「ぐぁあっ……!」
冷たい土の上に、あきつ丸の体がねじ伏せられていた。夕立が、その小さな体からは考えられないほどの力で、あきつ丸の関節を極めている。体のどこも動かせない状況に、夕立の近接格闘術の境地の高さが見て取れる。あきつ丸は歯噛みして、明石の背中を睨むしかなかった。彼女の武器である幻燈機は、一メートル以上離れた地面に転がっている。万策尽きている分、あきつ丸は精神的に激しく抵抗したくて、感情が滅裂にかき混ざっていた。
「バイバイ、あきつちゃん――」
明石が、敗北者であるあきつ丸を置いてこの場を去ろうとする。雨見の命を救っただけでも彼女が戦った価値はあったのだろうと、相手を認めながら。あきつ丸が、自分に向かって何かを言っている。
「どうして……どうして明石殿はこんなことを企てたのでありますか……。深海棲艦の技術を使って、あなたは何をしようというのか……」
あきつ丸は、裏切りの動機を聞いていた。明石は最後にそれくらいは答えてもいいかと思う。何せ大したものではない。
「いい加減ね、新しい視点に立ってみようと思ったの」
明石は言う。
「そもそも私が艦娘になったのも、一番根底の理由を辿れば、新しい人間の生き方に興味があったからだし。今の私は、次のステップに興味がある。ここ数年で、私は一つのところに留まりすぎたわ」
進化することをやめた生命は、死んでいるのと同じだと、彼女は思う。
「深海棲艦に怯えて過ごす一生なんて、下らないと思わない? 手始めに、私は自分の体を極限まで深海棲艦に近づけるわ。そうして彼女たちと同じ目線に立ってみたい。私は、新しい生命を知りたい」
「そんな……下らない理由で、仲間を裏切ったのでありますか……?」
「そんなに下らないかなあ?」明石は首を傾げる。
ああ、あなたは思い違いをしている。あきつ丸は腹の底から込み上げてくる怒りを感じていた。
「あなたが逃げた先に、あなたの求めているものは……無い。過去を断ち切ったあなたは、最早あなた自身を繋ぎ止めることはできない。明石殿、自分を誤魔化すなよ」
「私あんまり、哲学の話は好きじゃないな。そんなの、やってみないと分からないじゃない」
明石は、あきつ丸の反抗的な眼をじっと覗き込んでいた。
「私、こうして本音同士で話すまで、あなたがそんな熱血な人だったなんて思わなかったわ。
……それじゃあ、言いたいことも言ったし、そろそろ行くね」
そうして、今度こそ明石が去ろうとした時、ふと夕立が不安げに尋ねた。
「明石……ちゃんと約束守ってくれるよね? 明石のこと手伝ったら、私との約束を守ってくれるんだよね?」
「どうしたの夕立。そんなの、当たり前じゃない」
「本当に、明石の言うことを聞いたら、武蔵と時雨が、泊地に戻って来るんだよね?」
夕立の問いに、明石は微笑んだ。
「うん――」
あきつ丸の中で、何かが音を立てて切れた。
「うぉおおおおおおおおお!」
そう咆哮しながら、全身に力を込める。あきつ丸の体が、ゆっくりと持ち上がる。
「夕立!」明石が厳命する。
「ちょ、あきつちゃん! 今動いたら腕、折れるっぽいー!」
夕立は限界を超えて無理に動こうとするあきつ丸にたじろいでいた。夕立を引きずりながら、彼女は這うようにして地面を移動する。
「夕立、何やってるの!」
「こ、これ以上は駄目!」
折れる! と判断して、夕立は咄嗟に身を離してしまった。彼女はあきつ丸を押さえるには優しすぎた。あきつ丸の手に、再び走馬灯が灯る。
「明石殿は絶対にやってはならないことをした――自分を怒らせた。それだけで、この技の発動条件に足る……」
走馬灯が、これまでにない不規則な輝きを放った。点滅する光が、洞窟内を瞬間的に照らしだし、またすぐに暗闇が視界を埋め尽くす。その明滅の間隔が、段々と短くなっていく。この感じを、明石は知っている。
「な、なに……? また影絵? あんなもの、誤魔化しだって分かってるんだから……」
そうは言っても、どこからか込み上げてくる恐怖を明石は振り払うことができなかった。鼓膜の奥から、音が聞こえている。明石は咄嗟に耳を塞いだ。しかし、それは明石の中から聞こえてきていた。それは、少しずつ自分の方へと近づいている。戦闘機のプロペラの音。艦娘が発艦させる艦載機よりもリアルな、本物の重厚なプロペラ音。
空間の明滅の周期がついに知覚できないほどに短くなっていった。それは映写機の映像を見ているような、知覚が細切れにされたような感覚を明石に与えていた。既に洞窟内は洞窟の形を取っていない。網膜に映る映像を見ているのか、脳が幻視する世界を見ているのか、明石には分からない。ただ、心の奥底、深い深い層の底に、自分が落ちていくのを感じていた。眼を開いていても閉じていても、常に形を変え続け溶けていく洞窟の壁面が見えていた。明石は自分の精神に何か他のものが入ってくるのを拒めないでいた。それは、自分自身だった。
戦闘機の音、サイレン、家が焼け弾ける音、泣き叫ぶ声。明石は、焼け野原の中に呆然と立っていた。黒煙で埋め尽くされた空を焼夷弾を積んだ爆撃機が飛んで行く。遠方に火が上がっている。煤と腐臭が渦巻いている。骨と皮ばかりの子供が道に打ち捨てられていた。
明石は一人、耳を塞いで蹲るしかなかった。
「一九四五年の走馬灯――艦娘の集合的無意識にプログラムされた光景を、強制的に呼び起こす機能であります。暴走した艦娘を無力化する手段として、この装置は作られた。一度この光を見てしまえば、如何なる防御手段も存在しません。しばらく、そこで眠っていて下さい明石殿」
通常モードに戻った走馬灯が、洞窟内をぼんやりと照らしていた。地面に倒れ伏しているのは、雨見、夕立、明石。夕立には悪いが、彼女も明石の巻き添えを受けてもらった。あの光には、艦娘の洗脳を解く力もある。直に、全てを思い出すだろう。
あきつ丸は、懐から骨董物の短剣を取り出す。鞘から刀身を抜くと、くすみ一つない鋼が顕になる。彼女は泊地棲姫の前に立ち、その心臓に向かって、刃を深々と突き立てた。