甘いような、辛いような、鼻腔をくすぐる食べ物の香りであきつ丸が目覚めると、目の前にちゃぶ台があった。それを大勢の人物が囲んでいる。何やら賑やかに話をしている。その人物一人ひとりの顔を眺めるが、見たことがあるような、ないようなである。未だはっきりと覚醒していなかった。あきつ丸が自分の額に手をやると、手ぬぐいが湿っている。自分が浜で倒れたあと、提督にここまで運ばれ処置されたらしい。
「おっと、目が覚めたか」
正面奥に胡座をかいている提督が気付いた。その右隣にはエプロン姿の五月雨が座っている。その隣で、肌の焼けた老爺と老婆がにこにこしながらこちらを見ていた。ちゃぶ台の上には郷土料理だろうか、見慣れぬ料理が並んでいる。
「予定はしていなかったが、お前の歓迎会だ。なかなかのご馳走だぞ。近所に住む老人夫妻が料理を作ってきてくれたのだ」
「作りすぎちゃっタから食べるとイイヨ」
「思いっきり日本語で喋っているのでありますが」
指摘をしても、老人夫妻は嬉しそうにしている。
「このご夫妻は、大戦時に泊地の日本兵と親しくされていたそうだ。その時に日本語を覚えたらしい」
「家族揃って食ベル風習、インドネシアにはナイ。こうシテ皆で食ベルのも良いモノダと、私ハ思ウ」
老人が頷く。
「なるほど…。まぁそれは良いとして、泊地の人員はこれで全てでありますか。なんとも、寂しいところですなあ」
すると、この泊地は提督と五月雨の二人で切り盛りされてきたのか。それは凄まじいことである。こんな僻地に配属されてしまった自分の不幸をあきつ丸が呪いそうになったところで、提督は言う。
「いや、今は全員が帰ってくるのを待っているところだ。そろそろ帰ってくるはずだ。それまでは話でもしていようじゃないか」
全員が帰ってくる。あきつ丸は納得する。ああつまり、主力艦隊は出払っているということなのだ。ということは、まともな人員がいるということだ。良かった、もう少しでこの泊地を見限るところだったと、あきつ丸は安堵した。自分は早合点するところがあっていけない。五月雨の方を見ると、何故か申し訳なさそうに彼女は目を逸らした。
「そういえば、名乗るのを忘れていたな。俺は瀬戸塔也、階級は大尉、リンガ泊地の提督に任じられている。改めてよろしく」
「ええ、よろしくであります。先ほどは非礼をお詫びしたい。慣れない環境に取り乱してしまったようだ」
「ああ、別に気にしていない、大丈夫だ。こっちは俺の秘書艦をやってもらっている、白露型の五月雨」
ぺこりとお辞儀をすると五月雨の透き通るような長髪が揺れる。白いセーラーに、タイトな長手袋が印象的だ。彼女とは先ほど会ってはいたが、とりあえず目礼しておく。その時にも、お互いの名前は名乗る前から分かっていた。艦娘の間には、名乗らずとも相手が何の艦なのか分かるという同調現象が起こることがよくある。
外が騒がしかった。たくさんの足音が駆けてきて、笑い声が近づいてくる。何事かと思い三和土の方に目を向けると、玄関の戸が勢いよく開いた。
「あたいがいっちばーん!」
「ろーちゃんもですって!」
と、続けざまに入ってきたのは身体中泥だらけの駆逐艦と潜水艦。一方は制服から五月雨の姉妹艦だろうか、セミロングに活発そうな瞳は涼風だと推察できる。もう一方の艦は、名乗った名前から、呂500だろう。ばっちり焼けた肌と、白金の髪にサツキの飾りが非常に明るい印象を与える。
それからぞろぞろと艦娘が帰ってくる。
「競争じゃねーでち! 全く…」
「明石、ただいま帰還しましたー」
と、敷居を跨ぐ潜水艦と工作艦。二人の間に、見慣れない少女がいる。5歳か6歳くらいの子どもだ。
「ただいま帰りました、お父さん」
少女は瀬戸提督に向かって言う。
「おかえり、雨見。さあ皆、早くシャワーを浴びてくるんだ。飯を食うには汚れすぎている」
「えー、提督それってセクハラじゃないですかあ?」
明石が軽薄な感じで絡む。
「口答えするな、早く入れ。待っている奴がいるんだ」
「あれ、その黒い人、今日着艦したっていう噂の子ですね。よろしくね」
「あきつ丸であります」
「うん、私は工作艦明石。積もる話はまた後でね、提督が怒ってるみたいだから」
「別に、怒ってはいない。規則を順守するよう言っているだけだ」
「はいはい」
あきつ丸の目の前で慣れたような言葉が交わされる。
「ところで明石、夕立はどうした? 姿が見えないが」
「あー、ほんとだ。途中までは一緒だったんですけどねえ。あの子目を離すとすぐどっか行っちゃうからなあ」
「まぁいい、どうせいつもの場所だろう。俺が連れてくる」
「ああ、わざわざすみませんねえ。でもあんまりあの子を子供扱いしても仕方ないですよ」
瀬戸は明石の忠告には答えず、艦娘たちと入れ替わりに家を出て行った。
「うーん。提督はなんでか夕立に甘いからなあ。あ、すみませんシャワー頂いてきますね」
明石はそう言って土間の奥へ消える。そこが恐らくシャワー室になっているのだろう。しばらくして、きゃあきゃあとはしゃいでいるような、くぐもった声があきつ丸のところまで聞こえてきた。急に騒がしくなった家の中に、あきつ丸は五月雨の方を見る。
「ごめんなさい…うち、いつもこうなんです」
「あー。自分は、完全防音の個室さえもらえればもうそれ以上は何も望まないであります」
「雑魚寝なんです…」
「帰りたいなあ!」
初日からこみ上げてくるホームシックに、あきつ丸は目眩がした。
すると、提督が夕立を連れて戻って来る。
「ううーごめんなさいー。夕立、夢中になると色々忘れちゃうっぽい」
「分かってる。ただ、単独行動をするときは明石に伝えるように言った筈だ」
「それも忘れちゃったっぽい…」
「…そうだな。一つずつ覚えていこう。とりあえず今は飯だ。その泥を落としてくるんだ」
「はーい。ごっはんーごっはんー」
夕立を連れた提督は、そのままうっかりシャワー室の扉を開けてしまったのだろうか。ガチャ、と扉を開ける音と、騒ぎ声が聞こえたのがほぼ同時で、それも少し楽しそうに中の皆が叫ぶ。鳥かごを開けた瞬間に飛び出す白鳩たちのように、きゃあきゃあが一斉に開放される。
「本当にごめんなさい、本当に…」
「もはや何も言うまい」
あきつ丸は、閉口した。