これで、本当に終わりです。三年以上にわたって続けてきたお話も、ここで幕となります。
もしかしたら、外伝的なお話を後で書くかもしれませんが、それよりは次回作の方に気を取られているというのが現実です。
ここまで見てくれた貴方に、感謝を。
最後まで期待に添えられる出来になっていたなら、幸いです。
モリーの東方における先見性の高さを示す例として、東方会社の設立にかかわったことがよく取りざたされる。
だが、本当に最初から分析するつもりなら、もっと以前――彼女がミンロンと接触したところから、始めるべきであろう。
東方商人であり、商売を生業とする一族の出身。なおかつ高い教育を受けており、多くの資金と物資を動かせるだけの力もあった。そうした彼女を通じて、東方の情報も売り買いしていたというのが、後世における分析である。
「ぶっちゃけ、存在そのものが反則ですよね、モリー殿って」
「いきなり、なんです?」
東方会社においても、ミンロンの地位は保証されていた。特別顧問であり、東西両方での自由な商業活動を許されている彼女の立ち位置は、モリーに準じるものとして扱われている。
もっとも、それはモリーがミンロンに便宜を図っていればこそ、という部分が大きい。なぜここまで彼女を特別視していたのか? 後の世でも、多くの議論が交わされるところだ。
この点については、商業の重要性を理解していたから、手近な商人を篭絡し、便利使いする必要があった。――そうした結論が、現代では一般的である。
「まず西方人でありながら、東方の言語を理解していること。その上で、東方独自の思想について造詣が深く、文化的な理解力が図抜けて高いこと。……正直、西方人でこのレベルに達している人は、貴女以外にいないと思いますよ。同レベルの人材を求めても、百年単位で見ないと出てこないんじゃないですかね。どんなズルをしたら、そんなことができるんでしょうか」
「読み書きが上手いだけですよ。東方の方言までは、流石に網羅できていませんから」
「公文書を作成できて、行間を読んだ理解ができる。それだけで、東方における商業、政治活動に支障はありません。まあ、色々と問題の多い我が祖国ですが、ここら辺は統一国家らしい強みが出ているのですね。――とりあえず、公用語の普通話ができていれば、地方の知識階級への働きかけは出来ます。東方各地を渡り歩く商人や、科挙を目指す若人なら、絶対に納めるべき言語ですからね」
東方国家は、とにかく広大な土地を収めねばならぬ関係から、統一言語を定めてこれを公用語として運用している。
公文書や公式の場での会話は、全て普通話と呼ばれる首都圏の言語を使うことが習わしだ。
モリーはこれを問題なく使えるし、東方会社に所属する連中には例外なく学ばせていたことが、明らかになっている。
「それだけなら、別段反則と言うまでも無い気がしますが」
「現時点でそれができると、初動がそれだけ捗るわけで――。正直に言うなら、こちらの言葉もわからない相手に、皇帝陛下も臣下になってほしくなかったと思うんですよ」
「ええ……? じゃあ、私でなければ、そもそも謁見すら不可能だったと? 私以外の人が東方会社の代表になっていたら、早々に詰んでいたんじゃないですか」
「まあ、これは私個人の勝手な分析ですから。実際のところは、違ったかもしれません。でも、やっぱりモリー殿以外が東方で政治力を発揮するのは、難しかったと思いますよ」
言語は、それだけ大きなものだ。しかし、相手側の文化を把握しなくては、結局はそれも不完全な理解に終わる。
この点、モリーは不自然なまでに完璧だった。『璧を全うする』という意味でも、語源の理解から運用の適切さまで、文句のつけようがないほどに。
「暗黙の了解を含めた、面倒な作法についても、ほぼ把握されていますからね。最初は机上の理解にすぎなかった部分もありましたが、こちらでの人付き合いを続けているうちに、不足なく出来るようになられました。……西方商人の連中は、だいたいこれがわからない。それどころか、出来るようになろうとも思わない。モリー殿は、そういう意味でも得難い存在ですね」
「どうでしょう。一応、名士階級や商人たちとの付き合いは、問題なく出来ているつもりですが――。知らないうちに、やらかしている部分もないとは言えないでしょう」
モリーは公式の場での失敗が、ほぼ見受けられない。東方において、西方人がそれだけわきまえた行動を取れている時点で、彼女の異質さがわかるだろう。
おおよそにおいて、西方の知識階級が東方にやってきたとき、偏見のためにお互いを小ばかにし合うのが当たり前だった時代である。そこで相手を立てて、自身を揶揄されても聞き流せるだけの度量を持っていたことが、モリーの長所だった。
また、そんな彼女であればこそ、周囲も助けてやろう、多少は目こぼししてやろうという気になったのだろう。
彼女の部下や、交渉相手からも、彼女への悪印象を記している資料は、後世に残っていない。東方的な表現をするなら、それだけの人徳を持っていたとも考えられるだろう。
「そこは、周囲がフォローしてくれる部分ですからね。自覚がないかもしれませんが、実害がないなら、上手に助けてもらっていると思っていいでしょう。……名士階級なんて、私から見たら複雑怪奇で、面倒ばかりが多い手合いなんですから。商談の中でも『これくらいは知ってて当然』ってくらいに軽い口調で、古典の例えやら詩文の一節やらを使ってくださる。遠回しな嫌味とか拒絶とか、理解も出来ないなら口を利く価値もない――なんて態度を平然と取りやがるんです。モリー殿は、そこをきちんと対応できているのですから、充分すごいと思いますよ」
歴史も含めて、東方をそこまで深く知っているというだけで、モリーの存在はひどく反則じみていたと言える。この点、どうやってそんな教養を育めたのか?
ミンロン自身、モリーのそうした部分には常々疑問を持っていたことは、様々な資料にも共通して見られる部分である。
少なくとも、古典の教養についてはミンロン経由でないことは確かであろう。しかし、それならいかにして読み解いたのか。東方の言語に精通した教師など、当時のクロノワークには存在しなかったというのに。
どんなに調べても接点がないことばかりが証明されるので、後世の歴史家であっても、こればかりは想像で語るほかないのだった。
「知らないなら、勉強すればいいだけでは? 今となっては、専門の教師も東方会社は抱え込んでいます。勉強の機会には事欠かないのに、それくらいの労すら惜しむ人間が、東方で商売やら外交やらをする方が間違っていると思いますが……」
「自覚がないならないで結構ですが、自分と同じことを他人に求めないように。――と、ここまでが忠告じみた雑談ということで。……本題に入りましょうか。交易は順調ですが、そろそろ私の商会が抱えている職人や知識人たちの扱いについて、色々と難しくなっておりますので」
「……ええ、はい。どうぞ、何でもおっしゃってください。――私の力の及ぶ範囲であれば、どんな問題ごとでも真摯に対応いたしましょう」
ミンロンは、自身の商会が大きくなるにつれ、多くの問題を抱えるようになったという。
それもそのはずで、東西をまたにかける大商人となった彼女は、それだけ多くの部下を持つようになっており、国籍にかからわず有能な人材を採用していた。
仕事上、それは当然のことであるともいえるが、結果として国際色豊かな部下に対して、雇用者としての配慮を求められる立場でもある。
大商人ミンロンは、いまや文化的な摩擦に対して、なあなあで済ませられるような、気楽な立場ではなくなっていた。それだけ彼女の影響力が強くなった証でもあるのだが、手広く商売するのも痛し痒しである。
そうしたミンロンの苦労を分かち合い、気持ちを共有できる相手と言えば、モリーを置いて他にはない。そういう意味でも、彼女たちはお互いをかけがえのない存在だと思っていたことは、事実であろう。
ミンロンが残した書簡の中には、モリーに仕事上の配慮を求める内容のものや、文化的な軋轢への相談事などが、細かに記されていた。
ミンロンは私生活まで彼女に頼ることはなかったが、実務の上ではモリーを最も信頼していたというのが、当時も後代も一致した見解として周知されている。
「――しかし、アレですね。モリー殿がシルビア妃殿下から養子をもらい受けるとなると、我々も権威のおこぼれにあずかれる、ということでしょうか。その辺り、どうなんです?」
「おこぼれどころか、ミンロン様はその恩恵を直接受け取ることになりますよ。やっている仕事が仕事ですからね。……交易のみならず、東方と西方の文化的交流。その中心的役割を、貴女には担っていただくのですから」
ミンロン個人の商会が、東方会社においてどれだけ大きな存在であったかは、後世においても議論の余地がある。
きわめて重要だったという分析もあれば、その影響力は限定的だったとする理論もあり、どちらもが相応の説得力を備えていた。
実際のところは、少なくとも個人的な付き合いを維持する程度には、お互いを重要視していた――なんて無難な結論に行きつくのである。
「東方会社から、我が商会への直々のご依頼ですからね。モリー殿から直接支援を頂けるなら、あれこれと様々な形で要望を提出したくもなります。――なんであっても、真摯に対応していただけるのでしょう?」
「限度はありますが、二言はありませんとも。妻たちとは違う意味で、私はミンロン様が大切ですよ。――替えの利かない、とても大事なお人。出来る限りの便宜を図りましょうとも……ええ、ええ」
東方会社を語るならば、その成り立ちと業績と共に、モリーの存在を語らねばならず――。
彼女と個人的につながっていた、ミンロンと言う東方商人の存在も欠かせない。
もとはたかが一商人に過ぎなかった、彼女の波乱の人生。そもそもの始まりが、モリーとの関わりであったことから考えても、やはりこの時代を代表する、成り上がり商人の一人であると言えるだろう――。
【ミンロンのその後について】
西方で成功した、もっとも有名な東方商人。ゼニアルゼ、ソクオチ、クロノワークの三国に商館を立て、その取引量は西方でも有数である。
東西両方から多量の交易品を仕入れ、捌き続ける手腕は、後世でも商人の模範として高く評価されている。
これは当人の才覚以上に、王族に顔が利き、東方会社においてもモリーからも特別な便宜を図られていたことが大きい。
彼女の商会は、その子孫が代々受け継いで、現代においては東方における代表的な企業にまで成長している。
国籍や出自を気にせず、ただ能力のみを重視する姿勢も、後代に受け継がれた。東西が文化的、政治的に衝突した際は、ミンロン商会を頼ること。それが定番となるほどに、大きな業績を今に伝えている。
そして創業者である彼女の存在は、東方における女性の社会進出の成功例として、後世まで語り継がれることとなったのだ――。
後世の視点から、モリー個人のみならず、モリー家そのものについて語るとするならば。
誰よりも何よりも、まず最初に口にするべきは、メイルの実績であろう。鉄火場を含めた有事に際しては、自ら割って入っては取り仕切り、全てをこともなげに納めた。
彼女こそは、東方会社における最大の武力の担い手であり、もっとも有名な西方軍人として語られるべき人物だった。
「誰よ、こんなガバガバな警備計画を立てたヤツは! 修正案を至急提出させなさい。私が交易護衛隊の監督に出るまでの間に再提出させなさい。とりあえずの添削は副長に任せるから、悪いけど付き合ってあげて。下の連中も、こうやって育成しておかないと、いざって時に慌てることになるからね。……ボーナスの査定は色を付けてあげるから、お願いするわ」
そう言って、メイルは今日も自らの義務を果たし続ける。彼女自身が選んだ副長は東方人だが、補佐としては充分な能力を持っていた。
そして、彼女は仕事を果たした人間に対して、見返りを与えることを惜しまなかった。それだけの権限を与えられていたから、ともいえるが、良い例が周囲にあったからかもしれない。
メイルは仕事だけではなく、部下のケアも細かく、適切に出来ていたことで周囲からの評価も高い。
なにより、彼女にはより自分のことを理解してくれる、頼もしい上司にして夫が存在した。
「絶好調ですね、メイル」
「モリー。わざわざ確認しに来なくったって、私の方に問題はないわよ? 手がいるとしたら、教官の方じゃないかしら」
「もちろん、これからお伺いに参りますが、その前にメイルの方にも顔を出したくなりまして。――ああ、ご心配なく。仕事の邪魔をする前に帰りますから」
部下の職場にも、あるいは妻の現場にも、気軽に顔を出すのがモリーという人物であった。
代表職でありながら、その代わりの利かない仕事に手を尽くしながらも、組織運営には人一倍敏感で細やかな気遣いを忘れなかったと言われる。
「じゃあ、本当に顔を見に来ただけ? 代表職だって、暇じゃないでしょうに」
「妻の様子を見る位の暇は、どうにかして捻出しますよ。――では、また夜に」
「……ええ、また」
そして、それ以上に気遣っていたのが、自身の家庭環境であった。職場でこそ自重していたが、休日などは共に出かけたり、あるいは一日自宅で缶詰めになっていることもあり、とにかく仲睦まじいことで有名であったという。
メイルが他の妻たちとどう違ったのかと言えば、仕事上ドヴールを離れることが多く、まとまった休暇が取れなかったので、相対的に夫婦で過ごす時間も少ない方だったことがあげられる。
それだけに、ちょっとした時間を見つけては、顔を合わせたり言葉を交わしたりすることを、モリーはマメに行っていたということである。
「……もう行っちゃったか。家に帰れば会えるんだけど、一度顔を合わせてから離れると、なんだか寂しくなるのよね。――でも、今は現実に向き合う時間なんだから、仕事に戻りましょうか」
メイルは、自分が必要とされる限り、その期待に最大限に応えた。
そして、彼女の夫たるモリーは、終生彼女の助力を必要とした。公務であれ、私事であれ、彼女の存在は、モリーにとって欠くべきでない一要素であったことは、間違いないことだろう――。
【メイルのその後について】
東方会社の警備部門担当。モリーが代表職を退くまで務め、彼女の目の届く範囲では、いかなる違法行為も逃れられなかったという。
腕っぷしについては伝説的な話が残されており、暴れ牛を素手で制圧した。剣で岩をサイコロのように切り出した。ベッド下に潜んでいた暗殺者を察知し、返り討ちにしたなど。
誇張が入っているにしろ、超人的な戦力を持った個人であることは疑いない。典型的なクロノワーク騎士として例えられることが多く、文武両道かつ純朴で、質素な生活を苦にしない性格であった。
ちなみに、私人としては割とだらしない人間だったらしく、夫であるモリーに色々と世話をされていたという話が数多く残っている。
彼女のシーツを洗濯することは、モリーの日課であったと、当時の日記に記されていたことは有名である――。
クッコ・ローセがどんな意味で特別であったかと言えば、モリーの家庭内では誰も彼女に逆らえなかった、という事実が全てを表している。
一番の年長者であったのは確かだが、それ以上の貫禄が、彼女にはあった。ザラにせよメイルにせよ、クッコ・ローセに対しては常に遠慮があった。クミンとて、その経験の深さには敬意を表して、彼女の前では決して出しゃばらなかったと記録されている。
「今期の新兵どもは、出来が良い。東方会社の兵隊は、待遇面での評判も良いから、質の悪い馬鹿だけではなく、勤勉な働き者も志願するようになったと聞くが――それが兵の動きにも出てきているな」
「実際、給料は相応に出していますからね。勤務年数を重ねて、功績を立てれば、副業も許しています。……これでいい人材が入ってこない方が可笑しい、というものですね」
クッコ・ローセが調練に精を出している中でも、モリーは機会を見つけては、彼女の元を訪れていたという証言は多い。
場合によっては、そのままモリーも練兵に参加した記録さえある。夫婦の共同作業としては、物騒に過ぎるものだろうが、後世ではクロノワーク騎士の嗜みとして、好意的に語り継がれている。
「で、なんだ。今更、新兵の掛け声やら走り方やらを指導する立場でもあるまい。本格的な模擬戦も、まだ先のことだぞ?」
「理由なく来てはいけないのですか――なんて、艶っぽいことを言いたくもあるのですが。残念ながら、一応の口実はあるのですね。……クッコ・ローセ直属の教え子を、さらに増やしていきたいのです」
「へえ、今でも後任は育ててあるつもりだけど、まだ足りないって?」
「貴女に代わって新兵を調練する者が多く現れれば、それだけ貴女は精兵の育成に精を出せるというものでしょう? 私の言いたいことが、わかると思うのですが」
「――ま、それはそうだ。東方会社も大きくなっているし、新兵の割合も増えてきた。私一人で何もかもを見るわけにはいかない、というのは事実だろうよ」
阿吽の呼吸と言うべきか、二人の間には、くどい説明が繰り返されることは一度としてなく。
それどころか、言葉以外の部分でつながっているとでも言うかのように、ごく自然に意志の伝達が出きているように、はた目には見えていたのである。
「で、本当のところは?」
「クッコ・ローセとも色々な時間を過ごしたいです。なのに、最近は忙しくて、そんな機会も作れません。……今は仕方ないとしても、半年後くらいには、気軽に旅行に行けるようになりたいですね」
「半年では足りんな。せめて、あと一年くらいは、教え子どもの様子を見たいところだ。――経験を重ねるほどに、教官職は欲を出してくるものだ。あれがしたい、これがしたい。これくらいはできるはずだ、あと何か月後には、これくらいできてなきゃいけない――なんて。指導すればするほど、足りない所ばかりが見えてくる。その割り切りと見極めが、教え子どもはなっちゃいない。今しばらくは、私が監督してやらんとな」
クッコ・ローセの何が偉大であったかと言えば、自身の分身ともいえる教え子を、多数輩出したことである。
しかも、誰もが例外なく有能な教官となったという事実からすれば、彼女の教導能力の高さが伺えよう。
「今しばらくは、忍耐の時ですか。――こちらも、これで何度目かわからない、ゼニアルゼ商工会との折衝が控えています。業突く張りの相手は、私も難しくて疲れますよ」
「お互い、大変だな」
「ええ。でも、先は見えていますから。よりよい未来のため、今の努力を怠るわけにもいきません」
この頃、モリーには先の展望が見えていたらしい。それの正しさまでは、クッコ・ローセも問わなかった。
間違いを犯したところで、共に沈むだけ。彼女の覚悟は、すでに決まっていた。それがわかっているから、モリーもまた励むのだ。
「お前はお前の仕事を、私は私の仕事を全うしようじゃないか。――また、帰ってから話そう。忙しいのは、お互い様だろう?」
「ええ、ええ。まさに、その通りでしたね。……では、また」
クッコ・ローセに促されて、モリーは自身の執務へと戻る。夫がどんなことをして、何を社会にもたらそうとしているのか。彼女とて、正確なところはわからない。
「あいつが何をしようと、私のやることは変わらん。……せめて、いつ何が起きても良いように、余裕を持たせておくこと。出来るのは、それくらいだな」
モリーの思想については、理解さえ及ぶかどうか――というのが、当人の感想であった。
だが、それは人生を共にする上では、さほど関係ないことである。
クッコ・ローセが、モリー家で特異な地位にあったとしても、それを笠に着た行動を取るような人ではない。
その信頼が持てるという意味で、やはり彼女は、モリーに取って特別な存在であったと言えよう――。
【クッコ・ローセのその後について】
東方会社の警備部門で教官職を務める。東方会社の護衛隊だけではなく、ドヴールの衛兵なども指導した記録が残っている。
モリーが代表職を退いた後も、教え子たちの働きにより、兵の質が落ちることはなかった。
短時間で精兵を仕上げる達人であり、かつてはゼニアルゼのお嬢様方を一端の精鋭に変えた実績を持つ。それは伝説的な偉業として、後世に語り継がれるほどのものであった。
私生活においては、常にモリーを立て、我を通すことは一度もなかったという。クッコ・ローセは誰からも尊重されていたが、当人は極めて慎ましく、協調的な姿勢を貫き通した。まさにそうした精神性が、モリー家を陰から支えていたと評価されている。
年長者であり、体の衰えが一番早くに出たはずであるが、それを気にした様子は見られない。
モリーは最後まで変わらず、クッコ・ローセを深く愛した。引退した後は、モリーを家庭面から大きく支えたという――。
クミンは風俗店の経営の傍ら、情報屋として多方面の交流に余念がない。
やり手婆、と言われるほどの年齢ではないが、むしろその異質ともいえる若さが、彼女を特異な地位に追いやっているともいえる。
彼女の力の源泉として考えられるものは、まず第一にモリーが大っぴらに後援していること。
それに付け加えて、シルビア妃殿下とのコネクションもあり、その気になればいつでもゼニアルゼの権威を利用できる――という、まさに彼女だけの強みがあるからだった。
「舐められない程度の実績は、とりあえず挙げていますからね。それもこれも、モリーさんの後援あってのことです」
「私と妻たちの武名によって、クミンは権威を得られる。私たちは、クミンが得た情報を活用して、謀略対策や相場予想を行い、結果として恩恵が行きわたるようになる。――お互いに、いい関係が築けていると思いますよ。だから、必要なら強権を振るうことも躊躇いません」
「んー、今は結構です。自分の力だけでも、最近は色々やれてますんで」
経営店にいる間、モリーは彼女の立場を保護する態度を隠さなかったという。場合によっては、見せしめに無法者を捕えることも何度かあったと記録にはある。
これは夫としての見栄ではなく、権力者としての示威行為であったとみられる。クミンが舐められないように、弱い部分は露出させないという気遣いが、そこにはあったのかもしれない。
「必要なら、こちらから話を通します――なんて。改めて言うことでもありませんね。で、モリーさん。今回のご用件は?」
「ゼニアルゼから、商工会の幹部連中がやってきます。ドヴールの流儀に疎いので、そちらの店で歓待しつつ、色々と教えてあげてほしいのですね」
表立って、やれることはやったうえで、そうお願いする――と、モリーは付け加えた。
前提として、東方会社の規約については、皆が把握している。東方の不文律についても、言葉で伝えられる部分は可能な限り教え込むつもりだ。
しかし、それで誰もがお行儀よくなれるなら苦労はない。クミンに頼るのは、実地で身体でわからせてやりたいからだった。
「寝屋で仕込むのは、流石にあからさまが過ぎるので、ちょっと工夫してみましょうかね」
「すぐに結果を求めるのも、難しいことでしょうし、経過を見ていきたいと思っているので、性急な手は使わなくてもいいんですよ? ……行儀の悪い連中は、また別ですが」
「なるほど、なるほど。しかし、そちらとこちらで、教育の方針にずれが生じても面倒。もう少し、具体的な内容まで詰めておきましょうか」
「はい。――今日は、そのために時間を作ってきてますから」
モリーとクミンが職場で顔を合わせたときは、大抵が悪だくみと相場が決まっていた。
それがわかるから、自然と周囲も気を使って、場所を作ることにも文句はつけなかったそうな。
万が一、耳に入れてしまった場合、巻き込まれることを恐れていたのである。
「クミンも、部下から恐れられるような立場になったと思うと、感慨深いですね」
「私がそんな風になってしまったのは、モリーさんのせいでしょうに。ひどい人ですね」
「おかげさまで、ひどい人とか、悪い人だとか、結構言われ慣れてしまいましたよ。――なので、それも一種の誉め言葉だと思うことにしています。なにしろ、そんな言い方をしてくれるのは、ザラか貴女くらいのものですから」
クミンの前では、他の女性の名を口にすることも、モリーは憚らなかったと言われている。
そんなことで機嫌を損ねる人ではないと、クミンの性格を見切っていたのだろう。そうした割り切りは、部外者から見てもわかるものだ。
「だから、ひどい人だっていうんですよ、モリーさん」
「自覚したうえで、向かい合っています。それを許してくれるのは、貴女だけですから。――ええ、私の自由を許してくれるのは、クミンだけ。本心から言っていますよ、これは」
「……嘘じゃないってわかるだけに、質が悪いんですよね。まあ、いいですけれど」
クミンは常にモリーの期待に応え、その役割を全うした。その働きについては、モリーが功績を記しているので、後世でも知ることができる。
風俗業を利用することが、情報を収集するうえで重要であることを、この時代、この時点で理解していたことは、彼女らの先進性を表していると、評価されることになる。
「他に、私に求めることはありますか?」
「しいて言うならば、今夜は貴女と同じベッドで眠りたい、ということでしょうか」
「……その言い方は、私以外には通じませんからね。あからさまな誘いの言葉は、妻と夫の間であればこそ、意味を持つものでして――」
「ならば何も問題はない、といことでよろしいですね? まさに、私とクミンは夫婦なのですから」
モリーの家は、夫婦間のトラブルの話がなく、妻同士はお互いを尊重し合っていることで有名だが、それはモリーの努力による部分がやはり大きい。
モリーも、自身の努力の形を隠さなかった。政治的な意味でも、必要なことであると理解していたからだ。
「――まったく。私が嫁いできた幸運を、モリーさんはよくよく理解するべきですよ? 悪い虫が近づいてこないのは、私が裏で処理しているおかげなんですから!」
「ええ、ええ。痛いほどに、理解しています。だからこそ、奉仕を惜しまないのです。……心に、体と、お金、あとは権力くらいですか。私が貴女に与えられるものと言えば、それくらいですが――」
「それだけ私を評価してくれる人は、他に居ません。……だからこそ、モリーさんの傍を離れられないと言いますか。――本当、悪い奴に引っかかったと思いますよ。だからといって、後悔なんてないわけですが」
クミンの出自ははっきりしている。ゼニアルゼ貴族の娘であり、その貴族が商業的に失敗したため、娘をハーレムに入れざるを得なかったという。
判明している事実が全てではあるまいが、そもそも一個人の背景を完全に理解することなど、余人にはできぬ。モリーもまた、それは同じであった。
「過分な評価、ありがたく思います。私と過ごす時間が、クミンの後悔とならぬよう、これからも精進せねばなりませんね」
「おや、私はそんなに怖いですか? わざわざ私に気に入られる努力をする必要性なんて、そこまでないでしょうに」
「――まさか。私は、クミンを過小評価しません。貴女は、私が努力して機嫌を取らねばならぬ方。それだけの価値ある人なのだと、あえて明言いたしましょう。……妻に向ける言葉としては、あまりに実務的で情に欠ける物言いですが、この場合はむしろ適切な表現だと信じています」
モリーは、クミンの努力を認めた。その成果に対し、言葉でも態度でも、そして実利的にも完全に応えた。
たとえ才覚があったとしても、元はハーレム嬢で、他人の手垢に塗れた者を、自身の家庭に受け入れるのは難しいはずだ。
だが、モリーその点をまったく意に介さず、クミンを妻にした。モリーが危惧したのは、シルビア妃殿下の紐付きだったからであり、政治的な理由が大きかった。
そして本当の意味で家族として受け入れた後は、はばかることなく甘やかした。女性としては、むしろ積極的に、肯定的に評価していたことが、当時から見受けられる。
「モリーさんには敵いませんね。――負けを認めた相手を、貴女はどうしますか?」
「もちろん、丁重におもてなししますよ。……では、そういうことで」
複雑な事情があったにせよ、クミンの存在が、モリーの立場を押し上げていたのは間違いない。
他にも多彩な選択肢があったはずなのに、彼女が終生、モリーの妻と言う地位を捨てなかったのは、それなりの理由があるという。
ただ、後世の人間がどれだけ分析しようとも、当人たちが納得していた以上、当世において周囲の声は野暮にしか聞こえないものであったろう――。
【クミンのその後について】
東方会社の傘下にある、風俗業のとりまとめ役――といえば、ふわっとした解釈になってしまうが。実際の役職としては、有名店の店長、という立場に過ぎない。
ただしその実態はと言えば、東方の裏にも表にも根を張る、情報網の元締めとも言える。
彼女がその気になれば、東方において、探れないことは何もないだろう。ゼニアルゼにも伝手があり、『天使と小悪魔の真偽の愛』への所属も、終生取り消されることはなかった。
モリーの妻としては、もっとも大きな権力を持った存在である。しかし、家庭内ではもっとも地位の低い存在でもあった。
悪感情を持たれていたわけではないが、打ち解けるまで時間が相当にかかった様子で、本人もその愚痴を外部に漏らしていたこともあったという。
――それが謀略の一手であったのか。本心がいくらかでも含まれていたのか。その判別は、後世においても簡単に分析できるものではなかった――。
他の妻たちが、独自の能力をもってモリーに尽くしていたのは事実だが――。
その中でもザラは彼女の右腕として、あるいは半身として、陰に日向に活躍していた。事業への直接的な貢献度という意味では、メイルよりも高く評価すべきだという声もあったほどである。
「東方から西方への銀の流出が、そろそろ問題になりそうだ。――まだまだ見守ってもいい段階だが、介入の準備くらいは始めてもいいだろう」
「その辺りの時期の見極めは、ザラを信用します。備蓄はどこまで吐き出せますか?」
「自腹を切ることは重要だが、そればかりでは舐められるぞ? ――こちらが名前を貸してやっているのは、何のためだと思っている。ゼニアルゼ商人どもにも、多少は割を食わせてやらんとな」
ザラ自身に特別な権力があるとすれば、それはモリーの信頼を勝ち取っていて、いつでも助言できる立場にあったこと。
それに対して、誰かが苦言を呈することも出来ないくらいに、彼女は自身の地位を実力で確保していた。
「難しくはありませんか? 彼らはその、繊細なところがございますので――」
「暴発に気を使う必要はあるが、実行はそこまで難しくないぞ。割を食わせるとは言ったが、飲み込んでなお余るほどの恩恵も与えているはずだ。……ま、時間はある。どうしても巻き込めないなら、それはそれで別の手を考えるだけさ」
ザラがモリーと思想を同じくしていた、と証明する記録はないが、モリーの思考を理解し、実行することにおいて、彼女はもっとも有能であったと言える。
「秘策がおありだと? ……いえ、深くは聞きません。実行に際しては、事前に詳細を書類にまとめてくだされば、それで結構です」
「おいおい、何も物騒な話はしてないぞ。――ただ、支払いの銀貨をケチらないように徹底させるだけさ。こちらばかりが儲けても、取引相手を困らせると思い知らせてやればいい。とにかく、やり方は書類にまとめておこう」
ゼニアルゼ商人が、東方での商売のやり方について、不満が残っていたのは確かであるらしい。愚痴を記した日記などが、後世にまで残されている。
それでも、これはむしろ西方商人への気遣いであったのだと、後の分析からも明らかになった。
当時、東方国家において、西方交易によって貴金属の流出はそこまで危惧されていなかった。
正確には、危惧される前に東方会社が対策を打ったため、表出するまでの時間を稼げた、ともいえる。――結果として、初期の優位な状況を利用し、細く長く儲けることができたのだ。
当然その恩恵は、東方会社に所属する商人たち、全員が受けられた。ザラとモリーが、東方会社で辣腕を振るったからこそ、成し遂げられた偉業といってよい。
――そして、彼女らがこの世を去った後、東方会社が調子に乗って富を吸い上げたことがあったが、しっぺ返しもひどいものであった。
もしミンロン商会が間に入っていなければ、東方会社とて、どうなっていたかわからないと、歴史家たちは意見を一致させている。
「まあ、東方会社に所属するのは、ゼニアルゼ商人ばかりじゃない。あの繊細な連中は、扱いに注意を要するが……。我が社は、クロノワークやホーストの商人がむしろ主流だ。ソクオチやヘツライの商人もいるが、こちらは少数。しかし、配慮が必要ないわけじゃない」
「特定の勢力への贔屓はよろしくない、というのが現状ですか。――クロノワーク商人は、文句ひとつ言わずに働いてくれていますが、随分と便利使いしている感がありますし、ホースト商人は節度こそ守っていますが、周囲と結託したがる傾向にありますから、勝手をさせるとゼニアルゼ商人以上に難しい。ヘツライ商人は短期的な利益ばかり見て、自分本位で後先考えない商売をしたがる。ソクオチ商人は一番数が少ないけれど、彼らの機嫌を損ねると、ソクオチの有力な職人からの交易品が滞る――と」
代表職であるモリーは、寄り合い所帯だった東方会社の内部をまとめるのに、相当な苦労をしたと言われる。
共同声明の発表後は、ゼニアルゼ商人も参加するようになったため、さらに厳しいかじ取りを迫られるようになったという。
「お前は、どことなく東方よりというか、あちらへの配慮ばかり考えたがるからな。――私がそれを指摘して、あれこれ骨を折ってようやく、一人前の代表としてやっていけてるわけだ」
「……お世話になっております。いつまでたっても、ザラの補佐がなくては、代表職も維持できない。貴女が傍に居てくれて、本当に良かったと思います」
「実務的な理由ばかり言われたら、私だってへそを曲げるぞ? 利用したいがために、嫁に迎えたわけではあるまいに」
「ええ、ええ。――失礼しました。私は、貴女が魅力的だから、妻にしたのです。女性として、伴侶として、その心も体も、私の一部として迎えたかった。貴方ほど美しくて立派な人は、他にはいません」
彼女を知る誰もが意見を同じくする所だが、モリーは妻たちに対して言葉を惜しむことがなかった。
節度を保っていたにせよ、職場でも砂を吐きたくなるような言葉を交わしていた――と。後世に残る文献を精査すると、その証言が正しかったことがわかる。
そして、モリーの家庭が円満であったからこそ、各々が能力を発揮して商業的政治的に業績を伸ばすことができ、東方会社が躍進できた。
それを思えば、まさにモリーの存在はそれだけで価値があったとも言えよう。
「その手で、他の奴らは納得するんだろうがね。――言葉の後には、行動も伴うべきだと私は思う」
「また、休日を調整しましょう。……お互いに忙しい時期ですし、兼ね合いもありますから、ね?」
「ああ、納得してやるさ。――その代わり、その日は私をずっと甘やかすんだぞ」
「もちろん。そこは、ごあんしんください」
東方会社の代表と、副代表の会話は、そこで一旦途切れた。
今は仕事に集中する時間だとわきまえていたからだが、休日を充実したものにするために、効率よく働くことが重要だったという事情もある。
そして、モリーは完全に義務を果たした。休日の一日だけではなく、その後の一生も。
彼女たちが後世において、偉人として称揚されるのも、そうした彼女の努力の成果であった。
ザラとモリーの関係性は、いずれかが生を終える時まで、変わることがなかった。
後世の歴史家は、書物と功績によって、その事実を理解するのである――。
【ザラのその後について】
最初期は様々な役職を転々とするも、最終的には東方会社副代表に収まる。
彼女だけは、モリーが退陣後も数年間、彼女の養子と共に東方にとどまり、また副代表の地位を守り続けた。
彼女の家とその思想をこの地に根付かせたのは、ザラの功績であったと言われる。
モリーの妻は、誰が欠けても現在に繋がらなかったという見解が一般的だが、後世への影響という意味では彼女がもっとも大きい。
東西融和が実現し、大きな武力衝突が起こらなかったのは、まさにザラの実務能力と構想力の成果であるとも言われている。
モリーとの付き合いが最も長い存在であり、その寵愛も他の妻とは一線を画していた。
お互いのつながりの深さを示す書簡の存在は、数百年後の未来においても残り、彼女たちの良好な夫婦生活を垣間見せてくれる。
モリーです。色々ありましたが、わたしはげんきです。
おおよその問題への対処が終わり、未来への備えを一通り実行し終えた。仕事終わりに机を片付けて、執務室の中で私は一人、明日からのことを考えていた。
それもまた、適当なところで切り上げると、ため息をついてまた別のことに頭を回す。
想定していたほど、現状は悪くない。各種の問題は簡単に解決する事柄ではないから、一つ一つ、慎重に経過を見ていく必要はあるにしても――。
とりあえず、勝手な暴発などがない限り、私の代で破綻することはあるまいと思う。
「とにもかくにも、ここまで漕ぎつけられましたか。――まるで、奇跡のようだ」
クロノワークの特殊部隊副長。その地位に満足していたし、これ以上の昇進を自ら望んだ覚えもない。
国元で単純な騎士をやっていた自分が、東方に来る予定なんて、本来はなかったはず。ましてや代表職に収まることなんて、予想していなかったし、シルビア妃殿下から養子をもらうことになるとは、絶対に想像すらできなかった。
それがなぜか、今はだいたい実現できている。もっとも、こうなることが必然だったなどというほど、うぬぼれてはいない。
時代の動きが、東西の社会の接触が、環境を変化させ、たまたま適応できる個人に仕事が流れてきた。
それを許される地位に私がいて、対応できるだけの人材が周囲にあり、結果として何とかなっている。……現状をふわっとした感覚で説明すると、そういうことになる。
「ある程度流されたところで、私の方から主導権を握りに行ったことですし、自業自得と言えばそれまで。――そして、一度得た主導権を手放すことは、もはや出来ない。事態は、そこまで進んでしまった」
五年から、長くても八年。その間にどうにかするとしたら、かなり性急に事を進めねばならぬ。
それでも出来ないことはできないのだし、無駄に焦っても失敗を重ねるだけだ。……だからこそ、周囲からの助けが重要になると私は思う。
「ザラがいるから、内部は問題ない。クッコ・ローセとメイルのおかげで、交易路の安全は保障されてる。クミンの情報網があれば、危険は事前に把握しやすい。それに、東方会社の人材は彼女たちだけじゃない。代表職としての権限を振り回せば、どんなことが起きても、対策を講じることができるでしょう」
東方会社の代表、その執務室は結構広く、造りも豪奢だ。だが、それが見栄以上のものではないことも、私にはわかっていた。
大事なのは、中身である。装飾が派手なばかりではない。そして東方会社は、実態も伴っているはずなのだ。
東方会社の中核が我が妻たちであるということは、誇らしいといえば誇らしくもあるが――自分が彼女らに守られていることを、嫌でも自覚せねばならない。
「それが嫌だなんて、全然思いませんけれど。……いやはや、夫なんて立場も難しいものです」
愛情を公平(平等に、ではない)に注がねばならないし、お互いへの対抗心やら嫉妬心なども適度にほぐしてやる必要もあった。
別段苦痛ではないから、そこは問題ない。私たちの関係に懸念があるとしたら、私がどれだけ長生きできるか、という部分にこそある。
私が死ねば、何もかもが即座に破綻する。それを理解することに、もはや何のためらいもなかった。だからこそ、事業が一段落するまでは、やすやすと死ぬことも出来ない――とも。
「……死に狂い、なんて言葉を思わなくなって、どれほど経ったでしょうか。以前は、意識しなくても行動が伴ってくるくらいには、実践できていたのに。今となっては――さて。どうなのでしょうね?」
――己の死を厭う。そんな自分に違和感を覚えなくなる位には、私は変わった。良くも悪くも。
妻の許可がなければ、私は死にに行けなくなった。そして、彼女たちがそんな許可を出すことがないことも、私にはわかっていた。
私自身、己を死地に置くことを躊躇うつもりはない。だが、確実に死ぬことがわかっている戦いなら、戦死よりも降伏を選ぶことになる。そうした心持になっている自分が、ここにいた。
「……帰りましょう。我が家へ」
職場を後にして、家路につく。ドヴールの街は、夕方になってもにぎやかだった。
市場の明かりは、夜が更けるまで消えない。娼館は、明け方まで灯っていることがしばしばあった。
人々の顔を見れば、西方人の姿もよく見かけるようになった。私は顔が売れているから、一人で歩いていても絡まれることはないが、治安のほうはまだまだ改善の余地がある。
たとえクミンからの情報があっても、裏道まで目を行き届かせるのは不可能に近く、クッコ・ローセがいかに衛兵を鍛え上げても、絶対数が足りない。鬼札であるメイルを治安維持に使うほど切迫していないし、ザラは現状でも多くの仕事を抱えていて、治安自体はそこそこ保たれている以上、優先度は低い。
それでも、西方人が暴力沙汰に巻き込まれる話は、私の方にも偶に飛んでくる。商工会長とも打ち合わせて、近日中には、総督府に警備強化を願い出ることになっているが――さて、どこまで手を入れられることか。
やはり、長い目で見ていかねばならない部分である。注意は向けておかねばならないが、これからすぐに治安が問題化する可能性は、まだ低い。力技で強引に解決するのは、最後の手段にしておきたいところだった。
「ただいま帰りました」
何度繰り返したかわからない、お決まりの言葉とともに、帰宅する。……わかっていたことだが、まだ皆は帰ってきていないようだった。
みんな忙しいからね、仕方ないね。私が一番早く帰れたのは、一番偉い奴が一番遅くまで仕事をしていると、部下が休めないから――と説得されたからである。そんなん気にせず休めよ、と私が言っても効果がないのだから、もう仕方がないものと諦めた結果が、これだった。
しかしこうなると、夕食は遅くなるが、今から用意せねばなるまい。警備は充分でも、使用人を入れていないからね。
よって自分で作ることになるが、これはこれで、また味なものだと思う。
愛する人たちの食事を、自分の手で作ることができる。その感想を直接聞いて、楽しむことができる。……この贅沢は、一度味わったら、なかなか手放せるものではなかった。
「帰ったわよ。――あ、いい匂い。モリー、今日は何作ってくれるの?」
「ただいま帰りましたよ。……今日も甲斐甲斐しいですね、モリーさん。貴女に尽くされるという経験は、何度重ねてもいいものです」
メイルとクミンが、共に帰ってきた。妻同士の相性はあるが、なんだかんだで良い具合に落ち着いた二人である。
今日のように、家路を共にする機会も、最近は多くなっていた。
「おっと、もう帰ってたのか。モリーはともかく、他の二人よりは早いかと思ってたんだが」
「今日は土産も買ってきたから、流石にそれはないでしょう、教官殿。……モリー、今からで悪いが、いい魚を買ってきたんでな。こいつを適当に料理してくれないか」
クッコ・ローセとザラは、職場が近いから一緒に帰ってくることもある。私の執務を手伝うときもあるから、その時は別なのだが――。
今日は、ついでに買い物もしてきたようで、私にそれを差し出してきた。急な注文だが、これに応えるのも夫の甲斐性と思って、喜んで受け取った。
「今日もいい日ですねぇ、まったく」
自分が仕事を終えるのを待っている妻たちがいて、自分が作らなくては、彼女たちはすきっ腹を抱えねばならないのだ。
どこに出しても恥ずかしくない、傑物である彼女らを、私が養っている。そんな現実に満足感を覚えつつ、これからも皆と過ごしていくのだろう。
「何か手伝えることがあるなら、言ってくれ。私もこいつらも、ちょっとは家のことだってできるんだからな」
「洗濯に掃除にと、家事は分担してもらってますから。朝と夕の食事くらいは、私に任せてくださいな。それが、私の喜びでもあるのですよ、ザラ」
「そうか。……そうか。なら、楽しみを奪う方が無粋だな。待っているから、ゆっくりやってくれ」
「ええ、腕によりをかけて、美味しく料理してあげますから。いましばらく、お待ちくださいな」
鉄火場は遠くなった。死に場所を戦場に選ぶことは、もうない。
ただの一騎士だった自分は終わって、いまや比較にならぬほど、多くの命を背負うことになった。随分と様変わりした我が人生だが、それでも他愛のない幸福を実感して、生きることができる。
その事実を噛みしめるように味わいながら、これからも生きていこう。彼女たちの為に生きて、死ぬのはそれからがいい。
私はようやく、それこそが自分の『夢』なのだと自覚することができた。この幸福な生き方をつらぬくことが、今の私にとって、何よりも優先すべきことなのだから――。
【モリーのその後について】
元はクロノワーク騎士であり、特殊部隊の副隊長に過ぎなかった。
しかし数奇な運命により、東方会社の初代代表に就任。代表職を十年間務めたが、これは歴代でも最長の期間である。
その間に積み重ねた実績も、他に類を見ないほど大きく、モリーの存在そのものが、当時の東方会社の命綱だったともいえる。
代表職の退陣後は、オサナ王子とエメラ王女の結婚と即位に立ち会い、二人の直臣として仕えることになる。東方会社とはその後もつながりを持ち続け、終身顧問として一定の影響力を確保し続けたという。
ソクオチに入ってからは、諜報を掌握する権限を得、内乱を未然に防ぎ、人心が王家から離れぬようあらゆる工作を駆使したと言われる。
国内が落ち着いてからは、東方会社から高度な教育を受けた移民を旋回することで、殖産にも貢献。
その伝手を最大限に生かすため、外交折衝の権限を与えられた結果、ゼニアルゼやクロノワークとの従属関係を解消し、対等の地位を勝ち取ることに成功。この功績をもって、ソクオチの宰相位へと昇り詰めることになる。
モリーの成功の裏には、優秀な妻たちの存在が常にあったという。これから百年にわたって、ソクオチは発展の時代を迎えた。それはまさに黄金時代と呼ぶべきものであり、基礎を作った彼女たちの功績は、後世にも広く伝えられている。
宰相位を三十年に及び勤め上げると、育て上げた後任に全てを託し、引退。妻たちを全員見送った約一年後、自らもその後を追うように他界した。
モリーも、その妻たちも最後においては後悔もなく、幸福な生涯であったと言い残している。
彼女らは、自分に課した使命のみならず、個人の幸福も全うした。ここまで完成度の高い人生を送った者は、当時においてすら稀であったろう。
もう一つ、モリーが主導した大きな事業。東西融和の実行とその精神は、後世にも受け継がれ、致命的な対立に至ることは、ついになかった。
まるで先が見えているかのように、的確な対策を打つことで、お互いへの隔意と偏見を助長させることなく誤解を解き、お互いの理解を進めていく。
事故や訴訟の類によって、歩みが止まることはあったが、代表職から顧問に代わった後も、東方情勢には気を使い続けた。
その姿勢が次代にも伝わり、西方と東方は、適切な距離感を保ったまま、近代まで平和な時代が維持されていく。
戦争に巻き込まれることもあったが、その後はやはり通常通りの交易を続けた。東方会社はそれを見届けた後、存在意義はもはやないことを理解し、会社の歴史の幕を下ろすことになるのだが、それはまた別の話である――。
クロノワークとソクオチは、お互いの血を結ぶことによって、その交流を深めていく。
東方会社の代表はクロノワークの騎士であり、後にはソクオチの宰相にもなったことから、縁でつながれた二国はやがて、数世紀の歴史を経て、一つの国家になるのだった。
エメラ王女とオサナ王子の結婚から始まった、そのつながりは、国民同士をも結ぶ結果となる。
当初、おっかなびっくりに始まった交流政策が、長年続けていくうちに通年行事になったこと。政策を維持し、国民同士の友好関係を築き上げられるよう、政治面での支援が繰り返されたことが、喜ばしい結果につながったと言われている。
ゼニアルゼはその経済力によって、軍事力を拡大。東方を通じた交易は莫大な利益を生み出し、世代を経た後は世界交易を差配するまでになる。
だがやがて近代から現代に至る過程において、西方全体を巻き込む大戦が勃発し、西方の盟主の地位から転落。
以後は西方の一国家としての地位に落ち着くことになったが、かつての国威は残り、西方有数の大国として、その国体を維持していく。
シルビア妃殿下は、偉大な国家元首として、その名が知れ渡っている。その子や孫については、数世紀後には、学者でもなければ覚えている者のいない名となっていた。
いずれも、一人の女騎士。副隊長に過ぎなかった、モリーという人間が関わっている。
そして、彼女がいなければ、ゼニアルゼもクロノワークも、あるいはソクオチでさえも。多大な恩恵を得ることなく、時計の針は大きく進むことなく、試練の時を迎えていたのかもしれない。
クロノワーク騎士、モリー。その彼女の妻たちの名声は、数百年の後も陰ることなく、社会に広く伝わっている。
時代を動かした人として、あるいは東西融和の象徴として。何よりも、一から身を立てて、大望を成した女性として。
多くの人々の目標となり、偶像として尊敬されることも多く、現代においても大きな影響力を残しているのであった――。
二十年以上、適当に文章を書き散らしてきた筆者ですが、長編のあとがきを書くなんて初めての経験になります。
ここまでくると、案外言葉など出てこないものですが、ちょっとだけ。
感想が本当に欲しかったけれど、こんな雑な展開で終わらせる以外に、私にはどうしようもありませんでした。
だから、恥ずかしくて口に出せなかったというのが本音なのです。
けれど、とにもかくにも物語を終わらせた今、出来れば読者からの感想が欲しい、と本気で思いました。
贅沢なことをいっているという自覚はありますから、無理のない範囲で、よろしければお願いいたします。
ここまでお付き合いしてくださった、読者の皆様方。
私の作品を読んだ後、なにかしら、心に残るものが、ありましたでしょうか。
少しでもあったなら、嬉しく思います。ただの時間つぶしであったとしても、読者の皆様から時間をいただけたこと、心から光栄に思います。
次回作は、鬼滅の刃を考えています。
お労しい兄上を題材にして、その生涯を追っていく形にしたいのですが、題材が題材だけに慎重を期したいので、時間が掛かるかもしれません。
他にも書きたいものは多いのですが、おいおいやっていければいいなぁと思いつつ。今は、筆を置くことにします。
では、これにて。縁があれば、また筆者の物語を読んでくだされば幸いです。
※活動報告において、新作の進捗状況について、何かしらつぶやくことがあるかもしれません。
お暇があれば、たまに除いてくださるとうれしく思います。