨で気温は低いのだが――似合わないニット帽を目深にかぶった中年の男がいた。

「よう、"シガ"さん」その男はにやりと笑い、歯が抜けてスカスカの腔内を見せてきた。

「シバタさんか、久しぶりだな」

 須賀は二週間ほど記憶を遡る。このシバタと名乗る男は突然須賀に話しかけてきた。須賀は男の怪しい風貌に警戒心を抱きつつも、色を失った東京に凝り固まった頭では名前を偽ることが限界だった。須賀は誰とも話したくなかったが、誰にも話したくないわけではなかった。

「どうだい、傷は癒えたかい」

 シバタはヒヒッ、と笑い既に赤くなっている頬を引き攣らせた。

「癒えるかよ…」

 シバタはバーのマスターに、この人と同じものを、と言う。須賀は改めてその男の格好を見る。作業着の様なジャンパーを着ていた。最初は警戒していた須賀もシバタのあけすけな物言いにだんだんと気を許してきていた。「大丈夫か?」なんて声をかけてくる人間は須賀の周りにはいなかった。

「雨ばっかだなあ最近」シバタが窓の外を見て言う。

 須賀もつられて外を見ると、雨音は先ほどよりもいっそう激しくなりトタンを叩く音が高く響いていた。そういえば胡瓜が値上がりしてたな、そんな事を呟く。時折晴れ間は除くも、降水量は前年比を越えているとテレビが伝える。その内雨が止まなくなるんじゃねえか、とシバタが笑い。須賀は鼻を鳴らした。

「そういえば、ここんところ見なかったな」

 須賀は不規則にカンカンと鳴るトタンに耳を澄ませながら何に気なしに聞く。グラスを傾けウイスキーを一口煽った。

「ああ、それなんだけど」シバタは何やらジャンパーのポケットに手を突っ込みガサゴソとやり始めた。「あったあった、あんたに仕事を頼みたいんだ」須賀に紙切れを見せる。

「仕事?」

「そう、荷物を運ぶだけの簡単な仕事」

 なんだよそれクロネコにでも頼めよ、と須賀は笑って財布を取り出す。三千円しか入っていない革の財布から二枚取り出しカウンターに投げる。そのまま立ち上がって店を出ようとするが、一応、と思い訊いた。「報酬は?」

 シバタはまたヒヒッ、と歯を見せ、右手を広げた。

「は? 五万!?」

 須賀は身を引く。そんな額危ない仕事に決まってんじゃねえか、と言いかけたが、シバタが慌てて口を開く。「いやいや、そんな上手い仕事があるかよ、五千だよ、五千」

「なんだよ…」

 須賀はがっくりと肩を落とした。

 

 明日香が死んでから仕事をしていない。元々小さな編集プロダクションである『(有)K&Aプランニング』は自ら動かなければ仕事もない。いつでも休業ができるといえば聞こえはいいが、須賀自身にやる気が戻らない限りは何も起きない、それが現実だった。須賀の頭にあるのは萌花のことだけだった。貯蓄は少ない、収入もない、されどやる気は起きない。そんな中の仕事だった。須賀が肩を落とした理由は拍子抜けしたからだった。なんだその程度の仕事か、と安易に引き受けてしまった。今の須賀にはモノを運べば五千円という異常さを疑う余裕はなかった。

 須賀は中野にあるコインロッカーの前にいた。小窓のように並んだ縦四つ、横六つのコインロッカーが四列並んでいた。その内の一つ、四〇二の扉にパスワードを打ち込んで開けた。これやるよ、とシバタに渡された鍔付き帽子を深く被り、背中のリュックに小さな袋を詰めた。メモには中野→東長崎という名称と簡単なルートが記されていた。シバタの助言は一つだけで、歩いて行った方がいいという事だけだった。須賀はそれに従い、一時間ほど雨の降りしきる東京を歩いた。

 水溜まりにはネオンが反射し、勢いよく走り去る車輪がそれを弾き飛ばしていく。夜の繁華街を抜け、須賀は闇を選んで歩いた。路地裏を通り、住宅街を抜け、表通りに出るとそこはすでに東長崎で、メモのルートに従いコインロッカーに小さな袋を入れた。パスワードを入力すると、素早くその場を離れて再び闇へと消える。

 次の日、萌花を寝かせてからいつものバーに行くと既にシバタは座っていて、ヒヒッ、と笑いながら樋口一葉のプリントされた金を渡してきた。隣に座りウイスキーを頼んだところでシバタは再び紙切れを渡してきた。そこには小さく松原→浜田山と書かれていた。

 

 

 * * *

 

 

 夏美は離島へと取材にいった須賀から送られてきたテープを文字に起こし、少し休憩したところで原稿の作成に取り掛かろうとしていた。夏美はパソコンのスリープを解除して椅子に座る。半地下の事務所から窓の外を見ると相も変わらず雨が降りしきっていて、肌寒さに脚を組んだ。ぴちょんぴちょんと水滴の音がしてシンクを見るが、蛇口はしっかりと閉まっていて夏美は再び外を見る。入り口のドアが開いた気がした。

「はあっ…はあっ…」須賀は息を切らして事務所に入って来る。

 夏美は慌てた須賀の様子を見て、「おかえり、どうしたの圭ちゃん」と訊いた。

 須賀は夏美の姿を視界に捉えると一度舌打ちをして、奥の部屋へと引っ込んだ。夏美はその態度にむっ、としながらも、あーら不機嫌? とからかうように言ってみる。押入れを開ける音に続いてガタガタと漁る音。どこか狼狽した様子に夏美の胸中はざわつき始める。夏美は不安が足の先まで達する前に立ち上がり、そっと声を掛ける。「圭…ちゃん?」

「ちっ、おい夏美、今日は帰れ」須賀は振り返りもしないで言う。

「え、でもまだ原稿終わってないんだけど」

「いいから、帰れ」

 そこでようやく須賀はこちらを見た。夏美は無言で鞄を引っ掴み外へ出る。雨合羽を装着すると全身を雨音が包み、雨が降っていると今一度認識させられる。原付に跨ってキーを捻る。ライトを点けると光の筋に絹のような線が斜めに走る。夏美はアクセルを回して発進させた。ボツボツと叩きつけていた雨は速度が上がると共に激しさを増し、今ではバチバチと雨合羽を突き破らん強さで責め立てて来る。

 夏美は須賀の瞳にこちらを気遣う色を見た。頼むから言う事を聞いてくれ、そう訴えて来る須賀の眼には見覚えがあった。いつか明日香といた当時の須賀、守るものができた時の須賀圭介の眼だった。

 夏美が尊敬する男の瞳だった。

 

 

 * * *

 

 

 深夜になるとバーへ行ってメモを受け取り東京の駅から駅へとモノを運ぶ、そんな生活を続けて一ヶ月が経った。

「児童相談所? あんたらが俺に何の用だよ」

 萌花を保育園に送り届け、事務所まで戻ってきた須賀を待ち構えていたのはその日の青天のようにパリッとしたスーツに身を包んだ男女二人組だった。須賀の姿を見ると少し怪訝な顔をした。須賀は自分の顎をさすって髭の剃り忘れを思い出す。

「突然すみません、須賀さんのお宅から夜な夜な子供の泣き声が聞こえるとの連絡がありまして」

 その内の男がまるで手配書でも読み上げるように淡々と言う。それで子供の相手できんのか、と茶化したくなるのを抑えて須賀はしらを切る。

「気のせいじゃないですか? うちの子はいつもスヤスヤと眠ってますよ」

「深夜になると須賀さんがどこかへ出かけていく様子も確認されています」

「――っ!」

「子供を置いて、あなたはどこにいってるんですか」

 男が須賀に興味も持たず土足で踏み込んでくる。須賀はカッと頭に血が上るのが分かった。いつの間にか、うるせえなっ! と叫んでいる。ごちゃごちゃと人ん家のことに首突っ込んでんじゃねえよ! 息が切れ肩が上下する。はっ、と顔を上げた時には児童相談所の二人は警戒するように身を固めていて、その後ろでゆらりと現れた影があった。

 須賀はその人物の登場に血の気が引いていく。「ま、間宮さん…なんで…」

 間宮はチラリと事務所の入り口に出されたゴミ袋を見た。明日香が死んでから増えた喫煙の残骸が水に湿って大量に捨てられていた。

「もう看過できません。萌花は私たちが引き取ります」

 須賀は足元がぐらりと崩れ、そのまま崖に堕ちていく、そんな錯覚を覚えた。

 

「それは大変だったなあ、大丈夫かいシガさん」

 その数日後の深夜、バーへ行くとやはりシバタはそこにいて、流れ作業のように須賀は金を受け取った。隣に腰掛けてウイスキーを頼もうとしたが、寸前でやめた。「マスター、ウーロン茶」

「仕事してないっつってもなあ、奥さん亡くしてはい立ち直りましょう、って方が無理あるんじゃねえか?」

 須賀は萌花を奪われるという事実を突きつけられてはじめて自分の不甲斐なさに気が付いた。夜中に一人ぼっちで涙を流す萌花を想像すると、須賀の眼の奥も熱くなる。奥歯を噛んで堪えて、小さく深呼吸をした。

「すまんシバタさん、この仕事は終わりにしたい」

 須賀はそう伝えて頭を下げる。今更やめられるかよ、という内容の言葉が返ってくることも覚悟したが、意外にもあっさりと、「じゃあ、仕方ねえなあ」と言われるものだから須賀は思わずシバタを見る。

「え、そんな簡単に?」

「そりゃあ、俺だって娘さんいると知ってたらお願いしてないって」とシバタは眉を下げる。「こんな夜中に飲んでるから、てっきり寂しい独り身かと」

 須賀はもう一度頭を下げて席を立とうとしたが、シバタが、うーんどうしよっかなあ、と頭を掻いたので腰を中途半端な位置で浮かせて止まる。

「今日も仕事頼むつもりだったから、うーん、あ、そうだ」須賀は嫌な予感がしてすぐさま店を出ようとしたが、一瞬遅かった。「あ、シガさん今日だけお願いできない?」

 シバタはヒヒッ、と少ない歯を見せる。

 遠くで工事をする音が響いていた。須賀は代々木のコインロッカーから紙袋を取り出した。帽子を目深に被って目的地の西新宿へと急ぐ。路地へと入り、シバタに渡された代々木→西新宿と書かれた紙と、先払いと今までのお礼、らしい一万円札を取り出す。相も変わらず降水量は前年を更新し続けているらしく、今も古ぼけたビニール傘には霧雨の様な薄く冷たい雨がふわりと積み重なっていた。

 須賀は最後の仕事で少し干渉に浸っていた。須賀は今まで一度もモノの中身を見たことがなかった。それは単純に興味がなかったのもあるが、現実から目を背けていたのかもしれない。突然中身が気になったのは、モノが今までのとは少し違い、紙袋をガムテープでしっかりと封をされていたのと、ズシリとした確かな重さがあったからだろうか。須賀は何となくリュックからモノを取り出した。

「銃…?」

 紙袋の上から握りしめると、それは子供のころから映画やテレビで何度も目にした架空のそれにしか思えなかった。エアガンのようなチープさは全くなく、ただその重量感、そして鉄の質量感が掌にのしかかった。そしてその禍々しさに急いでリュックにしまいかけ、直前で警察に見つかることを恐れて懐に隠した。何も入っていないリュックを背負い直した瞬間、ガンッ、と衝撃が走った。それが自分の後頭部へのものだとは倒れてから気が付き、じんじんと昇ってくる痛みに比例して須賀の意識は遠のいていった。

 

「ふっざけんなよおい!」

 身体が横に倒れ、その痛みで須賀は意識が急激に引き戻された。ぼんやりとした視界がだんだんとはっきりしてくる。あの少女は? 須賀は夢で見た少女を探す。髪を二つに結んだ少女。

「起きろよおい!」

 バチンッ、と頬を張られ、須賀は痛みに顔をしかめながらそちらを見く。剃り込みの入った坊主頭が見える。その後ろには長髪の男、二人とも若そうだ。須賀は自分の状況を確認する。場所は廃ビルの三階か四階。朽ちる寸前のビリヤード台が二つある。奥にはカウンターの様なものが見え、棚には割れたグラスが散乱していた。遠くで響いていた工事の音はいつの間にか近くにあり、騒音と呼べるほどにはうるさかった。須賀はまだ帽子をかぶっていて両手が自由であることに気が付いた。

「このっ!」坊主頭が腕を振り上げる。

 須賀は目を閉じ頬に身体に力を入れる。「やめろっ!」と長髪が叫んだ。「話せなくなったらどうすんだ!」

 すまん、と謝る坊主頭を見て、長髪の方が上なのかと須賀は思う。

「なあ、ブツがどこにあるか教えてくれよ」長髪が近づき須賀の目の前でしゃがみ話しかけてきた。

 須賀は正直に話せば解放されるのでは、と考えた。しかし、懐にあるこれが銃である以上、殺されることも十二分に考えられた。明日香は死んだ、と呟く。ああ? と長髪が耳を寄せる。須賀は、しらねえよ、と声に出した。

「知らない訳ないだろ! 見てんだよ俺たちはよお!」

 長髪が耳元で叫ぶ。冷たい恐怖が地面から伝わってくるようで、だんだんと体温が奪われるように身体が震え出した。

「知らん…」須賀はもう一度言う。

 長髪は大きく舌打ちをすると須賀を蹴り上げ、坊主頭に近寄っていった。須賀は呻きながら転がって二人に背中を見せる形で横になる。ゲホゲホと胃から這い上がるものを吐き出す。背後では須賀のリュックをしきりに漁り、なんでねえんだよ、やら、どこかでおいてきたんじゃねえか、やら毒づいている。須賀はゆっくりと懐から袋を出し、工事の音に合わせてガムテープを剥がした。

 やべえよ、――さんにばれたら俺たち殺されるぞ。シバタの奴しくじりやがって。二人は口々に言い、下請けなのか、と須賀は考えた。こいつらの下請けがシバタで、シバタの下請けが俺ってことか。須賀は自嘲気味に笑ってしまう。やっぱり危険な仕事じゃねえか。

「あーあ」背後に足音が近づいてきて、須賀は慌てて仕舞う。「どうしてくれんだよ、ああ!?」坊主頭に身体を起こされ胸倉をつかまれる。

「だから、しらねえって…」須賀は喉を抑えられながらもなんとか言う。

「なあ、おっさんも子供じゃないんだから分かるよなあ」長髪の声が坊主頭の後ろからする。ピクリと何かに触れた気がした。「大人になろうぜ? ブツがどこにあるか言えばすぐに済むんだから、それで全部解決、違うか?」

 その言葉を機に、須賀の頭の中で走馬灯のように映像が浮かび上がった。

『あなたもいい大人なんですから、仕事がないなら会社に入ればいいじゃないですか。私たちなら仕事探しもサポートできますよ』

『もう看過できません。萌花は私たちが引き取ります』

 右手を懐に入れると、チャキ、という音がした。

『大人なんですから、それくらい分かってください』

 坊主頭の腕に雫が垂れる。ぽつぽつと垂れ、坊主頭は目を見開いた。深淵が覗く。その銃口の中には今か今かと爆発を待ちわびる鉛が収まっていて、その重い弾丸と軽い引き金を想像して坊主頭の脚は震え出した。

「ひい!」

 坊主頭は手を離して腰を抜かす。そのまま後ずさりして長髪の足元まで下がった。「な、なんだよ」と長髪は言い、須賀を見て手を上に上げた。「お、おい、何やってんだよアンタ」

「うるせえな」

 須賀の言葉に二人は後退る。左手を添え、銃口を二人の中間に向ける。

 須賀は唇を噛む。どいつもこいつも、大人になれよ大人になれよって、大人になるってなんだよ、諦めることなのかよ。突然俺から大事なもん奪いやがって。立ち直る? 諦める? そんなことじゃないんだよ。寝たら忘れるとか、時間が解決するとか、そんなことじゃなんだよ。

 明日香に、明日香の笑顔に――

「俺は会いたいだけなんだよ!!」

 ドン―――!

 須賀の腕は弾かれ、キンッと薬莢の跳ねる音がした。銃口の先からは煙が糸を引いていて、その先には腰を抜かした二人がいた。銃弾は割れた窓の外へ飛び出したらしい。

「……」

 しばらくの無音の後、赤い光が近づいてきたのが見えた。

「お、おいやべえぞ警察だ!」

 長髪が立ち上がって駆け出し坊主頭もそれに続く。鉄製の階段を慌ただしく降りる音が響く。パトカーが廃ビルの前で止まった瞬間二人は飛び出し、そのまま追われることになった。

 少女のいたずら電話かと思えば、あんな怪しい奴が出てくるなんて、ねえ、高井先輩。

 うるせえ、早く追え。

 須賀の耳にはタイヤを鳴らして走り去るパトカーの音だけが聞こえていた。

 ガクンと力が抜けて膝をつく。涙がボタボタと垂れる。

 須賀圭介の声は代々木の空に溶けていった。

 

 須賀は手を差し出す愛娘を抱き締める。

「萌花は俺と明日香の宝物だ」萌花は首を傾げる。「絶対、迎えに行くからな」

「それはあなたの行い次第ですからね」

 隣に立つ間宮は須賀の頬の傷を見ながら冷たく言う。しかし萌花を見る瞳はとてもやさしく、任せるだけなら安心できると須賀は思った。

「はい、大丈夫です、吹っ切れましたから」

 間宮は再び須賀を一瞥し、萌花と手を繋いでいった。

 いつまでもこちらを向く萌花に、須賀は見えなくなるまで手を振った。

 

 

 * * *

 

 

 須賀圭介は新宿を抜けた。一瞬止みかけた雨は途端にゲリラ豪雨となり、須賀の傘を吹き飛ばす。暗い方へ暗い方へと走るうちに人の姿はだんだんと消えてゆく。居酒屋も席を店内にしまいこみ、シャッターを半分閉めている。須賀は背負ったリュックの重さを意識しながら辺りを見渡した。ちょうどいい、と思った。豪雨は監視カメラの性能を著しく下げる。

 長髪と坊主頭は逮捕されたが仲間がいるからか何も話さなかった。しかし近くに駐車していた不審な車を情報元に徐々に組織の実態が明らかになったらしい。それを見つけた熱心な警察官が刑事に出世したとかしていないとか。シバタの行方は分からない、しかし最近になって銃と弾が見つかったとニュースでやっていたのを須賀は思い出す。あの少年の瞳に銃のニュース。様々な要因が記憶を刺激し、奥底へとしまい込んでいた銃の存在を思い出した。

 ネオンが目立つようになり、豪雨に逃げる人の姿も見えなくなった。道の両側には軒の低い長屋風のビルが並んでいた。古いスナックやラブホテル、キャバクラなど色とりどりの看板が光っている。

 ここまでこれば、と須賀は素早く身を寄せゴミ箱の蓋を開ける。指紋をこれでもかというほど拭いた銃。その鉄の塊と数弾の弾丸が入った紙袋を突っ込んだ。缶やペットボトルとぶつかり音がする。

 ほんの十秒ほどの出来事は、東京の豪雨に掻き消された。

 遠回りして帰る途中で須賀は考える。

 弾抜いたっけ、コッキングは俺がしたけど、まあ、もう関係ないか。

 空は怒り、須賀の背後で雷鳴が聞こえた。

 

 

   (了)







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