24歳独身女騎士副隊長。   作:西次

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 今回の話は、これまでで一番悩みました。

 これでいいのか。この方針で進めていいのか。ひどく考え込みました。

 今も、悩んでいます。でも、そもそもの話として、この物語は深く考えずにノリで進めるんだと決断して書いていたのです。

 だったら、もういいじゃないか。ノリで馬鹿っぽく見えても、とにかく話を進めるんだと己に言い聞かせて書き上げました。

 何はともあれ、こうして投稿しているのです。お目汚しですが、何かしら見るべきところがあったなら、それだけで書いた意味があったと信じられます。

 一時の暇つぶしにでもなれば――と。くどいようですが、常にそう思いながら公開に踏み切っています。よろしければ、どうか今回も付き合ってやってください。




人生の墓場への道は善意で舗装されています

 王子にとって大事なのは、良き指導者に恵まれることであり、己が頼むに足る力を得ることである。なればこそ、モリーという実行犯を憎むことはなかったし、ことさらに反抗しようとも思わなかった。

 ソクオチの王族として、実際に手を下した相手に思うところはあるが、そうした感情をぶつけるのは、それなりに実力をつけてからだと決めていた。

 指導されるに値する相手だから、モリーに対しては期待も抱くのだし、毅然とした態度で臨んでほしいと思う。

 それでも、精彩を欠いた雰囲気は伝わるもので、王子はどうにも不満だった。人間である以上、常に万全であることは不可能であろう。だが教え子として、師として相応しい風格を保ってほしいと願うのは、間違っているのか。

 

「……疲れてるのか? 本業の仕事が辛いなら、付き合わなくてもいいんだぞ」

「確かに私は無理をするなと王子に言いましたが、私自身は無理にも無茶にも耐えられる身体を作っています。――貴方の鍛錬に付き合うのに、支障はありません」

 

 初日にあれこれ諭されて、ソクオチの王子はそれなりに意識改革を行ったつもりだった。

 だからモリーが再度指導に現れた時、心なしかやつれている様子を見て、心遣いをしたつもりだったのだが。

 

「私生活で、ちょっとした問題があったのは事実ですが、実務に支障は来しません。ご心配なく」

 

 しかし相対してみれば、余裕が充分にあることが分かる。これからの鍛錬の指導について、不安を抱かずに済む程度には、モリーは余力を維持しているように見えた。

 

「何があったのかは知らんが、悩みごとなら聞くぞ。――これでも王子だ。下々の憂いを取り去ってやるのも、将来的には王の役目だろう?」

「おっと、機会あらばマウントを取っていくその姿勢、嫌いではありませんよ。……皮肉ではなく、本気で」

 

 しかし、今は必要ないとモリーは言った。今度は本当に、自信に満ちた声だった。

 だから王子も、それ以上は続けなかった。何よりも、自分の鍛錬こそが重要である。教師の自己申告が正しいのであれば、余計な気遣いで時間を割くことはなかった。

 

「戯れはもういい。……指導の時間だ。今日も頼むぞ」

「はい、任されました。――今日は、少し趣向を凝らしましょうか。いつも同じ鍛錬というのも飽きるでしょう。それに、一度くらいは辛い修行も経験しておくべきですし」

「……痛いのは嫌だぞ」

「痛くなければ覚えません――と言うのは一種の真理ではありますが、御安心を。今回は、そこまで深刻には痛みません」

 

 ただ、一日持つかどうか、厳しいかもしれませんね――とモリーは言った。

 そうまで言われたら、対抗心を持つのが年頃の少年と言うもの。挑戦的な発言をするのは、当然の成り行きだった。

 

「いいさ、やってやる。それが僕が強くなるために必要だというなら、臆したりはしない」

「そこまで覚悟を決めなくても大丈夫ですよ。辛いには辛いですが、単純な鍛錬ですから。……ただ、今回は少し場所を変えます」

 

 そうして、モリーに誘導されるままについていけば、そこは竹林だった。

 クロノワークでは、現代日本人ならば驚くべきことに、竹(地球のそれと比べても、かなり近しく似ているように思える植物)が自生していた。

 モリーが精神的には日本人でもあるため、これを剣術の訓練に用いるのは、当然の成り行きであったろう。

 

「真剣を与えるのは、初めてでしたね。持ってみて、どうです?」

「木刀と比べると、少し重いかな。……だが、どうということはない」

「鍛錬が終わった後、同じセリフが言えるなら大したものですが。――ともあれ、今日はその真剣で竹を打つ訓練を行います。夕方まで続けるつもりですから、弁当を持参してきました。……苦しくなったら、言ってください。今回の鍛錬は、かなり疲れるでしょうから、合間合間に休憩を挟みましょうね」

 

 そこまで言われると、何をされるのかと不安にもなろう。

 だが、モリーが指示したのは、真剣を持って竹を斬ること。ただ、それだけだった。

 クロノワークの鍛冶屋は腕が良く、日本刀とまではいかないが、切れ味のいい剣を打つ。竹一本を両断するだけならば、素人でも難しいことではない。

 

「青竹に対して、剣の刃筋をまっすぐに通すように斬るのです。竹はいくらでもありますし、多少不格好でも燃料にはなりますので、ご懸念無く斬り捨ててください。――剣とは鉄の塊ですが、案外切れ味はすぐに鈍るもの。少しでも長持ちさせるためにも、正しい斬り方は覚えておくべきです」

 

 例えば、兜や鎧に対して曲がった斬り付け方をしてしまうと、剣の刃は容易く傷つく。強度次第では、曲がったり折れたりすることもあるのだ。

 そうした厄介な部分は避け、人体を的確に斬るのが一番だが、それにはまず狙ったところへ正確に斬撃を通す技術が必要になる。

 ゆえに目標への刃筋の立て方、正しい斬り方を覚えさせて置かねばならない。

 

「兜割りは高等技術ですから、そこまでは求めません。ですが、最低限の剣の振り方は、身体に染みつかせておきましょうね」

 

 これを教導するには、竹を斬るのが一番手軽だ、とモリーは述べた。用意も片付けも比較的容易であり、資材も多く安価だから。

 

 さて真剣を持ってしても、立派に育った竹が相手である。下手な斬り方をすれば、手の平への衝撃も大きい。繰り返せば、少年の柔い手が腫れてくるほどには辛い鍛錬だ。

 これを避けるには、正しく剣を当てて、竹に対して垂直に刃筋を通す必要がある。コツをつかむまで、王子は手のしびれに悩まされることだろう。

 

「先は長いのですから、力み過ぎないように。変な打ち方をすれば、何度でも指摘してあげます。さあ、構えて。――始めなさい」

「はッ!」

 

 長時間をかけて、王子は汗を滝のように流すほど努力した。竹を斬るだけの作業は思ったより重労働で、手の内から響く痛みに耐え続けたのも称賛に値する。

 休憩を挟みながらも鍛錬が続けられ、夕刻までには、王子の手のひらは真っ赤に腫れ上がっていた。

 十歳という年齢を考慮するなら、大したものだというべきた。そこまで続けられたという時点で、鍛錬は成功と言って良い。

 根気強さと、痛みに対する耐性を身につけられたなら、その時点でエメラ王女に追いついたと考えても良かろう。

 正しく身につけるまで続ける必要はあるが、これはこれで満足すべき成果だとモリーは評価する。

 

「よく、頑張りました。……もう日も落ちてきますし、今日はその辺りが限界でしょう」

「そんなことは、ない。まだ、出来るぞ」

「根性論は嫌いだって、私は最初に言いました。……師の言葉に従うのも、弟子の務めです。今日は、ここまでにしましょうか」

 

 モリーは、王子の剣を取り上げることで、強制的に鍛錬をやめさせた。

 オーバーワークは誰のためにもならないのだから、師としては無理や無茶の類は諫めるのが常道であろう。

 

「辛い鍛錬も続ければ慣れてしまうし、痛みが常態化すれば、頭は誤魔化しのために感覚を狂わせて来るものです。それを見極めるのが私の仕事ですから、これ以上は無理をさせませんよ」

「……そうか。実際、僕は手が痛くて仕方がない。やせ我慢していたが、一度でも自覚してしまうと駄目だな。――不甲斐ないよ、まったく」

 

 モリーは、持参した湿布を王子に施した。薬効は証明されている確かな物だから、王子の手の腫れは、明日になればマシになるだろう。痛みが引かなければ、侍医に見てもらわねばならないが、今心配することでもあるまい。

 この調子で続ければ、そこそこものにはなるだろうと思うが、毎日続けるべき鍛錬でもなかった。今度はまた別の角度から、精神的な負荷も与える鍛錬をさせてみよう――とモリーは思った。

 

「あまり、気に病まれますな。……痛みへの耐性は、慣れ次第ですが身につけることは出来ます。エメラ王女はアウトドア派なので、疲労と痛みへの耐性もそれなりです。彼女の尊敬を得るならば、まずは辛い鍛錬にも耐えていただかねばなりません」

「――そうか、それで? お前のことだ。今日のとは別に、僕がやるべき鍛錬が他にもあるというんだろう?」

「ご賢察、恐れ入ります。ただ、これは王女では絶対耐えられぬことであり、そうであればこそ意味のある行為であるとご理解ください。……あえて辛い課題に挑むことで、己を鍛えるとともに、周囲からの関心も買うのです」

「要するに、並々ならぬ覚悟が必要だと、そう言いたいのだな? ……理解したから、率直に述べろ。僕は、どんな提案でも真面目に検討すると約束する」

 

 王子の言葉に、モリーは勇気づけられる。ここまで断言してこそ、本気で付き合う価値があるというもの。

 苦難に耐えてこその鍛錬である。なればこそ、プライドを傷つけられた時も、ぐっと堪える忍耐強さは鍛えて損はあるまい。

 

「痛み、とは精神的なものも含むものです。エメラ王女は、この点において全く耐性がありません。剣の鍛錬で、そこそこ辛い思いはしていますが、極めて単純な鍛え方をしていますから、屈辱をその身に実感したことはないはずです」

 

 軍隊においては、新兵はその心を折られる様な、精神的に厳しい状況で鍛えられるのが常である。しかし流石に王族には、そこまでのことは求められない。

 モリーは、あえてそうした『縛り』を無視することにした。新兵でもそこまではさせない、というような屈辱を与えつつ、しかも意味のある鍛錬をしようと、彼女は提案した。

 

「鍛錬において、屈辱を受け入れろと言うんだな? ……そして、王女は僕が受け入れた鍛錬の厳しさを推し量れないほど、馬鹿でもない。そうして僕が鍛えられていく様を見れば、なるほど。見直してくれるのは、間違いないか」

 

 理解が早いから、話も早い。モリーは、王子に対する評価を一段階上昇させた。

 子供には酷であると、そんな考えを持つのはもう止めだ。王子は男子であるのだから、むしろ困難には積極的に立ち向かうべきだ。挫折してからフォローすることを考えればよく、まずはやらせてみるべきだと、彼女は判断する。

 

「話は変わりますが、クロノワークでは農業の効率化が急務とされています。どこでも作物の収穫量は重要な関心事ですから、不思議なことではないでしょうが。……せっかくですので、王子様には下々の農民の苦労について、知っておくべきだと思うのです」

「農民たちの苦労は、それは大層なものだろうが……わからないな。どうしてここでそんな話が出てくる?」

 

 王子の疑問はもっともだったが、モリーはとにかく話を続けた。聡い少年ゆえ、聞けばわかってくれると思うから、あえて言葉を省略したのである。

 

「農業の肥料として、一般的なものは動物の排せつ物です。家畜のものを利用するのが一番多いのですが、東方では人のそれを使うと聞きます。我が国の実験農場では、そうした肥料の有用性を調べているのですね。……せっかくですから、ここらで我が国に貢献する労働をしていただきたいのです。王子自ら率先してやっていただけるなら、あらゆる意味で一目置かれるようになると思いますよ?」

 

 実行するとなれば、その日は特別な訓練メニューになるので、日程の調整は考えねばならないだろうが――と。モリーは新たな鍛錬を思いついたようで、王子としては詳細を聞くのが怖くなった。

 

「……嫌な予感がするが、具体的には?」

「便所から排泄物を汲みだして、畑の肥溜めに移す作業をやってみましょう。桶に詰め込んだ汚物はそれなりに重いし、下手に扱えば悪臭と汚れが体に染みついてしまいます。――不快な想いをしたくないなら、上手に扱わねばなりません」

 

 そして、肥を運ぶ作業は、身体の体幹を維持し、鍛える訓練にもなる。正中線を維持して崩さない、正しい姿勢を持って歩かなければ、汚物は桶から飛び出して身体を汚すであろう。

 正中線を維持するだけなら、もっと適した鍛錬はある。だが、ついでに精神面まで鍛え上げるなら、こちらの方が好都合だとモリーは判断した。王子には、それに耐えられるだけの資質があるとも見定めている。

 

「……おい、便所の肥って、あれか。人糞のことか。それを、僕が運ぶ……?」

「あえて屈辱の中に身を置くことで、忍耐力を養いましょう。危機に際しては、時にはなりふり構わず、手段を選べないこともあります。――汚い手に慣れておけば、そうした状況でも生存率が上がるものですよ」

「汚いの意味が違うだろう、それ」

「……せっかくなので、ちょっとした講義をしましょう。物理的にも、精神的にも、嫌だからやらない――なんて贅沢な思考は、戦場では邪魔なだけです。実際に選択するべきかどうかは別として、生存の為なら汚物の中にも紛れ込むのが、実戦的な戦士であるとご理解ください」

 

 肥溜めの中に身を潜めて、負け戦から逃げ延びた武士の話は珍しくない。モリー自身、それに近い経験もあるから、時には不潔さを躊躇わない決断が、命を救うことを知っていた。

 可能性は低くとも、実際に必要な場面に追い込まれた際、できるかできないかで生死が定まる場合がある。王子には、それを理解してほしかった。

 

「まあ、戦士というよりも、もっといい表現がどの国にもあります。『騎士』とか『武士』とかいうのがそれですね。……そして立派な騎士は、良き主君の元でこそ働けるのです。この場合の良き主君とは、ご恩と奉公――つまり相互に利益を与え合える関係を構築できる相手のことです。それにはお互いに共感とか、共通の知識や経験が不可欠です」

 

 自身がこうした状況にならずとも、王子の身分であれば、そうして屈辱の中で生き延びた勇士を評価する場面が出てくるだろう。

 その時に相手を思いやり、暖かく遇するためにも、生身で実感しておくのは悪いことではないとモリーは説く。

 

「不可欠は言い過ぎだろうが……そうだな。言っていることはわかる」

「そうでしょうとも。私の主張がご理解いただけたなら、鍛錬の内容自体は受け入れてくださるのですね? ――ご心配なさらずとも、王子の教育に当たって、いろいろな権限をぼったくって来ましたから、実行に支障はありません。湯と着替えの用意も整えておきます」

 

 発展途上の身体には厳しいものがあろうが、それでも加減しながら行えば、充分実戦的な鍛錬になるだろう。習熟すれば、重い装備を背負う行軍にも耐えられる。

 一種の苦行だが、兵隊は荷物を背負って走るのが商売だ。機動力のない兵隊は、存在意義すら疑われるもの。

 王子は兵士になる必要はないが、彼らが背負うであろう苦労について、知らぬままでいるよりは、知った方が良いと思う。荷物を運ぶ辛さを知らなければ、他人の重荷も理解してやれないものだ。

 

 戦国時代の偉人、呉起が戦に強かったのは、末端の兵の苦労を知り、そこに寄り添えたからだと言って良い。

 なればこそ、この作業は良き鍛錬になるとモリーは思う。どこまでも善意にて、彼女は王子を屈辱的な状況へと追い詰めるのだった。

 

「……お前、これがソクオチなら不敬罪で牢獄行きだぞ」

「この程度の作業すら忌避するから、ソクオチの連中は軟弱なんでしょうね。――私を牢獄に押し込められるくらいに屈強なら、安心してサボらせていただきますよ」

 

 現実として、ここはクロノワークであってソクオチではないし、王子は人質身分であるから不敬罪は適応されない。

 

「真面目な話、王女の気を引きたいなら、あえて汚れ仕事を引き受けるのも一手であると考えます。エメラ王女は聡明な方だ。貴方が苦痛と屈辱を我慢して、我が国に尽くすのであれば――その意気を組んでくれるくらいには、慈悲深いお方ですよ」

「だからといって、王子に汚物を押し付けるだなんて、ひどい話じゃないか? ……下心が無ければ、迷わず断っていたぞ」

 

 敗者を見下すのは勝者の常であるが、モリーは別段王子を虐待しようと思っているのではなく、純粋に鍛錬の一部として接しているつもりだ。見込みがあるからこそ、厳しく接しているのである。

 それがなんとなく、王子の方にも伝わるのだから、単純に非難ばかりもしていられない。鍛錬だと思えば、何事も受け入れて行動すべきであると、彼はわきまえている。

 

「だが、わかった。――お前の言うことだ。意味はあるのだろうし、無駄でもないのだろ。……なら、いい。従ってやるさ。しかし――」

「ええ、これで結果が出ないようなら、いかようにも罰してください。私は最善を尽くしているつもりですが、何事も結果が伴ってこその話ですから」

 

 さりとて、今日明日で成果が出るものでもなかった。長い目で見る必要があると、王子もその点は理解している。

 体の鍛錬も勉学も、モリーが関わっている。適度に身体を動かした後は、頭を働かせる時間だ。

 この点、元から聡明だった王子の相手は楽なもので、いくつかの課題を出してそれを解かせる方式でも充分だった。

 

「今日の私の授業は、ここまでです。後は教育係に引き継ぎますので、今度は頭を働かせるのですよ」

「――何度も言うが、わかっている! 今更手を抜いたりはしない。また明日な」

 

 さらにモリーは、ここでも他者を巻き込んでいる。自分だけではなく、エメラ王女の教育係も巻き込んで、正式に王族教育として成立させた。モリーは自分への負担を減らすとともに、多くの人にかからわせることで、王子の情緒面での発達も期待したのである。

 

 彼女自身、座学に関わることもできるし、いずれそうしようとも思うが――この点は焦らなくてもいいと考えていた。あまり王子を自分の価値観に寄せるのも、それはそれで問題だと気付いたからだ。

 

「多くの人に見えれば、それだけ多くの価値観にも触れることになる。軍人だけではなく、一般的な貴族、官僚たちと接すれば、多角的な視点の重要性に気付くことでしょう。王子には、出来るだけ柔軟な思考が出来るようになってほしいですね。――頭の中まで、私のような死狂いになる必要はありません」

 

 これまでは剣術の訓練を共にすることはあっても、王女と王子の成績を比較するとか、共に机を並べて学ばせるとか、そこまで踏み込んだ関係にはさせていなかった。

 ましてや王族とは直接関係しない、下々の者との接し方については、ここまで気安くすべきかどうか、議論の分かれる所であろう。

 

 付け加えるならば、王子は紛れもなくソクオチの王族ではあるが、人質の身でもある。

 ここで王女と王子に、対等の教育を施すということが、未来においてどこまでの影響を与えるのか。あまりに未知数であり、王家の教育係としては、下手に突くのを避けたのは当然の成り行きであったろう。

 さらに王子の立場になって考えるなら、恋愛関係は近すぎるとかえって意識しにくくなることも多い。二人の関係性を期待するなら、ここまで積極的に関わらせるべきではないかもしれぬ。

 だが、それでもモリーは王子と王女を近づけようとした。二人の関係性はさておき、純粋に能力を向上させるためには、近しくて競争する相手がいた方がいいし、その両者の距離は近いほどいい。

 彼女にとって、重要なのは両者が国際的に良い関係を築くことであって、結ばれることではない。

 それでお互いに幸福になれるのなら応援したいが、恋仲になることだけが男女の関係ではないと、彼女は信じていた。

 

 ……たとえ王子が振られたとしても、自分に自信を持って生きられるように。厳しい教育は、そのためでもある。

 人間関係は、一度悪く転がってしまうと修復は難しいもの。どちらに転ぼうと強く生きられるようにと、モリーは願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 そして指導を終えれば、モリーは現実へと立ち向かわねばならない。最初は忌避していた仕事が、いまや必要不可欠な逃げ場と化しているのだから、皮肉なものだとモリーは思う。

 

「自業自得と言えば、それまでですが」

 

 モリーの身体は、そうした表現が許されるならば――いまだ清いままだった。

 酒に逃げた先にあったのは、意外にも緩やかな拘束であり、暖かな歓迎であった。誰も彼もが、モリーの身体ではなく心を欲していたのだから、寝込みを襲わなかったのは当然というべきだが。

 代わりに、約束を求められた。モリーは、これを断る気力さえなかったから、ただ受け入れるのみである。

 

 1.これまで住んでいた宿舎を引き払うこと。

 2.こちらが指定した住居に移ること。

 3.仕事が終わったら、必ず家に帰ってくること。

 4.任務以外で外泊はしないように。ただし身内の家ならば、これを許す。

 

 ――要は、モリーが許容できる範囲で、その身柄を拘束するための約束だった。

 

「……別段、引っ越しが嫌な訳ではないし、好みの女性と共に住めるのなら、男としてはむしろ嬉しいくらいですが」

 

 いまだ、己の中に『納得』がない。問題と言えば、それだけだった。

 女性を抱くのも抱かれるのも、モリーにとっては恐怖だった。行為には責任が伴う。やってしまえば、己は変化せざるを得ぬ。

 

「好きな人と触れ合うことが、喜びであることは間違いないけれど。――躊躇ってしまいますね、どうにも」

 

 共に寝床を同じくすれば、執着も出るだろう。その人を愛すると言うことは、その人に縛られると言うことでもある。縛られたうえで、己は己だと意思を貫き通せるか――。

 戦いの中で、意中の女性(あるいは女性たち)を思うばかりに、不覚を取ることになってしまわないか。モリーはそれがひたすらに恐ろしかった。

 

 生きることにこだわれば、捕虜になる。勇敢であることを己に課せば、死ぬ以外の道は無くなる。兵法を実行する上では、そうした『とらわれ』の感情から自由でなくてはならぬ。

 

 モリーが生き延びてこられたのは、この手の執着から解脱して、ただ目の前の闘争に無心で向かい合ってきたからだ。このスタンスを崩せば、おそらくひどいことになるだろうと、彼女は自覚していた。

 自覚していればこそ、なおさら迷った。自分に向けられる愛情を、そのまま受け止めることを躊躇ったのも、それゆえである。

 

「惚れさせた責任とか、考えたこともなかったんですがね。――それでも無視ができるほど図太くはないつもりですし。モテ期を実感するなんて、本当に。人とは、変われば変わるものですね? ……まったく」

 

 とはいえ、約束は約束である。モリーはすでに部屋を引き払っており、少ない私物は業者に任せて運び込んでもらっている。

 だから後は、用意された住居に向かって、仕事の疲労を癒せばよい。

 問題は、その住居がザラ隊長の家であることだ。部隊長の家なのだから、居住性に問題があるわけではない。ただ、想い人の傍で生活することに、ひどく気後れしてしまう。

 

「た、ただいまー。……なんて」

「おかえり。――待っていたぞ」

 

 玄関空けたら、ザラ隊長のお出迎え。

 今日が初日だからって、気合入り過ぎじゃないっすかね――と。モリーは内心で、そう答えるのが関の山であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう言う訳で、よそ様の家が自分の家になった違和感に慣れるのが、目下最大の試練と言いますか。

 とにもかくにも現状を受け入れるだけで精いっぱいの日常を、何とか生き抜こうとあがいております。モリーです、モリーです……。

 

 そうだ、私はきっと夢を見ているんだ。こんな風に想い人に夕食の配膳から一緒にやって、お互いの顔を見ながら食事するなんて、出来過ぎた夢みたいじゃないか。そうに違いない。

 

「まだ表情が硬いな、モリー。ここはお前の家でもあるんだ。早々に慣れろとは言わないが、せめて気を抜いて過ごせるようになってくれ。……お前に負担を与えたいわけじゃないし、私だけが楽しむようでは、不公平と言うものだろう?」

「え、ええ。そうですね、その通りです。――お気遣い、ありがとうございます」

「礼などいいさ。お互いに気を使うのもいいが、自然体で過ごせるのが一番だ。まずはお互いの距離の詰め方から、図っていこうか?」

 

 ……現実から逃げるのもここまで。にじり寄ってくるザラ隊長を、私はどう扱えばよいのだろうか。

 いや、扱う? そんな考えこそ、不遜ではないのか。私には、彼女をどうこうする権利など持ってはいないのに。

 

「……私は、どうしたらいいのでしょう」

「わからないなら、私に全て任せればいい。それではいけないのか?」

「納得したいのです。私がその、貴女に、手を出していい理由が、わからない。――それがあったとして、貴女の幸せにつながるという確信が、どうしても持てないのです」

 

 言葉だけなら、想いだけなら、簡単に表すことが出来るさ。口先でも、行動でも。

 けれど、その先にザラ隊長の幸福があるのか? 彼女の人生を豊かにして、喜びのある未来を、共に歩める自信があるのか?

 ――そう問われれば、答えに詰まった。安易に否定すれば、彼女の気持ちを傷つけてしまう。肯定するにしても、納得と確信のない言葉に、どれほどの説得力が持てようか。

 

「大げさだな。思うがまま、望むがままに振る舞えばいいし、刹那的な快楽に身をゆだねるのも人間の本能と言うものだろう」

「そして愛情を持って人と接するのもまた、人間の本能です。愛情など幻想、と解釈する人もいますが――。私は、他者を思いやる心は、人が生まれながらに持つ善性の感情だと考えています」

 

 誰かを、好きになる。好きになったら、近づきたいと思う。

 近づいて、知り合えばより感情は深くなる。好意が募れば、愛情に変化することもあるだろう。

 

 好きな人に、幸福になってほしい。

 私は、そうした想いを抱くことが、愛情の始まりだと思っている。始まりにして、本質であるとも。

 

 だから、ザラ隊長には幸福な人生を歩んでほしい。その為に出来ることがあるなら、一助となりたい。けれど、自分が全面的に関わってしまえば、かえって彼女自身を縛るのではないか。

 幸福にするつもりが、かえって不幸を呼び込むのではないか。そう思えば、どうしても積極的にはなれなかった。

 

「その高い倫理観が、お前の行動を抑制しているんだな。――戦場では、あんなに苛烈な戦いをするくせに」

「剣を持った私と、今の私は別人のようなものです。いえ、もちろんどちらも私ですが、戦場に私情を持ち込まないようにしているので。……有用と思えば、非道なこともやります。私はそこまで言われるほど、立派でもありません」

 

 とはいえ、悪鬼羅刹の類になりたいわけじゃないし、手段は選びたいと思う。

 けれど優先すべきものの為なら、そこそこは外道な手段も取れるつもりだ。……そうした事態は、起こってほしくないと切に願う。

 私が知る限り、速攻で燃え広がる様な火種は、まだ見つけられていない。将来的にはともかく、いましばらくは穏やかな日常を享受できると信じたい所だった。

 

「――まあ、なんだ。これから一緒に暮らしていくんだから、そう緊張してくれるなよ。この家にいる間は、私を上司だと意識しなくていいんだ」

「はい。……わかっていますとも、ご心配なく。すぐに慣れます。熟年夫婦とは言いませんが、それなりに付き合いも長いですし――」

 

 と、ここで玄関のドアがノックされる。来客の音の響きに、ザラ隊長は不機嫌そうに顔をゆがめた。

 

「……誰が来るかは、想像がつくな」

「誰か、訪ねてくる予定でも?」

「拒みはせんと、事前に言っていた。流石に一線を越える日は、誰にも来るなと伝えておくがね」

 

 ……深くは聞かない方が、精神衛生によさそうだ。ともあれ、客であれば対応せねば。

 玄関を開けると、そこには来客が二人。

 

「やあ、楽しんでる?」

「……メイル隊長。楽しむような余裕は、まだないですね」

「そう、残念。私が入り込む余地があったら、今日にでも抱いてもらおうかと思ったんだけど」

 

 曖昧に笑ってごまかしました。――他にどうしろと。

 まあ、でも、冗談が分からないほど追い詰められてもいない。メイル隊長にその気がないことは、私にもわかっていた。

 おそらく、ザラ隊長も。だから、メイル隊長を迎えるのに抵抗はないはずだ。――が、もう一人のお客は、私には初対面だった。

 

「ところで、そちらの方は?」

「ああ、紹介するわね。東方の商人の、ミンロン……だっけ。ちょっとしたことで知り合って、あれこれ話したらぜひモリーに会いたいなんて言ってね。――実際珍しいものを売ってくれるし、何かの役に立つかと思って連れて来たの」

「ご紹介にあずかりました、ミンロンと申します。東方の商人として、様々な商品を扱わせていただいております。――よろしければ、お見知りおきください」

 

 東方とな!?

 ……割とびっくりしました。いやまさか、その中華風の衣装。この世界に中華があるのか……?

 いや別に、あっても可笑しくないとは思うんだけど、実際に目にすると疑ってしまうよ。

 

「こんな時間にお伺いするのは、非礼にあたるかもしれないと、私は思ったのですが――メイル様に誘われまして」

「いいじゃない、別に。モリーは夕方まで何だかんだで残って仕事することが多いし、そうなると部外者が関われるのは夜になってからになるでしょう? ……会って話して損になる相手じゃないと、私は貴女を評価したのよ? 少しは自信を持ちなさいな」

「……では、そのように。商人としては、緊張しっぱなしですが、これもまた経験でしょう。モリー殿、どうかよろしくお願いします」

「ええ、はい、まあ。……いいですけどね、別に」

 

 でもこれはこれで結構な刺激だ。色々と確認したいことはあるし、とりあえず歓待しようじゃないか。

 

「では、お二人とも中へ。――夕食はお済ですか?」

「適当に食べて来たから、別にいいわよ。ああ、でも酒のつまみくらいは欲しいかしら」

「私は……どうぞお構いなく。今回は顔をつなぐだけのつもりで、ちょっとした商談が出来ればいいと思って来たまでですから」

「ミンロン様も、遠慮なさらずに。これも縁です。どうか私の面子を立てると思って、歓待させてください」

 

 日本の文化は、建前の文化と言われることがある。これは『恥』の概念が一般化して、衆人に浸透した結果だと思う。

 対して中華は『面子』が建前の上位に来る文化圏だと、私は思っている。政治的に大義名分をやたらと持ち出すのも、個人の面子がそれだけ重要で、社会的な常識になっているからだと解釈している。

 

「面子、ですか。……クロノワークでは、商談において騎士の誇り(プライド)は、そこまで重要なものとされていないと聞きますが」

「騎士は誠実であることを旨とします。誇りは誠実さから生まれるもの。――私は己の面子を明言しました。……ミンロン様が私に商談を持ち込むつもりがあるなら、私の歓待を受け入れるべきだと思いますよ?」

 

 下手に面子を潰すようなことを行えば、中華圏では社会的にも物理的にも、生死を掛けた殴り合いに発展することがままある。

 大義名分は、これを緩和させるための必須事項だ。日本であれば『恥』をかきたくないばかりに争わずに済むところを、中華では面子のために妥協が出来ないケースがあり、これに折り合いをつけるために建前が必要――と考える。

 

 要は、私が『面子』を主張した以上、よほどの建前がない限り、彼女はこれを否定できないわけだ。お互いの理解に齟齬がない限りは、だけれど。

 

「いえいえ、別段嫌だというのではないのです。ただ、実利的に私がモリー殿のお役に立てるかどうか、わからない部分がございます。期待に応えられるかどうか、それだけが不安なのです。……私に歓待される価値があるのか、と思えば、気後れするのも致し方ないとご理解ください」

 

 しかし否定できないにせよ、意味もなく歓待を受けるなら、それは施しを受けるのと同じこと。

 さりとて施しを受けねばならぬほど、ミンロン女史は追い詰められてはいない。恵んでもらわねばならぬほど、情けない存在ではない――と彼女は言いたいのかも。

 ミンロン女史の面子を尊重するならば、こちらから助け舟を出すのが『礼』というものだ。

 

「――なるほど。そうした考えをされるのであれば、ご懸念はごもっとも。しかし、ご安心ください。私は純粋に、ミンロン様を歓迎したいと思っているのです。これは本音ですよ」

「本心から、部外者の私を歓迎してくださると、そうおっしゃられる? ――ぶしつけな訪問をしたという自覚くらいは、あるのですが」

「その上で、私に利益を持ってきた。そう言い切れるだけの自信もまた、持っているのでしょう? ――貴女は度胸を示し、私は度量を見せる。こうして、お互いに『面子』を尊重するのが、東方の商人のやり方ではありませんか?」

 

 私の方から、再度面子の重要性を口にする。それは彼女の価値観に寄り添う用意があると、暗に示すことにもなろう。

 ミンロンという女性は、決して無能な商人ではないのだと、私の勘が言っていた。『面子の文化』が通じるなら、私の発言と態度だけで、察してくれるはず。

 この価値観を共有してくれるなら、長く付き合うのもやぶさかではないのだが、さて。

 

「なるほど、これは遠慮する方が非礼と言うべきですかね?」

「まさに。ミンロン様は、遠慮なく持て成されればよろしい。――さ、ワインを注ぎますから、どうぞ。我が家では一等、上等な代物ですよ」

「いただきます。……モリー殿、礼を尽くされれば、礼で返すのが我が国のやり方です。まして面子を掛けた商談であれば、誠実に対応するのが筋と言うものでしょう」

 

 受け入れてくれたなら、一定の信頼は寄せていいと、私はそう判断する。

 彼女の態度で確信を得ながら、何気に『我が家』と強調することで、ザラ隊長にも配慮を示そう。

 あの人はあの人で、無視すると怖いからね。お客を遇するのと同じくらいの頻度で、構ってあげないと。

 私は……その、アレです。疑似的にも夫として、うん。――ザラ隊長を伴侶(妻と言い切るほどの度胸はない)として、相応の扱いをしなければいけないと思うのです。

 

「あ、メイル隊長も遠慮なさらないでくださいね。……ザラ、いいでしょう?」

「呼び捨てにするなら、丁寧語も使わずに言えよ。私は気にしないから、ほら。漢らしく乱暴に扱って見せろよ。うん?」

「――ええと、その。何と言いますか、ノリで呼び捨てにして申し訳ありません」

 

 もちろん、私はザラ隊長がそう言って返すことはわかっていたよ。

 でも、ちょっとした諧謔が必要な場面はある。私は冗談が許される雰囲気を、身をもって作り出したわけだ。このノリを解するなら、メイル隊長もミンロン女史も、距離を詰めるのに躊躇はするまい。

 

「モリー殿と、そちらのお方とは、ずいぶんと気安い間柄なんですね。その調子で、私との距離も詰めに来られると。そう思ってよろしいのでしょうか」

「ミンロン様も、そう緊張することはないんですよ。――商人らしく、一個人との商談をまとめに来たんだと思ってください。実際、私は貴女に興味があります」

「……光栄なことですが、どのような種類の興味でしょうか、モリー殿」

 

 理解を示したことで、かえって警戒心をあおってしまったかもしれない。ミンロン女史の声色と態度が、若干固くなっているような気がした。

 これは、そこまでおかしな興味は持っていないと、きちんと言葉にしないといけないね。

 

「書物を持ってきているなら、ぜひ一見させていただきたい。私は前々から、東方の文化に興味があったのです。こっちの言語に訳されていないものでもいいですから、まずはそちらの文化を書物を通じて知りたいのです」

「書物ですか。用意がないとは言いませんが、難しいのではないでしょうか。……訳されていない書物は、ひどく読みにくいものですよ?」

「それはそうでしょうが、まずは試しに。――いけませんか?」

 

 武士の教養としては、漢文は必須事項といっていい。江戸時代まで武士にとって教養とは漢学であり、中国の思想や文学がもてはやされていた。

 憧れが複雑骨折して、日本こそが中国であり中華なのだ! なんて見解さえ生まれたほどだから、相当だと思う。いや、確かに『清』は化外の民の王朝かもしれないけど、日本人だって漢民族からみれば大して変わらんでしょうに。

 この点、理解は難しい。だから私は、単純な興味だけで中華の文化や歴史を愛好していた。今も出来るかどうかは、彼女次第だろうか。

 

「いけないわけでは、ありませんが。……モリー殿が東方の文化に理解を示しているとは、初耳ですね。あの教官殿は、そうしたことは一言も伝えてくれませんでしたが」

「今、初めて口にしたことですから。――私は、東方を注目しています。脅威になりうるかどうかは別問題として、単純に隣人として迎えることが出来るなら、それに越したことはないとも思っています」

 

 なので、ミンロン様。貴女を一個人としても商人としても、特別な感情を持って接しようと思います。

 受け入れてくださるなら、どうかサービスしてくれませんかね。具体的には、貴女の生国の文字とか習慣とか、文化的な背景を知る機会が欲しいんですがどうでしょうか。書物だけではなく、貴女自身の生い立ちや経験を話してくれてもいいんですよ?

 

「私がそうすれば、商談は有利になるのでしょうか、モリー殿」

「こちらの期待に完全に応えてくれるなら、大口の顧客になってもいい、と思います。これでもそれなりに伝手はありますので、紹介する相手には困りません。そちらこそ、ビジネスチャンスを不意にしたくないなら、全力でこちらの要望に応えていただきたいのですが、いかに?」

 

 こちらの中華がどんな経緯をたどったのかは知らないが、それを知ることが出来るならば、財布の金を惜しんだりはしないよ。

 これは面子にかけても本心だと言えば、わかってもらえるだろうか。

 

「……書物は、数は多くはありませんが、持ち込んでいます。ただし売り物ではありません。私自身が読み返すために、手元に置いているものです」

「それほどの、お気に入りの書物ですか。一日だけでも、お貸し頂ければありがたいのですが?」

「本当に翻訳されていませんから、読むのは難しいと思いますよ。東方の文化に興味があると言っても、我が国の言語はいささか複雑でして。――解読できる自信はおありですか?」

 

 ぶっちゃけた話、私は漢文ならそこそこ読める。完全な白文だと厳しいけど、標点本なら何とかね。漢籍にも通じていないと、文武両道の武士とは言えないから――。

 

 ……今自覚したけど、前世の私って、結構気合の入った趣味人だったんだなーと思う。まあ読むことが出来るだけで、漢詩を自作しろって言われたら厳しいから、そこまで自慢できることじゃないよね。

 

「私の知る東方の言語と、まったく同じものであれば、多少は読み解けます。……いくらかでも似通っていれば、もしかしたら読めるかも、と。それくらいの期待ですかね。単なる趣味で提案したことですから、貸し出しを断られても、それでどうこうということはありません」

 

 これが原因で、悪感情などは抱きませんよと、ここで明言する。口にすることは、実際重要で、面子の話を出した以上、曖昧な表現は不誠実と取られるし、言った言葉は撤回できない。そして言ったからには、実行する責任が生まれるわけだ。

 何より、半端な対応では舐められる。結果として、ミンロン女史は行動を持って、私に対する義理を通さねばならないわけだ。

 

「……それでは、こちらを」

「これは――ありがとうございます。つかぬ事をお聞きしますが、常に持ち歩いておられるのですか?」

「私にとっては、座右の書でもあるので。かさばらないよう、文章を厳選して自ら書写したものです。……よろしければ、皆様にもわかるように訳して朗読してくださいませんか? 読める部分だけでも結構です。モリー殿がどの程度の教養をお持ちなのか、私としても興味がございます」

 

 そう来たか。いや、流石にこの場に書物を持ち込んでいるとは思わなかった。

 意外な展開に、黙って傍観していたザラ隊長やメイル隊長も、身を乗り出してくる。

 

「ちょっと、モリー。貴女本当に読めるの? ていうか東方の文化に興味を持ってたなんて、初耳なんだけど」

「私も初めて聞いたぞ。これでも付き合いは長いつもりだったんだが、どこで知る機会があったんだろうな?」

「――ええと、疑問はもっともですが、まずは現物を検めさせてくださいね」

 

 後で言い訳に苦労しそうだけど、これはこれで結構な展開になったと思う。ミンロン女史の書を手に取って見てみれば、懐のポケットに収まる程度の薄さだった。

 表紙は無地で、手作りなのだろう。いささかつくりは荒いが、問題はそこじゃない。緊張しながら、書を開くと、そこには――。

 

「……おい、どうしたモリー」

「びっくりしてるのはわかるけど、何? なんか凄いことでも書いてるの?」

 

 心臓が止まるほどの衝撃と言えば、伝わるだろうか。

 私は今、何を見ているのか。理解が進むたびに、頭の中が揺さぶられるようだった。

 だから、思わず口にした。前世の残滓が、それ以外の行動を許さなかった。文章を音読してから、わかるように解説する。

 

「一言にして以て終身之を行うべき者有りや。子曰く、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」

 

 論語の一節だ。死ぬまで行うべき、そんな一言がありますか、と師に問う。

 師は言う。それは思いやりだ。自分がしてほしくないと思うことは、他人にしてはいけないよ、と。

 

「兵は詭道なり」

 

 孫子の言葉としては、有名な方だろう。

 戦争は騙し合いである。相手が思いもよらぬ方法で攻め、出し抜くことが重要だ。

 

「凡そ先に戦地に処りて敵を待つ者は佚し、後れて戦地に処りて戦いに趨く者は労す。故に善く戦う者は、人を致して人に致されず」

 

 さらに孫子の一節が続く。敵に先んじれば、余裕を持って迎え撃てる。遅れてやってくる敵は、疲労の極みにあるだろう。

 よって、戦巧者は相手を思うままに誘導するものであって、相手に誘導されるようなことはないのだ。

 

「小利を顧みるは、則ち大利の残なり」

 

 韓非子の名言。目先の小さな利益につられると、後々得られたかもしれない大きな利益を失ってしまう。

 商人が心得る言葉としては、何ともおあつらえ向きじゃないか――なんて。そう思ってから、ようやく失言に気付く。

 

「……モリー殿。非礼を、お詫びさせてください」

「あ、え?」

「生半可な知識では、我が国の格言を訳せない。そこまで完璧にそらんじられると言うことは、充分な理解を得られているのでしょう。――ならば、私としても要望に完全に応えねばなりませんね」

 

 ミンロン女史は、覚悟の決まったような、すっきりした顔でそう言った。

 ――やっべ、やらかしたわ。ちょっと、後で言い訳に苦労するような反応は勘弁してくれませんかねぇ……。いや、元はと言えば私が悪いんですが。

 

「モリー、貴女がそこまで東方の言語に精通していたなんて。凄いのね、貴女」

「同感だ。いや、凄いな。……私だって、そこまでスラスラと東方の格言を訳したりは出来ん。いつの間に、そんな技能を身につけていたんだろうな? まったくもって、興味深いことだ」

 

 メイル隊長は単純に感嘆している風だけど、ザラ隊長は違いますね。詳細を聞き出さねば気が済まない、って顔してるよ。

 でも、今はミンロン女史と話しているから。追及は、またの機会に願います。

 

「モリー殿。いくらか言葉が硬く聞こえましたが、もっと砕けた表現が出来ないわけでもないのでしょう?」

「ええ、まあ。もう少し、平易な表現をしようと思えば、できます。ちょっと格好をつけてしまいましたね。お恥ずかしい」

「いえ、それはそれで結構なことだと思いますが、どうでしょう。――貴女にその気があるなら、我が国の書物を翻訳する仕事を受けては見ませんか。売上次第ですが、上手くいけばそれだけで食べていけると思いますよ」

 

 そうすれば、わざわざ危険な任務に飛び込むこともないのだと、ミンロン女史は言った。

 事実であるとすれば、ザラ隊長をはじめとする、私に恋する女性たちにとっての福音となるだろう。

 私は、騎士という職業についている限り、あえて危険を避けるようなことはしないつもりだ。障害を打ち破り、闘争の後に仕事を果たすのが私の役目だと信じている。

 だから、もし荒事に関わらずとも生きていける目算が立ったのなら、彼女たちはそちらの道を進めるだろうことはわかっていた。

 

「今から引退後の話をするのは、少し早くはありませんかね?」

「いや、せっかくの申し出だ。ちょっとした合間の手慰みに、試してみるのは悪くないんじゃないか?」

「ザラの案に賛成。私、東方に興味はなかったんだけど、モリーが訳した書があるなら、ぜひ読んでみたいわね」

 

 この展開を予想していたわけでもあるまいが。ミンロン女史は、商機を見つけたと思ったら、これを引っ掴んでものにするだけの決断力があるんだろう。

 少なくとも、商談を人任せにせず、自ら背中を押してくるだけの話術は持ち合わせていた。

 

「――では、次はいくらかの書物を用意しましょう。こちらから申し出たことですし、それらの書物はそのまま進呈します。翻訳の期限は定めませんが、時折進み具合を確認させてください。報酬はその出来次第、ということに致しましょう」

 

 すでに決まったことであるように、彼女は言ってくれる。

 嫌とは言わないし、暇つぶしにもってこいなのは確かだ。私個人としても、前世の漢籍とのつながりとか、同一の部分や相違点があるなら把握しておきたい所でもある。

 なので、東方の書物をいただけるなら、翻訳作業は厭うものではない。報酬もついてくるなら、なおさらだった。

 

「後は――そうですね。仕事の話ばかりというのも、味気のない話です。今度は東方の珍しい品々も見ていただきましょうか。どの商品が売れ筋になるか、意見は多いほどありがたいですから」

 

 もちろん、良心的な価格で――とは、ミンロン女史のお言葉です。

 ありがたい話だが、うま過ぎるような気もする。ここまでして、彼女に利益があるのだろうか? 色々と人脈を紹介すれば、大口の顧客にはなれるかもしれないけど、それは私でなくともいいわけで。

 訳した書籍とて、売れるとは限らないのだし、投資するには不確定要素が多すぎるんじゃないかなー。

 

「ここまで話が進んでしまった以上、断ったりはしませんよ。興味深いのは本当ですし。でも、少し不安ですね。本日であったばかりの人間に、そこまで入れ込むのは商人としてどうなのでしょう?」

「私の手腕に疑問があると、そうおっしゃられる。――わかります。付き合うなら信用できる相手がいい。信用と能力は、この場合不可分です。商談であれば、確かにそうでしょう」

 

 ミンロン女史は、そこから捲し立てるように己の存在を強調した。具体的には、東方の商人という希少性と、各国につながる国際的なコネクションの話だ。

 故国からクロノワークまでの道のりは遠く、商品を輸送するには相応の人脈が無くては無理だ、というのはわかる話。そして有能さ以上に、人格を信用されなければ、そもそも出入国の許可さえでないものだ。

 

 そうした話を、アレコレ語る彼女の姿は、なるほど。それだけで信用したくなるだけの説得力があった。

 雄弁で口が回るくせに、嫌味が無くて憎めない商人だな――って、私はなかば絆されたような感情を抱いていた。

 最初に興味を引かれたのが、いけなかったのだろう。切り捨てる必要性も切迫性もない状況が、ミンロン女史に優位を与えてしまう。

 私は、少しでも気に入らなければ拒絶すればいいだけだ。それで損失などない。

 だが、利益も得られぬ。東方に縁のある品々と聞くと、どうしても日本とか中華の存在が頭にちらついて仕方がないというのに。

 

「私の負けですかね? これは」

「継続した付き合いを、お願いしたいと思っております。――禍根を残したくはありません。何かしら希望があれば、最大限考慮させていただきます」

 

 これはミンロン女史の本音だろう。私との付き合いを重く見ているのだという、わかりやすいアピールでもある。

 だからこそ、邪険にはし辛い。関係を維持するのに異存はないから、とりあえず今日のところは普通に歓待して、酒席を共にしてしばし雑談にふけるくらいはいいだろう。

 

 ……いちいち話す言葉に如才がなく、多少の会話だけで絆されそうになったのは、ミンロン女史の才覚がそれだけ優れているからか。

 歓談の後、別れが名残惜しく思えた時点で、もう決着はついていたんだと思う。

 

「まあ、今回は軽い挨拶のつもりでしたから、ここで失礼させていただきます。――後は、どうぞ御ゆるりと」

「……そうですか。ええ、では、また。今度は出来れば、様々な種類の書が欲しいですね。歴史書、思想書などがあればいいのですが」

 

 検討しておきましょう、とだけ述べて、ミンロン女史は去った。

 ――さて。部外者がいなくなれば、あとは身内だけが残るわけで。

 

「夜は長いぞ、モリー。とっくりと、話し合おうじゃないか」

「私も興味深いことになったから、当事者として参加させてもらうわね? ……あの商人を連れて来たのは私だし、それくらいの権利はあるでしょう?」

 

 ……その夜は結構大変でした。

 嘘はつきたくなかったんで、色々とぼかしたり、無難な範囲で答えたりしましたけど、上手に誤魔化せた気がしません……。

 でも明日も仕事があるわけで、ほどほどのところで開放してくれました。ベッドまで同じじゃなかったのは安心したよ。うっかり潜り込まれたら、寝れなかったかもしれん……。

 

 流石に今日休めないとなると、明日の業務に差し障るので、もう何も考えずに休みたいと思います。

 そうして私は、明日以降の仕事やら未来への展望やら、何もかも忘れて、意識を落とすのでした――。

 

 





 いかがでしたか? 楽しんでくださったなら幸いです。

 この物語も、終わりが見えてきました。話自体はまだ続きますが、方向性はほぼ固まった気がします。

 原作の展開次第で、いくらかは伸びるかもしれませんが、おおよその形は定まりました。
 あとは、完結まで走るだけ。最後まで付き合ってくださるなら、筆者としてこの上ない喜びです。

 次の投稿は、五月の半ばくらいになるでしょうか。出来れば、五月中に二度投稿したいのですが、こればかりは勢いとノリ次第なので確約できません。






 ……そろそろ私以外にも、この作品の二次創作が生まれてもいい頃だと思うのですが、一向に現れないのはなぜなのでしょうか。

 『33歳独身女騎士隊長。』は料理し甲斐のある題材だと思うので、もっといろんな方々が挑戦してもいいと思うのです。
 個人的に、自分以外の方の解釈も見てみたいので、今後に期待したいところですね。

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