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僕、菊地真は、仕事終わりに事務所に戻った。来週以降の予定を確認したかったからだ。
事務所のドアのノブを回し、ゆっくり開ける。事務所のドアは、経年劣化の所為か、勢いよく開けるときいきい等と音を立て非常に不愉快だからだ。
中に入り奥の部屋へ行った。部屋は空調が効いておらず、汗かきな僕にとっては地獄の様な暑さであった。
誰か居ないのかと辺りを見回すと、部屋の隅のソファに座っている者が居た。それは自分の上司であるプロデューサーであった。
「プロデューサー」
何回か声をかけたが、反応がまったく無い。もしかして、と嫌な考えが頭を過る。
貧乏なこの事務所を気遣ってのことだろう、冷房を使っていないものだから暑さでやられてしまったのでは無いのか、と思った。
「呼吸は……!?」
耳を彼の口に近づけて、呼吸を確認しつつ、右手を彼の額に当てる。
しかし、杞憂だった。呼吸もあれば、熱も無い。安心したが、念の為彼の額の汗を拭き、冷却シートを貼った。
それらをし終わった瞬間、体から力が抜けた。
はあ、と溜息をつく。彼の無事を安堵する一方、ここまで自分達の為に頑張ってくれている彼の事が一層愛しく思えた。
その時、僕の背筋が凍りついた。彼を“愛おしく”思った自分の気持に恐怖を感じた。
アイドルの恋愛、それは少なくとも若い今の時分では絶対にあってはならない事だ。それは自分が一番わかっている。だが、僕だって一人の人間だ。愛や恋といった行為、亦更に踏み込んだ事にだって興味はある。
アイドルは実在する一人の人間の形を借りた商品である。
そしてその大元、人間である僕は、用だって足す。自慰行為をしてしまう夜もある。商品を壊さない為にも、今言った様なことはかなり気を遣う。例え家の中であってもだ。
だから、自分を追い込まない為にも、せめてこういった感情はできるだけ持ちたくは無かった。特に彼には。
チラ、と彼を見る。心地よく寝ている。
愛おしい。愛おしい。愛おしい……。
やはり、愛おしい。僕の為に働いている彼のことを、好きにならずにはいられない。それが亦辛かった。
彼の顔から目を逸らすと、ジャケットの掛かった椅子があった。きっと彼のものだろうと思い、それを手に取る。
彼の匂いがする。興味本位で、ジャケットに顔を埋めると、一層彼の匂いがした。
深呼吸……。僕の心は多幸感に包まれた。彼に抱かれていると錯覚する程の多幸感、脳内で麻薬が分泌されていく過程がありありと目に浮かぶ様であった。
だがこれにより、亦罪悪感に苛まれる。
もし、自分がアイドルでは無かったら?でも、アイドルで無ければ、そもそも彼に出会う事すら無かっただろう。それは嫌だった。だけど、だけれども……。
我が身を呪いたくなった。もう一度溜息をつき、よし、と小さく声を出す。
僕は彼のジャケットをシワにならない様ハンガーに掛け、本来の目的であった来週の予定を確認する。
そして、もう一度彼に近づく。僕の鼓動は、まるでビートを刻む様に速くなっている。僕は、これが最初で最後、と自分に言い聞かせ、彼の唇に震える自分の唇を触れさせた。乾いた唇と唇が、重なり合う。その時間は、僅かな時間であった。然し、一生にも感じられる時でもあった。
「お疲れ様でした、プロデューサー」
未だ夢の中の彼に別れを告げ、帰路に就く。 来週からは、亦アイドルとプロデューサーという関係に戻る。
だから、あの一瞬だけは、せめて、自分の中だけでも、恋人同士でいたかった。
「……来週から、頑張らなきゃなぁ……。」
全ての願いが叶うわけでは無い。けれど、愛しい人が僕の側に居てくれる。
今日のキスは、忘れよう。
なんてったって僕は、アイドルなのだから。
おしまい