子連れ少女は生き延びたい 作:ちゃっぱ
赤ん坊だけじゃない。
前世の記憶があろうとも、彼女もまた―――子供だった。
あの鬼は去った。
俺に不吉な話をしてどこかへ行った。
気まぐれかもしれないが、それでもいい。
朝日が昇って、弟が熱を出して慌てて町へ駆けていく。
弟の事しか考えられなくなってしまったからか、一年の命の期限に覚悟を決められないままでいた。
あの化け物から逃げられるだなんて、思ってはいないのだから。
ただ、弟の病気を治すために必死で、僅かだが貯蓄していた金を全て使い切ってようやく元気になったある日だった。
町に長居し過ぎて注目されたのだろう。
俺たちに興味を持った嫌な音が複数あったので、仕方なくとりあえず隣の村を目指すことにした。
隣といっても山を越えた先にある場所だ。
金を稼ぐために歌を歌うしかないと考えて歩いた時だった。
何か奇妙な音がして振り向いた先にいたのは――――
「フゴッ」
「ひぇっ。え!? いやいや、猪!? イノシシっ!?」
「しー!」
山の奥深くで生息しているであろう大きな猪が、人の手によって作られた山道に現れた。
野生の猪なんて初めて見るが……いや、あれ猪だよな? 豚じゃないよな?
だって牙あるし、なんか人懐っこそうな感じがするけど警戒した音立ててるし、猪だよな?
なんでここにいるんだ?
弟をしっかりと抱きしめて万が一がないように俺も猪を警戒する。
しかし奴は俺を見上げても何も行動しようとしない。
ただ俺たちを見て何かを考えているような……悩んでいるような音がする。
人の言葉を理解しているのかもしれない。それぐらい、猪から聞こえる音は綺麗なものだった。凛としている音が響いた。
だからたぶん、大丈夫だろう。
こいつは俺たちを襲わない。
「……俺は金を持ってない。食料もこの子の物しかない。何か欲しいなら俺じゃなくて他の大人を狙ってくれ」
じゃあ―――と、猪から背を向けて歩き出した。
そんな俺たちに対して、猪は何故か服の裾に噛みついて引っ張ろうとして来る。
「っ……いやいや、だから何さぁ! 俺は何も持ってねーっての! 弟の分が欲しいって言うなら全力で争う気満々だぞゴラァ!」
「ぶひっ!」
「ああん文句あんのかこら!」
何か言いたいのは伝わる。
でも何かを強請ろうとしている感じじゃない。
赤ん坊を襲おうとしているわけでもない。
こいつ何? マジで何がしたいの?
「あーもしかして……ついて来いって言いたいのか?」
「フゴッ」
「んん……悪いけど俺じゃなくて大人に――――って引っ張るなよこいつなんなのああああもう!!!」
「あーうー!」
猪の力恐るべし。
元気に両手を揺らす弟だけが癒しだった。
・・・・・
どうしてこうなったのだろうか。
まあある意味全部猪のせいと言えるんだけどな……。
「おじいさーん! 倉庫にある処分していいものってこれで全部!?」
「んーなんじゃあ。もう夕飯か?」
「違う!」
いや本当に、なんでこうなっちゃったのか。
それは、少し前まで遡る――――。
猪が俺たちを連れてやってきたのは奴の棲家。
しかしその巣の中にいたのは見たことのある綺麗な顔をした赤ん坊。
「伊之助?」
「あーだぶぶ!」
「え、何で伊之助……えっ、琴葉さん……えっ?」
ああ、気づいてしまったのだ。
あの鬼が言っていた言葉が脳裏によみがえってしまったのだ。
だから、猪が助けてほしいという思いで俺たちを頼ったのだと気付いたから、それに全力で応えるしかなかった。
伊之助も少し前の弟と同じように熱を出して泣いていた。
しかし不機嫌そうに両腕を振り回しては泣いている姿は弟とは違って少し元気そうだ。命に別状はないだろう。
でも赤ん坊の事だからと――――
町から村へ向かう途中、先程通った場所に一つだけ小さな民家がある。そこから聞こえた音なら大丈夫かもしれないと急いで向かった。
そこに住むお爺さんに、伊之助を見せて助けを求めた。
「疲れて眠れないだけじゃろう。そこに寝かせておけ。わしに任せろ」
お爺さんからは鈍い音が響く。でも、嫌な音はしない。
何か痴呆にでもかかっているのだろうかと思える程度にはぼんやりとしていた。
だが、それでも伊之助を助ける手は優しく、町の人たちのあの目とは違っていた。
赤ん坊を見る瞳は、愛情に満ちていたのだ。
だから、猪が伊之助に寄り添っていてもお爺さんは何も言わなかった。
伊之助だけじゃなく、しばらくの間俺の弟を見ていてもらっても大丈夫だと思えた。
何か俺に出来ることはないかと言えば、倉庫の整理を任された。
だから俺は今、埃だらけの場所で物品整理をしている。
「……よし、これで捨てていいものと不良品、それと埃の除去は完了だな。おじいさーん捨てていいものどこ置いていいのー!!?」
「んー? なんじゃー!?」
耳が悪いみたいだけれど、本当に大丈夫なのかな……。
とりあえず部屋の中に入って大きなかごに入れた荷物を置く。
それに突撃したのは、猛スピードで這って進む伊之助君だった。
「だぁ!」
俺の置いた箱に体当たりをかました伊之助君が、反動によって荷物の上にあったよく分からない被り物が落ち、すっぽりと頭を埋めてしまった。
「はぁっ!!?」
偶然にもその被り物は猪の物だった。
猪の被り物が気に入ったのだろう。そのままぐるぐると高速で這い這いをしている。
「いや……いやいやいやいや頭! 今頭突きした!? 病み上がりなのに!? 痛いだろお前何やってんだ!」
「うーだぁ!!」
「えー何この子元気いっぱいなんだけど! さっきの体調不良もう治ったの!?」
「フゴッ」
「だぁー!」
猪が伊之助君の顔にすり寄り、安堵したような音を立てた。
伊之助君も猪に身体をすり寄らせてそのまま毛に埋もれている。
お爺さんが頷き、涎を垂らしつつも熟睡している俺の弟を抱き渡してくれた。
「子供はすぐ泣き、すぐ良くなる。心配していてもすぐどうとでもなることもある。それが子供じゃよ」
「はぁ」
「お前さんも子供なんじゃよ。具合の悪いことはすぐ良くなるからのぉ」
「……そうです、ね?」
「うむうむ」
何を言っているのか分からないが、励ましてくれていることだけは伝わった。
「どうせ捨てるものだ。その被り物はやろう」
伊之助が良くなったことで巣に戻ろうとしたのだろう。猪が伊之助を背に―――。
「あっ……」
いや、俺に何ができる?
弟を守るだけでも必死だった俺が、伊之助君も守れると思えるのか?
一年の命しかないかもしれない俺が、あの息子を見るかのように慈愛に満ちた猪と伊之助を引き離して、琴葉さんのために育てると?
でも、俺は――――。
「大丈夫じゃよ。あの猪も、あの息子も」
ハッと我に返った時はもうすべてが終わっていた。
お爺さんが庭へ出た。
猪が被り物をしつつも眠っている伊之助を連れて、森へ出ようとしていた。
「酷ければまたここへ来るがいい。歓迎するぞ」
「……フゴッ」
俺は、何が出来るのだろうか。
これからどうすればいいのだろうか。
あの鬼に狙われているのは俺だけだ。
俺が死んだら弟を見る人はいなくなる。弟を愛情を持って育ててくれる人はいなくなる。
伊之助君のように、あの猪が見てくれるわけじゃない。
偶然や奇跡が起きるわけじゃない。
俺が死んだら、弟は一人になる。
ぐるぐるぐるぐると、悩んでいた気持ち悪いものを吐き出すかのように。
ただ無意識に、声が出てしまった。
「……お爺さん。お願いがあるんだけど」
「なんじゃ?」
「その―――――」
弟の面倒を見てもらえるかもしれない。
俺がいなくとも、愛情を持って育ててくれるかもしれない。
弟と離れるのは嫌だ。
一緒に生きていきたい。
しかし、弟に死んでほしくはない。
危険な目に遭ってほしくない。
気持ちが揺らぐのだ。
ただ、弟が幸せになれるためならば、俺は……。
「おい何やってんだよ爺ちゃん! つーか誰こいつ!?」
急に庭先から現れたのは、一人の青年だった。
しかし俺たちを警戒し、お爺さんに対しては敬愛するような音が響いている。
「たかはる。飯はまだかのぅ?」
「さっき食べただろうがこのくそジジイ!」
ああ、と。
―――燃えていた熱が冷めたような感覚に襲われた。
弟のためにと思っていた気持ちが、一気にかき消えた。
「お前ら何? 爺ちゃんに何の用?」
「……いえ、ちょっと隣の村へ行くため山を登っていただけです。たまたま近くに寄ったら、休憩をしたらどうかとお爺さんに誘われたので」
「爺ちゃん余所から来たやつ入れてんじゃねーよ! 危ない奴だったらどうすんだ!」
「ああもう出ますので。すいませんさようなら」
「あっ、おい!」
早足であの家から出ていく。
後ろから聞こえてきた声と戸惑いに満ちた音は無視して、ただひたすら歩き続ける。
あそこに弟の居場所がない。
伊之助君でさえ見捨ててしまった。
ちゃんとしたさようならもいえなかった。
自分の事しか考えていなかった。
気分が悪く、吐きそうだった。
「はぁ……はぁ……」
俺は何をしようとしたんだ。
お爺さんに預けようとした?
いや違う。
鬼の危険から遠ざけようとした?
いや、違う。
俺は、弟を捨てようとした?
……いや、違うんだ。
でも、今の俺を弟から見たらどう思う?
どう感じて、傷ついてしまうんだ?
「うぅー?」
何か察知したのだろうか。
いつの間にか起きていた弟が俺の頬に小さな手を寄せてきた。
「……ごめんね」
しばらくは旅が続くだろう。
この子のためにも、弟が幸せになれる居場所を見つけるんだ。
たとえそこに俺がいなくとも。この子が幸せになれるならば――――。
それが俺のやるべきことなんだ。
悩み続けても、誰も助けてはくれないだろう。
居場所を求めていても誰も助けてはくれないだろう。
聞こえすぎる耳は、知りたくないことも知ってしまう。
人間不信になりそうなほど、優しい音の近くには嫌な音も響いてくる。
誰も助けてはくれない。
そう考え込んでしまった。
それが、彼女の心を蝕んだ。
ただそれだけだった。