覚醒しているのか夢を見ているのか、曖昧な意識の中で、瀬戸は不思議な体験をしていた。瀬戸の体を暖かい黒い液体のようなものが包み込んでいる。眠っているような心地よい脱力感がある。視界は黒く覆われ、音も、匂いも無い。完全な虚無の中で、瀬戸は、指の間を透き通るわずかな粘性だけを感じていた。液体の底へ底へ、瀬戸は静かに沈み込んでいく。
そうして気付いたら、瀬戸は冷たい波の中の砂粒を握っていた。青空に、白々とした入道雲が浮かんでいる。遠くの丘の上に、田園と森が見えた。どこか懐かしいその風景。ここはどこだろう、そう思いながら瀬戸は腰を起こした。打ち寄せる波の音、海鳥の鳴き声。その合間に、すすり泣くような子供の声を聞いた。振り返ると、浜の中にダンボールを抱えた少年がぽつんと立っている。少年は、それを抱きながら、肩を震わせ泣いていた。瀬戸はその少年にも、ダンボールにも見覚えがあった。確かあの中には、子犬が二匹いた筈だ。
瀬戸が近寄ると、確かに、ダンボールの中で二匹の子犬が尻尾を振っていた。一匹の毛並みは茶色く、もう一匹は黒い。少年は子犬たちの前で、嫌だ、嫌だと繰り返し呟いていた。
瀬戸は気付く。ここは自分が少年時代を過ごした沖縄の海で、目の前の子供は、幼き日の瀬戸自身であることに。
瀬戸塔也が九つの頃のある夏の日、彼は森の中に捨てられた三匹の子犬を見つけた。うち一匹を抱いて家に帰り、父親に秘密で飼ってやろうとした。三匹も救ってやることはできない、だが、一匹だけなら、助けてやることができるかもしれない。彼はそう思って、子犬に手を差し伸べた。
瀬戸は、母親の顔を知らない。父親の暴力に耐えられず、瀬戸が物心付く前に家を捨てたから。漁師である父は酒浸りで血の気が多く、日常的に瀬戸に暴力を振るっていた。そのせいで瀬戸は自己表現のしない、抑圧的な子供に育ち、友人が一人もいなかった。もし彼に仲間がいたならば、子犬を三匹とも彼らに託しただろう。その方が安全であることも彼には分かっていた。だが彼は、上手くやれると思っていた。父親に隠しながら、犬を育てることが、できると思っていた。
次の日である。彼が学校から帰ってくると、隠し場所に犬がいない。呆然として、それから怒りながら父親を問い詰めた。
「ああ? あの馬鹿犬か? 朝からうるせえから保健所に押し付けたよ。今頃は殺処分だよ殺処分。いいか、二度と畜生なんて拾ってくるんじゃねえぞ」
その言葉に瀬戸は衝撃を受けた。そして喚いた。気が動転した。そしてうっかり、他に二匹の犬がいることを口走ってしまった。
「なんだ、まだ犬がいるのか。それなら今から保健所に持って行ってもらおう。ああ? うるせえな、泣くんじゃねえよ」
電話口に立とうとする父親の体に、瀬戸は猛然としがみついた。父は逆上し、瀬戸を叩き伏せる。土間に転がった瀬戸を踏みつける。保健所に連絡を取る父親の声を背に、瀬戸は慌てて森へと走った。
二匹の犬はまだ森の中にいた。瀬戸は、自分の不注意が彼らの兄弟を殺したのだと思っていた。自分が家に連れて帰らなければ、あの犬は死ぬことは無かった――そして今、この二匹も、危険に晒されている。瀬戸はダンボールを抱えて走る。どこへ行けばいいのか分からないまま。
村へと続く道を行きかけて、瀬戸の足は止まる。逡巡して、ダンボールを取り落としそうになって、それから来た道を引き返した。村には、漁師の繋がりがある。どうしても、父の耳に入るだろう。保健所も、村にある。同級生も、駄目だ。瀬戸は虐められてばかりで、彼らに優しくされた経験が無い。彼らは瀬戸が傷つくことなら何でもするだろう。少なくとも瀬戸にはそう思われた。彼には仲間がいない。彼は一人だった。しかし立ち止まるわけにも行かない。
ついに、浜に出てしまった。瀬戸がいつも魚と戯れている海。瀬戸の唯一の居場所。彼は、何か意図があってここに出たわけじゃなかった。でも、もう行き着いてしまったと思った。もうどこにも行き場がないと思った。瀬戸は呆然と立ち尽くして、ダンボールをかき抱いた。濡れた頬を犬が舐める。瀬戸は、殺処分のことを考え、保健所に引き取られた犬のことを考え、犬の苦しみのことを考える。自分のせいで、その苦しみをこの二匹の犬が受けるのだと思うと、今すぐここから逃げ出したくなった。しかし、手を離すこともできない。瀬戸の胸に悲痛な思いが込み上がり、目の前の犬の瞳を、じっと覗き込んだ。瀬戸は、ふと思う。
――いっその事、ここで殺した方が、苦しまないんじゃないか。犬を、この浜に埋めた方が、楽なんじゃないか。
自分の内側から突如湧いてきたそのような恐ろしい考えに、瀬戸の全身が恐怖に震えた。体中の熱が腹の底に落ちていき、喉がひりつくほど渇いた。そんなこと、出来るわけがないと思った。それでも、瀬戸は本当に、その方が苦しまないと思っていた。楽に死なせてやった方が、良いのだと――一息に首を折り、埋めてやった方が――
「………………嫌だ……嫌だ……」
瀬戸はただ立ち尽くして、犬をどうすることもできない。己のあらゆる無力が、悔しくて仕方がない。
「…………嫌だ……殺したくない……嫌だ……」
大人になった瀬戸は、その少年を見つめていた。この一連の光景は、瀬戸の心の核となっている原体験だ。瀬戸は今、その記憶を追体験しているのだと気付いた。だから瀬戸は知っている。この後に、何が起こるのか。瀬戸は浜に立つ少女の姿を見た――
「……助けたい……助けてやりたい…………誰か……」
潮風が、吹いた。
「私が、助けてあげようか?」
少女が、少年にそう声を掛ける。見上げる少年に、少女は微笑みかけた。白いワンピースに麦わら帽子、夏の空に、黒髪が美しく流れている。
「私があなたの味方になってあげる」
そして、悲嘆にくれている少年の手から、少女はそのダンボールを引き取った。
「飼い主になってくれる人を探してるんだよね? この子たちの面倒は、私が責任を持って見るよ。だから、安心して」
瀬戸はその少女の顔を見る。彼は今、忘れていた原体験の全てを思い出していた。今まで何故か思い出すことのなかった彼女の姿が、瀬戸の記憶の欠落していた部分を埋めていた。彼は思い出す。彼女の名前。彼女の姿。自分が何故、海軍に志願しようと思ったのか、その深層の理由を、彼女が担っている――自分を救ってくれた少女が、照れたようにはにかんだ。
「私ドジだから、自分のこともちゃんとしなきゃいけないんだけどねっ」
少年はその時、五月雨と出会っていた。
少年瀬戸は、その後数ヶ月間、この浜で五月雨と会うようになる。彼女は遠征でこの土地に来ているのだと言った。自分と同じ歳にしか見えない彼女が仕事をしているのを聞いて、彼は少なからず驚いた。必ず浜に犬を連れてきた少女は、少年と遊び、様々な話をした。彼女は自分が自国に試験導入されている艦娘だという話はしなかったし、少年も仕事の詳しい話を聞かなかった。それでも瀬戸は彼女を尊敬する。自分も何かを守れるような、強い人間になりたいと思った――
その後瀬戸は慌ただしい日々の中で、その思い出を忘れていく。海難事故で父が死に、中学に上がると同時に東京の叔母夫婦のもとに養子として引き取られる。全てをやり直すつもりで臨んだ新しい日常は、思いの他平板で順調で、瀬戸は周りの同級生と何ら変わらない生活を送っていた。だから、漠然とした将来像も持てないで臨んだ進路選択で、ふと頭に浮かんだ行き先を迷うことなく紙に書いたとき、瀬戸は初めて自分自身を知ったような不思議な思いに囚われたのだ。
海軍士官学校。用紙にはそう書かれていた。
大人になった瀬戸は、今でもその時身に沸き立った希望の感覚を覚えている。