「何見てるの、時雨」
「雨――海が荒れそうだね」
ざんざん降りの窓の外を眺めていた駆逐艦時雨に、することがなく退屈そうな夕立が話しかけていた。リンガは雨季に突入し、あの照り返すような大地を雨が静かに冷ましている。
「うー。いつまで続くっぽい?」
「分からない。でも、止まない雨はないさ」
そのうちじっと外を眺めるのに飽きてきた夕立に時雨は気付く。優しく微笑みかける。
「夕立。お姉ちゃんとお話しようか」
「うん!」
同じ部屋の片隅では戦艦武蔵が本を読んでいた。駆逐艦二人の会話を煩わしがることもなく、むしろ心地良い音楽のように聞きながら本のページを捲っている。彼女は戦前の日本文学をよく好んでいた。時折視界が霞むのか、天井を仰いでじっと目を瞑る。
がっしゃんばららと、土間の方から金物の落ちる音や食器の割れる音が響いた。
「ちぃ、またやったか」
武蔵は苦々しげに言う。次いで聞こえてくる五月雨の声。
「わー! 違うんですごめんなさいごめんなさい違うんですー!」
瀬戸塔也の妻である岬が呆れ返っていた。
「うーん。まだまだやらかすねえ五月雨ちゃん。ねえ、何が違うって?」
「うう、違わないですう…」
ここ最近岬の腹が大きくなってから家事を手伝えるようにと努力している五月雨だが、散々失敗しては仕事を増やすことを常としていた。他の艦娘は見かねて代わりに家事を担当するようになったが、炊事だけはやらせて欲しいと五月雨は言って聞かない。そこだけは女として、譲れないものがあったのだ。
「私はドジを、脱却するんです!」
「燃えているのは良いけど、ちゃんと片付けといてね」
「はい……」
六年前のリンガ泊地は、武蔵と時雨を加えて六人の艦隊で運営されていた。その日、伊58と明石は工廠で武器のメンテにかかりきっている。
提督が、本国からの作戦指令を受け武蔵たちを招集したのは、それからすぐのことだった。
作戦の内容を聞いて、艦娘達は息を呑む。
――ソロモン海からジャワ海に向かって北進する人型深海棲艦が補足された。当標的はソロモン海沖上でコロニーを形成していることが衛星で確認されていたが、現在少数の艦のみを引き連れ移動。本国はこれを深海棲艦の首魁を意味する「姫級」と名付け、本作戦の標的とする。標的が内地に到達する前に、何としてもその進攻を食い止め艦隊決戦に持ち込み、確実に撃滅せよ。
「姫級……」
中でも冷静に、武蔵は呟く。
「提督よ。そいつを倒せばこの戦争は終わるのか?」
「分からない。だが、必ず終結の日を早めるだろう」
武蔵の眼は、そこが死地になることを覚悟していた。
「刺し違えてでも、必ず私が標的を沈めよう」
「……必死になるぞ」
「必死が前提の作戦だろう。ならば私が一花咲かせてやるさ。その代わり、他の誰も死なせやしない」
強く彼女が言い切る。瀬戸は、それを受けて艦隊に作戦の詳細を言い渡した。恐らく、最後に武蔵の意志を聞きたかったのだろう。
目指す状況は武蔵と姫級の一騎打ち。そのために艦隊は、北進する敵艦隊と会敵した後、姫級を分断する。武蔵の勝利を前提に、艦隊は可能な限り時間を稼ぐことが、この作戦の肝要なところだった。駆逐艦三名、潜水艦一名、特殊艦一名、この布陣で姫級の護衛艦と渡り合わなければならない事実は、艦隊から言葉を奪う。沈黙が支配する中で武蔵は言った。
「大丈夫さ。いざとなればお前たちは撤退すればいい。必死とは言ったが、私も勿論、死ぬ心算はない。必ず生きて戻って来る。だから、戦力差を見極めるんだ。そしてまた、この地で会おうぜ」
そうして夕立の頭に優しく手を置く。
「……逃げない……私は、絶対、武蔵を置いて逃げないんだから……」
夕立は唇を噛んで目に涙を浮かべていた。武蔵と別れる場面を想像して、既に恐怖が全身を貫いているのだ。しかしそれが悔しくて、声が震えているのを気取られないように声を絞っていた。
「ならば死ぬな」
武蔵は言う。作戦を言い果たした後、瀬戸は決行日時を伝えた。明朝、○五三○、艦隊は標的と会敵する。
「本作戦はこれより黍作戦と号する――各自、作戦開始までの時間を過ごしてくれ」
提督が解散を告げた後電流が流れたような沈黙を、最初に破ったのはやはり武蔵だった。何の気負いもなく立ち上がる。
「さぁて、私はひとっ風呂浴びてくるかな。時雨、夕立、一緒にどうだ」
武蔵が二人の肩を引き寄せて捕まえる。夕立を思っての行動だろう。
「武蔵と入ると、お湯が無くなってしまうよ」
静かな夕立の隣で、抵抗もせず時雨が言う。
「はっは! 言うようになったじゃないか時雨。この武蔵、排水量も伊達では無いぜ」
「……そこを自慢されてもな。武蔵はちゃんと最後まで浸かっていてね」
それから三人は風呂場の方へと消える。作戦開始までの自由な時間。それをどう過ごすかを決めなければならなかった。
武蔵が行ってしまった後、伊58は張り詰めていた息を吐く。
「あーあ、やっぱり武蔵は強者でち。二人はこれからどうする?」
「そうですねぇ。私もいつも通りに、過ごそうかなと。岬さんとお話していると思います」五月雨はまだ少し緊張している。
「私はゴーヤの魚雷発射管のメンテの途中だったし、戻ってお仕事かな。ゴーヤも来るでしょ?」
「そうだね。本番で使いこなすしかないなら、最後まで調整しておきたいでち」
伊58は先日改造されたばかりで、新しく搭載された装備をまだ一度も使っていなかった。魚雷発射管はその取り付けを誤ると大事故に直結するし、発射角度に僅かでもズレがあれば役に立たない。伊58と明石はその調整に時間を使うことを決めたらしい。
瀬戸岬はたまたま泊地にやって来ていた。運動の為に家から泊地までを歩く習慣を持っていた彼女だったが、まさか緊急の、これほど重要な作戦に直面するとは思ってもいなかった。しかし彼女は元海軍司令官であった。艦娘を指揮し、共に戦った経験を持っていた。彼女はこういう時に自分が狼狽えたり緊張したりするわけにはいかないことをよく知っており、五月雨を安心させるような、良き話相手となることができた。
時はゆっくり過ぎていく。しかし必ず定められた時刻はやってくる。艦娘たちは十分な休息を取り、その胸の中に剣のような意志を練り上げていた。作戦開始時刻となった。
漆黒の風濤が精神を鋭く抉り取ろうとしていた。月は黒雲に隠れ完全な宵闇だった。しかし、前日にあれほど降っていた豪雨は止み、今、日が層雲の彼方に昇ろうとしている。六人は真一文字に並んでいた。敵を待ち構えていた。武蔵は腕を組み、遥か遠方を睨みつけていた。
「さぁ、来るなら――来い!」
水平線上に、幽鬼のごとく揺らめく影が立つ。その影が近づいてくるにつれて、輪郭は精細を増していく。それは夜を游ぐ錆色の海鷂魚。美しく固められた屍肉の砦。誰も見たことのない新たなる敵、深海棲艦の王、「姫級」の出現であった。
距離はもう三千メートルも無いだろう。事前の報告通り、数体の深海棲艦を引き連れていたが、そのどれもが、駆逐や軽巡、雷巡の雑魚であった。相手もこちらに気付いた様子で、陣形の乱れが消える。ただ一箇所だけ、例外があった。陣形が綻んでいるその箇所には、姫級と同じく、まだ一度も艦種を確認されたことのない艦がいた。
「あれは、何でしょう……初めて見る……敵ですね」
五月雨が熱っぽい息を吐く。深海棲艦は高位になり力を強めていくほどに、その姿形は人に近づいていくという傾向がある。姫級が引き連れているその未発見の艦も人の形を取っており、周囲の雑魚とは一線を画していることが分かった。五月雨たちは、それが戦艦級の戦力を有していること目測する。
しかし当時の艦娘たちは知っておくべきだった。深海棲艦が、高位になればなるほどにその知性を増大させ、ついに自我すらも勝ち得ていることを。最高位の姫級ともなれば人語を解し、複雑な感情を持つことができた。そしてその深海棲艦は――
色素の落ちた白い髪と大きな紅の瞳が真っ黒なフードの下から覗く。その表情は陰の具合で沈んでいるように見え、拗ねている少女のようにも見えた。落ち着きがない様子で、進行方向と全く別の方角を眺めている。命令に忠実な他の艦と違って、姫級の意志から遊離しているようで、艦娘たちに注意も払っていない。
武蔵は艦隊に言い放つ。
「皆、作戦を覚えているな。奴らから姫級を分断した後、各々の艦隊決戦に持ち込む。お前たちは可能な限り時間を稼いでくれたらいい。この武蔵、必ずや姫級と決着を付け、泊地に凱旋してやろう!」
その力強い言葉に皆が頷く。
「作戦開始だ! 伊58、頼むぞ!」
「了解でち!」
先行雷撃を任された彼女は海中に深く潜り、魚雷発射管の圧搾機を起動させた。管の前扉から海水を裂く勢いで放たれた魚雷が、敵艦隊の中心に向かっていく。
「一体、妙な艦がいる。くれぐれも気をつけてくれよ――総員、行くぜ!」
魚雷が轟音を立て炸裂した。水柱の圧力で、異形の怪物、駆逐ロ級と軽巡ホ級が引き裂かれロストする。姫級の真横に立ち上った海水を目印に、五月雨たち駆逐艦も魚雷を次々と打ち込んだ。
連続的に上がる水柱に、肉と鋼の断片と化す深海棲艦。混乱する艦隊の間に、続けざまに爆発が起こる。その衝撃で、敵艦隊は予定通りの分離をみせていた。既に壊滅しかけている陣形の中で、あの少女型の深海棲艦の黒いフードが閃く。降り落ちる豪雨のような海水と、周囲の駆逐艦や軽巡洋艦が破砕されていくのに紛れて、その艦は、自ずから姫級と距離を取ったように五月雨には見えた。
「そんな、いや……まさか」
五月雨は気味が悪い思いをしていた。作戦を想像以上に上手く実行できたにも関わらず、誘い込まれたのはこちらのような、保護者から分断されたのは、こちらのような――
「何か……変じゃないですか……」
分断に成功し、敵艦隊と姫級を二千メートルは引き離した。そして五月雨たちの目の前にいるのは例の黒フードの艦と、雷巡チ級の二体のみ。数の差から圧倒的な優勢であるのに、黒フードの艦は、どうにも落ち着き払っているように見えて仕方がない。
「僕も嫌な予感がするよ。あいつ、普通じゃないね」
時雨も違和感を感じ取ったようだ。それに先ほどから黒フードの艦が、じっと観察するようにこちらを見ている。その蛇のように絡みつく視線の気持ちの悪さを、誰しもが無意識の底で感じていた。
「でも……ひょっとしたら、あいつを片付ければ武蔵に加勢できるかもしれない。それで生還率がどれほど高まるか……」
明石が思いつきをふと口にする。その考えは、当初立ち込めていた決死の絶望感に差す、希望の光だった。その光は、誰もが自然に信じられた。それまで五月雨たちは、武蔵がこの戦いで轟沈し、泊地から欠けてしまう可能性を、実際のところ本気で考えたことは無かったのだ。海軍の事実上の最高戦力である大和型の名を冠する彼女が、この戦闘に斃れるなど想像もできないことだった。なぜならそれは、艦娘の敗北を意味していたから。
それがこの時、希望を持つことで、初めて武蔵がロストする可能性に全員の考えがはっと行き当たった。夕立は、顔色を変えた。絶望が脳裏をかすめ、心を揺るがせ、そして武蔵を救うという希望が、夕立の全身に力を入れた。彼女は、きっと黒フードの艦を睨みつける。
「戦うしか――ないっぽい!」
黒フードの艦は、その時初めて、艦娘たちに興味を持ったのかもしれない。闘争に転じた夕立を見て、機械的に小首をかしげた。それから何か行動を起こそうと動いたところで、焦熱と共に、直下の海水が盛り上がった。夕立が放った酸素魚雷が、直撃したのだ。
水柱が引いた後に、眼前に広がった恐ろしい光景に五月雨たちは凍り付く。雷巡チ級が、黒フードの艦に首を捕まれ、身代わりの盾にされていた。チ級の下半身は吹き飛び、胃や小腸が何かの玩具のように垂れ下がっている。掴んでいた手を離すと、チ級は音もなく海中に沈んでいった。自分の身を守るために仲間を犠牲にする深海棲艦の行動を、誰もが初めて目の当たりにした。
それから黒フードの艦は、艦娘たちを見据えながらゆっくりと表情を変える。知性を、感情を表出させる。心底愉快そうな、破顔一笑。
「カ、カ――――」
声帯が出来上がっていないような歪んだその笑い声を聞いて、五月雨達は恐怖した。
「何なの……あれ」
思わず声が漏れる五月雨。艦娘たちが驚きに膠着して行動が起こせないのを見て、黒フードの艦はゆったりと攻撃に転じ始めた。それが手をかざすと、海中から無数の爆撃機が浮かび上がる。
「まさか、空母!? まずい、ゴーヤ! 逃げて!」
明石が叫ぶ。次いで来る千ポンド爆弾による絨毯爆撃は、海上を揺るがした。艦娘たちが悲痛に声を上げる。海中で伊58は、身を削ぐような水圧に全身がきつく捩れた。
「…………」
海上に、伊58の呼気がぷつぷつと上がった。それは位置を知られない為に決して外部に空気を漏らすことのない潜水艦の構造が破綻されたことを意味している。上昇してこない伊58に、明石たちは叫ぶ。
「よくも仲間を! 許さないんだからあああ!」
艦娘達は怒りに任せて、手にした連装砲を撃ち、魚雷を発射した。やたら滅法な攻撃は精度も落ち、敵への直撃を許さなかった。しかし夕立の放った酸素魚雷だけ、正確に黒フードの艦へと向かう軌跡を描いていた。
それは未だ笑っている。
全く予期せぬ中間地点で、夕立の魚雷が炸裂し、水柱が上がった。その水柱の高さは従来の数倍はある。魚雷と魚雷がかち合った場合に起こる超規模のキャビテーション。それは直線軌道の魚雷同士をぶつけないと起こりえないことだ。つまり、敵が夕立の魚雷に狙って魚雷をぶつけたということ。
「そんな……あり得ない……」
明石は絶望する。重雷装。そして艦載機の操作。その二つを同時に行える艦など、あってはならない。例え成立したとしても、その性能は一つの兵装に特化した艦のものに遠く及ばない筈だ。しかし現実に、目の前にいる敵は、その常識を遥かに凌駕する戦力を有していた。
その艦は、退屈を紛らわす遊び相手を見つけた歓喜に打ち震えている。五月雨たちの、長い長い悪夢が始まった――
結論から言うと、作戦は予定されていた形で成し遂げられた。姫級と一騎打ちに臨んだ武蔵は、姫級を討ち取った後、仰向けに波間に揺られて暁の空を見上げていた。その腹部には大穴が空いていたが、表情は清々しく、陰りも苦悶も見られない。
「私はずっと、死に場所を求めていたのかもしれないな」
独り武蔵は呟く。それから、自分の為に今も戦い続けている艦隊の方へと顔を向けた。
「ああ、どうか、お前たちは生きて泊地へ帰っておくれ……。それ以上、私のために戦ってはいけない。私はもう使命を果たしたんだ。お前たちには、まだ未来が残っているだろう?」
片手をかざすと、懐かしい空が見えた。いつの時代も、どの場所も、たった一つのこの空の下で繋がっていたのだ。武蔵は「あばよ」の言葉が、「また会わばや」から来ているという説を信じている。その方が、格好良いと思うからだ。だから最期は、その言葉を言って別れることに決めていた。
「あばよ――」
また会いましょう。
――信じていれば、願いは叶うだろう?
海水が武蔵の中に這入り込み、身体は二度と浮き上がることがなかった。
その光景を五月雨率いる艦隊は目の端で捉えていた。武蔵を救うことができなかった。しかし、作戦は達成された。五月雨たちは黒フードの艦から距離を取り、扇型に散開して数時間を耐え忍んでいた。絶え間ない攻撃と死への緊張に晒され、皆一滴すら戦意が残っていなかったし、たった今唯一の希望も潰えた。黒フードの艦は愉悦に浸った表情を浮かべていたが、少しずつ退屈し始めていた。攻撃も単調になり、その分正確に五月雨たちの身体を抉るようになっていた。五月雨たちはそれを皮一枚でかわし続けていた。
艦隊は、自分たちが敵の気分によって生かされているということに、とっくに気付いていた。それほどの戦力差があったにも関わらず、艦隊は一歩も引かず、またこれ以上のロストを出さなかった理由は、双方の利害が一致しているところにあった。
つまり、艦隊は、敵を引きつけて時間を稼ぐことが目的だったし、敵は、目の前の玩具で長く退屈を紛らわしたいだけだった。だから、五月雨たちは付かず離れず戦い続けることを選び、消耗戦を持ちかけた。
だがもう限界だった。敵は遊びを終わらせようとしている。ひょっとしたらこの艦は、姫級と対等同位な存在なのかもしれない。だから姫級を庇ったりせず、失っても動揺一つ見せなかったのだろうか。明石の頭に圧倒的な敗北感が過ぎる。――だとしたら敵を残したこの戦いにどれほどの意味があったのだろう。
「逃げよう! 作戦は終わったんだよ。私はもう……ここにはいられない!」
明石が叫ぶ。時雨も気がついた。
「そうだ……帰らないと。僕たちは、武蔵と約束したんだ……」
目的を思い出したように、五月雨も目配せする。
黒フードの艦が、爬虫類のような冷たい眼でその様子を見ていた。
夕立が、震えていた。夕立は、目の前で起こっていることの意味が何一つ理解できなかった。武蔵を救えなかったこと。敵に、全存在を否定され蹂躙されたこと。仲間たちが、絶望に心を折ったこと。その全てが夕立を押し潰し、現実が奔流となって魂を撹拌していた。臓腑が怒りに煮え返り、内燃機関が暴れ狂った。
「あ、ああ、うわああああああああああ――!」
夕立は弾かれたように飛び出す。その手には魚雷を握っている。誰の眼にも明らかな特攻に、五月雨たちは悲劇を信じた。
「駄目! 夕立、やめて!」
明石の叫びも虚しく、夕立は船速を上げる。五月雨は目を背け、耳を塞いだ。
「お前なんて、お前なんてええええええええええ!」
黒フードの艦は夕立が狂乱の唸りを上げて突っ込んでくるのを見て、細胞が沸き立ったような、喜色満面の笑みを浮かべていた。まるでこうなることを待っていたように、ゆったりと待ち構えている。明石はゾッとした。夕立を失うと思った。無駄死にさせてしまうと直感した。
時雨だけが、夕立の変化にいち早く気付いていた。夕立が敵に立ち向かうのとほぼ同時に、時雨も駆け出し、最大船速で夕立の前に立ち塞がって、両手を広げた。駄目だよ、と笑っている。
「夕立、僕は君を失ったら、とても悲しいよ」
一瞬の光景であった。海中から現れた鋼鉄の龍が、時雨の身体を連れ去った。その龍は、油に濡れ、波に塗れ、海から引きぬかれた。骨格が砕けるような鈍い音が鳴った。海龍はその牙で、時雨の胴体に喰らいついている。その生物は、黒フードの艦の尾部と直結していた。
「時……雨?」
夕立は言葉を失った。目の前で時雨の身体が植物の茎のように折れている。宙に垂れ下がった怪物の口に胴体を挟まれ、海面と並行になっている。二体で一つの深海棲艦だった黒フードの艦の尾部のようであるその生物は、込み上げてくる力に震え、時雨を噛み砕かんと咆哮していた。先端に装備された三基の砲塔がぎょろぎょろと狂ったように動いていた。
夕立は声が出なかった。少しも動くことができず呆然と時雨を見る。時雨にはまだ意識があったが、その眼はもう自分が助からないことを悟っていた。それでも彼女は掠れ消え入りそうな声で語りかける。
「駄目だ夕立。僕たちは帰らなくちゃ、そうだろう?」
「時雨……やだよ……いやだ……」
時雨が顔を振った。
「夕立、もう僕を見ちゃ駄目だ。さぁ……早く、行っ――」
昏い、余りにも軽い音が鳴った。それから尾部が持ち上がり、真っ二つに折れた時雨が上空に高く掲げられた。夕立はぼうっと突っ立って、黒フードの艦の笑い顔と、棒きれになった友だちを見上げていた。尾部の口腔が赫々と光る。黒フードの口角から泡が吹く。怒りを体現したかのように龍が吼えた。轟音と共に走った閃光が、時雨の身体を引き裂いていた。龍の喉奥に覗く巨大な砲塔から、硝煙が立ち上っていた。
「レ、レ――繧ス繝ュ」
血煙の中、黒フードの艦は絶頂を迎え、言葉にならない言葉を口走る。
「――――繧ス繝ュ繝「繝ウ隲ク蟲カ縺ョ謌ヲ縺!」
この世のものではない言語で唸っている。
「蟷エ譛域律1942蟷エ1譛 - 1945蟷エ8譛15譌!」
突如、黒フードの艦の背後に爆轟が起きた。全てを洗い流すような水を夕立は被る。遠方から聞き知った人の怒鳴り声がする。
「何をしているでち! 皆、早く逃げるよ!」
伊58の魚雷が着弾したのだった。夕立ははっと我に返り、その瞬間全身を突き抜けた恐怖に、弾かれたように走りだした。嫌だ、嫌だと小さく呟きながら、全速で遁走する夕立の眼にはもう何も見えていなかった。
放心している黒フードの深海棲艦から、艦隊は逃げだす。脇目もふらず、一度も振り返らず、沈んでいった武蔵のことも、時雨のことも、誰の頭に過ぎることも無かった。その日艦娘達は、心に決して消えることのない傷を負った。
作戦を終え帰還した艦娘たちを迎えた瀬戸は、自分の指揮が招いた絶望と悲劇の結末を知り、号哭した。生きて戻ってきてくれた四人に、よく帰還してくれたと、何度も言い、そしてそれ以上のことは何も言えなかった。瀬戸が何と声を掛けようとも、艦娘たちの心は断絶していた。その日、艦娘たちは余計な口を聞くことも無く、誰もが丸一日以上は死んだように眠った。
あの地獄のような黍作戦の日から瀬戸は罪の意識に囚われ続け、艦娘たちのPTSDに対して自分の全てを捧げていた。あれから瀬戸は、艦娘たちに決して海戦を行わせず、泊地業務を可能な限り縮小した。医師と相談し、取れる限りの処置を取り、注意を払い尽くした。それでも、艦娘たちの症状は重く、改善の兆しは訪れなかった。
五月雨や伊58は砲声を聞けば持っているものを取り落とし、耳を塞ぎ蹲っては震えた。明石は工廠に入り浸り、滅茶苦茶に仕事に打ち込んだ。海底資源を引き上げる為のクレーンの改良や、しなくてもいい海洋調査を黙々と続けていた。そうしないと、気がおかしくなりそうだと言って。それから、彼女は夕立と共にいることが多くなった。はっきりと口には出さなかったが、時雨と武蔵の代わりを務めようと思っていたのだろう。
夕立の症状が最も重く、凄まじかった。黙っていると思えば、突然泣き叫び喚き散らす。夜中に悪夢に目が覚め、何時間も独り言を言い続ける。存在しない夕立や武蔵に話しかける。初めの一ヶ月は、夕立を薬で無理矢理にでも落ち着かせないと、何をするか分からなかった。そんな彼女の不安定さに、五月雨や伊58がノイローゼを発症しかけていた頃のこと。
岬が病院先で、出血死した。分娩中のことであった。体の弱かった彼女は、もともと出産困難を予想されていたが、決して死亡率が高いわけではなかった。幾多の不運――循環器系の不調、施術の微かな不手際、体力の波――それらが積み重なって死の渦となった。彼女の体力では、その激流を泳ぎ切ることができなかった。岬は深い痛みの海の中で、永遠に失われてしまった。運命がどこまでも泊地を追い込もうとする。それでも彼女は、最期に幸福に向かって手を伸ばした。自分の子供を取り上げて、微笑んだ。皆に伝えて欲しい、と彼女は助産師に言う。ここがその幸福の始まりに違いないと。
失意の中で誕生した少女、雨見をこの泊地で育てたいと言ったのは五月雨だった。生前の岬と最も親しくしていた彼女は、ほとんど理屈でなくそうすることを望んだ。その突然の申し出に瀬戸は戸惑ったが、ひょっとしたら、艦娘たちのPTSDの緩和になるかもしれないとも思った。それは半分は拙い願いであり、半分は賭けだった。瀬戸は願いに賭けたのだ。
保育器の中で静かに二週間を過ごした後に、泊地にやってきた雨見を、皆が恐る恐る抱いた。触れただけで壊れそうだと、伊58は言う。明石も、これが命かと嘆息し、五月雨は愛おしそうに、いつまでも彼女の体温を感じていた。
最後に、黙ってじっと雨見を見つめていた夕立が、彼女を抱くことになった。夕立は、私には出来ないと頑なに拒絶する。彼女は一度、泊地の中で滅茶苦茶に暴れたことがあった。日誌を破り捨て、家財道具を蹴り飛ばし、泊地の全員で押さえつけるまで物を壊すのをやめなかった。破壊衝動に抑制が付いていないと診断され、夕立はその事件を起こしてから、酷く自分を責め感情を押し殺すようになる。それでも瀬戸は、遠慮する夕立に雨見を手渡した。
抱いた腕の中に、トクンと微かな心音がする。暖かい火が灯ったような、そんな柔らかい感触を抱きしめて、夕立ははっとした。しわくちゃの渋顔が、夕立の眼を覗き込んで愉快そうに笑っていた。夕立は思わず、雨見の顔に手を伸ばして、彼女の涙を拭ってやっていた。それは雨見の涙ではなかった。夕立が彼女の顔に溢していた涙だった。
「あ、あ……あああ――――!」
夕立は雨見を抱き寄せて、声を上げた。
「守る……この子は私が絶対に守るんだからああああ……!」
天井に向かって、わんわんと夕立は泣いた。
「ちょ、ちょっと夕立、その子窒息してない?」
明石が止めに入らなければ、夕立はいつまでも雨見を離さなかったかもしれない。いつかのように泣き笑っていた夕立がそこにいた。
その時瀬戸は、雨見を泊地で育ててみようと、決意したのだ。
黍作戦の後から海は不思議と静かになった。雨見はこの泊地で健康に育つ。よく泣き、よく食べ、よく皆を困らせた。四ヶ月後には抱っこした五月雨の顔を触り、八ヶ月目には部屋を這い回り、ちょうど一年が経ったとき、雨見は皆に連れられて海を見た。砂に塗れながらも、瀬戸の体を掴んで自分の足で立ち上がった。そして、突如として高さを持って広がった世界を小さな瞳で眺める。真昼の海は光を反射して眩しく輝く。刻々と表情を変える波間の輝きを、雨見はいつまでも眺め続けて飽きなかった。
その間に、駆逐艦涼風が泊地にやってきた。彼女は泊地の事情を知ると同情し、持ち前の明るさで艦隊に馴染もうとする。彼女の竹の割ったような性格は、何度か、艦娘たちの心の傷を突くことがあった。生き残ったものは今を楽しまなきゃ損だと考える涼風を、一度、五月雨は叱ろうとした。本当に大切な人を失った時、同じことが言えるかと問うた。涼風はその時に、言い返す。
「塞ぎこんで黙ってたら、何も始まんないよ。一度でいいからあたいの心にとーんと来る言葉を言ってみねい!」
本音で会話をしてくれと、涼風は言う。それは不幸を偲んでいたかった艦娘たちにとって乱暴な要求だったかもしれないが、前を向くためには必要なことだった。その日から五月雨たちと涼風は、お互いにすれ違いながらも、言葉をぶつけることで少しずつ距離を縮めていく努力を諦めなかった。
仲間が増えて更に一年。雨見は言葉を覚え始め、五月雨は料理を覚えた。ようやくまともなものが作れるようになった。ささやかな変化だが、五月雨にとってはこれ以上ない成長らしい。失敗ばかりだった彼女は、自分に自信を持ってもいいのだと思うようになった。
泊地近郊にまで縮小していた海上防衛の範囲を、徐々に広げ始めたのもこの頃。一度は完全に戦意を折っていた艦娘たちだったが、少しずつ、戦う意志を取り戻していく。解体し、艦娘を辞める選択もあったが、皆戦い続けることを選んだ。それ以外に生き方を知らないからと彼女らは自嘲するが、瀬戸には、戦うことで彼女たちは自分の存在意義を取り戻そうとしているように見えた。
U-511がドイツから着艦する。後に改造されて呂500となる彼女は、無口で、一歩引いたような、色白の少女だった。口では皆と仲良くなりたいと言いつつも、今一歩泊地の艦娘たちと打ち解けようとしない呂500がもどかしく、伊58は先輩風を吹かせて彼女を様々な場所に連れ立った。潜水艦の戦い方から、箸の持ち方まで、付きっきりで教えた。いつの間にか伊58はU-511の教育係となっていた。一年後、教育の成果が実り、彼女が改造のために本国へ発った時、伊58はうっかり感動しかけた。帰ってきたU-511改め呂500は、見違えるほど明るく、天真爛漫な少女に変身していた。それが彼女本来の性格だと伊58が気付くまでには更に時間が掛かった。ついでに彼女は日本国籍も取得していた。
雨見は六歳になり、村の学校に行くようになった。言葉を覚えるのが好きで、新しいことを覚えては、艦娘たちとお喋りをする、そうした毎日を幸せそうに過ごしていた。雨見の変化は、泊地の変化でもある。雨見が新しいことを覚え、話したり、行動したりするのを見て、泊地の艦娘たちは、雨見の中に新しい雨見を発見する。成長してゆく彼女を見て、一喜一憂する自分たちに気付く。艦娘たちは、雨見を育てることが、そのまま自分自身を取り戻すことであるのにふと気付いた。
時が過ぎてゆく。どんな問題も、時間が解決してくれるのだろうか。艦娘たちは、PTSDを忘れていた。あの修羅場から六年が経った今、全ては過去のこととなってしまった。この年の初めには大規模な震災を経験する。六年前の絶望を思い出させるほどの被害が、各地に爪痕を残す。しかしその復興支援に尽力していると、過去を思い出す暇もない。むしろ過去は思い出されるものではなく、血液のように体中を流れているものだった。五月雨が皆の帰りを待っていることができるのも、明石が仕事と生活を両立できているのも、夕立が自分を責めないでいられるのも、伊58が海に潜れるのも、涼風が五月雨たちを支えられるのも、呂500が自分らしくいられるのも、全て、あれからの日々が彼女らの血の中に流れているからだ。だからこそ、彼女たちは、今も平和のために戦い続けることができる。大切な人を守るためなら、何度でも立ち上がってみせる――