桜の花びらも少しずつ散り始めてきた4月のある日。
モカのような大学生はきっと新入生の歓迎とかでバカ騒ぎするような季節だったりする。まぁ社会人にもそれは当てはまるんだけど、残念ながら今年の4月に入ってくる新入社員はいないらしい。
そんな華やかな季節と違って、今日の目覚めはあまり良くないように感じる。
今さっき目を覚ましたのだが、身体の半分、いや正確に言えば右半身が重たく感じる。
本当ならもう少し寝ておきたいのだが、少しでも意識を手放してしまったら始業時間までには起きれない気しかしなかったから重たい右半身に鞭を打って起きようとした。
だけど生半可な力では持ち上がらなかった。少し寝ぼけている頭を少しだけ回転させる。
右手は全く動かないけど、柔らかさと温かさも感じる。
「ぅん……すぅ~すぅ~」
「……」
ゆっくりと顔を右の方を見ると、なぜ俺の右半身が重たかったのかが分かった。
俺の右手にモカがくっ付いていて、しかも気持ちよさそうに寝ていた。
こいつがどうしてここで寝ているのかも疑問だが、これで何回目なんだと少し頭を抱える。
実はモカをバンド脱退危機から救えた日から、ごくまれにモカが俺と同じベッドで寝ている。
何が
こんなことしてたらモカに彼氏が出来たらめんどくさいんだろうなって思う。
「ほら、起きろ青葉。それと右手が痛いから離れろ」
「うにゅ……う~ん、朝?」
「そうだ、速く支度してとっとと学校に行け」
「むむ~……もうちょっとぎゅ~っとさせてよ~」
「しなくていいから」
「やだ。ぎゅ~~~」
「はぁ……良いから離れろってめんどくせぇ」
今日は一段とくっついてきて面倒くさい。
俺も思いっきり引き剥がしたら良いのだが、そんな行動に移さないのもダメなんだろうなって想いがあふれてため息となる。
どうやったらモカが離れるのか考えてみたけど、俺の頭に浮かんだ案は一つだけだった。
それは「やまぶきベーカリー」の名前を使う事。嘘でも良いから京華さんが昨日パン買ってたぞ、とか言ったら絶対離れるはずだ。
俺は右手にくっ付いて離れないモカに言おうと口を開いた瞬間だった。
普段、この時間に空くことのない俺の部屋のドアが開く音がした。
「おはよう佐東く……あなたたち、朝から何やってるの?」
モカはと言うと、急に抱きしめていた俺の右手を離して少し距離を置いて座った。
彼女の顔はこれでもかと言うほど真っ赤に染まっていた。
まるで、熟した甘いイチゴのような顔色だった。
今のモカからは、ビニールハウスの中のイチゴ園のような甘い香りがするんじゃないかなって思った。
「佐東君、うちの娘と何をやったの?」
「あなたの娘が勝手に俺のところに来るんですよ。どんな教育したんですかね」
「なるほど、勝手に来たうちの娘を抱いたのね……」
「面倒くさいんでその話、もうやめましょうよ」
「……今日の晩に薬局で妊娠検査薬、買わなくちゃいけないじゃない」
京華さんと共に働き始めてもう4ヵ月目に入るが、この人は本当に良く分からない。
仕事は出来るのは間違いないが、こんな風にオフの会話はモカと話しているような錯覚を受けることがある。
「それにしても、意外だったね」
「……何が、です?」
外に出かける準備をしていた俺に話しかけてくる京華さん。
また取るに足りないような話が来るような気がしたけど、彼女の口ぶりからは少し真面目な雰囲気がした。
提案用のデザインが入ったファイルをカバンの中に詰め込んでいたがその手を止める。
京華さんの顔を見てみると、まるで遠くを見つめているような細い目をしながら天井を見ていた。
「あの娘にも、そんな時期が来たのかって……」
「前にも言いましたけど、俺はそんな気持ち持ってないですよ」
「……勘が良すぎるのも厄介ね」
それはあなたにも当てはまるでしょ、と言う想いを載せてため息をこぼす。
ため息は床に着地して、デスクの隅に転がっていったように見えた。
明日、掃除をするときに箒で掃いてしまおう。
もう時間が無いので外に出る。
俺が仕事を取ってこないとこの会社の収入源が無いから責任は重大だ。まぁ、京華さんの描くデザインは適当に薦めても相手側は好感触だから楽だけど。
京華さん以外の雇われたデザイナー2人の描く絵は、そんなに魅力は感じない。
「外周ってきますんで。……それと京華さん」
自分の気持ちを正直に吐露するために、まじめな顔を作って彼女の方を見る。
京華さんは一瞬だけ、俺の方を向いた。その後はパソコンを叩きながらそっけない声で「なに?」と聞いてきた。
「俺より
「それもそうね」
俺は速足で事務所を出る。
もちろん時間に追われているからと言う理由もある。
でも、一番の理由は。
京華さんの言葉にはまだ続きがあるって分かってしまったからだ。
春風の中、お昼を求めてふらっと歩き回る。
今日もそれなりの数は提案できたし、仕事ももらえた。そのことを京華さんにはばっちり報告済みだ。
俺自身も少し慣れてきたし、少し遠い場所にまで出るのも視野に入れている。
俺の勤務時間が増えてしまうのは事実だが、ビジネスチャンスが拡大するのも事実。
こういう部分もリスクとリターンを考えて行動するのが人間だ。
京華さんにレンタカー代が経費で降りるのか、聞いてみるか。
歩いていると、丁度いいところに美味しそうな雰囲気があふれ出しているラーメン屋を見つけた。
以前まで店でラーメンを食べるのは贅沢だと感じていたが、今ではそれなりには財力はあるしたまには良いかと店に入る。
食券を買って店員に手渡した後はカウンター席に腰を据える。
店内は濃厚なとんこつスープの香りが漂っていて、においだけでお腹の虫を鳴らしてしまう。
「……今日ぐらいはちゃんと勉強してるのかぁ、モカは」
ふと、そんな事を思ってしまった。口にしてしまった。
俺の言葉のまま解釈してしまうとモカはあまり大学に行ってないように感じてしまう奴がいるかもしれないが、まったくその通りだ。
この前なんて朝から授業があるのに「期間限定のパンが今日出るから大学に行かない~」とか言っていた。
大学に行かせてもらってるんだから、たかが4年くらいは勉強したってバチは当たらないし、大学に行きたくても行けない奴だっているんだからさ。
ふと、右腕にぬくもりを感じた。
今日の朝、モカに抱き着かれていたこの右腕を優しくなでる。
最近は無意識にモカの事を考えるようになった。
今朝京華さんに言った通り、俺はモカに好意を持っているわけでは無い。
だけど気になる。と言うか放っておけない、と言う感情の方が多いかもしれない。
前までは他人の事なんてどうでもいいし、どうなっても良いなんて考えていた。そんな俺が変わったもんだな、と嘲笑する。
「お待たせしました。ラーメンです」
店員が俺の後ろからゆっくりとラーメンを置く。
白く濁ったスープの上にはバラ肉のチャーシューやネギ、きくらげがバランスよくトッピングされている。おまけにスープの色とは正反対のマー油が食欲をそそる。
日本人なら誰もが好きなこのにおいを存分に吸いながら、硬めにゆでられた細麺を無心に頬張った。
「ただいま帰りました」
「おかえり、佐東君」
少し暗くなってきた空を背景に、今日も外回りから事務所に帰ってくる。
依頼を貰えた件数をパソコン上で整理をして、明日の準備をしたら今日の仕事は終わりを告げる。
事務所内には俺と京華さんしかいなく、残り2人の従業員は先に帰ったらしい。
「佐東君、ちょっと良い?話したいことがあるから」
「はい?なんです?」
仕事終わりに京華さんからの伝言なんてあまりなかったから素直な疑問を顔に乗せながら彼女のデスク前へと向かう。
もしかしたら明日は遠くまで行ってこいだとか言ってくるかもしれない。その時はお昼に考えていたレンタカーの件を話してみればいい。
だけど、そんな俺の予想は音を立てて崩れていった。
「佐東君、明日から3日間有給休暇だから。来なくていいよ」
「……いきなり過ぎません?」
「最近の佐東君、働きすぎだから羽でも伸ばしたら?」
今日が火曜日だから3日も休んだら、次は土曜日だから仕事もない。実質5連休みたいなもんだ。
いきなりこんな休暇を取らせるのだから、何回かは休日に働かなくてはいけなくなるような場合が来るんじゃないかなんて深読みまでした。
「貴博君、これからしばらく休みなの?」
「……今度はどっから湧いて出てきたんだ、お前は」
「あの辺りからだよ~」
掃除用具入れの方向を指さしながらフワフワとした表情をしているモカ。
俺はそのままモカを掃除用具入れにぶち込んでやろうかと思ってしまった。
そういえばモカが学校帰りにここの事務所に立ち寄る回数も増えた。
ライブ前なんかはほとんど事務所に顔を出していなかったのに、最近はほぼ毎日いるような気がする。
「じゃあさ、貴博君」
「……却下」
「まだ何も言ってないじゃ~ん!」
嫌な予感がしたから要件を聞かずに断っておいた。
モカは頬っぺたをプク~ッと膨らませながらジト目で俺の方を見てくる。
京華さんはそんな俺たちのやり取りを柔らかい表情で見ていた。まるで子供の幼馴染が家に来て遊んでいるのを見守っているかのような、そんな安らかな表情だった。
「分かった、聞くから」
いつまでも頬を膨らませて見つめてくるモカを見かねて言葉をかけた。
その言葉を聞いたモカが待ってました~、と言わんばかりの笑みを浮かべる。なんだかすべてがモカの思惑通りに動いているように感じて少し腹が立つ。
モカは満面の笑みで口を開いた。
「明日、あたしとデートしよ?貴博君」
@komugikonana
次話は9月27日(金)の22:00に公開します。
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~次回予告~
「……似合ってるぞ」
俺はこれからどこに行くのか分からないけど、前を進んでいく。
流石にモカの顔を見ながら言ったら照れてしまいそうだったから歩きながら、そして下の無駄にきれいに
デートなんだから良いだろ、これぐらい。
すると後ろからモカが小走りで来たと思いきや、俺の左手に抱き着いてきた。
おいおい、デートだからって流石にやりすぎだろ。
俺がそんな事を視線に乗せてモカに行ったけど、モカは顔をほんのりと赤くしながら上目遣いで見てきた。
彼女の両手は俺の左手をがっしりと捉えている。
そして上目遣いのまま彼女はこう言った。
「分かってるなぁ、貴博君は」