番外編、こいしの心中です。
思えば、全てが偶然で出来ていました。
あの日のあの昼下がり、私が公園を訪れたのは特に大きな理由はありません。
市で一番大きいのよと母親がいつも胸を張って言っている由緒正しき系譜を持った家から抜け出すのは何時もならば不可能ですが、古明地こいしとなった私には自動販売機でジュースを買うより簡単な事でした。
古明地こいし───ではなく、私の名前は
幼い頃からピアノ、バレエ、英会話、テニス、水泳、書道…………思い付く限りの習い事は経験してきました。お陰で同級生と比べて出来ることは多いです。それが良い事なのか悪い事なのかは私には分かりませんが。
でもそのせいと言うか、有り体に言って私には時間がありませんでした。
放課後は常に習い事。学校が終わる午後3時頃になると家の車が校門前に止まるから無視する訳にも行きません。サボったら無関係の使用人が雇用主である両親に責められることになるからです。土日も同様です。
そんな事情もあり、私に友達と言える友達は居ません。学校でお喋りをする相手も殆どいません。
小説だと良くそういう立場の登場人物はいつも憐れまれるべき、或いは悲しい人間として描かれてるんですよね。……所詮は創作だとは思いますけど。どうせ私に友達の有無の是非を測ることは出来ませんし。
そんな中学校は楽しいかと言えばまあ、楽しいです。勉強に忌避感が無いからでしょうか。中学受験して、中高大一貫のエスカレーター式の学校に通わされている今の学校の学業レベルは高くやり甲斐はあります。逆に言えばそれ以外の娯楽が無かったという事実にも繋がるわけですけど。
しかし。
ある日、私の世界が変わりました。
朝起きると全く知らない少女の姿。
黒くて長かった髪の毛はいつの間にか変貌を遂げていて、顔形も違う。身長も私より若干小さいです。胸は……まあ、勝ってるかな?
不思議な事に戸惑いはあんまり無かったです。
代わりに身中で燻ぶったのは好奇心。
……この少女について、私は知りたい。
「……なに、これ」
部屋にある立ち鏡を眺めていると、自然と脳裏にこの少女についての知識が浮かび上がってきた。
なんでも古明地さとりという姉がいて、一緒に地霊殿という場所に住んでいたらしい。
ペットに…………烏に猫?人間の形をしてるけど、どういうことでしょう。
分からなかったので一旦思考の隅に置いておきます。
大事なのは、この古明地こいしは能力を持っていると言うこと。
曰く「無意識を操る程度の能力」、使い方も自ずと分かりました。
直ぐに私は部屋を出ると、廊下を掃除機でかけていた使用人の目の前で手を振ってみました。しかし気づく様子はありません。
「おはようー」
「……な、だ、誰ですか!?」
声を掛ければ私の姿に気付いて、使用人は慌てて2歩後退りました。無理もないでしょう。誰だって目の前に人が現れたらそうなります。
しかも、今の私の姿は古明地こいし。
この屋敷の人間では無いんです。
一抹の寂寥感を懐きつつも、私は認識を逸す。
無意識をズラして、姿を隠す。
「あ、あれ!?今の女の子は一体……」
戸惑う使用人に罪悪感もありましたが、また何か言うと私の存在がバレてしまうかもしれません。
心の中でごめんねと会釈して、その足で初めて私は一人で外の世界へと出ることにしました。
────────────────
外の世界は私の想像以上に広くて、色彩豊かでした。
知らない物、知らない景色。全てが眩しくて、新鮮で。
これが、自由の味。
世界はこんなにも素晴らしかったんですか……。
縦横無尽に綺麗な道路も汚い街並みも関係なく見て歩いて、吐く息すら忘れそうになるほどに走って、ふと止まった。
これからどうしましょう……。
当然の事ながら、私にはツテがないです。
雛菊千里としての私ならともかく、古明地こいしとしての私に知り合いなど皆無。……雛菊千里としての私も両親以外に頼れる人が居ないのが悲しいところですが。
朝からずっと歩き回っていた私は休憩がてら閑散とした駅前のベンチに座ります。一個隣のベンチには新聞用紙を顔に乗せてガーガーとイビキを立てて寝ているタンクトップの中年男性を尻目に、太陽を見上げました。
今日は一日通して晴れ。先程スマホで見た情報はしっかり正確なようです。
だからか喉が水分を求めるように神経を通して訴えかけてくるのは必然でした。気温は5月平均並みで、そこまで高くはないのですがずっと日向で動いたからでしょう。
立ち上がって、私は道路脇にあった自動販売機に視線が引かれました。
自動販売機、外では一度も使ったことはありません……。
恐る恐る一万円札を挿入口に入れてみます。
「きゃっ!」
自販機は一万円札を飲み込むと咀嚼するようなガッガッガッという音を立てて、すぐさま一万円札が挿入口から戻ってきました。
ボタンを押しても出てこない……もしかして、購入に失敗してる?
「おかしいわ。折り目も無い一万円札なのに」
確認してみても、一万円札に何の異常も見られません。
自動販売機が壊れているのでしょうか……。
他の一万円札で再トライしても同じ挙動を繰り返すだけ。やはり壊れているみたいです。
……仕方ないです。別の自販機を探しましょう。
私は前から来る人を避けながら自販機を探そうと歩き回ります。
直ぐに違う自販機は見つかりました。流石自動販売機大国日本、万歳ですね。
早速一万円札を入れてみる。
スルリスルリと一万円札は飲み込まれていき、再び自販機はペッと痰でも吐いたかのように一万円札を吐き出しました。
……ちょっとムカっと来ますねこれ。
きっとこの自販機も壊れているのでしょう。と言うかこの周辺全域の自販機が壊れていても可笑しくありません。他の筐体で購入しても同様のことが起きるに違いないでしょう。
見切りを見つけた私は、その場を後にしました。
そう言えば、思い出しました。
公園には飲水用の蛇口があるらしいです。本やテレビで見たから知っています。
何でも水がタダで飲める他に、沢山遊具があるようで少しワクワクしてきます。
流行る気持ちに我慢出来ず、私は立ち上がって歩き出す。
スマホで検索すれば、公園は小さいものが駅から少し遠くにありました。
大きい公園が良いと思って探し続けますが、ただこの辺りは住宅街。大きな公園は10kmも先で、流石に歩いて行けません。
結局小さな公園に行くことにします。
20分ほど歩いて、公園が見えてきました。
ちっちゃな公園は、本当に小さいです。
住宅街の空いたところに無理矢理嵌め込んだみたいなサイズで、遊具も数える程度。滑り台とか、ブランコとか、そのくらいしかない公園です。
脇に飲水出来る蛇口があったので思わずガッツポーズ。私の推理は間違ってなかったのです。遊具が少ないのは残念ですが、イーブンイーブンと言ったところでしょうか。
蛇口を上向きにして、口に近付ける。確かなんかの教科書の絵で、蛇口から水を飲むにはこうすると書いてありました。実践するのは初めてですが、蛇口から吹き出した水は意外と簡単に私の口の中を冷やしていきます。
私は数秒ほど水分摂取に興じて、顔を上げます。
本当はもうちょっと飲みたいですが、或る程度喉が潤った事で私の好奇心は既に水からあるものに移ろっていました。
私が来た時からブランコには先客がいたのです。
その先客は明白に、私の知っている人でした。
正確には、古明地こいしの知っている人でした。
薄紫でちょんちょんとカーブして跳ねた髪の毛、高級な陶磁器みたいに白い肌色、正面から見ればその顔立ちはまさしく古明地さとりでした。
黒いパーカーだけは正直、ダサいと思いますけど……。
それから後ろに回り込んで、能力を解除すると私は声を掛けました。
「お姉ちゃん?」
─────────────────────
その後、お姉ちゃんと暮らすことになりました。
私が頼み込んだのです。
一度は逃げてしまいましたけど、お姉ちゃんは追いかけてきた。私を見捨てずに、どこにいるかも分からない私を。
そう、お姉ちゃんだから。
足を痛めても、フードが外れてしまっても、走れなくなってもお姉ちゃんは私を探してくれた。父や母も、使用人だってそんなことはしてくれません。
両親は私にとっていつもテーブルに添えられた観葉植物の一つくらいの役割ほどしか果たさないし、使用人は元よりお金で雇われてる労働者です。彼らに情動を要求するのも出来ないでしょう。
両親と仲が悪い事はないですが、淡々とそういうものなのです。過保護な両親は私という私有物が傷付くのを恐れているだけでそれ以外の理由はありません。無機質な灰色のビー玉の如き瞳は私を子供ではなく、投資をする価値ある人形として映しているに違いないのです。
嫌いじゃなくても、愛情があっても、私は両親が苦手です。
だからでしょう。
私は無意識に期待をしてたのかもしれません。
中身が赤の他人だろうと、お姉ちゃんならば私を見つけてくれると。助けてくれると。寄り添ってくれると。無条件に、無意識に、古明地こいしに手を差し伸べてくれると。
お姉ちゃんだけは無意識を歪めず、私を私と正しく認識できるよう能力を使いませんでした。
その一縷の淡い期待は二度目の邂逅を以て果たされました。
お姉ちゃんが公園で見つけてくれた時、新鮮で、私の心がポカポカと暖かくなりました。
感じたことの無い温もりの抱擁。
雛菊千里としての人生では味わうことの出来なかっただろう、安らかな高揚感で身体が火照りました。
徐々に胸が熱くなってくる。けど、嫌な感じはしません。
……きっと今まで生きてきた世界が合って無かったんです。
雛菊千里としての自分より、古明地こいしとしての自分の方が私に適合している。正しい正位置の存在なのです。
私は古明地こいしで、お姉ちゃんは古明地さとり。
それはきっと永劫に不変。
後から東方Projectというキャラクターに憑依してしまったということを知っても、私は特段思うことはありませんでした。
『私たちは、姉妹。お互いに助け合う関係性であるべきなの。だから、ね……私と一緒に帰りましょう?』
夕暮れを背にした公園でのお姉ちゃんの言葉。
その言葉はきっと嘘偽りなど無く、古明地さとりはお姉ちゃんでした。
『……ねえお姉ちゃん。私と友達になってくれる?』
『……何言ってるのよ、姉妹じゃない』
お風呂での一幕。
お姉ちゃんはそう言って恥ずかしそうに目を伏せました。
……嬉しかった。
家にも学校にもピタリと嵌まれる居場所の無かった私に、お姉ちゃんは居場所をくれた。
それでも私の凝り固まった猜疑心は蛇みたいにお姉ちゃんへと向かったこともあります。お姉ちゃんは無条件に優しく、誰にでも等分の慈愛心を分け与えるのかと。
でも、違います。
ボロ汚いカラオケ店で出会ったレミリア・スカーレットさん。お姉ちゃんは彼女を自分のテリトリーへと寄せ付けようとしませんでした。対話をしても、深入りすることはしませんでした。
仰々しく、互いの取り決めに協定なんて硬い言葉をレミリアさんは使用されたのに何の疑念無く、受け入れたのがその証拠です。
何より心を読めるお姉ちゃんは他人を恐れています。……いえ、恐らく古明地さとりになる前から他人を怖がっていたのかもしれません。
そのくらいにお姉ちゃんは他人と言うのを忌避している節があります。忌避と言うのは言い過ぎかもしれませんが、それでも積極的に避けているのは明らかです。
私に会ってからのお姉ちゃんはまるでライオンに睨まれて震える草食動物みたいに日々を過ごしています。
特に外に出る時なんて、心を読まずとも理解出来ます。外界に慄いていると。キョロキョロと見回す姿は庇護欲すら感じる程です。
それだけ畏怖している。この現状に。
なのに私に笑顔を向けてくれる。
居場所をくれる。
他人なのに、心は花崗岩みたいに脆い癖に。
……返さなきゃ。
与えられているだけじゃ、駄目です。この立場を享受しているだけじゃ、駄目なんです
私は妹。古明地さとりのたった一人の妹。
私はお姉ちゃんを守らなきゃならない。
───だから。
───だから、だから、だから!
私は、古明地こいし。
望むべくして、古明地こいしを私は名乗ります。
14年間もの人生で添えられ続けた雛菊千里という名を取り払い、古明地こいしを名乗ります。
「こいし、その……」
「あ、お風呂ね。了解。ちょっと待ってて」
今日も私は古明地こいしとして歩む。
それが私の幸せなのだから。
ヒント:自動販売機で一万円札は使えない
このssも5話くらい投稿してエタるだろうなぁと思っていたので現状にびっくりしてます。