「兄さん!」
「正博……そうか、ここでバイトしてるのか」
「いや、バイトじゃなくて……僕、大学辞めたんだ」
「まぁ、後悔が無いならいい。でもそれで巴を幸せに出来んのか?」
「あはは、今は無理だけど……今、頑張ってるんだ。兄さんほどではないけど」
ここに正博がいることが驚きだが、大学を辞めたと聞いてまた一つ驚きが入ってきた。
そのうち正博から「僕、来年に父親になるんだ」とか言い出すんじゃないだろうか。
まぁ反対する人間なんていないし、こいつならなんだかんだ上手くやっていくと思うけど。
「その……兄さん」
「なんだ?」
「今、手持ちがこれぐらいしかないけど、受け取ってほしいんだ」
そういって正博は財布から2万円をとりだした。
その二万円を俺の方に渡してくる正博に、俺は手で静止した。
「僕、兄さんにも償いたいんだ。だから……」
「お前、まだ一人前じゃないだろ?」
「え、あ、う、うん……で、でも!」
「立派になってからでいい。それにお金で解決できることじゃねぇだろ。その『償う』と言う気持ちだけで俺は十分だ」
「やっぱり、兄さんは兄さんだ」
それでも二万円を中々財布に入れようとしない弟に、はぁとため息がこぼれる。
普段は気が弱いくせに、変なところで頑固なのは昔と変わらない。
「また、兄さんは何かやるつもりなの?」
「物騒な言い方するんじゃねぇよ、バカ」
「……否定はしないん、だね」
正博の「否定はしないんだね」と言う言葉が、なぜか俺の心に響き渡った。
さっきまでは明るい口調で話していたのに、急に人を心配するような、そんな哀愁がこもったような声に変わったからだろうか。
それとも別の理由があるのだろうか。
「安心しろ。お前の生活を壊しかねるような真似はしない」
「巴ちゃんはまだ……兄さんの事、悪い人だと思ってる……だから!」
「それでいい。変に同情されるのは大っ嫌いだからな」
コーラを飲み干してから、手に持っていたビンを所定の場所に捨てながら俺は歩き始める。もちろん向かう場所はライブが行われる場所。
今回は変な胸騒ぎがするから前の方でライブを観たいと思っている。この胸騒ぎが杞憂で終わってくれると良いんだけどな。
まぁ、俺がモカに何かやったら巴やメッシュ女に更に嫌悪感を抱かれるんじゃないか。
もしかしたら明日、背後から刺されるかもしれない。メッシュ女ならやりかねないから乾いた笑いしか出せないのも問題だな。
「僕が言うのも説得力なんて無いし、そもそも言う資格も無いけど……僕は兄さんの味方だから」
「俺の味方をする暇があったら、もっと別の事に集中しろ」
俺をどん底に陥れた張本人が言うようになったなと心の中で笑う。
でも心の中ではそんな感情を抑えられなかったらしく、口角がグニッと上がったのを感じた。
ライブが始まってもう2時間が経過した。
残すバンドは1組となり、観客のボルテージが徐々に上がっていく。
そんな盛り上がりを見て、モカたちがどれくらいの人気があるのかなんて手に取るように分かった。
彼女らの登場が待ちきれずペンライトを振り回す人。
メンバーの名前を叫びだす人。
まだ始まってもいないのに飛び跳ねる人。
そして、ライブの最後を締めるにふさわしいバンドが姿を現した。
でも、周りの観客はみんな少し不思議そうな顔をした。
そして俺も、すぐにライブが行われる会場を走って離れた。
なぜなら、ステージに立ったバンドの人数は
俺が重たいドアを力いっぱい押して外に出た。
「今日はモカが体調不良だから、4人でやるけど着いてきて……」
その時に聞こえたメッシュ女の声に、全力で舌打ちをした。
もう何分経っているのだろう。数分だけ?もしかしたら数十分が経過している?
一曲が終わるのはおよそ4分。モタモタしていたらライブが終わってしまう。
俺はまずライブハウス内を走りながらだけど確認する。
でも、俺の探している人は見つからない。関係者以外立ち入り禁止の楽屋の扉も開いたが、そこに彼女の姿は無かった。
普段は走らないから運動不足なのか、それとも他に原因があるのか分からないが心臓が嫌な音を立てながら身体全体に響き渡る。
あのバカ
俺は即座にライブハウス内に彼女がいないと結論付けた。
そこで俺は雨が吹き付ける外に出ていく。もちろん傘なんかさしている場合じゃない。傘を右手に持ってそのまま外に走り出す。
ライブハウスから出てすぐのところに、俺みたいに傘をささないでトボトボと歩く人影を見つけた。
背中にはギターケースを背負っている彼女は、俺の探していた人間だった。
「……そんなところで何やってるんだ?傘もささずに」
「……帰るところだよ?そっくんこそ、傘をささずに何をしているの?」
俺は自分で言葉を発してから気づいたが、自分の声が今の季節の雨に負けないくらい冷たいものだった。
対してモカは、周りの雨の音に消されているような弱弱しい声だった。
もしかしたら俺は腹を立てているのかもしれない。理由なんて分からないが。
だからモカの右手を強引に握ってライブハウスの方に引っ張っていく。
帰るところ?
ふざけるのもいい加減にしろ。
「痛いよ……離してよ!」
強引に握りしめた手は、同じように強引に振りほどかれる。
雨のせいなのか、もうすっかり冷たくなってしまっていた彼女の手。この雨は彼女の心までも冷たくしてしまったらしい。
「もうほっといてよ……そっくんにはあたしの事、何も分からないんだから」
「あぁ、確かにお前の事なんか何も知らない」
モカと出会ったのも最近なんだから知らない事の方が多いだろう。
彼女の好きな色とかは全く知らないし、パン以外を食べている姿も見たことが無いんだ。
だから嫌いな食べ物も知らない。
でも、そんな俺でも分かることがある。
「だったらどうしてそんな顔してんだ」
「これがあたしの普通の顔なんだけど~」
雨がさらに勢いを増して、俺たちに降り注ぐ。
モカもびっしょり濡れていて、前髪がピタッと顔にくっ付いてしまっている。だから彼女の目は隠れている。
にも関らず、どうして俺が「そんな顔」と言ったか分かるだろ?
するとモカは、口角を少しだけ上げて口を開いた。
「……ライブ前にね?あたし、音楽事務所からオファーが来てるから夢を叶えるためにバンドを抜けるって、言った」
「……ああ」
「夢については言わないね?言ったら言い訳になるから」
まるで自分の哀れな行動を笑ってほしいかのような、そんな痛々しい口調で話し始める。
「そしたらみんなは様々な表情をしてた。でも蘭はね~?あたしに怒ってた」
「そうか」
「うん……蘭はあたしがずっと傍に、横にいてくれるって思ってたんだと思う。実際はあたしよりずっと前を歩いているのにね」
「……で?」
「もう蘭には、みんなにはあたしは必要ない。あたしがいなくても前に進めるんだから」
どんよりとした黒い雲が空を覆う。
俺の手もそろそろかじかんできて冷たくなってくる。俺たちのすぐ上にある街灯は寂し気な光を降り注いでいた。
「後悔はないか?青葉」
俺は、最後にそんな言葉を彼女に投げかけた。
正直、モカの人生だからどうなったって俺は関係もないし、わざわざ介入する必要もない。
他人の未来を変える力があるのは主人公だけで、俺にはそんな力は無い。
「ないよ?モカちゃんはモカちゃんの道を行くから」
「なるほどな……」
だけどそれは、本当に後悔のない決断をした人間に対しての事だ。
「だったら……どうしてお前は泣いているんだよ!!」
大雨の中、傘をささずに歩いているモカ。
そんな行動をとった理由は、雨に濡れることで涙をごまかすためなんだろ?
「泣いてなんか……ない、から……」
「青葉モカ!お前が一番やりたいことはなんだ!?言ってみろよ!」
腹から、いや、心から力を込めて言ってやった。
モカの冷め切った感情に少しでも響くように。
「お前の涙を雨で誤魔化して、それで良いのかって聞いてんだ!」
モカは口角の両端を下に少し下げた。
そして彼女は、勢いよく俺の胸のところまで飛び込んできた。
今日初めて彼女の顔を近くで見たけど、大雨では隠すことが出来ないぐらいの大粒の涙をこぼしていた。
冷め切った彼女の身体を、ゆっくりとだけど抱きしめる。
俺には女の子を抱きしめることとか、慰めることをする資格なんて無い。だけど今日のこの時ぐらいは許してほしい。
「つぐと、ひーちゃんと……ぐすっ、ともちんと……蘭と!大好きなみんなとバンドをやっていたいよ!!ぐすっ、ぐすっ……」
「だったら、今は泣いてる場合じゃないだろ?行くべき場所があるからな」
「でも、あたし……」
「大丈夫だ。まだ間に合う。お前ならな!」
俺は手に持っていた傘を急いで開く。そして開いた傘を彼女に手渡す。
指が冷え切ってしまったら、ギターを弾くことがままならなくなる。もう遅いかもしれないけどやらないよりマシだ。
そして俺はモカの右手を優しく、だけど気持ちを込めてライブハウスの方向へと走り出した。
モカも俺の手をキュッと握り返してきて、脚を必死に動かしていた。
無我夢中で走っていたから、ライブハウスにはすぐ到着することが出来た。
店内に入ると、俺の視界には弟が入ってきた。
弟はかなり驚いた顔をしていた。そんなに驚かなくても良いだろ。
「兄さん!?それに青葉さんも!?一体どうしたの……」
「事情は良いからサッサとタオル持ってこい、正博!」
「わ、分かった!」
正博はバタバタとしながらどこかに入っていった。そしてすぐに複数枚のタオルを握って帰ってきた。
モカを少し乱暴だけど、頭からタオルを思いっきり擦った。彼女は「うう~」とうなっていた。
「今から急いだら最後の曲までには間に合う、急ごう兄さん!青葉さん!」
正博の言葉をかわきりに、急いでステージ裏まで移動する。
もう、モカの手を握らなくても良い。彼女は自分の意志でステージに戻ろうとしているのだから。
ステージ裏に着くと、男性スタッフが少し驚きながらこっちを見てきた。
そりゃあ関係者以外の人間が、しかも全身ずぶ濡れの見知らぬ男がいたら驚くだろう。
でも傍にモカもいたから何かを察したのかもしれない。
モカがギターのチューニングを終えると同時にバンドの演奏が終わった。次がラストの曲らしい。
俺はそっと、モカの背中を押した。
モカは俺の方を見てうん、と軽くうなずきながらステージに出ていった。
その時の彼女の顔に、迷いなんて無かった。
モカが帰ってきたことにメンバーを驚いている様子が見ているこっちにまで伝わった。
観客は体調不良と聞いていただけだから、モカの登場に一層ボルテージが上がる。
モカはコーラスマイクを指でコツコツと叩く。
そして彼女の言った言葉に、俺は思わず口角を上げてしまった。
「遅れてごめんね?あたしはここにいるみんなが大好きだって、今気づけました。だからみんな……
これからもずっと一緒に音楽やろうね!!
@komugikonana
次話は9月13日(金)の22:00に公開します。
新しくこの小説をお気に入りにしてくださった方々、ありがとうございます。
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この場をお借りしてお礼申し上げます。本当にありがとう!
これからも応援、よろしくお願いします!
~次回予告~
「こんなめんどくさい事、もうこりごりだぞ……」
夜、仕事場の事務所の2階。
俺の住居スペースのベランダでタバコを吸っていた。こんな内容が濃い一日を送って置いて、明日は仕事だとか勘弁してほしい。
そんな想いが心を支配していたからなのか、普段よりも多くのタバコをふかしている。
具体的な数を言うならば、これで家に帰ってきてから4本目。
そんな時に彼女がやってきて……。
「あたしは、君にどうしても言いたいことがあるんだよね~」
~感謝と御礼~
今作品「change」のお気に入り数が早くも300を突破致しました!
たくさんの読者さんに支えられていてとっても嬉しく思います。こんな頼りない私ですが、これからも支えてあげてください。
そしてこれからも小麦こなを、「change」をよろしくお願いします!
では、次話までまったり待ってあげてください。