高木さんは夢の中で、映画館に来ていた。
自分そっくりの女の子の恋の物語は、間もなく上映開始――

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二期が始まったので、書いてみようかなと思いました。


映画「からかい上手の――」

 映画ってのは、夢と一緒だと思う。架空の世界に誘われ、終わってしまうと虚無感と共に現実に帰還してしまう。でも、その架空の世界のなかでは、至上の喜びを味わえる。

 私の最近の趣味は、映画鑑賞だ。でも、現実にある映画じゃない。私の心の中にある映画館で見る、私のための映画だ。主演女優は常に私、男優は常に彼。監督も脚本も私だ。

 今日も私は、映画館に足を踏み入れる。ネオンがきらびやかに光っていて、私を囲う人々には知っている顔が見える。私はキラキラ光るドレスを纏いながら、映画館へ入り、そのまま座席に着く。

 そしてシアタールームが暗くなり、スクリーンに映像が映し出された。タイトルは、「からかい上手の高木さん」。

 クスリと笑いながら私は、そっと側にいる人の手を握った。

 

 

 映画の内容は、要約すれば恋する女の子の一生を描いたものだ。でも、映画の上映時間の大半が、恋が実るまでの間になっている。まるで100%片想いみたいだ。

 彼女は、頭がいいという以外は取り柄のない普通の女の子。彼女が入学式の際、大事なハンカチを落としてしまい、鞄のなかをまさぐるところから始まる。

 そんな中、遅れて一人の男子生徒が教室に入る。臆した表情で先生に詫び、彼女の隣に座った。

 しかし入学式当日に遅刻とはなかなかすごい。かといって、不良っぽい容姿でもない。寧ろ普通という言葉が一番よく似合う顔だ。何か事情があったかもしれないと思い、問いただしてみる。

 しかし彼は彼女に対してはぐらかした後、ぼそりと呟いた。

 

「高木さんって人のせいだ……」

 

 そのとき彼女は息を呑んだ。彼女の名前を呼んだからだ。しかも、遅れたのが彼女のせいと言っている。しかし、彼とは面識がないはずだ。

 その時彼女は思い出した。今朝無くしたハンカチには、名前が刺繍されていたことを。もしかしたら彼は彼女のハンカチを――。

 そう思い彼女は、早く入学式が終わってほしいという思いを我慢しながら耐え、終わった直後に早歩きで職員室まで向かった。すると、彼女が入った直後に若い先生がこちらに近づき、すっとハンカチを差し出した。確かに彼女が探していた、刺繍入りのハンカチだ。

 

「これね、西片君っていう子が朝届けてくれたんだ。確か西片君は君と同じクラスのはずだから、お礼を言っておくんだぞ」

 

「わかりました。ありがとうございます」

 

「いえいえ。それと、入学おめでとう」

 

 先生と別れた彼女は教室に向かいながら、ハンカチを眺める。少しだけ汚れてはいるが、泥が外側へと寄せられている。きっと拾ってくれた人は、少しでも汚れを落とそうとしてくれたんだろう。きっと、隣の人は優しいんだ。

 少しだけはにかんだ表情を抑えながら教室の扉を引く。すでにみんな揃っていたので、彼女は先生にすみませんと軽く謝ると、自分の席に座る。隣に座る彼は少し緊張していたのか、彼女を見てすぐに正面へと視線を移す。

 

「ねえ、西片君」

 

 男子と多く話したことがなかったので、若干緊張しつつも、それを隠すように、彼女は前を向きながら話しかける。

 

「な、なに?」

 

 彼はびくっと肩を跳ねさせながら応えた。彼も女の子とそんなに話したことがないんだろうな。

 

「西片君が遅刻した理由、当ててみよっか」

 

「え――」

 

「西片君が遅刻した理由を一発で当てられたら、私の勝ち。どう?」

 

 こんなのは出来レース。初めから勝敗が決まっている。でも、それでも彼女にとっては、長い勝負人生の中の、大切な一勝負だ。これが、彼女と彼をずっとつなぐ、きっかけになったのだから。

 

「い、いいけど……あたるわけないだろ」

 

「落とし物を先生に届けてたから、かな?」

 

「なんで!?」

 

 彼は立ち上がって大声で叫ぶ。しかし即座に先生から注意の声が飛び、すぐに彼は席に着く。

 

「な、なんでわかったの?」

 

 今度は先生に注意されないように、小声で私に問い直す。彼女はニヤッと笑いながら、ハンカチを彼の前で広げて見せた。その瞬間、彼はみるみる顔が赤くなり、すべてを理解した。

 

「ああーー!!」

 

 彼は叫びながら頭を抱え、ぐるんぐるん全身を回す。きっと本人は衝撃を覚えたんだろう。だけど、彼女は彼の見せる反応がとにかく面白くて仕方がなかった。

 彼女は小学校の時に友達をよくからかっては遊んでいた。でも、見せてくれる反応が面白くなかった。みんな最終的には飽きて、彼女の元を離れていく。だから最初はからかうのをやめようと思って中学校に入ったのだ。

 でも、ハンカチを受け取ったときに、なぜかからかったほうがいい気がした。どんな理由かわからない、ただの直感だ。でもそれでもしダメだったら、金輪際やめようと思い、このからかいを仕掛けたのだが……大成功どころじゃない。おもしろすぎるんだ。

 彼はオーバーに自分の感情を表現してくれる。素直に自分の気持ちを伝えてくれる。彼は本当にからかい買いがあると感じた時には、いつの間にか彼女も大声で笑っていた。先生に注意されてしまったけれど、声を殺しながらその後も笑い続けた。

 

 ここが最初だった。彼女はこの時から彼を特別な目で見るようになった。今まで出会った人とは明らかに違う人だ。だから興味がわき、それからはよく彼と話し、からかうようになった。気づけば、彼女が彼をからかい続ける毎日になっていった。

 そして彼と時間を共にするうちに、距離は少しずつだけれども近づいていった。一緒に登下校をするようになってからは、さらに彼と過ごす時間が増えた。そしてからかいを重ねていくうちに――

 彼女は彼に恋をしていたんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 映画の序盤が終わり、私は昔を思い出す。私の初恋は、きっと彼女と同じだ。

 恋のきっかけは、正直思い出せない。中学生というのは多感な時期であるから、ある出来事が原因で恋に落ちた、というわけではない。ただ、一緒に過ごしていくうちに、もっと一緒にいたいという欲求が強くなっていたのは確かだ。彼と一緒に過ごす時間は、ほかのだれかと過ごすそれと明らかに違う。それに気づき始めたのは、入学後一か月あたりからだろうか。

 最初は認めなかった。恋なんて、だれかがするものだって思っていたから。でも、だんだんと認めざるを得なくなっていた。彼の顔を見るたびに胸が痛む。女の子と話しているのを見て少し悲しくなる。それを母に伝えたら、それは間違いなく恋だと診断されたんだ。

 スクリーンに映る女の子も、そんな感じで恋に目覚めていく。彼と一緒にいたい、ただそれだけの思いをもって毎日を生きている。こうしてみると、私ってほんと分かりやすかったな。隣の彼は、最後まで分かりそうにないけれど。

 序盤の中学生活が終わりに差し掛かっていく。出会いもあれば別れもあるというのは、学生生活に付きまとう要素の一つなのだが、彼女はそれに対してひそかに焦っていた。このままでは彼と永遠に分かれてしまうことだってある。だから彼女はさりげなく、しかし真剣に彼に進路先を聞いていた。そして、彼女はそこに行くために、両親を必死に説得した。彼女はとても頭がいいので、上位校に行くことを周りから薦められている。しかし、彼女は上位校で安定した将来より、彼と一緒に過ごせる甘酸っぱい将来を望んでいた。だから半ば強引に彼と同じ場所を選んだ。

 でも――彼女はあえて彼と同じところに行くとは告げなかった。なぜなら、単純だ。彼に別れを示唆させて、告白させたかったから。まったく、ずるいところまで私にそっくりだ。

 きっとほかの人が見たら彼女のことを批判したりするだろう。男だけ損してると、文句を垂れ流したりするだろうな。でも、不思議と隣の彼は顔を赤くするだけで何も言わなかった。いや、むしろ至極当然というべきだろう。彼は、この作品に出てくる"彼"と同じ立場になったことがあるからだ。

 私は少しだけ頬に朱を灯しながら、物語の続きを眺めた。

 

 

 

 

 

 いよいよ中学校の卒業式になった。

 この3年間、本当に色々な想い出を作った。友達も沢山できた。そして、彼と特別な時間を過ごすことができた。でも、ついにこの中学校とはお別れだ。

 彼女は彼と同じ高校にいくことを、彼に伝えていない。だって、彼から告白してほしいから。

 不安も当然あった。からかい続けてきたこの3年間、彼は彼女に対して想いを寄せたような感じは見受けられなかったから。彼女のことをただのライバルだと思っていそうだ。

 でも、彼はーーきちんと自分の気持ちに向き合ってくれた。卒業式が終わり、クラスメイトと別れを惜しんでいる間に、体育館の裏に呼び出されたのだ。これは俗にいう告白フラグだ。彼女は跳ねる心臓の音を抑えながら、あくまでポーカーフェイスを保つ。

 夕暮れ時になり、オレンジの光が校舎を照らすようになった頃、彼女は約束通り体育館の裏へと向かう。そこには、子犬のように震えながら緊張に耐えている彼の姿があった。それがとても愛しく感じる。

 彼女は、逸る気持ちを抑えながら、彼に訊ねた。こんなところに呼び出してエッチなことでもするのかなと。彼はいつものようにするわけないだろと大声で否定する。でも、こうでもしないと彼女は胸の高鳴りを誤魔化せない。

 

「あ、あのさ高木さん……これから云うことでからかったりしないでほしいんだ」

 

「……ん、分かったよ」

 

 これで逃げ道はなくなった。でも、これは茶化してはいけない。

 彼女は彼の赤く染まった顔をじっと見つめる。早く、教えてほしいから、彼の心のうちを。

 

「お、俺さ。ずっと高木さんのことをライバルだって思ってたんだ。しょっちゅう俺をからかってくるから、次こそはという思いで、日々考えていたんだ」

 

「うん」

 

「で、でもさ。高木さんのことを考えていると、いつのまにかドキドキするようになったんだ。初めは照れているだけかなって思ったんだけど……卒業式が近づいていくたびに、こう思ったんだ」

 

「……うん」

 

「ーー離れたくないって」

 

 夕陽の光がいっそう強くなり、それが彼女たち二人を包み込んでいく。まるで世界にたった二人しかいないかのような描写だ。全く、こんなところまで一緒だよ、私たちの時と。

 

「高木さんとは卒業式でお別れになっちゃう。高木さんは俺とは違う高校にいくっていった。でも、俺はそんなのは嫌なんだ! まだ高木さんに勝ってないし、それにーーそれにっ……!」

 

 いつの間にか彼は涙を流していた。そして彼女も涙を目に溜める。

 

「俺はっ、高木さんのことが好きだからっ……! だから、俺と……俺とっ!」

 

 その後の言葉は、無音になってしまっていた。彼の口が思いきり動いて、彼女に全てをぶつけた。その後一瞬だけ時が止まる。世界から音がなくなってしまったかのように、静寂が二人を支配する。

 でもその静寂は、彼女によって破られた。

 

「ごめんね……」

 

「ーーえっ」

 

「ごめんね、西片……」

 

 彼女は涙を流していた。大粒の涙をポロポロと流しながら、自身の罪を吐き出した。彼女の勇気がないばかりに、彼を思い詰めさせてしまったんだ。きっと彼は本気で彼女と別れることを怖がり、そしてこうして告白したんだ。確かに彼女が打算した様になったけれど、彼を悲しませてまで行うことではなかった。

 そして彼女は大きく頭を下げた。

 

「ごめんなさい。私、ひとついい忘れてたんだ」

 

「……え?」

 

「私西片と違う学校行くって言ったけど、実は変えたんだ。西片と同じところに」

 

 私も真実を告白すると、彼は面を食らったような顔をしていた。そして、乾いた笑いを浮かべた。

 

「そ、そうなんだ……じゃあ、また俺たちは同じなんだね」

 

「うん、それでさ。私からも伝えたいことがもうひとつあるんだ」

 

 そこで彼女は気づく。何故か奥に封じ込めていた気持ちが、外へと自然に流れ出していくのを。

 

「なに?」

 

「ーー私はずっと初恋をしてたの。この3年間、ずっと。最初に出会ったときは、ただからかえば面白い人としか思ってなかった。でも、気づいたらその人と一緒にいるのが当たり前になってて、そしていつの間にか好きになったんだ」

 

「それってーー」

 

「でも、その人はとても鈍感で、私の気持ちを表現しても、気づいてはくれなかった。だから待ってやろうって、そっちから言うのを待ってやるって決めたんだ」

 

「……」

 

「ーーでも、やっぱり不安だった。一生言ってこないんじゃないかなって思ってた。だから今日のために私は、あえてその人と離れるかもしれないということを仄めかせたんだ。でも、結果的にそれがその人を傷つけたことに今気づいた」

 

 

 

 

『そんなことないよ!』

 

 私の隣から叫ぶ声がした。隣に座る彼は、真剣な面持ちで彼女にいう。彼にしてみれば、スクリーンに映る"彼"の気持ちがよくわかるんだろう。

 

 

「っーー!」

 

 彼女は肩を跳ねながら、彼を見つめた。

 

「俺は、そこで自分の気持ちに気づけたんだ。だから、俺は感謝してる! いつまでも自分の気持ちから目を背けちゃいけないって気づいたから! だからっ……!」

 

 彼女は涙を拭うこともせず、言葉を待つ。

 

「ーー俺と付き合ってください!!」

 

 その後に言葉はなかった。一つの影がもう一つの影に急に近づき、重なりあった。そして夕陽が彼女らを照らし、涙がオレンジに光って空を舞う。きっと、人生で一番美しい景色が生まれている。どんな世界遺産よりも美しい輝き持っている。

 彼女と彼はわんわん泣きながら抱きしめ合っている。もう二人の距離はゼロセンチメートル。短いようで長い距離を詰める彼女の悲願は、別れの季節で叶うことができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 私は高まる体温を下げるべく息を吐く。隣の彼は頭を抱えていて、すでにオーバーヒートしているようだ。

 そうだ、あのときが一番緊張したな。まあ、私よりも告白してきた隣の彼の方がもっと緊張していただろう。こうしてみてみると、本当に私は臆病でずるい女だったんだなと感じている。

 でもそんな私を、彼は受け入れてくれた。彼と共に歩む人生は、ここから始まったんだ。

 ふと私は左に気配を感じ、ちらりと視線を移すと、小さな女の子が私を見上げていた。さらに、いつの間にか私の視線が高くなり、隣に座る彼は、私がわずかに見上げなければいけなくなるくらいに大きくなっていた。

 ちょうどスクリーンにも、2人から3人に増える瞬間が映し出されようとしていた。

 

 

 

 

「西片。報告があるんだ」

 

「報告? どうしたの?」

 

 すっかり成長した彼と彼女。大学を卒業して結婚し、二人で一つ屋根の下で暮らしている。仕事から帰ってきた彼に、彼女だけが知っている真実を告げた。

 

「実はさ、できちゃったみたい」

 

「え、できたって何が?」

 

「……赤ちゃんだよ。私と西片の」

 

 彼はえっ、と一言呟いてそのまま制止した。彼はわなわなと震えながらほんとに?と聞き返す。

 

「ほんとだよ。今日病院の先生に聞いてきたんだ」

 

「あ……あぁ……!」

 

 彼は思わず床を蹴って、彼女に抱き着いた。

 

「ぁ……」

 

「ーー嬉しいよ、ありがとう!」

 

 いつもならこんなことは彼にはできない。よっぽど嬉しかったんだろうな。彼はいつの間にか目に涙をためていて、涙の滴が彼女の肩に垂れた。

 

 

 

 その後、彼女と彼は病院へと移る。分娩室で彼女の悲鳴が聞こえ、彼はその度に体を強張らせる。

 彼女はこの世のものとは思えない痛みに必死に耐える。

 私もあの痛みは繊細に覚えているから共感できる。隣に座る女の子の頭を撫でながら、彼女の感じている痛みを懐かしく思ってしまう。あのときは本当に地獄の瞬間だと思ったけれどーー

 

 

 産声が上がった瞬間、痛みなんて消えていた。

 

 

「おぎゃあ! おぎゃあっ!」

 

 

 生命の誕生を告げる音楽。苦痛から逃れたくて目を閉じていたのだが、自然と視界が開いていく。彼女はぼんやりする中必死に新しい命を探す。

 

「産まれましたよ、西片さん!」

 

 うま、れた……?

 その言葉を理解するのに時間がかかった。でも、タオルにくるまれた小さな命が彼女の目の前に差し出された瞬間、確信した。彼女は、命を創ったのだ。

 早く抱きしめたい。彼以外の人間にはじめてこの感情を抱いた。でもそれは当然だ。彼との子供なのだから、愛しく感じないはずがない。

 彼女は手を伸ばし、赤ちゃんを胸へと引き寄せた。

 暖かい。小さい。少し力をいれたら壊れてしまうだろう。

 だから、守り抜いて見せると彼女は誓った。

 

 まもなくして、彼が部屋に入ってきて、彼女を労った。そして無事出産が成功したことを知ると、大泣きして私を抱きしめた。そして、産まれた子供を逞しくなった腕で抱き抱えた。

 

「……ねぇ、おとうさん」

 

 若干疲労が残った声で彼に尋ねる。

 

「なに、お母さん?」

 

「名前、どうする?」

 

「そうだな……女の子だし、以前決めていたあれにするか」

 

 彼は、腕の中で眠る子供を撫でながら提案する。彼女も、ベッドの上でこくりと頷いた。

 

「そっか、じゃあこれから君の名前は――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 娘が産まれてからは、私たちの生活は大きく変わった。彼女を育てるために彼は働き、私は教育をした。名前だって、お父さんお母さん呼びになったし、娘ができたことで二人の結束はより強まった気がする。

 けれど、本質的にはなにも変わっていない。いつものように私が彼をからかい、彼は素直に面白い反応を見せて娘と共に笑顔になる。そこだけは、娘が大人になるまで、いやーー大人になって家を出た後でも変わらなかった。

 ああ、でも本当にいい思い出だった。私が苦労して産んだ娘がすくすくと成長し、恋を覚えていくのを横目で見るのが本当に楽しかった。私はふと左隣を振り向き、また頭を撫でようとする。

 でも、隣の娘の頭はいつの間にか私と同じくらいの高さになっていて、さらにその隣には無愛想そうな男が照れながら座っていた。

 私は一抹の寂しさを覚えつつも、彼女らが席を立つのを見送った。子供と一緒にいられる時間は、長い人生の中のほんの一部だということを思い知らされる。20年は長いようで短いのだ。

 私は右隣の彼の方を向く。彼もまた変化が始まっていて、徐々に髪の毛が薄くなっていき、自慢の筋肉も衰えを見せていた。かくいう私も徐々にシワが多くなり、頭髪の色もが抜け始めているのが分かる。いつの間にここまでの時を歩んできたんだ。

 

 そこから先は本当にゆっくりと進んでいく。私たちは今まで通り二人だけになった。でもーー若い頃と同じというわけにはいかなかった。私がからかっても、お父さんがそれに対して返せなくなってしまった。逆もしかりで、私の方もからかえなくなってしまっていたこともあった。

 スクリーンの上でも、娘がいなくなってしまった夫婦二人がこれまでの人生について語り合うシーンが映し出されていた。若い頃とは違って、哀愁漂う雰囲気だが、私はそれに見込ってしまった。

 

 

 

 

 

 

「ねぇ……お父さん。あの子、行っちゃったね」

 

「あぁ……ドレス、きれいだったよね」

 

 彼と彼女はソファーに座りながら、お茶をすする。お茶はいい。心を解してくれるから。

 

「お父さんは、私とあの子、どっちのドレスの方が好き?」

 

「そりゃどっちもさ。甲乙つけがたいね」

 

 彼が若い頃ならきっと狼狽しているだろう。しかし、彼女は自然と会話を続けていた。からかえてなくてもいいと思えてしまったのだから、年月がたつというのは恐ろしいものだ。

 

「そっか。……あの子、元気でやってるかな」

 

「やっているだろ。婿は無愛想そうだけど、本質的には優しい奴なんだ」

 

「ふふ、そうだね。……ねぇ」

 

 彼女の手は、彼のそれへと伸びていき、そっと重なった。若いころと比べてもう硬さは感じられない。それでも、彼女は愛おしそうに握りしめる。

 

「お父さんはさ、楽しかった?」

 

「何が?」

 

「この人生が」

 

 彼女は彼を見つめた。その表情は、若い頃の彼女を想起させた。目はいつまでも少女のものだったから、だろうか。

 彼はふうと息をつくと、重なった手をそっと握りしめ返す。

 

「ああ。中学校からずっと楽しかった。お母さんと出会えてよかったって、心から思えるよ」

 

「そっか。私もだよ。でもさ――」

 

 彼女は視線を落とし、彼の手を離した。

 

「いつか、私たちは別れるんだよね」

 

 別れるという言葉の意味を誤解するような二人ではない。夫婦関係の解消ではなく、死別という意味であることは、解っていた。

 人間である以上必ず訪れる死がそろそろ現実のものとなりそうな時期を迎えているので、彼も視線を落とし、言葉を詰まらせる。

 

「……ごめんね、こんな話して」

 

「いや、いいんだ。俺たちはいずれ死ぬ。それからは逃れられない」

 

「……私、ご飯の支度してくるね」

 

 彼女は逃げるように台所に行こうと立ち上がる。しかし、彼女の腕を彼が掴んだ。

 

「え?」

 

「俺さ――死ぬ前にやりたいことがあるんだ」

 

「なに?」

 

 彼女は置いた彼の顔を見つめる。真剣な面持ちをしており、若い頃の彼と重なった。

 

「もう一度、新婚旅行をしないか?」

 

 もう老いているはずなのに、表情に赤みが出ている。彼女はそれをいとおしく感じ、こくりとうなずいた。

 

「――いいよ。場所は?」

 

「この島、だよ」

 

「……なるほどね。じゃあ、エスコートよろしく」

 

 なるほど、私たちにとっては最高の旅行スポットだ。彼はそっと彼女の手を握りしめ、家を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……懐かしいな」

 

 私はスクリーンを見ながら思い返す。

 彼は新婚旅行先を小豆島にした。その理由は、聞くまでもない。私たちの人生を作り上げてくれた舞台だからだ。

 私たちは想い出の場所を回った。

 学校の通学路、よく飲み物を買った自販機、水切りをした川、釣りをした池、二人乗りした空き地、少女漫画を買った本屋、水着を一緒に選んだデパート、二人で勉強した図書館、どぎまぎしながら過ごしたお互いの実家、そして二人を繋いでくれた学校。

 これらの場所には常に勝負があり、常に二人一緒だった。思い出を紡ぎ、こうして人生を共に生きている。私の長い人生の中でもいまだに光り続けているメモリーだ。

 二人で勝負の内容を語り合ったり、幼かったころの私の意図にようやく気付いた彼が、年甲斐もなく赤面して見せたり、無理のない範囲でまた勝負をしたり。外見こそもう老人だけれども――心は中学生のあの頃に戻っていた。

 

「――楽しかったね、西片」

 

 私は隣の彼に微笑む。けれど、彼は座席で静かに眠っていた。寝息は聞こえない。でも、幸せそうな笑顔を浮かべている。

 私は羽織っていたカーディガンを彼にかけた。きっと、疲れたんだろうな。私をエスコートしてたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 でも、なぜなんだろう。

 私は涙を流していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間にか私の手の中にあった、彼の手の温もりが消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スクリーンのほうを向くと、同じく彼が学校の近くのベンチで眠っていた。そして彼女が彼を抱きかかえて大粒の涙を流していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……そっか。

 だから、誘ったんだね。新婚旅行に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は、隣に眠る彼を抱きしめた。そして彼へそっとキスをした。

 感謝の意を込めたキスだった。

 彼と分かち合えた幸せへの感謝。

 彼と長く生きてこれたことへの感謝。

 彼とこうして結ばれたことへの感謝。

 彼と出会えたことへの感謝。

 彼を愛することができたことへの、感謝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありがとう、西片。私は――あなたのことをずっと愛しています」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――さよならっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私と彼女は彼の胸の中で目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

end

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぁ……」

 

 夢の時間は終わったことを告げるように、蛍光灯の光が私の弱りきった目を刺激する。

 映画館は閉まってしまい、私は帰還を余儀なくされた。そして、様々な事実が思い起こされている。初恋が実って結婚したこと、娘ができ、そして娘が新たに家庭を築いたこと、私はもうすでに80を超えた老婆になっていること、そして――私の隣に座っていた彼は、もうこの世にいないことまで、思い出した。

 そうだ、彼の仏壇に線香をあげないと。横たわっている体を起こそうと力をいれるが、どうしても起き上がらない。そうだ、あの人に手伝ってもらおう。

 

「お、おとうさ……」

 

 彼は呼んだらすぐにこちらに来てくれる。なぜなら彼はいつでも私のそばにいるからだ。

 

『なに、高木さん?』

 

 でも、私の鼓膜を揺るがせるあの声は聞こえてこない。

 わかっている。あの声はもう二度と聞くことができないことくらい。でも、もう一度聞きたいと思ってしまう。もしかしたら、彼は今まで負け続けた腹いせに、からかってるだけかもしれない。本当はまだ私の側にいるんだ、きっと。

 すっかり萎んでしまった腕を伸ばす。昔彼は、私のことを綺麗だっていってくれた。でも、もう彼が好きだといってくれたところは全て老いて無くなってしまった。彼が好きだった私の声もしゃがれ、顔面だってシワだらけ、肌なんてもう血管が浮き出ていて醜い。

 若くなりたい。そしてもう一度彼に綺麗だって言ってもらいたい。愛してもらいたい。話したい。会いたい。

 もう長いこと使ってこなかった涙腺が崩壊し、小さく涙が溢れていく。

 映画館の中で私は、もう一度彼に会うことができた。でも、それは仮初めの存在。暖かくもないし、本物じゃない。やっぱり、本物がいい。でも、それはもう叶わない。

 

「あいたい、よぉ……にし、かた」

 

『俺も会いたいよ、高木さん』

 

 じゃあなんで私よりも先に逝った?

 私をなんで置いていったんだよ、バカ西片。

 なんで、笑顔で死んじゃったんだよ!

 

「ばか……」

 

『ごめん……でも、いつかまた会えるさ』

 

 そうだ。

 私たちはいつまでも一緒だ。そう言ってくれたよね、西片。

 

「そっ……か。じゃ、ま、まって……て。わたしか、かならず……」

 

『うん、来るの待ってる。今度こそは、高木さんに勝つよ!』

 

「ふ、ふふ……」

 

 全く、この年になっても楽しみが増えるなんて思っても見なかった。

 

『ねぇ、高木さん。俺は――』

 

 そのあとの言葉は聞こえなかった。

 この先を聞くには、私から近づくしかないのかな。

 だったら、聞きたい。早く彼の言葉を。私は瞳を閉じる。あれ、徐々に体の感覚が消えていく。

 

「――さん、お母さん!……さん……」

 

 誰かが呼んでる。おばあちゃん、なんていう言葉も飛んでくる。でも、私は行くんだ。自室のベッドから、彼の待つ新しい世界へ。結局私も彼も、二人そろって初めて意味を持つんだろう。

 暗い世界に、私は一人眠っている。

 そういえば西片。知ってる?

 

 

『なに? 高木さん』

 

『お伽話だとね、キスをすることによってお姫様は目覚めるんだって』

 

『……へ、へぇ』

 

『ね、西片。私に――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「キスしてよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静寂。

 人生の中で幾度も交わしてきた口づけを申し出る。でも、なんでだろうか。ファーストキスをするときみたいに、胸が弾んでいる。停まりかけている心臓が、若いころのように躍動する。

 きっと彼は狼狽しているんだろうな。彼だって、何度も私とキスをしたくせに、こういうのはずっと治らない。まあ、そこも含めて大好きだった。今は、素直に言えるよ。

 私は待った。皴枯れた唇をそろえて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふれられた。

 ふれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世界は白く染まり始めた。全身が浮くような感覚とともに、私の体は眩い光に染まっていく。よぼよぼになった体は、あのころのものに戻り、体が軽くなったのを感じる。そして上空には――あの学校が見えた。

 

 私はそこへと飛んでいき、校内へと入っていく。そこには――忘れもしない、私たちの想い出を作ってくれた教室があった。セーラー服をまとった幼い私が、教室のドアの小窓に映る。

 私は毎日ここに期待をもって立ち、ドアを引いていた。今日はどんな風にからかおうか、どうやって彼と一緒にいようか、どうやって恋をしていこうか。

 この先には――いつものように彼がいる。私は頬を染めながらドアの取っ手に手をかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「高木さん。待ってたよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――勝負しよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――いいよ。負けたら罰ゲームね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

end




わかりにくいかもしれないので補足を。


ここで出てくる映画館とは、あくまで高木さんの夢の中に出てきた映画館で、高木さんは彼女の人生を映画化したもの(すなわち高木さんと西片君のラブストーリー)を、観客席から見ているという設定にしています。

そして、彼や彼女といった代名詞は、夢の中で上映されていた映画の登場人物である、西片君と高木さんに使っています。
ちなみに隣に座る彼は、高木さんと一緒に映画を見ていた西片君です。


しかしからかい上手の高木さんは、地の分より会話文のほうが書いてて面白いですね。今度はもう少しマイルドなのを書きたいと思います。


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