大隅の名は物語に登場しない。
なぜなら白鯨Ⅱは撃沈される運命にあり、物語の時系列は彼の死後であった。定まった運命から抗おうとする男の物語。
白い夏服を着込んだ大の男たちが震えている。発令所のなかは誰もが無言だ。潜水艦のはるか上は海であり、暴風雨が吹き荒れていた。
室内は暗い。無数の計器やコンソールが起動したまま光を放っている。
淀んだ空気。静粛性を高めるために、音源となり得るものは徹底的に取り除いている。換気扇ですら止めていた。自艦に微細動タイルが装着されているとはいえ、原子炉を搭載する以上は騒音と無縁ではいられなかった。
隣には小学生かと見間違うほど小柄な女性。統制海軍大尉待遇であり、副長として白鯨級潜水艦「白鯨Ⅱ」の操艦には欠かせない存在だ。コンソールの光が小さな頭を照らしている。
大隅は彼女が背を向けていて良かったと微かに笑みを浮かべた。大人が恐怖に震えている姿を女子供にさらしたくはない。見栄っ張りだと言われようとも、恐れを意思の力で押さえ込む。
彼女の幼さを残した声が発令所に響く。
「A目標まで距離三万」
十五海里強だ。眼前の指揮コンソールを見やり、A目標のノイズ特性を確かめる。次第に鮮明になるデータ。
「舵中央、前進微速、深度四五〇」
白鯨Ⅱがまっすぐのろのろと航行する。A目標は二十ノットで移動しており、今のところ白鯨Ⅱに気づいた素振りはない。敵自身のノイズのほうが大きいはずだ。
「奴ら……おれたち、いや、こちらには気づいていないな」
大隅は指揮コンソールから視線を外し、口元は今に見ていろという不敵な笑みにゆがんでいた。
そうですね、と彼女が相づちを打つ。白鯨Ⅱに関連することを口にするときは淀みないのに、こういうときに限って舌足らずなしゃべり方になる。
「A目標、真艦首。距離二万四千」
約十三海里。彼女が振り向いて、大隅の瞳を見つめた。誰も茶化したりせず、大人たちが彼女の言葉に耳を傾けている。
「よろしい。一番発射管に作動許可コードを中継する」
「魚雷発射管異常なしです!」
間髪を容れず元気のよい返事が飛ぶ。大隅が身に着けているような夏服ではなく、白いセーラー服に前庇がない水兵帽をかぶっている。柔らかそうな頬が見えて、思わずおかっぱ頭を撫でたくなるような、天真爛漫な笑みを浮かべた彼女。
「作動許可コード、問題なしですっ。特別兵器使用できます。安全装置解除しますね!」
彼女がコンソールに顔を戻す。
「一番発射管、準備完了です」
特別兵器とは地上と大半が水没する以前、人類同士の東西冷戦時代に生み出された兵器である。ウラン235を用いた戦術核弾頭。米海軍が密かに横須賀基地の地下に運び込んでいたものの一部だった。”霧の艦隊”に有効な兵器は、寝返ったイ401が保有する侵蝕弾頭ぐらいであろう。もしくは研究中の振動弾頭か。大隅が指揮する白鯨Ⅱにはいずれも搭載されていなかった。
大隅はようやく深呼吸ができて、ほっとする。兵装担当は元米軍だ。技量には絶大の信頼を置いていたが、いざ戦術核を扱うことになり、現実味を見いだせなかったのだ。
――もし敵にイ400かイ402がいたら……おれたちは詰んでいたな。
前日の索敵で確認しているのは軽巡洋艦カシイ、海防艦ウクル、ダイトウ。その他丙型海防艦に酷似した船、三隻。彼女らは暴風雨を避けるように、現在の水域から離脱している。展開していた曳航ソナーが帯同していた潜水艦の音を拾った。それがA目標である。
――気づかれていないと祈るしかないのか。
「A目標、類別できました。『カイテン』です」
――
海野は大隅の同期であり、統制海軍大佐として白鯨級一番艦の艤装担当兼初代艦長を務めた。大隅は「負けられないぞ」と心の中でつぶやき、復讐の機会が与えられたことに感謝する。
――わかっているのは
侵蝕魚雷について、大隅はいくらか情報を知っている。「ターゲットの周囲の空間を重力波によって侵蝕し、物質の構成因子の活動を停止、崩壊に至らしめる」というものだ。物質は化学結合によって成り立っており、原子間を繋ぐのは物理的には電磁気力だといえる。侵蝕魚雷はこの電磁気力を相殺して物質構造を崩壊させる、恐るべき兵器だ。
カイテンの形状は大日本帝国海軍が生み出した忌むべき兵器に酷似していた。”霧の艦隊”が大戦期の軍艦を模していることから、通常の侵蝕魚雷とくらべ、五倍の炸薬量だと推測できる。通常の侵蝕魚雷は高性能爆薬相当の致死半径しかもたない。人類側の艦にとって回避さえできればどうということはない。カイテンの致死半径はより広大で、近距離で爆発すれば白鯨Ⅱは確実に沈む。
「もう少し引きつけよう」
大隅は大胆不敵に言い放つ。
――こちらには核がある。
カイテンの致死半径が広いとはいえ、戦術核にはおよばない。
副長が命令受領の返事をする。彼女の仕事はソナーや攻撃目標の追跡、兵装の管理だ。普段は兵装担当が別にいるのだが、今は核弾頭の調整のため魚雷室にいる。
「A目標、真艦首、距離一万五千」
八海里まで接近していた。発令所内の空気がさらによどみ、緊張により息苦しささえ感じる。早く撃ちすぎれば、敵に回避の機会を与えてしまう。このまま接近し続ければ、いずれ白鯨Ⅱに気づく。アクティブ・ソナーを打ちながら終端速度に向かって突進するはずだ。
――近づきすぎてもいけない。
なぜなら海水は高密度で保持力がある。魚雷を発射した潜水艦ごと爆発に巻き込みかねないのだ。魚雷の戦術核弾頭は最大一キロトンと決まっている。深度にもよるのだが、最大で約二万メートルもの致死半径を有していた。
――今回は
それでも安全を期して約二千メートルは離れておかなければならない。戦術核は両刃の剣だった。
――あとは……。
顔にこそ出さないが、大隅には懸念事項があった。カイテンは”霧の艦隊”が用いる通常兵器とは異なる気がした。ナノマテリアルを大量に使うため意思を持っているかもしれないというものだ。また、カイテンが「回天」と似た特性を持つのであれば、搭載母艦が存在するはずだ。史実では伊五八などの艦名が挙げられ、魚雷発射管六基や水上偵察機さえ搭載する艦が存在した。
――B目標が潜んでいるはずなんだ。
伊号つながりでイ401を思い浮かべる。艦長の千早群像は大隅の二十歳年下の後輩に当たり、わずかながら縁があった。海洋技術総合学院時代、群像の父、翔像の講演を聴講したこともある。そして群像が出奔する直前に顔を合わせていた。
群像はいずれ横須賀に姿を現す。大隅は再び彼の顔を拝めるかどうか確証が持てなかった。
――
そして白鯨Ⅲの艦長、
「A目標まで距離一万」
約五海里。
大隅はあがくつもりでいた。未来を知らなくとも、もとより生還を期して努力を続けていただろう。結果として死ぬことになったとしても。軍人は死ぬのも仕事のうちだ。血を流して得た経験を誰かが伝える。駒城に、千早群像に。
――だったら、おれたち全員が伝えてやる。生き証人になってやる。
「よろしい。一番発射管、A目標に対して発射解析値を修正し、
海中に魚雷が投じ、ほどなくしてカイテンが針路を変えた。
「A目標、左二十五度。距離九千……目標増速!」
カイテンがパッシブ・デコイをばらまく。核魚雷は蛇行して側面を突くように動いた。
――カイテンの音紋は取得済だ。
大隅は徒労だと言わんばかりに口の端をゆがめる。パッシブ・ソナーの性能は白鯨Ⅱのほうが上なのだ。どこへ向かおうとも優秀なソナー士官がたちどころに突き止めるだろう。
そのとき、発令所の内殻をハンマーで叩いたような硬い音がして、誰もが一瞬首をすくめた。
――アクティブ・ソナー!
「音響傍受しましたっ! A目標がアクティブ・ソナーで
副長の報告が飛ぶ。続けて響いた冷静な声の後押しを受けて、大隅の目に力が宿った。
「艦長、微細動タイルが正常に稼働しています」
微細動タイルがアクティブ・ソナーによる反響を抑制していた。高周波音波に対して位相をずらした信号を放射することで、波を打ち消し合うのだ。カイテンが再び探信音を放ったが、自身の位置をさらけ出したに過ぎない。
「機関停止。戦闘無音潜航」
大隅はソナーの感度を最大限高めるため、自艦の停止を指示していた。
じっと待つ間、副長がコンソールに表示された深度を読み上げていく。
――ここまではいい。問題は核爆発の影響でおれたちの位置がB目標に探知されてからだ。
大隅は次の行動について考え始める。海中が雑音だらけになったとき、微細動タイルがすべての雑音を打ち消すとは考えられなかった。ソナー手の能力に依存する形となり、”霧の艦隊”と耳の良さを競い合うことになるだろう。
「一番発射管の魚雷が爆発しました」
静かな声が響く。副長が言い放った言葉は、海中で恐るべき破壊が行われていることを全員に印象づけた。
大隅はとっさに、海中での核爆発について学んだ知識を反芻する。
――まずは弾頭の爆発。
海面が盛り上がり、吸い込み波が下に引き戻す。
――次は放射能を含んだ高温の火球がものすごい速さで浮上する。
白鯨Ⅱに対しても電磁パルスが向かってくるものの、海水が遮断してくれる。今回は比較的浅い場所での爆発なので二段階におよぶ爆発のプロセスがほぼ同時に遂行するはずだ。当然のことながら、爆発に巻き込まれた魚とプランクトンは死滅している。
「A目標からタナトニウム反応……消失。音源も消失しました」
海面と海底の二方向から爆発の衝撃波が跳ね返る。
「待ってください! ソナーに感あり! 右十度に破裂音、
大隅の予想よりも近くに搭載母艦が潜んでおり、魚雷の致死半径を読み間違えたと推測された。
――
大隅はある男に教わった「クラインの壺」を思い出した。境界も表裏の区別も持たない立体で、この壺に入れたものはいつの間にか外に出ているというものだ。熱エネルギーを別次元に転移させることで攻撃を免れる。だが、容量には上限があり、限界を超えれば飽和してしまう。この現象を”霧の艦隊”では「臨界に達する」と呼称する。
――そして、”霧の艦隊”にもクラインフィールドを持たない艦艇が存在する。
大隅は暴風雨に助けられたと考えていた。必殺の槍を持たない白鯨Ⅱでは、おそらく軽巡や海防艦にも歯が立たなかっただろう。
――条件さえ整えば……あるいは。
二基以上の戦術核弾頭、そして深海。爆発の衝撃波とその反射波が結合して生じるであろう、より強力な衝撃波で挟み込み、敵のクラインフィールドを臨界に到達させる。しかし、条件が整う前に殺られる可能性も高い。
スピーカーには”霧”が死にもの狂いでもがく悲鳴が聞こえてきた。沈降を続ける船体。浮力を得ようとバラストタンクに高圧空気を注入するが、船体の裂け目に流れ込む高圧の海水の勢いが止まらない。水圧がどんどん高まっていく。破断音が増え、浮力が潰えた。
そして、圧壊深度を超えて沈降し、船体が押し潰されていく。粉砕され、擦れ合う金属音。誰もが息を飲んだ。グシャリ、と爆発音よりも大きな音が響く。艦内に残された空気が圧縮され、発火点に達し、火達磨になって消えていった。
発令所のなかは静まり返っていた。”霧”とはいえ圧壊する瞬間に居合わせて気持ちの良いものではない。大隅は張り詰めた緊張感のなか、海図台まで歩いて行き、チャートをのぞき込む。ベテランの士官が水深を指し示した。
――まだ、潜んでいるやつがいるかもしれない。もう三〇分は様子を確かめてみるか。
戦闘無音潜航を解くわけにはいかなかったが、あとで部下に暖かい食事と休息をとらせよう。
私のなかではパイロット版の位置づけ。
漫画版なら手も足もでないけれど、アニメ版なら戦術核が有効かもしれないと思って記述。
あと、大元のあらすじには「憑依、艦魂、ライトノベル風一人称」があったのですが100行におさまるようにしたら消えてしまいました。
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