「その、この前は……あ、ありがとう」
美竹が視線を右横に流しながら言った言葉が俺の中には入ってこなかった。
何がありがとうなのか分からないし、そもそも俺がこいつに何かした覚えがない。
「俺はお前に何かした覚えは無いぞ」
「あんたにされたビンタで、やっと気づいたことがあったから……」
「はぁ、お前……変な奴だな。ビンタされて嬉しかったのか」
「ちっ、違うし!」
もしそうなら思いっきり力を込めてビンタしてやろうかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
でも、俺がこいつにビンタしたことは間違ってなかった。俺の込めた気持ちがこいつには伝わったみたいだからな。
あの場にいた全員に「女に暴力をふるう最低な男」と言うリスクを冒した甲斐はあったらしい。
「あの時叩かれて初めて、モカの心のキズに気付けたから」
「……後でも、自分で気づけたのならそれで良い」
「勘違いしないで。あたしはあんたを許せないし、信用もしていないから」
「俺も嫌われたもんだな」
「あたしだけじゃなく、みんなにも嫌われてるからそのことに早く気づいた方が良いんじゃない?」
そんな事お前に言われなくても分かってるんだよ、くそったれ。
美竹からしたら何気なく言ったつもりだろうけど、俺にはその言葉がいつまでも心の中で木霊してチクチクと刺し続ける。
「……で、もう話は終わりか?そうなら俺は帰るぞ」
「待って。まだ最後に一つだけあるから」
「それは今言わなくちゃいけない事か」
「当たり前。だからこっちも嫌々あんたと喋ってるんだから」
どうでもいい話だったらすぐに席を立ってやろう。
俺はどうもこの美竹と言う人物が苦手だ。こいつといるだけで俺の存在が薄くなっていくような感覚に陥るからだ。
このような感覚に陥ってしまうのは仕方がない。
なぜなら、それは過去に俺がこうなってしまうリスクを負ってまでも成し遂げたいことを優先したからだ。
成し遂げたかったことは、モカの幼馴染である赤い髪の女と弟の幸せだ。
それが実現できている今、俺が美竹や他の幼馴染にクソ人間だと思われるのは仕方がない。
「あんた、モカに何を吹き込んだのか教えて」
「意味わかんねぇぞ。ちゃんと詳しく話せ」
「とぼけないで。現に今、モカは期末のレポートを後回しにして法学の勉強をしてる」
モカが法学の勉強?どういうことだ?
確かモカは文学部に在籍しているはずで、学部の変更は出来るだろうがかなり面倒くさい手続きやテストもしなくちゃならないから普通の学生はそんなことしない。
しかも今は春学期末のレポート提出前だろ?
どうして今のタイミングで単位認定とは関係のない勉強をしているんだ……。
「悪いけど、俺は何も知らない」
「じゃ、どうして優先すべきレポートを後回しにしている訳?普通に考えておかしいから」
「お前からモカに聞けばいいじゃねぇか」
「聞いた。でもモカは『今、法学に興味がある』しか言わないから……もしこれで単位が足りなくなってモカが留年したらどうするつもり!?」
「知るかよ、そんな事」
「あんた最低だね……。どうしてモカがあんたを擁護するのかも分からない。あんた、モカの弱みを握って脅していたりして……」
「話にならねぇ!……俺は帰るぞ」
机を力いっぱい叩いて、そのままの勢いで俺は立ち上がる。
このまま美竹の勝手な被害妄想をはいそうですか、と聞いていられるほど俺はお人好しじゃないんだよ。
大きな音を立てたから、店の中にいたお客さんは俺と美竹に視線を集める。
俺は財布を開いて千円札を机の上に置いて店を後にする。
店の外の暑い空気を吸ってみると、なぜか頭の中は冷静になった。
どうして俺はこんなにもイライラしているのだろうか。
俺の些細なミスで仕事を失ってしまったあの日から、ずっとイライラしているような気がする。
俺の心情に変化が出てきているのか?
犯罪者なのに?もしそうなら指をさされて笑われるだろう。
「あ、貴博君見つけた」
「あ?なんでお前がいるんだ……もう起きたのか」
帰り道、どうしてかモカに出会った。モカはさっきまでぐっすり寝ていたはずなのだが。
時計を見るとモカが寝てから2時間が経っていることに気が付いた。
「ふと目を覚ましたら部屋に蘭もいなかったし、気になって寝れないよ~」
「それもそうか。美竹なら商店街の珈琲店にいるから行ってやれ」
「貴博君はどうするの?」
モカはぽけーっとしながらだけど、しっかりとしたきれいな目で俺に問いかけてくる。
どうするの、か……。
「少し散歩してから事務所に帰る」
「そっか、ならあたしも……」
「青葉、お前は珈琲店に行った方が良い。美竹がお前に聞きたいこととかありそうだしな」
「……分かった」
モカは何か訴えていそうな上目遣いをしてから、ゆっくりと商店街の方へ歩いて行った。
夏の、これから気温が高くなっていく時間帯に散歩なんて我ながらバカな事を言った気がする。ただ、気持ちを整理するにはちょうどいいかもしれない。
ふと、俺はモカが歩いて行った方向を振り向いた。
丁度、モカも俺の方を振り向いていた。
彼女は少し寂しそうな表情をしていて、それを隠すように笑いながら手を振っていた。
真夏のヒリヒリとするような紫外線を肌に受けながら、俺は花咲川地区に足を踏み入れていた。どうしてここに来たのかは分からないが、本能のまま歩いていたらここに着いてしまった。
少し歩くだけでも額や背中には汗が伝う。
背中は痛みは無いが名前の知らない痛覚がジクジクと染み渡る。これだからあまり夏は外に出たくない。
近くのコンビニで飲料水を一本購入して、一番最初にやってきたのは俺と弟の母校である高校。こんな可もなく不可もない公立高校に、県外から通っていたのは俺たちぐらいだろう。いや、もう一人いたな……俺と同じ地区に生まれてここの高校に通っていた奴が。
俺たちは確か親戚のほうに戸籍を移すなど、面倒くさい過程を経て通っていた。
そんな面倒くさい事を提案したのは俺だ。
小学校から何かといちゃもんをつけられていた弟に、新しい環境で人間と関わる楽しさを知ってほしくて提案した。
「少し、入ってみるか」
今日は休日だから学校内でやっているのは部活動だけだろう。
それになぜか、高校を見ていると無性に入りたくなったのだ。理由は分からない。
周りが制服だらけの中、一人だけ私服で歩いている人間はやはり目立つ。
在校生はどこかの部活のOBかな、みたいな好奇心の溢れる視線を受ける。
教員に何か言われるのが面倒だから、当時の、4年前の記憶を記憶を頼りの事務室に向かう。
「すみません、ここのOBなんですけど少しだけここの校舎に入らせてもらって良い?」
「はい、もちろんですよ。えーっと、名前は……」
「2年前に卒業した、佐東
「2年前、2年前……あー、確認が取れました。これを首にかけてください。帰るときに返してくれればいいですよ」
事務員は2年前の卒業名簿を見ながら確認を取ったらしい。
「来場許可証」という、いかにもパソコンで5秒もあれば作れそうなホルダーを首にかける。
最初に向かったのは1年生の教室。
ここでは俺は確か……4ヵ月とちょっとしか通っていなかった。その蛍の光のような儚く短い輝いた期間は、俺の高校生活の期間と同じ。
そういえば、警察に連れていかれたあの日もこんな暑い日だったと思う。
夜でも蒸し暑かったのを覚えている。日付は、思い出したくもない。
「確かここの教室の後ろ側のドアは衝撃を与えれば……」
ガタガタ、と軽い衝撃を与える。
すると後ろのドアは当時と同じように施錠が解除され、中に入ることが出来た。
確か、俺はここに座っていたはず。
廊下側の、前から3番目と言う中途半端な席。
真横は当時俺が付き合っていた女の子で、廊下側とは正反対の窓際の前から3列目にはよっちゃんが座っていた。
弟は確か……どこだっけな。前の席だったのは覚えている。
「もう少し、みんなと楽しい学生生活を送りたかったな……」
ポツンとした、そしてもう二度と叶うはずのない願いが無意識に口から零れ落ちた。
今からでも大学には入れるが、入ったからと言って何が出来るだろう。
新卒で就職しても、どうせバレたら辞めさせられるんだろ?馬鹿らしい。
当時自分が座っていた席に座って何分経過しただろう。
分からないけどお腹の空き具合から推測するにお昼の時間帯なのだろう。
俺はそっと席を立ち、ゆっくりと椅子を入れる。
少し背伸びをしてから教室を出ようとした時、通りすがりの若い教員と出合い頭にぶつかりそうになってしまった。
「あっ、ごめんなさい」
「いや、こっちこそ……」
すみません、と言おうとして固まった。
ぶつかってしまいそうになった若い教員は女性で、顔を見た瞬間に誰だか分かってしまった。
「えっ、貴博君……だよね?」
「久しぶり……夢、叶えたんだな」
「うん!……といってもまだ教育実習中で大学生だからまだまだ途中、だけどね」
驚いた。当時俺が座っていた席の隣にいた女の子に、今会えるなんて。
彼女はどうやら高校一年生の時から持っていた「夢」を今もひたむきに追いかけているらしい。
当時ショートカットだった髪型は現在も変わっていない。
化粧をするようになったからか、年齢を重ねたのかは分からないけど大人びていて綺麗になっていた。
「貴博君は最近どう?……その、ほら……あぅ」
少し目を伏せながら、時折目を合わせて彼女は俺に聞いてきた。
何気なく聞いたつもりだったのだろうが、やってしまったというような表情になっていく彼女に俺は優しく答える。
「それなりには上手くやってる。もちろんお前ほど輝いてないけどな」
そして首にかけていたホルダーを彼女に渡す。これを事務の人に返しておいてくれと伝える。
「貴博君!あのねっ!」
帰ろうとして歩き出した時、後ろから彼女が声を掛けてきた。
俺はゆっくりと振り向く。
彼女の顔からは決心が見て取れた。
何かを決めて、それを成し遂げようとする姿はとても輝いていて……俺にとっては少し羨ましくも思えた。
「あたしねっ!生徒のみんなに『日常の大切さ』を何よりも伝えられる先生になるんだ!もう、君の弟のように虐げられる光景を見たくないからっ!そして何より、当時自分の保身のためだけに君を突き放したあたしに出来る罪滅ぼしだからっ!」
「良い先生になれそうだな。まぁお前だったらそんな心配も杞憂か」
「あたしはもう、貴博君の事を好きになる資格は無いから……だからねっ!」
「遠くから、貴博君の幸せを願ってるよ!」
@komugikonana
次話は11月5日(火)の22:00に公開します。
……あと2ヶ月で今年が終わるってマジ?
新しくこの小説をお気に入りにしてくださった方々、ありがとうございます。
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~高評価を付けてくださった方々のご紹介~
評価10という最高評価をつけて頂きました ソラリアさん!
同じく評価10という最高評価をつけて頂きました ヤイチさん!
評価9という高評価をつけて頂きました 岩山直太朗さん!
この場をお借りしてお礼申し上げます。本当にありがとう!
これからも応援、よろしくお願いします!
~次回予告~
少しでも癒しを、と思って買ってきたアルマオイルをコップに入れた熱いお湯に数滴垂らして香りを楽しんでいた時に、ドアが急に開かれた。
もちろん、来た奴なんて見なくたってわかる。
「そりゃ、あの時は青葉の事知らなかったし当たり前だろ」
「今もあたしのこと、分かんないくせに~」
「少しは、分かるようになったと思うぞ?」
「あたしは貴博君の事、いっぱい知ってるよ?」
えへへ~、と笑うモカ。
彼女の右手に握られている懐中電灯は決められた限界を超えているかのようにピカピカと光っていた。
俺は「少し」と答えてモカは「いっぱい」と答えた。
この違いは、どこから生じたんだろう。俺とモカは始まりは同じなのに。
~訂正とお詫び~
今作「change」の”記念すべき日に、初めてを①”において、誤字がありました。
誤)それは「やまぶきベーカリー」に名前を使う事
正)それは「やまぶきベーカリー」の名前を使う事
ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。
~感謝と御礼~
今作「change」のお気に入り数が400を突破致しました!
連載中にお気に入り数が400を超えたのは3作目である「幸せの始まりはパン屋から」以来です!
みなさんの温かい応援にいつも助けられています。本当にありがとうございます!
これからまだまだ面白い展開がたくさん待っているので引き続き応援よろしくお願いします!
では、次話までまったり待ってあげてください。