瀬戸は目を覚ましつつあった。心地良い夢の中から体を引き抜くように、意識が惨劇の中に戻っていた。そして始めに瀬戸が見たのは、レ級の腕に胴体を突き破られる、五月雨の姿だ。その腕が引き抜かれると、落下するように彼女は海水に沈んでいく。その間際に一度だけ、五月雨と瀬戸は目が合った。痛みに涙を浮かべて、彼女は海に没した。
「アハハ……モウオワッチャッタ……」
他に、艦娘の姿は見えない。艦隊は全滅したのだ。レ級は消沈して、破壊の後の余韻と虚脱感に浸っているように見えた。
その時だった。不意に、レ級は顔を上げ、浜の方を向いて固まった。目を見開き、どこか遠くを見ているようだった。実際には、レ級は泊地棲姫の生体反応の消失を感じ取っていた。レ級が自分の役目を忘れて遊び興じている間に、本来の目的が失われてしまったのだ。六年前に沈んだ筈の泊地棲姫を連れ戻すために、ここまでやってきたというのに。
泊地棲姫のことを知らない瀬戸は、遠方を眺め続けるレ級の様子に違和感を覚えていた。レ級は他に何にも注意を払っていなさそうにしている。しかし、それが自分を誘い込むレ級の罠のようにも見えた。
咄嗟に瀬戸はポケットから軍用ナイフを取り出し、折れた銛の先にあてがい、ベルトできつく縛る。出来上がった即席の槍の頼り無さに、自分は自棄になっているのかもしれないと思った。
――こんなものであいつを倒せるとでも? 奴の外皮は砲弾を防げるのに?
レ級は未だこちらに気付いていないように見える。本当に隙があるのかは分からないが、しかし見つかったら、今度こそ終わりだろう。今、瀬戸が些細な抵抗すらする必要が無いのは自明なことだ。瀬戸には陸に残してきた者たちがいる。ここは死んだ振りでもしてやり過ごして、泊地に戻って、新たな策を立てればいい。本国に支援を要請すればいい。それが司令官たる自分の役目に違いない。瀬戸は槍をその場に打ち捨てようとした。
瀬戸の脳裏に、沈みゆく五月雨の姿が焼き付いている。彼女が受けた苦痛が、瀬戸の胸から染み出してくる。部下を捨てて逃げる。今からしようとしていることは、そういうことだ。
恩人を捨てて逃げる――そんなことが、俺に出来るだろうか?
瀬戸は槍を構えた。狙うならば体の隙間、それも重要な器官がある場所がいい。なるべく深いダメージを。そう考えて、横を向いているレ級の頸動脈を狙う。距離は目測で八メートル。威力は死なないだろうが、角度が悪い。だが、やるしかない。瀬戸は、レ級を目掛けて、槍を振りかぶろうとした。
勢いづいた左足のつま先が、岩場の石ころを蹴り飛ばす。それが転がって、海中に落ちた。
「しまっ――」
水面の音にレ級が振り向いた、その時。
圧縮された暴風のようなエネルギーが、海底から突き上がった。水柱が、レ級の体を包み込む。それは、轟沈した五月雨が海底から射った最後の酸素魚雷の爆圧だった。その圧力は、レ級の身動きを完全に抑止する。暴れ狂う海水の重みが、レ級の体の自由を奪う。これまでダメージが蓄積されてきた外皮が圧力に耐えかね決壊し、亀裂が駆け巡った。レ級は、驚いたように水柱の外に手をかざしている。
瀬戸が、渾身の力で槍を投げた。
空気を切り裂いて突き進む飛来物をレ級はその刹那で捉え、片腕で弾こうとする。しかし自由の効かない腕はそれを弾くまでには至らなかった。レ級の濡れた外皮の表面を槍は滑る。その仰角が変わる。そして槍はまるで吸い込まれるように、深々とレ級の眼窩に突き刺さった。それは脳にまで達し、レ級をレ級足らしめる機能を完全に破壊した――
「グァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
獣の如き咆哮を上げ、レ級の全身は不規則に脈打つ。顔面を押さえながら天を仰ぐレ級は、この世のものとは思えない唸り声で苦しんでいる。ついには海面へと崩折れる。レ級の脈動が止まった。
レ級は、四足歩行の獣のように瀬戸に向き合った。顔を上げたレ級の眼球は真っ赤に染まって、あらぬ方向を向いていた。血液混じりの脳漿が滴り落ち、もうあれに意識は無いように見えた。
しかしレ級の尾部の、鎌首が高々と持ち上がる。その蛇の頭が、まるで現在のレ級の頭部の代わりのように静かに呼吸をしていた。冷ややかに瀬戸を見つめる蛇。レ級はまだ生きていた。
まるで二体で一つの生物。否、あれは初めから、二体で一つだったのだ。瀬戸は自分より遥かに高い次元にいるこの生命体に殺されることを確信した。
しかしレ級は瀬戸に背を向ける。その動きは昆虫のように冷静で、迷いがなかった。怪物は戦線を離脱した。命令系統を尾部へと移したレ級は、撤退の判断を下して、海上を獣のごとく駆けていった。
高速船以上の速度で走るレ級を呆然と見ながら、瀬戸は数秒の間放心していた。しかしすぐに、自分のすべきことを思い出す。瀬戸は海の中へと潜った。救わなければならない命があった。
泡が瀬戸を追い越していく。薄暗い、音のない海の底に、五月雨の体があった。船底に穴の開いた沈没船のように、彼女は静かに横たわっていた。安らかに眠っているようにさえ見えた。瀬戸は彼女を抱き上げて、光の差す方を目指す。
浮上して、瀬戸は岩の上に五月雨を寝かせた。レ級から受けた一撃の傷が、貫かれた筈の腹部が、既に塞がりかけている。これが艦娘の生命力だった。戦い、戦い尽くして、その身を海底に沈めるまで、生命活動をやめない艦娘たち。もういいじゃないかと瀬戸は思う。これ以上、苦しむ必要はないじゃないか。こんなに悲痛な思いをしてまで、誰かの為に戦う必要はない。彼女たちは気丈に振る舞うけれど、張り裂けそうな心を、今まで何度無理矢理に押さえつけてきたのだろう。
救い――
救いとは、何だろう。
瀬戸は、五月雨の首に手をかけていた。
幼い自分に出来なかったことでも、今の自分になら出来るだろう。俺は強くなった。あの時よりもずっと。
――………………嫌だ……嫌だ……
今も、心の中で声が聞こえる。
――…………嫌だ……殺したくない……嫌だ……
幼い自分がダンボールを抱えて泣いている。
――……助けたい……俺は本当に……この人を助けてやりたいんだ…………
潮風が吹いた。