井川という男との2つ目の、最後の要求を聞いた日から3日が経った夜。
明日は流石に俺も堪えるかもしれない。
そんな弱気な自分を奮い立たせるようにベランダに行ってたばこを吸っていた。
たばこは短くなってしまった、新しいたばこを取り出して火を付ける。
これで今日16本目。いつもの4倍以上も吸っている。
いつもより多い本数を吸っているのが原因なのか。他が原因なのか分からないけど頭がズキズキと痛む。
ああ、きっとニコチンの取りすぎだろう。きっとそうだ。
「ちっ」
これ以上、たばこを吸っても美味しく感じないから、舌打ちをした後まだ長い吸殻を思いっきり灰皿にこすりつけて火を消した。
たばこはくの字に折れ曲がって、灰皿の真ん中に置かれる。
ベランダから、部屋に入る。
部屋は綺麗に整頓したばかりだから、あまり落ち着かない。
時計を見ると、深夜の1時を指していた。
明日も仕事なのだが、今日は寝なくたっていいんじゃないかとも思った。
いつものように行う何気ない呼吸が、たばこのにおいに変わっている。
そんな俺にため息をつきながら、筆ペンを取り出す。
そして昨日買った茶色の長形3号の封筒と……。
事務所の退職届用紙を出す。
「半年に一回は出してるんじゃないか?笑えねぇな」
自らの嘲笑を耳にしながら筆ペンを手に持つ。
アルバイトによっては退職届を出さなくても良い職場もあったが、出さなくちゃいけない職場だってあった。
それを念頭に置いていても、これで退職届を書くのは5回目。
人生山あり谷ありとか言うけれど、俺にぴったりな言葉だと思う。
やっと慣れ始めて、自分の居場所を見つけることが出来たと思った矢先に急転直下が始まるのだから。
半開きの眼で、退職届を見下しながら左手で筆ペンをグッと握る。
そして流れるように日付の欄から書いていく。
そう、書いていくはずなのに。
「……どうして、手がブレるんだよ」
何故か左手が大きく揺れる。
その揺れを制御しようと手に力を込めても震えは止まらない。
退職届を書いてしまえばすべてが終わるぞ?
分かってる。終わった方がモカの、京華さんの為だろ。
後悔しても、知らねぇぞ?
うるせぇ、うるせぇよ……。
手のひらはぐっしょりと濡れていた。
そんな手で退職届をゆっくりと、震えを悟られないように隠しながら記入する。
角ばった字を書き終え、紙から手を離そうとすると手汗の影響だろう紙が左手に張り付いていた。
こんな時に限って引っ付いてこないでほしい。
まるで、助けを乞うているような描写に見えてしまうじゃないか。
手にくっ付いた退職届を強引に引き剥がし、三つ折りにしてから封筒の中に入れた。
今日ほど夜明けが早く感じられる日は、なかったように感じた。
太陽が俺をあざ笑うかのように上ってきた。
俺はそんな太陽に負けた気がしたからせめてもの抵抗で陽の光を自分の背中で遮ってやった。
そんな些細な抵抗をしながら荷物をまとめている時、俺の携帯が音を上げる。
こんな朝早くから電話を掛けてくる人物なんて一人しかいない。
もしかしたら、最後になるかもしれない人との会話。
心臓に小さな穴が開いたような、そんなスースーとした気持ちになる。
「……佐東です」
「おはよう佐東君。急なんだけど、今日は午後からの出勤よ」
「どうしてです?」
「
「……はい」
「朝のうちに、自分の気持ちを整理しておきなさい」
意味深な言葉を残して、通話は物悲し気なツー、ツーという音しか聞こえなくなった。
朝のうちに自分の気持ちを整理?京華さんにはまだ俺が犯罪者だという事はばれていないはずなんだが。
これだから俺は、頭の周る利口な大人は苦手なんだ。
自分の気持ちの整理が朝から正午までの6時間の間で出来たら、夜はぐっすりと快眠できたと思うのだけどな。
ただ、いつ実行に移すかを考えていた「ある行動」を行う時間が出来たのは好都合だ。
やりたくない事を控えている時の時間の経過スピードが速く感じてしまうのは、神様の皮肉という名のイタズラなのだろうか。
それとも、人間には困難を乗り越えて強くなってほしいと願っている?
もしそうなら、俺は今日から一切、神なんて信じない。
人間はそんなに、強くねぇよ。買いかぶりすぎだ。
携帯の電源を付ける。
そしてあいつの電話を掛ける。
彼女は、ワンコール目で電話に出た。
「いきなりで悪いけど、今日会えねぇか?」
平日の11時は、少し落ち着きが感じられる。
あと1時間もすれば人が動き出すだろう。
今の空模様は気持ちの悪いほどの快晴で、こういう時は登場人物の心情を空が表すんじゃねぇのかよ、とロマンのかけらもない言葉を吐き捨てる。
待ち合わせは商店街の近くにある公園。俺自身は寄った事は無いけど存在は知っていた。
通りかかった時は子供たちが遊んでいて、いつも活気にあふれている場所だ。
場所は相手が指定してきたから何も言わないが、出来れば他の場所が良かった。
公園で、俺があいつに……。
胸の鼓動がシーソーのように上下に弾けているような痛みが走る。
たまに高い場所から飛び降りた時のような締め付けも感じる。
「貴博君、おまたせ~」
いつもの彼女の声が、今日はやけに心に響き渡る。
そして水の波紋のように徐々に広がっていく。
モカと、4日ぶりに会った。
睡眠不足から来ているのだろう、いつもよりファンデーションが濃いように感じた。
いつものフワフワな彼女は俺の近くまでゆっくりと歩み寄ってくる。
「……なぁ、青葉」
「どうしたの?貴博君?」
こんな俺に近寄って来てくれる人間をこれから俺は。
前から分かっていたのに。俺に他人と親しい関係になっても苦しむのは自分だってことを。
前から決めていたのに。俺は一人で日陰で生きていくことを。
でも結局、孤独が寂しいんだ。
犯罪者でも一人の人間なんだ。寂しさを埋めたくなる。
「ずっと思ってたが、どうして俺に付きまとうんだ?正直、めんどくせぇから辞めてくれねぇかな」
「えっ……」
そんな寂しさを埋めてくれたのは、目の前にいるモカと言う名の女の子。
いつも俺の目にふらっと表れて、そして俺に楽しい日常を与えてくれた。
口では皮肉を叩いていたけど、本当は、その、嬉しかった。
俺にも、こんな楽しい時間を過ごしても良いんだって本気で思えた。
「お前の顔を見ただけでイライラするんだよ。目の下もクマで真っ黒だぞ?気持ちわりぃ」
「っ……」
モカは何も言わず、ただじっとこっちを見つめている。
その時の彼女の顔は、にこやかだった。
俺はそんなモカの笑った顔。
おどけた時の顔。
ほっぺたをぷくっと膨らませた顔。
ふわふわとした顔。
パンを食べながら幸せそうにしている顔。
すべてが俺の心に安らぎを与えていた。
俺はモカの色々な表情が好きだ。
特にお前が笑った時の顔がお気に入りだったりする。
夏のサラサラとした風が身体をすり抜ける。
蝉たちは俺たちの会話の邪魔はしないと決めたのだろうか、黙り始めてしまった。
小鳥たちでさえ、さえずりを辞めてしまった。
まるでこの世界に俺とモカの二人しかいないような、そんな錯覚がした。
もちろん、そんなのは錯覚だ。
なぜならこれから「一人の」世界に変わるのだから。
「だから単刀直入に言うぞ?」
俺は一度、下を向いた。
目に映るのは砂利ばかり。たまに雑草が目に入るが、枯れてしまっていて元気がない。
俺が想っているモカの事の
こんな感情から、人間は精神を切り崩してしまうのだろう。
だけど、これからの一言は本当に思っていることを言う。
だから一度気持ちをリセットするために下を向いたんだ。
再びモカの方に視線を向ける。
モカは相変わらずフワフワとした表情だったが、一瞬だけ、頬が張り詰めたような感じがした。
俺は大きく息を吸う。
夏の空気はこんなにも熱いのか。やっぱり夏は嫌いだ。
「もう二度と俺の前に現れるな!」
モカの顔はだんだんしぼんでいく。
俺はそんなモカの顔を見たくないから、背を向けて歩き始める。
「貴博君!」
モカは大きな声で俺の名前を呼んだ。
俺は無意識に、歩くのを辞めて呼ばれた方向に振り返ってしまった。
その時のモカの表情は、俺の眼を潤ませるのには十分だった。
彼女はにこやかに笑いながら、だけど涙をツーッと流しながら言う。
「ばいばい」
俺はすぐに背を向けて速足で公園から出て行った。
俺の眼から、一滴の涙が零れ落ちた。泣いたのなんて久しぶりだ。
一人で速足で事務所に戻る帰り道。
さっきまでモカと話していた公園の方を向いて、小さな声で呟く。
彼女にはきっと聞こえないだろう。
だけどそれでいい。
俺は精いっぱいの感情を込めて、言葉を零す。
「……幸せになれよ、モカ」
こぼした言葉は、フワフワと空を舞う。
その言葉は公園のある方角に向かっていったような気がした。
やらなくてはいけない事を消化した後は、さっきまでが嘘のように時間が早く流れていくように感じる。
時間の流れは年齢とともに加速していくらしい。時間は平等ではない。
モカに散々な事を言ったのは二時間前らしい。携帯電話で時刻を確認すると「12:55」と表示されている。
俺はスーツのジャケットにある胸ポケットに退職届を入れて、京華さんの下に向かう。
……その前に、今まで俺が過ごしていた部屋の真ん中で、ゆっくりと大きく深呼吸をした。
半年間世話になった部屋。この部屋の空気を吸うだけで今まであった楽しい思い出たちが頭の中を駆け巡る。
それも今日で終わりなのか。
深呼吸を終えて、重たい足取りで一階に降りていく。階段はいつもよりギシギシと音を立てているように感じた。
いつもより重たく感じるドアノブをしっかりと握りしめてドアを開ける。
「……その話は本当?井川君」
「はい!本当なんですよ!」
俺の眼に、京華さんと井川という男が話しているという状況が目に飛び込んでくる。
京華さんは何を考えているのか分からないような顔。
一方、井川という男は希望に満ちたような悪い顔をしている。
俺が来る時を見計らってこの話をしてやがる。
そう、直感で感じた。
「佐東貴博は前科持ちの人間なんですよ!」
俺はそんな会話を、無表情で聞きながら二人が話している場所へと向かった。
@komugikonana
次話は12月3日(火)の22:00に公開します。
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~次回予告~
井川という男は、これでもかというほど鼻息を荒くしながら俺に指を指しながら言葉をぶつけてくる。
ぶつけられる言葉が汚いと、自然に眉間にしわを寄せてしまうのは俺の悪い癖。
こんな状況なのに、気になるのは京華さんの表情だった。
彼女は何を考えているのか分からない、感情の籠らない眼をしていた。
そんな眼をして、こちらを探るかのように見てくる京華さん。
昨日からこの人にも拒絶される心の準備をしたというのに、そんな決心はバラバラと音を立てて崩れ落ちた。
「そうね……今日は一人の人間を解雇しないといけないのね」
京華さんの口から、低く、感情の籠らない声が零れ落ちる。
「……聞いてる?私の話?」
では、次話までまったり待ってあげてください。
一度でも読んでくれた人にも、届きますように。